第10話『変容』
その男がターゲットを民家からホテルに変えたのは、以前忍び込んだ留守宅に家人が偶然帰宅し、通報された上に逮捕されてからだった。
それに、住宅地は効率も悪い。マンションはオートロック式が増えて、一戸建ても防犯設備をつけた家が多くなった。しかも、忍び込む前にターゲットの家族構成や生活サイクルを把握する必要があるので、下見の時間がかかる。
そのくせ、実入りが保障されているとは限らない。
それに比べて、簡易ホテル……昔でいえば、木賃宿のような安宿は穴場だった。不特定多数の人間が出入りし、高級ホテルと違って、部屋の鍵はカードキーなど最新式ではなく、大昔の鍵穴式のままだ。経費削減かその他の問題からか、防犯カメラが少なく、フロントの人間もやる気のない年寄りが多いのも都合がいい。
男はいつもそんなホテルで一日二日滞在し、仕事をしてさっさと引き揚げる。
収穫も思った以上だった。こんなホテルを使う人間は、季節限定や現場を渡り歩く労働者がほとんどで、昼間は仕事に出ていて不在。その収入を銀行に預けず、まとまった額を封筒に入れて、そのままバックの底に隠している事が多かった。
一度、ドアの前で見咎められた事がある。
「あ、すいません。部屋を間違えた」
男はその時慌てて謝り、相手にワンカップの酒を二本渡した。
それで場は収まった。
この日狙ったのは、このホテルでは珍しい洋室タイプだった。値段は普通の三畳の和室の二倍以上、この部屋が一番高い。
それでも鍵はご多聞にもれず、旧式のディスクシリンダー鍵だった。専門の道具があれば、二〇秒で開けられる。
男はドアを開けた。
部屋に入った瞬間、奇妙な匂いが鼻をぶった。
目の前に、小さな黒点が横切った。
「……?」
何もない、殺風景な部屋だった。
それなのに、何か臭う。しかも蝿が数匹飛んでいる。
男はつい顔をしかめたが、ベッドの脇に置いてあるバッグへ近づく。
バッグは外国製の高級ブランドだった。こんなホテルとはいえ、高い部屋を選ぶだけはあって、珍しいものを使っている。
バッグを探った。中身は身の回りのモノや着替えだった。
その衣類に、男は思った。
「結構若い奴だな」
バッグはベッドの脇に置いてある。万人に共通のパターンだった。
外国製の高級ブランドだった。こんなホテルとはいえ、高い部屋を選ぶだけはあって、珍しいものを使っている。
バッグを探った。中身は身の回りのモノや着替えだった。
その衣類に、男は思った。
「結構若い奴だな」
こういう宿の客層は、どちらかというと年配が多い。
若い奴はネットカフェに行く。
臭いには閉口したが、ここに泊まっているのはやはり珍しい人種だった。いつもとは違う手ごたえに、期待が高まる。
思った通りだった。バックの底に見つけた四角い紙袋。心臓が高まった。その中身を見た瞬間、声が掠れた。
「すっゲェっ」
万札の帯封が八個。今までの最高金額だった。
「まじかよ……」
これだけの大金を持ち歩きながら、こんな木賃宿に泊まっている人間が信じられなかった。もしかしたら訳ありの金かもしれない。しかし、金の出所なんて男にはどうだっていい事だった。札束をわし掴んで袋に入れ、男は立ち上がった。
臭いのことなど。どうでも良くなった。もっと何かないかと部屋の中を見回す。
冷蔵庫の前にある、ナップサックに気がついた。
膨らんでいる。その形に、男は次なる期待に胸を高鳴らせた。
ナップサックを思い切り開けた。
そして、中身を見て凍りついた。
何かの、悪戯だと思った。しかも、ひどく性質の悪い。
「……」
頬に蝿が止まった。しかし、それも忘れて、男はじっとそれを見た。中身が札束ではない落胆より、この中身の正体を何かの冗談で会って欲しいと、信じたくない思いで見つめた。
ナップサックに、人の顔が入るはずがない。
頭の中では、そうと否定しても、しかし、男のナップサックを持つ手と足は、ようやく現実を認めて震え始める。
「……は、は」
ナップサックの中の顔は、白濁した目で男を見ていた。土気色の肌と毛穴は、どう見ても生身だった。
ヤバいところに入った。手を震わせながら、男はナップサックをそっと閉めて床に置いた。札束を入れた袋を持って立ち上がり、ドアを見る。そして逃げだそうとし、止まった。
足音が近づいてくる。
長く居過ぎた。男は失敗に気がついた。目だけを動かし、ベッドの下が空いているのに気がつく。
……ドアが開いた。
腹ばいの姿勢で、顔を横にした体勢では、足しか見えない。部屋に入ってきたその足を、男は狭いベッドの下で怯えながら見つめた。
足は周囲の異変に気がついたらしい。足が止まった。
部屋の中を見回している気配。
(頼む、下を見るな。もう一度、出ていってくれ)
「ふぅん」若い声の嘆きが聞こえた。
男の目の前、冷蔵庫の前で、足の持ち主はしゃがんだ。腰から下が見えた。
男は目を凝らした。随分若い。まだ二十かそこらじゃないのか? 見えている部分は、どちらかと言えば細身だ。声の響きといい、屈強な男とは思えない。
以前、空手をしていた。体格と腕力なら自信があった。いざとなれば、何とかなるかもしれない。
冷蔵庫が開く。そこから取り出されたものが、床に置かれた。
男は、悲鳴を上げかけた。
ごろんと転がったのは、どう見ても手のついた人間の腕だった。太く、筋張っている。
男は、反射的にさっきの生首を思った。
そして、赤い液体の入った一・五Lのペットボトル。中身は一目瞭然だった。
腕だけではない。次々と取り出される人間の一部。
足と太腿、上腕、そして大小いくつものタッパー。透明なプラスチックから、透けて見えるのは臓物だった。
――俺は、今何を見ているんだ?
男は自分に問いかけた。しかし、どう考えても、この目の前にあるのは、殺されてバラバラにされた被害者と、その殺人者に間違いなかった。
冷蔵庫から出した、その死体をこれからどうするのか。男は祈る。
今から捨てに行ってくれ、頼む。ここから出ていってくれ。
床の上に、どすんと下半身が落ち、胡坐を組んだ。その手が切り落とされた足に伸び、それを掴む。
……くちゃくちゃと、音をたてはじめる。
手がペットボトルを持ち上げた。やがて、再び床に置く。中身の赤い液体は半分無くなっていた。
ベッドの下の男に、生々しい鉄の匂いとアンモニアが混じる、どこか甘ったるい腐臭が、ゆっくりと忍び寄ってきた。
「……」
こいつは、一体何をしているのか。死体を捨てに行くんじゃないのか。
絶叫と悲鳴、助けを呼ぶ声と祈りを、男は何とか潰して殺した。見たくなければ、目を閉じれば良い。なのに、それすら出来ない。
若い手が、ナップサックに入った。掴み上げる。やっぱり本物の生首だった。
それは床に置かれた。顔を、腹ばいになった男に向けて。
「……ぃっ」
首だけの死体に見つめられる、そのおぞましさに男はつい声を上げかけた。
白濁した目が、男を見つめている。その生首は、男にどうやって殺されたのか、苦悶よりも虚無の表情を浮かべていた。
ころん、と白っぽい棒が落ちた。落ちたそれは、ベッドの下にコロコロと転がって、男の目の前で止まった。
肉をそぎ落とした、人間の骨だった。
手は、次々と切断した手足を、床から持ちあげる。そして、それは肉が無くなった骨となって、目の前に落ちてくる。
ペットボトルの赤い液体が、どんどん無くなっていく。
ずるずる、ぐちゃぐちゃ、さっきから聞こえてくる音の正体に、男は気がついた。
無声の絶叫を上げた。
(まさか、そんなまさか、まさか)
死体の切断は、隠すためじゃなかったのか。
手がタッパーの中を開けた。掴んだ赤黒い塊は心臓だった。
続いて、肝臓、肺、小分けにされたものが持ち上がって消える。
まさか。
いつまでも聞こえてくる咀嚼音が、身体中の細胞が凍りつかせた。一方心臓はドクドクと脈打ち、床に張りつく男の胸を押し上げている。
嘘だ、悪夢だ、覚めてくれ。
切断は、只の死体隠匿の為であってくれ。
切断された手足は、ほとんど肉のない骨となって、床に転がっている。
手は、生首の髪を掴んで床に固定した。
金槌が現れた。尖った方で、こつ、こつと生首の頭頂部を叩いて、叩く位置を確認している。男は、今や目だけを動かしているカメラになっていた。思考を取り戻したら、間違いなく発狂する。
振り上げられた金槌が、生首の頭蓋に振り下ろされた。肉が潰れる音がした。続いて、硬い物が潰れる音。金槌で幾つか割れ目を作り、その穴に指を入れて、頭をこじ開ける。
吐き気を催すような厭な響きを立てて、頭蓋はまるで卵の殻のように簡単に割れた。
ばきばきと音をさせて、手は髪の毛ごと頭蓋を持ちあげた。
黒い髪に埋もれて、やや形の崩れた、赤に染まる白い脳髄が露出した。
手が、その白い塊をすくい出す。
ずるずると粘った音を聞きながら、硬直したままで男は涙を流していた。今頭にあるのは後悔ではなく、狂いたいという願望だった。
……ちっという舌打ちが聞こえた。
「しまったな、先に目玉を食うのを忘れてた。もう傷んでやがる」
足が立ち上がって歩く。男は目を閉じた。
……男の足首に強い力が巻きついた。
「―っ!」
腹と床が摩擦を起こす。声にならない絶叫を上げた。
男はベッドの下から引きずり出され、子猫のように床に放り投げ出された。
男は壁に逃げた。
思わず、目を剥いた。相手は思った以上に若かった。二十どころか、まだ高校生くらいの少年だ。
大概の相手なら、その場を腕づくで乗り切れると思っていた。しかし、大の男を軽々と引きずり出す、信じられない腕力。
そして少年の口元についている血糊を見た瞬間、正気が壊れた。
「うああぁぁっ」
バネのように飛び起きた。少年の横をすり抜けて逃げようとし、何かにつまずいてバランスを崩す。
クロゼットのベニヤ板に体を打ちつけた。その衝撃で、クロゼットの扉が開いた。
「ひぃぃぃっ」
扉から一斉に飛び出した黒い点々が、一気に男の視界を覆った。
大量の蝿だった。
顔に、目に、鼻に止まって、ウンウンと耳元で羽音が唸る。
クロゼットから雪崩落ちてきた中身が、転倒した男の頭の上からバラバラと降り注ぐ。
男は絶叫した。ウジ虫が蠢く人骨だった。
骨にはマニキュアの施された指の肉だけが残っていた。見たことのない黒い虫が、その腐肉を喰らっている。それは何人分なのか、何十本、何百本も。部屋の臭いの元凶が、男の嗅覚をえぐって脳を焼く。
後ろ襟が掴まれた。まるで子供のように、男は部屋の隅に放り出された。
「バックが開きっ放しでおかしいと思ったら、コソ泥かよ。ちょっとコンビニ行っている間に、油断できないな」
やっぱり少年だ。しかも顔立ちは整っていて、良家の子息めいた空気すらある。
怪我をしているのか、左手から腕に包帯を巻いていた。
だが、その足元には、散らばる死骸と食べ残しの頭。それは悪魔と契約した人間が持つ、特別な狂気だった。
「たすけて」
この少年に乞うても無駄だと分かっていたが、命乞いは同時に神への願いでもあった。
「……タスケテ……」
「大抵の奴は、そのセリフだな」
神と少年、両者はその願いを無視した。
「牛や豚の方が、案外肝が据わっているのかもな。奴ら、肉にされる直前にはもう鳴かないっていうじゃねえか」
「たすけて……」
「牛や豚、食った事あるんだろ、おっさん」
少年の手が、首にかかった。
「これも食物連鎖だ。あんたも従えよ」
食物連鎖とは、自分は何なのだ。
この少年に食われるのか。
人間なのに。
首の骨を砕かれながら、男の恐怖は絶望へ、そして虚無に堕ちる。
執着も、恐怖も、全ての感情が砕けた時、男はさっきの生首に浮かんでいた、虚無の表情の意味を、彼が殺された時の気持ちが分かった。
※
コソ泥はあっさりと息絶えたが、大量の小便を漏らしていた。
得也は顔をしかめた。
「汚ねえな」
死骸を放り捨て、床を眺めて得也は吐き捨てた
「また散らかったじゃないか」
以前と同じように下水道に捨てに行くのは、危険だった。仕方が無いので、食べ残しをクロゼットに放りこんでいる。
しかし、ここは狩りの場としては申し分ない。
ここに滞在しているのは、大抵が日雇いの仕事などで土地を渡り歩く人間だった。人間関係が家族も職場にも連続しておらず、例えふいに姿を消しても、探す人間がいない。
それにこの宿の宿泊代金は先払いだった。なので、急に客がいなくなっても、部屋の鍵さえ戻っていればフロントは何も疑わず、次の客に部屋を貸す。
コソ泥のポケットの中には、この宿の鍵が入っていた。
得也はその部屋に入って荷物を処分した。そしてフロントが無人なのを見計らって、コソ泥の部屋の鍵をこっそり返す。
部屋に戻った得也は、左手の包帯を解いた。
キノに食われて紫色だった手は、毒々しい腐った茶色に染まっている。
その腐食はゆっくりと、しかし確実に広がっている。
やがては身体中に回るだろう。
食う量も倍になった。以前なら二日で大人一人食えば良かった。だが、今は一日二人食べないと、すぐ空腹になる。
これから、自分はどうなるのか。
得也は独りで笑った。今のところ、人間を留めているのは外見だけだった。
「いっそ、姿も化け物になったら面白いか。そうすれば、あいつらも喜ぶかもな」
銃火器を持っていた。明らかに、それで自分を殺そうとしていた奇妙な集団。
警察なのか、自衛隊なのか。何者なのかは分からない。だが、黙って殺されてやる義理はなかった。
得也は食べ残しと死体を、改めて見回した。床の小便とウジ虫。飛んでいる蝿を眺めている内に、片付けをするのが億劫になった。
宿を変える事にした。フロントには誰もいなかった。
次も同じような場所が良いだろう。人間関係が希薄で、住人が流動的な場所はどこにでもある。そんなところを渡り歩けばいい話だ。
くすんだ街中を得也は歩いた。空き店舗やシャッターが下りた店が多く、大人も子供も姿はない。昼間の明るさがまったく感じられないそこは、映画で見たスラムを 突然、肩を掴まれた。
「ちょっと兄ちゃん」
ジャンバーを着た、どす黒い顔の中年だった。知らない顔だった。
「聞きたいんだけど」
「はい」
ヤニと酒が混じっている口臭。こういう奴の肉の味は、肺と肝臓は不味い。そういえば、安宿では健康な肺と肝臓を、あまり食べられなかったと得也は思い出す。
「大堀橋ってどう行けばいいか、知ってるか?」
「俺、地元じゃないから知らないよ」
「スマホ持ってないか? 道を検索してよ」
「持ってない」
「若いのに? 珍しいな」
「道なら交番へ行って聞けばいいだろ」
「警察嫌いなんだよ」
中年男はしつこく食い下がってくる。しかし、やけに視線に落ち着きがなく、自分の肩越しを見ている事に、得也は気がついていた。
車が止まる音がした。
「こっちです!」
中年男が突然手を上げた。得也は振り向いた。
目つきの悪い男が三人やって来る。
その中の一人、スキンヘッドの顔に、得也は見覚えがあった。
「コイツでしょ、コイツ」
中年男が自分のスマートホンを取り出して、スキンヘッドに見せた。
「あんたが賞金かけて探している奴」
「金、払ってやれ」
スキンヘッドが横の若い男に命令すると、一万円札が数枚宙に舞った。地面に落ちた札を這いつくばって拾い、そのまま走り去る中年男を得也は見送った。
「久しぶりだなあ、掛井」
スキンヘッドの口が三日月形の笑いを浮かべる。
得也の記憶では、この相手は長い髪を一つに束ねていたはずだが。
「ちょいと付合ってくれよ。お前じゃないと聞けない話があってな。色々聞きてぇンだよ」
「……ああ、そういえば、そうだったか」
いつかのラブホテルを思い出す。
両側を拘束され、得也はワゴン車に乗せられた。
その寸前、得也は周囲を確かめた。
車道を挟んで向こうに通行人が二人。それぞれ得也達を一瞥もせずに通り過ぎていく。
「助けを求めるつもりか?」
無駄だ、と隣の酷薄な笑顔が、得也の顔を覗きこんだ。
「いいや」
得也は深々と後部座席に背中を預けた。
周囲の無関心。そっちの方が好都合だった。
商売柄、人を追う事には慣れていた。逃げ回る奴が隠れる場所、立ち寄りそうな場所は目星が付く。
今は誰もが情報ツールを持ち歩いている。賞金を懸けたのも良い手だった。
柚木は隣に座る得也を見た。弟の健二が死んだ原因に、この掛井得也が絡んでいる絶対の確信があった。
しかも、何があったのかは知らないが、グループの吉田に木下が『掛井を見つけた』と連絡を寄越し、そのまま連絡がつかなくなっている。
それにしてもふてぶてしい態度だった。柚木は掛井に声をかけた。
「やけに落ち着いているじゃねえか」
「そうかな」
「妙な真似するなよ」
柚木はナイフを取り出して見せた。その切っ先を、得也の太腿にチクリと刺す。
得也の顔色に変化はない。拉致されている自分の状況と、今後の展開が分かっていないとは思えない。理解出来ない馬鹿にも見えない。しかし、今までの経験なども合わせて知っている。
例え死にたがっている奴でも、痛覚と恐怖心はあり、いざ殺そうとすれば命乞いする。
それを思えば、このふてぶてしい顔がどう泣くのか、どんな風にみっともなさをさらけ出すのか、その瞬間が楽しみになった。
「柚木さん、こいつ、良いんですか?」
得也を挟んでいる後輩が、自分の目を隠すようなジェスチャーをして見せた。
「いらねえよ」
「そうですか」
目隠しの必要はない。場所も何も、口を利けないようにすれば良いだけだ。それを察した後輩がちらりと得也を見た。わずかな同情が見えた。
「……こいつ、なんか変な臭いしませんか?」
運転席の手下が、ミラー越しに顔をしかめた。
「体臭とか、汗とかそんなじゃなくて、なんかこう……」
「うるせぇな、さっさと行けよ」
言われなくても、こっちは隣にいるのだ。
柚木は顔を歪め、得也の横顔を睨みつけた。
垢じみては見えない。据えた体臭でも、ヤニでも酒でもなく、もっと癖のある、どこか腐敗した臭い。
しかし、車の窓を開けるわけにはいかない。柚木は憮然として腕を組んだ。
それでも車は裏道をグルグルと回り、目的地に着いた。表向きは芸能プロダクションの看板を上げている会社の建物だった。
仲間三人で取り囲むようにして、得也を建物の中に放りこんだ。『元我羅紋』族の後輩、内藤が柚木を出迎えた。
「いらっしゃい、柚木さん」
「よお、内藤。また場所借りるぜ」
「使いっ放しですけど」
内藤が得也を一瞥した。
「良いってことよ」
柚木は得也の後ろ襟を掴んで引き立て、転がり落とすように狭い階段を下りた。
そこには地下スタジオがある。
入ると、湿った臭気に包まれた。
広さは学校の教室ほどで、灰色のコンクリートの床は、床の汚れを水で流した形跡があった。しかし、壁には落としきれない赤黒い点々が付着している。
壁際の排水溝には、大量の髪の毛と、いくつもの生爪がそのまま残っていた。
思わず顔をしかめた柚木に、内藤が笑ってみせた。
「使いっ放しだって言ったでしょ」
「何の撮影だよ」
柚木は天井から垂れさがる鉄鎖と輪っかを指差した。内藤は肩をすくめた。
「オークボの方から回されて来たんですよ。ヤク中で、腐った雑巾以下の女だからソープでも使いモノにならねえ、畑の肥料にもなりやしねえ」
鉄鎖の先端にある輪っかには、乾いた血の跡がついたままだった。
「それでウチに来たんですよ。まあ女なら、ババアでもヤク中でも潰される映像が観たいって買う客がいるんでね。その金で回収するって」
「確かに、美人もババアも、詰まっている臓物は同じだな」
消毒しても落としきれない、血と排泄物の臭いに柚木は閉口した。内藤がうすら笑いを浮かべ、デジタルカメラのレンズを得也へ向けて見せた。
「これも撮影させて下さいよ。イイでしょ?」
「お前んとこの商品、映ってんのが男でも買う奴がいるのか?」
「男でも、十代のガキなら喜ばれるんです。要は肌のキメと、なかなか死なないってのが肝心なんですよ」
内藤が地下室の天井を指差した。
「防音設備はバッチリです。昨日の女は、さかりのついた象みたいな声を上げやがったけど、声は全然外に漏れてませんよ。撮影中は内側からも鍵かけるから、邪魔は入りません」
「そいつはいい」
少々辟易するものはあったが、都合のいい話でもあった。柚木は携帯端末を操作した。
「これから、仲間を呼ぶ。ショーの準備をしろ」
手下が得也の背後に回り、手錠を後ろ手にかける。
それでも得也が平然としているのが柚木の気に障った。しかしどうせ始まれば、助けてくれと哀願して、最後には殺してくれと泣き叫ぶ。
すでに結末が見えていた。
血がつながっていないとはいえ、健二は弟だった。実際に健二を殺した敵が他にいたとしても、一緒にいた得也は健二を見捨てて、のうのうと生きている。
弟の死に関係するなら、大でも小でも残らず潰してやらないと気が静まらない。
「柚木さん、電動ノコとバーナー、使いますか? 電動のこぎりの回転数を極端に落として、手足を切るっていうのもおススメですよ。その切り口をバーナーで焼けば、止血も出来て、当分は死なないんで一石二鳥です。バーナーの火は口に突っ込んでも良いし。そうそ、こないだスーさんが自作の道具作ったんで、これで試してくれって」
「適当に用意しろ」
次々とメールの返信が飛び込んでくる。ここに来るのは全部で十六人。思った以上の人数に、柚木は満足した。
――地下室のドアから、次々と仲間の顔が入ってきた。
「柚木さん! やりましたね!」
「てめえ、よくも仲間を……」
得也を見た瞬間、裏切り者とばかりに腹を蹴り上げる奴がいた。得也がもんどりうって床に転がった。
「あまり先走るな」
柚木は皆に恫喝した。
「最初っから致命傷を負わせて、すぐにくたばったらどうする。こいつブっ殺したいのはお前だけじゃねえって分かってんのか、この馬鹿。何のためにここ借りたんだよ」
「す、すいません」
柚木の一睨みで、復讐心にたぎる後輩や手下たちが沈静化した。
「その通りだよ」
内藤がデジタルカメラを、集まる周囲へ振って見せた。
「すぐにバラしたら、良い映像が撮れねえだろ。商品にするんだから、その辺も考えてくれよ」
「おい、俺たちの顔が映っちまうんじゃないんだろうな」
「ちゃんとモザイク入れて、編集するって」
ざわめく仲間をよそに、柚木の中では得也への冷たい怒りが煮えたぎっていた。この男から引きずり出すのは内臓だけではない。健二の死の真相もだ。
「言え」柚木は引きずり上げた得也を、視線で刺し貫いた。
「何で、健二は死んだ。あんな酷いなりで」
弟には手足がなかった。真っ赤なダルマだった。
「……」
得也の口から、小さなため息が漏れた。わずかに口元が歪む、後輩のオカモトが手を出した。
「何笑っていやがる!」
横から得也に殴りかかる。
その半袖から伸びる腕は、ボクシングをしていただけあって肉の鋼だった。
ビリっとシャツの生地が裂けた。さっきから掴んでいる得也の襟が、裂けた音だった。
服地だけがその手に残された。柚木は唖然となった。
オカモトが、さっきまで得也のいた空間に拳を撃ちこみ、バランスを崩した。
柚木は目を剥いた。
いつの間にか、得也が移動している。
逃れた得也が、次はその腕に飛びつき、喰らいついた。
「ぎゃあぁっ」
オカモトが腕を押さえて身を折った。その腕から血があふれ流れている。
得也の足が跳ね上がった。オカモトの巨体が吹っ飛んだ。
取り囲んでいる獲物の、思いもよらない反撃だった。場が騒然となった。
「きさまあっ」
思いもよらぬ反撃と、崩そうとしない得也の不遜さに、柚木の殺意が爆発した。再び得也を捕らえ、殴ろうとしたその時、気がついた。
得也が何か、咀嚼している。
「ひでぇ、オカモトの腕の肉を喰いちぎってますよ、この野郎!」
後輩の腕を見た誰かが叫んだ。
得也が咀嚼していたものを嚥下した。
満足げな笑みが浮かんだ。その得也の笑みは、柚木の本能をざわりと撫で上げる。いいようのない嫌悪感が爆発した。
さっき手下を制止した事も忘れ、反射的に得也を殴りつけていた。
得也の体が、無防備にコンクリートの床に叩きつけられる。
荒い息を吐いていた。その柚木の発作的な暴力と形相に、手下たちが息を呑んでいる。
「……柚木さん」
柚木は我に返った。
「あの、良いですか?」
戸惑い気味に、内藤がビデオを指した。柚木は気を立て直し、鷹揚に肯いた。
「ああ、撮れ」
「それじゃ」
舌舐めずりしながら、内藤がビデオを覗きこむ。その指が録画スイッチを押す。
その時だった。
「オカモトぉぉぉっ」
獰猛な叫び声が突き抜けた。人の輪の一角が崩れる。さっき得也に噛まれたオカモトだった。暴れている。
怪我で激昂しているのか? そう思いかけた柚木の耳に悲鳴が刺さった。
「何をする、オカモト!」
皆でオカモトが寄ってたかって押さえつけた。そのすぐ傍で、耳を押さえた手下がいる。その手から血が流れていた。
「おい、どうしたってんだ!」
柚木は怒鳴った。
「柚木さん、いきなりコイツ、暴れ出し……」
それを言いかけた手下の首が、直角に折られた。
絶叫が地下室で反響した。
オカモトの手が、逃げようとした仲間の頭をリンゴのように掴んだ。そのまま壁に打ちすえる。
鈍い音がした。壁で陥没した仲間の顔に、オカモトが齧りついた。
「や……オカモト!」
「何しているんだ、貴様ら、おい、止めろ、何しているんだ!」
突然もつれ合い始めた仲間達へ、柚木は叫んだ。
「河野! 何やっているんだ、やめさせろ!」
すぐ目の前にいた肩腕の手下に、柚木は命令を飛ばす。
「お、オカモト、ややめろおっ、どうしちまったんだよっ」
違う場所で、悲鳴が上がった。
「柳っっ、どうしたんだ!」
さっき、オカモトから耳を齧られた柳が、仲間の顔に喰らいつくのを柚木は見た。
頬の肉を喰いちぎる、その表情は死人の顔だった。
仲間を襲い始めた柳を阻止せんと、背中に飛びついた男が空に舞った。
そして壁に激突し、落下した。そのまま動かなくなった。
「何をしている! 貴様ら止めろ!」
柚木は叫び続けた。
元頭として、威厳と統制を命令で取り戻そうとするか、怒鳴り散らした声は、悲鳴の中で無と返す。狂乱の中では届かない。
今まで号令一つで意のままに出来た仲間は、今や柚木を全く目に入れていない。
柚木は気がついた。
お互いを殴る蹴るではなく、噛みつきあっている。
床に転がる部下の手足に、二人の男が文字通り齧りついていた。その部下の目が目に指を突きこまれて、目玉をえぐり出される。
「ごぼぉぉっ」
獣の声を上げた部下の咽喉に、仲間が手を突き入れた。目玉のない目と、使えない咽喉で部下が柚木に助けを求めた。そしてそのまま息絶える。
「……ぁ」
息絶えた部下に、人間の姿をした野犬が群がった。肉を噛み千切り、毟り取る。見る見るうちに人間の形が失われていく。
「ひぃぃぃっ」
手下が金切り声を上げながら、迫りくる仲間に向かって銃を構える。
銃を持つ手に向かって、影がヒュッと風を切った。
金切り声が、咆哮となった。握っていた銃ごと両手が無くなっていた。二つの手首の先は、先の尖った骨が露出している。
世界が一気に裏返った。
充満する血の匂いと悲鳴、哀願に囲まれながら、柚木は愕然と立ち尽くす。
「矢田の……弟の死にざまが知りたかったんじゃないのか」
狂った空間の中で、笑いを含む声。
得也が少し離れて、立っていた。
「……かけい」
全くの傍観者のその態度が、この事態の張本人だと語っている。
ボタンごと引き千切った、得也のシャツはほとんど開いていた。そこから見えているのは、今まで見たことのない、腐肉のような肌だった。
「教えてやったよ、これで用事は済んだだろう?」
得也が鼻で笑いながら、後ろに回している腕に少し力を込めた。
信じられない音がした。そしてまた、恐ろしい光景が出現した。
「……てじょう……」
「ああ、見たところ本物の鉄だな」
強い力で変形した鎖を得也が見せつける。
柚木は声が出ない。口だけが動いた。
――ばけもの。
「俺がその化け物になったのは、元をたどればあんたの弟のせいなんだよ」
「……ゆぎさん、た……すけ……」
柚木は振り向いた。顔だけでは判別できなかったが、内藤の声だった。
鼻も唇も、目蓋も無かった。頬の肉は無く、歯と頬骨が見えていた。伸ばしている右腕は、骨だけ残した鳥腿肉を思わせた。
「ああ、あと一本残っているな」
内藤の左腕に、得也は気がついた。歩み寄り、その腕を掴む。
絶叫がほとばしる。
内藤の左肩の付け根から、先が消えていた。
「こいつが美味いんだよ。周りの奴らを見ろよ。分かるだろ?」
得也が引き抜いた内藤の左腕を噛み千切った。
内藤の肉を咀嚼する口、嚥下する咽喉。
「これで、気が済んだか?」
三日月型の笑いを浮かべ、得也は口元についている赤い血を拭った。
「何が、なにが……」
「これが、あの夜の再現だ。あんたが見ている光景そのものだ」
「何が、何で……なぜ、そんなことが」
殺し合いの意味が掴めなかった。殺し合う理由が、どこにあったというのだ?
「た、ただの死に方じゃねえぞ、あれは! 何だって、そんな殺し合いを、いや、あんなに死体がぐちゃぐちゃに……まるで、ありゃ……あれは……」
獣に、喰い散らかされたようだった。
得也が、柚木に向かって指で方向を示す。柚木はその先を目で追った。
そして、知った。
「こうの……」声は、音声にもなり損ねた。
さっきまで自分に忠実な肩腕だった河野が、仲間の頭を齧りついていた。
頭部の白と赤の中身を露出させ、滴らせている仲間は、既に絶命していること明らかだった。
「う、うそだぁぁっ」
絶叫で柚木はこの世界を否定し、逃れようとした。
「そ、そんな事あるはずがねえっ、い、いきなりそんな、人が狂って、ひと喰うなんかあっってたまるか! うそだ、うそだうそだうそだぁぁっー」
否定の言葉を重ねても、地獄の光景は消え失せない。何度瞬きしても、目をこすっても消えない幻覚だった。
「わざわざ、再現してやったのに」
得也の声は、笑いを含んでいた。
柚木の理性が、ようやく現状を察知した。
生存本能が獰猛に頭を突き破った。
弟の事など、消え失せていた。柚木は走った。
ドアのノブに手をかけた。ノブが回らない。鍵がかかっている。
『撮影中は内側からも鍵かけるから、邪魔は入りませんよ』
鍵は内藤だ。
幾人もの気配が背後から押し寄せる。ドアに体当たりしながら、絶望が津波になって柚木に襲いかかった。
「助けてくれ!」
頭、首、胴、腕、足、全てに強い力が絡みつく。激痛が頭のてっぺんから足の指先まで、あちこちで爆発した。自分の腕に喰らいつく仲間と、目が合った。
幾つもの手が目の前に押し寄せる。衣服が千切られる、露出した皮膚に鋭い歯が喰い込み、肉を千切る。仲間がくわえる己の肉片を、柚木は見た。
剥き出しの痛覚が切り刻まれ、千切られる。柚木は悲鳴を上げた。許しを乞うた。言いくるめようとした。だが、仲間たちの貪欲に澱んだ目は、柚木の何も見ようとはしなかった。千切れた柚木の腹からはみ出した腸に夢中だった。
癒える望みのない激痛、いつ死んでもおかしくは無い。それなのに、肉体はいつまでも死を拒否し続ける。柚木は、骨と内臓を剥き出しにして死を渇望した。
殺してくれ……それは叶うまでに、二〇分以上かかった。
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