第8話『発見』

 朝、典子がダイニングに降りると、すでに須藤家は勢揃いしていた。

 テーブルは騒がしい。以前は、典子と母の二人だった食事風景は、圭人と蓮が下宿してから一気に変わった。

 しかも、銀行員である父の須藤泰助が、昨夜にロンドンから帰国している。

 本部の会議や、関連会社の訪問のための一時的帰国だった。

 圭人と蓮の二人、そして巨漢の泰助でテーブルは窮屈そうだ。

「お父さんが家にいる時は、朝晩の献立は和食って決まっているけど、圭人くんや蓮ちゃんにとってはどう? やっぱり朝はパンの方がいい?」

 母の百合子におかわりを差し出しながら、圭人が答えた。

「俺はどっちも大好きですよ。焼いた鮭があれば、ご飯三杯はいける」

 父の泰助が蓮に話しかけている。

「日本はどうだい? 君たちのお父さんも、子供たちのことをずいぶん気にかけておられたよ。学校は楽しいかい?」

「はい。おかげ様で、大分慣れました」

「おはよう」

 典子は席に着いた……この二人のお父さんて、一体誰よ? 

「やあ、典子の制服姿を久しぶりに見たよ。嬉しいね」

 上機嫌の泰助に百合子が笑いながら、典子の前に御飯と味噌汁、焼き鮭を置いた。

「人数が増えると、食事が賑やかでいいわね」

 その水面下を知れば、きっと二人ともショック死するわね。典子は頂きますと呟き、味噌汁を飲んだ……慣れと日常って怖い。

 監視者の二人と同居生活が始まって二週間を過ぎた。驚愕のスタートが、日常の線路に乗って走っている内に、見慣れた風景になってしまった。これが適応って奴だ。

 しかし、のんびりと朝食を食べているように見えて、蓮と圭人は、それでもしっかりと、朝のテレビニュースに注意している。 

 事故や犯罪関連の報道が終わると、次は行方不明者の社会問題に変わった。

『警視庁の統計によれば、日本は毎年八万人以上の行方不明者の届が出されており、居場所が判明したケースは約70%、ですが他の30%は依然行方が知れなくなっている状態です……また、失踪届の受理される扱いは一般家出人と特異家出人に分かれており……』

 未成年者や突然の失踪は、特異家出人という扱いになる。

 警察も事件性があると捜査してくれるが、成人となると一般家出人として扱われる事が多く、警察も捜索はしないという。

 しかし、一般家出人として扱われていても、実際には家出人が事件に巻き込まれているケースも多く、行方不明者の捜索の今後の課題になっていると、司会者は締めくくった。

 典子は、先月から学校を欠勤している歴史担当の石川教師を思い出した。学校は病欠だと生徒に説明し、代替えの教師が教壇に立っているが、実は行方不明だともっぱらの噂だ。

 学校側は、生徒たちを動揺させないよう配慮して、病気療養中といってあるが、当の生徒たちの反応は平然としたもので「あ、そう」である。

「あんまり、良い先生じゃなかったもんね」

 典子は思い出す。正に仕事のための仕事、そんな教え方だった。

 歴史というのは、過去と現在をつなぐ時間の流れの中で、人々が何を考えて何を作りだしたかを学び、それを未来につなぐ学問だ。しかし、あの石川の歴史の授業は、年号と人の名前とその功績、この三点だけに留まっていた。教科書の文章だけだった。

 担任のクラスを受け持っていたが、指導も、仕事のための仕事だった。生徒の動向を、只眺めるだけだったと聞いている。

……典子は、ニュースから目を逸らした。二年に進級し、クラス替えで別々になった彼の事。その彼の担任が、熱意のない石川教師と知って落胆したことを思い出したのだ。

 案の定だった。石川のせいだけとは思わないが、彼は進級してから学校に来なくなった。

「典子、そろそろ支度しようぜ」

 圭人と蓮が立ちあがってこちらを見ていた。


 外に出ると、空は透きとおった青空だった。

 三人揃って学校へ歩きながら、圭人がぼやく。

「全く、ややこしい背景を作りやがって。ええと、両親が離婚して、俺が母親、蓮が父親に引き取られて、姉弟は離れ離れになって育ったけれど、母親が事故死したせいで、俺は父親と姉と住む事になったと。そして父親の仕事の都合により、今は姉と一緒に日本に帰国……ああくそ、面倒くさい。その設定に必然性はあるのか」

「それ以前に、双子もなにも、二人全然顔が似てないじゃないの。血のつながりすら感じられないし。まあ、お父さんもお母さんもそこのとこ、全然疑ってないけど」

 典子は両脇の二人を交互に見比べた。

「それで、何で蓮がお姉さん役なの?」

「私の方が、出生日が二ヵ月早い。それに圭人は兄というタイプではないと、マーニットが口を出してきた」

「ああ、そうだな。俺もこんな萌えのない妹欲しくないよ。せいぜい弟思いのお姉ちゃんを演じてくれ、蓮」

「じゃあ、お姉さん思いの弟を演じようか、圭人くん」

「反抗期の弟なら演じてやる」

 今置かれている土台はともあれ、三人でこうやって歩いていると、典子は最近平和なものさえ感じてしまう。

 ずっとこうして三人でいてもいいかな、と思ってしまうのだ。適応どころではなく、願望になっているのに気がついて、ちょっと怖い。

 学校の校門が近づくにつれて、登校する生徒たちの姿が増えていく。典子を挟んで歩く三人に、あちこちから注目が飛んでくる。

 女子達のため息と、賛嘆の声。

「いつ見ても素敵」

「なんて綺麗な人……」

「何よ、いつもいつも真ん中にいるわよね」

「蓮さま……」

 美貌も度を越せば、嫉妬を越えて憧憬となる。蓮が起こしたタカラヅカ現象。毎朝のことだが、今だこれには慣れない。嫉妬の視線に、つい身を縮める典子だが、蓮の人気に完全敗北した圭人は、完全に不貞腐れてしまった。

「どうでもいいけど、ここの女子は病んでいるな」

「この間、圭人くんだってラブレターもらったでしょ」

「……差出人は男だった」

 玄関にある自分のネームプレートの入った靴箱で、上履きに履き替えてから教室へ向かう。その途中、典子はつい見てしまう靴箱がある。

 隣のクラスの靴箱だった。その中に、重要な意味を持つ名前のプレートがある。

 その前で、典子は立ちすくんだ。

 毎朝見ていた名前が無くなっている。ネームプレートが白地だ。

「どうした、典子」

 圭人が隣に立った。

「家に忘れ物でもしたか? 宿題してないなら、俺もだ。一緒に蓮のを写そうぜ」

「よお、お早う須藤」

 典子は振り返った。隣のクラスの野川という男子生徒だった。男子バスケットボール部の副部長なので、馴染みのある顔だ。

「どうした、最近バスケ部の練習に全然来ないじゃないか。市野女王サマと殴り合いになったって本当か?」

「野川くん」

 典子は、指先を靴箱に向けた。

「あの、これは……」

 白地のプレートは、元の所有者の生徒がいなくなったという印だった。

「掛井くん、どうしたの?」

 野川の声が低くなった。

「掛井なら、こないだ退学した」

「え?」

「だって、二年になってからほとんど学校に来てねえし、なんか変な仲間とつるんで、どえらいことやらかしたらしいぜ。で、処分をどうするかとか、職員会議にもなったらしいけど、結局退学届が郵送で送られてきたとか」

 全身が石になった。

「それにさ、噂だけどな。掛井、死んだんじゃないかって」

 典子の周囲の音が消えた。動くことが出来ない。

「新聞にはちょこっとしか出なかったらしいけど、暴走族同士ですげえ殺し合いがあったらしいぜ。チームのほとんどが死んだらしい。その中に、掛井が入っていたとか」

「……」うそ、と口を動かしたつもりだが、つもりでしかなかった。

 いやんなるよと、野川はぼやいた。

「最近、ウチのクラス、多いよなあ。掛井もそうだけど、担任の石川も、実は行方不明らしいじゃんか……て、こんな時間じゃないか! じゃあな須藤、部活来いよ!」

 あたふたと野川が走り去る。

 ホームルームの時間が近いてくる。しかし、典子は動けずにいた。


 ……こないだ退学したよ。

 掛井得也が退学した、それなのに自分は学校にいる。

 そして授業を受けているのは、許されるのか。

 ……死んだんじゃないかって。

 嘘だ。だって、そう簡単に、人が死ぬはずないじゃない。

 記憶に染みついた光景と言葉が、黒々と蘇る。

 雨の中で点滅している青信号。自転車のスピードを上げる典子。

 道路を横切る車は少ない。自転車は横断歩道に飛び出した、と同時に信号は赤になる。

 急ブレーキの音と衝突音。転倒して、ようよう顔を上げた典子の目に飛び込んだのは、電信柱の下で、フロントがひしゃげ、煙を吐いている乗用車。

『あの子の受験を壊して、どう、責任を取って下さるというの?』

『得也の将来を台無しにしたのは、あなたよ』

 得也の母親から浴びせられた罵声だった。正に、そうなった。

 わたしのせいだ。それしか思い浮かばない。それ以外は頭を素通りするか、避けていく。

 蓮が聞く。掛井得也は、友人か?

 そうじゃない、加害者だと言いたいが、それすらも、いつか得也が封じ込めた。

『いつもまでグダグタと煩いんだよ』

『何年、そう思っていれば気が済むんだ?』


『……のーりこちゃん、お疲れ様』

 突然、目の前で夢と現実が入れ換わり、白い天井が目に入った。寝かされていたカプセルの扉が開き、人工羊水が排水されて、液体呼吸から酸素呼吸に切り替わったところだった。

 三日に一度の全身検査が終わった。全身ずぶぬれの検査服姿で、典子は起き上がって咳きこんだ。 人口羊水が喉からあふれ、入れ替わるように酸素が肺に入ってくる。

 今日は、人口羊水カプセルを利用した綿密な検査だった。液体呼吸によって全身に行き渡った人工羊水を媒体にして、細胞組織にDNA、脳波に至るまで全てをチェックする。

 以前、初めてこれを受けた時、棺桶に閉じ込められて水責めかとパニックになった。

 今でこそ、分かってはいるが良い気分ではない。終わった時にげえげえと人工羊水を吐き出す不快感も、さすがに慣れない。

「今回も、特に変わりはないわね。シャワー浴びて着替えてらっしゃい。ところで、今日は何かあったの?」

「え?」

「泣いてたわよ。大丈夫?」

 曖昧に笑い、典子はマーニットから差し出されたタオルを受け取った。

 そして気がついた。検査スペースの向こうにある、ガラス壁で区切られたモニター室に、見慣れない顔ぶれ、白衣の集団がいる。

 マーニットが言った。

「後で、紹介するわね。私の同業者と、仲間達よ」

 制服に着替えた典子は、三階から二階の談話室へ降りた。ドアを開けた途端、十人ほどの白衣の集団が一斉に典子に群がった。

「あ、あの、初めまして……」

 押し寄せる白衣に典子はたじろいだ。自分を見つめる目が熱すぎる。熱狂と言ってもいい。しかも切羽詰まるほどの真剣さ。

 タブレットと典子を交互に確かめ、医師たちが口々に叫ぶ。

「この子か! 奇跡の抗体を持つ少女というのは!」

「この数値で、知性も理性も正常な状態を保っているぞ、おい、こんな事ってあるのか?」

「ボンベイ型なんか、初めて生で見たよ。これがH抗原を持たない血液か……この変わった形の樹状細胞にヒントがあるのかもしれない。いや、免疫機構が、通常より特殊な形でもある。サイトカインネットワークが鍵か」

「グール・ウィルスに対する、MHC分子の認識の問題かもしれないわね」

 まじまじと見つめる目と、意味の分からない感嘆符だ。身の置き所が分からない典子の両肩に、がしっと青年医師の手が食い込んだ。

「ありがとう! 君の血液抗体のおかげで、グール・ウィルスに対抗できる、いや、もしかしたら色々な研究にも応用出来るかもしれない」

「えー、あの……」

 自分自身が偉業を成し遂げたわけではない、持って生まれた血液型と抗体だ。うろたえる典子に、マーニットがウィンクした。

「私の同業者。ワクチンの研究チームや医者ね。どうしても典子ちゃんに会いたいって。まあ、研究者にとっちゃ貴方は生きた朗報なのよ」

 その時だった。

 白衣の集団が割れて、棒のように痩せた男がマーニットの前に進み出た。三〇代前半の日本人、恐らくマーニットと年が変わらない。

「いい標本が手に入ったな、ドクター・マーニット。君の幸運にあやかりたいよ」

『標本』一瞬、意味が分かりかねた。だが、理解した瞬間に典子は粟立った。

 男と典子の目が合った。

「しかし、そんな危険な存在を拘束もせず、好き勝手に生活させているそうじゃないか。ウィルスをまき散らす可能性や、突然発症する事態を想定してないのか? 危険意識に欠けているところは、医師失格だよ」

 病原菌を眺めるような目に、怒りよりも心が冷える。マーニットの同業者なら、この男は医師だ。 だが、人の病を治す人間の目ではない。

 無意識の内に、マーニットの白衣の腕をつかんでいた。

「心配は御無用よ。ドクター若木」

 氷点下に下がった目と声で、マーニットが応じる。

「保険はかけているわ。研究レポート以外も、報告書にも目を通してちょうだい。いかなる事態にも対応できるように、護衛と監視の二人をつけています」

「子供二人か。遊び相手だろう?」

「桂と九鬼、両三等陸曹の経歴、ちゃんと読んだ? さては読解力がないのね。それにドクター若木、この子は標本じゃなくて、大事な協力者よ。この子に対して、あまりにも不遜な態度をおとりになるなら、場合によっては、あなたの研究チームとの連携は解消させて頂きます」

「強気だな、軍医どのは。この私の態度が気に入らないだけで、国の協力も要らないというのか」

 若木の口の端が吊りあがる。しかし、マーニットの鋭い目は揺るがない。

 張り詰めた空気の中、マーニットと若木の視線が衝突して帯電したが、先に目を逸らせたのは若木だった。

「研究が一気に進むのは嬉しいが、そうなると臨床実験の標本が足りない恐れがあるな。標本の数を増やすように、また法務省と厚生省にかけ合ってみるか」

「ウィルスの特性の問題もあるけど、そもそも標本というのは、人道的見地からでも、いたずらに増やすものじゃないでしょう。ちゃんと定められた数で賄うのも、仕事の精度の内です」

「おたくの現場チームが始末した二体の標本は、その定められた数の外か?」

 マーニットの口が開きかけた 瞬間、若木は背中を向けた。そして歩き去る。

 他のメンバーが、恐る恐るといった風にそれに続く。

 典子はマーニットを見上げた。また、助けてくれた。感謝の言葉を言おうとした瞬間だった。

「カスノ陸士長」

「はいっ」

 典子はぎょっとした。いつの間にやら、カスノが並んで立っている。

「次の会議に出す、お茶のことだけど」

「お任せ下さい、マーニットさん。うっかり冷蔵庫に入れ忘れて、カビが浮いた烏龍茶があります」

 どこか誇らしげにカスノは続ける。

「その烏龍茶のカビを取り除いて、ドクター若木にお出しします」

「よろしい。ついでに雑巾の汁も入れておくように」

「仰せのままに。あなたの敵は僕の敵です」

 カスノがいそいそと会議の支度へ向かう。マーニットが典子に微笑んだ。

「さてと、我が研究室で少し休憩しますか」


 二階から三階に上がると、部屋の風景は一気に変わる。三階は、全て医療と研究ラボで占められた、いわばマーニットの管轄フロアになっている。

 部屋は四つ。マーニットの執務室兼診察室。そして簡単な手術なら可能な医療室と、強化ガラスで区切られた検査室。

 そして、初めて入る研究室。

 巨大なガラスケースに保管された何百もの試験官と、作業台の上に並ぶ実験機器と薬品。そして幾何学的な模様が渦巻く、いくつもの立体ホログラフィとモニターの中で、典子は立ち尽くす。

……部屋の全てを埋め尽くすこれが、全て自分の血液から生み出され、分析されたものとは信じられない。

「……すごい。これ、全部マーニットさんが一人で?」

「一人じゃないわよ」

 マーニットは典子を指し、そして支部の職員が集まる階下を指差した。

「あー良かった、典子ちゃんがいてくれて」

「まあ、お役に立てたなら、それで良いかな、と」

「このグール・ウィルスって奴は、あなたが思っている以上に厄介な問題だったのよ」

「人喰いだもんね」

「でも、感染経路は限られるから予防は可能。感染力は強くても、熱にも紫外線にも弱くて耐久性は低いから、その気になればウィルスを全て死滅させる事も出来た。それなのに、わざわざそんな危険なウィルスの標本作って、なぜここまでして、ワクチンを作ろうとするんだと思う?」

「ええと、似たような病人が出た時のため?」

「半分正解だけど、真の答えは典子ちゃんの想像圏外ね。答え、生物兵器転用の抑止力。もしもあのウィルスが、悪人に利用されたら?」

 典子は絶句した。あの怪物を利用するなど、想像出来なかったのだ。

「でも、もうワクチンが出来ているとなったら、もうウィルスの利用価値は無くなるでしょ。そのために皆頑張っていたのよ」

「そう、なんですか」

 自分の血液が、自分だけのものではないような気がしてきた。今更だが。

「これで国連も世界保健機構も安全管理局も、一安心ってところだわ」

 ふわわとマーニットは椅子の上で欠伸した。

 ただねえ、とマーニットは嘆いた。目をやった先には、ガラスケースに保管された大量の試験官があった。

「臨床実験に使う、標本の数が足りないのよねえ」

 恨めしげな声だった。

「典子ちゃんのおかげで、一気にワクチンの開発は進んだのよ。力価から病理学試験、理論も計算からシミュレーションまで辿りついて、後は臨床と安全性なんだけど」

 あの、若木という男も同じことを言っていた。

「臨床実験には標本が不可欠なんだけど、実験動物として扱える生体の数を、法務省と厚生省で制限しているのよ。まあ、管理する費用や安全対策面から考えても、当然とはいえるし、人工知能でシミュレーションだって出来るけどね。でも、実際の生体を扱った実験に越したことはない。標本の慢性不足は、研究者たち全体の悩みなんだなあ、これって」

「標本……?」

 いつか、蓮が言っていた言葉を典子は思い出した。二人に殺された、あの白い衣服の男女。蓮はあれを『標本』と言った。

「あの人たちは人間じゃないんですか?」

「ああ、あれね。人権を剥奪された死刑囚なの。実験動物の扱いよ」

 若木が自分を標本扱いしたことを、典子は再び思い出した。

「凶悪事件を起こした死刑囚は、被害者家族と社会的影響を考慮して、実験の被検体に使われるようになるのよ」

 マーニットが嘘をつくとは思わないが、つい口にしてしまった。

「……本当ですか?」

 死刑囚。実験動物。その単語があの白い服の男女に重なる。背中が冷えた。

「あの若木っていうのは、国立研究センターの管理主任でね。専攻は生物学と、生体応用理論」

 標本に出来る死刑囚の割合をもっと増やせと、何度も政府関係者にかけ合っているという。

「まあ、確かに標本は研究には欠かせないし、元はと言えば凶悪犯罪を起こした死刑囚だから、どうせ殺すならとは思うけど……」

 人としての、倫理的な気分の問題よねえ、とマーニットはため息をついた。

「それにしてもなあ……ねー典子ちゃん、一発、桂三等陸曹を感染させようか?」



 浜辺の惨劇から、約二週間以上が経過している。

 ウィルスが拡散した現場から逃げ出した一人が、場合によってはグールウィルスに罹患しているという可能性に騒然となった支部だったが、日が経つにつれて、別の見解も出て来ていた。

「感染時の症状は、大脳新皮質の破壊による知能低下と運動機能の障害、新陳代謝の異常から来る特殊な食行動。見た目も理性も破壊されて、普通の生活なんか送れるはずはないんだから。それは必ず人目に触れるか、事件を起こして騒ぎを起こしているはずだ。家族がかくまっているケースも考えられるが、不可能に近い」

 新陳代謝の異常で、三日も食べられないと飢え死にする。

 油断をしていないが、圭人は事態の収束の希望を持っていた。感染者が起こすような事件は無かったし、キャリアである典子も異常はみられない。

 そして、ワクチンの開発が、ついに後半戦に入ったと聞いている。

 希望は、安堵に変わりかけていたのだが。

「K市の都市整備部、下水道局の職員三名が、下水道の定期点検の際に人骨らしきものを発見。地下七メートル下の生活用排水の流れの中にあったそうです。その後の捜索により、この場所以外にも、流されて来たのか捨てられたのか、あちこちから人骨が発見。頭蓋骨だけで一〇人分。なお、この事件は報道規制がかかっており、警察の捜査もまだ手掛かりはつかめておらず、被害者の身元もまだ判明していません」

 支部の会議室、コの字型テーブルの中央に、下水道トンネルの映像が浮かんでいる。

 黒い流れの中に、白っぽい先端が突き出ている。そして、汚水から回収された割れた頭蓋骨、砕けた骨盤の一部、数々の人骨の映像。

 情報処理担当のナンシーが、警察のサーバから拾って来た情報を元に、次の映像を出す。

「ただ、大人数の人骨が発見されたなら、良くはないけど別に良いわ。でも、問題はこの骨の状態を見て下さい」

 会議出席者の顔が、それぞれ嫌悪に歪んだ。

 映像と圭人の頭の中で重なったのは、エメラルドブルーの海と、ブルーダイヤの空の下に散乱していた死骸。

 手足をもがれ、生ごみのように内臓ごと散乱していた、島の住人たち。

「まるで生の鳥腿肉を喰った後みたいだね」

 出来るだけ、平静を装う圭人に、ナンシーが頷いた。

「桂三曹の言う通りです。骨は新しく、年月が経って肉が腐り落ちた後でもなければ、焼け残ったものでもありません。骨から肉がこそげ落とされていた状態です」

 火つけの木枝のように折られた、骨盤や骨が映される。頭蓋骨はゆで卵の殻のように割られていた。粉々でもない、こぶしほどの、中途半端な大きさだった。

 圭人の隣で、今週のトイレ掃除当番、カスノが頭を傾げた。

「発見された大腿骨や、骨盤に頭蓋骨の大きさからすると、トイレや排水溝から、下水道に流されたとは思えないですね。ここの排水菅じゃ、逆流しますよ」

「脳味噌に内臓や皮は、発見されたか?」

 圭人にとって、白衣姿の見慣れない男が声を上げた。

「そこが重要ポイントだ。奴らにとっては、骨以外は可食部分だからな」

「発見されていません。ただ、頭髪の一部が、皮つきであちこちで発見されています」

「それなら、決まりだな。感染者だ。骨や肉に捕食者の唾液が残っていれば、すぐ分かるんだが」

 男は尊大に言い放つと、コップの中身を飲み下し、妙な顔になった。

「ウィルス感染者が、下水道の中に住んでいるって?」

 会議室に、乾いた笑いのさざ波が起きる。次の3Dマップが空に出現した。地下を巡る下水道の水路だった。そこに発見場所のマークがついた。

           

             


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