第6話 『理不尽な日常』
「もう少し、何とかならないでしょうか」
マーニットの前でそう言いかけた言葉を、また今回も典子は呑みこんだ。
あの施設へ、典子はほぼ毎日通っている。それは典子が日常に戻してもらえた条件だった。最低七日に五回は顔を出して、マーニット女医の診察と問診、検査を受ける事。
もちろん、あの二人も一緒だ。圭人も蓮も、典子から離れる事はほとんどなかった。学校の登下校から教室の中まで一緒、そして家も同居。
典子が一人になる事ほとんど無い。それは許されないことらしかった。生活空間の中に、絶えず二人の視線が全身にへばりついて、監視されている。独りになれるのはトイレか風呂のどちらかで、誰かと会話するにも、必ず圭人か蓮、どちらかがついている。
そして、授業終了後は、施設に真っすぐ連行。
ある日、あまりの息の詰まりように、心の呼吸困難を起こしてしまった。
「あの、放課後の部活に顔を出したいなと……」
あの日以来、バスケ部の練習に出ていなかった。運動部にサボりは許されない。試合後に口論した、部長の良子と顔を合わせづらいが、このままにしておくわけにいかなかった。
事態を放っておけば、退部になりかねないし、その前に呼び出しを受けてしまう。
学校生活における先輩からの呼出。鉄の序列に背けない下級生にとって、最大の恐怖でもある。
「ダメ!」
圭人に怒鳴られた。
「バスケ部だろ! 怪我したらどうする。自分の今の状態、分かっているのか? いくらウィルスの感染力がどうとはいっても、典子に接触する人間を出来るだけ減らすのも、俺たちの役目なんだよ」
散々言い聞かされて分かっているし、気を付けようとも思う。でもこのままでは、精神的にも実質的にも日常生活に支障が出る。
「……そういう訳で、お願いです、もう少し監視を緩めてもらえないでしょうか」
そう訴えようとした典子だったが、マーニットの姿を見ると、いつも何も言えなくなる。
髪の毛は毎回ぼさぼさで、シルエットはまるで手入れの悪い木の枝だった。妙齢の女性が人前で欠伸を連発。そして化粧っ気のない顔に、目の下のクマ。白衣の下にパジャマ。
「ごめんねぇ、毎回こんなカッコで」
声の空気を欠伸でふわわと抜きながら、マーニットは典子に謝る。
「はい……」
「いつでも寝れるようにパジャマ、いつでも仕事できるように白衣。いやぁ、こないだなんか、自分の寝る部屋間違えちゃってね。同僚のベッドに潜り込んで寝てたわ。そういえば、自分の部屋とレイアウト違うし、シーツの色も枕の高さも違うけど、眠くて眠くてもういいやって」
「はあ」
「さてと、体調はどう? 今日はどんな話をしよっか。典子ちゃんの子供の頃の話をしてくれないかな。どんな子供だったのか、病気は多かったのか」
机の上に積み上がっている分厚い本や書類、そして、典子の話を聞きながら、端末の上で絶えず踊る指。口調は軽くても瞳は鋭く、典子との雑談から、何かの手がかりか、ヒントを掴もうとする必死さがうかがえる。
マーニットはマーニットで、典子以上の負担を背負っている。それを垣間見てしまうと、これ以上の何かを要求するのは、申し訳ない気がしてくるのだった。
「……で、あなたたちはどう思ってるの?」
その日の学校の休み時間だった。典子は、圭人と蓮に挟まれて、教室の隅っこ、他のクラスメイトから距離を置いて立っていた。
感染の危険性を出来るだけ押さえるために、校内でも必要以上に動きまわるなと、圭人から釘をさされている。だからこうやって、出来るだけ人と交わらないよう、片隅で三人固まり、目立たないようにしている。
典子は、手に持った缶入りのティー・オーレをぐびりと一口飲んだ。三人で話に盛り上がる事はないので、こうして何かしていないと、間が持たないのだ。
「家の中はとにかく、このクラスに転校して来てから、他の生徒とほとんど話さずに私一人にぴったりくっついてさ、何かこう、疲れるとか、休みたいとか、息抜きに他の子と話でもしたいなとか無いの?」
答えは簡潔だった。
「友達を作りに来たわけじゃない」圭人。
「お前の監視が任務だ」蓮。
ああそう、と典子は嘆いた。
「お願いだから、それでも二人とも、少しはクラスに溶け込んでくれないかな」
出来るだけ、皆から離れて目立たないようにしているはずなのに、それでも集まる注目と突き刺さってくる視線に耐えながら、典子は嘆いた。
いくら感染力が低いとはいえ、凶悪ウィルスを持つ典子から、人を出来るだけ遠ざけるのもこの二人の役目なのは分かっている。だけど、それを知る由もないクラスの生徒からすれば、典子が蓮と圭人を独占しているように見えるらしい。
転校初日から、話題沸騰の美形の双子姉弟に近づきたがっている生徒は多いが、当の二人の視線は典子一筋、おかげで典子は皆に嫉妬と怒りの的になっている。
同居しているのが知られたのも、火に油どころかガソリン状態だった。
「何よ、一緒に住んでいるくせに、まだ一緒にいたいわけ? 二人に挟まれて、ご親友気取っているんじゃないでしょうね。イイ気になってんじゃないわよ」
最近、典子を見る一部の女子の嫉妬の視線は、火炎放射器を思わせる熱さだった。目で火あぶりにされている気がする。
「二人とも、少しは私と離れて、他の子とも雑談でも何でもしてくれないかな」
典子は心の底から嘆願した。
「圭人くん、先日の科学の実験、一緒にどうって羽田さんから誘いを受けた時に、『実験よりも、典子を見てなくちゃいけないから』なんて言ったでしょ」
典子はぶるっと身を震わせた。
「あれで、更に私の立場がオッソロしいことになっているのよ。絶対いつか石をぶつけられる」
「心配するな」蓮が述べた。
「今までに、お前の背後を狙って飛んで来た、文具品と書籍は全て防いだ」
「今まで? 飛んで来た?」
「お前を守るのが、私の役目だ」
腰が砕け、手にした紅茶缶を取り落としかけた。嫉妬だけならまだしも、すでに攻撃目標にまで昇進していたとは。
「進級して新しいクラスになったら、一年の時と同じクラスの子がいなくて、それでもようやく、少し仲良くなったり、新しい人間関係となじんで来たのに」
そう言えば、最近クラスの誰とも話をしていない。クラブ活動も禁止されている。
典子は呻いた。
「何だか、今やクラスから孤立し始めている気がする」
押さえてはいるが、苛立たしげな圭人の声が飛んだ。
「今は仕方が無いだろ、オイ典子、お前本当に、自分の身に起きている事態が分かっているのか?」
圭人が睨んでいる。少女漫画に出てくるような美少年だが、怒りの表情はやけに凄みがある。
しかし、典子も溜まっていた。
「分かっているけど、私にとっては、今の学校生活も重要問題なのよ。十代の多感な頃の人間関係ってね、その後の人との関わり合いや考え方に、多大な影響をもたらすんだからね。ちょっとは、こっちの生活も考えてくれない? 相手の事情と仕事と折り合いがつけられないの?」
圭人の目が、細くなった。蓮は無表情だが、緊迫する空気に典子は気が付く。無意識に戦闘開始に身構えた、その瞬間だった。
「おーい、のっりこぉ」
その声は、天の助けのように、この瞬間の典子にとっては救いの神だった。
教室の出入口に立って、片手に持った紙袋を揺らし、典子に手を振っている。
「トモちゃん!」
一年生の時、クラスで仲の良かった麻生知美だった。今はクラスは離れていても、まだ付合いは続いている。人恋しさと、この重い空気から逃れる喜びで、典子は知美に走り寄った。
「ほら、典子。新刊出たから持って来た。読むでしょ」
「読む読む!」
差し出された紙袋の中は、真新しいコミックの新刊だった。続きが読める楽しみと、親しい相手が自分の元に来てくれた嬉しさで、典子は浮き立った。背中に二人の監視の目を感じるが、この際気にならない。
有難うと礼を言って受け取った典子の紅茶缶に、知美が気付いた。
「あ、その紅茶、こないだ出た新製品でしょ? 何とかいう茶葉を、二倍で抽出とか言ってたやつ」
「そうそう、ニルギリ」
「ちょっと一口」
典子の手から、飲みかけの紅茶缶が取られた。回し飲みなんか、数か月前までは当り前にしていた事だった。
だから、典子は反応が遅れた。何かが空を切った。
「きゃっ」
飛んで来たノートに、缶が跳ね飛ばされて空を飛んだ。知美の手からはじかれた缶の中身が、典子と紙袋にぶちまけられた。ミルクティーの甘ったるい匂いが広がった。
「ちょ、ちょっと、典子、ゴメンね大丈夫?」
「……」
頭から胸にかけて、ミルクティーの匂いが立ち昇る。慌てる知美をよそに、典子は紙袋を見た。ミルクティーに濡れたページが見えた。
「ごめん、手が滑った」
圭人が雑巾を持って現れた。二人の間に割り込み、汚れた床を拭き始めた時、典子は悟った。わざと、やったのだ。
「ごめんな、紙袋に紅茶が入ったね。汚れた物は弁償するよ」
「え、は、はい……」
圭人に見つめられ、頬を染める知美を引き剥がして典子は怒鳴った。
「ちょっとあんた! 顔貸しなさい!」
校内の裏庭は、不良生徒がたまっている事もあったし、校舎の裏手はフェンス越しに公道に面している。こうなると、人目につかない場所は校舎の屋上しかない。
いつもなら、校舎の階段から屋上に出るドアは、安全や保安のために鍵がかかっているが、掃除の出入りの際、鍵が壊れて錠がかからなくなったのを、典子は知っていた。誰も先生に報告していないのか、まだ修理はされていない。
三人は屋上に出た。そのスペースの中央まで歩んだ時、典子と圭人はやや間合いを取った。そして、対決の形で向き合った。
「何を考えてる!」
恫喝の先制攻撃を受けたのは、典子の方だった。先手を取られて狼狽した典子は、更に圭人の怒りの視線に貫かれた。
「自分が何をやらかしそうになったのか、分かってんのか! 被害者ズラする前に、もう少し状況を把握し直せ!」
わたしは、と典子は口を動かした。しかし、言い分は圭人の激昂で瞬時に蒸発した。
「何百回でも何千回でも言ってやる、今の貴様は病原菌の塊だ、本当なら人と接するのも禁じたいくらい、厄介な存在なんだぞ! 以前みたいに考えも無しに行動するのは禁止する、本当なら呼吸の回数だって制限したいくらいだ!」
自制心が、吹き飛んだ。
「もう、頭来た!」
典子は絶叫した。校内に響き渡っても構うかと、本気で思った。
「私が何をしたっていうのよ! 何も悪い事していないじゃない! 何でこんな目にあわされなくちゃいけないのよ! いい加減にしてよ」
ミルクティーをぶっかけられた事がショックだった。行動を監視される理不尽さ、友達同士での悪意もない行動を、罵倒される理不尽さ。実際、自分の身に起きている事態そのものが、理解不能なのだ。今まで過ごして来た安穏な日々から、首根っこをつかまれ、引きずり出されて厄介事に放りこまれた、それは分かる。
だけれど、どうしてそんな目に遭うのが自分なのか。
「いつまでこんな事が続くの? どうすれば終わらせられるの? 教えてよ、ねえ!」
二人の役目を理解はしている。前の二人は働くコマの一つであって、黒幕でも元凶でもない事だって理解しているが、今の典子の怒りをつくるパーツの一つではあった。
無表情と無言を保っていた蓮の口が開きかけた時、圭人の声がかぶさった。
「ああ、そうだ。確かに典子は悪くない」
「じゃあ、何とかしてよ」
「何とかしたいさ。ウィルスも感染者も、全てブった切って、火でもつけて燃やし尽くせば全て解決。俺個人的には是非そうしてやりたいよ」
最後の一言が、冷水となって典子の頭を冷やした。圭人の顔は典子にとって、今まで誰にも向けられた事のない、暗い攻撃的なものに変わっていた。
「この際、人格も尊厳も関係なく言わせてもらえれば、今の君は、破滅の可能性そのものだ。さっきも見ての通りだ。本人の自覚がないっていうのが、本当に悔やまれるね」
「……あったらどうだって言うの」
「こっちは真剣なんだよ。いいか、典子が飼っているウィルスを俺は憎んでいる」
圭人は吐き捨てた。
「殺したいくらいにな!」
二人に向けるはずだった罵声も文句も、この瞬間に全てが鉛と化して、典子の口の中に戻された。
屋上から教室に戻り、席に着いて授業を受ける、典子にとっては、この時がこんなに有難いと思った事は無かった。横の席の圭人の顔を見ずに済む。
自分の言い分が正しくないとは思わないが、それを覆すだけの迫力が相手にはあった。完全な敗北だ。そうなると、尚の事気分は闇に沈む。
授業終了のチャイムが鳴り、終礼が終わると典子は立ち上がった。両隣りも同時だ。もうどうでも良い、施設でもどこにでも、行けばいいんでしょう。もう大人しく従うわよ、あなたたちの言い分を打ち負かすだけの力は無いし、立場だって無い。
鞄を抱え直した、その時だった。
「圭人、お前は先に行け」
典子は顔を上げて、蓮と圭人を見比べた。必ず三人で行動のパターンを、蓮が破るとは思わなかった。圭人も典子と同感だったらしい。
「おい」
「少し、寄り道をする。五分少々、それくらいは良いだろう」
しばらく蓮を眺めた後、圭人は黙って教室を出た。それを見送ってから、蓮は典子へ顔を向けた。
「行くぞ」
校門を出ると、圭人の後ろ姿は完全に消えていた。いつもは右に曲がる道を、蓮は典子を連れて左に曲がった。確かに五分ほど遠回りになる。
「……平和だな」
沈黙の間に、ぽちゃんと石を投げ込んだのは、蓮からだった。空を見上げていた典子は、思わずギョッと蓮を見た。
蓮が見ているのは、道沿いにある児童公園だった。ブランコで小学生の女の子二人が乗って遊んでいる。傍らにランドセルが放り投げられていた。
「私の知っている平和とは、空気の緩み方が全然違う。同じ平和でも、場所によって色々形は違うものらしい」
「それ、どういう意味? 蓮のところは、平和じゃないの?」
思わず、相手の世界が異世界のような言い方になってしまったが。
「平和だが、ここのように、ただ口にして崇拝していれば良い、そんな代物じゃない。相手をけん制し、武力と外交能力を駆使して維持しなければならない、脅威と戦う緊張感の上に成り立っている」
思わず、足が止まった。典子の知る平和とはかけ離れた平和だった。
「脅威は、人が起こすテロや戦乱だけじゃない。自然災害、特にウィルスは厄介だ。相手が見えず、特効薬も時間がかかる……圭人が、一番それを間近で見て知っている」
脳裏に浮かんだのは、激昂しながら見せた、圭人の暗い目だった。
「典子の立場や言い分もあるだろう。確かに、言われる通りだ。私たちは典子を理不尽な目に遭わせている。だけど、私たちは真剣だ」
目の前の平和な光景に、蓮の言葉が混じる。
「済まないが、それに付き合って欲しい」
……蓮に向かって口を開きかけた時、蓮の指が典子の耳に伸びた。何かのスイッチが入った。
聞こえたのは圭人の声だった。
『蓮、聞こえるか』
「ああ」
悪かった、と嘆くような声が聞こえた。
『つい頭に血が上った』
「あの件に関しての、お前の報告書は読んでいる」
『……あの中に、ケイトのお嫁さんにしてって言ってくれた子がいた。まだ十才だったよ』
微笑ましい思い出を語る声ではなかった。背中はおぞましい予感でざわついた。何が起きたのかは分からないが、口調は明らかに残酷を語っている。
「ウィルスを憎む理由は分かるが、典子は状況に巻き込まれた被害者でもある。言葉には気を付けろ」
『分かった。後で、謝る』
「……ごめんなさい」
典子の口からこぼれ落ちたのは、謝罪だった。
ごめんなさい、二人が真剣になっている意味を、もう少し思いやるべきだった。確かに、自分にとって理不尽だし、災難だし、自覚もない。でも真剣な相手には、こっちも真剣に向き合わないといけなかった。
「……ごめんね、圭人くん」
通信機の向こうで、空気が止まった。おい、と声がした。
『蓮、もしかしてさっきの声、典子? この回線、オープン?』
「聞いての通りだ」
『てめぇぇぇっ』
声が噴火した後、ブチっと通信が切れた。あら、と思わず典子は嘆き、蓮を見やった。
「行くぞ」
ぶっと笑いが咽喉から吹き出した。典子は歩きながら笑い転げた。
蓮の人の悪さが、妙に好ましかった。
※
支部は市内のオフィス街の裏にある。
大通りには、銀行や証券、保険会社のビルが立ち並ぶが、道を一本入ると途端に様子が変わる。個人経営の商店や事務所が多く、第二次世界大戦前から建つレトロビルも点在している。
その中の一つ、四階建のレトロビル。一階には、昔からある床屋と喫茶店。その上二階から四階までを借り切っているのが「マサムラ商会」圭人達が務める職場だった。
三階の医療室に典子を連れていった後、圭人と蓮は二階のモニター室兼指令室件事務室に入室した。
経年の劣化で、壁の漆喰があちこち剥がれた部屋に、モニター機器や機材が幾つも立ち並んでいる。壁面を埋め尽くす小型、大型ディスプレイ。各自の机の上に並ぶ端末と装置。古びたレトロビルの外見を裏切る、冷たい機械的な光景が広がっていた。
「これが、殺された少年グループの身元」
支部長秘書兼情報処理担当、ナンシーが、大型3Dディスプレイに、少年達の顔写真をホログラムで呼び出した。胸から上の少年達の立体画像が、圭人達の目の前に浮遊する。
「とはいっても、判明したのは一部。九人中六人だけ」
「六人だけ?」
圭人は首をかしげた。
「死体はちゃんとあるのに? 何で身元不明なんだよ」
「ここは、まだ生体用チップは開発されていないのよ」
ナンシーはここに来て、すっかりお気に入りの事務用椅子に座ってくるくると回りながら述べた。
「DNAの市民登録もないし、生体チップも無い。死後画像診断も一般的じゃないから、髪の毛か骨一本残っていれば、機械にかければ身元がすぐに分かるってものじゃないの。死体の身元を調べるには、まだ歯医者の治療記録だの、身体的特徴とか、持ち物。そんなものに頼っているのよ。その死体が皆、ぐちゃぐちゃだし」
ナンシーはため息をついて続けた。
「所持品にしたって、未成年だからクレジットカードとか、身元が分かるものも持っていない。現金だけで、身分証明や学生証とかない。警察はすでに他のグループにも当たっているらしいけど、彼らは非協力的で、捜査は手間取っているみたいね」
蓮が口を開いた。
「免許証はないのか。残されたバイクのナンバーからは?」
「無免許もいれば、不携帯のもいる。しかも残されたバイクは盗品も混じっていて、真の持ち主かどうなのかも調べている段階よ。しかも所持している携帯端末も、全員分は見つかってはないようね。あっても壊れていたり、焼かれていたり、海水でデータが消失していたり……一般仕様だから、完全防水、耐火でもないのね」
「ここで記録した浜辺の死体画像を元に、警察や民間の情報をハッキングして、身元データを付合わせる事は出来ないのか? パスポートの写真や、ネットのコミュニケーションツールにも顔が載っているかもしれない」
「六人中、四人をその方法でウチが見つけたのよ。結構大変だったのよ。何せここ、ネット情報の虚実の整備がされていなくて、無尽蔵の情報が乱雑に浮遊している状態だから」
「俺が戦場で吹っ飛ばされて死ぬより厄介だな」
圭人は、ホログラフィーの死者六人、少年達の顔を眺めた。どこでもこういう人種の顔つきは共通している。どこか幼い、底が浅い凶暴さ。抱え持つ怒りと甘えを発散させるために、常に敵を探している目つき。
その中、一人だけ雰囲気の異なる少年に圭人は目を引かれた。仲間たちの持つ凶暴さはなく、飢えた目でもない。知能も高そうだが、ひどく虚無的な、不吉な目だった。
「……こいつ、ちょっと変わっているな」
圭人はホログラフィーに向かって指を曲げ、部分を拡大させた。同時に、彼について、一層の細かなデータも表示される。
プロフィールも、少し変わっている。他の少年達は高校中退か会社員だが、彼だけはまだ高校に学籍を置いている。
「結構顔は良いけど、顔つきが暗いな。若いくせに灰色にくすんでるっていうか」
……掛井得也。
「そう、キミたちと同じ年。ハンサムな子なのに残念だわ。どうせなら生きている内に、違う形で違う場所で会いたかったわね」
残念そうなナンシーの軽口につきあう前に、圭人は掛井得也のデータを読み、目を丸くした。思わず蓮へ向いてしまう。
蓮が事もなげに言った。
「同じ、聖英学園の生徒か」
「しかも、同じ学年だったんだな。クラスは違うけど」
掛井得也一七才。
警察の調べでは、現在身元は判明していない。遺体の損傷は激しく、頭部も手足もない状態だったため、支部は彼の死体画像処理で、腹部の手術痕を見つけ、そのデータを元に病院の治療記録を照会してハッキングし、遺体の身元を独自で割り出していた。
「被害者たちの所属していたチーム名は我羅紋。死んだ十人の中で、生き残りの一人に心当たりはないか、取りあえず、そっちから当たってみましょうか……さて」
ナンシーが女王さながら、命令を下した。
「下にバイクを置いているから、現場の浜辺へ行って情報収集してらっしゃい。今夜我羅紋の集会をそこでやるらしいって、警察が無線で話していたから」
それぞれ、詰襟とブレザーとスカートの制服姿から黒のライダースジャケット、ジーンズにエンジニアブーツに着替えると、圭人と蓮は一階にある車庫に向かった。
「蓮、今日の学校の事だけど」
「謝罪なら、もう聞いた」
「勝手に典子との通信オープンにする小細工なんか、仲直りさせる方法としても趣味悪いよ、お前」
「事態の収拾を優先したまでだ」
「最近お前と話していると、いっそ人工知能の方が愛くるしく思える」
憎まれ口を叩きながら、圭人は嘆息した。しかし、ここの医療室の前で「じゃ、検査行ってくるね」と別れた典子の笑顔を思うと、蓮に腹を立てる訳にはいかない。
『ああ、そうそう、お母さんが今晩はハンバーグにするって』
監視人でなく、友人に向ける目だった。なので、圭人もつい
『おばさんって料理上手だよな。実はメシが楽しみでさ』
と、本音で応じてしまった。
「まあ、典子の事は、個人的には可愛いと思うんだけどね。俺の双子の姉さんにも似ているし」
「それがどうかしたのか」
「お前、その思考回路に『人と雑談』てプログラムをインストールしろ」
車庫にはカスノがすでに待っていた。工具を片付けていたところを見ると、置いてあるバイクを二台とも、整備し終えたところらしかった。
「君たちの機動力だよ。死体の身元が一部判明したってナンシーさんから聞いたから、捜査に行くだろ? 暴走族相手だから、これが丁度いいかな」
バイクは、二台とも四〇〇㏄で、どちらも色はブラック。流線形のフォルムをまとったレーサーレプリカだった。
「カッコいいだろう。圭人君はカワサキのNINZYA、九鬼さんはホンダのCBR」
ふうん、と圭人は、つくづくと新車のバイクを見つめた。
「これがガソリンで走る乗物か。博物館でしか見た事ない……と言いたいけど、俺の知っているバイクと、デザインは結構変わらないね」
「君が知っているのは、復刻版だよ。かなり人気があるデザインだから、形のベースはさして変わらないだろうね。走らせる燃料は、そりゃ時代によって変わったけど」
バイクのシートに跨り、ハンドルのスタートエンジンの位置や、ブレーキを確認する圭人へカスノが切り出した。
「ところでお二人さん、マーニットさんから、典子ちゃんの血液型について聞いた? ボンベイ型だって」
……何それ、といいかけた圭人より、蓮の方が早かった。
「珍しいな。H抗原を持たないO型血液か。確か百万人に一人らしい」
圭人は耳にかけているクリップ型端末に命じた。
「ポンペイ型、検索」
チチチと、待機音が鳴った後に合成声が検索結果を告げた。
『ポンペイ型・血液型は血球膜の糖鎖につながれたH抗原の先にある抗体で、AかBを判断していますが、その中で元となるH抗原そのものが無い血液型です』
「ふむふむ」
『ボンベイ型は、通常のO型と同じように、抗A抗体、抗B抗体を持つため、通常の血液型判定ではO型と判断されます。ですが、通常のO型が持たない抗H抗体を持っているのが特徴です』
「O型の特殊型か。あるはずのないものが有り、無いはずのものがある」
『通常のO型同士の子供は、O型しか生まれませんが、このポンペイ型はAかBの子供が生まれるケースがあります。家庭争議の元になる事もあるようで』
「ありがと」
検索機能を停止させるキーワード『アリガトウ』を述べると、合成声は『どういたしまして』と沈黙した。
「じゃあ、その超珍しい血液型のおかげで、典子はグールウィルスの発症が見られないってことか?」
「可能性の一つって事で。ボンベイ型に限らず、抗原は数百種類。その組み合わせによっては、自分と完全に同じ血液型をしている人はいないものね」
カスノの言葉に、思わず圭人は声を上げた。
「でもそれ、かなりヒントになるんじゃないの?」
「その通りだよ、マーニットさんもそれで頑張っている」
だから、キミ達も頑張れと言いながら、カスノが差し出すごついヘルメットに、圭人は目を丸くした。
「ゴーグルじゃ、ないの?」
「これ無しで乗ったら、お巡りさんに捕まるよ。それに、もし転んだら大怪我する。何しろ、まだオートバランサーシステムが入っていないバイクだからね」
「え、じゃあ、走っている時にバランスを崩したら? 転んじゃうじゃないか」
「その通りだよ」
不吉な答えを簡単に放り投げるカスノに、一瞬硬直した圭人だが、あ、待てよとライダースジャケットを着ている事に思い当った。しかし、カスノは圭人の頭の中を読んでいるようだった。
「言っておくけど、そのライダースもここの製品だから、特殊ポリマー加工無いよ」
「あのさ、それって転んだら破れるって事じゃないか?」
「うん、だから転倒の衝撃も吸収しないし、生地も破れるから皮膚が露出する。地面はアスファルトだから、皮膚を削って大怪我だよ」
まるで本のあらすじでも話すかのように、カスノは続けた。
「一緒に車道を走る四輪車も注意しなよ。まだ周囲の確認が全方位スクリーンじゃないから、鏡を使って目視しているんだよ。そのせいで、カーブの時に死角が出来て、並走しているバイクを巻き込む事故が多い」
「……」
「だから、このヘルメットをかぶるのが法律で義務つけられているんだけど、ゴーグルと違ってこれがまあ、視界が狭いのなんのって」
圭人はカスノに渡されたヘルメットを見下ろし、作り笑いをカスノに向けた。
「電車で行ってきていいかな?」
カスノは笑顔を保ったまま「はい」と言って圭人に菊の花束を手渡した。
「二人共、気をつけて乗るんだよ」
カスノの注意は嫌がらせの域だったが、乗ってみるとバイクのツーリングは、なかなか快適だった。
生身の体をスピードの風に晒す感覚は悪くない。ガソリンで走るため、エンジン音は静かとは言いかねるが、体に伝わるエンジンの振動は、まるで機械と一体になったように心地いい。圭人は蓮と共に、いつかの浜辺へ向けてバイクを走らせた。
バイクを走らせながら、蓮はライダースのポケットから無造作に極小カメラをつかんで撒いた。カメラは地面に落ちる瞬間に空で停止し、蝿の羽音に似た音を立てて、すぐに蓮と圭人のバイクを追い始める。
完全に日は落ちていた。
「この場所で集会って事は、仲間の追悼式かな」
目立たないよう、バイクを二台とも脇に寄せて、圭人は車やバイクが集う浜辺を見下ろした。いくつものヘッドライトが、ステージ照明のように多人数の男たちを浮かび上がらせ、連なる車やバイクの排気音が、海と夜空を揺るがしていた。
「騒がしい鎮魂の儀式があるものだな」
へルメットを脱ぎ、蓮は長い黒髪を振り払った。その上空に、さっき撒いた極小カメラが旋回している。
「記録に、インセクト・アイをさっき五個ほど撒いた。ナンシー曹長、コントロールは任せた」
『了解。ところで九鬼三曹。あなた、とびきりの美人なんだから、そろそろ男言葉直しなさいよ』
インセクト・アイ(昆虫の目)という探索用カメラだった。大きさは蝿ほどしかない。
狭い場所や小さな穴からも侵入し、二〇キロ間なら遠隔操作が可能だ。
空中で静止する事も出来る。本来は瓦礫や土砂に埋もれた被災者を探すための機器だが、こうやって対象者に気が付かれないように、盗撮や監視する使い方もある。
圭人と蓮は、ガードレールを越えて浜辺に降りた。ヘッドライトの光に浮かぶ、集団の元へ歩む。
そのライトの中で、男たちがひしめいていた。黒か金ラメが入った派手な服装といい、白い特攻服姿といい、どう見ても一般人の集会ではない。
砂浜にはお供えなのか、幾つものビールの缶と菓子の袋、火のついた数本のタバコが置かれていた。
そのグループの男たちは、やってくる圭人と蓮に気がついた。
「サツか?」囁きが漏れる 。
闖入者に一気に緊張を高めた集団の前で、圭人はカスノに持たされた菊の花束を振った。
「俺たち、矢田のダチだよ。献花させてくれないかな」
同じ年の、死んだ少年の名前を出した。
余所者であろうと、死んだ仲間の献花が断られる筈がない。しかしその瞬間、圭人と蓮は一斉にぐるりと包囲された。
全身を探るような、疑念に満ちた目が降り注ぎ、値踏みする空気が周りを取り巻く。
正に、こういう集団の特性だった。世間の枠から外れた集団は、仲間以外の人間は、警戒するのが基本だった。排他性が強い。
だが、男たちは圭人の隣の蓮に気がついた瞬間、明らかに空気を変えた。「すげえ」とか「ウソだろおい」などと聞こえてくる。
包囲する相手を圭人は観察した。年齢層の中心は二十代前半から後半、人数は二十人ちょうど。
殺された少年たちの仲間には違いないが、彼らよりも年齢層が上だ。
人壁が突然割れた。人垣が二つに割れ、王を通す衛兵のような形になった。
進み出た男は、若くても二十代後半に見えた。長い髪を後ろで縛り、黒い革のつなぎを着ている。
黒い革のつなぎは、他にも着ている奴はいる。だがこの男はそれ以上、黒という衣装に、やけに不吉な迫力を醸し出していた。
男は視線を鞭のように、二人に振り下ろした。
「どこのチームだ、名前は? 」
男が出てきた瞬間、周囲が押し黙った。
『リーダー、柚木利治。一九●●年四月十二日出生、現在二八才、矢野口組系暴力団の二次団体に所属、二〇●●年、傷害と器物破損で起訴』
その他、身長に国籍、本籍地など次々と柚木に関するデータが、コンタクトレンズ型の網膜走査型ディスプレイによって柚木の顔の横で表示されている。
インセクト・アイで映し、転送した画像を元に支部が圭人に送ってきた情報だった。
『矢田健二の異母兄弟』
ほお、と少し感心しながら圭人は名乗った。
「俺が圭人。こっちは蓮。どこのチームにも属していないよ」
男は鋭い目つきを変えようともせず、圭人と蓮を探った。
「健二のダチといったな。それにしちゃ、見た事ない奴らだな」
そりゃそうだと思いつつ、圭人は応じた。
「最近まで、俺達フランスとドイツだったからね。帰国した矢先に、この事態だ」
圭人は柚木の脇をすり抜けた。割れた人壁をぬって海の方へ歩く。
柚木と族達を背中にして、持っていた花束を投げた。
菊は花びらを散らしながら空を飛び、波の上に落ちた。
しばらく海面で菊の花は揺れていたが、やがて波に呑まれ、海中に引き入れられるように没する。
突然、血を吐くような泣き声が轟いた。
「すいませんっユギサンっ」
思わず振り返る。
「おれが、おれが健二止めてりゃ……ちゃんと見ていてやれば、こんなことにはならなかったんだっ」
砂浜に体をこすりつけるようにして、白い特攻服の男が泣き叫び、柚木にすがりつくように這いつくばった。
「俺の目が行き届かなかったから、健二の班に別行動を許しちまった!すいませんっ……すいませんっ」
男の絶叫に、空気が重い鉛になる。柚木が苦しげな顔で首を振った。
「仕方がねえ、あいつも、バカだった」
ホウフクなんかと嘆く。そして、圭人を見た。
「お前、健二のダチって言ったよな? いつからの付き合いだ? 一度もお前みたいなダチがいるなんか、健二から聞かされた事ねえけどよ」
探る目つきで、じっと柚木は圭人を見つめる。オマエ、ナニカサグリニキタンジャネエダロウナ、と言わんばかりの目の色だった。
「お疑いはごもっとも」と、圭人は内心肯いた。
柚木のような人種の、疑い深く、警戒心が強い習性を差し引いても、圭人と矢田の間の友情は想像しにくい。外見だけではない、発散する匂いも違う。正に人種が違うという奴だ。
そこは支部の情報網と、演技力で乗り切る。
「矢田とは、中坊の頃に知り合ったんだよ。学校は違うけど、まあ放課後の課外活動って奴でね。あなたの……お兄さんの事も聞いているよ」
健二と兄弟である事を言い当てられて、柚木の警戒の目つきが変化した。
「凄い兄貴だって自慢していたよ。血が半分しかつながっていないのを、酷く残念がっていた。ああ、それから、安田さんがあなただよね」
柚木の足元にうずくまっていた、白い特攻服の男が顔を上げた。
「随分俺の面倒見てくれたって、矢田が感謝してた。もう一人の兄貴だって……それから、ナイトウさんて人……ああ、あなたか。芸能プロダクションに入っているんだってね」
『内藤ケン。一九●●年・・・・・・現在●●エンタープライズ所属』映像を通じて表示される情報を元に、アドリブを入れて矢田の言葉を語るにつれ、明らかに空気は変化していく。
圭人は寂しげに笑ってみせた。
「俺、矢田を友達だって思っていたけど、アイツ、お兄さんにも皆にも、俺の事を話さなかったみたいだね。どうやら俺の片思いだったらしい」
この瞬間男たちの間で、圭人に対して気まり悪そうな空気が漂った。その空気に乗じて、圭人は切り出した。
「噂で聞いたんだけど、一人だけ無事だった人がいるんだね」
これが本題である。
「矢田の事聞きたいから、連絡取りたいんだ。もしも知っていれば……」
「そっちの女、蓮っていったな」
脈絡もなく、柚木が言葉をかぶせた。さっきからちら見はしていたが、どうやら我慢できなくなったらしい。
「どえらい女じゃねえか。オイ、お前まさか、健二のオンナって事はねえよな?」
今の柚木を描き、題名をつけるなら、正に「好色」だった。蓮を見る視線に手足があれば、完全に性犯罪を行っている、視姦そのものだった。
「オマエの女って事はないな?」
じろりと圭人を睨む目は、例えそうであっても違うと言えと強制している。完全に話が逸れてしまい、圭人は天を仰いだ。
「言っておくけどなあ、俺たちは完全にお前を信用したって訳じゃ、ねえんだよ。いくら俺と健二の関係知っていようと、他のメンバーの名前知っていようとな」
「えー」
何て猜疑心の強さだ。迫真の演技だと思ったのに。
「この騒ぎは、狂騒連合の奴らの仕業だって話もあってな」
表示が入った。
『狂騒連合。R市を拠点とし、約三〇名の構成から成る少年グループ。●●年●月●日、深夜未明R市工場跡地で、二つの少年グループ五〇人以上の大規模な乱闘事件が発生。死傷者四名、死者一名』
「こないだの戦争で、あっちの幹部が死んだ。その報復にちがいねえと、皆で話していたところだ。こんな悪魔のような事が出来る連中は、奴らしかいねえよ。お前らが、俺たちの事を探りに来た奴らのスパイって事もあり得る。なら、俺たちの事を知っていても不思議はねえ」
この事態が、お前らの喧嘩と暴走の範囲かよと。常識を大きく逸脱した凄惨さ、むごさを良く見てみろと、その短絡的思考を圭人は内心罵った。
蓮は周囲の男たちの視線を、無表情に投げ返している。
「信じて欲しけりゃ、信じさせろよ、なあ」
柚木が蓮の顔を覗きこんだ。
「見れば見るほど、すげえ女じゃねえか。今まで女優の卵だの、モデルだのと付き合っちゃ来たけどよ、オマエ見たら、皆ブスに見えるぜ」
蓮の顎をつまんだ。無遠慮なほどに、顔が急接近した。
「こう見えても、心は広いんだよ。もし健二と穴兄弟だろうと、オマエとなら構わねえ。スパイじゃねぇなら、カラダ張って証拠見せろよ、どうだ?」
柚木のもう片手が蓮の腰に回る。尻を掴んで引き寄せた、その瞬間だった。
ヒュっと風が吹いた。
無数の髪の毛が潮風に舞い上がる。砂浜に、束ねられた髪の毛が落ちた。
「ゆ、柚木さん、あ、ああたま頭……!」
自分でも、頭部の異常な感覚を悟ったらしい。
車のサイドミラーを覗きこんだ柚木が、悲鳴を上げた。
「ああああっ」
前から頭頂部にかけて、髪の毛が綺麗に剃り落とされている。まるで頭の上を、一本の白い道が走っているようだった。
「て、てめえ、何しやがっ……」
柚木が蓮の襟元を掴み上げた瞬間、目玉をでんぐり返らせた「ごぼっ」と口から泡と酸素を溢れかえらせて、体を折って砂浜に昏倒する。
蓮は、片足を下ろした。
「おい、蓮……?」
「別に。試し斬りだ」
蓮は銀色の指輪の土台についた、紅玉をつまんで引っ張った。蜘蛛が吐き出したような細い糸が伸びた。
「先日支給された試作品だ。単分子をベースにしたワイヤーソー。使いようによっては、丸太でも分断できる……初めて使ったが、悪くない」
圭人は、ちらりと後ろを振り返った。大騒ぎだ。ゆぎさんゆぎさんと名を叫び、てめえなにしやがったぁと怒鳴り声が轟き渡る。
敵意と殺意の集団が、どっと圭人と蓮に押し寄せた。二人は同時に、それぞれ車の屋根に飛び乗った。通信端末に圭人は怒鳴った。
「九鬼三曹のせいで交渉失敗! やむを得ず、抗戦状態に突入しまっす!」
「相手は総勢二〇名ちょうど。増援は不要だ」
車の上なら、すぐには囲まれることはない。よじ登って来る奴を相手にすればいい。
ボンネットから屋根に上がって来た男を、圭人は思い切り蹴り飛ばした。下が砂なので、落下によってより大きなダメージを与えるために、バイクの方向へ吹っ飛ばす事や、仲間の頭上に落とす計算も忘れない。
スケベ心か、やりやすい相手と思われたのか、蓮を捕らえようとする男の方が多い。だが、屋根の上に二秒と立っていられるものはいなかった。顔面、腹、股間と、急所を全て一撃で粉砕され、声も出せずに転がり落ちていく。
最後、浜辺から逃げ出そうとした男を、圭人が屋根から飛び降りて追いかけ、当て身を喰らわせて昏倒させた。
……月明かりの下、累々と浜辺に転がる男たちの風景は、いつか見た現場を彷彿とさせた。
「全く、そんなセクハラ許すまじってタマかよ。尻の一つも触らせてやれば、きっとあいつべらべらしゃべったぞ。有益な情報が手に入ったかもしれないのに」
「次回はお前にその方法で任せる」
「お前の方が向いているよ。俺は死んでも嫌だね。繊細なんだよ」
気絶している男を適当に選び、息を吹き返させると、男は蓮を見て悲鳴を上げた。
「あー大丈夫大丈夫、もう痛いことしないから」
「殺し合いの中で、逃げ出した奴を探している」
蓮は、座りこむ男を見下ろした。
「お前たちチームの集合写真、何でも良い、メンバー全員が写っているのはあるか」
蓮と視線が絡んだ瞬間、男の顔が呆けた。ポカンと口から魂が抜けていく。
「ええと……しゃしん」
夢遊病者のような手つきで携帯端末を取り出した。
画像をコピーする間に、男はふわふわと喋った。
「お、俺たちも、逃げた奴探してます。そいつがもしかして、狂騒連合と手ぇ組んで、皆を殺しやがったのかもしれません。そうでなくても、仲間見捨てて一人で逃げだした裏切りものっていうか、柚木さんがマジ怒りで、俺の弟見殺しにしやがったって、探しだしてブッコロスとか言っていまして……」
「そうか」
蓮は胸ポケットからメモを取り出し、書きつけるとそれを男のシャツに差しいれた。
「何か分かれば、連絡しろ」
一寸置いて、男が頬を染めて返事した。
「はいっ」
浜辺を離れる時、そっと後ろを振り返った圭人の目に入ったのは、両手を固く組み、膝立ちして蓮を見送る信者の姿だった。
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