第5話 『ヒトとの決別』

 よく晴れた昼間だが、住宅街に人通りは無かった。

 五月の風は新緑を揺らし、街路に咲くスノーボールの純白の花びらは、陽光をはじき返す。

 その陽光を、得也は目深にかぶったフードで避けながら歩いた。

 塀に囲まれた一戸建てが、規則正しく並ぶ街だった。ガレージには国産、外車を問わず高級車が並ぶ。塀からは手入れされた庭木が顔を見せて、門の向こうには、色彩豊かな花々によって飾られた庭が見える。

 得也は、道路を挟んで実家の向かいにある家を一瞥した。そして、自宅を見上げた。

 家は荒んでいた。敷地の広さや家屋の外観だけなら、この住宅地の中で見劣りがしない部類に入るのだが、醸し出す空気が澱んでいる。

 窓のカーテンは、閉め切られている。

 ハーブだの寄せ植えだのと、妙に凝っていた花壇は、ほとんど枯れていた。しおれた茶色の花に、どこからか飛んできた白いポリ袋が引っかかっている。

 鉄製の門が錆ついたままだ。門から玄関までの短い小道はゴミが落ちている、枯れ葉どころか、薄汚れた女物のサンダルが転がっている。

 得也は合鍵で家に入った。

 家は静まりかえっている。そのまま二階の自室に上がった。

 部屋のドアを開けると、埃の匂いがした。元々、物を散らかさない性質なので、部屋は乱雑ではない。しかし、出ていった時のまま、空気は虚ろに乾いていた。

 得也はそのままベッドの上に転がった。ひどくだるい。空腹だが、食事を受けつけないのだ。

 ハンバーガーも、ビザも、スナックも、焼き肉も、数日前なら好物だったもの全て。

 数日前なら、鼻腔に入った瞬間、食欲中枢を刺激したあの匂いが、泥か草の匂いのように、何の意味も無いものになっている。

 咽喉の渇きを癒すはずの水も、咽喉を通過するだけの流動物だった。全く体に滲みいる気がしない。

……あの肉と液体以外、駄目だ。

 甘酸っぱく、噛めば噛むほどに深みが濃くなり、舌の上で溶けてゆく味わい。飲んだ瞬間、鼻腔から抜けていく生々しくも濃厚な香。咽喉を流れる粘度。人間の根幹にある禁忌におののきながら、それでもむしゃぶりつかずにはいられない、あの味を想う。

 寝返りを打ちかけて、左手が目に入った。得也は息を呑んだ。

 茶と紫の腐敗の面積が、手のひらから、たった数時間で手首にまで広がっている。

「……畜生」

 あの海から出てきた、奇妙な男女二人がフラッシュバックする。

 ……あの浜辺で、何が起きたのか。考えられる事は、自分達は何らかのウィルスに感染した、という事だ。

 脳を破壊するウィルスは、日本脳炎に狂犬病と珍しくも無い。もしかしたら、あの二人はどこかの病院で隔離されていた患者だったのだろうか。

 そのウィルス感染によって、仲間達は脳を破壊され、狂ったケダモノとなったのか。

「じゃあ、何故、俺だけが狂っていないんだよ?」

 得也は呻き、右手で頭をかきむしる。

 悪魔の所業でも、神の悪ふざけでも、いっそ、皆と同じように狂いたかった。そっちの方が楽だ。人肉を求める自分に何も疑問も持たず、悩まずに喰う事が出来た。

「畜生」

 あの夜を、得也は罵った。

 その間にも、飢えの波がじわじわとやってくる。

「……食べなければ、どうなるんだ?」

 左手の腐敗が、食欲が得也の本能と理性に回答を訴えていた。食べないと、お前は徐々に腐るのだと。

「駄目だ」

 得也は自分に言い聞かせた。

 殺人や盗みは、世界中の法律や掟に必ず入っている禁止事項だが、「人間の共食い」を禁止事項として掲げているところは無い。

 なぜなら、人類共通の最大の禁忌だからだ。例え記さなくても、人として生まれた以上、当然避けて通るべき、理性に刻み込まれたタブーだとされているからだ。

 ヒトとして生まれたのだ。

 ヒトである事を手放したくはなかった。得也は自分に言い聞かせた。

「もう、二度も喰ったんだ、十分だろ?」

 しかし、飢えと渇きは、毒のように得也に染み込んでいく。普通の食物や水では、満たす事の出来ない飢餓だった。

「駄目だ」

 得也は呻いた。

しかし、その言葉は自分を戒める「禁止」なのか、人肉のみを欲する言葉なのか、自分でも曖昧になっていた。

 禁断の空腹をどうやって紛らわせればいいのか、どうやって満たせばいいのか、得也は寝返りをうった。目の端に、本と映画のDVDが詰まった本棚が引っ掛かった。そして、大型テレビ。

 得也にとっては、ただの娯楽ではなく、現実逃避の繭でもあった手段だが、そんなものでは紛らわせそうになかった。目を閉じて闇に逃げる。

……いっそ、死のうか。

 その時だった。

「得也! 帰っているのね!」

 金属的な声が耳に突き刺さった。ドアが開くと共に、得也は跳ね起きた。

「かあさん……」

 母の史恵だった。

「あんた、今までどこに……」

 引き歪んだ表情とはいえ、自分を見つめているのは、間違いなく母親だった。

 得也は安堵した。

 反抗して、家出していたにせよ、人間として生まれた自分のルーツには違いなかった。

 だが、何を話せと言う? 得也は口ごもった。今の自分をどう説明して、助けを求める?

 迷ったその時だった。

「あんたは……何をしたの!」

 母の悲鳴が部屋で爆発した。

「警察が、来たのよ! あんたの知り合いが、学校を襲ってその後に死んだって! あんた、何をやったの!」

 ぐらりと頭が揺れた。そうか、警察が来たのか。

 学校を襲撃した際に、フルフェイスのヘルメットのおかげで、顔は見られていない。しかし、バイクは……いや、あいつらの誰かに、貸したと言えばいい。

 そんな事よりも。

「母さん」

 得也は肺の中の空気を全て吐き出し、顔を上げた。

 もう、反抗する気力も無かった。ただ、追いつめられていた。

 狂った状況から逃げ出したかった。すがりつきたかったし、今この場では、母にしか救いを求められなかった。

「母さん……」

 言葉はたたき落とされた。

「もう、どうすればいいのよ!」

 調律の狂った声で、母の史恵が叫んだ。

「今日、学校から電話があったのよ。これから担任が来るって。今後の事で、話したい事があるって」

「……担任?」

「あんたの学籍の事よ!」

 ああ、と得也は嘆いた。

 そう言えば、進級して、どれくらい登校していなかったんだろうと考える。

「何で、あんな学校の教師に舐められなくちゃいけないのよ! 本当なら、聖英なんかあんたの行くところじゃなかったのよ、それが、あんな事で……」

 まだ、受験の事を根に持っているのか。苛立ちよりも、虚無感のせいで得也は言いたい事を失いかけた。

「本当なら、あんたは慶応付属に通っていたはずなのよ、絶対に合格間違いなかったはずよ、それがあんな娘のせいで、全部台無しよ!」

 史恵は繰り返した。

「そのせいで、あんな馬鹿の学校のバカ教師に馬鹿にされるハメになって……」

 つまり、出席日数の事で、担任の教師がついに直談判に来るのだろう。場合によっては、退学を勧められるに違いない。

「そんなことより……」

 史恵は嗚咽しながら、得也の言葉を封じた。それ以外の話題は許さないと言うかのように。

「皆で、私を苛めて、そんなに楽しいの?」

 得也は史恵の言葉をなんとかさえぎろうと声を出した。退学云々なんか、どうだっていい。もっと恐ろしいものを抱え込んでしまったのだ。

「そんな事は、どうでもいいんだよ。とにかく、聞いてくれ! 昨日の夜から、俺……」

「得也! あんたは口惜しくないの! あんな馬鹿な学校へ行くのが嫌だから、図書館かどこかで、勉強していたのね? そうよね、学校をさぼって、何をしていたの? 何で警察が来たのは、どうしてよ!」

 我が身に起きている深刻な事態を、得也は思わず引っ込めた。史恵の目には、得也の学籍以外は無かった。

「お母さん、あンたを信用していたのよっ」

 史恵の声がひっくり返った。

「事故のせいで、慶応を受験出来なくて、そりゃあお母さんだって口惜しかったわよ! そのせいで、自分に不釣り合いな学校へ行って、でもね、それなら、得也は次の大学受験に備えて頑張っている、勉強しているってそう思っていたのよ! それが何なの、学校を襲ったって、何? マリファナを売っていた人と知り合いって、どういう事なの?」

「聞いてくれ、それどころじゃないんだよ!」

 得也は全てを破壊せんばかりに絶叫した。

「昨日から、おかしいんだ! 俺は、人を……」

「黙りなさい! 私を馬鹿にして、何が楽しいのよぉっ、教師も、あんたも、みんなみんな、寄ってたかって、私を……」

 動けない得也へ、史恵は本を投げつけた。それは得也の顔の横を飛び、壁に当たって跳ね返った。

「もう何も聞きたくない、あんたなんか、どうにでもなってしまえばいいのよ! こんな、こんな裏切られるって分かっていたなら……」

 母親が息子に向けるには、禍々しすぎる目が得也を射抜いた。憎悪だった。

「産むんじゃ、なかった」

 凍りつくほどに、突き放した憎しみの声だった。得也は打ち明ける事を忘れた。

「もう死にたいわ、もう、こんな想いするくらいなら、死んでしまいたい!」

 金属的な罵声が、高い泣き声と共に得也に叩きこまれてきた。史恵にとって、すでに得也は息子ではなくなっていた。自分を傷つける加害者だった。

 得也は冷えた。

「……そんなに、死にたいのかよ?」

 思考は冷え切っていた。だが、心は燃え狂っていた。

「慶応に受験できなかったのが、そんなに御大層な事か? 死んでしまいたいって? 産むんじゃなかったって? あんたにとって、俺は何?」

「もう、あんたが分からないわ、もういい、どうにでもなれよ! あんたなんか、どうにでもなってしまえばいい!」

 突然、何かが爆発した。

 笑いだった。もう、どうにかなっている。言われるまでも無い。

 可笑しさよりも、激情に突き動かされて、得也は笑った。腹がよじれて、声が枯れる。

「何がおかしいのよおぉっ」

 史恵は得也につかみかかった。もつれあってベッドの上に転がった。

「放せ!」

 得也は掴みかかる史恵の手を払いのけた。

「死にたいなら、死ねよ! 手伝ってやるよ! あの世に行けば、親父が待っているぜ、ついでに聞いてくれ、あんた本当に事故で死んだの?って」

「黙れぇ!」

 史恵の手が、得也の首にかかる。

 咽喉の中央に喰いこむ、母親の親指。憎悪に染まる眼球の赤さが、得也を突き刺した。

「もお、もお……あんたなんかぁ」

 その時だった。凶暴な欲望が得也を跳ね飛ばした。

 のしかかる史恵の後ろに手を回す。その後頭部を思い切り引き寄せた。

 眼前に迫る母親の首を、歯で喰いちぎる。

「ヴぁあっ」

 吹き出す血が滝のように得也の口腔を満たし、咽喉の奥を滑り降りてゆく。渇いた細胞に、ゆきわたる豊かな養分を得也は感じた。降り注ぐ鮮血で顔や髪を濡らしながら、得也は上へ逃げようとあがく史恵を下から押さえつけ、ひたすら血を呑み続ける。

 どすん、と母親の頭が得也の上に落下した。

 血の匂いが呼び水となった。得也は転がる母親の上にのしかかった。そして首の肉を喰いちぎり、咀嚼した、その時。

「うえぇっ」

 思わず、得也は口を押さえた。そして汚物を振り払うように、得也は史恵を振り払った。力を込めて、思い切り。

 史恵は飛んだ。紙屑のように。

 イタリア製のウォールナット無垢材で出来た勉強机の角に、史恵の後頭部がめり込んだ。そのまま、史恵は落下した。

「うえ……」

 得也は咀嚼していた母親の肉塊を吐き出した。

「クソ……」

 腐ったものを食べたような、ジリジリとした不快感が舌に広がっている。

「やっぱ、母親ってのは……マズイのかな、あらゆる意味で」

 思わず喰いついてしまったとはいえ、よく思えば、これは一種の近親相姦だ。

「……あーあ、もう……うそだろ」

 ようやく出たのは、間の抜けた感嘆だった。しかし、それ以外言葉は見つからなかった。

 部屋にある姿見の鏡がある。自分の顔は一面、真っ赤だ。シャツの肩部分も血に染まっている。床に転がっているのは、血まみれの母親。

 その表情は、息子に対する恐怖よりも、驚きの顔だった。

 得也はベッドの上に座り込んだ。

「……もう良いだろ……?」

 力が抜けた。

「やめてくれよなあ……どうしろって言うんだよ」

 昨日から、世界の全てがおかしい。夢なのか現実なのか、正常か異常か、自分の物差しの精度すら、信じる事が出来ない。

 得也は立ち上がり、母親を蹴り上げた。母親の死骸はゴールポストに飛び込むサッカーボールのように、空で壁に激突して転がった。

 シャワーに入り、血を洗い流す。美味い液体だが、顔や髪にべったり付いている湿り気はやはり気持ち悪い。

……着替え終えて、髪の毛を拭いていた時だった。チャイムが鳴った。

「ああくそ」得也は呻いた。


防犯カメラに写っていたのは、見憶えのある男だった。担任の教師だ。得也は母の言葉を思い出した。来訪の約束があったのに、居留守を使えば当然怪しまれる。

 母親を二階に置きっ放しにして、得也は来客を迎えた。聖英学園では歴史を担当している、三〇代の男だった。石川という。進級してからほとんど登校していないので。得也にとっては馴染みも親しみもほとんどない。

「君、家にいたのか?」

 来客用の部屋に通すと、教師の石川はまずソファに座って、意外そうな顔になった。

「それで、お母さんは?」

「母はちょっと」

 得也は、向かいのソファに腰掛けた。

「ふぅん」ずんぐりした色黒の顔を、石川はわずかに傾けた。まあいいかと嘆く。

「それじゃあ、お母さんが来る前に少し君と話をしようか……掛井君、君はどうしたい?」

「どうしたいとは?」

「学校の事だよ」

 石川の顔に、倦怠感が丸出しになった。

「君は、元々聖英に通いたいとは思っていなかったんだろう? お母さんにも聞いているし、噂でも知っているよ。でもさあ、そんな態度だと、他の生徒にも影響があるんだよね」

「……」

「どうすれば、登校する気が起きるか。もう詮索する気はないよ。君と僕は、店と客の関係じゃないから、学校に来る気になれないなら、無理強いはしない。でも、教師として君の今後を考える。どうだ? もっと他に、自分に合った学校があると思わないか? 一緒に他の学校を探すなり、道を探してみよう。私も出来るだけ、力になるよ」 

 自分の生徒の将来ではなく、仕事の問題をさっさと片付けてしまいたいと、石川の顔色に表れていた。

「最も、君が登校をしない理由は、我が校の偏差値と君の能力に、差があり過ぎて授業に嫌気が刺したんだと聞いているからね、それなりの学校を探してあげよう……見つかると良いけど」

 学校で数日顔を合わせただけだが、得也にとって、この石川は担任といえど、どこか虫の好かない男だった。

 それが違う視点から見れば、実に好ましい。

 腕、首、全てがみっちりと肉が付いて太い。土を感じさせる体臭が、美味そうな芳香となって鼻腔から食欲を攻めてくる。

 そう言えば、腹が減っていたんだっけ……得也は思い出した。

「まあ、はっきりと言わせてもらえば、今まで、君はどこか人を見下したところがあった。そんな態度は、もう取らない方が良い。確かに君の成績は非常に良かったが、友達を作る能力は非常に低い。対人能力が低いと、将来苦労するよ」

 担任だった頃はしなかった忠告を、退学するものと決めた瞬間、解き放つのはどういう心境だろう。

 そういえば、コイツ、学校でタバコ吸っていた奴を見て見ぬフリする奴だった。得也はおかしくなった。つまり、今まで俺が怖かったってか?

 信頼はしていなかったが、失望した。大人というものは、自分たちよりも経験値や知識は上で、特に教師というものは生徒を導く職業だ。それがこうも矮小なのか。

 母親の史恵もそうだ。

 馬鹿馬鹿しい。今まで、こんな奴らの管理下だったのか。

 テーブルの上で、せわしなく動く石川の指を見ていると、部屋の外に、重いものが転がり落ちる音がした。

「な、何?」

 石川の腰が、ソファから浮いた。得也は立ち上がり、ドアの外に出た。

 そして、少し驚いた……真っ赤に染まった史恵が、階段の下に転がっている。

 部屋から這いずり出て来たらしい。と、いう事は、あの時はまだ死んでいなかったのだと、得也は感心した。だが、今ではもう間違いなく死んでいる。首の骨が折れて、あり得ない角度に首がねじ曲がっていた。

「あああああああっ」

 背中に突き刺さった絶叫に、得也は振り向いた。石川だった。

 石川は、史恵の死骸と、得也の顔を交互に見た。

「い、言わない、言わないから帰してくれ!」

 きびすを返した。庭に出るガラスドアに向かって走ろうとし、転倒する。立ち上がる事が出来ず、近づく得也を見据えながら、座ったまま後退した。

「ひ、ひみつにする、ひみつに……誰にも言わない、たすけてくれ」

「あのさあ、それ、教育者としてどうだ? 生徒にかけるセリフか? 自首しよう、一緒についていってやるとか、言わないのか?」

 石川の首に、両手をかけた。

「まあ、どうせ見られたんだ」

 ぐっと力を入れると、じたばたあがく。まるで子供の力だ。男の力での抵抗が、こうも弱いとは思わず、得也は拍子抜けした。

「あれ?」

 しかも軽い。両手で首を掴み、宙づりに出来る。その軽さに得也は戸惑った。

 石川を差し上げながら、応接間を出てキッチンへ歩く。吊り上げられた体勢で、石川は抵抗を止めずに足掻く。空に浮かぶ足が蹴りつけてくる鬱陶しさに、得也は石川の後頭部を、キッチンの柱の角に叩きつけた。

「ぐぇ」小さな音が咽喉から漏れた。眼球が飛びだした。

 びくん、びくんと痙攣する石川の首筋に、得也はかぶりついた。石川の背中がしなった。

「ごぼっ」咽喉が音声からこぼれる。しかし、もう抗う力はない石川は、只の食料だった。


 とにかく、腹が減っていた。

 肌は地黒のようだった。しかし、肌の色は味には関係ない。

 肉は硬いが、味の方は申し分ない。凝縮された、濃い味だ。噛めば滋養と味が滲み出てくる。

 流れる血を、直に口をつけてすすった。肉の味も濃いが、血も甘く、豊潤な程鉄の香が強い。床に流れてしまうロスが、勿体なく思える程だった。

 女のリエは素手で解体出来たが、石川の骨は太い。得也は台所から包丁を持ち出して、四肢の肉に切れ目を入れ、骨の関節を外して解体した。首を切り離し、四肢を切り離すと人間の形が無くなる。担任教師は只の肉塊となった。

 得也は教師の腹をさばいた。腸がこぼれ落ちた瞬間広がったのは、むせかえるほどの生々しい匂いだった。

 今回、臓物に挑戦してみる気だった。見た目がグロデスクなせいもあって、ミツグの母親の時は食べる気になれかったが、あの夜の仲間達の食べる姿を思い出すと、ちょっと挑戦してみる気になったのだ。

 中年男の中身は、意外に綺麗な桜色だった。てらてらとぬめって光り輝く内臓に、粘り気のある血や脂肪がまとわりついている。

 腸を引き出す。そのまま喰いちぎる。

「!」

 口の中に、野趣味あふれる甘みが広がった。得也は絶句した。赤身とは違う、複雑で玄妙な味わいと触感。

 得也は腹の中の内臓をまさぐり、かき回し、引きずりだして喰いついた。予想を越える美味だ。食人の醍醐味と言っていい。機会はあったというのに、これを食べなかった事がひどく悔やまれる。 

 時間をかけて、得也は石川を食った。死体を残してもしょうがない。証拠隠滅でもあるし、一石二鳥だった。

 やがて、石川の胴は、中身をぶちまけた生身の人体模型のようになった。得也は、石川の頭を金槌で叩き割った。内臓があれだけ美味いのだ。脳味噌だって同じに違いなかった。

 ついうっかり、力が入り過ぎてた。叩き割った頭がい骨の破片と、脳漿が混じって床に一部こぼれた。しかし髪をかき分け、頭蓋骨に指を突っ込んで、残ったそれをすくい舐めた得也は、感嘆のため息をもらした。

「へえ……」

 濃厚と思ったが、脳味噌の味はそれだけではなく、繊細でもあった。砂糖のような甘みではなく、舌の上の味覚を柔らかに撫でながら溶けていく。

「いけすかない奴でも、頭の中は美味いもんなんだ」

 得也が石川に好感を抱いたのは、これが初めてだった。



 台所には、床下収納がある。みりんやしょうゆなど、保管している調味料のストックを取り出すと、内側は大きめの段ボール一つ分ほどの広さがある。

 得也は、史恵の足首を持ち、逆さにぶら下げた。血液が残っていないせいじゃない、やはり軽い。ぬいぐるみをぶら下げるように、頭から収納に入れた。

 L字型に母が納まる。しかし、収納口から足が飛びだした。

 床から飛び出す足の格好に、つい得也はつぶやいた。

「スケキヨ」

 こんな時だと言うのに、つまらない事を連想した自分自身に呆れながら、母の死骸の膝を得也は思い切り曲げる。

 母は、背中を下につけた体操座りの姿勢になった。

 その上から、食べ残した石川を入れた。服、所持品、最後に頭皮付きの髪の毛を入れて、得也は蓋を閉めた。

「これでもう、後戻りできないか」

 思わず笑いがこぼれた。何かを失ったのか、迷いをふっ切ったのか、分からない。だが、人間であれ、獣であれ、今までの世界に戻るのはこれで不可能だった。

 戻る気もない。

 一瞬だけ、面影が見えた。

「良かったじゃないか」

 俺とは関り合いになるなと、あの日に遠ざけておいて正解だった。

 得也は立ち上がった。もう、死ぬ気は失せていた。

 人は満腹すれば、死ぬ気は無くなるというが、それは本当だった。




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