第4話 『監視者二人』
車が聖英学園の校門前に到着したのは、いつもの登校時刻よりやや早く、校門をくぐる生徒もまばらな時間帯だった。
「忘れ物は無いね?」
乗用車を運転していた青年が、後部座席の典子に朗らかな笑顔を向けた。確かカスノという名前だった。
「……はい」
「じゃあ、行ってらっしゃい。典子ちゃん」
その助手席に乗っているのは、マーニット女医だった。白衣でなく、シャツとジーンズの普通の私服だった。傍目で見れば、知り合いの車に乗せてもらって登校して来たみたいだ。
「何、もじもじしているの?」
「あ、その……」
「遅刻しちゃわない?」
怖かった。今いるこの日常が、本当にこの手に戻されているのかどうか。
マーニットが先に外に出た。そして後部座席に回り、車のドアを開けた。
「はい、どうぞ」
「あ、有難うございます……」
促された事で、典子はようやく安心した。恐る恐る、足から外に出る。そして完全に外に出て、外気が肺の中に入った瞬間、どっと何かが訪れた。思わずよろめいていた。
「だ、大丈夫!」
マーニットが声を上げて典子を支えた。
「す、すみません……」
「典子ちゃん」
マーニットの腕につかまりながら、典子は目を上げた。真摯な目が、典子を射抜く。
「何度も話した通り、今、あなたの体は普通じゃない。それを、ちゃんと理解してね。出血なんてもってのほかよ。場合によっては、とてつもない惨禍を生みだす元になる」
「……はい」
「それから、もう一つお願い、あなたの周囲で、何があっても吃驚しないでね」
「え?」
「色々、保険をかけたのよ。迷惑かも知れないけど、我慢してちょうだい。皆のため、それ以上に典子ちゃんの為でもある」
典子は、マーニットの目を見つめ返した。
今、自分は異常事態にいるらしい、それだけは十分理解できる。
それなのに、このマーニット達には、テロリストやカルト団体など、危険な集団の持つ狂信的なものや、暴力的なものは全く感じられなかった。むしろ、理性的で、整然としたものだった。
そしてこの女性は、信用しなくてはならないと、典子に思わせる瞳を持っていた。
「これから、あの子たち二人と仲良くしてね」
「あの子たち?」
「細かい事は、あの二人が説明するから」
「せつめい?」
聞き返そうとした時、マーニットが柔らかく典子を押した。
「行ってらっしゃい。それから、気をつけてお家に帰るのよ」
車が走り去る。それを見送りながら、不意に典子は泣きだしそうになった。
……お家に帰るのよ。
帰って来た、ようやくそう思えた。
砂や血で汚れていた制服は、きちんとクリーニングされて、いつもより綺麗な程だった。
靴も、鞄も同様だった。見た目、何も変わっていない。
あのマーニットから、今の自分の身体について説明され、繰り返し念押しされたのだが、あまりにも話が突拍子過ぎた。見た目にも感覚的にも、以前と何の変わりないせいもあって、自覚が無い。
クラスメイト達の、典子に対する変わりない態度も、更にその自覚を薄めていく。
「おはよー、典子、風邪は治った?」
「昨日のノート写させてあげよう。ジュース一本」
そうか、昨日欠席だったと典子は気がついた。あのカスノさんが、色々手配したからとか言っていた。
「今日転校生、来るんだってさ。しかも二人も」
後ろの席から、おしゃべりの声が聞こえた。
「二人同時? それって珍しくない?」
「ほら、こないだサツキちゃんと曽野さんと冨永くんが、同時に出て行ったから、その人数調整じゃない?」
そういえば、進級してすぐ、生徒がこのクラスから三人も転校して出て行ったのだ。
思ったのは、それだけだった。それだけだったのだが。
……その転校生二人の顔を見た瞬間、クラスの中は静まりかえり、そして騒然となった。
「やったぁぁぁっ」
誰かの雄叫びが、引き金になった。担任教師の神崎が名簿で教卓を叩きまくったが、生徒二四名の歓喜の渦に砕け散る。
女子は、桂圭人という男子生徒に嬌声を上げ、男子は九鬼蓮という女子生徒にぼうっと見惚れている。
そして、典子は氷結していた。
「あの、あの、あの……」
「私たちの顔を、憶えているようだな」
蓮は典子の右の席に座った。
「マーニットさんから、聞いているだろ」
圭人が、典子の左の席に座った。
「典子ずるい!」
「せんせー、席替えを希望します!」
欲望と嫉妬渦巻く教室で、混乱する典子の隣、台風の目となった二人の会話が聞こえる。
「席替えは困るな。監視対象者の隣の席をキープさせてもらわないと。なあ蓮」
「席替えとは何だ」
「授業を受ける位置の配置換えだ」
「監視にはこの位置が最適だ。場合によっては、もう少し寄付金を積んで中止させるか」
「いや、あの担任への賄賂で良いだろ。カスノさんの調査じゃ、家のローンが重いらしい」
典子は氷結を、溶かす事が出来なかった。
その日一日を、どう過ごしたのか、典子の中で空白になっている。
とにかく、ずっと二人に挟まれていた気がする。背後から、横から前から、ずるいだの、この二人とどういう知り合いだだの、席を交代しろだの、罵声と懇願の中で一日が終わった。
校門を出ると、ふらふらになっていた。
「貴方たちって、確か、あの浜辺で、施設で……」
浜辺であの異常者達から、自分を助けてくれた二人だ。
そして、自分に銃を突きつけた女の子。白衣のすそをめくろうとした男の子。
「その通りだ」
九鬼蓮が帰り道の道路脇で、手を上げてタクシーを止めた。桂圭人が、典子を車に押し込みながら言った。
「まずはお家に帰ろう。話はそこで」
「お、お家って誰の?」
「キミの家」
蓮がタクシーの運転手に、そらで自分の住所を告げるのに典子は驚く。
自宅を見た瞬間、典子は、タクシーを飛び出した。
「お母さんっ」
家の前に停まっているトラックを横切って、典子は玄関に飛び込んで叫んだ。
母の百合子の靴がある。懐かしい家の匂い。
「おかあさん、お母さんっ」
「お帰り、典子」
リビングから顔をのぞかせたのは、紛れもなく母の百合子だった。百合子の腕に飛び込んで、典子の力はどっと抜けた。色々あった。でも帰って来た、母の匂いを嗅ぎながら、涙ぐみかけた瞬間だった。
「いらっしゃい、圭人くんと蓮ちゃん。典子と一緒だったのね」
「……え」
背中に感じた気配に、母の呼びかけ。典子は恐る恐る振り返り、そして絶句した。
「引っ越し屋さんも来てくれて、もう、あなたたちの荷物も届いているわよ」
「有難うございます」
「これからお世話になります」
桂圭人と、九鬼蓮が家のリビング前に立っていた。
須藤家のリビング。
「この二人はね、お父さんの旧いお友達の子供さんたちなの。その友達は、今外国に住んでいてね。来年あたりに帰国するんだけれど、この子たちは大学受験の為に、同時に一足早く帰国してこられたの。それでしばらく、我が家でお預かりする事になったのよ」
これが、マーニットのいう『保険』だと気が付いてはいたし『驚かないでね』の意味がこれかとは思ってはいたが、手回しの早さに典子はついていけず、ソファで母と並んで座り、圭人と蓮を前に呆然としていた。
「九鬼蓮です。どうぞよろしくお願いします」
自分に銃を突きつけた女の子が、頭を下げた。
「桂圭人です。お世話になります」
確かこの子、日本刀で女を輪切りにしたんだっけと、圭人の笑顔に怯える典子の横で、百合子は「あら」と首をかしげた。
「蓮ちゃんと圭人くんって、双子の姉弟じゃなかった?」
姓が違う。微かな不審が百合子の目に走ったが。
「あ、すみません。俺、ずっと母の姓を名乗っていて、つい」
圭人の頬が赤らんだ。あらま、と何か思い当たったらしい。百合子が慌てた。
「ああ、そういうことだったわね、ゴメンなさい」
絶対姉弟じゃないでしょ、と内心ツッコミを入れる典子の横で、百合子はにっこりと笑顔でその場をしめた。
「これから、よろしくね。四人で仲良く暮らしましょ」
何があっても、吃驚しないでねと、マーニットは確かに典子に言った。
「……あの、マーニットさんが言っていた『保険』て、あなた達の事?」
「その通りだ」
「御名答」
蓮と圭人が肯いた。百合子が食事の支度に立っている間、圭人と蓮は典子の部屋にいた。
「……私が、ヘンな病気に感染している事だったわね」
「何度も話した通りだ」
制服姿のままの蓮が、スカート姿で床の上で立て膝をついた。
「お前は現在、急性代謝異常を引き起こし、大脳新皮質を破壊する『グールウィルス』に感染している。一類感染症の中でも最も危険で、場合によっては人類そのものを脅かしかねない」
「ピンとこない」
「そうだろう。私から見ても、お前に異常は全く見られない。実際にこの目で感染者に噛まれたのを見て、その後に出た検査結果を知らなければ、信じられないところだ」
「それに、私も体、全然なんともないし」
何だか、変な疑いを持たれているような、無実なのに分かってもらえない気分だった。
実際、気分が悪いも何も、全く無いのだ。見た目の変化も無い。風邪の兆候すらない。
「もう治っているとか、もう大丈夫って事ないの? ほら、ふくらはぎの噛み跡だってもう薄くなってきているし、別に体だって何ともないんだけど」
「そんな風だから、俺たちが来たんだよ」
床であぐらをかいた圭人だった。
「君は間違いなく感染しているんだよ。下手したら国を一つ、滅ぼすくらいのウィルスを君は飼っている。それなのに自覚症状がない、それが一番厄介なんだ」
「……え」
圭人の鋭い目と声に、典子は声が出なくなった。
「言っておく。本来なら、君は殺処分されてもおかしくなかった。超ド級に厄介なウィルスを飼っていて、今は症状出なくても、いつ発病するかも分からない」
脅かさないでよ。典子にその一言すら許さない表情で、圭人が続ける。
「だけどもしかすれば、君の血液抗体がウィルスワクチン開発の元になるかもしれない。だから支部は君を生かした。そして拘束するわけにもいかないから、一度ここに戻した。交換条件は、ワクチン開発の協力、そうだろ?」
マーニットという、あの女性の顔を思い浮かべて典子は肯いた。
「俺たちは君の監視だ。自覚症状が無くても、ウィルスを持っている君が、世の中に病原菌をバラまかないように、それから、もしも発症したらいつでも動けるようにだ」
典子の頭に浮かんだのは、あの白い服の男女だった。
ふいに、頭の中が揺れた。この二人に殺された男女。異常者と一言で片付けられない存在だった。
「あれが感染者だ」
自分の心を読んだように答える蓮へ、典子は思わず声を上げていた。
「だから、殺したの?」
「言っておくが、あれはお前が考えているような殺人じゃない。あの二人は、すでに人権を剥奪されたウィルスの標本だ。あんなものが世の中に流出するほうが厄介だ」
蓮の言葉に、頭の一部が冷えた気がした。つまり、保菌者である自分は、ああなる可能性を持っている事。そして、もしも発病した時は……
「もしも、よ。もしも、もしかしたら、貴方たち、私をその、どうかするって事?」
「あーやだやだ」
突然圭人が立ちあがった。
「全部言わすな。俺だってやだよ」
乱暴に「届いた荷物見てくる」といい残し、部屋の外へ出ていく。
蓮が立ち上がった。
突然、典子に近づく。顔と顔が至近距離まで近づいた。
蓮の指が耳の裏にかかった。
髪の毛をすくい上げられる。そのしぐさにどきりと心臓が大きく打った。
「あ、あのあの……」
耳の裏に、蓮の指が滑らかに動くのを感じた。
「な、なにしてるの」
典子は息を呑む。距離が近すぎる。
この娘、髪も長いし、お、女の子同士だよね。いや、でも、この子、男みたいな言葉遣いするんだな。立ち振る舞いも男だし。
しかし、とんでもない美形だ。
完璧な輪郭に、完璧な造りの目鼻が狂いも無く収まっている。美を売っている芸能人とかモデルとは別格の美しさ。女だろうとなんだろうと、ここまでくれば、性別はどうでも良くなるくらい。
つい、ぼうっと見惚れてしまった。
綺麗な口唇が動いた。少女にしては、やや低めの音楽的な声。
「通信機をつけた。耳ではなくて、直接骨に響いて音を伝えるから、雑踏の中でも音はクリアに聞こえる。また、お前の周囲の音を私たちはこれで拾う」
「え」
「お前の耳の裏にかけている。クリップ型だから、耳たぶに隠れて目立たない。そのまま入浴しても潜水しても構わない。耐水性だ」
「か、顔近いですうぅ」
その時だった。耳のそばで、音声が爆発した。
『何だよ、蓮にときめいてんの? 迫られてるとでも思った?』
「えええ?」典子は首を左右に振った。だが圭人の笑い声は聞こえるが、姿は無い。
『今、俺、隣の部屋。蓮、聞こえるか?』
「良好だ」
蓮が隣の部屋へ振り向き、長い黒髪をかき上げた。一瞬、金属製のクリップをかけた白い耳たぶの裏を見せて、典子へ再び向いた。
「安心させるわけじゃないが、グールウィルスそのものの感染力は低い。経口感染か血液感染のみで、熱にも弱い。飛沫もない。つまり普通の風邪ウィルス以下だ。だが、性的接触は避けろ。今、交際している相手はいるか?」
「いませんっ」
圭人の言葉が、明瞭に聞こえた。
『そうか。告白するのもされるのも、今は止めてくれよ。処女喪失と世界滅亡がワンセットだ』
典子は隣の部屋を指して、蓮に聞いてみた。
「殴りに行っていい?」
「殴るだけなら良い。接触感染の危険性は無いからな」
「ありがと」
典子は部屋を出た。
―蓮は、わずかに目を細くすると、耳にかかったクリップ型通信端末を一度切った。
隣で起きている争いの罵声や悲鳴が、うるさかったからだ。
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