第3話 『ヒトの味』

 目を覚ますと、太陽の日差しが目の奥に突き刺さった。

 実際、網膜に鈍い疼痛が起きた。かかっていた毛布を頭まで引っ張り上げて、太陽の光から逃れるために部屋の隅に移動する。ビール缶を倒し、タバコの吸い殻を踏みつけた。スナック菓子の袋を蹴り飛ばす。砕けたチップスの中身が散乱した。

 仲間だったミツグの家の、二階に得也はいた。


 ミツグの家は雑多な下町の一画にある。家の両隣り、壁と壁の隙間がほとんど無い、昔ながらの一戸建てが立ち並び、隣家同士は肩を寄せ並べて生活していた。

 その一番端にミツグの家はある。

 一階に台所と風呂場、食堂と四畳の和室。そして二階には六畳の和室が二つ、この三DKの家は常時十人前後の無職、有職の少年たちが混在しながら寝泊まりしていた。

 ミツグの母親はリエという。

 十代でミツグを産んだいわゆる「ヤンママ」は、母子家庭にダラダラと滞在する少年たちを諌めることはなかった。むしろ、息子の仲間の女王然としており、皆と共にタバコを吸い、酒を飲んで馬鹿騒ぎに加担する事もあった。

 狭い家の前には、常に少年達のバイクの群れが停まっていた。少年達の出入りが多く、夜中まで騒いでいるこの家が、近所迷惑でないはずはないが、リエが言うには「ダイジョーブダイジョーブ、近所はオジイオバアばっかだし、前にアタシのカレシがナシつけて、大人しくさせたから」と平然としていた。

 この二階の何も家具のない6畳の和室に、得也はいる。隣にミツグの部屋がある。

 いつも誰かが転がっている部屋には、今は得也しかいない。

 得也は、固い毛布の中で頭を抱えた。あの夜どうやってここに戻ったのか、どれぐらい寝ていたのか、記憶も時間の観念も無い。頭の中はぼんやりする。あの世の悪夢から覚めたのか、まだ続いているのかも分からない。

……あの出来事は、本当にあった事なのか。

 得也は周りを見て思った。だが、この家にいつもいる仲間たちは誰もいない。毛布とカーテンを陽光の盾にして、そっと窓から下を見下ろす。バイクも全て無い。

 得也はうずくまり、自分に言い聞かせる。

 夢だ。あんな事が現実であるもんか。

 あんな狂った世界が、あっていいはずがない。

 あの夜の自分を思い出した時、厭な汗が肌にじわりと滲む。口の中がねばついた。

 突然、背後で声がした。

「……え、ちょっと、皆ドコ行っちゃったのぉ? 」

 背中に立った誰かが、得也の背中を押した。得也は振り向いた。

「ちょっとぉ、誰もいないじゃん。とっくんだけ? バイクも無いしさぁ、何よ、このリエさんを仲間外れぇ? 」

 得也を見下ろしているのは、ミツグの母親のリエだった。長い金髪、蛍光色と原色が混じったTシャツとレザーパンツ、細い体が自慢らしく、いつも体の線がはっきり出るファッションが多い。

 すでに三〇は過ぎているが、息子とその仲間達には「おばさん」ではなく、「リエさん」と名前で呼べと強要していた。

「とっくんも、仲間外れぇ? あれ? でもバイクは無かったね。貸したの? 」

 リエは前に回り、腰を下ろして得也の顔を覗き込んだ。

 得也は目を逸らした。元々この母親を嫌悪していたが、今はそれ以上だ。

 悪夢の中で、自分が殺したミツグの母親なのだ。

「とっくんも、仲間外れなんだぁ~、そうかぁ、あんたって、他の皆と違ってアタマ良いもんねぇ。イイトコの子だし」

 声が聴覚に絡みつく。

「そういえばさ、私ととっくん、二人きりって初めてじゃない? とっくんとはリエ、ほとんど話した事ないもんねぇ。ねえ、何か私の事避けてるしさ、何で? 」

「……」

「今、二人っきりでしょ? 丁度いいじゃん、お話ししようよ」

 首の後ろを這いまわる指の動きが気持ち悪い。

 首から背中へざわざわと嫌悪感が流れ落ちていくが、振り払う気力が湧かない。

 避けていたんじゃない、気色悪いんだよアンタは。

 得也は内心で吐き捨てる。

……あんたと矢田が、ヤッているのを見ちまった以来な。

 そして、息子のダチのフデオロシをしてやったと、これで三人目だと道を歩きながら大声で携帯に話していたのを聞いた以来。

「あたしさぁ、とっくんイイなって思っていたんだ。ハンサムだしさぁ、なんかこう、他の子とは違うなって思っていてさぁ」

 いい年したオバサンのくせに、何でべったりとガキのような、妙な声を出すんだろう。

「ねえ、カノジョとかいるのぉ? いるでしょ? とっくんカッコいいもんね」

 何が言いたいんだよ、だからどうだって言うんだ。

……だけど。

 得也は唾を呑んだ。リエの指が、ジーンズの膝の上に添えられている。その指と、細い手首を得也は見つめた。

 柔らかく、水気を含んだ手だ。レザーに包まれた太腿は張り詰めている。

 そして白い咽喉、甘い体臭。

……ミツグの味が、口の中に蘇る。

 やめろ、得也は自分に無言の罵声を浴びせた。

 昨夜はどうかしていた。あれは俺じゃない、普通ならそんな事するか? 出来るか? 

 もう二度としなきゃいいんだ、そうすればあれも悪夢の一つとして封印出来る。二度とない。無かった事にしてしまえ。

……やめろ! 

「どおしたの? この手? 」

 リエが得也の手に気がついた。その手を握り、声を上げた。

「紫じゃん!やばいよ、ねえ!」

 ねっとりとした手の感触に、嫌悪感が走った。掴まれた手を、得也は思い切り引き戻す。

バランスを崩してリエが得也に体をぶつけてきた。リエの顔が胸に埋まり、そしてすぐ得也の顔の方へ上がる。

「やだぁ、とっくん……」

 頬が上気している。

 リエが肩に顔を寄せて来た。

 薄く産毛のある黄色みを帯びた肌、それに混じる桃色の頬は、水密桃に似ている。

 得也の両の腕が、リエの身体を巻いた。

「だめよお、誰もいないからって……ワルイ子ね……」

 女の白い首筋は、水気と弾力に富んでいる。薄い肩が、得也に向かって噛みつけとばかりに震えている。

 食欲が得也を殴りつけた。ぐしゃりと自分の人間性が潰れるのを感じた。

 一度越えたハードルは、低い。

 たまらず、リエの首筋の白い肉を歯で喰いちぎった。

「ぶぐぎゃぁぁっぁーっ」

 抱きしめたリエの身体がピンと張り、硬直した。そしてもがきはじめた。

 あふれる液体を、得也は吸った。生温かく、ねっとりしたリエの血が咽喉を潤し、口腔に広がる鉄の甘い匂いが、今までの飢えを押し流してゆく。

 暴れもがくリエの声は、もう人間ではなくなっていた。

 背中に食い込むリエの爪を感じながら、止めろと理性は叫んでいたが、口に広がる美味を止める事は出来ない。

 肉は程良い弾力があり、どこか果実のように甘酸っぱい。人それぞれにある「体臭」という芳香、昨夜に知ったばかりの珍味であり、美味だった。咀嚼し、呑むたびにあふれる陶酔と幸福は、やはり昨夜と同じものだった。そして咽喉に肉が通った瞬間に、それは得也の生命力に転換される。

 止められない。

 悲鳴はしばらく続いたが、時が経つにつれ、リエの体は徐々に動きが鈍くなり、やがて痙攣するだけになった。

 暴れていた腕がだらんと下がる。死んだ者はもう生き返らない、喰ってしまえよと悪魔が囁く。渇きと空腹がそれに同調した。

……リエの味が、昨夜の場面を脳裏に色濃く再現する。

 あの夜の出来事。ミツグを喰った事は夢ではないと、得也は思い知らされながら、食欲の奔流に巻き込まれる。

 あの夜と同じように、得也はリエを貪った。同じ種の肉だからか、それとも母子だからか、味はよく似ている。あの夜、矢田はコロを食い荒らし、そして他の仲間に鉄パイプで殴り殺されて、同じように貪り喰われた。

 あの夜、誰かが誰かを殺して喰った。そして、殺されて喰われた。

 生き残ったのは得也一人。

 何故この肉は、いくらでも食えるのだろうと、得也は関節の骨が見え始めた太腿をねじってもぎ取り、両手で持ち、歯を立てた。焼く事も煮る事も要らない。そのままでいい。

 そして満腹を感じる事が無い。食べれば食べるだけ、自分の血となり、肉となり、生命力に変わっていく。ずっと食べ続けても良い程に。

 正に究極の味だった。


 ……あごが疲れた。肉という肉を引き千切り、歯でそぎ落としてひたすら咀嚼している間に、徐々に部屋が薄暗くなった。

 気がつくと、夜だった。得也は電気を点けた。

 蛍光灯の下、畳の上で、鼻も耳も、目玉も無い、赤い塊となったリエの首がコロリと動く。首から下は、骨と喰い残した臓物、赤い残骸だった。

 もぎ取ったリエの四肢が散乱している。骨に肉はほとんどない。

 二度も人を喰った自分に対して、得也はしばし呆然となった。喰い散らかしたリエは、すでに人間の形を無くしている。それが人間の死骸であるという現実味が薄れ、食べた後の魚の骨を見ている気分だった。

得也は口元を拭った。

 キノに喰われた手を見る。まるでゾンビ映画を元にして作られた、ビックリ玩具だ。紫と茶色に変 色した肉に、骨らしいものが見えている。血は流れていないが、治癒している気配は無い。

「……」

 得也は、風呂に入った。そして風呂にある鏡で、自分の身を映す。

 姿は映っている。

 身体を、そして頭を洗った。甘い血の匂いを流すのは惜しいが、その匂いが外では禁忌である事を、ちゃんと理解している。

「……どうしようか」

 得也は嘆く。それ以上でもそれ以下でもない。確か過ぎる自分の身の異常だった。

 現実感がない。まるで薄いガラス一枚を通して、世界を見つめているようだ。

「病院?」

 思いついた言葉に、渇いた笑いが漏れた。

「診察でなんて言おう? 二回も人を喰っちゃいましたって? しかもすっゲェ美味くて、止まらなかったんですって言うか? 」

 どの科に行けばいいんだ? まずはこの手の治療で外科? それとも精神科?

 受けとめるには、あまりにも事は異常過ぎて、思考がまとまらない。

 ……外見と自我に変わりは無い。

 キノに一部を喰われた手を見つめる。毒々しい茶色の面積が広くなっている。

 この手の治癒どころか、自分のこの体を維持するためには、普通のたんぱく質の摂取で不可能だと、本能が教えてくれている。食べないと、俺は腐るのだと。

「……どうすりゃいい? 」

 どの科にかかる以前の問題だった。病ではない、全てが根本的に狂っている。医学書の内容で済む話じゃない、病院は無理だ。

 それなら教会? 寺? 悪魔つきとか悪霊のしわざならそうだろう。そこで言うのか? 浜辺で男女二人連れを襲いました。そうしたらどういった訳か、仲間が次々と殺されて、生き残った奴は発狂しました。発狂して共食いを始めましたって。

 そして、俺も人を二度も食べましたと、神様、どうにかして下さいと言えるか?

 実に基本的な事柄に、得也はようやく気がついた。

 警察に通報される。

 通報されれば、逮捕される。まだ前科はないが、殺人で少年院だ。自由が奪われる。

 得也は風呂から上がった。

 そしてリエの残骸を隠す。リエは最近、彼氏と上手くいっていないらしかった。 

 近所付き合いも無い。リエを訪ねてくる存在は、今のところない。

 風呂で、もう一度リエの血と臓物の匂いを流し終えると、ミツグの服を適当に選んで身につけ、得也は家を出た。

 ちらりとミツグの家を振り返ると、当り前だが静かだ。家の前にいつも停車している複数のバイクも、今は一台も無い。

(この家が、これだけ静かなのは初めてなんじゃねーかな)

 何となく、得也はそう思って歩き出した。

 それだけだった。


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