第2話 『接触』

 夜の浜辺を、制服姿の女子高生が歩いている。

 海の反対側に車道はあったが、車も通行人も無く、街灯の明かりも、ガードレールの下にある浜辺には届いていない。

 少女はやがて立ち止まり、眼鏡をかけ直して、月明りの下で黒く広がる海を見つめた。

 静寂と潮騒、それが今の音の全てだった。


「一九時半か」

 今日は家の門限を守る必要はなかったが、須藤典子は腕時計で時刻を確かめた。

 感情の爆発にまかせた揚句、乗っていた電車を飛び降りて、そして次の電車に乗る気にもなれず、少々頭を冷やそうと改札を出た。海が向こうにあるので、気分直しとクールダウンの為に、ここにやって来たのだけれど。

「言い過ぎかどうかは知れないけど、間違った事は言ってないわよ」

 さっきから心の中で唱えていた文句を、典子は口に出してみた。

「絶対に、間違っていない」

 バスケ部の、他校との練習試合の帰りだった。三年生は今年の夏で引退、最後の夏の大会が始まる。それを目前にした練習試合は、それ以上の熱戦で開始された。

 相手高は、何度かトーナメント戦でぶつかった事のある相手で、実力や過去の試合成績もほぼ互角。無意識でもどうしても、相手にライバル意識を持ってしまう。

 元々、典子の通う聖英学園、バスケ部は強豪でも名門でもない。それでも、やっぱりライバルと思う相手には勝ちたいと思うのが人情だ。特に引退試合目前とあって、夏の大会のプレ一回戦だった。

 結果は、清々しいほどの残酷な結果で終わった。大差で負けた。

「どうしてあんなディフエンスにやられるの!」

 練習試合とはいえ引退試合直前で、無様な負け方をしたショックで、三年のキャプテンの市野良子が、皆の前でレギュラー選手の山井加奈に詰め寄った。

「何度もボール取られて、パスも取れない。おまけに、何回シュートミスしたのよ。あんたが皆の足を引っ張ったのよ!」

 加奈は、言い返さなかった。黙ってうなだれていた。

 良子の怒りは、帰りもずっと続いていた。実力もあり、リーダーシップもある。だけどその気質は、裏を返せば負けず嫌いな女王様だった。

「電車空いているわね。試合には負けたけど、早く帰れるって良い事もあるものね」

 バスケ部員は、黙っていた。電車の乗客は部員達以外おらず、空気は鉛だった。

「練習試合だから、負けてもまあいいやとか思ってやしないわよね。このまま大会に出たんじゃ、今までの練習が無駄。報われやしないわよ」

 加奈は、黙って顔を伏せている。涙をこぼさずに、ただ良子の怒りを受けとめていた。

 それを無反応ととったか、反抗と思ったのか、良子が声を荒げた。

「何とか言いなさいよ!」

「あれは完全な作戦ミスです! あの試合にあの布陣はないわよ!」

 車内が、凍結した。

 ああ、言ってしまったと典子は少々悔やんだ。しかし、山井先輩が相手チームに集中攻撃されていたのは、一番能力が高い選手だったからだ。それをフォローできなかったチームにも問題あるし、自分の作戦ミスに気がついていない市野キャプテンは、もっと問題だと、ずっと腹にすえかねていた。

 一斉に矢のように突き刺さる皆の目を、典子は背筋を伸ばして迎え撃った。

「相手チームは、完全にここの選手の動きや、攻撃パターンを読んで、山井先輩が要だと見抜いていました。だから、要の選手を徹底マークして集中攻撃させて、ペースを崩すように仕向けたんです。そうなると、力技は逆効果です。ある程度トリッキーな攻めか、裏をかくか。どちらにしても、定石のフォーメーションを使わないくらいの慎重さが必要だったんです。作戦ミスです」

 ぐい、とブレザーの背中が引っ張られた。後ろに立つ、同じ二年の向島ミユキの手だ。やめろとつついているその手を、典子はそっと外した。もう遅い。

 典子は無意識に眼鏡を押し上げた。

「負けるのは、悔しいし悲しいです。練習試合とはいえ、こんな結果に終われば、頭に血が上るのは分かります。でも試合って、頑張ったから絶対に勝てるものじゃないし、報われるものじゃないです。でも、負けて分かる事もあるじゃないですか。それを知ろうともしないで、一人に責任を押しつけるのは間違いです」

「ああ、そう」

 女王様の目が、怒りに燃える。通路に立つ部員を押し分けるように、典子に歩み寄ってくる。拳を作り、肩が震えていた。

「須藤さん、あなた……」

「何度でも言います。あれは個人ではない、全体的な作戦ミスです!」

 目の前で、平手が振り下ろされた。とっさに避ける。良子が平手を空振りし、上体のバランスを崩すのと、電車が大きくカーブしたのがほぼ同時だった。

 カーブの遠心力で、良子がよろけた。そして誰かが置いた足元の大きなスポーツバックにつまずいた。

「きゃぁっ」

 電車の床に転ぶ良子と、部員たちの悲鳴が重なった。電車が駅に着き、昇降口が開いた。

 典子はホームに飛び出した。


「とにかく、間違った事は言っていないと思うの」

 海に向かって、典子はきっぱりと自分に言い聞かせた。そして、反省をつけ加えた。

「でも、後に残された山井先輩やミユキ達は、悪いことしちゃったから、明日謝る……と、いっても、部活に顔を出しにくいわね」

 気を取り直すために、とぼとぼと歩きだす。

「ええと、こっちに歩けば、次の駅の方向へ行くのよね」

 一駅くらい、気晴らしに散歩しよう。

 母の百合子は、泊まりがけで同窓会に行って今夜は留守。そして父は単身赴任中で、今夜は独り。多少家に帰るのが遅くなっても、構わない。

 五月中旬とはいえ、海辺の夜は冷えて首筋が寒い。典子はショートカットの髪を少し後悔しながら歩いた。革靴に砂が入るが、後で払いだせばいい。

「?」

 典子は足を止めた。どこかでサイレンの音がする。

 上の道路を見上げた。パトカーか消防車か分からないが、すぐそばで事件か事故でもあったのなら、気味が悪い。

「散歩、止めとこ」

 サイレンの音を聞いて、典子は決めた。サイレンの音に鐘の音が入らないとすれば、それはパトカーだ。ちょっと用心したのだ。

 その時、人の気配を感じて典子は目を浜辺に戻した。そして胸を撫で下ろした。

「なあんだ、カップルか」

 男と女だ。

 月明かりに照らされた夜の浜辺は、恋人たちの散歩に十分相応しい。しかし、その二人の姿がはっきりするにつれて、典子は異質なものを感じ始めた。

 二人共、全身真っ白だ。そして、何か大きな物体を引きずってこちらにやってくる。

 向こうから風が吹いた。潮の匂いに、鉄と排泄物の臭気が混じる。

 男と女が、それぞれ手にした物に、典子の細胞が瞬間凍結を起こした。

……最初は、動物の死骸だと思った。

 骨や内臓が露出したその死骸は、大型犬よりも大きかった。だが、毛皮は無い。五本指の人間の手足があった。だが、首は無かった。

 大きすぎるテディベアと手をつなぐ子供のように、二人の男女は手足つきの胴体と手を結んで歩いてくる。

 典子は、回れ右をした。

風に乗って、腐臭が追いかけてくる。典子は滅茶苦茶に走っていた。

 頭の中で、危険信号とブザーが暴れ狂う。足は砂を振り払い、筋肉の力を全て出し切らせて、典子は逃げる。

 ざくざくと、砂を蹴る音が後を追ってきた。

「!」

 何かにつまずいた。顔が砂に突っ込んだ。典子は咳きこみながら、顔をこすりながら立ち上がる。

 振り返ると、すぐ後ろに二人がいた。

 異様の一言だった。

 白い衣服には、あちこちに黒い染みがある。その染みの色は、不吉すぎる色だった。 

 典子は、とっさにつかんだ砂を二人にぶつけた。そして、逃げる。

「きゃあ!」

 また、何かにつまずいて転がった。立ち上がろうとした瞬間、自分がつまずいた物に気がついた典子は、声にならない悲鳴を上げた。

「……っ」

 人間だった。

 ゆっくりと上がった顔には、眼球が無かった。その腕が典子の足首をつかんだ。

「やだぁぁっ」

 ふくらはぎに、激痛が走った。

 その時、典子のふくらはぎに噛みついている男の頭半分がはじけた。飛び散った脳漿と血が、典子に降りかかった。胴体に、ぐいと何かが巻きついた。

「きゃああっ」

 空に高く放り投げられていた。このまま墜落する、そう思った瞬間、誰かの腕の中にキャッチされて納まっていた。そして、下ろされた。

 さっきの場所から、数メートル離れた場所で、典子は座りこんでいた。若い男の声が降って来た。

「ここにいろ」

「……あ」

 助かったの? 見上げた典子の目に入ったのは、全身黒い格好をした男だった。ゴーグルが男の顔半分を隠している。脇に長い得物を差している。

 男が脇から抜いた武器に、典子は絶句した。日本刀だった。

「じっとしてろよ!」

 典子に叫んだ後、男が走り出す。その先にあの男女がいた。

 そしてもう一人。長い髪と、細い体つき……女だ。

「……何が、起きているの?」

 むせかえる血の臭いの中、典子は呆然と呟いた。自分をここに放り投げてくれたのは、あの髪が長い女らしい。そして、さっき自分を空中キャッチしてくれたのは、さっきの男。

 二人が、背中あわせにあの男女と真っ向から対峙している。

 男が、何かを振り回しながら跳躍した。

 着地と同時に、武器を女に向かって叩きつける。その武器がさっきの死体である事に、典子は気が付く。

 女はすでに、流れるように移動していた。こん棒代わりに振りまわされる死体が、第二打、三打と女を襲う。流れるように、女はその攻撃をかわし、男との間合いをうかがっている。

 女が漆黒の空に舞った。銀の光が空を走る。先端にボールがついた形の銀のチェーンだった。その球が空を切り裂き、男の片側の目を突き破り、後頭部から飛び出した。

 さっきの若い男が、白い女に刀を構えている。

 若い男の周囲をぐるぐると、白い女が猛獣のように回っている。

 若い男は、構えたまま動かない。背中にも目が付いているのかと思うほど、動じずに立っていた。

 背後から、女が男に襲いかかった。

 同時に、男が刀を抜いた。振り向きざま、白刃が弧を描いて一閃した。

 一瞬の間の後、女の腰から上が、どさりと足元に落ちた。切断された下半身が倒れた。それはスラッシャー映画の、人間切断だった。

 並んで動かなくなった二人の横に立ち、女は腰から何かを取り出し、倒れた二人の傍に放った。

「えぇっ?」

 典子は声を上げていた。

 砂浜に黒い穴が出来た。穴は広がり、男の女に死体が穴にかかる。吸い込まれるように落ちていった。完全に二人の男女の姿がなくなると、穴は不意に消え、何事もなかったように地面に戻る。

「大丈夫?」

 いつの間にかやって来て、自分を見下ろす若い男と、その仲間らしい女に典子は気がついた。

 気がついた。声や体型からすると、二人とも成人ではなく、同じくらいの年齢だ。

「ケイト、気を付けろ」

 彼女の手に握られている銃に、典子は気がついた。狙っているのは、典子の頭だった。

「この子がどうしたよ、レン」

「あれに噛まれていた。ふくらはぎだ」

 彼が息を呑んだのが分かった。

「どうする? まだ発症はしていないようだが、時間の問題かもしれない」

「取りあえず、報告する。今発症していないなら、ここで処分か否かは、俺たちには決められない」

「……ショブン?」

 自分の手足が、血と生臭い肉の破片にまみれている事に、典子はようやく気がついた。

 ぐらりと、目の前が揺れた。


 意識が戻ると、白い天井が目に入った。

「……!」

 典子は跳ね起きようとし、起きられない事に気がついた。上半身が、腕ごとバンドで拘束されている。着せられている白い検査服が目に入った瞬間、あの白い男女がフラッシュバックに蘇った。

 内臓が飛びだしそうな程、絶叫していた。絶叫は、周囲に張り巡らされたガラスに吸収された。

「いやだぁっ、放して、助けて!」

 ガラスの箱の中で、泣き叫んでいた。

「何でよぉ! 帰してよ、何もしていないのに、何も悪い事してないっ」

 しばらくして、耳元で声がした。

『待って、落ち着いてね』

 枕から聞こえたのは、柔らかな女性の声だった。スピーカー内蔵なのか。同時に、ゆっくりとベッドの背が起き上がっていく。

 上半身が起きた体勢になったおかげで、典子の目の前の視界が広がった……といっても、眼鏡がないので見えない。

 ぼやける視界の中、二つの人影がガラス箱に入って来た。突然目の前がクリアになった。 手が使えない典子に眼鏡をかけてくれたのは、モスグリーンの上下を着た、同じ高校生くらいの少年だった。

「事態発生八時間三二分後、対象者は時刻〇四〇四に覚醒。興奮状態にあるも、発症の兆候なし」

 白衣を着た女性医師が、何かに向かって報告した。典子の母より若い。浅黒い肌は、東洋人ではあっても日本人ではなかった。

 突然、体への圧迫感が消えた。手足の拘束がとけたのだ。

「言語機能も障害なし」

 少年の声が、あの浜辺の男の声だった。助けてくれたあの人だ。気がつくと、足元に移動している。少年の手が、患者服の裾をつまんで引き上げた。

「エッチ、何するのよ!」

 反射的に、脚を少年の顔に向かって蹴り上げていた。ふくらはぎから脚の付け根近くまで、裾が思い切り広がった。

「キャァぁっ」

 典子は剥き出しになった脚を隠した。羞恥で染まる顔を上げると、少年の両目は女医によって手でふさがれていた。

「運動機能異常なし。それから、カツラ三等陸曹のわいせつ行為については、後で査問会にかけます。女性職員は全員、後ほどミーティングルーム集合」

「あのう、マーニットぐんいどの。自分は別室のモニターでご覧の皆さまに、彼女のふくらはぎにある噛み傷を、示そうかとですね」

「ゴメンなさいね、須藤典子さん」

 女性は、少年を無視で切り捨てながら、典子へ笑顔を向けた。

「怖い思いしたわね。でも、もう心配しないで」

 話が分かりそうな、常識的な大人に巡り合えた安堵感が、典子を脱力させた。もういい、どうだっていい。帰りたい。

「……助けてくれて、有難うございます」

 典子は頭を下げた。

「あの、ところでここは、どこなんですか? 病院?」

 ガラス箱に入ったハムスターの気分だった。しかし、外も真っ白の部屋だ。

 女医と少年が、微妙な表情を作った。お互い目と目で何か話している。

 不意に、典子はイヤな事に気がついた。あ、そう言えば、二人共、あの怪物を殺しちゃったんだっけ。そして、怪物が持っていたあの死体は何だったんだろう。

「あ、あの、誰にも言いませんから」

 何かとんでもなく、厭な事態に巻き込まれている気がする。典子の心臓が静かに収縮した。声と手が震えだす。

「あの、お願いです……家に、帰して下さい」

 ここは、どこなの? 帰らないと、お母さんが心配する。家に帰りたい。お父さんだって……

「オネガイ……します」

 目をつぶった瞬間、涙が落ちた。嗚咽がこぼれた。オネガイだから、そう繰り返そうとした時だった。

「同情するが、現状、帰宅は不可能だ」

 あの女の声だった。自分に銃を向けていた、あの髪の長い彼女。

「本来なら、処分対象だ。外に出す事は出来ない」

「え?」

 顔が上がる。いつの間にか、女が横にいた。冷えた目が典子を見下ろしていた。

「しょぶん?」

 その時だった。ブザーが鳴り響いた。

『会議招集。全職員は至急会議室に集まってくれ』

 年配の男の声の放送に、マーニットと少年の顔が微かに緊張した。彼女だけが冷えた目で典子を観察している。

「ごめんなさい、行かなくちゃ。もう少しだけ、休んでおいてちょうだい」

「待って!」

 マーニットが白衣から取り出したものが、小さな缶だと分かった瞬間、顔の前にスプレーの霧が噴出された。

「お願い、かえりた……」

 全てを言い終えられず、典子の意識は消えた。


 桂圭人と九鬼蓮が会議室に入ると、すでに職員のほとんどは席についていた。

 支部長以下、総勢一五名。通信、情報処理に総務、医療に現場とチームに分かれ、それぞれの役目を担っている。圭人と蓮は、現場担当だった。三〇代が平均のこの支部の中では一七才。一番若い。

 コノ字型に配置された、会議用の折り畳みテーブルの中心に、3D立体モニターが設置されている。机上には、各自で使うタブレットが置かれている。空いているスチール椅子に、圭人は座った。

 薄暗くした部屋の中央に、立体モニターに映された夜の浜辺の全体像が、四角い透明な箱の中に入ったように浮かんでいる。その周囲には、重要な映像部分を幾つにも分割したアングルが、ナンバーの映像と共に浮かぶ。

「案件番号M三四-二三、現地時間二〇一●年五月●●日水曜、二〇:四九に捕獲、処分完了」

 空に浮かぶ夜の砂浜に、横転したバイクや転がる物体。転がっているのは、手や足、首。完全な人体の形は無く、全ての断面に齧られた跡があった。死体の口元は例外なく血で染まっている。 

 もはや、遺体と呼べる代物ではなかった。喰い散らかされた内臓と肉塊だった。

 人間の「共食い」の跡だ。

 圭人は目を細めた。見ていて気持ちのいいものじゃない。

「カスノさん、こっちの警察の方は、今どう動いてる?」

 隣のカスノに聞いてみた。二八才、情報処理と総務を兼任している。見た目は完全に文学青年風。圭人と同業者だが、事務職と現場では全くタイプが違うの典型だ。

「一応、警察もマスコミも、カタはつきそうだよ」

 手元のタブレットで、警察の捜査状況、マスコミ情報の詳細を眺めながら、隣のカスノが答えた。

「集団麻薬中毒による、幻覚が引き起こした殺し合いって事で、捜査状況は進んでいる。このメンバーの一人の所持品にマリファナが見つかって、実際にそいつが麻薬の密売人もどきの事をして高校を退学になったって、裏も取れたからね」

「こっちも標本は回収したし、後始末も消毒も完了できたけど」

 圭人は息をついた。

 あの、女の子の泣き顔が浮かぶ。

『お願い、帰りたい』

 戦場でも、災害地でも、あらゆる場所で全ての人間が、最終的に持ち続ける願いだ。家に帰りたい、家族の元へ。

 あの娘が帰れるかどうか、それは、自分が決定できることではないと、圭人は己の無力さと迷いを振り払った。

 それにしても、あの娘……。

「すっげぇ気になる」

「それにしても、気になるなぁ」

 カスノが呟いた。

「支部長直々の会議招集だよ。本部から捕獲に問題ありと、警告でもあったのかな」

「それは筋違いだろう」

 圭人の右横にいる蓮が、長い腕と脚を組んだ。

 漆黒の髪に、白皙の美貌は神の最高傑作といっても過言ではないが、無表情の男言葉が色気を無くしている。出会い当初はとにかく、蓮は今の圭人にとって、心情ではほとんど男だ。

「この時代の死者が出たのは、発見と到着が遅れたせいではなくて、探査センサーの問題だ。失態とは言い切れない」

「全くね」

 蓮の言葉に、カスノがぼやいた。

「ここの衛星じゃ、捜索対象に埋めてる生体チップから、発信される周波数や信号が拾えないんだよな。GPS機能が使えない、だからと言って、ここに新たに衛星打ち上げるなんて、出来っこないし」

 圭人もぼやきに加わった。

「いくら広範囲にレーダー探知機仕掛けたって、所詮は前々時代的な代物だしね。地形やアンテナによっても影響受けちゃうし、レーダーの設置だって、場所だの何だので数も制限される。どうしても発見スピードも精度も落ちるさ。文句あるなら、そこのところ本部も何とかしてくれって。なあ、蓮」

 実際に現場にいる者としてぼやく。だが、相棒の蓮はもう何も言わず、浮かんでいる立体スクリーンの映像を見つめていた。

 微かに視線が動いた。

「そんな話ではないらしい」

「何が?」

「映像を良く見ろ。転がっている頭部の数と、バイクの台数だ」

 死体がバラバラなので、人数を数えるには一人一つの頭部を数える。そしてバイクの台数……。

「バイクの台数と死者の人数が合わない」

 蓮の静かな声が、圭人を緊迫させる。

「バイクは一〇台あるが、患者を除く死者の数は九人だ。一人ここから離脱している」

 圭人は視線をスクリーンから手元のタブレットに落とした。記録されている現場写真を、角度を変えて確認した。確かにそうだ。

「会議を始めます」

 進行役の女性の号令がかかった。

 スクリーンの前に進み出たのは、アップにした黒髪に、青い瞳のナンシー・岡曹長だった。四五才、情報処理と支部長秘書を兼任する。

 生真面目な面持ちと折り目正しいスーツ姿。しょっちゅう「腰が痛い」と文句を垂れる腰をしゃんと伸ばし、前にいる職員達に、この浜辺での「標本二体」の捕獲完了の謝意を最初に述べた。

「皆さまのご尽力により、流出した標本二体が確保され、無事に元あった研究所で回収、焼却処分も完了致しました。有難うございます」

 そして、スクリーンを見やる。

「無事に標本は回収されましたが、遺憾ながらウィルスによる犠牲者を出してしまいました。これは皆さんの力不足ではなく、ここに持ち込める設備の規制や、使用できる機器の探査能力の限界が引き起こしたものでありますが、遺憾な事には間違いありません。犠牲者のご冥福をお祈りします」

 さて、とナンシーは話題を切り替えた。ここからが本題だった。

「これは、標本回収後に撮影された映像です。この記録映像をご覧になって、問題にお気づきの方もいらっしゃるようですが、申し上げます。これは標本回収を行った当の現場の映像ですが、見ての通り、犠牲となった少年達は九人、ですがバイクの台数は一〇台です」

 上からのアングルで撮った映像がアップになった。砂浜に転がる人間の頭と、バイクにマーカーがついた。

「この現場から、少年達の仲間が最低でも一人、離脱している可能性があります。問題は、その人物が「グールウィルス」に罹患している可能性です」

 見えない糸が張り詰める。静まった会議室の中、ナンシーは無表情に手元のタブレットを操作した。普段は陽気で冗談好きの、気のいいおばさんなのだが。

 圭人や、他の職員のタブレットに、ウィルスの顕微鏡写真と発症者の映像が転送された。

 体は腐り落ち、精神は凶暴化している人間。

 圭人は一瞬目を閉じた。脳裏に人形を抱いた、小さな少女の顔が浮かぶ。

「ここにいる、軍事や医療関係の方ならご存知の方も多いのですが、まずは今回の元である『グールウィルス』について、マーニット軍医に簡単に説明して頂きましょう」

 驚きの表情で、映像を見ていたマーニットが、ナンシーの突然の指名に慌てた。

「あ、はい」

 ナンシーが小さくマーニットに肯く。マーニットが頷き返した。

「形態学的分類では、『第五群、モノガネウィルス目、ラブドウィルス科リッサウィルス属、グール・ウィリス』通称は『グールウィルス』食人鬼の「グール」から名前が付けられました。ウィルスの形状やRNAは狂犬病に酷似しています。罹患すれば、九九パーセント以上の発症が見られます」

「グールウィルス」が発見されたのは、インド洋にある小さな島だった。

 狂犬病ウィルスと土地風土病が何らかの形で融合し、変質したものだと世界保健機構には報告されている。

「ウィルスは主に噛み傷から侵入、数分で大脳新皮質を破壊し、知性の破壊と代謝の異常による食欲の増大を引き起こします。潜伏期間は、ほとんどありません」

 圭人は思い出す。

 自分の腕に喰らいついて来た、鮮血に染まる少女の顔を。

「感染者の症状、特徴としては、食欲を中心とした異常行動です。代謝の異常により、体内で細胞の再生と壊死のバランスが取れなくなっており、三日も食事を摂らないと、生きながらに肉体は腐敗を起こし、栄養失調による衰弱死……つまり、飢え死に至ります」

 その為、知能や理性が落ちた感染者は本能的に、自分にとって一番効率のよい栄養素を摂取しようとする。

「食べるという事は、摂取した栄養素を吸収し、代謝して血や肉に作り変える作業です。一般的に、人体に近い形の要素を持つ栄養素が、吸収と代謝に優れています」

 野菜より肉、肉の中でも、魚より牛や豚の味が、何故人の嗜好に合うのか。

 たんぱく質の形が、人間に近いからだ。

 そうなると理論的には、人間そのものが、栄養素として一番効率がいい。

 同族である人間を、感染者の狂った知能と理性は「栄養素」と見なす。

「ウィルスによって凶暴化した人間は、知能低下もとより、痛覚も麻痺し、筋力を抑制する脳のリミッターが外れた状態です。しかも食事を与えずに放置すれば簡単に処分出来ます。その点から、生物兵器への悪用が危惧されました。その脅威に備えるために、各国の研究機関で治療用ワクチンの研究がなされ、一方では軍や警察、医療関係者のご尽力により、ウィルスはほぼ死滅状態でした……研究所の『標本』を残してですが」

「さっき捕獲したのは、確か日本の医療研究チームが、ワクチンの研究用に使ってた『標本』なんだよね」 

 圭人のつぶやきに、マーニットが肯いた。

「その通りです。ウィルスの感染力は強いのですが、感染経路は経口か血液感染のみ。飛沫はもちろん、空気感染も接触感染もありません。熱にも紫外線にも弱く、耐久性は低いために宿主に寄生してしか生存できず、研究材料の為に標本が必要でした。それがあの二体です」

 圭人は、タブレット上の現場の写真と、データに目を落とした。

 その標本は元はといえば囚人だ。凶悪犯罪者は人権を剥奪され、実験材料や治験など、モルモットとして扱われる。

 少年達がどの経緯で、この標本二体と接触したのかは分からない。だが標本は、薬によって凶暴性を多少なりとも押さえこんでいる。

 その標本がここで暴れたのは、少年達に何らかの危害を加えられようとしたのかもしれない。

 その結果がこれだ。それ以外にも、あちこちに「少年達」だったものが散らばっている。

 静まりかえっていた室内が、慄然としてざわめき始めた。

「なんてことだ」

「そうなれば、人を襲う可能性が高い」

「しかも、そんな病原菌ばらまいてみろ、まだ向こうでもワクチンが完成していないってのに……」

 支部長のマサムラが、会議テーブルの中央に進み出た。

 ボール体型のちょび髭親父に似つかわしくない、凛とした声が響く。

「グールウィルスに罹患した患者が、まだ生きている可能性がある。早急に生存者を割り出し、追跡せよ。この事をすぐに本部に報告する。医療チームはグールウィルスに関する研究報告とデータを、全てこちらに転送してもらえ。それから、情報処理担当チームはこの地区の警察と消防、保険所全て、公共機関から、民間の情報局に寄せられる情報全てを把握の上、何かアンテナに引っかかるものがあれば、小さくても良い、報告しろ」

「支部長」

「支部長」

「支部長」

 同じタイミングで声を上げてしまった三人は、それぞれの顔を見合わせた。圭人、蓮、マーニット。

「そしてもう一件、現場の砂浜で保護した少女の件ですが」

「おう、桂三等陸曹の痴漢行為の件か? もちろんマーニット、見ていたよ」

 圭人が怒鳴ろうと思った瞬間、立体モニターが須藤典子の映像に切り替わった。

 ナンシーが読み上げた。

「氏名は須藤典子、日本国籍。身長体重、血液型は、各自のタブレットに転送したデータ通りです。私立聖英学園二年在学、今年で一七才。何故あの時間帯にあんな浜辺にいたのかは不明ですが、今までに補導歴や反社会的行為の記録はありません。身体検査の結果、出産経験、男性との性的接触の経験も無し」

「ふむ」

「彼女は見たところ、自傷の恐れもや凶暴性もありません。この施設の医療室にあるボックスの中で休ませています」

 自分だけ紙で印刷されたデータを見つめるマサムラ支部長に、職員全員の視線が集まった。マーニットが続けた。

「桂、九鬼、両三等陸曹の報告と、私の検分から、須藤典子の右ふくらはぎ部分に、約八センチの半円状の歯型が確認されています。その歯型の主は明らかに、グールウィリスに感染していました」

「その噛み傷から、唾液もしくは血液感染か……」

「ですが、発症の兆候が全く見られません。無菌室からのモニターで、支部長もご覧のとおりです」

「発症の予想時間を、大幅に越えても、だな」

「精神状態、言語機能から運動、呼吸に内臓器官に至るまで、全てオールクリアです」

 マーニットが吐息をついた。

「……血液のウィルス検査以外は、全て」

「不顕性感染、無症性キャリア、もしくは、免疫などの防御機構によって、発病が遅れているのか、それは分かるか?」

 マーニットが頭を振った。

「そこのところは、まだ。何せ、あのウィルス自体の完全な解明がまだですから」

「正体不明同士の戦闘状況や、予測や結果など、我々には出来るはずないって奴だ」

 少々傷ついたらしいマーニットの背中を、マサムラは軽く叩いた。

「問題は、その宿主だ」

「その通りです」

 会議室は、静まり返った。

 ナンシーをはじめとする、職員達の視線は須藤典子とマサムラを行き来する。全員が祈るような、修行僧のような面持ちとなっていた。

 蓮が述べた。

「無症性キャリアの一番の脅威は、外見上の見分けがつかない事、そして宿主の中で病原体が増殖している場合もあり、本人無自覚で感染源の役割を果たす事がある」

「九鬼の言う通り。通常なら、隔離だ」

「……彼女を、研究施設へ送って拘束、もしくは処分ですか」

「その処置も、やむを得ないだろう」

 マサムラの答えに、圭人のどこかが冷えた。今現状、やむを得ないと頭では分かっていても、それでも納得するのは耐え難かった。

「何の落ち度もない、普通の娘ですよ」

「身体に飼っているのは、とんでもないウィルスだ。人を化け物に変えて、島一つを全滅させた。桂、お前なら、その目で見て分かっていると思っていたが」

 感染した人間を、何人も「処分」した日の映像が浮かんだ途端、圭人は何も言えなくなった。何を今さら、だった。今と以前の違いは、感染者が人間としての意識を保っているか、否かの違いだった。

 蓮が述べた。

「我々には、この時代の人間に対する逮捕権も、拘禁する権利も無い。その辺りはどう、お考えですか」

「緊急事態であることは、変わりない。下手すれば時代が変わる。大勢の人間が死ぬか、それ以上の禍を起こす。憐憫の情や、定められたルールに固執して判断を誤ると、帰れば故郷が無くなっているかもしれんよ」

「人一人を犠牲にする選択が、正しい事であると?」

「正しくはない。だが、あえて犯さなくてはならない間違いがある。仕方がない事はいつの世にもある。世界の均衡と歴史を、一人の命と引き換えにするか?」

 マサムラの発言に、空気が固形化した。

 その通り、正しくない。

 圭人は目を閉じた。だが、あの日、自分はあえて間違いを選択した。

「その通りです」

 朗々とした声が響いた。

 マーニットだった。

「どう理屈をつけようと、非常事態において人一人の命は、軽んじられるのは当り前の事です。生まれた瞬間に、人はどんな弱者であっても人権という権利を得ますが、それは戦地や災害地において、無きに等しい、ほとんど役に立たない武器である事を、私たちが一番よく知っています」

 マーニットの真剣な目が、マサムラを、そして皆の目一人一人を射抜いた。

「だから、我々がいるんです」

 マーニットの言葉が、空気を引っぱたいた。

「我々は、その役に立たない、市民の武器を守るための存在です」

 沈黙の深みが増した。

「わしを説得する材料は、そのヒューマニズムだけか?」

 マサムラがふんと鼻を鳴らす。まだ足りないよ、という表情で。

 しかし、マーニットはニヤリとそれに答えた。

「いいえ、彼女を保護するメリットが、我々にもあります」

「ふむ」

「彼女はグールウィルスに罹患しながらも、今現在それを発症していない。その意味をお考え下さい。彼女の血液抗体が、グールウィルスワクチン開発の重要なカギになるかもしれません」

 ざわめきを起こしながら、マーニットは笑う。

「グールウィルスの数少ない生き標本が失われた今、ウィルス研究そのものも困難になっている状況です。彼女なら、それを補ってくれるかもしれない。そう思われませんか?」

「協力してくれるかなあ」

「説得します」

 圭人は、マーニットを見つめた。そうだった、この女性はこういう人だった。そしてまた、支部長の表情に気がついた。思い出した、こういうタヌキ親父だった。

 まず部下を試す、イヤな上官。

 少々ムカつきながら、大きく安堵のため息をつく。

「おおい、ナンシー曹長。今現在、家族から須藤典子の捜索願いは出ているか?」

「いいえ、まだです。彼女の携帯端末に、母親らしいメールがありましたが、代りに返信をしておきました。そして彼女の学生証の住所などを元に、市役所のデータベースに侵入して家族構成を割り出し、両親の持つクレジットカードをたどりました。その購買の使用記録に、公共交通機関のチケット購入と、ホテル予約が確認されています。母親は昨日からナゴヤにいます。帰りのチケットは明後日。今現在、娘の不在を知りません。父親は、カード記録から見ると、海外にいるようです。兄弟姉妹無く、親子三人暮らしです。ペットも無し」

「よし、上等」

 秘書の報告に、マサムラは丸い指を打ち鳴らし、次は顔をカスノへ向けた。

「カスノ陸士長、今現在時刻〇五二五、今から命令する事に、すぐに準備にかかれ。まずは須藤典子の通う学校の手配、そして家庭状況をもっと詳しく調べろ。両親の職業から出身地、成育歴、親戚との付き合い、そしてもちろん夫婦仲も。彼女の捜索願いが出ないうちにな。それからマーニット、あの娘には、もう一晩泊まってもらえ。そして徹底的にもう一度検査しろ、徹底的に。徹夜になるなら、付き合ってやる」

 二、三度瞬きしてすぐに、マーニットの口元に笑みが広がった。

「了解、マサムラ支部長」

「おーい、桂と九鬼、ちょっと来い。話がある」

 マサムラがおいでおいでをした。まるで招き猫のようだった。

「お前らに、仕事を増やしてやろう」








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