軍人たちの放課後
洞見多琴果
第1話 [殺戮]
最終下校時刻を告げるBGMは、ヴィバルディの『四季』冬のパートだった。
ヴァイオリンの旋律が学園の敷地内に流れると、生徒たちは学園生活の一日を終えて、それぞれ帰り仕度を始めて校門へ向かう。
柔らかな音楽は、生徒たちの背中を家路へ優しく促した。校門前には、教師二人が立って歩いてくる生徒や校舎に残っている者へ帰宅の合図を上げた。
「もうあと十分で閉まるぞ!」
「校舎に残っている人、早く出てきなさい。窓から顔が見えているわよ」
登校時間は慌ただしく校門に飛び込んできても、校門から出ていくリズムは緩んでいる。
おしゃべりしながら、笑いさざめきながら、生徒たちは教師に下校の挨拶をした。
「先生、さよなら」
「じゃあね、センセイ」
「まっすぐ帰れよ!」
「さよなら。こら! そこのサッカー部! ボール蹴りながら歩くのは・・・・・・!」
下校の誘導に声をあげていた二人の教師は、ヴァイオリンの旋律に混じる不快なエンジン音に気がついた。
口をつぐんだのは、二人同時だった。
足を止める生徒たち。不気味な緊張感が伝染した。歩き喋っていた女子生徒たちのグループが、口を閉じて顔を見合わせた。
厭な音だった。不必要なほど大きな、バイクのマフラー音。それに混ざるのは、耳障りなホーンのマーチ。近づいてくる騒音、何台にも連なる、凶悪な轟音。
「何あれ?」
校門前から真っ直ぐに伸びる並木道を、生徒が指さして叫ぶ。
学園名物でもあるポプラの並木道が、バイクの音と騒音に塞がれていた。
群は無秩序に、ジグザクに走って来る。道を歩く生徒達が、悲鳴を上げて脇に飛びのく。転んだ生徒もいた、逃げる生徒へ、バイクは野卑な奇声と笑いを浴びせた。
バイク集団は、真っすぐに校門をめがけて走ってくる。
しかし校門を閉める事を、教師二人は躊躇した。まだ生徒は校内に残っている。閉めてしまえば、校内に残っている生徒の逃げ道を塞いでしまう。
遅かった。バイクの群れは、教師二人と、生徒たちをはじき飛ばすように校門を突破した。敷地に何台ものバイクが走り回る。悲鳴を上げて生徒達が逃げまどう。
「警察!」
「いいから、早く出なさい!」
「せんせぇっ」
生徒達が、外に逃げ出そうと校門へ一気に雪崩打った。将棋倒しが起きた。背中を踏みつけられた
生徒の悲鳴、怒鳴り声や泣き声が渦巻いた。
職員室に、異常事態を告げる女子生徒が飛びこんで来た時は、もう手遅れだった。
廊下側から、次々とガラス窓が割れた。飛び散るガラス片、廊下から飛び込む、爆発する奇声や笑い声、続いてフルフェイスのヘルメットで顔を隠した男たちが、次々と飛び込んで来た。服装は、赤や金色、黒に紫と、色彩も毒々しい。
「コンニチワー」
金属バットを振り回しながら、男が叫んだ。
「オレイにキマシタっ」
振り回したバットが、机の上の本や書類をはじき飛ばした。コップが中身ごと吹っ飛んだ。ゴミ箱がぶちまけられた。
床に老齢の教師がうずくまり、女教師が甲高い悲鳴を上げた。
集団は、職員室の中を蹂躙した。ガラスが割れてはじけた。書類が散乱し、パソコンが壁に叩きつけられた。備品全てが破壊される。
「やめなさい! 君達!」
教頭が怒鳴った。
「君達は誰だ? 警察を呼ぶぞ!」
「何だ、まだ呼んでなかったのぉ?」
げらげら笑いながら、男はチェーンを奮った。蛍光灯が割れた。
「だってさ! まだ遊ぶ時間あるんだってさぁっ」
フルフェイスのヘルメットから、嘲笑が漏れた。
「しかも、俺たちの正体分かんないんだって?」
「いいねぇ、好都合!」
スプレーペンキの霧が噴出した。
シンナーの臭いと赤や黄色、毒々しい色彩が、職員室を染め上げる。
「うあぁぁっ」
止めようとして、真正面からスプレーを浴びた教師が顔を押さえた。その顔を殴られて床に転がる。その腹を、背中を、暴徒二人が遠慮なしに蹴り上げている。
「やめてぇっ」
職員室の隅に、うずくまった若い女教師が叫ぶ。ブラウスを引き裂かれて、半裸同然だった。止めに入った男性教師が、木刀で殴り飛ばされた。
「きみ、君達、きみたちは何のためにっ」
叫んだ校長は、後ろから木刀で殴りつけられて昏倒した。
「よし、撤収!」
木刀を手にした男が、仲間たちに怒鳴った。
職員室に、立っている教師はいなかった。皆が這いつくばり、座り込んで転がっている。
わずかな時間で荒らし、破壊するだけし尽くすと、十人の暴徒達は、それぞれの武器を携えて職員室を出た。そして、バイクに跨る。
そして、素早く学校の敷地から逃げ出した。
十台のバイクは、ふざけた登場とは打って変わった逃げ足の速さだった。校門を出ると、追跡を避けるためにバイクは次々と集団から離脱し、学園から遠ざかった。
そのまま、それぞれは車道を爆走する。
再び十台のバイクが終結したのは、夜の海だった。パトカーの追跡は無かった。
読み通りだった。評判の事を恐れて、学園側の警察の通報が遅れたらしい。
「お礼参り、完全成功~」
矢田健二が叫んだ。
「ありがとよぉ、皆!」
次々とバイクは集結し、仲間たちが降り立ってくる。フルフェイスを脱ぎながら、一人が笑いながら叫んだ。
「いやー、ド底辺のお前を見守って下さったセンセ方に、申し訳ないと内心俺は泣いたよ」
「つうか、矢田があんなガッコにいた事自体、オドロキ」
「寄付金と、矢田の親父の権力に目がくらんだ方が悪い。矢田はプライスレスじゃなくて、マイナスレスだぜ」
掛井得也は、フルフェイスのヘルメットを脱いだ瞬間、思い切り背中を叩かれた。振り向いた先に、矢田の笑顔があった。
「悪いね、付合ってもらってさ」
得也はそっけなく返した。
「別に、いいさ」
実は、今夜の矢田健二の企画「学校へ退学のお礼参り」も正直面倒くさかったのだが、「お前裏切る気か」と絡まれるのも、もっと面倒だと思ったまでだ。
皆は、逃げ切った悪戯の成功を褒め称えあった。
やがてあちこちでビールが行き交い、誰かが廃棄された木材を見つけた。火がついた。
「うぉっあっちいっ」
「これ燃やせ、これ!」
コロが砂浜に転がっていた流木を火に放りこんだ。
火は幼児の身長ほどに燃え上がった。その炎にはしゃぐ仲間たちから、得也は一人、そっと離れた。バイクの点検をするフリをする。
「もっと燃やすもんないのか?」
「お前が燃えろよ」
矢田がそう言いながら、へし折られた若木を炎に放りこむ。学園の敷地に植えられていた記念植樹だった。若木の水分に火の粉が舞い上がり、奇声が飛びかった。
「ヒドイっ矢田君、卒業したセンパイから私達後輩へのプレゼントなのにぃっ」
ゲラゲラ笑うミツグを、矢田がふざけて炎に突き飛ばす仕草をする。
「何しやがる」とミツグが矢田に抗議した。
キノとケイゴがインディアンの様な奇声を発して、火の周囲をクルクルと回っている。皆がはやしたてる。
焚火の前で、ご機嫌にふざけ合う仲間達の背中を見ながら、得也はタバコを取りだした。星を見ながら煙を吐く。
仲間とはいえ、あの刹那的で享楽的なハイテンションに付き合うのが、たまに億劫になる。
「多分、すぐばれちまうだろうな」
フルフェイスのヘルメットで、顔を隠していたとはいえ、見当はつくだろう。
学校に恨みを持つ者、そしてこんな嫌がらせを考えつきそうな奴。多分、職員室に謎の軍団が押し入った瞬間に、教師達はすぐ思いついたに違いない。
一か月前に、ドラッグ売買で退学処分にした矢田健二、そして、その仲間のグループ。
まあ、いいかと得也は考えを投げた。そういえば、自分もどれくらい学校へ行っていないのか、ふと思い出す。
タバコが灰になった時、仲間の一人、ケイゴの素っ頓狂な声が上がった。
「何だあれ! 」
得也は背後を向いた。ケイゴが指差しているのは、海面だった。
海面に、二つの影が突き出ている。波の音の中で、ゆっくりとそれは揺れている。
異様な物の出現に、仲間達の嬌声が止んだ。
息を飲んでそれを見守る中、ゆっくりとこちらにやってくる。
頭だ。
近づくに従って、海面から徐々に頭から首、その下が現われてきた。
男と女だった。
二人は波に乗せられているように、ゆらゆらと、海から浜辺に近づいてくる。
「……なんだ、あれ? 」
皆は息を呑んで見守っていたが、やがて徐々にその正体が現われていく。
実体があった。二人の腰から下が海面から出てきた時、皆の声は拍子抜け混じりの安堵に変わった。
「なんだ、足はあるじゃねーか」
「ユーレーじゃなくてヒトじゃんか、脅かすなよおい」
「心中し損ねだったりして」
どっと笑い声が沸いた。
恐らく、ロマンチックな夜の海にデートに来たに違いない。恋人達以外誰もいない漆黒の海に、二人は服を着たまま飛び込み、じゃれ合ったのだろう。そう考えるのが普通だった。
「シアワセはお裾分けしてもらおうか」
誰かの提案に、笑い声と拍手が沸いた。
自分達以外に誰もいない、民家からも離れた場所だ。格好の獲物だった。そんな機会に恵まれれば、皆でたまに行う『狩り』だった。
以前にも、夜の公園に紛れ込んだサラリーマンを襲撃した事がある。財布の現金はそのまま山分け、クレジットカードにブランドの持ちものは裏に流す。小遣い稼ぎだった。
……やがて、男女は波打ち際を抜けた。全身が海水でぐっしょりと濡れている二人の姿が、月明りと炎ではっきりと見えた。
そして、こちらにやってくる。
得也は二人を観察した。二人共二〇代後半くらい、自分達と比べれば、れっきとした大人だ。
女の髪は長い。男はスキンヘッド。そして両方とも、同じ服装だった。海水で全身に張りついているのは、真っ白な「つなぎ」である。変わった服装だった。
二人は、得也など目に入らないように、斜め横を通り過ぎた。
男が行き、そして一メートルほど遅れて女が続く。一列に並んで二人通り過ぎる。
得也は、二人の不審さに振り向いた。
恋人にしては、おかしい。距離が離れ過ぎだ。暗い夜道を歩くカップルは、前後ではなく並んでひっついているものなのに。
それに、頭から全身濡れている場合、普通の人間は手で目や顔を拭う。二人をずっと見ていたが、その仕草がなかった。特に女、長い髪が顔半分にべったりと貼りついたままだった。普通なら、そんな髪は顔から払い落す。
二人は、仲間達の前で止まった。
「なんだよお、足あるじゃねーか!」
普通の恋人同士と思っているらしい、キノの声が響いた。わざとらしい拍手と笑い声が続く。
「デート? いいねえ、ロマンチックな海だし!」
「ごめんねぇ、俺たちみたいな奴らがいてさぁ」
「せっかくだしさ、一緒にパーティしようよ、仲良くさぁ!」
はやし立てる仲間達に、二人は何も言わない。
周囲を取り囲み、野次を飛ばす集団を、ただ見つめている。
「怖がらないでよぉ、ねえ彼女お」
この中で一番女好きの矢田が、海水で服が肌に貼りついた女の全身をじっとりと眺め回す。
それでも、その二人は無言だった。
やがてその二人の無言は、集団の笑いと野次の中で、温度差を作った。
「……おい、何だよお、何とか言えよおい」
からかいにすら、全く反応の無い二人の態度にコロが切れた。一番年少の一五才だが、その分舐められまいと気負っているのか、気がひどく短い。抗争時には一番最初に飛び出して相手を殴る奴だ。
「馬鹿にしてんのかよ、さっきからダンマリでよぉ」
「そうそう、せぇっかく皆が遊ぼうって誘ってやってんのにさ」
「何か言えよ、口がねえのかよお」
仲間達がぐるりと二人を囲む。退路が塞がれた。
それでも二人とも黙りこんでいる。
こんな時、大概の男は恋人の手前、強がるものだと男を馬鹿にする一方で、得也は同情もした。もしかしたら怯えて、声も出せないのかもしれない。
だが、こういった集団は「馬鹿にした」態度を一番嫌う。例えそうでなくても、そう思われたら、無事に終わるはずが無い。
得也はこの奇妙な二人の運命を予見した。男はリンチ、女はマワす。
運が悪すぎた。
他人事ながら、わずかに残った市民的感情で、目の前の二人に同情する。
「おねーさぁん、こんな暗い男やめちまえ」
「そうそう、あっそぼうぜっ」
女の背後に回った三人が、女に向かって一斉に襲いかかった。砂浜に転がった女の自由を奪おうと、少年達がのしかかる。
もう一人の男も、女を助けに行くどころではない。その背後を押さえられ、コロが前を塞いでいる。
静かだった浜辺で、恋人達が蹂躙されようとした、その時だった。
「ギィヤァアアアアアっ」
狂った悲鳴が轟いた。
悲鳴の主に、得也は目を剥いた。
さっきまで、男の胸倉をつかんでいたコロだった。そのコロが顔面を押さえて砂浜に転がっている。手と手の間から血が吹いていた。
「アアあああああっ」絶叫が重なった。
女に跨っていた仲間が、片耳を押さえて転がり落ちる。その時だった。
得也は目を疑った。他の二人に押さえられていた女が、蛇のような素早い動きで、するりと抜けだし、転がり落ちた仲間の上にのしかかった。
首筋に喰らいつく。そして喰いちぎる。
「グギャアアアっ」噴水のように吹き上げる血が、女の顔と仲間の上半身に降りかかった。女を取り押さえようとした後の二人が、仰け反って女から離れた。
血に染まった女の口がグチャグチャと動く。咀嚼しているのは、首の肉だ。そして呑み込み、また喰らいつく。
首下を鮮血に染めて、仲間が痙攣する腕を空に伸ばした。女はその腕を掴み、服地ごと肉に喰らいつき、服地ごと喰いちぎる。
声帯が千切れたような悲鳴が響いた。
他の二人は壊れた悲鳴を上げて、女と仲間から飛びのいて離れる。
「ぐじゃああっ」
ひしゃげた悲鳴が上がった。次に続く、鈍い音の方向を得也は見た。
男が片手で、コロの首元を掴んで空に持ち上げている。コロの足がじたばたと足掻いている。次の瞬間、得也は呼吸を忘れて目を疑った。
男はコロの首を片手で掴んだまま、パンの生地を台に打ちつけるように、コロをバイクに叩きつけた。バイクが転倒した。構わず男は、そのままコロをバイクに叩きつける。
コロの壊れた悲鳴が、徐々に消えていく。バイクの側面がコロの血で染まるにつれ、コロの動きが鈍くなった。やがて手足が人形のようにだらりと下がる。
割れて赤いボールになった、コロの頭を両手で挟み、男は齧りついた。まるでハンバーガーを齧るように。
「コロォォっ」
コロと一番仲の良かったケイゴが、炎から松明を抜き取って男に襲いかかった。振り下ろした火は、男の頭を直撃した。コロを投げ捨てて男がうずくまる。
「死ねぇっ……しねぇぇっ」
コロの名前を泣き叫びながら、ケイゴは男に続けざまに松明を叩き込んだ。復讐心で、咆哮は裏返っていた。
何度も殴る、火の粉が男の体の上を舞い狂う。最後の一撃とばかりに、ケイゴか大きく松明を振り上げたその時だった。うずくまる男の手が、ケイゴの足首を握った。
「!」
ケイゴが仰向けに転倒した。持っていた松明が、ケイゴの胸の上に落ちる。
「ひぃぃぃっ」上半身に広がる炎に、立ち上がってケイゴが叫んだ。
「助けてくれぇっ」
ポリエステルなどの化学繊維は、一瞬で燃え上がる。ドラゴンのジャンバーごと、ケイゴは火だるまになった。海の水で消火しようにも、バケツが無い。
燃えさかるケイゴが、助けを求めて仲間へ手を伸ばす。皆は人間松明から逃げまどうが、砂に足を取られる。
一人が人間松明に抱きつかれた。共に燃え上がる。
「だずげ……」焼かれる声にならない声が、得也の耳を打った。聴覚の外には悲鳴や絶叫が響き、視覚の外では幾つかの体が転がっている。
男は焚火から松明を取りだし、逃げまどう仲間を殴り倒した。
殴られて砂地に膝をついた仲間の首に、男が喰らいつく。
肉を歯で引き千切り、血をすする音を得也は愕然と見ていた。
「うあああっ」
女が砂浜を跳躍した。その高さに得也は目を疑った。逃げる仲間の頭の上に、足から落下し、砂を巻き上げて転がる獲物の顔面に食らいつく。
女の顔が離れた時、仲間の顔は無かった。血塗れの顔を押さえて絶叫する仲間の喉笛に、女は齧りついた。すぐに仲間は絶命した。
得也はガタガタと震える足を必死で動かし、凍りつく手を必死に言い聞かせて、ようやくバイクにたどり着いた。死にそうな思いでバイクに跨り、何度もエンジンをかける。
エンジンがかかった時、恐怖まみれの幸運に、心臓が爆発しそうになった。アクセルを思い切り回す。
バイクが砂を巻き上げて走り出す。その直線状にあの男がいる。
エンジンをかけたまま、得也はバイクから飛び降りて砂地に転がった。慣性でバイクは走る。
時速九〇キロの鉄の塊は、真正面から男を跳ね飛ばした。男は齧っていた死体からはじかれて空を飛び、落下する。
そして、動かなくなった。
……得也は、身を起こした。
静寂に包まれていた。もう悲鳴も、助けを求める声も聞こえない。
砂地の上で、全てが倒れていた。バイクも、人も。
女が消えている。あの男も。
砂地に転がっているのは、死骸、バイク、そして血を吸った砂。月明かりと炎が照らし出す、悪夢の世界だった。
潮風に生臭い匂いが混じっている。鉄と臓物。排泄物の匂いだった。
得也は、目の先でへたり込んでいる矢田に気がついた。
「……あ、お、ああああ……」
言葉にも泣き声にもならない音声を垂れ流しているが、矢田が生きていることは間違いなかった。
頭から全身、砂と血で染まっている仲間が、ゆらゆらと矢田へと歩いている。得也はわずかに安堵した。他にも生きている仲間がいるのだ。
「おい、誰か……」
得也は立ち上がった。仲間を助けないと、そして逃げないと。
周囲に呼びかけると、微かな呻き声があちこちから聞こえる。すぐ傍に、座り込んでいる仲間に気がついた。キノだった。
魂が抜けているような表情だが、生きている。得也はほっとして歩み寄り、声をかけた。
「キノ……怪我は?」
得也はキノへしゃがみ込み、肩に手をかけた。キノは感情の無い目で得也を見上げた。
「逃げよう」
得也は吐息をついた。とにかく、ここから離れるのが先決だ、そう思った時だった。
「がはぁっ」
悲鳴が上がる。得也は振り向いた。
矢田が仲間にしがみつかれている。矢田の目はでんぐり返り、手足が壊れた電気玩具のように痙攣させていた。
「や……っ」
声帯を失いかけた瞬間、左手に激痛が走った。得也はキノを見た。キノの口の中に、自分の手が入っている。
キノの口元から、血が流れている。
「喰われている」本能が得也にそう告げた。得也は悲鳴を上げてキノの顔面を殴りつけた。それでもキノの口は開かない。
歯が左手の甲に喰いこみ、舌が血をしゃぶっている。
「うあああぁぁつ」
激痛と恐怖に目がくらみ、得也は絶叫した。下に落ちていた石を拾い、思い切りキノの顔面を殴りつける。
「はなせ、はなせぇぇっ」
狂った声を咽喉からほとばしらせながら、得也はキノの顔面を何度も石で殴りつけた。石の鋭利な部分がキノの眼球を貫く。そして歯を折るが、キノの口は開かない。
まるで肉に飢えた犬のように、得也の左手に歯を喰いこませたままだ。
「やめろ、やめろおおっ」
脳髄が痺れるような激痛と恐怖に、得也は石を振るった。キノの顔面が、石によって削られていく。眼球が破裂した。殴り続けるうちに二つの目は赤黒い穴となり、鼻は折れて頬の肉が裂けた。血が飛んだ。
それでもなお、キノは得也の左手を口から離さない。
また石を振り上げた、その時だった。
喰われている左手から、前身にかけて雷が走る。
脳みそが、電気ショックを受けて震えた気がした。後頭部から眼球に、ピリピリとした白い光が貫く。目の前も思考も白くなり、得也は崩れ落ちた。
キノの口に、左手を喰われたままで、得也は砂地に突っ伏した。
意識が闇に包まれる。
(これが『死』か)
反射的に得也は思った。
体が動かない。
(こんなところで、こんな風に・・・・・・)
絶望と無力感が心に染みた。得也は「死」の時を待った。
……生々しい匂いが押し寄せた。意識を揺り動かす。
生きている?
得也は目を開いた。波の音がする。目の前に砂が広がっている。
体を動かした。生きている事に驚きながら。
体を半分起こし、真っ先に目に入ったのは、自分の左手を口に入れたままで、倒れて絶命しているキノだった。そのキノに、仲間が二人群がっていた。一人がキノの腕にかぶりついている。そしてもう一人は、腿を。
得也は、震える右手でキノの口をこじ開け、自分の左手を引っ張りだした。
石で殴り続けたせいで、キノの顔はもう無かった。皮膚はとうに刻まれて、赤い肉が露出していた。鼻も折れ、口も赤黒い空洞でしかない。
その肉と血の色の瑞々しさに、得也は目を奪われた。ぬらりと光る新鮮な赤身と、とろりと流れる血液、鉄が混じる豊潤な香り。
背中にどかんと何かがぶつかってきた。首に太いものが巻きつく。
本能的に、相手に殺されると得也は悟った。反射的に体を前に折って、相手を砂浜になぎ倒す。
「ミツグ!」
背後から襲って来たのは。グループの中で一番お調子者だった仲間だ。しかし、もうそのお調子者の明るさは、すでに無い。
幸運にも、キノを殺した石がまだ傍にあった。
得也はミツグに馬乗りになり、石を振り上げた。
尖った石の先で、仰向けに転がったミツグの眉間を狙う。
「がばぁぁっ」
眉間に石の切っ先がのめり込んだ瞬間、ミツグの絶叫が得也の耳を貫いた。眉間から血が吹き出す。
何度も得也は石を奮った。仲間から殺される恐怖、そして殺されないためには殺すしかない恐怖で、精神は狂っていた。
「ああああああっ」
狂人の声を上げながら、得也はミツグを殴る、殴りつける。ミツグの手が、上に乗った得也を捕まえようともがく。血を得也の顔に飛び散らせながら。
血の噴水が、絶叫する得也の口に飛び込む。
粘度のある液体が、舌に乗った。鉄の匂いが口に広がった瞬間。
恐怖が一瞬消えた。衝撃が突き抜けた。
得也の舌に、刺激が広がった。「味覚」しかも、今までに味わった事のない衝撃の「味覚」は、得也の脳髄を甘く震わせた。
「……!」
石が手から落ちた。得也は愕然とミツグを見下ろした。
顔にいくつもの穴を開けて、ミツグは息絶えていた。
ぐちゃ、ぐちゃと水っぽい音が聴覚の外から聞こえてくる。横でキノが仲間に喰われている咀嚼音だった。すでにキノの手足は無くなり、胴体だけになっていた。
その胴体もまた、衣服を剥ぎ取られた赤い塊になっている。頭も赤い球体となっていた。
生々しい匂いが、空気に紛れて得也の嗅覚を刺激する。
数分前まで殺戮の匂いだったそれが、変わっていた。生臭いではなく、瑞々しい匂い。
生命そのものが持つ、豊潤で豊かな香り、汗や体臭も全てが、芳香のハーモニーを奏でる構成の一つだった。
得也の生存本能が、それに反応している。
波の音に、飢餓にある獣の音が混じる。
得也は、他の獣達をみた。皆の表情は、魂を茹でられたように恍惚としている。
死骸の腹に、手を突っ込んでいる者がいた。長いものを引っ張り上げて、それを喰いついている。モラルや嫌悪も無い、生物の持っている「食本能」に従順に従う、凄惨な至福がそこにある。
得也は再び、ミツグに目を落とす。
ミツグのシャツは大きくまくれて、太い肩が剥き出しになっている。逞しくて肉付きの良い、弾力に富んだ肉だった。
砂浜に充満する匂いは、得也の奥底を掘り起こそうとしている。生物として原始的で純粋な衝動へと駆り立てる芳香。
得也は馬乗りのまま、ミツグを見下ろした。
赤い血に染まった死に顔、そして震える柔らかそうな耳たぶ。
……死体に、今、何を思っている?
得也は自問自答する。それによって導き出される答えに慄きながら。
ゆっくりと、欲望が得也を追い詰める。得也はそれに、理性を盾に反抗した。ついさっきまで、正に考えた事も無く、想像すらした事のない欲望と、禁忌だった。
だが、自分以外の者は、全てその衝動に身を任せている。
キノの歯によってえぐられた得也の左手は、生ぬるい血がどんどんと流れだしていた。
血液が流れ出すに従って、生存本能がせり上がる。血と肉の補完を本能が得也に命じる。その補完に最も適した栄養素を、本能が暴れ狂うほどに求めている、その栄養素が得也の目の前にある。
ピンと張った皮膚の下にある肉が、新鮮な弾力に富んでいるのは明らかだった。そして、甘い鉄の匂いをさせながら皮膚にとろりと滴る、赤黒い液体。
本能が、理性を叩き潰した。思考の空白が出来たその瞬間に、得也は本能に従ってミツグの耳を喰いちぎっていた。
ミツグの耳を歯で噛み潰したその時、耳の肉とあふれた血が、得也の味覚を歓喜で押し潰した。咀嚼して呑みこんだ瞬間、肉は得也の一部となり、失われた生命力を補完する。
肉を噛みしめ、口を動かすたびに押し寄せる快楽、そして飲み込んだ瞬間に、細胞にまで行きわたる活力の充足感に、得也は我を忘れた。
ここまで満たされる食物は初めてだった。理性の限界を越えた空腹が、その快楽をどこまでも増幅させる。
得也は目の前の肉を夢中で貪った。それはミツグでありながら、ミツグではなくなっていた。かつて「ミツグ」と呼んでいた肉だった。
あちこちで行われている食の祭典に、得也は飛び込んだ。今やそれは当然であり、至福の行動だった。
月明かりと炎に照らされて輝く白い肉と、赤い血に得也は本能を委ねていた。
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