11.決戦の島
――朝。
那覇市から程近いとある小規模な海水浴場で、一人の老人が空を見上げながらため息をついていた。
昨日までの晴天が嘘のように、空にはどんよりと厚い雲が立ち込めている。その為か、ビーチには海水浴客の姿が殆ど見受けられなかった。管理人である老人としては仕事が減って助かるが、活気がなさすぎるのも困りものであった。
「――あの、すいません」
――と、突然背後から声をかけられた。
振り向くと、そこには見慣れぬセーラー服姿の少女がいた。可愛らしい顔立ちだが、その目つきは鋭く、少々高い位置で結われたポニーテールとあいまってか、どこか武士を思わせる美少女だ。
「
少女が沖合に浮かぶ島を指差す。そこは海岸からおおよそ二キロメートル程度の距離に浮かぶ無人島であり、確かに少女の言うような名前だったはずだ。老人は「そうだ」と答えた。
国有地だか何だかで入島が制限されていて、観光客はおろか地元民でさえ見向きもしない島だ。
――しかも、あの島には度々幽霊の類が出るという噂もある。こんな少女が一体何の用だろうか?
「そうですか……ありがとうございました」
少女は一礼すると、肩に担いでいたロッドケースのようなものを開き、おもむろに日本刀を取り出した。
びっくり仰天する老人をよそに、少女は何事か小さく呟くと――突如として姿を消した。
「ひぇっ!?」
驚きのあまりその場に尻もちをつく老人の目に、更に信じられない光景が飛び込んできた。
姿を消したはずの少女の姿が、海上にあったのだ。こちらに背中を向け、物凄い勢いで遠ざかっている。海面を走ってである。
少女の姿は、そのまま有喜屋島の方へと消えていったのだった――。
***
「――という話が地元警察に寄せられたのが今朝の事。
遠く有喜屋島を眺める
昨日、大和達から「百合子が姿を消した」と報告を受けてから、沖縄支部に応援を要請し、捜索の陣頭指揮に当たっていたらしい。殆ど寝ていないのだろう、目の下には濃いクマが見て取れる。
「沖縄支部の資料によれば、有喜屋島は負の霊力が溜まりやすい場所で、国有化して普段は立入禁止にしているのだとか……ミナカタの次の標的にはおあつらえ向きかもしれませんねぇ」
「あの島に、百合子が……」
あくびを噛み殺す獅戸をよそに、大和はじっと沖合に浮かぶ有喜屋島を見つめていた。
遠く離れている事もあり、一見すると何の変哲もないただの島に見える。確かにどこか淀んだ雰囲気を感じはするが、沖縄には同規模の霊的
百合子は一体どうやって、あの島がミナカタの次なる標的だと判断したのだろうか? 大和のその疑問の答えは、意外な所にあった。
「ふむ……陛下からお返事が来たぞ。やはり、陛下が百合子に
「陛下が……?」
「うむ。そしてどうやら、康光殿達もあの島に向かっているらしい」
「康光さん達も、あの島に? それで、陛下は他には何か?」
「いや……残念ながらそれだけじゃ。『あとは万事、姫子達に任せる』だそうだ……。この言葉をどう受け取ったものかのう? 陛下には一体、どんな未来が視えているのやら」
スマートホンをいじりながら姫子が漏らす。百合子がいなくなってすぐ、彼女は霊皇にその行方を探すべく助力を願っていた。だが一向に返事がなく、つい先程そっけないメールが一通返ってきた所だったのだ。
姫子の顔には珍しくも不安そうな表情が浮かんでいた。彼女としても、色々と解せない部分が多いのだろう。
康光との再会で動揺していたとは言え、慎重な百合子がミナカタという危険極まりない敵を単身追ったという点。
百合子の状況を把握していたであろう霊王が、彼女にミナカタを追う為の情報を与えてしまった点。
百合子や霊皇の思惑が一体どこにあるのか……姫子も判じかねているのだ。
「さて、先程も言いましたが、私は本島の方で警戒やら指揮やらしなければならないので、一緒には行けません……八重垣くんと七條さんにお任せする事になってしまいます――いいですか? 『無理』と思ったら何はなくとも逃げの一手ですよ?」
念を押す獅戸の口調からは、いつもの怪しい関西訛りが消えている。もしや、いつもはキャラを作っていたのだろうか?
「ボートも、あんなものしか用意できませんでしたが……」
そう言って海岸線に横たわるそれを見やり、獅戸が大きくため息をついた。
――そこにあるのは、どこからどう見ても普通のレジャー用のゴムボートであった。
「なんのなんの、『同調』すればエンジン付きのボートより速いはず! これで十分じゃよ、先生」
「……漕ぐの、俺なんだけどね」
一刻も早く百合子を見付け出したいと思いつつも、島までの二キロメートル近くを手漕ぎで渡らなければならないという事実に、大和もまた大きくため息をつくのだった――。
***
――島に辿り着くと、すぐに異変に気付いた。
「姫、これは……」
「ああ……物凄い負の霊力が渦巻いておる。一昨日の森と同じく、結界の類で覆われておるようじゃ。油断するなよ、大和」
姫子の言う通り、島はその全体が負の霊力に覆われており、霊的直感を持ってしても周囲の気配を完全に窺う事は出来なかった。
有喜屋島は周囲三キロメートル程の小さな無人島だ。琉球石灰岩に覆われた白い地面に、南国の植物が生い茂る原生林の島である。見通しが悪い上に、負の霊力が邪魔をして霊的直感を持ってしても周囲の状況を完全には見通せない。
「とりあえず外周を回ってみよう。途中で林の中に気配を感じたら、そちらに」
大和の提案に姫子も首肯し、二人は島の周囲をぐるりと囲んでいるらしい、白い砂浜を歩き始めた。ボートは流されぬよう林の近くまで引っ張り上げ、備え付けのロープで木に括り付けておく。
「……
どんよりとした曇り空を見上げながら姫子が呟く。雲は厚く垂れ込め、まだ朝方だと言うのに辺りは薄暗いことこの上なかった。
そのまま二人は砂浜を無言のまま歩き続けた。緊張が二人を無口にしていたのかもしれない。周囲には波と風、そして木々が揺れる音だけが響いていた。
――やがてその沈黙に耐えかねたのか、姫子がぽつりと呟いた。
「のう、大和よ……お主は、怖くないのか?」
「はぁ? 突然なんだよ? 怖いに決まってるだろ。あんな化け物……」
ミナカタと対峙した時の恐怖を思い出し、思わず大和は身震いする。あんなのが怖くないわけないだろうと答えた大和だったが、何故か姫子は静かに首を振っていた。
「お主にも恐怖心はある、という事くらいは分かっておるわ。私が言いたいのはな、何故その恐怖心を抱えたまま命を張れるのかという事じゃ。
今回の事だけではない。初めて会った時から、お主は――」
――言いかけた所で、姫子が言葉を止める。
その理由は大和にもすぐに分かった。木々の向こうから、剣呑な何者かの気配が近付いていたのだ。
既に霊刀は抜き放ち、姫子との同調状態にある。大和は慎重に霊刀を構え、その何者かが姿を現すのを待った。が――。
「――む、大和君に……七條の姫君か。まさか、君達までこの島に来ているとはな」
「や、康光さんと桔梗さんか……びっくりしましたよ」
姿を現したのは、康光と桔梗であった。
「近付くもの全て斬り伏せる」と言った攻撃的なオーラを
思わずほっと息をつく大和だったが、安心してなどいられない。すぐにでも確かめるべき事がある。
「あの……お二人とも、百合子を見ませんでしたか?」
恐る恐る大和が尋ねる。今までのつれない態度から、この二人の百合子に対する想いを測りかねていたのだ。もしかするとそっけない答えが返ってくるかもしれなかった。だが――。
「――この島に百合子も来ていると言うのかっ!?」
康光が吠えるような勢いで逆に大和を問いただす。
いつもの
傍らの桔梗も思わず手に口を当て「なんてこと」とでも言いたげな表情を浮かべていた。
「『ミナカタを追う』と書き置きだけ残して昨晩から行方をくらましておるのじゃ。今朝方、単身この島に向かったのを目撃されているのじゃが……その様子じゃと、お二人もまだ百合子には会えておらんようじゃな……。これは……まずくないかのう?」
康光の迫力に絶句している大和に代わり、姫子が答える。
その姫子の顔は既に青ざめていた。康光達と一緒にいなかったという事は、百合子は既に数時間はこの島に一人でいるという事だ。それがいかに危険な事なのか、考えるまでもないだろう。
「……林の中は完全に魔境だ。霊的直感も自分の周囲にしか働かず、そこかしこに死霊型の荒魂が群れをなしている。巫女の助けも借りず単身乗り込むなど――自殺行為だ!」
苛立たしげな康光の姿に、大和はようやく彼の本心を垣間見たような気がした。常に激しさを纏いながらも、ある種の余裕を持って振る舞っていた康光の仮面が今、剥がれ落ちようとしているのだ。
百合子に対するそっけない態度も、あるいは虚飾なのではないか?
その真意を確かめるのは、今しかない。
「……康光さん、きっと百合子が追おうとしたのは、ミナカタじゃなくて貴方達なんですよ」
「なんだと……?」
大和のぶしつけな言葉に、康光が思わず厳しい顔を向ける。だが、大和は臆する事なく言葉を続けた。
「康光さん達の過去に何があったのか、俺も少しだけ聞きました……。だからって、康光さん達の悲しみや苦しみが分かる、だなんて事は言いません……言いませんけど、一つだけはっきりと分かる事があります。百合子は多分、ずっと康光さん達に迎えに来て欲しかったんだと思います」
「――っ」
「小さい頃、百合子はこう言って独りで泣いていたんです。『わたしは、強くならなきゃいけないの』って。俺はずっとあの言葉の意味が分からずにいました……でも、今なら分かる。
百合子は……あいつは自分が弱いから康光さん達に置いていかれたと思ってたんですよ、きっとずっと。だから……だからずっと頑張って、頑張って、誰よりも強くあろうとした。誰よりも強くなれば、今度こそ自分も連れて行ってもらえるからって……」
大和の言葉をどう受け取っているのか……康光はじっと大和の目を見つめながら、彼の言葉に聞き入っていた。
「それに……それに俺、あいつが泣いた所を、今まで一度しか見た事が無かったんです……師匠の奥さんが亡くなった時だって我慢してたのに。……それなのに、康光さんの姿を目にした途端、我慢出来ずに泣いてしまった! その意味、分かりますよね……?」
どうにか言葉を絞り出し終えると、大和は康光の答えを待った。
やがて――。
「……恨まれているとばかり、思っていたのだがな」
康光は静かに、反芻するように、そんな言葉を漏らしたのだった。その顔に浮かぶ苦笑いは、一体何に対して向けられたものか。どんな感情が込められているのか……。
「当然、恨んでもいるはずですよ? お父様。でもそれ以上に、あの子が『お父さん子』だというだけですよ。私と再会した時は、それはもう鬼のような顔で睨まれましたから」
それまでじっと黙っていた桔梗が、やはり苦笑いしながら口を開いた。
確かに、桔梗と再会した時の百合子には怒りしかなかったように見えた。だがそれも恐らくは、愛情の裏返しだったのであろう。
父と姉への愛情が深ければ深いほど、独り置いていかれた事への恨みもまた、大きかったはずなのだ。
「……探しに行きましょうお父様。今度こそ、あの子を独りにしない為に。――大和君、姫子さん、力を貸していただけますか?」
桔梗の言葉に、大和と姫子が力強く頷いた、その時だった。
『探す必要はないわ――』
林の奥から、大和達にとって聞き慣れた――だが絶対的な違和感を伴った何者かの声が響いた。
「なっ――」
林の奥からゆっくりと姿を現したその声の主に、大和が、姫子が、康光と桔梗が揃って凍りつく。それは――。
「百合子!」
娘の姿を認め、康光が思わず叫ぶ――が、決して駆け寄りはしない。何故ならば……何故ならば、百合子はその全身に負の霊力を纏っていたのだ。その手に握る霊刀も、禍々しい黒いオーラを纏っている。
米兵達とも、喜屋武とも異なる様相だが――荒魂に取り憑かれているのだ。
「……意識を保ったまま荒魂を憑依……いや、違うな。まさか、百合子の中の陰なる気そのものに憑依を?」
『ホッホッホッ! 流石は次代の霊皇候補筆頭!
ひと目で百合子の状態を見抜いた姫子の言葉に、何者かが賛美を送る。――否、「何者か」ではない。この状況で、それは一人しか考えられない。
「ミナカタ……!」
その存在に、大和が警戒心を強める。まだ姿は見えないが、恐らく林の中に潜んでいるのだろう。先日感じた絶大な負の霊力の塊が、すぐ近くまでやって来ているのを感じる。
『そうれ娘よ。強くなったそなたの姿を、
ミナカタの言葉と共に、百合子の纏った負の霊力が一気に高まる!
単純な霊力量だけで言えば、巫女と同調した状態の百合子のそれを遥かに凌駕した出力であった。
「おのれミナカタ!! 待っていろ百合子! いまその汚らわしい荒魂を、俺が
「待たれよ康光殿! ここで怨敵ミナカタを取り逃がしては元も子もない! お二人は奴を追うのじゃ! ――百合子の事は、我らに任せよ!」
「しかし――」
「皆まで言うな皆まで言うな! 十二年前からずっと追っておったのじゃろう? 本懐を遂げられよ!」
姫子の言葉に康光が押し黙る。
傍で聞いていた大和は正直訳が分からなかった。「十二年前から追っていた」とは、つまり「幕張事件」の裏にもミナカタが関わっていたという事だろうか? 喜屋武の話では「ケースM」の犯人ついてはほぼ不明なのでは?
――等と思わなくもないが、こういった時の姫子の判断に、大和は全幅の信頼をおいていた。ならば、やる事は一つだ。
「――康光さん、行って下さい。百合子は……俺達が止めます!」
そう言って、大和は百合子と康光の間に割って入るように歩を進める。途端、百合子の陰の気が「邪魔をしないで!」と言わんばかりに大和への敵意を膨らませた。
――正直怖い。間違いなく命がけの戦いになる事が……そして何より、百合子と剣を交えお互いに傷付け合う事が。
だが、大和の中の何かが叫んでいた。「ここは絶対に退いてはいけないところだ」と。
「……娘を、頼む!」
そんな大和をしばし眩しそうに見つめた後、康光は桔梗を伴って林の奥へと分け入っていった。
だが――。
『行かせない!』
負の霊力を撒き散らす百合子が、すかさずその後を追おうとする。
しかし、そこへすかさず大和が立ちはだかり、行く手を阻んだ。
『邪魔しないで!』
怒気のこもった百合子の叫びが、大気を――林の木々を震わせる。霊力が物理的な威力に変換されている証左だった。今の百合子の剣は、霊体を斬り裂くそれではない――物を、そして人を破壊する凶剣なのだ。
一手受け損なえば、明確な死が待っている。
「……姫、もっと離れてろ」
剣風の一つが
「ふん、もっとシャンとせんか大和! 自信を持て! お主は強い!」
そんな大和の弱気を、姫子は鼻で笑ってみせた。「私のサムライが弱い訳がなかろう」と言わんばかりの自信がみなぎっている。
なんとも姫子らしいその言葉に、大和は思わず――目の前に殺意の塊のような百合子がいるにも拘らず――失笑した。「ああ、全くウチの主は大人物だ」と、自然と笑みがこぼれてしまったのだ。
『……随分と余裕だけれど、忘れていないかしら? 大和君は、今まで私から一度も一本取った事すらないのよ?』
その大和と姫子の態度に苛ついたのか、百合子が表情を歪め悪態をついた。普段の百合子からは想像も出来ぬ言動だ。
「そりゃあ、いつもの百合子相手ならな……だけど、今のお前には負ける気がしない!」
そう言って、挑発的に小太刀の切っ先を百合子に突きつける。その態度が、ますます百合子の怒りの炎に油を注ぐ。
『後悔しても……知らないから!』
百合子の中の黒い殺意が、一気に膨れ上がる。だが対照的に、大和の霊力は静かなる泉の如き
――功一郎から「高いレベル」と称された大和の「水鏡の形」だが、無論、常ならば百合子には通用しない。百合子の技の冴えはまだ大和より高みにあり、彼我の実力は覆し難い。
だが、今の百合子には、おおよそ冷静さというものが欠けていた。
先程、姫子は「荒魂が、百合子の中の陰なる気そのものに憑依している」と言った。「陰の気」とは即ち負の感情――激しい怒りや恨み、悲しみや嘆きの事を指す。
霊力をコントロールする上で、それら感情は邪魔者でしかない。唯一、静かなる怒り――悪や理不尽を許さぬという不退転の信念――はむしろ霊力に寄与するが、今の百合子の中に渦巻いているのは、妬みや
――ならば、大和が付け込むべきは正にその一点。
「来い、百合子――今日は、俺が勝つ」
微笑みにも似た不敵な表情を浮かべたまま、大和は再度、百合子を挑発するのだった。
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