6.覚醒

 今、大和の周囲に広がっている世界は、いつもと同じでありながら決定的に異なる物だった。例えるならば「五感が果てしなく拡張した」状態と言えばいいだろうか。


 目はより遠くまではっきりと、そして詳細に像を捉えていた。デジタルカメラに例えれば、「解像度が格段に上がった」といったところだろう。


 耳もそうだ。今までよりも遥かに遠くの音まで聞こえるようになったばかりか、今この場にいる沢山の人間の囁きやつぶやき、その吐息までも聞き分けられる――そんなクリアさを感じる。


 触覚や嗅覚、味覚も研ぎ澄まされているのだろう、まるで見えない腕で周囲を手探っているかのように、気配だけで空間を把握できた。今、この場で誰がどこにいて何をしゃべり、どんな動きをし、どんな状態なのか――今の大和には手に取るように分かった。


「ここまでとは予想外じゃのう……」


 当然、近くにいる姫子のそんな小さなささやきも、周囲の雑音に紛れてしまうような事は無い。


「っと、感心している場合ではないな。よいか、時間が無いから手短に説明するぞ。今、お主は恐ろしい程に五感が研ぎ澄まされているように感じておるだろうが、それだけではない。お主の体にみなぎっているのは、『地を音よりも速く駆け抜ける』と言われた『サムライ』の力じゃ」

「サムライの……力!?」

「そうじゃ……詳しい原理は長くなるので省くが、今、お主は大地の霊脈と繋がっている状態にある。その恩恵で五感や身体能力が著しく向上しておるような状態じゃ! 厳密にはちと違うんじゃが……今はとりあえずその程度の理解でよい。

 更に、感じるじゃろう? お主の周囲を包む、霊力の加護――『守護結界』を」


 そう、姫子に言われる前から大和は気付いていた。自分の体を包む、温かで目に見えぬ何か膜のような存在に。


「その守護結界が消えぬ内は、お主の体はよほどの事が無い限り傷一つ付かん。炎も、熱も、煙も、その身に届く前に遮られる……もちろん、限度はあるがな」

「これなら……行ける!」

「おっと、はやるな。最後に注意点じゃ。お主の運動能力は今、常人を遥かに超えておる。考えなしに全力を出すではないぞ? 初心者にありがちなのじゃが、力み過ぎてらしい。力加減を常に意識せよ。さすれば、次第にコツも掴めてこよう――後は霊力が導いてくれる」


 大和は静かに頷いた。

 実を言うと、姫子の言っている事の殆どを、大和は既に本能的に理解していた。「霊力の導き」とやらの力なのか、大和は今、自分がどの位の熱や衝撃に耐えられ、どの程度速く走れ高く跳べるのか、感覚的に理解出来ているのだ。

 「霊力の導き」とは、即ち第六感のようなものなのかもしれない。


『……もしもし、やまと? さっきから……誰と……話してるの?』


 携帯電話から薫子の声が漏れる。姫子と話す間、大和はずっと電話のマイク部分を塞いでいたのだが、それでも幾分か声を拾っていたかもしれない。


「大丈夫。そのまま、電話切るなよ」


 静かに答えながら、大和は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。

 携帯電話から伝わる薫子の吐息、目の前で黒煙を上げるビル、ビルの中で渦巻く炎と風の音、空気の流れ、薫子の携帯電話に伝わっているであろう周囲の雑音と大和自身の声――遠くにサイレンの音が聴こえる、だが到着まではまだ少しかかるだろう――余計な情報を遮断し、更に意識を集中させた。


「――六階のトイレ、だな」

『え――?』

「男女、どっちだ!?」

『え、ええ!? ええっと、女子……ってそうじゃなくて、やまと、なんで――』

「待ってろ」


 薫子の返事を待たず、携帯電話を通話状態のままポケットにしまい、大和は駆け出した。


(――凄い)


 駆け出した瞬間、既に大和の姿はデパートのエントランス内にあった。傍から見ている者があれば、大和が瞬間移動したように思えた事だろうが、恐らくは姫子以外に気付いた者はいないだろう。

 「霊力の導き」が教える感覚や姫子のアドバイスから、「そっと」駆け出した為に音は殆ど立たなかったはずだが、それにしたってあの速度である。周囲に突風が渦巻いてもおかしくないのだが、実に静かな物だった。

 「五感や身体能力が著しく向上しておるような状態だが、厳密には違う」と姫子は言っていたが、確かにこれはただ単に物理的に肉体が強化された訳ではないようだ。自分の肉体だけではなく、周囲の空間にまで物理的な影響が及んでいる事は明らかだった。「守護結界」とやらが何か関係しているのかもしれない。


「っと、考えるのは後だ」


 エントランスからデパート内に踏み込むと、既にそこは黒煙と高熱に支配された灼熱地獄と化していた。恐らく「守護結界」が無ければ、大和は数秒を待たずに熱で気管を焼かれるか、煙に巻かれて窒息するかしていた事だろう。


 既に停電してしまっているのか、電灯は軒並み消え薄暗い。非常灯も殆どが熱で壊れてしまったらしく点灯していなかった。

 窓際から僅かに照らす外明かりと、中央にあるエスカレーター付近で激しく渦巻く炎の輝きが鈍く辺りを照らしているのが、実に不気味だった。


(エスカレーターは……駄目だな。炎が強過ぎる。階段は……行けそうだ!)


 理由は分からないが、エスカレーター付近は激しく燃え、半ば焼け落ちていた。階段の方はと窺うと、煙が充満してはいたが火の勢いは強くない。

 意を決した大和は、文字通り一足飛びで階段を駆け上がっていった。


 ――六階は文字通り火の海だった。

 普段は催事スペースとして使われるこのフロアでは、確か各地の有名洋菓子店を集めたフェアが行われていたはずだ。そして今日はその最終日、もしかすると、搬出用の荷物や段ボール箱が数多くまとめられていたのかもしれない。よく燃えているのはそのせいか。

 薫子が避難していると思しきトイレに行くには、この灼熱のフロアを突っ切らなければ行けなかった。


(――行くぞ!)


 意を決して、駆け出す。炎と煙の真っ只中に突っ込む事になったが、「守護結界」がギリギリの所で護ってくれているらしく、「物凄く熱い」が耐えられないほどではない。一瞬で炎の海を渡り切ると、フロアの反対側へと辿り着いた。

 ここのトイレは少々特殊で、フロアの隅から延びる細長い通路を進んだ先にある。設計ミスなのか何なのか、大和の窺い知るところではなかったが、売り場フロアから距離があり途中に激しく燃えるようなものが存在しなかった事が、今は薫子の生存に繋がっている訳なのだから、感謝したい想いだった。

 そして――


「お待たせ」


 果たして、薫子はそこにいた。

 女子トイレの中で、水を張った洗面台の前にしゃがみこみ、濡れたハンカチを口元に当てながら、大和と通話状態にある携帯電話を握り締めていた。


「――来ちゃったんだね、大和」


 意外にも、薫子の顔に驚きの色は無い。むしろ達観や諦観ていかんのようなものさえ感じるのは、大和の気のせいではないはずだ。


「来ちゃ悪いか」

「うん、悪い! ――けど、ごめん。すっごくうれしい」


 すぐに泣き笑いの表情を見せ、いつもの雰囲気に戻った薫子の姿に、大和は嬉しい苦笑いを隠せなかった。


「さて、ここも煙が限界だ。早く出よう。ほれ、立てるか……って無理そうだな。仕方ない、ヨイショ!」

「わわわ、やまとー?」


 薫子の足元がおぼつかないと判断した大和は、薫子を抱え上げた――俗に言う「お姫様抱っこ」の形で。


「息子にお姫様抱っこされるなんて……生きてて良かったわぁ」

「今回だけだぞ……さて」


 問題は脱出方法である。

 フロアの火の海は、薫子を連れて駆け抜けるには危険過ぎる。そもそも、あの高速移動に薫子の体が耐えられるのか、という問題もある。ならば――。


「ちょっと近道するぞ」

「へ? 近道?」


 訳が分からないといった表情の薫子には答えず、大和はおもむろにトイレの奥の壁に豪快な蹴りを放った。


「フンっ!」


 ――『力み過ぎて走り出す瞬間に足場を踏み抜く奴いる』というサムライの力。ならば逆に、壁を蹴破るのも容易いのではないか? そんな単純な大和の発想だったが、これが大正解だった。

 この女子トイレは建物の一番隅に位置している。更にこの「國丸デパート」は、古い上に補強工事が杜撰ずさんである事で有名だ。大和の蹴りは、まるで薄いベニヤ板でも貫くかのように壁に大穴を開けていた。

 あまりの事態にポカンと口を開けていた薫子だったが、次に大和が取った行動は更に驚くべきものだった。


「ちょっと目つむってろよ」

「え? ちょ、やまと? もしかして――」


 ――薫子が言い終わる前に、大和は壁の穴から外へと飛び出していた。

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