5.校長室にて

 大和と藤原の立ち合いは、終わってみればまともに打ち合ったのは僅かに一合、時間にして五分少々のものだったが、大和はマラソンを走り終わった後のような、体の芯まで残る疲労を感じていた。


「流石にお疲れみたいね」


 そんな大和の様子に、少し前を歩く百合子が声をかける。その表情は心なしか少しだけ優しげだった。


 ――結局、藤原との立ち合いは大和のボロ負けであった。

 地稽古にはそもそも勝敗という概念はないが、あの時、渾身の一撃を藤原の返す刀で盛大に弾かれ、バランスを失った大和はそのままの勢いで転倒、その時点で藤原は剣を引き「ここまでとしよう。……あとで校長室まで来たまえ」とだけ言い残して道場から去って行ってしまったのだ。

 もしあれが真剣勝負だったならと考えれば、完全に大和の敗北である。


「冗談抜きで竹刀稽古の百倍は疲れた。いい所も見せられなかったから更に疲れた……」

「……いい所は、見せられたと思うわよ」

「え? 今、なんて?」

「……着いたわ。ここが校長室よ」


 ボソッと呟かれた百合子の言葉が聞き取れず問いかけた大和だったが、百合子はそれに答えず、校長室のドアを4回ノックし中からの反応を待っていた。

 大和も仕方なくややモヤモヤした気持ちを抱きながらも待っていると、やがて中から「どうぞ」という男の声がした。百合子がドアを開け、「失礼します」と言ってから室内に入るのを見て、大和もそれに倣って続けて入室する。後ろから着いてきていた薫子、功一郎、姫子も各々順次入室した。


 校長室は思ったよりも手狭だった。奥に長細い造りで、部屋の中央には長テーブルと8人分のソファ、部屋の奥、つまり窓側に校長のデスクが鎮座し、部屋の隅に申し訳程度の書棚や戸棚が置かれている。

 ――部屋の中では三人の人物が大和達を出迎えていた。


 一人は藤原、先ほどと同じ道着姿のまま、校長のデスクの傍らに控えている。

 デスクの向こうで「いかにも」な革張りのチェアに座っている初老の男性は、恐らく校長その人だろう。

 そしてもう一人、ソファに腰掛けている老人がいた。年の頃は70代と言った所だろうか、上等そうな着物に紋付の羽織姿の眼光鋭い老人だ。頭髪と同じくロマンスグレーの立派な口ひげをたくわえており、「ダンディ」という言葉がよく似合う印象を受ける。手にしたステッキは洋風のものだが、違和感なく実に見事な「和洋折衷」の魅力を醸し出していた。

 大和の記憶が確かならば、老人の座っているのは一番の上座であるはずなので、校長と同じか、それ以上のお偉いさんなのかもしれない。


「おう、来たかね八重垣君」


 やけににこやかな表情で出迎える藤原に、大和も思わず愛想笑いを浮かべ「どうも」等と言いながら会釈する。てっきり自分のふがいなさにガッカリして足早に去っていったものだとばかり思っていたので、大和にしてみれば実に拍子抜けする反応だった。

 続けて校長が立ち上がり「校長の亀田です」と実に短く挨拶を終える。巨漢の藤原に対して亀田校長はやけに小柄であり、こんな迫力不足な人に校長が務まるのだろうか? と大和はやや失礼な印象を抱いてしまっていた。


 そして残る一人、羽織姿の老人も静かに立ち上がり、その鋭い視線を大和に向ける。

 値踏みするような眼差しに緊張する大和だったが、老人は何やら納得したような表情を見せると視線を何故か大和の背後に――薫子に移し、静かに口を開いた。


「――久しいな、薫子」


 老人の意外な言葉に思わず大和も薫子の方を見やる。そこにはいつになく神妙な表情の薫子の姿があった。


「……ご無沙汰致しております、おじ様」

「大きく、そして美しくなったな。……母上によく似てきた」

「い、いやだわ、おじ様。もったいないお言葉ですわ……」


 何やら愛おしそうな表情を向ける老人と、彼の言葉にほんのりと頬を染め乙女のように恥じらう母の姿に、大和は混乱の極地にあった。

 「久しい」「大きくなった」という老人の言葉からすると、どうやら二人は薫子が子供の頃からの知り合いらしいが……どうにもただならぬ間柄のように思われた。

 ――この二人は一体どんな関係なのか? それを尋ねるべく大和が恐る恐る口を開こうとしたその時、姫子の口から更に驚くべき言葉が飛び出した。


「なんじゃ、お爺様ではないですか。いらしていたのですか?」

「とぼけた事を抜かすな姫子。お主が査問委員会でゴネにゴネたお蔭で、尻拭いとして儂が最後まで立ち会う事になったのだろうが。知らぬとは言わせぬぞ?」


 「お爺様」と言っている以上、老人はどうやら姫子の祖父に当たる人物らしい。そして薫子の昔馴染みでただならぬ仲……。

 一体全体何がどうなっているのか理解できず、大和は助けを求めるように母である薫子に顔を向けた。老人に恋する少女のような視線を向けていた薫子だったが、息子の困り果てた表情に気付くと急いで姿勢を正し、一つ咳払いをしてようやく大和に向き直った。


「……コホン。大和、こちらは七條景虎しちじょうかげとら様。旧公爵家でもある七條家ご当主で、亡くなった私の母……あなたのお祖母様のご友人、私の養父でもあった方です。ご挨拶を」


 いつもの甘ったるい喋り方ではなく真面目モードの薫子に面食らいつつも、大和は急いで老人――七條景虎に頭を下げる。


「は、初めまして! 八重垣大和と申します! そ、その……よろしくお願いします!」


 急な事で上手く言葉を継げず緊張の高まる大和だったが、景虎は気にした風もなく、先ほどまでとは打って変わって柔和そうな表情を浮かべていた。


「うむ、七條景虎だ。よろしく頼む。本日は当校の特別顧問を代表して、この場に立ち会わせてもらった。――お主とは一度、会ってみたいと思っていたのだが、まさかこうして実現するとはな……」


 何やら感慨深げに呟く景虎。その口ぶりからは自分の存在を以前から知っていた事が窺え、ともなれば薫子が秘して語らぬ自分の出生――特に父親の事について詳しく知っているのではないかと大和は思ったが……むしろを大和は危惧していた。


 「養父」と薫子は言ったが、二人の間に漂う微妙に甘ったるい雰囲気はただの「親子」のものとは思えない。

 景虎は「旧公爵家の当主」であると薫子は言った。貴族制度が廃止されてもう何十年も経つが、今でも一部の家系はある程度の権威を持っていると聞く。景虎や姫子の身なりを見ても、七條家は少なくとも裕福な一族である事が窺える。

 大和は「特別顧問」について詳しくは知らなかったが、言葉の響きからしてそれなりの身分の人間でなければ務まらないものなのだろうとは察せられる。――そんな社会的地位の高い景虎が、もし万が一養女と


 更に言えば、もし過ちの結果、

 今まで、母も周囲の大人達も、誰もが大和に「父親」の話をしてくれた事は無かった。きっとそこには話したくない理由があり、とするならばどちらにしろ自分が聞いても面白い事はないのだろう等と思っていたが、それでもいくつかのケースを想像する事が無かったわけではない。

 その想像の中には、「やばい筋の隠し子」というものもあったのだが……今、大和の脳裏に浮かんでいる妄想は正にそれに近いものだった。


(もしや、本当にこの人が……?)


 バカげた妄想だと理解しながらも、同時に真剣にその可能性を考えている自分に気付き、大和の混乱は増すばかりだった。

 不用意に口を開けばとんでもない事を言い出しそうな自分を大和が必死に抑えていると――


「何やら怪しい雰囲気じゃのう……よもやお爺様よ、薫子殿に手を出してはおるまいな?」


姫子が正にその「とんでもない事」を言い出した。


『――っ!』


 あまりにもストレートな姫子の言葉に、一同は思わず凍り付いた。どうやら薫子と景虎の間に漂う微妙に艶っぽい雰囲気を、この場の誰もが感じていたらしい。何故か功一郎だけは微笑ましいものでも見るような表情を浮かべたままだったが……。

 そして肝心の当人達はというと――。


「姫子よ、お主が儂の事をどういう目で見ていたのか良く分かった。……後でその腐った性根を叩き直してやろう」

「あらあら姫子ちゃん、おじ様のような紳士がそんなご無体をされるわけがないじゃない。冗談でもそういう事を言っては駄目よ?」


 動揺した様子もなく、景虎は「心外だ」と言わんばかりに憮然とした表情を浮かべ、薫子も静かに姫子をたしなめるだけだった。


「なんじゃ、違うのですか? てっきり大和に『私がお前の父だ』等と言うのかと思いましたぞ?」

「しつこいわ! 無いものは無い!」

「そうですかそうですか。まあ、私としても大和がだ等と言われても色々困るからのう」


 「いやいや何事も無くて良かった」等と言いながら謎の高笑いを見せる姫子の姿に、景虎、亀田校長、藤原、そして百合子の四人がほぼ同時に深いため息を吐いた。

 どうやら四人とも、姫子のエキセントリックな言動に日々悩まされているらしかった。


「……ええと、そろそろお話を始めても良いでしょうか?」


 亀田校長の控えめな発言で、ようやく一同は本来の目的を思い出し、お互いに顔を見合わせると苦笑いしながら各々ソファに腰掛け始めた。

 全員が席に着いたのを見計らって、校長が話を切り出す。


「さて、本日は八重垣大和君の本校への転入の件についてお話しする為に皆様にお集まりいただいた訳ですが……藤原先生、七條特別顧問、実技試験の結果については、先ほどお話しいただいた内容で間違いありませんか?」

「私からは先ほど申し上げた通りです」

「査問委員会としても、藤原君の判断に異論は無い」


 校長の問いに藤原と景虎がそれぞれ答える。


「……分かりました。さて、八重垣大和君」

「は、はい!」

「当校への転入希望の意志に変わりはありませんか?」

「……はい」


 正直、先ほどの実技試験の内容ではとても合格できたとは思えないのだが、それでも大和は自らの決意を示す為、力強く校長の問いに答えた。


「……よろしい。では、御霊大附属東高等学校校長の名において――八重垣大和君、貴方の当校への転入を許可いたします。どうか、立派なサムライを目指してください」


 そっと立ち上がり手を差し出した亀田校長の姿を、大和はしばらく不思議そうに見つめていたが、はっと我に返ると急いで立ち上がりその手を握った。「合格だ」と校長は言っているのだ。


「はい、ありがとうございます! 頑張ります!」


 先ほどから自分は「はい」ばかり言っているな、と苦笑しつつ、大和は傍らの薫子、百合子、功一郎、そして姫子に順番に顔を向ける。言葉はなかったが、皆それぞれ笑顔で大和に「おめでとう」と言ってくれているように見えた。

 そして次に、大和は藤原に顔を向けた。どうしても聞いておきたかった事があるのだ。


「藤原先生……先ほどの立ち合いですが――」


 あの内容でどうして合格なのか、それを聞いておきたかった。


「みなまで言うな八重垣君。さしずめ先ほどの立ち合いの結果に納得がいっていないのだろうが……誰が見ても立派な『合格』だったぞ?」

「でも、最後に俺は――」

「八重垣君、あれはな、あの最後の一撃はのではなく私がのだよ」

「……どういう事ですか?」

「あの立ち合いで私は自らに一つの制約を課していた……それは『受けぬ』という事だ。打たれる前に打つ、打たれたら受けずに躱す。君にとっては不本意かもしれないが、ハンデとして、な」

「――あっ」


 確かに、あのわざとらしい上段の構えもそうだったが、藤原が何らかのルールに則って手加減をしているのは大和も感じていた。しかしそれが具体的にどんなルールだったのかまでは分かっていなかったのだが、藤原の今の言葉でようやく合点がいった。


「誤解しないでもらいたいのだがね、そもそもの私のスタイルは『攻撃こそ最大の防御』なのだよ。だから『受け』を封じた所で私の戦法に大きな影響はない……そしてその私に、君はをさせた。この意味が分かるかな? 更に言えば、そもそも今回の試験で私が一番見たかったのは、いざ『真剣勝負』となった時に君がどう戦うか、という点だ。そういった意味では、最初の時点で君は既に合格していたのだよ、八重垣君」


 最後に、ウィンクして見せる藤原。

 禿頭のゴツイ中年男にはおおよそ似つかわしくない仕草だが、どこかユーモラスな雰囲気があり、大和は思わず苦笑していた。

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