第5話 いろいろな人がいるものだ

 校舎の周りでは桜が咲き始めているというのに、私には冷たい影が揺らめいていた。言うまでもなく、その正体はやりたい事とは何かという問いと、人に認められたいという、行き場のない私自身の欲望である。だから帰宅部の私が担任の新山先生にせがまれてホームルームの手伝いをすることになったのは幸いかもしれなかった。


 私が自分の下僕体質を自覚するのはこういう場面である。ただひたすらプリントをまとめてホチキスで留める。学級委員の西井さんは黙々と作業をこなしている。西井さんも他校から受験して来たのだろう。面倒なことを押し付けられるのはクラスの中のグループからはぐれた者と相場が決まっているが、孤立した生徒が投票によって学級委員に仕立て上げられるのは拷問ではなかろうか。青白い顔をしてまったく生気が感じられない。


 お互いに、何か話さないと気まずいかなあ、という雰囲気を出しているのがかえってつらかった。


 全部のプリントをまとめ終えて西井さんに手渡す。


「あ、ありがとう…千覚原さん。」と西井さんは私に言った。眼鏡の奥で西井さんの漆黒の瞳に光が差した。陶器のような肌、すらりと伸びる手足。鼻筋は通っている。唇は薄くピンク色で、あごも小さい。ストレートの髪はいわゆるおかっぱで、生まれたままの色で肩まで伸びている。

 よく見るとけっこう美人なのでは。


 『ちかくはら』なんて読みにくい苗字だから、こんな風に呼ばれる事なんてめったにない。「どういたしまして。」と私は照れながら言った。


「あの…。」と西井さんは続ける。


「ん?」私は口角上げを心がけて応じた。


「宮本さんに聞いたんだけどね、千覚原さん…文芸部なの?」


「ううん、違うけど…。」


 迷ってるけどねって言った方がいいだろうか。そう思っていると、西井さんは「得能さん、いるよね。文芸部に…。」とつぶやくように言った。


「あ、美咲と知り合いなの?」西井さんの口から意外な名前が出たので私は驚いた。


「そういうんじゃないけど…。」

 西井さんはうっすらと広がる顔の火照りを抑えるように頬に手を添えて「得能さん、かわいいよね…。」とうつむきがちに言った。


 そうでしょう?と得意になるわけにもいかず、どう返答したらいいものかと思ったが、ここは話題を替えるべきだと判断して「西井さんは何か部活に入ってる?」と訊いてみた。


「私、吹奏楽部なんだけど…最近、仕事とかが忙しくなっちゃって…行けてないの。」


「へえー、仕事してるんだ!何のバイト?」


「モデル…。」


「もでる?」

 一瞬、この子は何を言っているのだ?と思ったが、待てよ、と記憶をたどって、美咲がよく買っているファッション雑誌の専属モデルの西井ありさが、目の前にいる西井さんだという事に気がついた。


 私は突如告げられた衝撃の事実に目を見開く。

西井さんはうつむきながら「ごめんね…こんな私で…。」と心底申し訳なさそうに言った。


 私は西井さんの手を握り「え…!なんか…こちらこそ光栄です!!」と言うのが精一杯だった。

西井さんは顔を真っ赤にして、ありがとう、としぼり出すような声で言い、弱々しく私の手を握り返してくれた。


 モデルを目指していたわけではなかった、と西井さんは言う。彼女はアニメ好きが高じて声優に憧れるようになり、14歳の頃に東京で毎年開催されているオーディションに応募した。オーディションは最終選考で落選したが、受賞者の発表のあとで関係者に呼ばれてタレント部門に入らないか、と誘いを受けたらしい。

 もちろんはじめは断ったのだが、子役から声優になる子も多いからと口説かれて現在に至る。引っ込み思案な自分を変えたいという思いもあったという。

 彼女に声をかけた事務所の社員は慧眼であろう。いまはマネージャーになってくれていると西井さんは言った。


「芸能人ってみんな東京に住んでるんじゃないの?」と私は訊いた。


「芸能人はみんな東京に住んでるよ…。」と西井さんはかぶりを振った。

そしてすぐ矛盾に気づいたらしく「私くらいの年頃の娘は…親御さんのところから通っている人も多いの…。」と続けた。


 なんかスゲーな。


 私たちは作業を終えると資料を抱えて職員室に向かった。廊下を歩きながら、西井さんに機会があったらまた改めて色々聞いてみたいな、と言うと、平日はこっちにいるからいつでも声かけてね、と連絡先を交換してくれた。


 いろいろな人がいるものだ、という当たり前の感想が頭に浮かぶ。

求めていた結果とは違っても、自分の理想に向かって進んでいる西井さんが輝いて見えた。


 新山先生に資料を渡して私たちは職員室を出ようとした。

すると新山先生が私に家庭訪問の事で話がある、と声をかけてきた。


「そんなものありましたっけ?」


「もちろんあなただけよ。」

できれば言いたくはないのだが、というような、ちょっときつい口調で先生は言った。


「え。」


 新山先生は椅子に座ったままでこちらを向いて私と正対し、足を組み直した。

そして話をつかみかねている私にこう言った。


「あなたと得能さんとのいやらしい関係をご両親に相談させて頂きます。」

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