第32話:結婚するべきお年頃(Celebration)

 土曜の朝は寝ていたい。外がどれだけ爽やかな天気でも、通りにパレードが出ていても、マドンナが起こしに来ようとも、とにもかくにも、寝ていたい。

 金曜は派手に夜更かしをして、土曜の朝は死んだようになる。それが独身サラリーマンのささやかな幸福で、その権利はいかなる理由をもってしても剥奪されるべきではないと、おれは信じている。しかし、その権利と毛布を剥奪する男がここにひとり……。

「いつまで寝てるつもり? ぼくはもうとっくに支度し終わったよ?」

 ポールはそう言いながら、おれの毛布を無情にも引っ剥がした。

「頼む……あと一時間寝かせてくれ……」

 枕に顔を埋めて懇願すると、彼は「モタモタしてたら人気の商品が売り切れちゃうよ」と、セールスマンのようなことを言う。

「きみの好きなチーズもなくなっちゃうけど? それでもいいの?」

「いい……そこらのスーパーで買う……」

「まったくもう」

 休日の朝は基本的に睡眠を優先しているが、ポールが休みの土曜日は、ちょっと違ったことになる。彼が目的としているのは恋人虐待ではなく、ファーマーズ・マーケットと呼ばれる青空市だ。そこらのスーパーで売っているようなものではなく、無農薬の野菜や、放し飼いの鶏が生んだ卵ど、農作物から加工品まで、さまざまなオーガニック食品を取り扱っている。

「ぼくは言ったよね? “そんなに飲んで明日は起きられるの?”って」

「そうだな……おれが間違ってた……完璧に起きられない……」

 ポールは健康的な食品の購入に意欲的かつ、地元の農家を支援したいという意識の高さを持っているが、恋人に対しては情け容赦ない態度が目立つ。しかしこっちは計画性のない飲酒をし、恋人との約束を破ろうとしているのだから、正当性は主張できない。もしここに陪審員がいたら間違いなく不利だ。

「頼むから……陪審員の性別は男女平等で、人種もバラバラにしてくれ……白人女性ばっかりってのは無しだ……」

「陪審員? 何言ってるの? ほんとにもう起きてったら!」

 ポールはぴしゃりとおれの尻を叩いたが、おれは頑固に目を閉じたまま。たとえ樺の木の枝で叩かれようとも、この眠りは死守するつもりだ。そもそも抵抗の意欲は眠気によって奪われている。

 彼は無言でおれの尻を叩き続けた。一発、二発、三発……。おかしな趣味に目覚める前に起きた方がよさそうだ。

「……わかった。仕方ない、起きるよ」

 降参して両手を差し出すと、ポールがそれを掴んだ。おれはその手を勢いよく引っぱり「引っかかったな!」と叫びながら、彼の身体を押さえ込む。毛布にくるんで抱き抱え「このまま眠りの沼に引きずり込んでやる!」と高らかに宣言すると、ポールは「そんなに上手くいくと思う!?」と、反撃を開始する。彼は毛布を払いのけ「ぼくはきみの弱点を知り尽くしてるんだ!」と言い、おれの脇腹や足の裏など、くすぐったがるような場所を攻めてくる。

 恋人とのプロレスごっこは休日の醍醐味? もっとセクシーな内容であれば、そうかもしれないが、おれたちのは小学生男子のノリで、ロマンティックな気配にはなりそうもない。

「ああ……馬鹿をやってたら目が冴えた……」

 本当に降参し、ようやくベッドから足を降ろすと、ポールは「すぐにシャワーを浴びて」と命令した。

「服はぼくが出しておいてあげるから。早く」

 二人で協力すれば支度も早い。素晴らしい休日の始まりだ。



 この季節、大抵の市場はクローズだが、ユニオン・スクエアのファーマーズ・マーケットだけは通年開いている。そのおかげで季節を問わず叩き起こされるわけだが、実のところ、おれは市場は嫌いではない。

 カラフルな野菜や果物を眺めながら、リンゴのチョコがけをかじり、ホットアップルサイダーで身体を暖める。購入するのは大好物のチーズに、ハンドメイドのジャムとピーナッツバター。そこにメープルシロップを追加する頃には、ショッピングバッグがずっしりと重たくなっているが、後の楽しみを思えば何てことはない。

 ポールは美容用品に興味があり、今回は手作りのヘアパックと石鹸を買っていた。どれもオリジナルのパッケージが可愛らしく、これらはプレゼントにも良さそうだ。最後に彼はスノードロップの鉢植えを、おれはラナンキュラスの切り花を買って、ショッピングは終了。コーヒーショップでゆっくり休憩してから帰宅しても、まだ午前10時台だ。

 家に着くと携帯に着信があった。「寝てるとこ、ごめんなさいね」とママが言う。

 おれは食材を冷蔵庫に仕舞いながら、「なんで寝てるって決めつけるんだよ?」と不機嫌に応える。「おれたち今帰ってきたところだぜ?」

「あら、朝帰りなの?」

「違うよ。早起きして朝市で野菜を買ってきたんだ。休日だからってダラダラしてるわけじゃない」

「まー、健康的でいいじゃない? ポールのおかげであなたも長生きできそうね?」

 息子が自発的に朝市に行くはずがないと見抜いているママ。彼女の言う通り、ポールといる限りおれは健康で長生きできるのかもしれない。

「あのね、わたしが送ったパンフレット、もう届いたかしら?」

「パンフレット? いやまだ来てないみたいだけど? 何かのカタログ?」

「教会のパンフレットよ。あなたたち、付き合ってしばらく経つでしょ。同性愛者であっても、こういうことはちゃんとしといた方がいいと思うの」

「なにそれ? おれに結婚を勧めてるの?」

「今は進んでるわよねえ。同性同士の結婚式を執り行う教会って結構あるんだから」

「ゲイでも結婚できる教会を見つけたから結婚しろって? 何だか横暴な話だな」

「こういうことは勢いが必要なのよ。一生に一度のことだから慎重になる気持ちもわかるけど」

「世間には一生に一度じゃない奴もいるようだけどね」

「そういうのは例外。マイノリティは勘定に入れないの」

 アメリカの離婚率は50パーセント。その数字はマイノリティと数えるべきじゃない。だいたいゲイこそがマイノリティじゃないか。

「結婚式はとても素晴らしいものよ」とママは言う。「皆に祝福されて、一生の相手と神様の前で結ばれるのだもの」

「よく言うよ。その結婚式から数年後、夫が家出をして、二十年以上も行方をくらましていたこと、もう忘れたの?」

「終わりよければすべてよしってね。小さなことにはこだわらないの」

 あれが“小さなこと”だとしたら、ママはおそろしく寛大な人間だ。かつての不幸がちっぽけに感じられるほど、現在の結婚生活が充実しているのは結構なことだが、息子にまでそれを押し付けるのはどうかと思う。

「あのさ、ママ。おれは結婚という形式にこだわるつもりはないんだよ。パートナーと愛し合って暮らすのは、どこかに書類を提出しなくてもできることだからね。パリでは法的に結婚してるカップルはほとんどいないって知ってる? アメリカは保守的すぎるんだ」

「神様の前で誓いたくないの?」

「別に」

 現在おれの生活は充実していて、何かを(たとえば“結婚”などを)人生に付け足さねばならないと感じることはほとんどない。そんな息子の気持ちも汲まず、ママは「いいかげん大人なんだから、出たとこ勝負みたいな生き方はおやめなさい」と説教をする。

「あんただけのことじゃないのよ。ポールにも将来はあるんだから」

「将来って何だよ? このままだったら彼が不幸になるとでも?」

「もっと先の事を考えなさいと言ってるの。人生のパートナーを決めるべき頃合いよ」

「先の事なんてわかるかよ。あえて選択しなくても、死ぬときに隣にいた人間が人生のパートナーだ」

「あらそう。看護婦さんとか?」

 上手い切り返しだが、ちっとも笑えない。ここで結婚を決断できなきゃ、いずれポールに捨てられ、年老いたおれを看取るのは看護婦くらいのものだと、ママは言っているのだ。

「あなた方が子供を持つつもりなら早い方がいいわ。子育ては体力勝負よ。養子を取るにしても、代理母を頼むにしてもね」

 結婚するなんて言ってないのに、もう子供の話になっている。この調子だと五分後には、どこに墓を立てるべきかと言い出すことだろう。

「ママはね、孫をこの手に抱くことがあるなら、生きているうちにと思っているの。冷たいお墓のプレートの上で遊ばせるんじゃなく」

 予測通り、墓の話になった。年寄りはどうしてこう死を軽々しく口にするのか。

「わたしが元気なうちに、あなたにしっかりして欲しいのよ。ママの気持ち、少しは伝わっているかしら?」

「まあね……」

 理不尽な申し入れだが、“気持ち”という観点に立てば、それはわからないでもない。おれだってママを喜ばせてやりたい“気持ち”はある。だがそのためだけに人生を選択するのは間違っているはずだ。

 子供の頃、母と姉の勧めに従って、バレエの教室に通ったことがある。二人が喜ぶならと思って始めたものの、同級生にタイツ姿をからかわれて散々な目に合い、結局一ヶ月もしないうちに辞めてしまった。おれは意地悪な同級生を憎み、母と姉を恨んだ。そして何より、不本意なオファーを受け入れた自分を許せなかった。そのときの教訓は『人から勧められたとしても、自分が納得出来ないことはやるべきではない』ということ。仮にその試みが失敗した場合、自分が承諾したにも関わらず、他者に責任を転換するようになるからだ。

 母の説教は、冷蔵庫に食材を仕舞い終え、それからコーヒーを淹れて部屋に行き、パソコンのメールをチェックし終わってもまだ続いていた。やたらと疲弊する電話を何とか切り上げると、ポールが茶色の包みを持って部屋に現れた。

「おかあさんから何か届いてるみたいだけど?」

「ああ、それか。開けなくていいよ」

「何? 雑誌?」

「違う。パンフレットだ」

「何の?」

「ゲイでも結婚式ができる教会の。ママはおれたちに結婚してほしいってさ」

「そうなんだ」

「まったく、馬鹿なことを言い出したもんだ」

「親ならそういう気持ちにもなるんじゃない? それで、きみは何て答えたの?」

「“おれたちは今のままで充分幸せだ”って。だろ?」

「まあね」

「ところで昼食はどうする?」

「さっき買ったパンと野菜でサンドイッチを作ろうかと思うんだけど」

「イチジクのジャムとピーナッツバターは?」

「いいね。じゃあきみはそれを作って」

 おれとポールの生活は結婚しているも同然で、こうした日常のやり取りは婚姻届を出さなくてもできる。おれたちの間で結婚話が出たことはこれまで一度もなく、もしそうしたいとどちらかが思ったなら話題にもなったろうが、実際はゼロだ。それは“バレエをやってみようかな”と一度も思ったことがないのと同じこと。ママに言った通り、おれたちは今のままで充分幸せで、他人にそれを承認してもらう必要はこれっぽっちもない。それなのに、この日を境に届けられるのは、式場や結婚指輪のパンフレットだ。ママはアナログなため、ネットを介するという手段を使わない。これがメールであれば即ゴミ箱行きだが、郵便物となると気軽に捨てるのも悪い気がする。パンフレットをそのあたりに放置しておいたところ、遊びに来たローマンが目ざとく見つけ「あんたたち、結婚するの?」と聞いてきた。

「ああ、それか。いや、しないよ」

「じゃ、なんでこんなもの集めてんの?」

 おれはビールを開けながら、「オフクロが勝手に送ってくるだけだ。おれもポールも結婚には興味がない」と答えた。

 ローマンは残念そうな顔をし、「もしその気になったらいつでも相談してね」と言う。「そのときは進んでお手伝いさせて頂くわ。あたし、結婚式って大好きなの」

 結婚式が大好きな虫がここにもいた。おれはこのとき嫌な顔をしたんだろう。ポールがそっと目配せをし、“気にしないで!”とメッセージする。彼はいつもおれの気持ちを汲み取ってくれて、そして今みたいに優しくもしてくれる。パートナーとしては最高の男で、もしいつか結婚するとしたらポールとしか考えられないが、でもそれは今すぐにというわけではない。おれは他人の意見や世の中に流されず、自分の意志で人生を決定したいと思っている。ママもローマンも、そんなに結婚式がしたきゃ、自分がすればいいんだ。

 腹立ち気味にそう思っているところ、夜遅くに父から電話があった。思わず「結婚なら間に合ってるから」と、ぶっきらぼうに言うと、エドセルは「その様子だとかなりウンザリしてるな?」と笑った。

「父さんもその件でかけてきんたじゃないの?」

「まあ、そうだが、おれは結婚しろとは言わないよ。ミリアムの態度にきみが傷ついていないか心配になってね」

「傷つくまではしないけど、すごく鬱陶しいよ。親が子供の結婚を指図してくるなんて、いつの時代の話だか」

「ミリアムはいったん言い出したら聞かないところがあるからな。おれは本人の自主性に任せたらどうかと言ったんだが、あの通りだ」

「父さんはどう思う?」

「何について?」

「結婚することについて。それってそんなに大事なことかな? おれとポールに不可欠なもの? 父さんがおれにアドバイスするとしたら、結婚を薦める? それとも薦めない?」

 エドセルは「アドバイス。ふむ」とつぶやき、「自分の結婚がうまくいっていないときなら、“やめた方がいい”と言っただろうな」と答えた。「でも幸い今はそうじゃない。だから“結婚は素晴らしい”と言うことができる。わかるだろう? 助言とは、それを言う相手の状況によって変わるんだ。ミリアムが今になってきみに結婚を薦めるようにね。要するに、人からのアドバイスは何の参考にもならないということさ。きみのしたいようにすればいい」

 これは親として非常にまともな意見だと思える。エドセルはママの横暴に加担しているわけではなかった。

「“したいようにすればいい”って言ってくれて有り難いけど、正直どうしたいのか自分でもよくわからないんだ。何たって結婚した経験がないから比較しようがない。それにおれとポールが結婚したとして、今までと何が変わるんだろう? 既に一緒に暮らしているし、生活が変化するとは思えないんだけど」

「生活は変わらずとも、意識の上では大違いだ」

「たとえば?」

「結婚すると、これまであやふやだったものが、確固たるものになる。様々な点において、そう感じると思うよ。抽象的な回答で申し訳ないが、それしか言い様がない。とにかく、ミリアムの言うことは気にするな。おれには彼女を止める力はないが、きみの味方になることはできるから」

 母の暴走において父は無力だが、少なくともおれの側に立ってくれる。それだけでもずいぶん心強い。

 ベッドに入る直前、改めてポールに「結婚したいと思うか?」と聞くと「別に」という答えが帰ってきた。だからたぶん今のままでいいんだろう。



 壁紙はピンク、テーブルもピンク、ソファもピンク、鏡のようにピカピカの床、天井にはキラキラのシャンデリア。

 今おれがいる家は、五分もいたら気が狂いそうな内装で、姪が持っているバービーのおうちにそっくりだ。こんなシチュエーションは現実にはあり得ない。つまりこれは夢なのだ。いい加減パターンが読めてきたぜ。

 ピンク色の電話機がキュートなメロディを奏でる。受話器を取ると、ママの声。「新婚生活はどう?」と聞いてきた。

 さて、これが夢だとして何と言うべきか? 正しい言葉を見つけ出すまでもなく、おれの口は自然と「楽しいよ」と答えていた。

「家事はよくやってる?」

「まあね」と、おれは言う。「思った以上に大変だけど」

「でしょう? でも、あなたは専業主夫なんだからまだ楽なほうよ。わたしは働きながらそれをやっていたんですからね」

 ママの家事が完璧だった記憶はないが、仕事を持ちながら家のことをこなすのは大変だったろう。そう考えていると、おれの口はまたしても勝手に動き、「そろそろハズバンドが帰ってくる」と言っていた。

「そう、じゃあもう切るわね。なにか困ったことがあったらいつでも言いなさい。シミ抜きのしかたとか、冷蔵庫の匂いを取る方法とか、教えてあげられることはたくさんあるんだから」

「うん、ありがとう」おれは受話器を置いた。

 まったくこれはどういう夢なんだ。バービーハウスでポールと新婚生活。しかもこのおれが専業主夫ときた。たいがいの夢はコントロール不可能だが、これは出だしからイカれてる。ハズバンドのために臑毛を剃り出す前に目を覚ましたいものだが……。

 ふたたび電話が鳴り、出ると「やあ」という挨拶。ポールの声だ。ああ、よかった。早くこの悪夢からおれを引き出してくれ……と、言おうとしたが、その台詞は出ず、こちらも「やあ」と応えるのみ。

「きみたちの暮らしはどう?」と聞いてくるポール。

 それに答えるおれの口。「順調だよ」

 いったい何が順調なんだ? 続け、おれは「ハワイはどう?」と言っていた。

「こっちも順調」とポール。「ハワイはぼくに合ってるね。早くにリタイヤして本当によかったよ。きみたちもいずれこっちに来るといい……ダーリン、今行く……ごめん、妻が呼んでるから」

「ああ」

 妻だと!? どうしてポールが妻を持ってるんだ!? そしてどうしておれと一緒に暮らしていないんだ!? おい、こら自分! “ああ”じゃないだろ!?

 玄関のチャイムが軽やかに音を立てた。「うちもハズバンドが帰ってきたみたいだ」と、おれが言う。

「うん、彼にもよろしくと伝えておいて」

 彼って誰だ!? おれの夫はポールじゃないのか!? なんだこれは!? いったいどうなってる!? “ハズバンド”っていったい誰だよ!?

 おれは嬉しそうに玄関に駆け寄り、ピンクのドアを開いた。そこに立っていたのは……ローマンだ。

 おれたちは満面の笑顔で見つめ合い「ただいま! ラブ!」「おかえり! ラブ!」と言い合い、そして愛ある口づけを交わし…………その直前で目が覚めた。

 傍らではポールが眠っていて、ベッドのシーツはピンクではない。おれはホラー映画のヒロインよろしく両手で身体を抱きしめ、小鳥のように震え続けた。なんと恐ろしい……。こんなに怖い夢は、子供のときに見た『芽キャベツを手にしたジャック・ニコルソン』以来だ。(『シャイニング』をテレビで観た晩の夢だ。芽キャベツが好きな子供なんているか?)

 いったいどうして……なんだっておれが“ローマンの奥さん”になってなきゃいけないんだ!?

 夢は深層心理の現れだそうだが、そこから類推すると、おれは心の奥底でポールよりもローマンを愛…!? 

 ……ってことはないよな。それだけは露ほどもあり得ない。しかしこの夢は明らかにおれの意識を反映している。ママから結婚をせっつかれていることが思い当たる原因だが、それをきっかけにおれの中の深い部分が揺さぶられ、夢という形をもって不安が表面化し……要するに、おれはポールに捨てられることを恐れているのだ。

 結婚とは、これまであやふやだったものが、確固たるものになること。こんな夢を見るのは、自分の立ち位置があやふやだからだろう。年老いた自分の横にいるのは医療従事者ではなくポールなのだと勝手に思い描いていたが、このままではそうならない可能性もある。ローマンと暮らす未来はどこの平行宇宙にも存在しないが、ポールがいない未来は(考えたくもないが)全くないとは言い切れない。おれは……“おれたちは”このままでいいんだろうか? 



 結局あれからあまりよく眠れなかった。いつもより一時間も早く起きてコーヒーを淹れ、それを飲みながら朝食の支度をしていると、ポールが寝ぼけ顔で起きてきた。

「今朝はずいぶん早いね?」と言いながら、自分のカップにコーヒーを注ぐ。

 おれはトーストにバターを塗りながら、「昨日の話だけどさ」と、ぎこちなく切り出した。

「してみてもいいかな……って思ったんだ」

 ポールはコーヒーをすすり「何を?」と聞いた。

「その……結婚」

 言って、彼の表情を盗み見ると、明らかに困惑した顔になっていたので、おれは一気に不安になった。

「なんだ、もしかしてきみは嫌…」

「あ、いや、まさか。そうじゃないよ」ポールは慌てて否定した。「ただあんまり急だったから」

「だよな……」おれは頭を垂れ、『もういい、今のは忘れてくれ』と言おうとした。したが、ポールが「いいんじゃない?」と言うので顔を上げた。

「え……?」

「悪くないと思うよ。結婚は」

「あ……そうか」

「うん」

「ありがとう」

「こちらこそ」

 それからポールはパンをトースターにかけ、ダイニングの椅子に座った。それはいつもの朝の光景だ。

 何と言うか……こういうものなのか? 今おれはプロポーズをして、ポールはそれを受理した。バラの花びらの上でダンスを踊ろうとは思わないが、ここまで普通だと感動も何もない。

 おれが阿保のように突っ立っていると、ポールが「するなら、色々やることが」と言った。

「あ? え? 悪い、何だって?」

「結婚となると、これから色々やることがあるって言ったんだ。ちょっとシャワーを浴びてくるから、パンが焼けたらお皿の上に置いておいて」ポールは席を立ち、バスルームへ向かった。

 これから色々やることがある? それって何だ? おれたちは一緒に暮らしていて、生活が変化するとは思えない。結婚したところで今までと何も変わらないと……そう思っていたが、違うのだろうか。

 パンがトースターから飛び出してもポールはなかなか戻って来なかった。シャワーを浴びながら、これからの色々について考えているのかもしれない。



 おれたちが結婚すると知り、喜び勇んでやってきたのはローマンだ。これまで何件もの挙式をプロデュースしてきた彼は、パーティの類いが大好物。本人曰く「幸せな人たちを見るのが何よりも好きなの」とのことだが、実際はフォーマルに身を包んだ男たちを物色するのが何よりも好きなのだと思う。

 ローマンはタブレットを開き、様々な同性婚の写真をおれたちに見せた。幸せそうに手と手を取り合うハンサムガイ。そのバリエーションは豊かで、人種の違うカップルや子連れのカップル、高齢者のウェディングも珍しくはない。かかる予算の話は後回しで、まずはロマンティックな場面を見てもらおうというわけだ。

「人様の結婚式を見れば、なんとなく雰囲気がつかめるでしょ?」とローマンは言う。「“自分たちはこうしたいな”とか、いろいろなアイディアが湧いてくるし、ウェディングのテーマカラーもイメージしやすいってものよ」

「ウェディングのテーマカラー?」

「使う色を予め決めておけば、花や装飾で困ることはないわ。でないと色の洪水でおかしなことになるから」

「結婚式ってのは白じゃないのか」

「白がよければそれでも。ホワイトにプラスして、もう一色ね。ラベンダーとかブルーとか。ペールピンクも人気だわ」

「ペールピンク? 冗談じゃない」

「たとえば、よ。あんたは何色が好みなの?」

「ブラックはどうだ?」

「白と黒? お葬式みたいね」

「黒はクールだ。それに結婚は人生の墓場って言うだろ」

 その発言にポールは渋い顔をし「ディーン」と名を呼んだ。おれは彼の手を取り「冗談だ」と言う。「つまり、きみとなら一緒に墓にも入れるし、地獄にも行けるって意味だ」

「まったくもう、調子がいいんだから……」ポールは画面をスワイプさせ「ぼくは何色でも構わないけど、黒にするんだったら、もう一色何か入れないとね」と言った。「パープルとか、濃いオレンジとか。ワインレッドも素敵だと思う」

「ワインレッド、それにしよう。白と黒とワインレッド。シックな雰囲気だ」

「即決だこと」あきれたようにローマン。「ポール、あんたはワインレッドでいいの?」

「ぼくはディーンがいいなら別に」

「よし、この調子でどんどん決めちまおう」

 勢いに乗るおれに、ローマンは「そうね、急いでやらないと6月に間に合わないから」と言う。

「余裕じゃないのか? 5ヶ月も先だぞ?」

「何言ってんの! みんなもっと早くから準備してるのよ? 式場の予約やら何やら、やることは山積みなんだから! 5ヶ月なんてアッと言う間よ!」

 状況を掴めていないおれに、ローマンは結婚式までにするべきことの“To Doリスト”を作ってくれた。これをひとつひとつ着実にこなしていけば、数ヶ月後には晴れて婚姻の身だ。

 まず始めにどういう結婚式がしたいかイメージを固めて、それからざっくり予算を見積もる。条件に合った式場とレセプション・パーティの会場を選んで予約し、招待客をピックアップ。ここでまた予算を調整。タキシードにウェディングケーキ、ブーケ、リムジンのレンタル、ゲストへのギフト、招待状のデザイン、余興やDJの手配……などなど、To Doリストは延々と続いている。毎週末にやることがあり、日曜にゆっくり朝寝している暇はなさそうだ。結婚式を挙げた誰もが、この七面倒くさいスケジュールをこなしているのには、ほとほと感心する。結納に牛を献上したり、三日三晩ダンスを踊らされたりするような儀式がないのが、せめてもの救いだ。

 結婚することをママにメールで知らせたところ、すぐに電話がかかってきた。祝福するより先に「ほらね、ママの言うようにしておけば間違いはないのよ」と、息子の結婚が己の手柄であるかのように語り始める。予想通りのリアクションはおれを苦笑させたが、彼女のおせっかいがあったおかげで、この話は進んでいるので、今回ばかりは感謝を捧げよう。

 ママは「結婚式のためにディオールのドレスを買うわ」と息巻いている。おれが小さかった頃はお絵描き帳すら簡単には買ってくれず、チラシの裏に絵を描かせるほど節制していたが、リタイヤした途端、金遣いが荒くなった。「無駄遣いは駄目よ」が母の口癖だったが、その目的が自分の老後のためだったとは。しかしマイアミにコンドミニアムを持てるほどになったのだから、節約は功を奏したらしい。おれがチラシの裏に絵を描いていたことや、受験に失敗して学費がバカ高い美術学校に進学できなかったことに感謝して欲しいものだ。

 母親の世代は結婚式にそれほど予算をかけなかったと聞くが、今は派手な結婚式が主流になっている。教会とパーティの会場費だけでも八千ドルは下らず、一生に一度のことでなければ、とてもやってられない。

 そういえば、婚約指輪はどうしたらいいんだろう。プロポーズしたのはおれだが、男同士でも片膝ついて指輪のケースをパカッと開けて見せるようなイベントは必須なのだろうか。ポールがダイヤの立て爪を喜ぶとは思えないのだが……。

 それについて聞いてみると、ポールはあっさり「そんなものいらないよ」と答えた。

「結婚式にはすごくお金がかかるからね。できるだけ無駄は省きたい」

 エンゲージリングを無駄と言い切ってしまうのは、男のパートナーならではだろう。これが女だったら、どこどこのブランドで譲れないデザインがあって、予算は天井知らず……といった具合。宝飾品が好きなおれとしては、少し残念な気もするが、経済的には助かった。そのかわり結婚指輪はゴージャスにいきたいものだ。

 今夜はマウロの店でローマンと式の打ち合わせがある。結婚までに何度打ち合わせを重ねるのかわからないが、マウロのレストランをミーティング会場に選んでくれたことは感謝したい。ここは用事がなくとも行きたい場所だ。

 パスタやピザなどの炭水化物を頭に思い描き、店のドアを開けると、「ご婚約おめでとう!」のかけ声が一斉に上がった。揃って目を丸くするおれとポールに、ローマンは「今夜はサプライズ・パーティよ」と言う。「みんなで一足先にお祝いしようって話になったの。今日は奢りだから、ジャンジャン食べて飲んで頂戴」

 店は貸し切りで、馴染みのメンバーが集っていた。こんなサプライズは大歓迎。友人の有り難みを噛みしめる瞬間だ。

 スプマンテで乾杯した後は、おれたちへの質問タイム。ディヴィッドが「プロポーズはどちらから?」と聞くので、おれは無言で片手を上げた。

「ディーンからなのね。言葉は何て?」

「特には。長い付き合いのうち、自然とそうなった感じだ」

「素敵ね〜」

 実際はそんなに素敵でもなかったんだが、ここは訂正することもないだろう。

「お二人の出会いはどこで?」とモナ。

「おれが彼の店に客として行ったのが最初だったな」と言うと、ポールは「ぼくはそれより前に認識してたけどね」と自慢げに言う。「同じアパートに長身のハンサムがいることは気付いてたから」

「さすがポール。色男には目ざといのよね」

「こんなにハンサムで、しかもストレートの人がぼくと付き合ってくれるわけないって思ってたよ」

 ポールが自嘲的に言うと、ローマンは興奮気味に「そうよ! ポールったら終始あきらめモードだったのよ!」と声を上げた。「あたしが焚き付けてあげなきゃ、今のあんたの幸せはなかったと思うわ」

「きみから何かしてもらった覚えはないけどなあ」と苦笑するポール。

「大アリよ! あたしはあんたにディーンを譲ってあげたじゃない! もしあたしが諦めなかったら、今ここで婚約発表してるのはあたしと彼ってことになってるもの」

 ローマンのとんでもない思い違いに、おれは「悪いがそれはない。ぜったいにない」と否定した。しかし彼は持論を曲げず、「そう思うのは、あたしたちが友達同士だからよ」と言う。「友達になる前に関係を結んでいたら、まったく違う展開になってたんだから」

 おれが再度否認するより早く、ディヴィッドが「ちょっとローマン姉さん」と割って入る。「それって図々しいっていうか、うぬぼれが過ぎるんじゃございませんこと? ディーンを狙ってたのが自分だけだと思う? 大間違いよ。ロッコもクライドもディーンをモノにする気マンマンだったんだから」

「クライドってあのクライド?」

「そうよ、他に誰がいるの?」

「うっそ、知らなかった」

「あの高慢ちきなイケメンが姿を見せなくなったのは、ディーンに振られてプライドが傷ついたからだって」

「おれはクライドを振った覚えはないけど……ポール、それについて何か覚えてるか?」

「ぼくも初耳。でもきみは男からのアプローチに疎いからね。気がつかないうちに、クライドを袖にするようなことを言ったんじゃない?」

「だとしたら申し訳ないことをしたな」

「別にいいのよ」ローマンは顔の前で片手を振った。「あいつったら、モテるのを鼻にかけた嫌な奴だったもの」

「姉さん、今の発言は自爆よ」

「人は鏡って言うものねぇ」

「ちょっとアンタたち! あたしに恨みでもあるっての!?」

 金切り声を出すローマンを無視し、ディヴィッドが「今だから言うけど、あたしもディーンのことはちょっといいなって思ってたのよ」と告白する。「ポール、悪く思わないでね」と付け加えると、「悪くなんて思わないよ」とポールは優しく言った。「だってディーンはかっこよかったもの。無理もない」

 おれは「なんでそこが過去形なんだ?」と彼に訊ねる。ポールは笑って「もちろん今でもかっこいいよ、とても」と言った。

「でも最終的にディーンのハートを射止めたのは、ポールなのよね」とジャン。「クライドでもローマンでもなく」

 ディヴィッドは「誠実な愛の勝利よ」とポールを見、モナはピザを口に運びながら、「結局ディーンはひとりしか男を知らないんでしょ? 肉体的な意味で」と確認する。「ねえ、ディーン、ほんとにポールでいいの? ひと通り味見してから決めても遅くなくてよ?」

 その提案には「有り難いが間に合ってる」とおれは答えた。ポールの肩を抱き「おれはこの男にとても満足してるんだ。肉体的な意味でも、精神的な意味でも」と言うと、皆がため息のような声を上げる。

「ポール聞いた!? 何て素敵な言葉!」

「ああん、羨ましい〜! てゆうか、妬ましい〜!」

「あたしの王子様はいったいどこにいるのかしら……」

「王子が恋をするのはプリンセスと相場が決まってるじゃない。まず自分が魅力的にならなきゃ」

「エステに予約を入れるわ」

「外側ばっかりじゃなく内面よ、内面」

 ピザとパスタとアルコールを摂取しながら、サプライズ・パーティは日付をまたいで続けられた。仲間からの祝福を受け、ポールは幸せそうに笑っている。こんな風に彼が笑顔になるのなら、もっと早くプロポーズしてもよかったかもしれない。

 たらふく飲み食いをして、目が覚めたのは翌日の午前10時過ぎ。今日は揃って休日だが、ポールはおれを起こさなかったようだ。

 リビングに行くと、彼は部屋着で鉢植えに水をやっている。

「今朝はファーマーズ・マーケットには行かないのか?」と訊くと、「うん、やめたんだ」と答える。

「やめた?」

「あそこに行くと必要ないものまで買ってしまうから。これからは結婚式にお金がかかるわけだし、少し節約しようと思って」

 おれはダイニングテーブルにつき、「それはいい心がけだな」と言った。朝寝坊ができるのは何より嬉しい。それで節約もできるとあれば一石二鳥だ。

 遅い朝食兼、早めの昼食を食べながら、おれたちは結婚式について話し合った。ゲストは呼べるだけたくさん。パーティの会場は広くて庭があるところ。食事のクオリティは高く、酒の種類は多く。予算に限りがあるため、すべての希望が通るわけではないが、イメージを羽ばたかせるのは大事なことだ。

「こんなにお金がかかるイベントって人生で他にあるかな?」とポールが聞くので、おれは「ないだろうな。間違いなく」と答えた。

 葬式だってここまでじゃない。それに自分の葬儀であるならば、主賓であるにも関わらず、我関せずで横たわっていればいいから楽なものだ。

「結婚式までにどれだけ節約できるかは大きいと思う」と彼は言う。「それにあたって、ざっくり支出をチェックしてみたんだ」とノートを取り出した。そこには日々の生活にかかる支出が細かく書かれていて、ところどころ赤ペンでチェックされている。ポールはページをめくりながら、「固定費以外のところで削れる部分は削っていこうと思う」と言った。「それで……まず見直すべきは飲食費。これがもっとも大きいんだ。ぼくらは外食も多いしね」

「毎晩のようにビールを飲んでるからな……でもまさか禁酒はないだろ?」

「そんなことはしないよ。でも値段の安いビールにした方がいいかもね。それと個別に見ると、きみは服飾費が……ちょっと多いみたい」

 やっぱりそうきたか。嫌な予感はしてたんだ。

「きみもぼくも客商売だから、ファッションに気を遣うのは当然だよね。それは必要経費とも言えるけど、少しだけ節約できたりしないかな?」

「努力してみるよ。他に何かできることはあるか?」

「あとは医療保険かな。種類を見直してみたんだ。こっちは生命保険。年齢に応じてプランを変えて行った方がいいと思う。いつ何どき倒れるかわからないし、老後のこともあるから」

 おれは自分の生命保険の種類なんて覚えていないし、老後についてなど想像したこともない。人生設計を考えるべき年齢なのだろうが、この種のことについて、おれは計画性が皆無に等しいのだ。わかっちゃいるが、どうにも悪い癖だ。

 それをポールに伝えると、「結婚後はぼくがお金を管理してもいいよ」と彼は言った。

「それはおれの貯金をきみが預かるってことか?」

「もちろん嫌ならしないけど。ただ、こういうのはぼくの方が得意かなって思ったから」

 確かに。ポールが管理してくれたら、おれも今よりうまく貯蓄ができるようになるだろう。なるだろうが……。

 ポールはおれの顔を見て「別に今すぐに決めなくてもいいよ。こういうことは追々ね」と言ってノートを閉じた。おれの戸惑いを表情から見て取ったのだろう。自己管理できないパートナーに不服を述べるでもなく、協力しようとしてくれる彼には感謝しかない。そう思いつつも、財布を握られるのはどうにも気乗りがしなかった。

 しかし結婚式には金がかかる。今後ずっとではないにしろ、出費を切り詰めるのは必要不可欠だ。おれはパソコンを立ち上げ、結婚式の予算を枠組みしてみることにした。プランナーはローマンで、バンドや撮影なども友達が引き受けてくれるため、人件費については格安で済む。コンセプトに沿ったウェディングを作っていく中で、予算の采配は重要なポイントだ。削れるところは削り、使うべきところには使う。エクセルにデータを打ち込んでいると、これはおれがいつも仕事でやっていることと何ら変わりはないと気づいた。違うところは、“客入り”を想定しなくていいということ。仕事では制限が多々あるが、自分の結婚式なら自由にやれる。たとえ趣味を盛り込み過ぎたとしても「そんなのおまえがやりたいだけだろ」などと言われることはなく、むしろそれは“個性的なウェディング”として受け入れられるのだ。

 そう考えるとこれはかなり面白い企画だと思えてきた。これまで幾つも展示会を手がけてきた経験と知識が生きるのは、今をおいて他にない。おれは様々な結婚式の事例を参考にし、自分たちらしい結婚式はどんなものかと考えながら、取り入れたい部分を片っ端からリーディングリストに保存した。黙々と作業し、気がつけば数時間が過ぎている。おれはノートパソコンを手に居間へ行き、データをポールに見せた。彼は「こんなに調べてくれたの?」と、膨大なリストをスクロールする。

「ずっと部屋から出てこないから昼寝でもしてるんだと思ったよ。こういうの、ぼくも一緒にやるべきだったよね?」

 ポールが申し訳なさそうにするので、おれは「気にしなくていい」と言った。「この種ことはおれの方が得意なんだ。資料集めやデータの整理はやっておくから、きみは気に入ったものをピックアップしてくれ。そこからまた二人で話し合っていこう」

「そうしてくれるとすごく助かるな。ぼくも少しは検索してみたんだけど、たくさんありすぎてどこから手をつけていいのかわからなかったから」

 キッチンからいい匂いが漂ってくるので、「何か作ってるのか?」と訊くと、ポールは「きみが仕事をしてる間に、晩ご飯の支度を」と言った。

「ああ、それこそ“すごく助かる”だ。なあ、おれたち的確な役割分担をしてると思わないか?」

「うん、お互いの長所を生かし合ってるね」

 互いを補うことがパートナーの役割だとすれば、これはかなり“夫婦らしい”と言えるだろう。不得意なことを無理してやることはないし、またやらせることもしない。すべてを等分にすることが平等だというのは共産主義の言い分だ。分野によっては自分の方が多く担当することもあるし、また相手にやってもらうばかりということもあるだろう。個性を尊重すれば、おのずと自分の仕事が見えてくるものだ。

 この日の夕食は、鳥のささみと豆のトマト煮込み。これはケイジャン料理かとポールに訊くと「どうかな。わからない」と答える。「主婦向けのサイトで安くできる料理が紹介されてたから作ってみただけ」

 安い上に腹がいっぱいになるレシピを知りたければ、主婦に聞くのが一番。彼らは家庭料理のプロフェッショナルだ。この満足できる夕食に、ひとつ不服を述べるとしたら……パンだ。小麦の風味もバターの香りもなく、ただ白くて丸いだけの物質という感じがする。しかしこれが節約というもの。節制すると決めた以上、些細な不満は取り下げておかなければ。

 飲食費の支出が多いと気付いたポールは、さっそく行動を開始した。この日を境におれたちの昼食は手弁当に変更。ポールは「これで一度に5ドルは節約できるよ」と具体的な経済効果を説明する。あとはカフェを見かけても入らなければ完璧だ。

 今まで職場でのランチは外に食べに行っていたが、これからは自分のデスクで摂ることになる。今日のメニューはジャムとピーナッツバターのサンドイッチ。スティックのセロリと人参。アーモンドと全粒粉ビスケット。飲み物はオフィスで飲み放題の薄いコーヒーだ。

 昼食を食べながら、おれは結婚式の情報を検索した。ここ数日は会場の手配に専念しているが、教会をブッキングするのは想像以上に骨が折れる作業だと知った。何しろ6月の週末はどこも満員。皆この時期を狙っているのだから当たり前だ。8月に入ると多少は空きがあるが、真夏のウェディングは想像するだけでゲンナリする。ゲストを汗だくにするのも申し訳ないし、何とかして6月にねじ込みたいものだが、それには教会にコネでもないと無理だろう。

 ローマンに電話で相談すると「教会にコネ? 馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ」と叱られた。

「そんなのあるわけないじゃない。もしあってもそんなインチキを通す教会はロクなもんじゃないわよ」

「だったらどうしたらいい? マンハッタンはどこもいっぱいだ。だからって州をまたぎたくはないし」

「そおねぇ、いっそのこと宗派を変えればなんとかなるかも。中国のお寺なんかだと6月でもガラ空きだと思うけど」

「それこそ馬鹿なこと言うなだ。おれたちチャイナ服でドラの音と共に入場するってのか」

「他人の挙式を押し退けてまでして6月にしたきゃ、多少の妥協はやむを得ないわ」

「わかったよ。残念だけど6月は諦める。でも8月は嫌だ。想い出を汗染みだらけにしたくない」

「じゃあ9月?」

「……それしか仕方ないだろうな」

 結婚式は5ヶ月先だと思っていたが、この瞬間に8ヶ月先に延長となった。これがいい選択だったと9月に言えることを願うばかりだ。

 パーティ会場を検索していると、同僚のジェドが休憩から戻ってきた。おれのパソコンを覗き込み「なんだ? 昼飯しながら仕事か?」と言う。

「熱心なのはいいが、疲労で倒れでもしたら元も子もないぞ。休み時間はキッチリ取れよ」

 至極まっとうな意見だが、彼の口から出ると、おれの身を案じているというより、兄貴風を吹かせて自分に酔っているようにしか感じられない。

 ジェドもネットを立ち上げ「スーパーボウルのチケット販売がもうすぐだな」と、聞こえよがしに独りごとを言い始めた。

「去年はキャンセル待ちで運良くゲットできたが、今年はどうだか」

 キャンセル待ち? そうか、キャンセル待ちという手があったんだ。それなら6月の挙式を諦めることはない。

 おれは希望の教会に片っ端からメールを書いた。キャンセル待ちを望んでいる旨と、もしあるようであれば返事を貰いたいと申し伝える。これならどこか一件くらいは引っかかるだろう。



 暑い夏にビールを飲むのは最高だが、寒い冬でも空調の利いた部屋であれば、何の問題もなく冷えたビールを楽しむことができる。要するに、ビールが楽しくない季節など存在しないということだ。

 帰宅し、シャワーを浴びて冷蔵庫を開けると、そこにはビールが横たわっている。それだけでおれは簡単に幸せになれるのだが、今日に限っては少し違っていた。ビールは馴染みのギネスではなく、見たことも聞いたこともないブランドのものに変わっていた。飲んでみると、これが酷い。ドイツ人なら怒り狂うような味だ。

 ポールを呼びつけて飲ませてみると、彼は即座に「これは失敗だったね」と認めてくれた。しかしギネスに戻そうとは言わず「もっと別なメーカーのものを探してみるよ」と、節約への意欲を見せる。

 この日の晩飯は温野菜のベーコン蒸し。ブロッコリーやジャガイモなど、野菜は文句なしだが、ベーコンは紙のように薄く、匂いがあまりよくなかった。オートミールは腹を膨らますために添えられていて、こうしたメニューは健康的と言えるのかもしれないが、おれにしてみれば味気ないものだ。しかしポールが努力しているものを責めることはできない。二人の幸せのためという明確な目的があるわけだし、ギネスビールは安くはなく、ベーコンの過剰摂取が健康によくないことはわかりきっている。あとは高級なものと身体に悪いものを旨いと感じないよう、自分の体質を改善するだけだ。

 オートミールにメープルシロップを追加するタイミングを見計らっていると、テーブルの上で携帯が震えた。メーラーを開くとキャンセル待ちをかけておいた教会からだ。

 おれはポールに画面を見せ「教会から返事あった」と伝える。「6月の第一週の土曜に空きが出たらしい。候補に入ってたところだし、もうここに決めてもいいよな?」

 ポールはメールを読みながら「教会自体には問題ないけど……」と表情を曇らせる。「これってキャンセルがあったから、ぼくたちが入れることになったんだよね?」

「ああ、どこかの二人には申し訳ないが、おかげでおれたちはラッキーだ」

「でも結婚式のキャンセルってどうなんだろう。その後がまに座るのって、あんまり気持ちのいい感じがしないんだけど……」

 挙式をキャンセルする理由は破局か、はたまた死別か。何してもあまりいい話じゃないだろうことは予想がつく。ポールが言わんとするのは、つまりそういうこと。おれは縁起を担ぐ方じゃないが、彼が気乗りしないのであれば見直す必要がありそうだ。

「そうだな、ここはやめておこう」

「ごめん、せっかく探してくれたのに」

「構わないよ。むしろ言ってくれてよかった。きみの気持ちを無視してまで、この教会で挙げたいわけじゃない」

 ……とまあ、クールに言ってはみたものの、またイチから教会を探すことを思うとため息が出る。めぼしい教会はほとんど当たった。6月にこだわらなければ、もちろん空きはあるが、そうなると9月10月まで延長しなくてはならず、それは気が遠くなるほど先に思える。

 こうなったらローラー作戦でいこう。マンハッタンの教会で同性愛者を受け入れてくれるところをすべてチェックし、6月より前に空きがあれば片っ端から仮予約する。宗派や規模については後回しでいい。押さえた教会をリスト化して、ポールとローマンに見せ、そこから絞っていくことにしよう。

 データ収集と手配はおれの役目。ポールは予算を管理している。作業は単調で『素敵なウェディングを夢見る』という感じではないが、現実的にはこんなものだ。来たるべき日には、この長い道のりが報われたことに涙するだろうが、今は役目をこなすのみ。感動や喜びは当日までのお楽しみだ。

 ポールは家計簿のソフトを導入し、節約の成果を目に見える形で管理している。「ちょっと気をつけるだけでこんなに違うんだ」と言って、飲食費の変化をグラフを見せてくれた。まずいビールの経済効果は目覚ましく、折れ線グラフは上向きになっている。

「ついでに不要品をオークションに出してみた。ホットカーラーのセットは高値で売れたよ」

 ポールは得意げで、また楽しそうでもある。クローゼットの中で邪魔になっている不要品に高値がつくなら、手間暇かけて出品する価値はある。

 さて、おれにも何か売れるものがあるだろうか? あるとすれば衣服の類いで、宝飾品はかなりの値段がつくはずだ。腕時計のコレクションから使っていないものを選び出し、ネットオークションで相場額を調べる。イーベイで出品者になるのは久しぶりだ。いつもは買うばかりなので、売りに出す方法を完全に忘れてしまった。

 男性用腕時計の項目をチェックしていると、素敵な品に目が止まった。ヴァンクリーフ&アーペルのヴィンテージもの。このブランドは女性向けというイメージが強いが、メンズラインも扱っていて、元々ジュエリーブランドなため、デザインには定評がある。出品されている品はバンドの部分に痛みが見られるが、その分かなり安価になっていた。しかしアンティークでこの価格はすこぶるお買い得だ。

 入札ボタンを押そうとしたところで、ポールの顔が浮かぶ。

『きみは服飾費が多いみたい』

 ……危ないところだった。もう少しで欲望に負けるところだ。いいかディーン。おまえには挙式というイベントが待ち受けているんだ。ピューリタンのように節制した暁には、素晴らしい結婚が待ち受けている。愛のためにヴァンクリは諦めよう。



 今日の昼食はセロリにピーナッツバターとレーズンを乗せたもの。それにクラッカーがひと袋。完食したそばから腹が減った。高校時代、ランチにこの手のメニューをついばんでいたのはダイエット指向の女子だったが、おれの場合は美容と健康ではなく、単に経済的問題から腹を減らしている。

 手弁当は最初こそいいアイディアに思えたが、いざ実践してみると厳しいものだとわかる。世界各国の料理が味わえるマンハッタンで、セロリをかじっているのはビーガンくらいのものだろう。おれは食事療法はしておらず、食物に関する極端な思想も持っていない。今時はホームレスですら、高カロリーの食事を接種しているというのに、働き盛りの男がセロリ二本というのは、やはりどこか間違っているとしか思えない。

 泥を薄めたようなコーヒーを捨て、おれは上着を掴んで外へ出た。目指すは馴染みのベーグルショップ。クリームチーズをはみ出すほど盛って、そこに新鮮なサーモンとケッパーを散らし、ハーブをちょいと挟めば完璧だ。トールサイズの濃いコーヒーに砂糖を入れ、ベーグルと一緒に味わうことぞ、まさに至福。ついでにスティックのチーズケーキと紅茶のスコーンを頼み、完食したところで自分の罪に気がついた。これはカロリー的にも経済的にも完全にオーバーだ。ポールは今頃、セロリとハーブティの健康的かつ質素な食事を摂っているというのに……これは協力的どころか、完全なる裏切りじゃないか!

 心から望む食事をしたというのに気は晴れず、おれは暗い顔のまま午後を終えた。ベーグルひとつでこんなにも罪悪感を感じるなど、思ってもみないことだ。

 ポールへの罪滅ぼしにチョコレートでも買って帰ろうかと考えたが、これも余計な出費に数えられる。おそらく彼はこういうことは喜ばないだろう。それどころか、無駄なことをと咎められるのがオチだ。そもそもこうした行為は自分の罪悪感を軽減させるためのもので、パートナーのことを思いやっているとは言い難い。もし本当にポールのことを思うなら、勝手な行為は慎むべきだった。今後は努めて気をつけるとしよう。



 悪徳に身をゆだねたおれだが、神はお見捨てにならなかった。冷蔵庫のビールがギネスに戻っている。これはいかなる慈悲だろう。

 ソファで本を読んでいたポールに聞くと「何も無理してまずいビールを飲むことはないからね」と言う。「つまり、本数を減らせばいいんだよ。それにビールばかりがお酒じゃない。銘柄によってはジンやウイスキーの方が安くあがるんだ。アルコール度数が高ければガンガン飲むこともしないし、今後は美味しいカクテルの作り方でも勉強してみようかと思ってる」

 素晴らしい。ポールは良き夫の適正がある。ベーグルを平らげていたおれとは大違いだ。

 今宵取り決めた酒量協定は、ビールは三日に一度、好きな銘柄を一本だけ。食事のワインはボトルでなく、グラス単位、もしくはデキャンタで頼む。ジンやウイスキーは少量を好きなときに。

「何となく飲んでると、どうしても量が増える傾向にあるから」とポールは言う。「こうやって管理するのは健康にもいいはずだよ」

 意識して飲むのとそうでないのとでは大きな違いがある。これまでは何気なく飲んでいた酒だが、制限がついた途端、とてつもないご褒美のように思えてくるから不思議だ。好きな銘柄のビールが待っていると思うだけで、オートミールがメインの食事でも楽しさを感じることができる。こうやって徐々に健康的になっていけば、病気にもならず長生きできるかもしれない。それには隠れてクリームチーズたっぷりのベーグルを食べたりしてはいけないということだ。

 それがわかっていながら、どうしておれはまたしてもベーグルショップにいるのだろう。答えは簡単。ニューヨーカーはベーグル中毒で、摂取が一定量を下回ると命に関わる危険がある……というのは嘘だが、おれにしてみれば、かなり真実に近い。今回はカロリーに気を使ってツナとトーフのサンドにしたが、やはりどこか味気なく、結局アップルシナモンとクリームチーズを追加した。コーヒーと併せて、しめて18ドルと5セントなり。

 最高に旨いが、最悪の気分だ。どうしておれはこんなに意思が弱いんだろう。薬物に手を出したら簡単に破滅するタイプだ。

 切ない気持ちで携帯を開くと、ローマン作のTo Doリストがポップアップされていた。開いて見ると『衣装合わせ(1)』という項目に赤いマークがついている。そうだ、今日は夕方から結婚式で着るタキシードを見に行くんだった。ベーグルを腹いっぱい詰め込んだ状態で、正しい採寸ができるだろうか。後で胃薬でも飲んで消化を促進しておこう。

『衣装合わせ(1)』というからには、当然『衣装合わせ(2)』が存在する。式が間近になって太ったり痩せたりした場合、服のサイズを変える必要があるからだ。まあ、おれとポールに限って言えば、激痩せも激太りもないだろう。これまでも体重は維持しているし、おれたちはアメリカの標準体型だ(デブという意味ではない)。結婚が決まるや否やダイエットに励んだり、整形を検討するなどしなくていい程度には、幸い容姿に恵まれている。

 To Doリストとは別のリマインダーに印がついていることに気付き、それを開くと、そこには『ヘアカット』と書かれていた。

 ヘアカット……。そうか! そうだった! 衣装合わせの日までに髪を切ってこいと、ローマンに命令されていたんだった!

 くそ、やばい。完全に忘れていた。このまま行ったら『何のためのTo Doリストよ!?』と怒鳴られるのは必至だ。ローマンはともかく、結婚式に真剣じゃないとポールに思われるのだけは避けたい。時間は午後1時。今から髪を切りに行くことは不可能じゃない。一旦会社に戻って早退の旨を伝え、タクシーを拾ってポールの職場に駆けつける。

「待ち合わせは二時間後だったよね?」と不思議そうに尋ねるポールに「衣装合わせの前に髪を整えたい」と説明すると「昨夜言ってくれれば家でやってあげたのに」と言われた。そりゃそうだ。

「昨夜やればよかったのはわかってる。だけど今さっき思い出したんだ。髪を切らなかったらローマンにドヤされる。五分でいいから適当にやってくれないか?」

「困ったな、今日は予約が立て込んでて……ぼくじゃなくて他のスタッフでもいい?」

「ああ、もちろん。誰でも構わない。急に頼んで悪かった」

 おれの担当になったのはアニーだ。ベリーショートがよく似合う、若くてキュートな独身の女性。かつてはシャンプーと床掃除が専門だった彼女も、今では立派なスタッフだ。

「今日はどうされますか?」と、鏡の中から語りかけるアニー。

「バッサリとやってくれ。ツーブロックで刈り上げて、トップも短めに」

「そうですか……でも……」

 アニーはおれの髪に触れ、視線を後頭部のあたりに彷徨わせ「あまり短くなさらない方がいいと思いますが」と意見を述べた。

 彼女は長髪が好みなのかもしれないが、今回は髪を切ったことがローマンにわかるよう、アピールできなくては意味がない。

「気にしないで思い切りやってくれていい」と伝えると、アニーは折りたたみ式の鏡を持って来た。それを正面の鏡と合わせ、おれに後頭部を見せてくれる。すると信じられない現象がそこにはあった。毛がない。一部だけだが、はっきりと頭皮が確認できる箇所がある。それは10セント玉くらいの大きさで、おそらく円形脱毛症というやつだ。

 ショックを受け固まっているおれに、アニーは「お気付きじゃなかったですか?」と遠慮がちに言った。

「お気づきじゃなかったよ……なんだってこんなことになってるんだ……」

 ハゲはある朝突然に。こんな衝撃映像はナショナルジオグラフィックの『滅びゆくサバンナ』の特集記事以来だ。

「うまく隠れるようにカットしますね」とアニーは言ってくれたが、それならカットしない方がいいんじゃないだろうか。毛量が減ればどうしたって隠すのは難しい。しかし彼女のテクニックは素晴らしく、ハゲがわからないよう、かつ、ちゃんと髪をカットしたことがわかるよう整えてくれた。

 まさに危機一髪。担当がポールじゃなくて本当によかった。この件はポールにも、ローマンにも、全世界にも隠し通そう。アニーには「絶対に秘密にしてくれ」と頼み込み、いつもより多めにチップを渡した。まさか自分が口止め料なんてものを支払う立場になるとは思ってもみなかった。

 ブルース・ウィルス、ジェイソン・ステイサム、ジュード・ロウ、きみたちの気持ちが今、少しだけわかった気がするよ。しかしあまり長い期間、共感しているわけにはいかない。とりあえず挙式にはまだ時間がある。いくら何でもそれまでには完治しているだろう。



 ローマンと待ち合わせたのはフォーマルウェアを扱う専門店だ。壁には幸せそうなウェディングのパネルが幾つも飾られていて、ゲイ専門というわけではなく、ウェディングドレスも多く陳列されている。おれたちの他にはストレートのカップルが一組。ああでもないこうでもないと論じ合い、次第に男の方は無口になっていった。

 ずらりと並んだトルソーを前に、ローマンは「このあたりが最近の流行のスタイルよ」と言う。それによると、流行のスタイルは濃紺、杢グレー、シルバーがかったピンク、意外なところではチェック柄まである。

「今はカラーも豊富だから選びがいがあるわよ。どうかしら、インディアンイエローなんて個性的でオシャレよね」

 インディアンイエローは個性的でオシャレかもしれないが、自分の結婚式はベーシックなスタイルがいい。おれがブラックフォーマルを希望すると、ローマンは唇を曲げ「せっかく結婚式なんだから、もっと明るい色はどう?」と言ってきた。

「明るい色? パステルピンクに蝶ネクタイとか? ポール、きみはどう思う?」

「ぼくは何色でも構わないけど……ディーンがパステルカラーっていうのは衝撃的すぎるよね。あそこのグレーはどうだろう?」

 ポールが指したのはクラシカルな形のタキシードだ。グレーで光沢があると下品になるが、これは落ち着いた色合いで、紳士らしい趣がある。

「さすが、きみはセンスがあるな」おれは衣装を眺め、感想を述べた。「グレーに蝶ネクタイだけど、ピーウィー・ハーマンみたいじゃないし。エレガントな英国人って感じだ」

「そうねぇ、ちょっと地味だけど、胸に花を飾れば華やかな雰囲気になるでしょう」とローマン。

「でもやっぱりおれは黒がいいよ。これも悪くないけど、黒い礼服は伝統的だし、何よりおれは黒が似合うんだ。それでボタンホールには白いカトレアを指したい。真っ白じゃなく、薄いパープルのグラデーションのあるやつを」

「そこらの花嫁も顔負けのコダワリぶりね……。ポール、あんたはどうなの? どんな服が着たいとか、何色がいいとか、具体的にないわけ?」

「ぼくは特には……ただ、あんまり高価な衣装は借りたくないかな」

 消極的に言うポールに、ローマンは「お金のことはまだ考えなくていいのよ」と言う。「かなり値が張るから気持ちはわからないでもないけど、こういうところでケチると後で後悔することになるわよ?」

 ポールが考え込む表情をするので、おれは「とりあえずいくつか試着してみよう」と提案する。「気に入るものが見つかるまで手当たり次第……と言ってもパステルカラーは着ないけどな」

 ポールは「残念、きみがピンクのタキシードを着るところ見たかったのに」と笑う。

「それは何かの罰ゲームにとっておくよ。こんなところで披露したらもったいないだろ?」

 ローマンは手をパンと叩き「ぺちゃくちゃ言ってないで、どんどん試着なさい!」と、おれたちを急かした。

 そこからはブライダルのファッションショーもかくや。少しでも興味を持ったらトライしてみて、それを写真に収める。たくさん着てみてわかったことだが、素敵な服を身につければ誰もが素敵になるというわけではない。自分の姿形に合わなければ、どんな衣装も間抜けに見える。実験の結果、ポールはシルバーグレーが似合うことがわかったが、おれの強い要望により、タキシードの色は黒と決まった。

「ゴリ押しして済まない」と謝ると、ポールは「ぼくは本当になんだっていいもの」と肩をすくめた。「きみが気に入ったならそれでいいと思ってる。あとは値段を安く交渉できれば言うことないね」

 ポールが問題とするのは、やはり値段のことだけらしい。それさえクリアすれば、後は何でもいいと本気で思っているようだ。

 店は閉店間際で、衣装選びは思いのほか厄介な作業だった。すっかり暗くなった外を見て「こんなに時間を食うとはな」とため息をつくと、ポールは「ぼくらは早く決まった方だと思うよ」と言い、背後を指差した。見ると、おれたちより先に来ていたカップルが揉めていて、女の方が「こんなのやってられないわ!」と怒鳴っている。彼らは結婚までにどれだけ喧嘩をすることだろう。

「ウェディングドレスは女性にとって特別だから」とポールは言う。「一生に一度の買い物だし、自分のドレスを娘の結婚式で着てもらいたいって人もいる。真剣になるのは無理ないね」

 気持ちはわからないでもないが、あれでは結婚式までに別れても不思議はない。そう言うと、ローマンが口を挟み「実際、多いのよ、そういうカップルは」と眉をひそめる。「あんたたちも体験してわかったと思うけど、結婚式の準備ってほんと大変でしょ? 二人で作業するうちに、お互いの性格が露見するわけ。『こんなワガママな女だとは思わなかった!』とか『彼ったらぜんぜん頼りにならない!がっかりだわ!』とかね。よくある話よ」

 それはよくある話なのかもしれないが、おれたちにはそんなことは起こり得ない。作業はうまく分担していて、それは相手への思いやりから成るもの。共同作業によって結束が強まったと感じているし、喧嘩どころか前より仲がいいくらいだ。

 ローマンは「とにかく、お式まではいろいろあるものよ」と締めくくり、「あんたたち、これからあまり太ったり痩せ過ぎたりしないようにね。多少は調整が効くけど、あまり極端だと衣装のお直しは無理だから」と警告した。

 太ったり痩せ過ぎたりは御法度。だとすると、ハゲなどはもってのほかだろう。まずは気づかれなくて安心した。アニーのカット技術には感謝あまりある。

 帰りのタクシーの中で、おれたちはさきほど撮った写真をチェックしていた。黒いタキシードに身を包んだハンサムが二名。自分でいうのも何だが、この結婚式はかなり素敵なことになりそうだ。ローマンを始めとした新郎の介添人たちは皆イケメン揃いだし、ファッションセンスもなかなかのもの。何かと口うるさいママや姉貴も、これを見たら文句は出ないだろう。

 画像を見ながら「やっぱりこっちのタキシードにしてよかったな」と、おれは言った。「値札を見たときは息が止まったが、やっぱりそれだけの価値はあるよ」

「そうだね。ほんとに素敵」ポールは同意し「でもたった一日だけ着る服のために大金を使うのは、どうも抵抗あるな」と付け加える。

「たった一日だけだ。高価なタキシードでもいいじゃないか。おれたち結婚式のために節約してるんだろ? ここで使わなきゃいつ使うんだ?」

「結婚式のために節約してる? きみはそう思ってたの?」

「え?」

「ぼくはそういうつもりじゃなかったんだけどな……」

 なんだそれは? いったいどういうつもりだったんだ?

「ぼくはさ、結婚式も含めてだけど、もっと先のためだと思ってた」とポールは言う。

 話をよくよく聞いてみると、節約は一時的なブームではなく永続的なもので、将来に向けた人生設計の一部だとのこと。養子縁組をした場合のことや、ひいては老後のことまで彼は考えていたという。

「今はライフプランニングの本を読んでるんだ。ぼくはこれまでこういうことを考えたことがなかったから、すごく勉強になってるよ。それに見て。家計簿ソフトのグラフもこんなに変化してる」

 ライフプランニングの勉強だと? それは何というか、およそポールらしくない行動だ。新しいことを導入し、役立てるのは素晴らしいことだが、どうも違和感がある。彼は浪費家ではないが、金についてはさほど執着がなく、最低限食べていけさえすればいいといった考えの持ち主だ。それが突然、いくら結婚という目標があるからといって、こんなにも急に方向転換してしまうなんて。

 改めてポールをよく見てみると、彼は以前よりも痩せていた。これがタキシードを格好よく着こなすための努力でないとしたら……。

「なあ、ポール。きみは大丈夫なのか?」

「何が?」

「ちゃんと栄養を摂ってるか? 最近おれたち食生活を変えただろ? いきなりのことだから、身体がついていかないんじゃないか?」

「まあ、少し痩せはしたけど」ポールはウエストをさすり「でもむしろ願ったりだ」と言った。「今までなかなかダイエットできなかったからね。お酒や食事の制限はお財布だけじゃなく、体脂肪にも効果があったよ」

 食べたいものを我慢しているのはおれだけじゃない。ポールもだ。こっちは隠れてベーグルを食べるくらいの不摂生はしているが、彼は真面目な男で、取り組みの度合いで言えば、おれの比ではないはず。このところポールが話すのは節約のことばかりで、結婚式にも金をかけたがらず、おまけに見てわかるくらい痩せ始めている。己の苦しみにばかりに気を取られ、彼の変化を見逃していた。なんたっておれがハゲるくらいなのだから、ポールがストレスに見舞われていないわけがないんだ。

 恋人の意識の高さを否定しないよう、おれは言葉を選びながら、「久しぶりにステーキでも食べないか?」と持ちかけた。

「節約とダイエットは大事だけど、たまには高カロリーで高級なものもいいだろ? 気分転換になるし、ダイエットにはメリハリが必要だ」

「一日に必要な栄養はちゃんと摂ってるよ」

「サプリメントだけじゃ駄目だ。肉を食わなきゃ」

 ポールは少し困った顔をし「一応今日の晩ご飯はミートローフなんだけど」と言う。

「そうか、よかった。牛肉か? いや、今回は豚肉でもいい。最近は脂質を摂ってなかったからな」

「ええと、ごめん。そうじゃなくて……」



 大豆のミートローフは気の抜けたチキンのような味がした。栄養失調の鶏はこんな味だろうか。動物愛護の観点からすれば代用肉は歓迎されるが、おれの身体は18オンスのステーキを求めている。血の滴るようレアをむさぼり食い、タンパク質をエネルギーに変える。そうすれば夜には野獣のように恋人と愛し合うことができるだろう。

 ポールは節制に耐えられるのかもしれないが、やっぱりおれは無理だ。結婚するからといって生活が大きく変化するわけじゃないと思っていたが、それはとんでもない思い違いだった。

 滅びゆくサバンナの如く、滅びゆく頭髪。ダイエットなどで栄養を抑制すると、抜け毛が増えると聞いたことがある。食事制限によって減らされた栄養は、まず心臓や脳などの重要器官に送られ、そしてさほど重要ではないと判断される部位、つまり毛髪までには行き渡らないのだとか。しかし身体がどう判断しようと、おれとしては心臓や脳より髪が大事だ。家計簿ソフトのグラフと反比例して、おれの髪は下落の一途をたどっている。ポールにまで被害が及ぶ前に、この健康的で不健康な生活を何とかしなければ。

 食後のコーヒーもそこそこに、おれはジャケットを着込み「ちょっと買い物に行ってくるよ」と告げた。

 ポールは皿を重ねながら「これから? 何が必要なの?」と訊く。

「ドーナツだ」

「ドーナツ? 食後にドーナツ? 急にどうしたの?」

「おれの身体は糖質を必要としてるんだ。きみは何のフレーバーがいい? ココナッツとチョコファッジは外せないよな?」

 表向きはおれが堕落しているということでいい。ポールは『ディーンに付き合って仕方なく』という形でないと、油と砂糖を受け入れようとはしないだろう。

「デビルズケーキとアップルパイとチーズケーキ。この三つのうち、きみはどれがいい? もちろん他のケーキでも……」

「ディーン!」テーブルに叩き付けるように両手を置くポール。それは明確な怒りのジェスチャーだ。

「そういうのやめてくれない? せっかくぼくたちいい感じにヘルシーになってきたのに、そんなものをデザートに食べようだなんて」

「別に毎晩ってわけじゃない。たまにはいいかと思ったんだ。それにきみだってドーナツは好きなはずだ」

「もろちん好きだけど……あんまり愚かな選択はしたくないね。粉とバターと卵と砂糖を油で揚げた成人病の元を寝る前に食べようなんてさ」

 かたくなに言うポール。こいつはどうやら重症だ。大好物を“成人病の元”呼ばわりするのみならず、それを食べようとすることを“愚かな選択”と一蹴する。ずいぶん昔に付き合っていたマイヤがこんな感じだったな。ユダヤ教の教えであるコーシャーを守っていて、かなり厳格にやっていたっけ。マイヤがうちのキッチンに始めて立った日、彼女は家で切ってきた肉をジップロックから出し、肉の旨味が失われるまでカリカリに焼いて、そしてコンロの隅にチーズのかけらが落ちていることに気づいた瞬間、焼いていた肉をすべてゴミ箱に捨て「今夜は外食しましょう」と笑顔で言ってのけたのだ。

「あなたはユダヤじゃないから気にしないで」と言ってくれたが、本当のところはおれにエビやカニを食べないで欲しいと思っていたし、うちの冷蔵庫を汚いものを見るようにしてもいた。「生活習慣だから仕方ないの」と本人は割り切っていたが、これが彼女の普通の生活ならば、おれはとてもついていけないと思ったものだった。

 しかしポールは何の制約もない身の上で、こんなにピリピリした精神状態になっているのだ。本来、好きなものを好きなだけ食べていたのだから、今の状態はさぞやフラストレーションが溜まることだろう。

 おれは彼の気持ちを慮り「わかった、今夜はドーナツは諦める」と言った。そのときのポールのホッとした顔。恋人が悪魔と取引せずに済んだことを喜んでいる表情だ。

 おれたちはヘルシーな食生活をしているのかもしれないが、果たして精神的に健全と言えるだろうか? ドーナツもケーキも食えない人生では、金がいくらあっても虚しいだけ。大豆肉を食べて長生きするより、油で光る肉にかぶりついて早死にする方が、おれとしては遥かに幸せだ。だが、そのことをどうやったらポールに理解してもらえるだろう? 彼は大好物を突っぱねるほどの精神力を備えている。これはアダムにリンゴを食わせるより難しいミッションだ。



 結婚が決まってからというもの、毎日何かしらの作業をこなしている。今日は結婚指輪を見繕いに行く予定だ。

 おれはマンハッタンのニューヨーカーなので、いつか結婚するならリングはティファニーのものと決めていた。プラチナのストレートバンドに小さなダイヤモンドを埋めんだシンプルなデザイン。内側には二人のイニシャルを刻印してもらう。我ながら、そこらの花嫁も顔負けのコダワリぶりだ。

 婚約指輪を買わないぶん、結婚指輪は奮発してもいいはずだし、一生指にはめるものをチープにしたくはない。しかし今や節約魔となったポールが同意してくれるかは微妙なところだ。

 どうやって彼を説得しようかと思案しながら仕事をしていると、だんだん胃が痛くなってきた。気が重くなる話し合いを想定すると、おれの胃は痛むようにできている。デスクの引き出しに常備している胃薬を飲もうとしたが、薬瓶は空っぽ。飲み終わったなら空き瓶は捨てておけと、過去のおれには言っておきたい。

 帰り支度をするおれに、同僚のジェドが「早退か?」と声をかけてきた。そうだと答えると「最近よく早退するな? もしかして病院に通ってるのか?」と訊ねる。

「病院?」

「違うのか? 顔色がグリーンだから、てっきり病欠かと」

 顔色がグリーン? そうか、このクソ鈍いジェドが気づくほど、おれの顔色は悪いのか。ポールとの待ち合わせの前にドラッグストアに寄り道しよう。

 タクシーを拾うべく大きな通りに出ると、携帯にメールが届いた。見るとキャンセル待ちをかけておいた教会からだ。有り難い連絡だが、ポールと話し合ってキャンセル待ちは使わないことに決めたんだ。せっかくだが断りの返信を………いや、ちょっと待て。これはおれたちが第一希望として見ていた教会じゃないか! 今になって空きが出るとは、なんてタイミングだ。ここは立地も規模も申し分なく、料金も身の丈に合っている。荘厳な雰囲気もあり、こんなところで式を挙げられたらいい写真がいくらでも撮れるだろうと思っていた場所だ。この教会以上の場所は今後、見つかるとは思えない。だから…………もうここでいいよな?

 予約をキャンセルしたカップルがどうなったかなど気にする必要がどこにある? そいつらが別れたり殺し合ったりしていたところで、おれとポールの愛にはまったく関係がないことじゃないか。

 タクシーを捕まえ、行き先にポールの店の名前を告げ「その前にどこでもいいいからドラッグストアに寄ってくれ」と頼む。胃痛はさきほどより増していて、早くマーロックスを一気飲みしないと命が危ない感じがした。脂汗をかきながら教会に返信を書いていたが、徐々に手が震え、メールを打つことが困難になる。痛みでうめき声が漏れたところで、これはドラッグストアに寄っている場合ではないと気がついた。

 行き先の変更を申し入れ、病院の名前を伝えると、ヒスパニック系の運転手はミラーを通しておれを見て「お客さん、大丈夫ですか?」と聞いてきた。

「さっきから様子がおかしいと思ってたんですよ。もし急を要するなら、ここからすぐのところにも病院がありますけど……」

「そこはおれの保険でカバーされてない病院なんだ」

「でもお客さん……ひどい顔色ですよ?」

「大丈夫だ。悪いけど、できるだけ急いでくれないかな?」

「そうしたいんですがねえ……どうにも道が混んでて……」

 これはただの胃痛じゃない。心臓だ。さっきからずっと汗が出ていて、息が苦しく、呼吸が困難。みぞおちの辺りに圧迫するような痛みがある。心臓や脳より髪の毛が大事だなどと、馬鹿なことを考えた罰だろうか。こうなったら円形脱毛症は許そう。その代わり心臓を正常に運行させてほしい。油で光る肉にかぶりついて早死にする方が幸せだと言ったが、これも撤回だ。早死は絶対にごめんこうむる。おれが死んだらポールがどんなに悲しむか。彼は『ディーンのような素晴らしい恋人は二度と現れない』として、残った人生をひとり嘆いて暮らすことだろう。そうだ、とにかくポールにだけは連絡しないと……。

 携帯を開き、おれは最後の気力を振り絞ってメールを書いた。もし万がいちのことがあったとしても、彼が自分を責めたりすることのないように。いかにおれがポールを想っているか。そのことを決して忘れることのないよう、心からの愛を込めて。ポエティックなメッセージは苦手だが、いまわの際となれば別だ。思いつく限りの愛情深い文面を並べ立てたが、読み返す余裕はない。送信ボタンを押すだけで精一杯だ。記憶しているのはそこまで。気がついたら病院のベッドの上で点滴を打たれていた。

 目を覚ますと傍らにはポールがいて、おれの髪を撫でながら「気分はどう?」と優しく聞く。

「ポール……おれは……?」

「大変な目にあったね」

「おれはタクシーの中で気絶したのか?」

「うん」

「あれから何日が経過した? 手術はうまくいったのか?」

「経過したのは三時間弱かな。手術はしてないよ」

「そうか、もう手遅れってわけなんだな? 手の施し様がないから、無用な手術はしない方針か」

「ディーン、安心して。きみは手遅れじゃない。胃ケイレンで死ぬことはまずないよ」

「胃ケイレン?」

「そう」

「ちょっと待て。そんなわけないだろ。ひどく動悸がしたし、心臓の痛みもあったんだ。あんなに苦しかったのに胃ケイレンだって? 胃ガンでも心筋梗塞でもなく?」

「心臓の痛みは逆流性食道炎から来るものなんだって。狭心症に似た症状が出るけど、命に関わる病気でないことは証明されてる。つまり今回の病名は、胃ケイレンと逆流性食道炎だ」

「誤診じゃないのか」

「誤診じゃない」

「じゃあ原因は……」

「ストレスだよ」

 ポールはきっぱりと言い切った。

「きみ、知らないうちにストレスを溜めてたんだよ」そしておれの髪をふたたび撫で「なんたって髪にも影響が出るくらいだからね」と言う。

「それは……気がついてたのか?」

「うん」

「そうか……まいったな……」

 ハゲは予兆で、これが結果だ。ポールがストレスを溜めてしまうことをおれは心配したが、何のことはない。彼より先に自分が倒れて、このザマだ。

 おれはシーツから手を出した。点滴の針が手の甲に刺さっている。その手でポールの手を握り「心配かけてすまない」と謝った。

「なあ、ポール。誤解しないでほしい。おれはきみとの結婚が嫌でストレスを溜めてたわけじゃないんだ。結婚したくないってわけじゃなく……」

「わかってる」とポール。「ぼくもね。きみと結婚がしたいわけじゃないんだ」

 なに? 

 困惑するおれに、ポールは優しく微笑みかける。それはとても落ち着いた表情で、何かしらの重荷から解放されたかのように見えた。

「うん、つまりさ、ぼくがしたいことっていうのは、朝におはようのキスをしたり、一緒にマーケットに行ったり、ベッドの中で愛してるってささやくこと。結婚も素敵だけど、こういう毎日があるってことが、自分にとって大切なことだって気づいたんだ」

「要するに、婚姻関係は重要じゃないって言いたいんだな?」

「そういうこと。それにきみは素敵なメールをくれたしね」

「メール……」

 そういえば書いたな、タクシーの中で。はっきりとは覚えていないが、ロマンあふれる熱い文面だったような気がする。

「消してくれ」

「やだ」

「頼む」

「やだ」

 ポールはメールをロックして保存し、紙に印刷してさらに封筒に入れておくと言う。

「もしきみがぼくを裏切るようなことがあったら、その封筒を開けることにするよ。こういうの、エンゲージリングなんかよりよっぽど効果があると思うんだよね」

「なんて奴だ! おれが青い顔で病院のベッドに横たわっているってのに、言いたいことはそれだけなのか?!」

「顔色は青くないし、そんなに大きな声が出るんだから気力も充分だね? 点滴が終わったら帰っていいって言われてるから、どこか外でおいしいものでも食べようか? それとも病み上がりだからチキンスープがいい?」

「いや、大丈夫だ。もう元気になった。肉を食いに行こう。バーベキューだ。あとはビールで消毒すれば完璧に治る」

 点滴が終わると同時にナースコールを押して針を抜いてもらい、おれたちは一目散にバーベキューレストランを目指した。スモーキーグリルのある本格的な店で、ラグビーボールほどもある肉の塊が、山盛りのポテトと共に運ばれてくる。冷えたビールは50種類から選ぶことができ、デザートは脳みそが痺れるほどの甘さだ。

「やっぱりおれはタクシーの中で死んだんだろ? 肉と酒と砂糖がたっぷり。そしてポールにそっくりな天使がいる。ここは天国だ」

 そう言うと、ポールは苦笑し「これで太らなかったら本当に天国なんだけどね」とつぶやいた。

「きみは太ってなんかない。気にし過ぎだ」

「そう思うのは自分がいくら食べても太らないからだよ。ぼくは本当にすぐ脂肪がつくんだから」

「もし太っても捨てたりしないから安心して食べろ」

「そう? じゃあぼくはきみがつるっぱげになっても捨てないと誓うよ」

「つるっぱげと太っちょか。最高のコンビだな」

 食後にレモン・メレンゲパイを堪能していると、ポールがふいに懺悔を始めた。おれがこっそりベーグルを食べていたあの日、ポールはドーナツをたらふく平らげていたのだと言う。あのときビールがギネスに戻っていたのは、おれへの謝罪を込めてのことだったらしい。

「同じ日に罪を犯すとは、おれたち気が合うな」

「不正直でいるのは苦しかったよ。しかもこんな子供みたいな隠し事。今までしたことなかったのに」

「おれもきみに嘘をつきかかった。教会のキャンセル待ちは使わないことに決めたのに、元々空いていた振りをして予約しようとしてたんだ。病院送りにならなきゃ、嘘をついて予約を通してただろうな」

「ぼくたち幸せになるために結婚しようとしたのに、いつの間にか“幸せ”の部分を忘れて、結婚を遂行することが目的みたいになっちゃったんだ。それって本末転倒だよね」

 目的と手段がすり替わる。これは重要な教訓だ。結婚生活の維持に専念するあまり、相手への敬意や思いやりを忘れてしまう夫婦は多くいる。それが長く続けば、愛も薄れてしまうだろう。

 おれが結婚を決めたのは、ポールから捨てられるのではないかという恐怖に端を発していたが、相手をつなぎ止める目的で結婚するのは、あまりいいことではなかったと今は思える。恐れから成る選択は、いずれ何らかのひずみを生むものだ。一時的にはうまく行くかもしれないが、いつか己の愚かさと対面することになり、後に自分と相手を苦しめる結果になりかねない。

 結婚解消に至った顛末をローマンに話すと、彼はあきれていたが、おれたちを叱ることはせず「今回はいいリハーサルになった。そう思えばいいじゃない?」と、明るく諭してくれた。

「ねえ、せっかく会場を見繕ったんだから、集まって何かやらない?」と持ちかけるローマン。

「何かって?」

「名目は何でもいいけど、皆で集まって何かパーティをするのよ。このまま終わったんじゃ、あたし不完全燃焼だわ」

 そこでおれたちは会場を予約し、サプライズで祝福してくれた友人たちに謝罪の意味を込め、パーティを開くことにした。会費制の立食形式で、酒は尽きることを知らないキリストのワインのようにたっぷり用意する。主催はおれとポールだが、主賓の類いは設けず、タキシードの着用もなしだ。

 経緯を知らないマリリン(本名はマイケル・ジョンソンだ)が「これって誰の何のパーティなの?」と聞いてきたので、おれは「なんでもない日を祝うパーティさ」と答える。

「なんでもない日?」

「本当はウェディング・パーティだったんだけど、結婚がお流れになって、結局こういうスタイルになったのさ」

「なにそれっ!? 不吉なパーティだわっ!」

 おののくマリリンの様子が可笑しく、おれは爆笑した。言われてみれば確かに不吉と取れるかもしれない。しかし今となっては、縁起の善し悪しは意味を持たないことがわかった。ダイヤモンドより強固な愛の前には、験担ぎなど取るに足らないおまじないだ。

 マリリンと談笑していると、ママから電話があった。出ると「なあに? そっちはずいぶん騒がしいわね?」と言うので、おれはDJブースのスピーカーから離れながら「うるさくてごめん」と謝った。

「今パーティをしてるところなんだ。何の用?」

「ほら、あんたたちが結婚を取りやめにしたでしょ? それはいいんだけど、わたしお式のためにドレスを予約してたのよ。すごく素敵なデザインで気に入ってたから、キャンセルするのも癪でねえ……。だから、エドセルとすることにしたの。結婚40周年だからルビー婚式ね」

 夫が30年近くも失踪していたというのに『今年で40周年』と言ってのける感覚がよくわからない。

 ママは「招待しようってんじゃないのよ。あんたたちは来なくていいわ。近場のビーチでふたりきりで祝おうと思っているから」と、嬉しそうな声で言った。

 なんだ、結局ママは自分が式を挙げたかったんだ。両親が結婚したときは、すでにお腹にアイリーンがいて、盛大なウェディングはできなかったと言っていたっけ。ママがしつこく結婚を勧めてきた背景には、自分自身の体験を元とした複雑な思いも絡んでいたのだろう。長い別れを経て、ふたたび一緒になった夫婦。ビーチでのルビー婚式は、素敵な想い出になるに違いない。

 おれとポールは無理な節約はやめたものの、以前より金銭面に意識的になり、無駄な買い物が少なくなった。ポールは安価でカロリーが低く、かつ美味しい料理を研究していて、おれはオークションサイトをあまり見なくなり、貯蓄の楽しさがわかるようになってきた。

 神様の前で誓うのはもうしばらく先になりそうだが、心の中ではとっくに愛を誓い合っている。携帯の画像フォルダには、結婚式用のタキシードを着たおれたちの姿が残っていて、これもまたいい記念になりそうだ。

 後日ママから送られてきた写真を見ると、最新のディオールのドレスと靴とバッグと帽子を身につけていて、さらに夫にはルビーの指輪を買わせていたことが判明した。こうした機会を彼女に与えたことは、充分な親孝行だと言えるだろう。


END

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