第31話:ママがやってきた2(Material Girl)

〈家族の絆は血ではない。家族がひとつ屋根の下で成長し合うことはほとんどない〉

 これはリチャード・バックの小説、『イリュージョン』からの引用だ。

 生まれ育った家を出て、自分の力で行きていく。ひとたびそれを実践すれば、さまざまな体験を得ることになるだろう。掃除や料理を自ら行い、食料品の平均価格を知る。コインランドリーのために小銭をとっておいたり、卵を電子レンジで温めたら爆発するなどの豆知識まで、親元にいれば知ることのなかった情報が、次から次へと蓄積されていく。実家では冷蔵庫に食料がぎっしりあったが、一人暮らしとなれば、自力でスーパーに行かなければならない。外食が続いたある日、ふと冷蔵庫を開けると、そこにはマヨネーズと干からびた野菜の死骸があるだけという現実に遭遇し、そこで初めて「実家にあった食材は誰かが買っていたのだ!」と気付く。そしてレンジ内に飛び散った卵を掃除しながら、親の有り難みを噛み締めるのだ。

 生まれ育った家というのは、どうしたって甘えが存在する。家計に多く貢献しているとか、家事をたくさん手伝っているとか、そういうこととは関係ない。ここで言っているのは、精神的な甘えのことだ。『家族がひとつ屋根の下で成長し合うことはほとんどない』というのは、家族との間に生じるエゴのことを指しているのだろう。

「家族なんだから」という冠言葉に「だから私のエゴを許すべきだ」という含みがあるとしたら、それは問題だ。「無礼な態度でもいいんだ。それを許し合うのが家族だ」というのは、無礼でない人間が言うことであり、“許し”は奪うものではなく、与えるもの。

「今、自分は不機嫌だ。だから家族であるあなたに嫌な態度をとる。悪いとは思っている。でもとめられない。他の人にはこんなことはしないけど、身内だから許してほしい」

 恐ろしく聞こえる台詞だが、実際これをやっている家族は多くいる。親子や夫婦、恋人のルビが、“無礼者”というものであるならば、おれは一生ひとりでいた方がマシだ。

 幸い、我が同居人は無礼ではなく、ときどき喧嘩はするものの、許し合える範疇で終わっている。これは互いの努力の賜物だ。親と離れ、自らが選んだ相手と、新たな関係性を持つ。そこには間違いなく成長させられる要因がある。自分に関して言えば、家を出てからの方が、母とはうまくやれるようになった。

 リチャード・バックの一文は、おれにとってこの上なく真実だと感じられる。生まれ育った家を出て、新しい家庭を持とうとするのは、人々が無意識で成長を求めているからだろうか? おれがそう問うと、ポールは「その説はすべての人に当てはまるとは思えない」と言う。その言葉の意味を理解するには、今よりもっと彼のことを知る必要があるのだが、自身の子供時代について、ポールは多くを語らない。だからおれも無理に聞き出そうとはしなかった。それが正しいことだと信じていたのだが……。



 ニューヨークの冬は寒い。毎年のことだが、重要なので今年も言わなければならない。この街は“とてつもなく寒い”のだ。こういうことを主張すると『イギリスや中国も冬は寒いよ』と、したり顔で返されるケースがあるが、おれにとってそれらの情報はまったくもって有用ではない。夫からDVを受けている女性が「女性蔑視に基づく暴力を禁止すべき」と主張しているところに「中東ではそれが当たり前だ」と返す奴がいた場合、それは無駄な意見として無視されるように、テーマのすり替えは議論を混ぜっ返して長引かせるだけだ。おれが問題にしているのは、“今ここ”で起きている寒波のこと。もっと言えば、帰宅途中、薄氷の張った水たまりに足を突っ込んでしまい、スラックスと靴下と革靴がひどいことになった上、足が凍傷になりそうなほど冷えた。……という状況を踏まえると、『イギリスや中国も冬は寒くて、水たまりなんていくつもある』という意見は、有り難くないどころか、超人ハルク並の怒りすら覚えるものだ。

 マンハッタンの水たまりは有毒物質にまみれている(これについてはイギリスや中国もいい勝負だろう)。靴と服の損害に意識を向けるのは、もう少し後。今は熱いシャワーを浴びることだけを考えている。

 帰宅して真っ先にバスルームに飛び込むと、そこには既に先客がいた。湯気と悲鳴とブロンドの長い髪。おれが認識できたのはそれだけだ。キャーと叫ぶ声は女性のもので、同居人のポールはブロンドだが短髪。何が起きたのかわからないまま「失礼!」と謝り、悲鳴を後にする。

 バスルームのドアに背をもたせかけ、周囲の様子を確認する。うん、間違いない。ここはおれの家だ。だとしたら、今の女は誰だ? ポールの客か、もしくはおれの幻覚か。おそらく前者が正しい。後者の場合は病院へ行こう。

 混乱していると、バスルームから美しい女性が顔を出した。「ごめんなさい」と言う彼女の顔に見覚えはない。

「あなたがディーンね。初めまして。ひどい格好でびっくりしたわよね?」

 女性は濡れた髪を片手でまとめながら、握手を求めてきた。その手は湿っていて暖かい。オレンジ色のワンピースを着ているが、未だ全身がしっとりしていて、慌てて服を身につけたのは一目瞭然だ。

「いえ、こちらこそ……」と言いつつも、この美人が誰なのか、まったく見当がつかない。『あなたは誰ですか? もしかしておれの幻覚ですか?』と訊ねる前に、ポールがやってきて「今日は遅くなるって言ってなかった?」とおれに聞いた。

「ミーティングがなくなったから早く帰れたんだ。それでこちらは……」

「あれ? 自己紹介はまだ?」ポールが彼女に視線を向けると、ブロンドの美女は「自己紹介より先に裸を見られたわ」と言って笑った。

「初めまして。ポールの母親のジェンよ……あらやだ、そんなギョッとした顔しないで」

 ギョッとした顔をしたつもりはないが、実際えらく驚いた。母親だって? この美人で若々しい人がポールのおかあさん? 

 ジェンはケラケラ笑い「固まっちゃった」と、おれの頬をつついた。

「失礼……ちょっとびっくりして……ええと、ポールを出産したのは10歳のときとか?」

「どういう意味?」キョトンとするジェン。ポールが「ディーンは“すごく若い”って言ってるんだよ」と、おれのジョークを解説した。

「ああ、そういうこと。わたしがポールを産んだのは高校の時よ。クラスで誰より早い妊娠だったわ」

「そうですか、道理で……あ、すみません、自己紹介を忘れてた。おれは…」

「ディーン・ケリー。さっきポールから聞いたわ。年は同じで美術品を販売する会社に勤務してる。趣味は腕時計のコレクション……今しているのは何?」ジェンはおれの手を取って腕時計を見た。

「これはホイヤーです。タグホイヤー」

「かっこいい」

 わかっているのか、いないのか、ジェンはにっこりと微笑んだ。その顔はポールによく似ていて血のつながりを確実に感じられたが、見た目が三十代なので言われなければ親子だとは気付かないほどだ。

 ジェンはおれとポールを交互に見て、「なんて素敵」と笑いかけた。「ブランドの時計をはめたイケメンとマンハッタンの真ん中で二人暮らし……これって本当に素晴らしいことよ。ポール、あんたはラッキーね!」

 ポールは「うん、自分でもそう思うよ」と素直に返事をする。もしおれがママからこんなことを言われたら『ラッキーなんじゃない。おれは努力したんだ。自分の力だよ』とか何とか言い返しているだろう。

 ジェンとポールはここの家賃やマンハッタンの物価について会話をしている。おれはその間、キッチンでコーヒーを淹れ、他に出せるものはないかと物色した。前もってわかっていれば、カップケーキでも用意したものを。それにしても、こんなに突然来るなんて、何か事情でもあったのだろうか?

 棚や引き出しをあさっていると、カラメルビスケットを発見した。未開封で賞味期限も切れてない。後はコーヒーシュガーと……しまった牛乳がない。うちでは誰もコーヒーにミルクは入れないからな。とりあえず彼女に好みを聞くとしよう。

 カップとサーバーをテーブルに置きながら「砂糖とミルクは……」と言いかけて言葉に詰まった。「ええと…ミセス…?」

 ポールの名字はコープランドだが、ジェンがそれと同じとは限らない。気まずそうにするおれに、彼女は「ジェンって呼んで。ポールもそう呼んでるから」と気さくに言う。

 おれは思わずポールを見た。彼が笑顔で頷くので、遠慮なく名前で呼ぶことにする。

「ジェン、コーヒーに砂糖かミルクは入れますか?」

「ブランデーはある?」

「あります」

「じゃあ、それをお願い」

 カミュを足したコーヒーを飲みながら、ジェンは「この服どう?」とポールに聞く。オレンジ色のドレスは彼女の金髪をよりゴージャスに見せている。

「素敵だね」とポール。

「そうでしょう? 激安ショップで10ドルだったようには見えないわよね? 今夜はどこか食事に行きましょうよ。ドレスで入るようなレストランに」

「これから? もう夕食は買ってあるし、店に予約を入れるにはちょっと時間が……」

 ポールが難色を示すと、ジェンは「ああん、いいじゃない」と甘えるように言った。「せっかくマンハッタンなんだもの。わたしいろいろな体験がしたいのよ。ねえディーン、いいわよね?」

 矛を向けられ、おれはポールに「ラ・フィーユならたぶん今からでも予約がとれると思うけど」と助言する。

「うれしい! ディーンはわたしの味方ね! さあポール、どうする? なんならわたしとディーンだけ出かけてもいいのよ?」

 ポールは苦笑し、顔の横に両手を上げて降参のポーズをとった。

「オーケー、わかった。レストランに電話するよ」

「そうこなくっちゃ! 今夜は三人で楽しくやりましょう!」

 ジェンは屈託のない表情で笑った。彼女の無邪気さは年齢を感じさせないどころか、高校生さながらだ。着ている服もフォーエバー21という感じだし、レストランでの話題もなかなかふるっている。ワインを飲んで前菜を食べ終わると、ジェンは携帯を出し「ねぇ、これ見て」と、画像を表示した。そこには笑顔のジェンと、長髪のハンサムな男性が写っている。

「誰? 新しいボーイフレンド?」

 ポールが訊くと、ジェンは「そうよ!……って言いたいけど違うわ。よく見てよ、ほら!」と強く言った。それでもわからないでいると「カークよ!」と男の名前を明らかにする。

「カーク?」おれとポールは顔を見合わせる。ジェンは苛立ち、「メタリカよ!」と言った。

「メタリカ! カーク・ハメット! なによ二人とも知らないの?!」

 ポールは画像をじっくり眺め、「メタリカ……ってバンドの?」と確認する。

「そう、“バンドの”よ」とジェン。「サンフランシスコの空港で偶然会ったの」

「へぇ」

「カークだってすぐにわかったわ。何度もライヴを見たことがあるんですもの。彼すごく優しいの。わたしが大きな荷物を持ってたら、『カートを使わないの? あそこで借りれるよ』って」

 ポールは「それで?」と間の手を入れ、先を促した。

「だからわたし言ったの。『これはわたしの荷物じゃなくてボーイフレンドのだから。彼は力持ちだからこれぐらい何でもないのよ。ジェームズ・ヘットフィールドより背が大きいんだから』って……」

「ジェームズ?」ポールが聞き返すと、ジェンは「メタリカのヴォーカル!」と大きな声で言った。「もう! いちいち話が進まないんだから!」

「ごめん」ポールはくすりと笑った。

「もう……ええっと、それでどこまで話したかしら」

「“ジェームズ”」と、おれが促すと、ジェンは小刻みに頷き、「そうそう、それでね」と話を続けた。「カークはね、わたしに向かって『それならよかった』って、にっこり微笑んだの。それがとってもセクシーな笑顔で……わたし思わず『あなた結婚してるんだっけ?』って聞いちゃった」

「ずいぶん唐突な質問だね」とポール。「で、彼の答えは?」

「『してるよ』って、一言だけ。だからわたし言ったわ。『あなたの奥さんってとってもラッキーだと思う』って。そしたら彼、何て言ったと思う?」

「さあ?」

「『ありがとう。きみのジェームズより大きいボーイフレンドもすごくラッキーだと思うよ』って! すごくない? “きゃー!”って感じ!」

「ほんと、“きゃー”だね」ポールは鮭のムースにスプーンを入れた。

「それでね、カークと撮った写真を印刷して額に入れたいの。あんたのパソコンでそれが出来る?」

「出来るよ」

「データもパソコンにバックアップしてくれる?」

「いいよ」

 ジェンは大喜びしてから「今どきはどこも禁煙でやんなっちゃう」とブツクサ言い、タバコを吸いに外へ出た。彼女が席を外すと途端にテーブルが静かになる。

 おれはポールを見やり、「きみはずいぶんいい息子なんだな」と言った。

「そう?」

「子供みたいなジェンに対して、あんなに紳士的に対応できるんだから。きみは大人だ」

「大人になったんだ。彼女といれば嫌が応でもそうなる」

「はは、言えてるな」

『彼女といれば嫌が応でも』この台詞がポールの深い部分から発せられた言葉なのだとおれが知るのは、もう少し後になる。



 その日以来、ジェンは我が家に住むことになった。いつまでいるのかとポールに訊くと「たぶん一週間くらい?」とのことで、正確な日程は彼も把握していないと言う。そんな風だから、おれも「まあいいか」程度の認識で、彼氏の母親を迎え入れた。

 ジェンのいる生活空間は、いつもの風景を少しだけ変化させている。洗面台には化粧品が並び、椅子の背にはドレスやストッキングが無造作にかけられ、シンナー臭がすると思えば、それはマニキュアの除光液といった具合。こうしたアイテムを見るのは久しぶりで、かつて女性と付き合っていた頃が思い出される。過去のガールフレンドたちと異なる点を挙げるとすれば、それは音楽だ。ジェンはメタルやハードロックを好み、iTunesにはメタリカやブラックサバスなどの名前が連なるようになった。

 おれは履歴からガンズ&ローゼスの曲をクリックし、「ジェンがいると自動的にロックに詳しくなるな」とポールに言った。「バンド名を知らなくても、曲はどれも聞き覚えがある。これだって古いヒット曲だけど、最近もカバーされてるだろ?」

 ポールは背後から画面を覗き込み、「メタルバンドのメンバーと空港ですれ違っても気付かないけど、彼らの曲は広く知られてるんだ。すごいことだよね」と言った。

「ジェンが見当たらないけど、買い物にでも出てるのか?」

「今夜はホワイトスネイクのコンサートに行くって。きっと朝まで帰って来ないよ」

「帰って来ない?」

「うん、ライブの夜は基本的には」

「そういうもんなのか……」

 朝帰りがハードロックコンサートの常識とは思えなかったが、ポールは何とも思ってないらしい。まあ、ジェンは大人だし、昔マンハッタンに住んでいたらしいから、特に心配することはなさそうだ。

 iTunesの画面を見ながら、ポールは「いい曲だね」とつぶやいた。かかっているのはガンズ&ローゼスの『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』。有名なロックバラードだが、きちんと聴いてみると、歌詞の素晴らしさに心を奪われた。美しい恋人の姿に自身の幼少期を追想する筋書きで、ドラマチックな曲調と相まって、胸に迫る内容に仕上がっている。

「こういう曲を書く人って、どんな人生を歩んできたのかな?」とポールが言うので、検索してみる。作詞を担当したのはボーカルのアクセル・ローズで、彼は幼少時に虐待を受けていたと記されていた。こうした曲を書くだけの背景をアクセルは持っていたのだ。

 ポールは「あまりいいことじゃないけど」と前置いて、「不幸をバネにして成功したのはすごいと思う」と言った。

「おれが思うに、この手の音楽をやる奴は、多かれ少なかれ、怒りを原動力にしているところがあるんじゃないかな。人生が平和に満ちていたら、ブルースやロックンロールは生まれなかったわけだし」

「ぼくは成功して有名になるより、平和な人生がいいな。平凡でも退屈でもいい。いつか子供を持つとしたら、その子にこんな歌詞は書いてほしくないと思うから」

「この歌詞が嫌い?」

「嫌いじゃないけど、ボーカリストのバックボーンを知ったら、単純に美しい曲だとは思えなくなった。調べたりするんじゃなかったな」

 今や億万長者であろうアクセル・ローズの子供時代に同情するポール。彼は心の優しい男だ。

 アクセルの伸びやかな声は、子供の頃にあった様々な出来事と、それにまつわる感情を内包しているように聞こえる。そう考えると、確かに単純に美しい曲だとは思えなくなったが、おれはポールとは違って、むしろ『調べてよかった』と思っている。背景を知ったことで、より深く曲を好きになれるような気がしたからだ。

 その晩は妙に切ない気持ちになり、おれたちはセックスなしで寄り添って眠った。きっと誰の心の中にも、『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』のような記憶はあるはず。だからこの曲は今なお愛され続けているのだろう。



 ポールの言った通り、ジェンはその晩には帰宅せず、翌朝ひょっこり戻ってきた。見知らぬ男と意気投合したが、泊まることはせずに24時間営業のファーストフード店で夜明かしをしたのだと言う。

「一緒にいてくれってしつこかったけど、子供が待ってるからって言って帰ってきたの」

 子供ってポールのことか。なるほど、うまいかわし方もあったもんだ。

 ジェンはひと眠りして昼過ぎに起き出してきた。ゴム手袋をはめてレンジ周りの掃除に勤しむおれに、眠そうな声で「ポールは?」と訊いてくる。

 仕事に行ったと答えると「あなたは?」と言うので、土曜で休みだと説明した。

「そうなんだ。今日の予定は?」

 おれは換気扇のフィルターを見つめながら「特にこれと言っては……」と返事をする。

「だったら、どこか連れてってくれない?」

「どこかって?」

「家にいても退屈なのよ。何か楽しいところに行きたいわ」

「うーん、そうだな……MoMA(NY近代美術館)はどうです? ちょうどゴーギャンがきてる」

「悪くないけど、パッとしないわね。もっとホットなスポットがいいんだけど……。あ! いい場所を思いついた!」

 ジェンが思いついたホットなスポットとは、もっとも“コールド”なスポット。ロックフェラーセンターのアイス・スケート場は、マンハッタンの冬の風物詩だ。映画やドラマにもよく登場して、毎年多くの人で賑わっている。

「スケートは久しぶり」とジェンが言うので「どのくらい?」と訊くと「二年ぶり」との答え。

「それって“久しぶり”とは言えないんじゃ?」

「わたし、二年前までカナダにいたのよ。ちっちゃな子でも自分のスケートシューズを持ってる国で、冬になると道ばたでも滑ってるわ」

 そう言う彼女のスケート技術はなかなかのもの。カナダで相当慣らしたと見える。

「上手ですね」と褒めると、「あなただって」とジェンは言う。「ヘタクソだったら笑ってやろうと思ったのに、アテが外れたわ」

「はは、それは残念でしたね。おれは生粋のマンハッタンっ子だから、ここは子供の頃からの馴染みなんです。あなたにだって負けませんよ」

「ずいぶん自信あるのね。いいわ、だったら向こうの端まで競争! 早く着いた方がホットチョコレートを奢るのよ!」

 言って飛び出すジェン。よーいドンの合図はなし。遅れを取ったおれは彼女に敵わず、ちょっと反則ぎみではあるが、スピードスケートの“ホットチョコレート杯”はジェンが獲得。ロックフェラーセンターのカフェは込み合っていたが、運良くすぐに席を取ることができた。

 カウンター席につくと、ジェンはホットチョコレートではなく、地ビールのブルックリン・ピルスナーをオーダー。おれも彼女に倣って昼からビールを食らうことにする。

 バッファローウィングをつまみながら「ポールは本当に幸せね」と、ジェンは言う。「こんなにハンサムでセクシーなボーイフレンドがいるなんて最高じゃない? ほら、見て。ここにいる女性客みんなが注目してるのわかる?」

「そうかな。おれには男の客が全員あなたに注目してるように見えるけど」

「あら、嬉しいこと言うじゃない?」

 ジェンはふふと笑い、すぐにビールを空にして二杯目を注文した。彼女はお世辞抜きに美人で、バーカウンターにいたら間違いなく二度見するようなタイプだ。華やかだが取っ付きやすい外見で、気軽に声をかけてもよさそうな雰囲気を持っている。現に向こうのカウンターにいる男は、さっきからジェンのことばかり見つめていて、一緒にいるおれは居心地が悪いくらいだ。

「わたしたち、恋人同士に見えるかしら? それともやっぱり親子に?」

 彼女がそう訊くので、おれは「たぶんカップルに見えるでしょうね」と答えた。「ゲイの息子と若い母親が揃って飲んでる図ってのは、ちょっと想像しにくいんじゃないかな」

「そうね。あなた、あまりゲイっぽく見えないし」

「でしょうね。元々はゲイじゃなかったから」

「そうなの?」

「ポールから聞いてません?」

「あの子はわたしに何も話さないわ。彼氏がいるってことだけは知ってたけど……じゃあ何? あなたは女性が好きだったの?」

「おれのアイデンティティは“女好き”だったくらいだから、自分がゲイになるなんて考えもしなかったな。でもポールに会ってから……彼の前に何人もの女性と付き合ったけど、どれも長続きしなかった」

 ジェンは「ヘイ」と言って、おれのコロナにグラスをぶつけて乾杯し、「わたしもそうよ」と同意した。「関係を持ってもどれも長続きしない。どうしてか上手くいかないの。だから仕方なく男を変えるんだけど、そういうことをしていると世間はプレイガールだと思うみたい。本当は真実の愛を探し求めてるだけなのに」ジェンは寂しそうにつぶやいた。「誰と一緒にいても、その瞬間は心から好きだと思ってる。今まで出会ってきた人はみんな大好きだった。でも他人にはなかなか理解してもらえないわ」

 彼女の言い分には共感できる部分がある。おれも似たような経験をしてきたからだ。ポールと付き合うようになるまではプレイボーイと言われていたが、おれは女性をトロフィーのように思ったことはない。たとえ一夜限りの相手でも軽んじず、大事に扱ってきたつもりだ。

 その話をすると「あたしたち、似てるのかも」とジェンは言った。「自分の心に正直に従っているだけで悪者扱いされる。でも別に構やしないわ。テレビ番組で雛壇から観覧者の老夫婦が立ち上がって『私たちは結婚して五十年です』とか言うと皆は拍手喝采だけど、その結婚生活の半分以上が喧嘩や浮気にまみれていて、セックスレスだっていう事実には触れないわよね? 体面を保つことに必死になって、本当の幸せを追い求めないなんて馬鹿げてるわ」

 ジェンはナッツを口に放り込み、咀嚼してビールで流し込んだ。思ったことを遠慮なく言う美しい横顔を眺めながら、おれは彼女に賞賛を感じていた。孤独になることを恐れるあまり、間違った関係性から手を引けないでいるのは愚かの極みだが、そこから抜けられない者は少なくない。ジェンは偏見に中指を立て、自分らしく生きる勇気を備えている。それでいて無邪気さは失っておらず、人生を楽しむ術を心得ているのだ。ポールが持つ強さのルーツを見たような気がした。



 昼間はしゃぎ過ぎたのか、ジェンは夕飯の後、早々に眠りについた。ポールとふたりでいるのはいつものことだが、彼女がいないとリビングが寂しい感じがする。

 ジェンとスケートに行ったことについて、ポールは「なんだかごめんね」とおれに謝った。「せっかくの休みに付き合わされて疲れたよね? 次からはジェンのわがままに合わせる必要ないよ」

 おれはバニラアイスに熱いコーヒーをかけながら、「別に構わない。おれもスケートを楽しんだから」と言った。

「本当に? 気を遣ってない?」

「正直、最初はあまり気乗りしなかったけどな。滑り始めたら楽しくなったし、ジェンは明るいから一緒にいて飽きないよ」

「それならいいけど……」

 ポールはコーヒーをすすり、後からアイスクリームを口にいれた。おれの食べ方を真似をするつもりはないらしい。

「ジェンは昔からモテるのかな? バーで男がじっと彼女を見てたよ」

 その報告にポールは苦笑いし「その人はジェンの身体を見てたんじゃない?」と言う。「おっぱいとか足とかさ。彼女はわざとみせびらかすようなところがあるから」

「確かに。この季節に襟ぐりが広く開いた服を着てるもんだから目立って仕方ない。おれだって目のやり場に困ったほどだ」

「ジェンの胸はニセモノだよ」

「ああ、だろうな」

「わかってた?」

「そりゃあな。でも直接確認したわけじゃないぜ」

「ぼくは直接確認したよ。忘れもしない五歳のときだ」ポールは右手を開いて“五歳”を強調し、おっぱいの想い出を語り始めた。「母親と一緒にいられる時間が少なかったせいか、ぼくはジェンのおっぱいに執着があった。五歳にもなって、全然乳離れできてなかったんだよね」

「おれは未だにできてない」

「ああ、きみはそうだよね。でもぼくは他の女性には興味なかった。好きなのはジェンのおっぱいだけ。寝る前に触るのを楽しみにしていたんだけど、あるときジェンがセーターをめくり上げてこう言った。“ほら、ポール。いいでしょう? おっぱいが大きくなったのよ!”って……。もう、どんなにショックだったかわかる?」

「ショックだったのか」

「すごくね。ジェンは元から胸の小さい方じゃなかったと思うけど、授乳で形が崩れたことを気にしていて、“入れ乳”をすることに決めたんだそうだ。でもぼくは“なんで!?”って。子供だったので何がどうなったのかわからなかった。そんなに質のいいシリコンじゃなかったから、硬くて妙に張ってて……子供心に“これは違う!”って強く思ったよ。ぼくはジェンの柔らかい胸を愛してたんだ。以来、寝るときにおっぱいを触らなくてもよくなった……というか、避けるようになったね。恐怖の硬いおっぱいを」

「すごいトラウマだな。ゲイになったことと関係あると思うか?」

「あるかも。覚えている限り、これが最古の記憶だから」ポールはアイスクリームのスプーンをぺろりと舐めた。

「あのさ、誤解されると困るから言うんだが、おれがジェンを素敵だと思ったのは、おっぱいや足についてじゃないぜ? 彼女の内面に感じ入ったんだ。女性は皆、素晴らしく、男はとてもかなわない。そのことを久しぶりに思い知ったよ」

「何でそう思ったのか知らないけど、ずいぶん高く評価してるんだね?」

「ジェンは強いし正直だ。きみとよく似ているよ」

「それはどうかな」ポールが否定気味に言うので、おれは彼の顔を両手で挟み込み、「美貌は間違いなく受け継いでる」と断言した。

「ぼくたちが似てるのは認めるけど、ジェンはそれほど整った顔立ちじゃないよ。セクシーさを装っていて、いつも笑ってるから、美人に見えるだけ」

「母親を褒められるのは居心地が悪いものか?」

「えっ?」

「おれが褒めると、きみはジェンを落とすようなことばかり口にする」

「そうか……気付かなかったな」ポールは顎に手を置いて考え込むような仕草をした。「でもきみだって、ぼくがエドセルのことを褒めたら不機嫌になったことがあったよね?」

「あれは嫉妬だ。親父は男前でおれはとても敵わない。だからコンプレックスを」

「じゃ、ぼくも嫉妬してるのかも」

「ジェンにコンプレックスを?」

「それとは違うけど……」

 ポールは特に結論せず、食器を重ねて持ち、キッチンへ行った。

 この話の流れは、ポールにとって嫌なものだっただろうか。以前、彼がエドセルのことを褒めちぎったとき、おれは不愉快な気持ちになった。男として父と比べられているような気がしたからだ。でもポールの場合は母親で、女と男では比較のポイントが異なってくる。彼はゲイだが、“女っぷりを上げたい”と思っているわけではない。

 他に考えられるのは、おれが女好きであることを踏まえた上で、ポールが“おれに対して”腹を立てている可能性だ。彼は普段から、おれが女を見たり褒めたりするのを嫌っている節がある。それを知っているからこそ、意識して女の話題は避けていたのだが、母親もその対象に含まれるとは考えもしなかった。

 ポールに黙って二人きりでスケートに行ったあげく、その相手を絶賛する。これがジェンではなく他の女だとしたら、浮気も同然だ。しかしおれにとってジェンは“彼氏の母親”でしかなく、いくら魅力的であろうと、その手の興味を抱くことはない。ポールはそのあたりを誤解しているのかもしれない。

 ……とまあ、この時点ではそんなことを考えていたのだが、これらの仮説が間違いであることが翌日の晩に判明した。

 チャイニーズのデリで買った夕食を済ませ、ポールが食後のお茶を淹れていると、ジェンが「マンハッタンで一番ホットなスポットってどこかしら?」とおれたちに質問した。おれもポールも若者が好むような場所には詳しくない。行くとすればそれはゲイが集まるクラブだが、彼女が望んでいるのはそういう場所じゃないはずだ。

 ポールが「ネットで調べたら?」と言うと、ジェンは「調べてくれる?」と聞く。ポールが「後でね」と言うと、ジェンは「これからどこか行きましょうよ」と持ちかける。

 ジェンがここへ来た最初の晩も、このパターンでもってレストランに行ったんだよなと思い出していると、ポールが「今夜は駄目」と却下した。

「どうして?」とジェン。

「休みの前の晩ならともかく、仕事の中日だ。それにぼくはとても疲れてる」

 するとジェンは唇を尖らせ「いいわよ、あんたが乗り気じゃないならディーンと行くから」と反抗した。おれの腕に腕を絡ませて「彼はいつもわたしの味方。そうよね、ディーン?」と流し目を送る。

 いや、申し訳ないけど、おれも疲れていて……と断わろうとしたところで、ポールが「ディーンは行かないよ」と、きっぱり言った。

「ぼくもディーンも毎日仕事をしていて朝は早いんだ。そうしょっちゅう遊びに付き合えるわけじゃない」

 珍しくポールがキレた。声こそ荒げなかったが、彼は怒っている。これまでジェンに対しては一貫して穏やかに接していたが、とうとう厳しい態度に出ると決めたらしい。

 ジェンは「仕方ないわね」とため息をつき、「今夜はあきらめる。また今度にするわ」と折れてみせた。ポールが淹れたお茶を無視し、冷蔵庫からビールを出して飲み始め、テレビの前を陣取ると、あとはずっと黙ったきりだ。

 ポールは何も言わなかったが、苛立ちを感じているようだ。こういうとき、おれは完全に成す術がない。ポールに優しく声をかけたいが、そうすればジェンは拗ねるだろう。さりとてジェンを立てれば、ポールはますます不機嫌になるに違いない。

 ここへきてようやく事の真相が見えてきた。ポールはジェンに嫉妬しているわけでも、コンプレックスを抱いているわけでもなく、ジェンとデートしたおれに怒っているのでもなかった。彼はただ単に、ジェンのワガママさに腹を立てている。ポールは常日頃から自分勝手な人間を嫌っているのだから、当然と言えば当然だ。

 ソファでビールを飲むジェンと、ダイニングテーブルでジャスミン茶を飲むポール。二人はそっぽを向いたまま口を利かず、おれはそろそろ胃が痛くなってきた。妻と姑に挟まれた婿の気持ちはこんな感じだろうか。貴重な体験だが、できればこの手のリハーサルは避けたかった。

 それらしいフォローをポールに入れることができたのは、寝室で二人きりになってからだ。“気にすることはない”とか何とか、下手な慰め方をするおれに「ぼくは別に気にしてないよ。いつものことだからね」と涼しい顔で彼は言う。

「いつものこと?」

「ジェンはいつもワガママだ」

「それはそうだが……。じゃあ何だ? いつもきみたちはあんな風になるってのか? おれはきみら親子は喧嘩しないと思ってた。今まできみはジェンに対して寛大な態度を取っていたから」

「喧嘩? してないじゃない?」ポールは靴を脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。

「ああ、まあ、確かに……してない」

「でしょ?」

 おれの手を取り、ベッドにいざなうポール。さっきまであんなに腹を立てていたのに、今はすっかり笑顔になっている。

 怒りを手放し、平和を求める。それは素晴らしいことだが、おれは何だか釈然としない。

『ぼくは別に気にしてないよ』『喧嘩? してないじゃない?』なんだってそう“何もなかったような言い方”をするんだろう? もしこれがおれとの間に起きたことだったら、『別に気にしてない』どころではない。ネチネチ文句を言い続け(ポールによるとそれは“文句”ではなく、“正直な気持ちの吐露”だとのことだが)おれが怒り出すまでそれを続ける。それがいつものパターンだ。

 ポールはジェンに対してやたら物わかりがよく、親切で優しい。『ジェンに気を遣ってないか』と前に聞いてきたが、おれからすればポールの方がよっぽど彼女に気を遣っているように見える。

 ポールはジェンに遠慮しているのか? だとしたらどうして? 彼女に弱みを握られている? 財産分与のことを考えている? 実はジェンの寿命があとわずか? どれも馬鹿らしい空想だ。

 おれは自分の母親に気を遣うことはあまりしない。するべきだとは思うので、大人らしく配慮しようと努めてみるのだが、向こうが明け透けに言いたいことを言うので、最終的にはこっちも無礼になる。そうして互いに不愉快になってしまうのだ。だから、ポールがジェンに優しくしているのを見たとき、おれは驚き、感銘を受けた。絵に描いたような理想的な親子の姿に思えたからだ。しかしそれは本当だろうか? 

 傍らのポールを見ると、早くも眠りに落ちていた。安らかで愛らしい寝顔。おれは彼らの仲を気にしすぎているんだろうか。親子なら不和が生じることもある。さっきのはそれだ。自分だってママとよくやるじゃないか。ポールは喧嘩してないと言った。別に気にしてないとも。だから何も問題はない。そのはずだ。

 ベッドサイドの明かりを消し、毛布を肩まで引っぱり上げる。目を閉じると居間のテレビの音が微かに聞こえた。ジェンはなぜここへ来たのだろう。明日、彼女に聞いてみることにしよう。



 家の中で誰かがゲロを吐いている。……のではなく、これはどうやら歌らしい。死にまつわる内容のようだが、歌詞はほとんど聞き取ることができない。

 ケーブルテレビで中継しているのは海外のロックフェスだ。画面ではドレッドを長く伸ばした男が、デスヴォイスを響かせていて、ジェンはビール片手にそれを鑑賞している。彼女は昼夜を問わず酒を飲み、我が家のエンゲル係数は上昇の一途を辿っていた。ジェンは1ドルも払うつもりはないようで、それについてはひと言もない。地獄のようなデスメタルに合わせて身体を揺するジェン。その隣に座り、見るとはなしにライヴを眺める。ボーカルは咆哮し、客は腕を振り上げていた。

「これはヘヴィメタルなんですか?」

「いいえ、違うわ」

「違うんですか」

「これはデスメタル」

「メタリカは?」

「あれはスラッシュメタル」

「ガンズ&ローゼスは?」

「ハードロック」

 音楽のジャンルは細分化が進んでいる。中でもメタル系は最たるもので、おれが知っているだけでもかなりの数だが、どのバンドがどのジャンルに属しているのかはわからない。絵画も様式によって分類されている。絵に興味がない者からすればルネサンスもロココもさして違いはないだろう。

 大盛況のロックフェスは、花火が上がって幕となった。番組が終わるとジェンは立ち上がり、トイレにでも行ったかと思ったが、戻ってくるとビールを二本持っていた。

 おれに一本手渡し、「早く夏にならないかしら」と言う。「ビールは夏の方がおいしいし、野外コンサートも最高。冬は嫌い。夏が好き。あなた、ロックフェスに行ったことは?」

「ありません」

「すごく楽しいのよ。今度一緒に行きましょう」

「この前のコンサートはどうでした?」

「ホワイトスネイク? 彼らはいつも最高よ。デイヴィッド・カヴァデールは幾つになっても超イケメンだし」

「彼らのコンサートを見るためにここへ?」

「別にそういうわけじゃないわ。来てみたらたまたま近くでショウをやっていることがわかったから」

「じゃあ、どうしてマンハッタンに来たんですか?」

「息子がいるからよ」

「ポールに会うために?」

「ええ、そうよ。どうしてそんなことを聞くの?」

「しばらく滞在するってことは、何か他にも用事があるのかと」

「しばらく滞在してたらいけない?」

「いえ、まさか。ただ、あなたがここへ来た理由が気になって」

「それは話すと長くなるのよねえ……」

 ジェンは間延びした調子で言い、タバコの箱から一本取り出し、ライターで火をつけた。

「あの、すみません」

「なに?」

「今まで言わなかったけど、うちは全室禁煙なんです。タバコを吸うならベランダに出てもらえませんか?」

 彼女は煙を吐き出し、聞こえない振りをしている。

「ジェン?」

「そんなに迷惑? ここ数日だけのことなのに?」

「申し訳ないけど協力してもらえませんか」

 ジェンは人差し指と中指を額に当てて敬礼し、灰皿にしたビールの缶を持ってベランダへと向った。どうしてマンハッタンに来たのか聞きそびれてしまった。もしかしたら言いたくない事情があるのかもしれない。

 テーブルの上には彼女のタバコ。銘柄はバージニア・スリムだ。そのキャッチコピーは『you've come a long way baby(ベイビー、長い道のりを経て来たんだね)』

 女性の心情に寄り添うコピーとウーマンリブの煽りを受け、バージニア・スリムは70年代から80年代にかけて、爆発的な人気を誇った。しかし現代では喫煙者は減り、とりわけ女性は美容と健康を慮ってタバコから離れる傾向にある。ジェンは我が道を行くタイプだから、喫煙率の低下といった情報は気にも止めないだろう。おれも以前は吸っていたので、その気持ちはよくわかる。

 窓を開け、シーリングファンを回したが、タバコの臭いはなかなか部屋から消えてくれなかった。ベランダのジェンは手すりに寄りかかり、空を見つめている。タバコは吸い終わったようだが、戻ってこようとはしない。おれは追い出したことに罪悪感を感じ、膝掛けを持って彼女を迎えに行った。

「寒くないですか?」

 ジェンは振り向かず「寒いわね」と答える。

「今の季節にベランダはなかったですよね。台所の換気扇の下で吸ってもらえればいいですよ」

 ジェンはそっぽを向いている。黙っているのは拗ねているからだろうか。膝掛けを彼女の肩にかけて包むと、ようやく振り返り「優しいのね」と、少し笑ってくれた。

「部屋に戻りましょう」

「戻ってほしい?」

「ほしいです」

「じゃあ戻ってあげる」

 まるで五才児と会話をしているようだ。ここまで子供っぽいと怒る気にもならない。ポールはジェンに育てられた。それはどんな幼少期だったのか。彼は子供の頃の話をあまりしない。彼女はここへ来た理由を話さない。そこに小さな闇を感じるが、暴くような真似はできない。彼らが話したいと思えばそうするはずだ。

 ジェンは『優しいのね』とおれに言った。自分にできることは、それだけだ。ポールとその母親に優しくあること。理解を焦るあまり、言いたくないことを無理に話させることはしてはいけない。

 夜になってジェンとのやり取りをポールに話して聞かせ、どうして彼女はここへ来たのか、そしていつまでいるのかを改めて彼に聞いてみた。

 ポールは「迷惑かけてごめんね」と詫び、「でも心配しないで。彼女はそんなに長居はしない。ぼくの勘だとあと数日もしないうち出ていくよ」と言った。

「おれは別にジェンがいることは迷惑じゃない。そうじゃなくて、もし何か深い事情があるなら…」

「そんなのないよ。彼女を見ればわかるだろ。“深い”部分なんて全くないんだから。ジェンはそのときのフィーリングで行動してる。やりたいことをやりたいときにする。出て行くのは明日かもしれないし、半年後かもしれない」

「半年だって?」

「ああ、いや、ごめん、今のは違う。そこまで長くなることはないけど、でも、ぼくの言わんとすることはさ」

「わかるよ。“ジェンはそのときのフィーリングで行動してる”。つまり、先の予定はわからないってことだ」

「まあね」

「だとしたら、もう少し彼女に協力的になってもらう必要があるよな」

「例えば?」

「家事とかさ」

 ジェンはここへ来てから掃除も洗濯もした試しがない。まるっきり客の顔をして、食べて飲んで寝るだけだ。おれとポールが食器を片付けていても、指一本動かそうとはせず『早く終わらせて、一緒にテレビを見ましょう』なんて言ってくる。

「ジェンはお姫様みたいだ。何もせず、きみに髪まで巻かせて」

「きみの髪もぼくがセットしてるじゃない?」

「そうだけど、おれは家事をやってるだろ。きみからジェンに言ってもらえないか」

「無駄だよ。彼女は家事はしない。ひとりのときは仕方なくやってるみたいだけど、ここではぼくがいるからね」

「きみがいれば家事はしない?」

「そういうこと」

「あきれたな。それで今までどうやって暮らしてたんだ?」

「ぼくが子供の頃はゴミが床に散乱してるのが日常だったよ。ジェンは家事が嫌いだから。料理もほとんどしたことがなくて、食事はもっぱらピザとかマクドナルドとか。デニーズはご馳走の部類だったな。ぼくは彼女が仕事から帰るのを待つ間、掃除や洗濯ができるようになったんだ」

 それは初めて聞く話で、ポールが子供時代のことを語りたくない理由がよくわかった。あまり幸福でない時期のことは、誰であっても思い起こしたくはない。貧しさや礼儀のなさは、それが本人のせいでないとしても、恥ずかしさを感じることだろう。

 怠惰な母親と暮らした年月が、今のポールを作り上げ、“ジェンには何も期待しない”という選択をさせている。それについてどうこう言うつもりはない。ただ、おれはおれで別の選択をすることができる。ポールが言えないなら、おれから切り出すまでだ。

 この日、ポールは留守をしていて、今をおいてジェンに忠告する機会はない。いつものようにテレビの前にいる彼女の隣にかけ、通販のCMに切り替わったのを見計らって「ちょっといいですか」と声をかける。

「提案というか、お願いがあるんですが、よかったら少し家事を手伝ってもらえませんか?」

 丁寧に申し出ると、ジェンは即座に「いいわよ。何をすればいいの?」と応えた。

 簡単なところで洗濯はどうかと言うと、「コインランドリーの場所がわからないわ」と、困った顔をする。

「うちには洗濯機がありますよ。気がつきませんでした?」

「そうなの? でもやめとく。洗濯機は苦手だから」

 洗濯機は苦手? 変わった断わり文句もあったものだ。洗濯機を嫌う理由は不明だが、おそらく彼女は洗剤を計ったり、洗濯機のボタンを押すのが面倒なのだろう。

「食器を下げて、食器洗い機に入れるとか…」

「食後はゆっくりくつろぎたいの。医学的にも食べてすぐ運動するのはよくないって言われているし」

 食器を下げるのが運動に当たるとは思えない。うちの皿がダンベルくらい重たきゃ別だが。

「掃除はどうです?」

「ああ、それは絶対に無理。前にハウスダストで喘息をやったことがあるの。以来、呼吸器が弱くなってしまって。掃除をするとホコリが飛ぶでしょ? とてもできないわ」

 喘息が出るくらいホコリだらけの部屋に住んでいたということか。ゴミが床に散乱してるのが普通の暮らしで、その程度の症状で済んだのは幸運と言えるかもしれない。

「じゃあ、何ができるんです?」

「そうねえ、食事の支度なら何とか。明日の朝ご飯はわたしに任せて。ポールの好きなものを作ってあげるわ」

 満面の笑みを浮かべてそう言うので、おれはずいぶん安心した。料理だけでもかなり助かる。無為にいるよりはずっといい。

「ありがとうございます。それでポールの好きなものって…」

「セックス」

「は?」

「あなたとポール、昨夜セックスしてたでしょ?」

 会話の軌道がとんでもない方角へ外れた。この人はいったい何を言い出すのか。

「夜中にお手洗いに立ったとき、声が聞こえたの。でも気にしないでいいのよ。うちはオープンな親子だから、お互い性的なことは意に介さないの」

「はあ、そうですか……」

 何だか力が抜けた。ジェンはやりたくない家事から逃げようとして、話題を逸らしたのだろう。そしてその企みは実にうまくいった。気を削がれたおれは、もう何も彼女に要求しようとは思わなくなっていたからだ。

 ジェンはソファの背に肘をついて頬を支え、「同性とセックスするのは、やっぱり女性と違うものなの?」と聞いてきた。

 これはヘテロがゲイによくする質問だ。以前はおれも同じことを思ったが、ポールから『愛し合うことに男も女も関係ない』と諭され、その直後に実践に至った為、この疑問は一層された。

「違うところもあるし、同じところもありますね」とおれは答え、「でも基本の部分はあまり変わらないかな」と、付け加えた。

 異性愛者からこの手を質問をされたら、できるだけ誠実に答えるようにしている。『そんなことを聞くなんてゲイに対する差別だ』などと怒ったりはしない。こういうことはゲイを理解してもらういい機会だからだ。

 一般的なヘテロはゲイを知らない。つまりそれは無知であるということ。無知は無理解となり、それが恐れに転じたとき、人は“差別”という行動をとる。“ゲイは異常でも何でもなく、普通の人とまったく同じなのだ”ということをわかってもらうには、同性愛者もそれなりの歩み寄りが必要だ。ジェンは息子のことをより理解するために、同性愛について聞いてみたいのだろう。

「これは両方体験してみてわかったんですけど」とおれは続けた。「結局は、自分がどういう性質を持っているか。それに尽きると思うんです。相手が男であれ、女であれ、乱暴者は乱暴なセックスをするし、細やかな性格をしていれば、当然セックスにも反映される。おれにとってのセックスは、相手を思い遣って感じさせ、自分も相手を感じる。それだけです。性的な混乱を抱えてさえいなきゃ、セックスはそれ事態、シンプルな行為ですから」

「あなたは相手を思い遣るような優しいセックスをするってこと?」

「まあ、互いの了解の元で激しいこともしますが」

「わたしはそっちに興味があるわ。ちょっと試してみない?」

「試す?」

 ジェンはおれの両肩を掴み、全体重をかけて押し倒した。おれはソファの手すりに後頭部をぶつけて声を上げたが、彼女は心配するでもなく、後頭部じゃない別な場所をケアし始めた。目から火花を出しているおれの股間に手を伸ばし、服の上からさすってくる。安っぽい香水の匂いが鼻につき、瞼を開けると彼女の胸の谷間が至近距離にあった。大きく開いた襟ぐりから覗く、ミルク色の肌。これがポールをおののかせたニセモノのおっぱいか。硬いと聞いていたが、思っていたほどカチカチじゃない……などと感心している場合か。

「ちょっ…と…あの……コープランドさん……」

「“コープランドさん”なんてやめて。そもそも今はコープランドじゃないんだから」

 コープランドじゃない? 今は違う? なんだっけ、この人の名字は……。

「いつもみたいにジェンって呼んで」

「呼べません」

「言ってよ。“ジェン”って……」

 ささやき、おれの頬を撫でるポールのママ。ええっと……なんだっけ、この人の名字は……。そもそも聞いたことあったっけ? 思い出せない名字の代わりに、彼女にふさわしい形容詞が頭に浮かぶ。恋人の親のことを悪く言いたくはない。しかし当てはまる形容詞はただひとつ───あ・ば・ず・れ!

 却けようとすると、恐ろしい勢いで掴みかかってくる。おれが本気を出せば、彼女を押し戻すことなど簡単だ。かと言って、むやみやたらに突き飛ばすわけにはいかない。怪我をさせない程度の力で、この破廉恥な行為をやめさせなければ……。

 奮闘するおれたちを止めたのは「ただいま」という短い言葉だった。おれとジェンは同時に声の方を見る。そこにはポールが立っていた。冷めた目つきで絡み合う男女を見下ろしている。

「あら、帰ったのね」

 ジェンは悪びれもせずそう言い、上体を起こす。乱れた髪を指で梳いて、タバコに火をつけ、思い出したように「ベランダで吸うわ。このうちは全室禁煙だそうだから」と言った。

 ポールはジェンがベランダに出るのを見届けてから自室に消え、おれはソファの上で茫然自失。ベルトが外されていることに気付いたのでそれを直し、洗面所で鏡を見て、口紅がついていないかを確認。それからポールの部屋を訪ねた。

 ドアノブを回すと鍵はかかっておらず、彼はベッドにうつ伏せになっている。名前を呼んだが返事はない。おれはベッドに腰を降ろし、「誤解なんだ」と言った。

「おれはジェンとは何も……あっちが勝手に……その……なんて言うか……」

 ジェンを悪く言わないように説明しようとすると、どうにも要領を得なくなる。しどろもどろになるおれをポールは疲れたような顔で見上げ、「わかってる」と言った。

「きみの顔に“たすけてくれ”って書いてあったもの。でもごめん。そのメッセージは無視させてもらったよ」

 ポールはゆっくりと身体を起こし、両手で顔を擦って、「慣れてることとは言え、ああいうシーンを目の当たりにするのはやっぱりショックだな」と、つぶやいた。

「慣れてる?」

「好きな人をジェンに寝取られるのは初めてじゃないってこと」

「寝取ら……」

「ああ、ごめん。きみはまだ何もしてないんだったよね」

「ちょっと待てよ……母親に男を取られたって?」

「うん。彼氏じゃなくて、片思いの相手だったけど」

 ポールは怒るでも泣くでもなく、ただ淡々と話し始める。

「ぼくがすごく好きだった同級生。彼とは高校のボランティア活動で知り合ったんだ。あるときボランティア仲間でミーティングすることになって、皆はうちに集まることになった。いつもだったら断るところだけど、そのときジェンはロックコンサートのツアーを追っかけていて、数週間留守をしてたから、問題はなかったんだ。ボランティアのグループは五人だったけど、うちに来たのはぼくの好きな人だけで、他の皆は都合が悪くなったとかで参加できなくなって。ぼくは彼と二人きりになったことを心密かに喜んだけど、しばらくして仲間から電話があって、やっぱり来れることになったって言う。ぼくはその子を迎えに出て、でもうまく連絡がつかなくて。結局会えずに家に戻った。そしたら彼がジェンの部屋にいて……ジェンは『あら、早かったのね』って。さっきみたいにさ。軽く言うわけ。彼はアタフタしてたけど、ジェンはまるっきり平気って顔をしてたよ。二人とも裸なのに」

 おれは驚きのあまり口が利けなかった。ポールは傷ついた顔に、薄い笑みを浮かべている。

「以前きみは“母親を褒められるのは居心地が悪いものか”ってぼくに聞いたよね? あのときぼくは“嫉妬してるのかも”って答えたけど、それはきみがエドセルに嫉妬しているのとは全く種類の違うものなんだ。母親を褒められてぼくが感じるのは、“彼女は最低の女なのに、どうして皆、褒めたりするんだよ?!”ってこと。ぼくはジェンを憎んでる。愛してるけど、本当はとても嫌いなんだ」

 ポールは最後のくだりを吐き捨てるように発音し、「ジェンを憎みたくはない」と言う。「それなのに、自分の人生がうまく機能しないとき、決まってジェンのことを思い出すんだ。未熟な人間に育てられた自分は欠点だらけで、そうなった責任はすべて彼女にあると……。それが真実じゃないってわかってる。でも怒りを止めることは難しい。それに、ぼくはジェンを思わせるような女性が苦手なんだ。そういう女性が自分の好きな人に近づくと、ぼくは激しい嫉妬を感じる。きみはぼくが嫌うタイプの女性がどういうものだか知ってるだろ?」

 それについてはよくわかる。依存的で頭が弱く、女であることを売りにして、男の前ですぐに服を脱ぐ。それがポールの苦手なタイプだ。そして皮肉なことに、おれはそういう女が嫌いではない。

「ぼくは屈折してる。ジェンを思わせる女性が嫌いだなんて……」

 うつむくポールの背に腕を回し、おれは「きみは屈折なんかしてない」と否定した。「もししてるとしても、それは正常だ。ジェンに育てられて屈折しなかったら、どこかおかしいと疑った方がいい」

 そう言うと、ポールは少し笑い、「きみはぼくを屈折してないって言ったけど、そうならぼくは“どこかおかしい”ってことになるじゃないか」と、矛盾点を指摘する。

 おれは抱く手に力を込め、「みんなどこか少しおかしいんだ」と言った。「ジェンも、きみも、もちろんおれも。誰だって屈折してるし、トラウマだってある。そのことで自分や、自分以外の人間を責める必要はない」

「でもぼくは責めてしまうよ。きみに迫ったジェンのことを……」

「じゃあ、せめて自分を責めてしまう自分のことを責めるのはよせ」

「え?」

「ええと、要するに、“自分を責めるな”ってことだ。それと、慰めになるかわからないが、少なくともおれはジェンと寝ることはしない。彼女がアンジェリーナ・ジョリーだったとしても、絶対にあり得ないね。だってジェンはきみの母親だ。きみが好きだった彼とやらは高校生でヤリたい盛りだったろうが、おれはそこまで飢えちゃいないし、正直こういうのは気持ち悪いと思ってる。おれがセックス関連のことにセンシティヴだってことは知っての通りだ」

「そっか……」ポールはふーっと息を吐き出し、「ありがとう。力強く断言してくれて嬉しいよ」と言った。

「どういたしまして。さて、それでどうする? 今から彼女のケツを蹴り飛ばして追い出すか?」

「それもいいね」くすくす笑うポール。どうやら少し元気が出たようだ。

「でもまだもう少し待ってあげて。そのうち彼女が切り出すまで」

「何を切り出すって?」

「お金の話さ。ジェンはお金が欲しくてここに来たんだ。彼女がぼくの前に姿を現すのは、男がいなくてお金が底をついたときだけだから」

 突然の来訪の理由。それは金。知ってしまえば納得のいく話だ。ジェンが財布を出したのを、おれは一度たりとも見たことがない。

「いくらくらい必要なんだ?」

「そうだね、三千ドルくらいかな……」

「三千!?」

「それくらい渡さないと。ここに来るまでに借金をしてるだろうし、レンタカー代やら何やらで、すぐにまた底をつくから」

「なんでそれをきみが払うんだ。こういうことは今までもあったのか?」

「うん」

「なんてこった……」

 これにはさすがに頭を抱えずにはいられない。おれはポールに「きっぱり断った方がほうがいい」と強く言った。「助けてもらえると思えばこそ、彼女は借金をするんだ。こんなことを繰り返すのは、本人のためにもよくない」

「よくないかもね。でもジェンはぼくの肉親なんだ。彼女は最終的なところで、ぼくを頼りにしてる」

「それは親が言う台詞だろ。きみは彼女の保護者じゃない。息子だ。親が子供の足をひっぱるなんて、とんでもない話だと思わないか?」

「とんでもないかもしれないけど、うちでは普通だから。ちょっと早いけど、老後の面倒を見てると思えばいい。それにぼくがお金を貸すことを拒んで、それでジェンがしっかりすると思う? 残念だけど、そんなにうまくはいかないよ。よくて身売り、悪くて犯罪者……。わかる? 何も言わず、お金をあげた方がずっといいんだ」

 確かにそうかもしれない。楽な方へと流れた人間が辿り着くのは、犯罪か売春と相場が決まっている。ジェンは自力で何とかすることを諦めてしまった。それは些細な家事であってもだ。

「そうか……じゃあせめて、おれにその金額を半分負担させてくれないか」

「どうして?」

「だって三千だろ。大金だ」

「気持ちは有り難いけど、でもいいよ。これはぼくとジェンのことだから」

「おい」

「別に遠慮とかじゃなくて。本当にいいんだ」

「遠慮じゃないとしたら何だ?」

「うーん……なんだろう。意地かな」ポールは笑った。それは皮肉っぽくも、自嘲的でもなく、本当にただの“笑い”だった。

「なんでかはよくわからない。でもそうしたい。ぼくが自分で。ジェンの為に。そしてそれをきみに負担してもらいたくはないんだ」

「わかったよ。でもおれはきみが母親に金を渡すことを不愉快に思ってる。そのことは覚えておいくれ」

「うん。そうだね。正常な意見として心に留めておくよ」



 翌朝、ジェンは約束通り、朝食の支度をしてくれた。早起きして作ったメニューは砂糖がたっぷり入ったシリアルだ。

「ポールはマシュマロが入っているやつが好きなの」

 彼女はそう言ったが、今の彼はさほど甘いものは好まない。精製された砂糖なら尚のことだ。

 ポールは「ありがとう」と礼を述べたが、ちょっと困った顔をしている。おれが「卵でも焼こうか?」と彼に聞くと、ジェンは「量が少なかったかしら?」と不思議そうに言った。

 糖度の高い朝食を皆で食べ、昨夜の出来事については誰しもがノーコメント。ジェンは朝からビールを開けて「たまには料理するのもいいものね」とご機嫌な様子だ。これを料理と言うのは、レゴで作った家を“建築”と言うのに等しいが……ともあれ、朝から気まずい雰囲気になっていないのは助かった。ジェンに悪気や反省がないなら、それはそれでいい。申し訳ない振りをし『悪いと思っている』といった趣旨の芝居に付き合わされるより、正直な態度でいてもらった方が、こちらとしても気が楽だ。

 ジェンに人を傷つける意図はない。それはテーブルに並んだメニュー ──マシュマロ入りのシリアルに牛乳をかけたもの。冷たいオレンジジュースと、温かいチョコレートドリンク── のように“まるっきり何も考えていない”だけなのだ。しかし、考え無しに物事を選択していたらどうなるか。毎朝、砂糖だらけの朝食を食べ続けていたら、後年、健康に被害が出るかもしれない。後先考えずに金を使うことや、性欲に任せて息子の彼氏に手を出すことなども、同様に悲惨な結果を招くだろう。『よくて身売り、悪くて犯罪者』とポールは言ったが、それは我が国の貧困層が抱えている問題そのものだ。負のスパイラルから抜け出せないのジェンだけではない。そして、それについて解決する術をおれたちは持っておらず、結局ポールの言う通り、『何も言わず、お金をあげた方がずっといい』ということになってしまう。

 それから数日しても、ジェンに出て行く気配はない。ここが気に入ったのか、それとも借金を申し出るのをためらっているのか。後者はまず考えにくいので、前者である可能性が高い。バスルームにあるネイルを見ると、カラーが数種類増えていて、それは『まだまだここに居座るぞ』と主張しているように見えた。

 おれはシャワーを浴びながら、これからについて考える。ジェンに金をやって放り出し、それでまた一年後、彼女を迎え入れて同じことをする。そこから得ることは何にもない。もっと根本的な解決が必要だ。

 ローマンに相談してみようかと思案していると、バスルームのドアを叩く者がいる。尋常な叩き方ではなく、シャイニングのジャック・ニコルソンがドアの向こうにいるかのようだ。

 裸で怯えるおれの耳に「開けて!」と訴える声が聞こえた。ジャック・ニコルソンじゃない。ジェンだ。ポールと一緒に出かけたはずだが、ひとりで帰ってきたのだろうか?

「誰が入ってるの!? ポール!? それともディーン!?」

「おれです! ディーン!」

「入れて!」

「いったいどう…」

「オシッコ! もれちゃう!」

「ちょっ……待ってください! 今出ますから!」

「出なくていいのよ! トイレさせてくれればいいの!」切羽詰まった声は甲高く裏返っている。

「早くドアを開けて! ここでしちゃうわよ!いいの!?」

 おれはシャワーカーテンの隙間から手を伸ばし、鍵を開けた。ジェンは入るなりシャワーカーテンをバッと開き、にっこりと笑って「開けてくれてありがとう」と言い、それから着ているワンピースをすとんと床に落とした。ドレスの下は完全に裸。激しい尿意はどこへやら。なるほど、おれはハメられたってわけか。

「全裸にならないと用を足せない性質とか?」

「馬鹿ね。野暮なこと言わないの」

 ジェンはおれの身体を舐めるように見て、「今度こそポールは戻って来ないわ」と確信的につぶやいた。それからおれの胸に手を起き、身をかがめて股間に顔を埋めようと試みる。おれはジェンの髪をわし掴みにし、“どうしても立ち上がりたくなるように”仕向けてやった。

「痛ッ…! ちょっと! 乱暴に掴まないでよ! ばか! 痛いじゃない!」

 喚く彼女に顔を近づけ、甘い口調で「ねえ、ポールのママ」と囁きかける。「あなたはとても美しくて魅力的だ。でもおれは金輪際、死んでもあなたにはなびかない。これ以上おれにちょっかいを出すようなら、あなたの荷物をベランダから投げ捨てて、ポールの目の前でケツをひっぱたいてやるから、そのつもりで」

 ジェンは目を見開き、びっくりした顔で「……あんたって意外と骨があるのね」と言った。「ルックスがよくて口がうまいだけの男かと思ってたけど、どうやら違うみたい」

「そうでしょう。よく言われます」

 床からドレスを拾い上げ、彼女に突き出し、着るように仕向ける。ジェンはしぶしぶ服を身につけ「初めて遠慮なく口を利いたわね」と言った。「あなた、いい子ちゃんの仮面をやっと脱いでくれた」

「そっちが服を脱がなきゃ、おれだって仮面を脱がずに済んだんです」

「だったら裸になって正解ね。ようやく対等な関係になれたんだから」

「そうですね。今後は馬鹿をせず、気持ちよく付き合ってくださると嬉しいです。姑として」

「姑ですって?」ジェンはぎょっとし、それから天を仰ぎ見てつぶやいた。「あーあ、わたしもババアになったものね……ほんと嫌になる」

 出て行こうとする彼女に「オシッコはいいんですか?」と訊ねる。ジェンはドアの間から中指を突き立てた。どうやら本当に“対等な関係”になれたらしい。

 バスルームから出ると、ジェンは酒を用意して、おれのことを待っていた。いつものビールではなく、赤いワインとグラスが二個。「座れば。もう襲わないから」と、ぶっきらぼうに言う。

 シャワーの後で喉が渇いていたので、おれはワインに氷を入れた。ジェンはタバコを吸いたそうにしていたが、我慢しているようだ。手酌で酒を注ぎながら、彼女が話すのはポールのことだ。

「ポールはほんとにいい子よ」とジェンは言う。「あの子がまだ小さかった頃、わたしはストリップバーで働いてたんだけど、お店のみんな、ポールのことは“今まで見たことがないくらいキュート”って言ってたわ。店では受付の子と出番のないストリッパーとが交代でベビーシッターになるの。ストリッパーの多くは子供を持ってたけど、他の子はうるさくてブタみたい。でもポールは……彼だけは天使だった」ジェンはうっとりと歌うように、息子への賞賛を口にした。「ポールはブロンドの髪とブルーの目を持っていて、微笑むと誰もが魅了されたわ。大人しくて聞き分けがよくて、ワガママを言ってわたしを困らせるようなことは絶対にしなかった」

 遠い過去を追想し、「あのシリアルはポールの大好物だったの」と言う。「カラフルな色が好きで、マシュマロを追加してあげるととても喜んだものよ」

 ワインを飲み干し、ジェンは言った。「わたしわかってるの。自分があんまりいい母親じゃないって。でもポールのこと大好きなの。本当よ」

 それはおれもよくわかる。おれだってポールにとってあまりいいボーイフレンドじゃないが、それでも彼のことが大好きだ。

「あなたの子供の頃ってどんなだったの? うちと同じ母子家庭でしょ?」

「同じ母子家庭だけど、おれは全然いい子じゃなかったな。オフクロはおれのこと『この悪魔!』って怒鳴ってたし」

 うるさくてブタみたいな子供。それがおれだ。ワガママを言ってママやアイリーンをしょっちゅう困らせる。だが、それが子供というものではないだろうか。泣いたり喚いたり、意味もなく奇声を上げてみたり。分別というものを学ぶには、悪魔のようになって親を困らせるという過程が、必ずどこかに存在する。

 ポールはいつから大人しくて聞き分ける子になったのだろう。母親に認めてもらうために、彼は“いい子”である必要があった。それが愛されることだと信じていたからだ。ゴミ溜めのような部屋で、固くなった残り物のピザを食べ、母親の帰りを待っている。おれはポールの幼少期を想像し、『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』を聴いたときの数倍も胸が苦しくなった。

 ツマミもなく酒を飲み続けていると、ポールが帰ってきた。手にはスーパーの袋を持っている。以前とは明らかに雰囲気が違うおれたちを見て、「なんか……楽しそう? だね?」と不思議そうに言った。「ふたりともリラックスしてるっていうか、もしかしてすごく飲んでる?」

「まだワイン一杯だ。きみも座れよ」

 ジェンは「ポール」と名を呼び、「あたし、明日出てくわ」と不意に言った。

 予期せぬ言葉に驚くポール。黙ったままの彼に、ジェンは「どうしたの? 寂しくて泣いちゃいそう?」と、からかう口調で言った。

「うん、そうだね……寂しくなるよ」

 そう言うポールの顔は本当に寂しそうで、まるでジェンに出て行って欲しくないかのようだった。



 ホリディ・シーズンとあって、ラ・ガーディア空港は込み合っている。ジェンは移動にレンタカーではなく、飛行機を選んだ。行き先はロスアンゼルス。その理由は「エアロスミスとモトリークルーが西海岸でツアーをやっているから」とのことだ。

 デルタ空港のゲートに着くと、いよいよ“別れのムード”が高まる。あちらこちらにハグをする人々を見つけ、ジェンは「わたし、またひとりぼっちだわ」とつぶやいた。

 ポールは彼女の肩を抱き、「コンサート会場でいい人と出会えるかもよ?」と素敵な可能性を示唆した。それはジェンの気持ちを軽くしてあげようとしての発言だったが、お姫様はお気に召さなかったらしい。「そんな簡単に言わないで」と、むくれ、「あんたはいつも要領がいい」と息子に言った。

「好きな仕事をして、高級アパートに住んで、いい男をつかまえて……わたしはいつもひとりよ。なんだってこんなことになったのかしら……」

 愚痴を垂れるジェンに、ポールは反論しなかった。怒りも、悲しみも、小さな皮肉ですら、彼は口にせず、ただ黙って耳を傾けている。いつしかジェンの目には涙が浮かんでいた。息子と離れ難いあまり、というわけではない。彼女は己の境遇を憐れみ、自己憐憫に浸っているのだ。

 ジェンはポールをぎゅっと抱きしめ、そして言った。

「大好きよポール。愛してる。わたしのことを嫌いにならないで」

「ならないよ」

「あなたもわたしのことを愛してる?」

「もちろん」

「じゃあそう言って。いつも愛してるって言って」

「いつも愛してるよ」

 彼らの関係を知らずにこのやり取りを見たら、誰もが恋人同士だと思うに違いない。ジェンはポールの恋人のようだ。ゲイである彼の、唯一の女性の恋人。それはもちろん真実ではないが、おれの中ではその表現がしっくりくる。

 ポールは彼女に大金を渡し、それが返済される見込みはまずないだろう。『愛している』というのは彼女の本心なのだろうが、あまりにも行動が伴っていない。

 未熟な人間に育てられたとポールは言っていた。確かにジェンは未熟な部類の人間と言える。ポールとの関係性は、親子として最高のものではなかった。しかし未熟で不完全な家族関係は、何も彼らだけに限ったことではない。おれの母は躾を目的として、息子に体罰を与えたことが何度かあり、父は家族を捨てて家出した。母の父親は義理の息子に意地悪だったと聞くし、姉夫婦は現在離婚調停中だ。最初から最後まで上手くいっている関係は、この国においては珍しい。だとしたら、完璧な人間というのは、いったいどこにいるのだろう。

 自らを屈折していると評するポール。彼は母親を許そうとしている。おれが同じ立場だったら、そんな努力が果たしてできただろうか? ……それはわからない。おれはポールじゃない。わかったような気になることはできない。

 ジェンはマスカラを落とさないよう、注意深く涙を拭い、「ディーン、会えてよかったわ」と微笑んだ。

「あなたならポールを守って大切にしてくれる……そうよね?」

「そうありたいと思っています」

「ポールは男を見る目があるわ。わたしと似なくてよかった」

 短い言葉の中に、ジェンの孤独が感じられる。『体面を保つことに必死になって、自分の幸せを追い求めないなんて馬鹿げてる』と彼女は言った。ジェンは今も幸せを追い求めている。エアロスミスとモトリークルーのいる西海岸は、彼女に幸せをもたらすだろうか。そうであればいいと願うばかりだ。


 ジェンと別れ、コンコースを歩きながら、おれは「彼女がいなくなって寂しいか?」とポールに聞いてみた。

「正直言うと、少し」と彼は答える。「嫌いだとか言っておいて、矛盾してるけど。これ以上居座られたら困るのはわかりきっているのにね」

「感傷に水を注して悪いが、おれはせいせいした。これでもう彼女の吸い殻を始末しなくて済むからな」

「今まで窮屈な思いをさせてごめんね」

「もういいよ。残った問題は、きみがジェンのおっぱいに触れなくなって夜泣きするんじゃないかってことだ」

「ぼくはニセモノのおっぱいは嫌いなんだってば。それに今のぼくが寝る前に触りたいのは、ジェンの硬いおっぱいじゃなくて、きみの硬いディンガリングだしね」

 ディンガリング(Ding-a-ling)はおれとポールに共通の隠語。意味するところは“ペニス”だ。

「ポール、やっぱりこれは深刻なトラウマだぞ。きみが寝る前に口に含みたいものは、先端から白い体液をほとばしらせる性的シンボルなんだ。おっぱいとディンガリングの関連性についてどう思う?」

「うわっ、なんてあからさまなんだ! そんなこと考えもしなかったよ!」

「あからさまついでに、これからの予定を言おう。帰宅したらまず二人で熱いシャワーを浴びて、ベッドまで待たずにセックスする。終わったらベッドに移動して、もう一度セックスする。ここまで性急だったが、次はもっと時間をかけて、ゆっくりじらしてセックスする。それからちょっと食事をして、今度はキッチンで立ったままセックスする。それから……」

「そんなにセックスに飢えてたの?」

「今までジェンに遠慮してたからな。きみはどうだ? このスケジュールに賛成か?」

「もちろん。あー、やばい……公共の場だってのに興奮しちゃった」

「お互い、丈の長いコートを着ててよかったな」

 タクシー乗り場に出ると、風に乗って粉雪が舞っていた。ポールは「予報通りだ。タクシーを待つ間に凍死するかも」と絶望的に言い、「何か温かいものでも飲んでから行こうか?」と提案する。

 おれはコートの前を開け、抱きしめるようにして彼を包み込み「これでどうだ?」と聞いた。

「確かに暖かいけど、どう見ても不審者だね。タクシーに乗車拒否されそうだ」

「じゃあ電車で帰ればいい。多少、歩きにくいだろうが仕方ない」

「本気で言ってる? ねえ、もうやめて……みんな見てる。恥ずかしい」

「どんなに寒かろうと、おれがきみを暖めてやるよ。病めるときも、健やかなるときも……」

 彼の耳元にささやくと、ポールはくすりと笑い「急にロマンチックになったね?」と、からかうように言った。「空港だから? それとも何か企んでる?」

「何も企んでなんかいないさ。おれはきみを暖めたいだけだ」

 おれがそう言うと、ポールはコートから抜け出ることを諦めたらしい。“恥ずかしい”とも言わずに、ただ黙っておれに抱かれている。

 彼は少し甘え下手なところがあって、素直に愛情を求める代わり、嫉妬や文句としてそれを表現してしまう傾向がある。幼少期に甘えさせてもらえなかったポールは、今になってそれを取り戻しつつあるのかもしれない。

 そして、おれは他人に甘えることはあまりしない。自分で自分を甘やかしているからだ。酒やチョコレートに溺れ、衣服や腕時計に散財する。おれがおれに甘くいることを、人が許してくれさえすればそれでいい。

 おれは幼少期に与えられなかった物質的満足を。そしてポールは無条件の愛と許しを。どちらも無意識で求めている。人は自分には何かが不足していると感じると、それを外部から補おうとする。たとえ遥か遠い昔の欠損であったとしても、本能的にそうするのだ。

 望むような愛情を親から得られなかったとしても、その子が幸せになれないと決まったわけじゃない。ポールが愛を求めているなら、おれから与えてやればいい。彼が恥ずかしがろうとも、茶化そうとも、止めることなく愛し続ける。それが恋人としてできる最大のことだ。


 雪は徐々に強まっていき、ポールの予言通り凍死するかと思われたが、そうなる前にタクシーの順番が回ってきた。運転手は中東系で、カーステレオでイスラムの祈りのようなものをかけていたが、おれたちが乗ると気を利かせてチャンネルを変えてくれた。ラジオから流れ出したのは『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』。印象的なギターのイントロから、アクセル・ローズの伸びやかな声が続く。痛みを伴う過去の記憶の歌。ポールがこの曲のバックボーンを知らなければよかったと言ったのは、彼自身の心の痛みに触れるからだ。もし彼が傷を負っているなら、おれはそれを癒してあげたい。街は雪景色で、マンハッタンは人の温もりを必要としている。ポールはおれのスウィート・チャイルド。守って大切にする価値のある恋人だ。


END

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