第30話:ハロウィンの訪問者(Think of me)

〈毎日がパーティ!〉というキャッチコピーは90年代を以て死滅したが、一部のマンハッタン人種には、それを地でいく者もいる。

 パーティ・ガールにパーティ・ガイ。退屈を恐れる彼らは何かにつけて人生を寿ぎ、クリスマスはもちろん、イースターや感謝祭、建国記念日などを祝いまくる。誰かの誕生日は毎月あり、二日酔いになるイベントには事欠かない。集まるメンバーは誰でも歓迎。性別、年齢、性的嗜好は不問。何者であっても分け隔てなく招くのが主催者ローマンの流儀。楽しむことが大好きならば、幽霊であっても参加資格はあると彼は言う。そんなわけで、今年のハロウィン・パーティは参加者すべてがゴーストだ。

「幽霊の皆さん? そろそろ始めてもいいかしら?」

 中世の奇術師の衣装を身にまとったローマンが、ステージから皆に呼びかける。

「返事はしなくていいのよ。なんたってあなた方は幽霊なんだから。お喋りで元気のいい死人なんて興ざめでしょ?」

 黄泉の国から魂が戻るこの日、生者はひとりとしておらず、辺りをウロついているのはすべて幽霊であるという筋立てになっている。ボールルームは豪華絢爛。ゾンビやカボチャ男ではなく、ヴェネツィア・カーニバルさながらに着飾ったゴーストたちが、キャンドルの明かりで薄暗い室内にひしめき合っている。

 ここ数年で一番ゴージャスなパーティは、劇団のオーナーであるライアンの協力があって実現した。会場は古い教会を安価で買い取ってシアターに改築したもので、豪奢な衣装もすべて彼の提供だ。ちょうど公演が終わったばかりとはいえ、たった一日だけのパーティにここまで金と労力をかけるのには、ほとほと感服させられる。真の快楽主義者は苦労を厭わない。楽しみのためなら一日たりとも手を抜かず、これが人生最後の日であるかのように、精一杯をやり尽す。ビジュアル的にはハロウィンというより、謝肉祭を想起させ、ファッションの次代考証もめちゃくちゃだが、愉快なパーティに無粋は言うまい。

「パーティはダンスからスタートよ」とローマンが宣言する。「でもただ踊るだけじゃつまらないから、遊びの要素を入れましょうか。ゲームのタイトルは『冥府のダンス』。音楽がかかっている間は、誰もひと言も口を利かず、決して正体を明かしてはいけません。ダンスを終えたら、マスクをとってパートナーにキスしてね。相手が誰であろうと絶対によ」

 セクハラゲームはローマンの得意とするところ。おれは辺りを見回し、ポールの姿を探したが、皆一様にベルベットやサテンに埋もれていて、判別することは困難だ。

 ヨハン・シュトラウスがゆるやかに流れ始める中「カーニバルはミステリアスなものよ」とローマンが語りかける。「男性は女性に、女性は男性に、若者は老人になり、人と獣が混ざり合う……すべては幻想の世界の出来事……なにもかも、見たままとは限らない……。さあ! パートナーを選んでお互いを惑わせてちょうだい!」

 おれも今夜は人ならぬ者だ。黒いマントで身を包み、黒い帽子で髪を、白いマスクで顔を隠す。しかしこの衣装、ローマンに言わせると「一発でディーンとわかる」とのこと。正体を隠すイベントだとは知っていたが、老人や女性に変装するのは気が進まなかった。おれのダンスパートナーは簡単なゲームだと思うことだろう。

 ウィンナ・ワルツの調べに乗って、道化がダンスを申し込んできた。衣装は男性だが、果たして本当に男だろうか? 顔はマスクで隠しているし、ミッキーマウスのように大きな手袋をはめているので、手の感触からは判断できない。

 推理しながら踊っていると、ステップを何度か間違える。ボックスは得意ではないし、仮面で足元が見えないので、やりにくいことこの上ない。うっかり足を踏みつけると「痛っ!」とパートナーが悲鳴を漏らす。思わず「ごめん」と謝ったが、ダンスの最中は喋ってはいけないルールだ。相手にヒントを与えてしまったが、こちらも手がかりを手入した。おれと踊っているのは疑う余地なく女性だ。

 音楽がフェードアウトし、照明が明滅する。パートナー交代の合図だ。道化はマスクを取り、「やっぱりディーンね」と笑いかける。

「リタ、きみだったのか」

「男の人だと思ったでしょ?」

「声を聞くまではどっちかわからなかったよ。道化なら性別を隠しやすい。うまい選択だ」

 おれたちは互いの頬にキスをして別れ、次の相手を物色する。ワルツの音量が戻ると、ペールグリーンのドレスを着た貴族がおれに向かっておじぎをした。三角のトンガリ帽は中世イタリア風。先端からオーガンジーの薄布が長く垂れている。

 優雅に手を差し伸べられ、反射的にポールだと判断したが、よく考えると根拠はない。なんとなくそう感じただけだ。背格好は男性、もしくはヒールを履いた女性。胸はふくらんでいるが、そこはいくらでも偽造できる。ドレスは首元が詰まっていて、のどぼとけは確認できず。腕は長い手袋で隠しているが、握った感触からすると、男性であることは間違いない。しかしポールがドレスを着るだろうか? 彼は冗談でも女の格好をすることを嫌っていた。それはハロウィンであってもだ。

 値踏みしながら踊り続け、今回は足を踏まずに済みそうだ。短い間に上達したかと思ったが、どうやらそうじゃない。相手がおれにぴったりと動きを合わせてくれている。ダンスの上手い下手ではなく、自然と呼吸が合う相手。ポールと同規格の体型の男はそれなりにいるが……でもこれはポールだ。絶対に。

 照明が明滅し始めたが、マスクを取る前に自分の勘が正しいことを証明したい。おれは堪えきれず、トンガリ帽に耳打ちをする。

「ポール? きみだろ?」

 謎の相手はくすりと笑い、「仮面を外すまで口をきいちゃいけないってルールなのに」とささやいた。

 マスクを取ると、そこに現れたのはもちろんポール。女のようなメーキャップはしておらず、いつも通りの彼だ。

「でも、さすが。ちゃんとぼくだってわかってくれたね」

 嬉しそうに微笑み、唇に軽くキスをする。

「もしかして、おれ以外の男の口にもキスを?」

「まさか。しないよ。みんなぼくが彼氏持ちだって知ってるし」

「そうか、安心したよ」

「きみこそ気をつけて。何人もに唇を狙われてること、自覚してくれなくちゃ」

 ポールはマスクを装着し直し、ドレスの裾を翻して去っていった。

 “何人もに唇を狙われてる”……って、そういう輩はおおよそ想像がつく。おれとキスしたがるのはゲイの男ばかり。望まれるのは光栄だが、ひげ面に唇を奪われるのはあまり喜ばしいことじゃない。

 音楽が再開すると筋肉質のドレス男が近づいてきたが、おれはさりげなく視線を外した。たとえゲームであっても、彼らはかなり際どいキスをする。申し訳ないが、次の相手は異性にお願いしたいものだ。

 女はいずこと見回すも、これが思った以上にわかりにくい。身長や体格である程度の目星が付けられるだろうと思っていたが、厚底の靴で誤摩化したり、着ぐるみのようなドレスを身につけたりして、みんな自分が誰であるかを悟られないよう工夫している。正体がすぐにわかるのはおれぐらいのものだ。

 迷っているうち、パートナー探しからあぶれてしまった。踊る人々の中で立ち尽くしていると、黄色いドレスの女性におじぎをされた。ブルボン朝の巨大なカツラにマスクで顔を隠してはいるが、これは絶対に女の子だ。いくら男が女装を頑張っても、ここまで華奢にはなりようがない。

 申し込みに応じ、ダンスは上々の滑り出しだが、今度のパートナーは羽根のように軽く、身長はおれの胸よりさらに下だ。あまりにも小さいため、ともすれば振り回してしまいそうになる。ここまで小柄な相手はデビーしかいないだろう。彼女は中国系で背が低く、舞台ではいつも子供の役を当られるとこぼしているほどだ。

 音楽が終わり、おれは仮面を取った。しかし彼女は取ろうとしない。

「おれとキスするのが嫌? それでもいいよ。でもせめて顔を見せてくれないかな?」

 するとデビーは顔を横に振る。

「そうか、それじゃ仕方ない……なんて諦めると思ったか?」

 ふざけてパートナーのマスクに手をかけると、彼女は息を飲むような音を発し、咄嗟におれの手を払いのけようとした。抵抗した拍子に大きなカツラがずり落ち……その頭を見て、おれは息を飲む。髪がない。デビーの艶やかな黒髪が一本残らずなくなっている。

 彼女は慌ててカツラを直し、「ディーン、わたしのこと誰にも言わないで」と言い残して走り去った。

 いったいデビーはどうしたんだ? 役作りでスキンヘッドになったのか? いや、今のはデビーじゃない。声が全然違う。だったら今のは誰だったのか。なぜか心臓の動悸が止まらない。

 そのあと何人ともダンスをし、その都度、顔を見てキスをしたが、髪の無い女性に再会することはなかった。パーティが終わったあと、タクシーの中でポールに聞いてみたが、彼は「そんな人いたかな?」と首をひねる。

「招待客のヘアメイクを手伝ったけど、ぼくが知る限り、スキンヘッドに剃り上げてる女の子に心当たりはないね」

「だとしたら、きみじゃない誰かが担当したんだろうな。背が小さいから、てっきりデビーかと思ったけど、彼女はパーティに来てなかったそうだ」

「その人の顔は見てないの?」

「見てない。マスクで隠してたんだ」

「それで“誰にも言わないで”って?」

「ああ」

「言っちゃってるけど?」

「きみにはいいだろ」

「彼女は嫌かも」

「嫌かもしれないが、誰かもわからない」

「誰かもわからない人のことが気になるの?」

「ああ」

「そんなに気になるなら、ローマンに聞いてみたらどう? 彼は参加者名簿を持ってるはずだから」

 ポールはそう言うと、プイと横を向いた。おれが女性に関心を示していることが気に入らないらしい。この話題はこれ以上出さない方がよさそうだ。

 夜になってからローマンにメッセージを送信し、謎の女性について心当たりがあるかと訊ねてみる。返事はすぐにあり、『今すぐにはわからないけど、調べてから連絡するわ』とのこと。それから続けて『なんだってその“女性”のことが気になってるわけ?』と。

 わざわざ“女性”というところを強調してきたので、おれは『“女性”だから気になってるわけじゃない。ただ気になるんだ』と返した。

『了解しました。とにかく調べてみます。特徴がハッキリしてるから、きっとすぐに見つかるわよ ;)』

 ローマンはフェイスマークをつけて請け合ってくれたが、後日、彼から貰った返事は意外なものだった。

「そんな子、本当にいたの?」

 彼は訝しげな顔でそう言った。

「参加者の中で該当するような子はいなかったわ。よく考えたら、“髪の無い小さな人”について、主催者であるわたしが把握してないわけないのよね」

 自分で持ってきた手みやげのボストンクリームパイ(完全オーガニックでグルテンフリーという謳い文句つき)をパクつきながら、「衣装係の子にも聞いたけど、そこまで小さいサイズのドレスは用意してないって話よ」と言う。

 おれは自分のカップにコーヒーを注ぎながら、「だったら衣装は自前なのかも」と推測する。「サイズがないってわかってたから、自分で持ち込んだんだ。美女と野獣のベルみたいな黄色のドレスを着てた」

「それにしたって妙よ。さっきも言ったけど、入場者のリストに該当する子はいなかったわ。背が低いのはケイコだけど、彼女は髪があるし」

「最近、髪を剃り上げた女性に心当たりは?」

「だから、そんな人がいたらすぐにわかるでしょ。ポールはどう? 黄色のドレス、会場で見かけたかしら?」

「ぼくも見てないんだよね」ポールは思案するように腕組みをした。「そもそも、そんなに背の低い人に心当たりは……実際はもっと身長があるんじゃ? 周りの人たちが靴で身長を盛ってたから、彼女が小さく見えたって可能性もあるよね?」

「それにしたっておれの胸より低かったんだぜ?」

 ローマンは「そこまで小柄だったら逆に目立つと思うけど」と言う。「あたしが見てないってことは、つまり“いなかった”ってことじゃないかしら」

「いないわけないだろ。おれは一緒にワルツを踊ったんだ」

「きっと幻覚よ。なんたってカーニバルだし?」ローマンが議論を投げ出しかけると、ポールも「あの日はみんなゴーストだったしね」と冗談めかす。「そういえば、日本では『盆踊り』っていうお祭りがあるよ。ハロウィンと同じで死んだ人が戻ってくると言われていて、踊りの輪に死人が混ざっていてもわからないように、みんなお面をかぶるんだ」

「そうだ。それだよ」おれは人差し指を立ててポールに向き直った。

「それって?」

「幽霊さ」

 おれの言葉にローマンは顔の横で手を振り、「ちょっとやめて。まさか本気で言ってるの?」と苦笑する。

「本気だ。心当たりがあるんだ」

「心当たりってなあに? 幽霊にお知り合いでもいらして?」

「幽霊にと言うか、死人にな」

 真顔でそう言うと、ローマンも真顔になり「なにそれ、ホラーな話?」と眉をひそめる。「だったら聞きたくないわ。そういうの苦手なの」

「ホラーじゃない。だが、嫌な話だ」

「ぼくは聞きたいな」とポールが言う。「幽霊に心当たりって?」

「小学校の頃の同級生で、小児ガンで亡くなった子がいたんだ。三年生で発病してからはずっと休んでいて、一度だけ登校してきたとき、髪がなくなってたのを見た。わかるだろ? ガンは治療の副作用で毛が抜けることがある」

「その子は男の子? 女の子?」とポールが訊く。女の子だとおれが言うと、「男の子ならまだしも、女の子で髪がなくなるのは本当につらいよね」と、しみじみ言った。

「彼女はうちの近所に住んでいて、おれとは幼稚園の頃から一緒だった。亡くなったのは10歳になる前だ」

「パーティに来てたのはその子だってこと?」

「今にして思えば、あれは大人の声じゃない。背格好は子供と言っても差し支えないし、髪は剃り上げた風じゃなかった」

「入場者に子供はいなかったわ」とローマン。「大人の声じゃないってことは、その子と会話をしたのね?」

「会話はしなかった。ダンスが終わった後、彼女はおれにこう言ったんだ。“ディーン、わたしのこと誰にも言わないで”と。だが、なぜおれだとわかった? そしてなぜ誰にも言うなと口止めしたんだ?」

「あのコスチューム、誰が見てもすぐにあなただとわかるわよ。口止めしたのはパーティに不法侵入したことを知られたくなかったからじゃない?」

「だったら髪のことはどう説明をつける?」

「それは……わからないわ。わたしはその子を見てないんだもの。あなただけよ。見たと言い張っているのは。パーティの前にドラッグでもキメてきた?」

「あれは幻覚じゃないし、ドラッグもやってない。……なんだよ、これじゃ堂々巡りだな」おれは両手で頭を抱えた。

「その幼なじみの名前は何て?」とローマンが訊ねる。

「アリアナだ。アリアナ・ハーパー」

 彼は携帯を出して操作し、「アリアナ・ハーパー……綴りはこれでいい?」と画面をおれに見せた。

「合ってる。だけど名前を聞いてどうするんだ?」

「わからないけど、聞いておいた方がいいかと思って。情報があれば調べることができるかもしれないから」

 するとポールが「ミディアム(霊媒)に訊いてみるとか?」とつぶやいた。おれとローマンは同時に彼を見る。ポールは「なんとなくそう思っただけ」と肩をそびやかした。

 ミディアムか。おれが主張する説が正しいとすれば、確かにその手の領域だ。しかしちょっと飛躍しすぎている気もする。おれにとってミディアムというのは映画の中だけの存在で、現実世界で関わるような相手ではない。あまりに突拍子もないことを自分が主張していたと気づき、「まあ、見間違いってこともあるか」と言ってみる。「きみの言う通り、カーニバルに幻惑されたのかもしれないな」

 ポールとローマンは妙な表情でおれを見ている。まともなことを言ったのに、そんな顔をされるなんて心外だ。

「クリームパイじゃ腹が膨れない。どこか外に食べに行こう」

 おれは二人を見ずにそう言い、ジャケットを取りに自室に戻る。机にはパーティのフライヤーが置きっぱなしになっていて、よく見ると注意事項の項目に〈ゴースト・オンリー!(人間はお断り!)〉と書かれていた。

 こんなものに感化されるなんて、我ながら単純だな。アリアナが戻ってきたかもなどと、馬鹿なことを。

 フライヤーをゴミ箱に捨て、これから行くレストランを何件か思い浮かべる。幽霊話は封印だ。



 オバケがいるなんて、大人げないどころじゃない。それなのに、どうやらおれはその存在を信じているようだ。

 さっきまでソファでうたた寝をしていたのだが、目が覚める直前、すぐ近くに人の気配を感じた気がした。最初はポールだと思ったが、身長はポールより遥かに低く、そのとき彼はキッチンに立っていた。焦って起き上がろうとするも、どういうわけだか目を開けることができず、身体が少しも動かせない。ソファの横に立つ人物は、おれのことを見下ろしている。目が開かないにも関わらず、存在をハッキリと感じることができた。

 “それ”はおれの耳元に、ある衝撃的な言葉をささやきかけ、そしてゆっくりと離れていく。そこでようやく身体が自由になったので、起き上がってポールの名を呼んだ。彼はキッチンから顔だけ出し「なに?」と訊く。左手にボウル、右手にポテトマッシャーを持っていた。

「ポール……ずっとそこにいたか?」

「うん」

「おれの横に立って見てなかったか?」

「何を?」

「おれのことをさ」

「ぼくはずっとキッチンにいたけど?」

「そうか……そうだよな……」手で顔を覆うと、掌に冷たい汗を感じた。

「なんでそんなこと聞くの?」

「別に……」

「“別に”って雰囲気じゃないね」

 ポールは一度キッチンに引っ込み、ボウルとポテトマッシャーを置いてやって来た。おれの額を撫で「汗をかいてる」と指摘する。

「いったいどうしたの?」

「なんでもない」

「具合悪い?」ポールはおれの頭を撫で続けている。

「違う。本当に何でもない。ここに人がいたような気がしただけだ」

「人?」撫でる手が止まった。「まさかそれって、こないだ言ってた……」

「ああ、もういい。この話はやめよう」

「どうして?」ポールはおれの顎に手を置いて、顔を上げさせて目線を合わせた。

「そんな顔されたら気になるよ。隠さないで話して」そう彼がせがむので、おれは仕方なく話し始める。

「部屋に人がいたんだ。はっきり見たわけじゃないが、たぶん女の子で……アリアナ……だと思った」

 ポールは「そう」と言ったきり黙ってしまった。おれも口を閉じている。沈黙によって、さきほどの出来事が冗談では済まされなくなってきた。おれは「目が覚める直前に、夢を見ていたのかもしれないな」と言ったが、明らかに取ってつけたような発言で、ポールは「どうして彼女がここにいたと思う?」と質問する。

「わからない。おれは何も」

「何か心残りがあるのかもしれないね」

「かもな。メッセージを残して行ったから」

「メッセージ? 何て?」

「それは……あれ?」

「なに?」

「忘れた」

「忘れた?」

「おかしいな。聞いたときはショックを受けたのに、何て言われたか忘れたよ」

「今さっき耳にしたばかりなのに忘れたの?」

「ええと……そうだな。具体的な言葉は思い出せないが、意味は覚えてる」

「どんな意味?」

「彼女はおれに来て欲しがってるんだ」

「どこに?」

「わからない……彼女がいる所……それって死後の世界だよな?」

 ポールはあからさまに困惑したが、すぐに微笑み「気にすることないよ」と明るく言った。

「ダンスのパートナーが誰だかわからないままパーティを終えたことが問題なんだ。顔の見えない相手って不安なものだよね? だからきみはその不安を消し去るために、思い当たる人物を無意識であてはめたんだと思う。心霊現象じゃなくて、心理的要因だよ」

 そうかもしれない。しかしそうじゃなかったとしたら? ダンスのパートナーは子供で髪がない。そしておれ以外は誰も見ていない。それは心理的要因で片がつくことなのか?

「なあ、さっき“何か心残りがあるのかも”と言ったよな。それはどういう意味なんだ?」

「言ったけど……でもぼくは幽霊とかは信じてないし、信じたくない。オカルトで儲ける人たちは、人の不安を利用してるよ。きみはサイキックやミディアムにお金を払いたいの?」

 おれだってそういう輩は胡散臭いと思ってる。しかし自分が体験したこととなれば別だ。この世界にペテン師がいるからと言って、すべての超常現象を否定する理由にはならないだろう。

 ポールはおれの背を撫で、「変な時間にソファで寝るから気味の悪い夢を見るんだよ」と結論づける。「嫌なことは忘れて、台所仕事を手伝って。ポテトをマッシュするのって、すごく大変なんだから」そう言い残し、キッチンに戻って行った。

 嫌なことは忘れて、台所仕事を手伝う。そうだ、それがいい。無為にゴロゴロしているより、料理をしている方がよっぽど建設的だ。おれはポールの後を追ってキッチンに入り、晩飯の支度を手伝い、夜にはそれを食べ、一緒にテレビを見て、そしてベッドに入った。眠りにつく直前、思い出したのはアリアナのこと。あんなに頑張ってイモを潰したのに、“嫌なことは忘れて”とはいかなかったようだ。

 壁のシミが人の顔に見えた途端、二度と普通のシミとして認識できなくなるように、いったん何かを意識し始めると、無意識の状態には戻れなくなる。おれは考える。アリアナのことを。そして死のことを。



 マンハッタンは活気に満ちた街だ。クリエイティブで刺激的。いつの時代も注目を浴びる都市に、観光客はひっきりなしに訪れ、外貨をドカドカ落としていく。ニューヨークの経済規模は全米一で、世界では二位にランクイン(ちなみに一位は東京。あの街に勝てるわけがない)おれがこうしてカフェで茶をすすっている間も、砂漠の国から来た富豪や、華僑の財閥、ユダヤの資本家などが経済を動かしている。しかし、いくら市場を思うままに動かしていようとも、死の黒い翼からは誰も逃れることはできない。中国の始皇帝は不老不死を望み、その薬を求めて莫大な金を費やしたそうだが、結局夢は叶わず、五十歳を目前に死んだという。真偽の程は不明だが、このエピソードが伝える重要なポイントは、“すべて人々はいつか死ぬ”ということだ。

 おれたちは死ぬ。今すぐじゃないにしろ、いつかは死ぬ。そして死んだら二度と光を見ることはない。古代エジプトの復活信仰、ブードゥー教の儀式、ケニアの呪術師、そして最新鋭の医療をもってしても、死者の復活は夢のまた夢。どれほど時間が経とうとも、死人がこの世界に帰ってくることは不可能だ。一度死ねば二度目はなく、景色を見ることも、思考することも、何かに触れることもできない。今おれがテラス席から眺めている人々も、百年後にはこの世に存在していないだろう。

 ブロードウェイ通りは、死についてまるで無関心だ。行き交う人々は街の血流のようで、動きを止めることを恐れているようにも見える。インド人とおぼしき家族連れが立ち止まり、横断歩道の手前で写真を撮り出した。カメラに収めた映像は生きていたことの証明になるが、いつかはそれも風化する。想い出は生者のためのもの。死者は何も思わず、また感じることもない。

「嫌! 死にたくない!」

 叫ぶような声が耳に届き、おれはギョッとして辺りを見回した。今のは女の子の声だ。これも幻聴か? いや、そうじゃない。三歳くらいの小さな子が、意地悪な男の子に泣かされている。男の子は「そんなのダメだ!」と女の子に怒鳴った。「悪い子は悪魔に魂を取られるんだぞ! おまえは死ぬんだ!」

 女の子はギャンギャン泣き出し、手が付けられない状態だ。母親とおぼしき女性がやってきて、「悪魔なんて言うんじゃありません!」と男の子を叱り、女の子をぎゅっと抱いて「大丈夫よ」と慰めた。「フィオナ、いい子ね。泣かなくていい。怖くないわ。誰も死んだりしないのよ」

 親はああ言うが、実際はこの瞬間にも人は死んでいる。そのことにおれが気付いたのは何歳の頃だったか。記憶にあるのは学校で飢餓について学んだ日のことだ。おれはママに「アフリカでは今もたくさん人が死んでるんだよ」と伝えたところ、彼女は「アフリカだけでなく、アメリカでだって毎日死んでるわよ。あんたが瞬きしている間にも、世界中で人は死んでるの」と答えた。ブッダの父親は死や病といったネガティブな事柄を息子に見せたくなく、それを隠し続けそうだが、おれの母親は早い段階で真実を伝えることに決めたらしい。おかげでおれは出家もせず、また悟りを得ることもなく、平々凡々と今に至る。

 ママは『だから何?』とでも言いたげに、死について語ったが、自分の息子の死となれば「アメリカでだって毎日死んでるわよ」とは言うまい。もしおれが先に死んだとしたら、ママは一生悲しむことだろう。ママだけじゃない。親父もアイリーンも、そしてもちろんポールも。皆がおれの死を悼み、哀しみにくれる。そしてそれはいつ起きるかまったく不明なんだ。こんな不条理なことがあるだろうか?

 死についておれはあまりに不用意だ。誰もに起きることだというのに、今の今までまるで関係がないことのように振る舞っていた。さっき泣いていた女の子は死の概念がわかっていない。しかしおれは違う。大人として、少しはこういうことを考えるべきなんだ。

 死出の旅路に携帯すべきものは何か。歯ブラシに着替え、携帯電話にクレジットカード。無論そんなものは持って行けない。となると、おれの部屋にあるものは、ディーン・ケリー亡き後、すべて不要品になる。死を意識してみて初めて、自分の所有品が気になってきた。今のうちに少し整理しておいた方がいいかもしれない。

 自室のクローゼットに入り、奥の方からチェックしてみると、見覚えのないデジタル迷彩のジャケットが出てきた。この素晴らしい柄をチョイスした背景には、一体どんな理由があったのだろう。よく行く店のタグがついているので、自分で買ったと推測されるが、これまで戦場に派遣される予定が一度たりともなかったので、購入当時は何らかの理由で精神不安だったに違いない。

 その隣には春もののコートがかかっている。ほとんど袖を通しておらず、新品同様。しかし型落ちなので古着屋に持って行っても二束三文だ。

 かなり値が張ったシャルベのシャツ。クリーニング済だが状態が悪い。ブランド物でもキズや汚れがあれば価値は下がる。買い取りは無理だろうが、かなり酷使して愛用したのだから、じゅうぶん元は取ったはずだ。

 こっちのローファーも底がすり減るほど履いた。が、今年に入ってからは見向きもしてない。こういうのは気持ちよく処分できる。

 クローゼットの四分の一が不要品だと知ることは、人生を見直すきっかけにもなりそうだ。衣服の他にも処分すべきものはいくらでもある。


【ディーン・ケリーの処分品リスト】


〈衣類〉

・サイズが合わないもの = 脇がキツイ、股上がつらい、ウエストが無理。いろいろ認める潔さを持つこと。

・時代に合わないもの = ブーツカット、サイドにラインが二本入ったジャージパンツ、V○n Dut○h

・かつては服だったもの = シミが残っている、穴が開いている、くたくたになっている、味があるレベルを越えて色抜けしている、リフォームを試みた。すべて殺処分決定。

・パリコレ失敗系 = アバンギャルドすぎるデザインは笑いを取る他に用途なし。自分よ、なぜ買った。


〈食品系〉

・高級なバルサミコ酢 = 人からの貰い物。大事にしすぎて消費期限アウト。

・開封済みの瓶詰め = 新種の生物が培養されていると推測。中身を確認しないで捨てるべき。

・健康によいとされるお茶 = 淹れるたび自分に罰を与えていると気付いた。

・膨らんだ缶詰 = 開けたら死ぬ。


〈雑貨類〉

・スポーツグッズ = スカッシュのラケットはストレーナーじゃないし、ヨガマットはレジャーシートじゃない。正しい使い方を忘れたなら処分すべき。

・ジョークグッズ = 男性器の形をしたダンシングドール。人からの貰い物だが、いつどのように使用するものか未だわからないでいる。

・キャンドル = 装飾が美しいので気に入っている。が、火を灯すと何とも形容し難いアロマが漂い、吐き気を催す。

・書籍 = 読みかけ多数。ゾンビアポカリプスが起きて家に閉じ込められでもしない限り、二度とページをめくることはない。

・CD = データに落としてから博物館へ寄贈。


 想い出深い物でも、人からすればただのガラクタ。おれの死後、残された人々にこれらを処分させるのは忍びない。だったら元気なうちに片付けてしまおう。

 張り切って分類しているとポールが来て「なにしてるの?」と訊く。おれは段ボール箱に本を詰めながら「不要品を処分するんだ」と答えた。

「ローマンが来てるよ」

「そうか。よろしく言っておいてくれ」

「きみにあげたい物があるって」

「あげたい物? 何だ?」

「とにかく居間に来て。部屋の整頓は後でもいいでしょ」

 素っ気なく言い、ポールは出て行った。せっかく片付けがノッてきたところだったのに。しかしここで無視すれば、後で揉めるのは必至だ。

 ローマンとポールは向かい合ってソファにかけていた。テーブルには乾燥した草のようなものが散らばっている。

「なんだそれ? まさかドラッグ?」

「ドラッグじゃないわ。セージの葉よ」座るように促すローマン。おれはポールの隣にかけ、セージの葉を指先でつまみ上げた。

「またお得意の美容と健康にいい何かってわけか?」

「これは浄化のアイテムよ。セージは古来からネイティヴ・アメリカンが聖なるハーブとして使っているもので、こっちのは白檀。ルーツは仏教ね」

「ネイティヴ・アメリカン? 仏教? 突然なんだ?」

「あなたが不安に苛まれてるみたいだから、癒しグッズを持ってきたの」

「誰が不安に苛まれてるって?」

 おれはポールを見た。彼はちょっと気まずそうな顔をし「ミディアムにお金を払うよりはいいよね?」と言う。彼はおれのことを気遣ってくれたのだ。それは解るが、“不安に苛まれてる”ってのは言い過ぎじゃないだろうか。

「おれは不安から幻覚を見たわけじゃない。幻覚を見たから不安なんだ。あり得ないものを見れば誰でもそうなる」

「どっちにしても不安なんでしょう? 幼なじみがあなたを連れて行くって思うのよね?」

「大人になったら結婚すると彼女に約束したんだ。アリアナは死んだ。それってどういうことかわかるだろ」

「つまり『コープス・ブライド』ってわけね?」そう言ってから「ハロウィンだから『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』とも言えるかしら」と、さらなる見解を付け加える。

「おれはティム・バートンのおとぎ話を信じる年頃じゃない。だけど、多くの人が心霊現象を体験してると知ってからは多少、見方を改めたよ」

「心霊現象を体験してる? 誰がそんなことを?」

「ネットで調べた。芸能人も多数、霊を目撃してる。チャーリー・シーンにモトリークルーのヴィンス・ニール。スリップノットの奴もだ」

「そのラインナップはどうかしらね……」

 ローマンは人差し指で片鼻を抑え、息を吸い込む仕草をした。彼らは薬物で幻覚を見たのだと言いたいのだろう。

「きみはあくまで否定的立場をとるんだな?」

「否定はしてないわ。知り得ない領域について意見を述べることができないってだけ。幻覚か幽霊かなんて、わたしには判別できないもの。ただ、この現実に起きていると唯一、断言できるのは、あなたが不安を抱えているってこと」

「それで癒しグッズを?」

「ちょっとでも助けになればと思って。このハーブには邪悪なものを祓う効果があるそうだから」

「邪悪? アリアナが邪悪だって言うのか?」

「そうじゃないわよ。今のは言葉のあやで…」

「たった10歳で死んだ女の子が邪悪なわけないだろ」

「もちろんそうよ。ねえ、ちょっと落ち着いて」

「落ち着いてって何だ? おれが取り乱してるってのか?」

 ポールが割って入り「ディーン、怒らないで」と諌めた。おれは怒ってない。しかし彼らにはおれが不安を抱えていて怒っているように見えるのだろう。

「いい大人が霊の存在を主張してるのはおかしいか? そもそもきみたちは信じてないし、理解しようともしてないからな。馬鹿げた話に付き合わせて申し訳ないね」

 おれは部屋に戻り、古着の入った段ボール箱を蹴っとばした。何がコープス・ブライドだ。ポールの奴、何でもかんでもローマンに話しやがって。これじゃまるでおれの頭がおかしいみたいじゃないか。

 Xファイルのモルダー捜査官は同僚から幾度となく精神疲労を疑われていたが、彼が体験していることを思うと、この上なく同情を感じられる。ホラー映画の登場人物が真実を訴えたところで、誰からも相手にしてもらえない。彼らが惨殺死体で発見されるまで「あなたは疲れているのよ」と周囲から言い聞かせられるのだ。



 おれはハロウィンパーティが行われた会場に足を運び、ライアンに衣装部屋を見せてほしいと頼み込んだ。彼は快諾してくれたが「いったいどうして?」と当然の質問を振ってきた。

「きみがきらびやかな衣装に未練があるなら、我が劇団にようこそだが」

「いや、別にそういうわけでは……少し気になることがあって」

 おれが言葉を濁すと、彼は追求を避け「衣装部屋は楽屋の隣だ」と言ってキーを放り投げる。しつこく訊かれたらどんな言い訳をしようかと思ったが、ライアンは気を利かせてくれた。もう誰にも幽霊の話はしたくなかったし、劇場のオーナーである彼に『ここでゴーストを見た』と言うのはさすがに失礼すぎる。

 衣装部屋は狭苦しく、身動きが困難なくらい、ぎっしりと服が吊り下げられていた。この中から例の黄色いドレスを見つけられれば、おれの見たものが幻覚でないことが証明される。その上でライアンに誰がこれを着ていたかを訊けばすべて解決だ。

 衣装は各色カラフルに取り揃えてあるが、ざっと見たところ黄色は多くない。きっとすぐに見つかるはずだと捜索を開始したが、これがそう簡単なものでもなかった。色別に分類してあれば楽なのだが、陳列に法則らしきものはなく、衣装カバーがかかっているものは、いちいちファスナーを開けなければならない。脚立を動かし、登り降りしているうち、全身から汗が噴き出してきた。空調がないのでひどく暑いし、繊維のホコリで喉が痛い。しかし中途半端でやめるわけにはいかない。何としても見つけてやるからな。

 シャツのボタンを外し、額の汗を拭って作業を続ける。片っ端からチェックし、時計を見ると二時間以上が経過していた。棚の上にある最後の箱を確認したが、中には汚れた造花があるだけで、服は入っていない。汗だくになってわかったことは、ここにはXSサイズの黄色いドレスはないということだけだ。

 事務所にいるライアンに鍵を返すと、彼はおれを見て「大丈夫か?」と眉をひそめた。

「大丈夫って何が?」

「幽霊でも見た顔をしてる」

「ああ、そうか。それならよかったんだが……悪いけど水を一杯貰ってもいいかな。あの部屋は暑すぎる」

 ライアンは冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを出し、「少し休んでいくといい」と、折りたたみ椅子をすすめてくれた。

 座って水を飲むと、身体中に水分が行き渡った感じがした。夢中になっていたので気付かなかったが、もうあと三十分もあそこにいたら熱中症になっていたかもしれない。ここまでやったのに成果はゼロ。やっぱりおれは幻覚を見たのか。それとも本当に幽霊なんてものがいるのだろうか。

「暗い顔だな」とライアンが言う。おれは「そんなことはない」と応えたが、実際のところ鏡を見るまでもないことはわかっていた。

「何かあったのか?」

「いや……ただちょっと……」

「ちょっと?」

「あのさ、幽霊っていると思うか?」

「幽霊。死んだ人の霊ってことか?」

「まあ、そんな感じ」

 ライアンは顎をさすり、「いたらいいな、とは思うよ」と言う。「おれは両親を失くしているから、もし彼らが幽霊になっていたら会いたいね」

「幽霊でも会いたい? 少しも怖くはない?」

「怖いかもしれないが、会いたい気持ちの方が強いよ。それに肉親はおれを怖がらせはしないと思う」

「肉親じゃなかったら? 他人の霊は?」

「それは嫌だな。でも興味はある」

「本当に?」

「ああ。幽霊に会って話を聞けるなんて体験、なかなかできないだろ。おれは舞台作家だから、変わったことに首を突っ込みたい欲求があるんだ」

 おれは舞台作家じゃない。幽霊は怖いし、変わったことに首を突っ込みたくはない。両親には悪いが、もし彼らが死んだら化けて出て来るのだけはやめて欲しいと心から願う。

 この劇場は元々教会だったし、ダンスには降霊術の効果があるという。それは幽霊が出やすいロケーションと言えなくもない。現在、公演は行われておらず、華やかなりし舞台はがらんどうだ。パーティのときよりもホールは広々として見え、窓からは午後の日が差し込み、柔かな光線の中を塵が舞っている。

 もし魂というものが不滅なら、この塵のようにフワフワと辺りを漂っているのかもしれない。おれたちが認識できないだけで、実は多くの幽霊がそこかしこにいる。そう考えると、死はさほど恐ろしくはないように思えた。

 もしおれが幽霊になったら、ハロウィンのパーティに降臨して、ポールとローマンをおどかしてやろう。そこで彼らは初めて『ディーンの言っていたことは正しかった』と反省するんだ。

 モノの見方を変えると妙に楽しくなってきた。人はいつかこの世を去る。その事実を人類はネガティブにしか捉えてこなかった。もっと前向きに死と向き合うことができたなら、人生はより豊かなものになるだろう。

 ハイになって帰宅すると、ポールが居間でテレビを見ていた。画面ではこわもての男が車を運転していて、容疑者らしき人物について話をしている。

 ポールが好む番組は主にドキュメンタリーで、映画やドラマは一緒に鑑賞することが多い。それがひとりで刑事ドラマらしきものを見ているなんて、珍しいこともあるものだ。

 ソファの後ろから「なにを見てるんだ?」と訊くと、ポールは前を向いたまま「よくわからない。ドラマだけど途中から見始めたから」と答えた。

「面白いか?」

「まだそんなには。途中だから」

 おれはポールの背後から抱くように腕を回し、彼の肩越しに画面を見た。こわもての俳優は「奴が気がつく前に口座を凍結させるんだ」と厳しい口調で命令している。

「口座って誰のだ?」

「詐欺被害にあった未亡人。お金が勝手に引き出される可能性があるから」

「そうだ。口座といえば、おれのカード暗証番号。今のうちにきみに教えておくよ」

「どうして?」

「もし突然死んだりしたら銀行口座が凍結されるから…」

「もうやめてくれ!」

 前触れなくポールが叫んだので、おれは驚いて両手を離した。

「暗証番号!? いったい何!? 近々死ぬ予定でもあるっての!?」

「いや、まさかそんなわけは……でも万がいちの事態を考えておくのは悪いことじゃないだろ?」

「これが二週間前なら喜んで耳を傾けたよ! でも今はぜったいに嫌だ!」

「なんだよ? どうしてそんなに怒ってるんだ?」

 ポールはテレビを消し、深くため息をついて「ライアンから連絡があった」と言った。「きみが衣装部屋に二時間以上こもっていて、やっと出て来たと思ったら、落ち込んだ様子で幽霊の話をしていたって」

「そうか……この界隈では何も秘密にしておけないな」

 今度はおれがため息をつく番だ。ポールに言わないでくれとライアンに頼んだわけではなかったが、こんなにすぐリークされるとは予想外だ。「きみたちのネットワークに鍵はかけられないってことがわかったよ。今度はライアンから魔除けのハーブを処方されるのか?」

「そんな言い方しないで。みんなきみのことを心配してるんだから。衣装部屋で例のドレスを探していたの?」

「ああそうだ。だが見つからなかった。おそらくあれは現実のものじゃない」

「そんな……」

「不安がるなよ。幽霊の類いは信じてないんだろ? おれが女の子の霊に連れ去られるなんて思ってないよな?」

「心霊現象は信じてない。きみが生きる気力を失いつつあるのが嫌なんだよ。まるで死を現実のものにしようとしてるみたいだから。遺品整理みたいなことはするし、今だって口座のことなんか持ち出して。ぼくが不安に思うのも当然だろ?」

「そんな風に感じさせたなら悪かったよ。だけどおれは何も……」

「なんでもないことみたいに言わないで。きみは信じてる。もうすぐ自分が死ぬんだって」

 ポールは動揺している。言葉の語尾が震え、今にも感情が爆発しそうだ。おれは「ごめん」と謝り、彼の身体を優しく抱きしめた。

「もう二度と死の話はしない。幽霊のことも、幼なじみのことも。暗証番号も。だから安心してくれ」

「そんなの……口にしないからといって、それについて考えなくなるわけじゃない。ぼくに黙ってライアンのところに行ったみたいに、きみはまたひとりで行動して、それで……」

 ああ、もう! 面倒くさい!

 文句を言い続けるポールを強引に姫抱きし、寝室まで抱えてベッドに放り投げる。

「ちょっ……ディーン!?」

 シャツを脱ぎ捨て、戸惑う彼に覆い被さり、「おれは死なない」と強く言う。「触ってみろよ。これが死に向かう男の身体かどうか……確かめてみるといい」

 ポールの手を掴み、胸の筋肉を触らせると、彼はもう恍惚の表情になっていた。

「ポール……愛してる……」

 ささやきと共に口づけし、あとは激情に流されるまま。二時間後、ポールはすっかりご機嫌になっていた。とりあえずはうまくいったが、毎回こうするわけにもいかず、根本的な解決にはほど遠い。幽霊は存在するか否か。おれの人生においては新しいジャンルの悩みだと思う。



 謎の少女と出会ってから一週間が経過した。窓辺に映る不吉な影や、ドアをノックする物音に飛び上がることもなく、幽霊騒動はどうやら下火になったらしい。結論らしい結論が出なかったのは残念だが、命を持っていかれる心配がなくなったのはいいことだ。

 空は晴れ、雲は去り、空気は甘い。セサミストリートへの道筋を訊ねたくなるような素晴らしい日。去り行く季節を手軽に楽しむべく、ビール片手にベランダに出ようとしたところで異変に気付いた。サッシの鍵に針金が巻かれている。ここの戸には通常、鍵をかけているが、それが簡単に外せないよう、しっかり固定されているのだ。

「なんだこれ……どうしてこんな……」

 泥棒対策……じゃないよな。ベランダに出られないようにしてあるってことは……まさかおれが投身自殺をするとでも? だとしたら、ポールの奴、神経質にもほどがある。彼が戻ったらこの件について話し合わなくては。

 興が削がれたので日光浴は諦めることにした。とりあえずビールは開けたが、どうにも腹立たしい。『みんなきみのことを心配してるんだから』とポールは言ったが、いくら何でもやり過ぎだ。親切を通り越して異常者扱いも甚だしい。おれに対する信頼はどこへ行ったんだ。

 パートナーへの不満が次から次へと沸き上がり、このままだと確実に喧嘩になるパターンだ。ポールはもうあと一時間もしないうちに帰宅する。今のうちに感情を平坦に戻しておかなければ。

 ビールの缶を握りつぶし、コーヒーでも淹れようとキッチンの引き出しを開けると、先日ローマンが置いて行ったハーブが目にとまった。確かこれは浄化のアイテムだとか。こいつは憤慨や不機嫌を消し去ってくれるだろうか。論より証拠。試してみる価値はある。

 インディアンの薬草は乾燥したハーブを束にして糸で撚り合せたものだ。葉巻よりも太く、ロープより細いそれに火を点けると、パチパチと音を立てて燃え出した。

 インセンスは部屋の匂い消しくらいにしか思ってなかったが、元々の用途は別にある。キリストが誕生したときも乳香がギフトに選ばれたというし、本来は日用品として使うものではない。宗教には詳しくないが、とにかく火を灯して悪いことはないだろう。

 使っていない灰皿に乗せ、居間のテーブルの上に置いたが、キッチンでコーヒーを淹れている間も匂いが漂ってくる。インセンスと違ってあまり良い香りではないが、悪い霊を追い出すにはこれくらいの悪臭が必要なのかもしれない。悪魔を追い払うのはニンニクとかタマネギとか、強い匂いのものと相場が決まっている。

 あのハーブに邪悪なものを祓う効果があるなら、ローマンが来たときにも使ってみようか。本当に効き目があるなら、彼は憑き物が落ちたように善人になるはずだ。

 コーヒーを片手に居間に戻ると、さきほどまでなかった火柱が上がっていた。おれのお気に入りのクッションがソファの上で燃えている。悪臭の原因はハーブじゃない。火事だ。

 ええと……これはどうしたらいい。消火器……なんてものはないよな。だったらシャワー……駄目だ。バスルームは遠すぎる。手にコーヒーを持っているが、こんなものは焼け石に水だ。水……水……。そうだ、あれだ! 

 ウォーターサーバーのタンクを引っ掴み、燃え盛る炎にブッかける。火災発見から鎮火までおよそ8秒。無事に消し止めたが、クッションは完全に死んだらしい。恐る恐るそれをどけると、ソファは焦げていなかった。すぐに気付いてよかった。あのまま自室に戻っていたら、とんでもなく大変なことになっていたはず。それを思うとゾッとする。

 おれは顔を上げ「どうしてこんなことになった?」とつぶやいた。はっきりと声に出し、「そこにいるのか?」と呼びかける。

「アリアナ!? きみはおれを恨んでるのか!? だったらこんなことはやめてくれ! ここは他の住人もいる集合住宅だ! 目的がおれなら、さっさと心臓発作でも何でもやってくれればいいじゃないか!」

「ディーン? 誰と話してるの?」

 帰宅したポールは顔をしかめ「この匂い……」と言って、焦げたクッションに目を留めた。「それは何? 一体どうしたの?」

「ちょっとボヤを出しちまった。酷く見えるけど、クッションがひとつ燃えただけだ。火災報知器が鳴る前に消し止めた」

「クッションが燃えた? 火事ってこと?」

「ソファは無事だ。天井に煤がついたけど、たぶん拭けば消える」

「火元は?」

「ローマンからもらったハーブに火を点けたんだ。ホルダーがなかったから灰皿に置いたんだが、安定してなかったらしい。クッションの房に燃え移ったのかな。本当に悪かった。すぐ片付けるよ」

 クッションを拾い上げようとするおれの腕をポールは掴み「もうきみをひとりにしておけない」と、固い声音でつぶやいた。

「もう駄目だ。いつかこんなことになるんじゃないかと思ってた。一緒にカウンセリングに行こう」

「カウンセリング? 大げさだ」

「大げさなもんか。きみは火事を出したんだ」

「おれが心神喪失で火を点けたとでも? だったらそれは思い違いだ。さっきも言ったが故意じゃない。ただの事故だ」

「こんな事故は今までなかった! きみは自分が正気を失っていることに気付いてないだけだ! さっきだってひとりで喋ってた!」

「あれは…!」

 反論しようとしたが言葉に詰まる。おれはひとりで喋ってた。それは確かに正常とは言い難い。

 ポールはおれの両腕を掴み、「お願いだから……」と哀願する。その顔は今にも泣き出しそうだ。

「わかったよ……わかったから、ちょっと話をさせてくれ。カウンセリングに行く前に……いいだろ?」

 被害のない方のソファにポールを座らせ、おれはテーブルに腰を下ろして彼と向かい合った。ポールの両手を優しく包み、「さっきはひとりで喋ってたんじゃない。アリアナに話しかけてたんだ」と告白する。

「もし彼女がここにいるなら……火事なんて手段はやめて、おれだけを殺してくれと……そう頼んだ」

 ポールはショックを受けた表情をしたが、言葉は発さなかった。驚きが大きすぎて声が出なかったのかもしれない。

「おれは“死にたい”って思ってるわけじゃない。ただ心当たりがあるんだ。アリアナから連れ去られるだけの理由がおれにはある」

「結婚の約束をしてたから? それできみを殺そうと?」

「おれは彼女を裏切ったんだ」

「子供の頃にした約束なんて守り通せるわけないよ。誰だって反古にしたことはあると思う」

「そうじゃない。おれは彼女に……」

 遠い記憶は苦痛を伴って蘇る。アリアナは優しく愛らしい少女で、おれは馬鹿なガキだった。結婚の約束はしたが、釣り合いが取れているとは思えないほど、彼女は素敵な女の子だった。

「アリアナとは家が近かったって話はしたよな? おれたち、幼稚園に上がる前から一緒に遊んでた。テレビを見たり、絵を描いたりして。彼女の父親は郵便局で働いていて、母親はいなかった。片親同士、共感するところも多かったんだと思う。おれのママとアリアナの父親が再婚したら、おれたちは兄妹になれるって考えたりしたよ。子供らしい発想だよな」おれは少し笑ったが、ポールは笑わずに真剣に聞き入っている。「ほとんど毎日一緒に遊んでたけど、小学校に行くようになってお互い交友関係が増えた。そうなるともう遊ぶこともなくて、たまに学校で見かけても、おれは挨拶すらしなくなった。四年生になってクラスが一緒になったが、アリアナはほとんど登校してこない。その頃には病状がかなり進行していたらしい。だから彼女の席はいつも空いてて……そこに誰がいるのか皆が忘れかけた頃、ひょっこりアリアナが現れた。ひどく痩せて、不格好な毛糸の帽子を被ってた。クラスの皆は彼女の不自然さに気付いていたが、誰も何も言わなかった。もちろんおれもだ。だけど馬鹿な奴はいるもんで、悪童が彼女の帽子を取り上げやがったんだ。そして奴はこう言った。『すげー!スキンヘッドかよ!』……」

「ひどい」

「ああ、ひどい話だ。だがおれも同罪さ。その場にいたが何もしなかったんだ。彼女が泣きながら教室を飛び出して行ったのに、おれは追いかけもせずにいた。ただ馬鹿みたいに立ってるだけで……」

「きみは子供だったんだよ。見た光景にショックを受けたんだ」

「そうだ、おれは子供だった。その後、彼女は教室に戻って来なかった。一日の終わりになって教師がおれに『アリアナが保健室できみのことを待ってる』と言ったんだ。周りには同級生がいて、中にはさっきアリアナの帽子を奪った奴もいた。そいつは『ハゲとデートして来るんだろ? おまえらお似合いだぜ』とか言って囃し立ててくる。おれはここでも何も言い返せなかった。奴は学年で一番のいじめっ子だ。何か言ったら目を付けられると思った。他のクラスメートも『おまえどうするんだよ?』と訊いてくる。おれは『知るかよ』って言った。それで真っすぐ家に帰った。保健室には寄らずに。当時おれは女嫌いを自認してたんだ。女は弱いし、すぐに泣くし、とにかく苦手だった。だから今回の件も、別にどうってことはないと思ってた。六年生になってママからアリアナの死を聞かされるまでは」

「可哀想……つらかったよね」

「つらい……って気持ちは、そのときはなかったな。知ったときは驚いたけど、“そうか”みたいな感じでさ。葬式もあったんだろうが、おれは出席しなかった。中学に上がる直前、何かの用事で郵便局に行って、そこでアリアナの父親に会った。親父さんはおれのことを覚えていて、『きみに渡したいものがある』って言うんだ。翌日うちに来て、立派な画材のセットをおれにくれた。未使用だけど新品じゃない。娘のために買ったそうなんだが、使うあてがないので、よかったら受け取ってくれと。アリアナは絵がとても上手で、もし生きてたらきっと画家になったと思う。でもその画材は少しも使われてなくて……。おれはその夜、彼女のことで初めて泣いたよ。やっとアリアナの死が実感できたんだ。絵の具が空っぽになるまで彼女は絵を描くはずだったのに、そうはならなかった。アリアナよりずっと絵が下手なおれのところに画材が回ってくるなんて冗談じゃないって……」

 話しながら、おれは涙を流していた。それに気付いたのはポールがおれの頬を手の平で拭ったからだ。

「大丈夫だ」と彼に言い、顔を上げて「おれが女の子に優しくするようになったのはそれ以後のことなんだ」と説明した。「そうすることで男から冷やかされることはあったけど、気にしなかった。世の中には取り返しがつかないことがあると学んだし、思春期を過ぎてみれば、どうして女のことを嫌っていたのかわからないほど大好きになったから。最終的には“女たらしのディーン”の出来上がりだ。これってトラウマにあたると思うか?」

「わからないけど……でも大きな学びだったね」

「おれが幽霊の話をしたとき、きみは『何か心残りがあるのかもしれないね』と言ったろ。覚えてるか?」

「うん」

「心残りは彼女の方じゃない。おれなんだ。あの日、アリアナが登校してきたのは、おれに会うためだったと思う。それなのにおれは……彼女に本当に申し訳ないことを……」

 この話は今まで誰にもしたことがなかった。黙っていたのは罪悪感があったからだ。幽霊はいた。おれの心の奥底に。

 再び顔を伏せると、ポールの手がおれの両手を優しく包んでいることに気がついた。最初はおれがそうしていたはずなのに、いつのまにか逆になっている。

 話し終えるのを待っていたように電話がかかってきた。

「後でかけ直せばいい」とポールが気遣うので、おれは「いや、出るよ」と画面を確認した。発信者はライアンだ。

「やあ、先日はどうも」

「ディーン、きみが黄色のドレスを着た女の子を探しているとローマンから聞いたよ」

「ああ、それはもういいんだ。こっちの勘違いで……」

「きみが見たのは幽霊じゃない。おれの娘なんだ」

 ───なんだって?



 その先は急展開だった。パーティに来ていたのはライアンの娘のエリザベスで、今は離婚した奥さんが引き取っている。エリザベスはアリアナと同じ病で、化学療法を受けていた。ローマンのパーティには二年前にも来ていて、おれとは面識があり、言葉を交わしたことを覚えている。

 エリザベスが今年のパーティに参加していたことについて、ライアンはまったく知らなかったそうだ。エリザベスはこっそりやってきて、自前のドレスに着替え、おれと踊り、そしてすぐにタクシーで帰った。目撃情報が少なかったのは、彼女が父親に見つからないよう工夫していたからで、会場にいたのもわずかな時間だったからだ。

「あの子は自分が大人になるまで生きられないと思ってるんだ」とライアンは言う。「高校の卒業ダンスパーティには参加できないだろうから、今のうちに男の人と踊りたいと言ってね。エリザベスはきみのことをよく覚えていて、二年前に会ったとき、とても優しくしてもらったと話していたよ。迷惑をかけるつもりはなかったらしい」

 混乱させて悪かったとライアンは謝ったが、彼は何も悪くない。もちろんエリザベスも。おれが勝手に思い違いをして、ひとりで騒いでいただけだ。これは心霊体験でも超常現象でもなかった。

 エリザベスはマンハッタンの病院に入院しているが、パーティの日は母親宅に外泊していた。娘のとっぴな行動でライアンと元妻は口論になったが、どちらもエリザベスを叱ることはしなかったと言う。ドレスを着てダンスを踊りたいという彼女の願い。その気持ちを思うと、親でなくとも胸が詰まる。

 おれとポールはエリザベスを見舞い、次回の外泊時には改めてパーティを開くことを約束した。彼女は「すぐに元気になるから」と気丈に言い、父親には「新しいドレスを買っておいてね」と頼んでいた。

 病院の庭は美しく整備されていて、病に煩う人々を励ますように、色とりどりの花が咲き乱れている。芝生の小道を歩きながら、おれはポールにもうひとつ過去の懺悔をした。

「アリアナの画材セット、おれは一度も使わなかったんだ。数ヶ月は持っていたけど、手元にあるのが嫌で処分した。それがママにバレて『なんだってそんなひどいことするの!』ってさ。すごく叱られた。おれはアリアナの画材を受け取る権利がないと思っていたんだけど、自分の感情を上手く説明できなくて……飛び出した言葉が『うるせえクソババア!』だ。それで叩かれて、その週末は外出禁止。親にクソババアと言ったのは後にも先にもそのときだけだ」

「それもきみの教訓に?」

「ああ、母親に逆らっていいことは何ひとつないと学んだよ」

「話を聞いて思ったんだけど、子供の頃に失敗しておくって大事なことだよね。アリアナの件はきみにとって大きな後悔になったけど、それを教訓にしたからこそ、ディーンは女の子に優しくできる男の子に成長した。お母さんとのことにしても、後には許し合ったわけだし、クソババアって怒鳴っても、絆が壊れないと理解することができたんだ」

「どうかな。そんないい話じゃないと思うけど」

「ぼくは未だに失敗が怖いよ。子供の頃から自分を出さずにいることが多かったから。おかげで恥をかくことは少なかったけど、でもそれこそが失敗だったと大人になってから気付いたんだ。前にも話したけど、ゲイをカムアウトせず女の子と付き合ったことは本当に後悔してる。自分を隠すことで彼女を傷つけてしまったからね」

 おれだって失敗は怖い。恥をかくのも嫌だし、人を傷つけるのはもっと嫌だ。しかしこれらを避けて通ることは、人生において不可能だろう。誰しもが未熟で愚かで、そして傷つきやすくもある。場合によっては、病や災害などの不幸もあり、それに見合った強さが誰にでも用意されているわけではない。では我々がまったく無力かと言えば、それはそうでもなく、微力ではあるが出来ることもあるのだ。

 エリザベスの見舞いに行った夜、おれは企画書をしたためた。内容は『子供の医療用ウィッグを無償で提供する活動について』。ポールの務める美容室『アレクザンダー・アーベル』は大規模なチェーン店で、このキャンペーンにはうってつけだ。提供される髪の毛は善意によるもので、店側が買い取るわけではない。そのため運営的には赤字だが、長い目で見れば間違いなく企業にとってプラスになる。そのようなことを強調したが、それは蛇足だったかもしれない。創始者のアレクザンダーは慈善活動に力を入れていて、企画を提出した数週間後には「喜んで協力させてもらう」と返信がきた。「ついてはエリザベスにモニターになってほしい」と申し出てくれるほど、彼は懐が深かった。こういう企画に乗ってくれるのがアメリカの企業のいいところだ。人間は基本的に愚かだが、選択により善を成すこともできるとおれは思う。

 アリアナが亡くなった年のクリスマス・イブ。例年通り、母は仕事で留守をしていて、おれは教会のクリスマス・パーティに参加させられていた。家でテレビを見ていたかったおれはすっかりふて腐れて、クリスマスツリーなんか意味がないと言い捨てた。

「木に飾りつけて何になるんだよ。馬鹿らしい」

 アリアナの父親は、おそらく心の底から祈ったはずだ。それなのに娘の病気は治らず、神の思し召しとやらが、アリアナの魂を連れ去った。この世の無情におれは怒りを覚え、教会のすべてが偽善に思えてならなかったのだ。

 意地を張ってクッキーもカードも受け取らないでいるおれの元に、若い神父がやってきた。彼は丁寧な口調で「この日、もしあなたが誰かのために祈りを捧げたら、それは特別な日になると思いませんか」と言った。

「食べられない人や病気の人、困っている人たちのことを思い、それが少しでも癒されるように……そうした行為の意味は我々が決めるものです。木に飾りをつけることに意味がないと思えば、そうなるでしょう。祈りに意味がないのではなく、祈ることに意味を持たせるのです。たとえ病が治らずとも、その人自身が持つ幸せに気付くことができるようにと」

 それは説教と言うより、彼自身が信じていることを、おれに伝えているようだった。難しすぎてすべてを理解することはできなかったが、ふて腐れてクリスマスツリーを否定することには、あまり大した意味がないのだ、ということは何となくわかった。

 そのエピソードをポールに話すと、彼は「なんだかここ最近で、たくさんきみのことを知った気がする」と言う。「今まで一緒に暮らしてて、いろんなことを知ったつもりになっていたけど、まだまだぼくの知らない話があったんだね」

「教会の件は今になって思い出したんだ。別に隠してたわけじゃない」

「思い出したことを話してくれて嬉しいよ。ぼくは誰よりきみの近くにいて、いろいろなことを共有してる。怒りも、喜びも、悲しみも……」

 ポールはそっとおれの手を取った。それは感情のみならず、感覚をも共有しようとしているかのようだ。

 人には様々なペルソナがある。仮面舞踏会のマスクが笑っていたとしても、その下にあるのは別な表情だ。そしておれは子供の頃、いつもそんなことをしていた気がする。悲しいのに笑ってみせたり、怒っているのに何でもない振りをしてみたり。子供は素直だというが、自分に関してはあてはまらない。おれはアリアナが好きだった。一緒に遊ばなくなってからもずっと好きだったが、その気持ちを意識しないよう努めていた。毎年クリスマスに拗ねていたのは、母と一緒にいられない寂しさからで、いじめっ子に強く出られないのは報復が怖かったから。どれも本心からの行動ではなかった。

 大人になった今は、できるだけ感情に素直でありたいと思う。社会的にはともかく、ポールの前で仮面をかぶる必要はない。たとえ涙を流したとしても、彼は自然に受け入れてくれる。

 おれたちは間違いを犯す愚かな人間だが、相手を許すこともできる。迂闊にクッションを燃やしても罰されず、互いの絆を確認するだけ。アリアナと無邪気に遊んでいた頃のように、おれは今、ポールと共に生きている。


END

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