第29話:離れ離れの一週間(Keep It Together)

〈Dean〉

「たまには別々に過ごすのもいい」

 ポールは笑顔でそう言った。

「そうだな。たまには悪くない」

 そして、おれもそれに同意した。

 おれとポールは安定期に入っていて、いつもべったりじゃなきゃ不安だということはなく、一週間やそこら離れたところで問題が生じることもない。むしろ一緒に居すぎることで、そうと気付かぬ間に、お互いを拘束している可能性もある。ひとりになって自分を見つめたり、相手を恋しく思うことで、関係性に張りが出たりするものだ。

 そんなわけで、おれが出張に出て、ポールがマンハッタンに残ることについて、両者共に異存はなかった。孤独で死ぬのはウサギだけ。人間はもっとタフにできている。

 そもそもこの話は、おれが親孝行をしようと思いついたことにある。出張の内訳はいつもの通り、絵画の展示会だ。今回の会場はマイアミで、両親が住むコンドミニアムからそう遠くなかった。

「仕事でそっちに行くから一緒に食事でもしよう」とママに提案すると、思った通り大喜び。

「素敵なレストランをエドセルと一緒に見つけたから、連れていってあげる。きっと気に入るわ」

「うん、楽しみにしてるよ」

 これがおよそ二週間前のこと。そして今日、ママから電話があった。

「あなたのパパね、今朝そっちに行ったわ。お昼には着くと思うの」

 ママの話は合点がいかない。おれは今夜マイアミに行く予定で、現地では親子三人でディナーを取る予定だ。

「ちょっと意味がわからないんだけど、おれがマイアミに行くのと入れ違いに、父さんがニューヨークに来るってこと?」

「そうなの。急でごめんなさいね。ママはマイアミにいるから安心して。わたしは予定通り一週間後に行くから」

「どうしてそんなこと……エドセルはこっちに何の用があるって?」

「それはあんたが来てから説明するわ。長くなるから」

 ママの“長くなる”は、“本当にすごく長くなる”ってことだ。おれはこれから出勤だし、経緯を聞いている暇はない。とりいそぎ、ポールを起こし、エドセルが来る旨を伝える。彼がいてくれて助かった。これで父を路頭に放り出さずに済む。

 元々の予定は、おれがマイアミで一週間を過ごしたのち、両親と一緒にマンハッタンに戻るというもの。しかし突然、父だけがここに来ることになった。何がどうなっているのか、今のところ完全に意味不明だ。

 仕事を終えて家に戻ると、エドセルはすでに来ていて「突然来て済まない」と謝った。

「いいけど、びっくりしたよ。今日になって急にひとりで来るなんて。いったい何があったの?」

 挨拶もハグもせずに質問すると、エドセルは「ホテルを取ろうと思うんだが、どうしたらいいかな?」と質問で返す。「一週間後にグランド・ハイアットをおれとミリアムで予約してあるんだが、問い合わせたところ、今夜は空きがないそうだ」

「ハイシーズンだからね。同クラスのホテルはどこも厳しいかも」

「そうか、困ったな」

 だから、それならどうして一週間後に来ないんだ?

「何でまたいきなりこっちへ? マンハッタンで火急の用とか? それともママと夫婦喧嘩でもした?」

「いや、そういうわけじゃないんだが……説明すると長くなる」

 まただ。ママだけじゃなく、エドセルまで同じことを言う。詰まるところ、これは誰が説明しても長い話なんだろう。

 ポールはキッチンでコーヒーカップを洗っていて、おれに気付くと「そろそろ出ないと飛行機に乗り遅れない?」と聞いてきた。

「ああ、そうなんだ。早退しようとしたんだけど、仕事が長引いて。悪いが、もう行かなきゃならない」

「こっちはいいよ。早くタクシーを」

「なあ、ポール、エドセルをここに泊めて構わないかな? 寝泊まりはおれの部屋でさせて、身の回りのことは自分でやってもらう。迷惑にならないとは思うけど……事後承諾で申し訳ないが」

「もちろんいいよ。最初からそのつもりだった」

「ありがとう、助かるよ」

「そう遠慮しないで。きみの大事なお父さんなんだから」

「お父さんも大事だが、きみも大事だ」

 素早くキスを交わし、急ぎの中にあっても愛があることを確認。それからスーツケースを掴み、リビングにいるエドセルに声をかける。

「父さんがここにいる理由は、後でゆっくりママに聞くよ。どう説明しても長くなるんだろ?」

「ああ、そうだ。気をつけて行っておいで」

「ポール、父さんを頼むよ」

「心配しないで」

 ポールがそう言うと、エドセルは「心配しないで」と真似をした。その言い方が可笑しく、おれとポールは同時に吹き出す。真似されて恥ずかしそうにするポールに、微笑むエドセル。この些細なやり取りで、おれはずいぶん安心した気持ちになった。留守中、彼らはきっとうまくやってくれる。いかなる理由で父が来たのかは分からないが、一週間は無事に過ぎることだろう。



 マンハッタンとマイアミの時差は0時間。フライトは短く、ゆっくり映画を観る暇もない。到着後はホテルに直行するのが常だが、今日はまずママを訪ねることにする。エドセルがマンハッタンに来た理由を聞きたいし、頼まれていたヘアパック業務用三個(一個あたり900g)を渡して早く楽になりたかった。

 が、しかし。おれは母のコンドミニアムの前で、ひとりポツンと立ち尽くしている。共用玄関で部屋番号と暗証番号を押したが、いくら入力してもオートロックが解除されないのだ。ママは自分の生年月日を番号にしていたのだが、それはセキュリティの面で危険だと、おれと姉は前々から忠告していた。もしかしたら、それで番号を変えたのかもしれない。

 自宅と携帯に電話したが繋がらず、困り果てていると、女性がやってきた。これ幸いと、一緒に入ろうとしたが、なぜか彼女も同じ状態になっている。

「入れないんですか?」と訊くと、彼女はキーパッドを操作しながら「ええ」と応える。

「おれも駄目だったんです。二人も続けてだなんて、機械が壊れてるのかな」

「そうかも」彼女は番号を入力するのをやめ、「ここの方ですか?」と、おれの方を向いた。

 自分は住人ではなく、母が居るのだと説明すると、彼女は「わたしは友達がここに住んでるの」と言う。「もしかして暗証番号が変わったのかもしれないわ」

「ああ、おれもそれは考えた。でも母と連絡がつかなくて……」携帯を取り出し、履歴を見る。ママがかけ直してきた記録はない。

 コンドミニアムの入り口はガラス扉なのでエレベーターホールまで見渡せるが、人っこひとり居やしない。夏のマイアミは夕方でも蒸し暑く、おれは汗をかきはじめている。中は空調が効いていて涼しいんだろうな。だんだんマッチ売りの少女(夏バージョン)のような気持ちになってきた。

 閉め出された女性は「あの、もしかして、あなた、エドセルの息子さん?」と訊ねた。知った名を出されて、おれは携帯から顔を上げる。

「なぜそれを?」

 彼女は「やっぱりそうなのね」と納得した表情で頷いた。

「わたし、エドセルとミリアムの友人なの。暗証番号はミリアムの部屋のものだから、わたしたち同じ数字を入力してたのね」

「そうだったのか……。あ、失礼、おれはディーン。ディーン・ケリー」

「ティファニー・ケリーよ」

「ケリー?」

「そう、同じ名字よ。偶然にもね」ティファニーは軽く肩をすくめ、「あなた、エドセルにそっくりだから、すぐにわかったわ」と、おれの顔をまじまじと見る。「似てるって聞いてたけど、ここまでとは思わなかった。エドセルと並んだところを写真に撮ったら、みんなびっくりするかも」

「ああ、それなら残念。エドセルは今マンハッタンに居るんだ。おれは入れ違いにここへ来たから」

 すると彼女は「えっ……」と言ったきり黙ってしまった。表情には明らかに惑いの色が見て取れる。おれは何かまずいことを口走ったのだろうか。建物に入れないばかりか、見知らぬ女性と気まずい空気になるなんて。

 進退窮まっていると、駐車場側の入り口からママが現れた。おれとティファニーを交互に見て「まあ、あなた方……」と驚いた顔をする。

「やっと来てくれたか」

「こんばんは、ミリアム」

「ティファニー、待たせてごめんなさいね」

「おれに謝罪はないわけ?」

「あなた、すぐこっちに来るなんて言ってなかったじゃない。いつもはホテルに行くでしょう?」

「メールを送ったのに、見てなかったの?」

「若者じゃあるまいし、四六時中メールチェックできないわよ。でもごめんなさいね。それで今日はティファニーと約束してたのよ。悪いけどまた明日来てもらえる?」

 はあ? なんだよそれは。連絡が行き違いになったのは仕方ないけど、この暑い中ようやく辿り着いた息子に冷たいコーヒーの一杯も出そうって気にならないのか。……と言いたかったが我慢した。下らない親子喧嘩を他人の前でやるわけにはいかない。

 ママは素早くコードを叩き、「じゃあね、後でまた連絡するわ」と言い残し、ティファニーを連れて中へと入って行った。なんたる態度。いくら親子で気心が知れているからって、これはないだろう。憤慨しながらホテルに向かい、着いた頃には汗まみれでベトベト。スーツケースからヘアパックが出てきたのを見たときには、捨ててやろうかと思ったほどだ。たまに親孝行を計画すれば、こんなことになる。ママはいつもマイペース。度が過ぎれば自分勝手。エドセルをマンハッタンによこしたのも、彼女の自己中が原因なのかもしれない。

 無駄に疲れたので、夕食はルームサービスを頼ることにする。ピザとビールとアイスクリーム。あとは早寝しかやるべきことを思いつかない。



〈Paul〉

 出張の話をディーンから聞いたとき、ぼくは「いいんじゃない」と軽く言った。

「たまには別々に過ごすのもいいよね」と。

 それで彼も「そうだな。たまには別々も悪くない」と微笑んだ。

 その言い方に嬉しそうな響きを感じ取ったぼくは「離れているからって、浮気しちゃダメだよ?」と釘を刺す。

 どこへ行ってもモテるディーン。ぼくと付き合う前は、ずいぶん簡単に女性と関係を結んでいたらしい。だから正直言うと、離れていることに不安がないわけじゃなかった。でもだからと言って、子供みたいに駄々をこねるのはおかしいので、ぼくはまるで平気な振りをする。こういう気持ち、彼にはきっと理解できないだろう。

 ぼくはディーンにぞっこんで、浮気の可能性はゼロパーセント。それを知っているからこそ、彼は嬉しそうに出張に行く話ができるんだろう。それはちょっと癪に触るけど、自分自身の誠実さについては満足している。少なくともぼくの方から恋人を裏切ることはないし、自らの手で幸福を壊してしまうような馬鹿な真似はしないと断言できるから。

 共に暮らす恋人同士が離れて過ごす。一週間という期間は長いか短いか? マイアミに着いたら連絡してくれるはずなのに、ディーンからはメールの一通も届かない。彼はいつもマイペース。度が過ぎれば自分勝手。こうやってヤキモキするのは、いつもぼくの方。本当はもっとどっしりと構えていたいのに……。

 落ち着きなく、何度も携帯を確認するぼくに、エドセルは「ディーンから連絡がないのか?」と声をかけた。

 ぼくは慌てて携帯を閉じ、「あ、いえ、特に約束してたわけじゃないんですけど」と応える。「でもいつもだいたい、着いたら連絡してくれるので」

 エドセルは壁の時計を見、「とっくに着いてる時間だ」と言う。

 シャワーから出たばかりの彼は頭にタオルを巻いていて、髪が隠れていると一瞬ぎょっとするくらいディーンに似てる。髪型の違いだけで判別しているわけじゃないけど、もしエドセルの髪をディーンみたいに短くカットしたら、かなり面白いことになりそうだ。

「電話してみたら?」と奨める彼に、ぼくは「特に用があるわけじゃないから」と返し、携帯をポケットに仕舞った。「たぶん連絡し忘れてるだけ。よくあるんだ。別に大丈夫」

「そう?」

「ええ」ぼくは頷き、「そのバスローブを着てるとディーンにそっくり」と指摘する。「背格好とか。肩の感じとか。今みたいに髪を隠した状態で後ろから見ると、本気で区別つかないかも」

「そうか? しかしディーンが聞いたら気を悪くしそうだ。いくら何でも年齢差がありすぎる」

「気を悪くなんてしないと思いますよ。ディーンは父親に憧れてるっていうか、自分と比べてあなたの方がずっと格好いいって思ってるみたいだから」

 ぼくがそう言うと、エドセルはどういうわけか微妙な顔つきになった。なんだろう。これって何かマズかった? ディーンがエドセルについてそう思ってるのは事実だし、こっちとしては褒めたつもりだったんだけど……。

 気まずさを感じたので「冷蔵庫に冷たい飲み物があるので、よかったら」と話題を変えた。

「それは有り難い。ビールを貰っても?」

「どうぞ」

 キッチンに向かう後ろ姿はディーンにそっくりだけど、鋭さはエドセルの方が上らしい。ぼくがさっき『よくあるんだ。別に大丈夫』と言った後、彼が『そう?』と聞いたのは『本当に?』というニュアンスだ。彼は恋人からの連絡を待ち続けているぼくのことを気にかけてくれた。イラついていることを見透かされてしまったのは恥ずかしいけど、心配して声をかけてくれたのは有り難いと思う。

 一晩くらい連絡がなくても大丈夫。ディーンは子供じゃないんだし、ぼくも子供じゃないんだし。メールが来なくてもどうってことはない。明日の午後まで音沙汰がなかったら、そのときはこっちから電話すればいいだけの話だ。



〈Dean〉

 展示の準備はスムーズに行われ、あとはオープンを待つばかり。会場はホテルのボールルームで、うちのイベントとしては小さな規模だ。もっと大きいキャパになると前日から準備に取りかかるのだが、この程度であれば当日搬入で充分間に合う。設営スタッフが撤収すると、おれの仕事はこれからが本番。コーヒーを胃に注ぎ込み、客入れの前にポールにメッセージする。昨夜はバタバタしていたため、到着の連絡をし忘れた。そのことを謝ると〈こっちは大丈夫だから、心配しないで〉という頼もしい返信が届く。手短かだが愛のある言葉をやりとりし、互いの一日が平和であることを祈り合う。

 離れていても、心は瞬時に寄り添える。真実の愛は距離をものともしない。粒子が発見される遥か以前から、恋人たちは量子力学の世界に生きていて、おれとポールはその神秘の中に存在している。そして父と母にも、同じ絆があるのだと、今は信じられるようになった。二人は長らく、本当にすごく長らく別居していたのだが、復縁した途端、息子を呆れさせるほどの睦まじい夫婦と成り果てた。ママが言うには「夫婦喧嘩とは無縁の生活」とのことだが、これには両者の性質が大きく関与しているものと思われる。ママは『めんどくさい』という理由で、失踪していた夫を放置するような大雑把さを持ち合わせており、父のことはまだよく知らないが、大雑把な暴君である妻のことを許容している点からも、驚くべき心の広さを有していることが伺い知れる。「面倒だから夫婦喧嘩はしない」というのが中年夫婦のあり方だとしたら、年を取るのもそう悪いことではないようだ。

 展示会の開始はスタッフのまばらな拍手によって成され、開場と同時に待ちわびた客がわらわらと入ってくる。ホテルはショッピングモールに隣接しているため、客層は家族連れやカップルが主。絵を買いにというよりは時間つぶしに来たという感じだ。その中に昨日のティファニーの顔を見つけると、彼女もこちらに気付いた。

「こんにちは、ディーン。昨日はどうもありがとう」

「こちらこそ。まさか来てくれるなんて……もしかして母から?」

「いいえ、自分で調べたの」ティファニーはにっこりと微笑んだ。「あなたが絵のお仕事で来たのはミリアムから聞いて知ってたんだけど、彼女、場所まで覚えてなかったみたいで。だからこのあたりで展示会をやっているところがないか、インターネットで検索したの。それでヒットした会場すべてに電話をかけて、ディーン・ケリーって人がスタッフにいるかどうか聞いて、それでここが」

 早口で解説するティファニーに、おれは些か驚きを覚える。展示会に興味を持ってくれたのは嬉しいが、ネット検索でヒットした会場すべてに電話をかけるなんて、かなりマメというか、暇というか……とにかくすごい。

 ティファニーは会場を見回し「絵を見に来るなんて久しぶりだわ」と言う。「美術は全般好きなの。以前は美術展にもよく足を運んだんだけど、最近はそうでもなくて」

 彼女、最初の印象ではおれと同じくらいに思えたが、よく見るとずっと年上だ。茶色のストレートヘアを肩の下まで伸ばし、目は大きく、身体は細い。服装や表情の作り方は若々しいが、若作りとは違っている。どことなく少女のような雰囲気を持っている女性だ。

「これって順路が決まっているの?」とティファニー。

「いえ、特には。好きなところからご覧になってください」

「案内してもらえるかしら? 絵の説明も聞きたいわ」

 開場直後は暇なので、説明して聞かせる時間は充分にある。「ではこちらへ」と言いかけたところで、中年の女性に呼び止められた。

「ちょっと、あなた係の人よね? ロナルド・バーガーの絵を見にきたんだけど、今日は展示してないのかしら?」

 ロナルド・バーガー展は以前も同じ会場で行ったが、今回は展示していない。そのことを彼女に伝えて詫び、バーガーの画集が販売されていることを伝える。

「画集は重たいでしょ。わたし、作品の種類とお値段が知りたかったのよ」

「そうですか。ではパンフレットでよろしければ差し上げられますが?」

「あら、ほんと。じゃあ頂こうかしら」

 彼女が気をよくした直後、「ちょっと、あなた」とティファニーが割って入った。

「わたし?」と女性。

「そういうのやめてくれない?」

「そういうのって……何かしら?」

「だって、今はわたしが彼に案内してもらってるのよ!? そこに割り込むなんて失礼だし、彼にもわたしにも迷惑よ!」

「どういうこと?」

 女性は目を丸くしておれを見た。おれも度肝を抜かれたが、ここで言葉を失っている場合ではない。

「ティファニー、おれは別に迷惑じゃないから……申し訳ないけど、数分ここで待って……」

「やめてディーン! そんな言い方しないで!」

 金切り声を上げるティファニー。女性はすっかりおびえてしまい、別のスタッフに誘導されて出て行った。周囲の客は皆、こちらを見ている。これでは絵画鑑賞どころではない。

 ティファニーは両手をわななかせて顔を覆い、「大きな声を出してしまったわ……」とつぶやいた。「あなたをびっくりさせるつもりはなかったの。でもあの人があんまり失礼だから……」

「気にしないで。それより……きみは大丈夫?」

「本当にごめんなさい。もう帰るわ」

 バッグからハンカチを出し、目頭を抑えて出て行くティファニー。あんな状態でちゃんと家に帰れるだろうかと心配になったが、送って行くほど親しくはない。それにおれにはここでやるべき仕事がある。

「大丈夫ですか?」と会場スタッフに声をかけられるまで、おれは呆然と彼女を見送っていた。

「ああ、うん、驚いたけど、問題はないよ」

 女性スタッフは「初日からすごい展開ですね」と苦笑し、「でもこういうのは一回あれば、あとは順調だったりするものだから」と言う。

「そうかな。だといいけど」

「ええ、きっと」

 彼女の名札には“ジリアン”と書かれている。人の名前を覚えるコツは、何か印象深いものと関連づけること。この場合は『Xファイル』に決定だ。女優のジリアン・アンダーソンから、彼女の名前を連想できる。

 さきほどまでティファニーを注視していた客たちは、何事もなかったかのように展示品に見入っている。しかしおれは“何事もなかったかのように”とはいかず、泣きながら走り去った彼女のことが気にかかっていた。うまく生きられない人たちは確かにいるが、自分がしてやれることは何もない。せめて素晴らしい絵画が癒しになることを願う程度。ティファニーは絵を見ずに帰ってしまった。おれはそのことをとても残念に思う。



〈Paul〉

 エドセルは元々料理人だと聞いていたので、料理が得意というのは理解しているつもりだった。でもこんな風に目の当たりにすると、さすがに感嘆せずにはいられない。

 今夜のディナーはレストランもかくや。いわしとアボガドのサラダに、ほどよく焦げ目のついたチーズキャセロール。数種類の豆の煮込みを添えたローストチキンは皮がパリパリになっていて、見るからに食欲をそそる出来映えだ。

「誰かの誕生日かと思った」と言うと、エドセルは「ちょっと作り過ぎたかな」と照れたように笑った。

 テーブルは奇麗にセットされていて、ぴんと糊のきいたナプキンが王冠の形に折られている。こんな真っ白なナプキン、うちにあったっけ?

 ぼくひとりだったら出来合いのもので済ませるところだし、たとえディーンと一緒でもここまで凝った料理はしない。それは誰かの誕生日だとしてもだ。

「口に合うといいんだが」と謙虚に言うエドセル。「何が好きかわからなかったので、いろいろ作ってみたんだよ」

 豪華な食卓を眺めながら「たぶん全部口に合うと思うけど」と、ぼくは言う。「遠くから来て疲れてるのに、こんなにたくさん大変だったでしょう? ここに居る間はお気遣いせず、自分のうちにいるみたいにしてくつろいで下さい」

「料理は趣味なんだ」エドセルは着席を手で促し、「好きでやってる。差し支えなければ、これからもキッチンを使わせて欲しい」と申し出た。

「差し支えなんて、とんでもない。ただぼくは“気を遣わせて申し訳ない”って思っただけで」

「それを言ったら、きみこそだ。おれに対してかしこまった態度をする必要はないよ。会話をするときは、ざっくばらんで構わない」

 そう言われ、ぼくは自分が彼に対して“お気遣い”していることに気がついた。

「だったら、お互いざっくばらんでいきましょう。飲み物はワインで?」

「きみがよければ」

「安いけど美味しい白があるんです。ローストチキンに合うと思うな」

「じゃあ、それでいこう」

 思った通り、料理はぼくの好みにぴったり合った。おべっか抜きで、どれも本当に美味しく、ぼくは「こんな素敵な晩ご飯が家で食べられるなんて最高だ」と彼に感謝を伝えた。

「そんなに珍しい料理でもないけどね」

「ぼくには帰宅してご飯が用意してあるだけでも幸せなことと思えるな。母は料理をまるでやらない人だったから、食卓にまともな食事があるのを見ると、未だに“わあ!テレビドラマみたい!”って思ってしまって」

「ご両親はどちらに?」

「母は今はカナダに……あ、じゃなかった。えーと、サンフランシスコにいます。去年、カナダから越したのを忘れてた。母はいろんなところを転々としていて、ぼくも子供の頃から引っ越しばかりでした。父は生まれたときからいなくて、母は何ていうか……ちょっと奔放なところがあるんです」

 実際は“ちょっと”どころでなく、“かなり”奔放なのだけど、母親の身持ちの悪さを彼氏の父親に開示することはない。ぼくはあえてぼやかしたつもりだったが、エドセルは「そうか、大変だったね」と言い、「きみは苦労したんだな」と察してみせる。

「苦労ってほどでは……」と否定しかけたが、思い直して口を閉じる。ぼくは母のおかげでかなり苦労した。『苦労してない』と言えば、それは嘘になるだろう。

「確かに。振り返ってみると、子供にはあまりいい環境じゃなかったかな。ゲイコミュニティに出会うまで、ぼくはずいぶん孤独だったと思うんです。母のボーイフレンドはたくさんいたけど、誰もぼくの父親にはならなかったし、親戚付き合いもしたことがない。母はぼくと親子に見られたくなくて、息子に自分のことを名前で呼ばせていたくらいで。そんなだから、家族ってものが今もって何だかよくわからないんです」

 エドセルは肉にナイフを入れながら、「それはおれもだ」と言った。「何といっても一度家族を捨てたわけだからね。家族という共同体を理解しているとは言い難いな」

 ぼくらにとって家族は重たいテーマのようだ。エドセルもぼくも、今は平和にやっているが、かつての痛みが完全に消えたわけじゃない。幸せに生きるための努力をし続けるのは、辛い過去があってこそだが、忘れてしまいたい出来事も幾つかある。それは新しい記憶に上書きされることなく、いつまでも心に残るものだ。

 その晩、ぼくはディーンに電話をかけてみた。家族の話をしたせいだろうか。どうしても彼の声が聞きたくなった。彼は朝が早かったらしく、とても疲れた様子で、ぼくが「変わったことはある?」と訊ねると「特には」と短く答えるのみ。「きみは?」と聞かれたので「こっちも特には」と返した。それから少し喋って、最後に「愛してる」と囁き合う。通話時間は短かったが、様子が確認できたので気持ちが落ち着いた。でもやっぱりまだ寂しい。ぼくの“彼氏”も同じ気持ちだろうか。それとも全然へっちゃらかな。

 ノックの音がし、エドセルが顔を出す。

「言い忘れたが、冷蔵庫にドイツビールを冷やしておいた。数種類あるが、どれを飲んでくれても構わない」

「うん、わざわざありがとう」

「なあ、ポール。さっきの話だけど……」

「さっきの?」

「おれが思うに、家族ってのは増えるものなんだ。もしきみがディーンと結婚したら、きみには義理の両親と義姉ができる。それに義理の姪と甥もだ。家族がどういうものか解らずとも、それは勝手に増えていって、場合によっては迷惑だと感じるかもしれない。自分で選んだつもりもないのに、愛する人に家族がいれば、それは自動でついてくるからね。身内は標準装備みたいなものだ。現におれはきみの住居にやっかいにもなっているわけだし」

「やっかいとか、そんなことはないですよ」

「ああ、いや、おれが言いたかったのはそういうことではなく……」エドセルは前髪をかきあげ、言葉を探して思案し「要するに、きみが今後、孤独になることは考えにくいってことだ」と言った。「それを伝えたかった。じゃあ、おやすみ」

 エドセルはドアを閉じる直前、にこりとぼくに微笑みかけたが、ぼくはシャイになってしまって、“おやすみ”も“ありがとう”も言えなかった。照れくささが去るにつれ、彼の思いやりが胸に響く。部屋に来たのはビールがどうとかいう話ではなく、心ある言葉を伝えるためだ。エドセルは何て細やかなんだろう。それにすごくキュートでもある。ディーンのママが失踪していた夫を許して受け入れたのもわかる気がした。

 優しく扱われたことで、さっきまでぼくの胸にあった寂しい気持ちはすっかり消えていた。これが愛する人についてくる標準装備なら、ぼくは当たりを引いたらしい。家族はいつのまにか増殖する。自分で選んだつもりはないけれど、ずいぶん素敵なオプションだ。



〈Dean〉

 バケーションの時期とあって客入りは上々だが、それが即セールスに結びつくかといえば、そう簡単なものではない。来場者は旅費で財布の中味を使い果たしてしまったらしく、購入の意欲は低いようだ。契約のテーブルはガラ空き。会場の写真を撮って資料作りに励むほど暇だ。ついでに自撮りし、ポールに送信する。昨夜は彼から電話があったのだが、疲労のあまり、ろくに話が出来なかった。恋人との会話がおっくうになるほど働くのは、絶対に間違っている。おれがイタリア男なら噴飯ものだが、勤勉なアメリカ人なため、シエスタも取らずに労働にいそしむ。

 バックヤードで書類の確認をしていると、「お客様がいらしてます」とスタッフが呼びに来た。母が来たかと出てみると、待っていたのはティファニーだった。花束を抱くように抱え、「こんにちは」と挨拶をする。もう来ないと思い込んでいたので、彼女の来訪はちょっとした驚きだった。昨日は案内できず申し訳なかったと謝ると、彼女は「わたしの方こそごめんなさい」と言う。

「あんな風に取り乱すべきじゃなかったのに、つい興奮してしまって。最近いろいろあって神経が過敏になっているの」

 おれは「そういうことは誰にでもあるから」と共感を示し「あまり気に病まないで」と慰めたが、彼女は言葉を心に入れず「わたしって本当に最悪」と自分を罰した。そして「最近はヨガに通ってるの」と、唐突に説明し出す。

「気持ちを落ち着かせるためにやってるんだけど、でも昨日みたいに失礼な人がいると駄目ね。感情に圧倒されるとどうしても無理。こういうのってホルモンのバランスのせいだと思うの。だって昔はこうじゃなかったから。年齢のせいなのかしら」

 自分語りにのめり込むティファニー。おれは「その花束、すごく素敵ですね」と流れを変える。「誰かからのプレゼント? それともこれからパーティにでも?」

「これはあなたによ」

「おれに?」

「昨日は迷惑をかけてしまったから。ほんのお詫びの印」

「ああ……それは……」

「迷惑だった?」

「いえ、まさか。こんな素敵な花が自分宛だとは思わなかったので。お気遣いありがとうございます」

「気に入ってくれてよかった。ねえ、今日こそは絵を見せてもらいたいわ。案内してくれる?」

「ええ、もちろん」

 美術館のオーディオガイドのように説明しながら回っていると、ティファニーが不意に腕を組んできた。デートでもしている気分になったのか「こんなに楽しいのは久しぶり」と嬉しそうに言う。この手の展開も展示会ではよくあること。販売員はウエイトレス同様、フレンドリーに客と会話をするため、ちょっとした勘違いはまま見られるのだ。

 ティファニーは興奮した面持ちで「本当に素敵! 何か一枚買って帰りたいわ!」と目を輝かせる。

「どれがお気に召しました?」

「地中海の風景もいいし、バレリーナの絵も素敵だった。他にもいっぱい……迷ってしまうわ」

「ゆっくり悩んでくださって構わないですよ。展示はまだ始まったばかりですから」

 ティファニーは「もう一度見てくる」と、展示作品へと向かう。あの様子なら今日中には決めてくれるだろう。おれはバックヤードに戻り、サンドイッチとコーヒーで遅い昼食を摂った。顧客にメールを送ったり、購入者の契約書を見直しているうちに夕方になったが、ティファニーはまだ会場に残っている。絵画は安い買い物ではないし、迷う客はとことん迷う。結局、彼女は閉館までいて、購入するべき作品は決まらなかったらしい。

「でも買うつもりはあるのよ」とティファニーは言う。「また来るわ。次は絶対に契約するから」

 その言い方があまりに真剣なので、おれは笑って「そんなに焦らないで」と言った。「吟味する時間を楽しんでください。絵との出会いは恋のようなものですから、あまり考え込まずフィーリングを信頼して。心が動く瞬間がきっとやってきます」

「本当にそうね。あなたの言う通り。思考の迷路に入り込むと、おかしなことになってしまうのよね」

「それと、すみません、ここはもう閉めるので、そろそろ……」

「ええ、わたしももう出ようと思ったところ。あなたも一緒に?」

「おれはまだやることがあるので」

「今日は本当に楽しかった。アートの素晴らしさを改めて実感したわ」

 一日居てもまだ足りないとばかり、ティファニーは名残惜しそうに絵を見つめていた。

 おれの仕事はデスクワークが主で、出張に出るのは年に数度。何時間も飛行機で移動するのは楽じゃないが、こうして直に客の声が聞けるのは、イベントの醍醐味だ。展示会の目的はもちろん購入してもらうことだが、個人的には作品を楽しんでもらえたら、それで充分。美術館とは縁遠い人も、無料のイベントであれば足を運んでくれる。アートに触れるのに適切な年齢というものはなく、ビールとテレビしか娯楽がないような男性が「絵ってモンは別に堅苦しくも難しくもないじゃないか」と、見解を改めてくれたらしめたものだ。絵画芸術が映画や音楽と同じくらい身近になることがおれの願いであり、自らに課した仕事でもある。会社が望むこととは違うかもしれないが、“金の為に働く”というよりは、遥かに価値ある使命に相違ない。



〈Paul〉

 いくら料理が趣味といえど、作ってもらってばかりでは申し訳ないので、今夜はレストランをリザーブした。選んだのは南仏の郷土料理。フレンチだけど高尚な感じはなく、ざっくばらんなスタイルを売りにしている店だ。目の前で切り分けられるイベリコ豚と巨大なチーズ。樽から直接グラスへ注がれるワインは何種類もある上、セルフサービスになっている。エドセルはスパークリングワインの樽を前にし、「駄目だ。このシステムは危険だ」と、真剣な顔でつぶやいた。

「どうしてですか? まさか衛生に問題が?」

 心配になるぼくに、彼は「自分を試されている思いだ」と言った。「こんなに樽があれば、全種類試したくなる。しかも自分で好きなだけ注いでいいなんて……おそろしいシステムもあったものだ」

 そういう理由か。ぼくは笑いながら「本当にその通り」と同意する。「ここに来るとぼくとディーンはいつも飲み過ぎる。お気に入りの樽を決めておけばいいのに、酔っぱらっているから銘柄を忘れてしまって、結局またたくさん飲むハメになるんです」

「酒を飲んだが、酒を忘れ、そしてまた飲み……。まるで漢詩の世界だな」

 エドセルはスパークリングワインをグラスに注ぎ、「お先に」と、立ったままそれを口に含んだ。この店でそれはマナー違反にあたらない。他の客も皆同じように、そこらでグビグビやっていて、あたかもテイスティング会場のようだ。

 食前酒を立ち飲みしてからテーブルに戻り、メイン料理が終わったところで、ぼくは「プロの見地から、ここの店はどうですか?」とエドセルに聞いてみた。

「プロって?」

「料理の。客船の厨房で働いていたんでしょう?」

「おれが料理人だったのはもうずいぶん昔の話だからな。今は舌も衰えてる。でもここはいい店だよ。次は妻を連れてきてやりたい」

 肯定的な意見を貰って安心とすると同時に、自分の中に承認欲求があったことに気付く。“気に入られたい” “好かれたい” “嫌われたくない”……他人から認めてもらおうとするのは、自分らしさから離れる行為だとローマンは何度もぼくに言い聞かせたけど、でも今回ばかりは仕方ない。だってエドセルはディーンのお父さんなんだもの。彼ははぼくを『ディーンの相手にふさわしいかどうか』なんてテストしたりはしないけど、何かしらの印象は持つはずだし、それについては好印象を持ってもらいたい。自分に良いところと悪いところがあるなら、可能な限り良い面だけを見てくれたらと思う。

 ぼくは貴族に嫁いだ平民の娘みたいに、ここの料理やワインについて、思いつく限りの質問を彼にした。話題が途切れないように努力するのは久しぶりのことだ。

 エドセルは「おれの知識はもう古いから」と謙遜しつつも、専門家の意見を聞かせてくれる。おいしい店とそうでない店を見分けるコツについては「掃除が行き届いている店は、だいたい旨い」とのことで、「ホールだけじゃなく、厨房やトイレまで清潔にしていることがポイントだ」と彼は言う。「衛生局が見回りに来る直前だけ徹底的にやるなんてところは、いつか食中毒患者を出す。いくらサービスが良かろうが、店員の人柄が素晴らしかろうが、汚い店は論外だ」

 あれ、この言い方。なんだかディーンみたい。絵画のウンチクを披露するとき、ディーンはこんな話し方をするんだ。外見の類似は遺伝的要因だけど、口調もそれに含まれる? 親子で一緒に暮らしたことはないのに話し方が似るなんて、不思議なことだ。

 エドセルはぼくの質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれて、無知からくる偏った意見も否定したりはしなかった。何を言っても耳を傾けてくれるので、話していてとても心地いい。お酒の効果もあって、“彼から気に入られよう”という気持ちは、いつの間にか消えていた。

 この楽しい会話の合間、ぼくは彼の人生に思いを馳せる。目の前の人はとても穏やかに見えるけど、過去には妻と子を捨てるほどの大恋愛を経験しているんだ。それが正しいことかどうかはわからないが、何もかも投げ打って誰かひとりのために身を捧げるなんて、すごく勇気のいることに思える。こういうのは不謹慎だろうけど、何だかとっても羨ましい。

 ディーンは恋愛にクールなところがあって、ぼくはときどき物足りなさを感じてしまう。ロマンティックな設えが大好きな彼だけど、それは愛情とはあまり関係がないことだ。ディーンが用意してくれる花やキャンドルなどの設えは確かに素敵だけど、それよりもっと単純に求め合うことを、ぼくは必要としている。

 エドセルは求めてはいけない相手と恋に落ち、それは当時、禁忌とされていた同性愛という点のみならず、家族への裏切りという代償を含んでいる。ぼくもそこまで人から愛されてみたい。そしてその相手はディーンでなけりゃ嫌なんだ。



 レストランは表通りから外れているが、うちから歩いて行ける距離なので、タクシーは使わなかった。街灯が少ない道を並んで歩いていると、数メートル先から、こちらを見ている二人組がいる。ひとりはパーカーのフードをかぶり、もうひとりは夏なのにニット帽を目深にしていて、それはちょっと嫌な感じだったが、エドセルが喋り続けているので、ぼくは“道の反対側に行こう”と言いそびれた。

 二人は何気ない風にぼくらに近寄り、行く手を阻むと「今、何時ですかね?」と聞く。エドセルは腕時計を見ようとしたが、それは叶わなかった。男のひとりが彼の腕を掴んだからだ。

「静かにしろよ。騒ぎ立てたらただじゃ済まねえからな」

 ニット帽の男は凄みを利かせてそう言い、錆びたナイフをエドセルの喉元に突きつけた。

 まさかそんな。こんな近所で強盗に合うなんて信じられない。もうあと数分も歩けばアパートに着くっていうのに……。

 もうひとりの男はパーカーのポケットから手を出さず、それをぼくの腰に押しつける。通行人から見えないよう、銃を隠し持っているのだ。

「おまえたちの財布を頂く。口を閉じて両手を頭の後ろで組め」

 ぼくは素直に言うことをきいた。お金はいいからカード類だけは返して欲しい。それが無理ならせめて無傷で。このまま彼らを刺激しなければ、少なくとも最悪なことにはならないだろう。

 パーカーの男はぼくの財布を手際良く抜き取り、次はエドセルというところで、彼の腕時計に目を留めた。それはディーンが自分のコレクションの中からプレゼントしたもので、どこのブランドだか知らないが、けっこう値が張るらしい。

「いい時計だ。気に入った」

 男がそう言うと、エドセルは「頼む。これはやめてくれ」と哀れっぽい声を出した。「息子から貰った大事なものなんだ」

 男はニヤつき、「なあに、また買ってもらえばいい」と言う。「命があればそれは可能だ。そうだろ?」そしてぼくの方を見た。この男、どうやらぼくたちを親子だと勘違いしているらしい。

 エドセルはニット帽の男に手首を掴まれたまま、「財布は持っていけ。ジャケットにある」と諦めたようにつぶやいた。パーカーの男は片手で彼のポケットを探ったが、見つからないようだ。

「そこじゃない、内側のポケットだ」とエドセル。

「ないぞ」

「右の方……つまり、おれから見て右ってことで、そっちからだと向かって左になるのか? ああ、いや、逆だ。ジャケットの反対だ」

 その指示に相手が混乱したのは、ぼくでもわかった。でもどうして強盗が突然地面に倒れたのかは理解できず、何が起きたのか把握したときにはもう手遅れ。ニット帽の男は鼻血を出していて、もうひとりは「ちくしょう!」と狂ったように叫びながら、肩を抑えている。

 呆気にとられるぼくの背をエドセルは押し、耳元に「走れ」と落ち着いた声でささやいた。その言葉で我に返り、財布を拾って後も見ずにダッシュする。

「この野郎!」という怒鳴り声がしたようだったが、後ろを振り向く余裕はない。すぐ後に着けていたエドセルは、アパートメントに着くなりぼくを追い抜き、素早く暗証番号を叩いて中に駆け込んだ。建物に入ってしまえばもう安全だ。奴らが追ってきたとしても、ぼくたちの姿は見つけられない。通りから消えてしまったように見えるだろう。

 ぜいぜい息を切らしているぼくに「大丈夫か?」とエドセルが聞く。

「ええ……はい……何とか……」

 息切れの合間に答えると、「じゃあ行こうか」と、軽く言う。まるで買い物帰りみたいな口調。エレベーターに向う彼の背を、放心して見つめていたが、すぐに小走りで追いかけた。ぼくはまだよく状況を飲み込めていない。とにかく助かったのだということだけはわかっている。強盗にあったが盗られたものは何もなく、怪我も負わずに済んだのだ。

 エドセルは部屋に着くなり「食べてすぐに運動したから、胃がびっくりしてるな」と言って「炭酸水でも飲んでおくか」と冷蔵庫を開けた。

 運動だって? さっきのはエクササイズなんかじゃない。この人はどうしてこんな調子なんだろう。下手すれば後ろから撃たれたかもしれないのに……。怪我も物損もない。でもそれは結果論に過ぎない。ひどく危険な目にあったのは本当のことで、しかもそれはついさっきの出来事だ。

 エドセルが差し出すコップを受け取りながら、ぼくは「どうしてあんなことを?」と聞いた。

「あんなこと?」

「よく見てなかったからわからないけど……彼らを殴ったんでしょう?」

「殴ったというか、肘打ちをね」エドセルは涼しい顔で炭酸水を飲んでいる。

「それってすごく危険なことだ」と、ぼくは言う。「マンハッタンで強盗にあったら、決して何もせず、できれば相手の顔を見ずに、金目のものを渡すのがルールなんです。彼らが必要としているのは財布とか時計とか……命を取ろうって奴はめったにいない」

「確かに命は取られずに済んだな」

「そんなの運がよかっただけです!」

 思いがけず大きな声が出た。エドセルは驚いた風に眉を上げたが、言葉は発さない。「怒鳴ってごめんなさい」と謝るぼくをじっと見つめている。

「あなたのことを怒ったわけじゃない……でもぼくは……もしあなたに何かあったら……ぼくはディーンに申し訳が立たない……」

「それはおれもだ」と彼は言った。「きみにカスリ傷のひとつもつけるわけにはいかない。それこそディーンに顔向けできないよ」

「だからあんな無茶を?」

 困ったような顔で微笑むエドセル。ぼくは「そうだとしても、もう二度とあんなことはしないで」と釘を刺す。「だってそうでしょう? 英雄的な行為は生き延びてこそだ。殺されてしまったらヒーローにはなれない。どんな意図であっても……死んだ後では、誰もそれを知ることはできないんだから……」

 あいつらの言った通り、腕時計なんてまた買えばいい。命があればそれは可能なんだ。死んでしまったらそこでおしまい。あの場で撃たれなかったのは幸運としか言い様がない。

 さっきまでは平気だったのに、急に感情が込み上げてきた。動揺と恐怖。ここは安全な場所だとわかっていながらも、喉の奥が熱くなって、うまく息をすることができない。

「あなたは家族を取り戻したばかりなのに……あんな……あんな危険なことは…もう二度と……」

「ポール」

 エドセルはぼくの肩に手を置き「すまない」とつぶやいた。その触れ方があまりに繊細なので、涙が出そうになる。「怖がらせて悪かった」と、もう一度謝り、「だが無茶をやったわけじゃない。回避できると踏んでのことだ」と言う。

 ぼくは顔を上げ、彼を見た。

「そんな……だってあいつら銃を……」

「見たのか? 銃を持っているところを?」

 聞かれ、ぼくはあのときの情景を思い返す。男はパーカーのポケットに手を入れていた。ぼくはそれを銃だと思ったし、相手もそのように言っていたと思うが、実際に銃を見たわけではない。

「銃はなかった」とエドセルは言った。「ポケットは空だったんだ。すぐにわかったよ。手首の格好が不自然だったからね。もし銃を持っていたら、ああいう形にはならない。彼らの武器は錆びたナイフ一本きり……。銃や弾丸を買う金もなかったんだろう。強盗じゃなく、物乞いだったら10ドルも分けてやったのに」

 彼はぼくの肩をポンと叩き、「シャワーを浴びておいで」と言った。『シャワーを浴びてきなさい』ではなく、優しく促す形だ。

 ぼくは言われた通りシャワーを浴び、充分リラックスできたと感じてから、バスルームを出た。エドセルはソファに腰掛け、何かを考え込んでいるようだったが、ぼくに気付くと立ち上がり「警察に電話した」と簡潔に報告した。「捕まえることはできないが、近隣をパトロールしてくれるそうだ。情報提供に感謝すると言われた」

「そうですか」

「飲み物を作っておいたから、よかったら飲んでくれ。おれは先に寝るよ。おやすみ」

 見ると、ダイニングテーブルには、冷たいラベンダーのお茶が用意されている。今夜はアルコールはなし。完全に子供扱いだ。

 気持ちが落ち着いた今となっては、あんなに動転してしまったことが恥ずかしくてたまらない。後ろから撃たれるかもと思い込んで大騒ぎして、しかも涙ぐんでしまうなんて。最終的に無事だったんだから、それでよしとすべきだったんだ。

 エドセルから承認を得ようとする努力は水の泡。可能な限り良い面だけを見てほしいと思ったけど、それどころか相当みっともない姿を披露してしまった。こんな情けないぼくに対し、エドセルの格好良さったらない。殺されたらヒーローにはなれないとぼくは言ったけど、彼はカスリ傷すら負わず、悪者を撃退して弱者を守った。それは紛れもなく英雄的行為だ。

 ヒーローがいれてくれたラベンダーティはいい匂いでおいしくて、エドセルは子供を育てるのに向いた父親に思える。家族を捨てた過去があるなんて嘘のようだ。

 もしディーンと結婚したら身内になるとか、そういうことを抜きにしても、ぼくは彼のことをもっと知りたいと思う。ひとつ屋根の下にいて知り合う機会を与えられているのに世間話しかしないなんてのは、まったくぼくらしいことではない。エドセルは他人と深く関わりたいと思うタイプだろうか? それは話してみなければわからないことだ。



〈Dean〉

 ノックの音に心当たりはない。ここのホテルに宿泊しているのはママに話してあるが、部屋番号までは教えなかった。

 おれはドアを開けず、警戒しながら「誰ですか?」と聞く。

「ディーンよね? わたし、ティファニー」

 ティファニー? どうして? おれは部屋番号を言った記憶はない。そんな話はしなかったはずだ。

 ドアを開くと、満面の笑みを浮かべた彼女が立っている。おれの第一声は「どうしてここが?」だ。

「フロントで部屋番号を聞いたの」

「部屋番号を? フロントが教えたって?」

「そうよ、今そう言ったでしょ?」

 ホテルのフロントが部屋番号を口外した? そんなことってあるのか?

「“姉だから”って身分証を見せたらすぐに教えてくれたわ。同じ名字だから疑わなかったのね」

 悪びれずに言うティファニーに、おれは唖然とさせられた。これは犯罪まがい……いや、れっきとした犯罪じゃないか。それともこうした行為は彼女にとって普通のことなのだろうか? フロントに苦情を言うのは後にするとして、今は彼女にフォーカスしよう。どうしてここへ来たのかと訊ねると、ティファニーは「お花の様子はどう?」と質問を返す。

「お花? ああ、あれか。洗面台にあるよ」

 彼女は紙袋を見せ、「お花の栄養剤と花瓶を持って来たの」と言った。「わたしも馬鹿よね。ホテルにいる人に花束をあげるなんて。マンハッタンから来て、花瓶の用意があるわけないもの。入ってもいいかしら?」

「あ、うん、どうぞ」

 ティファニーは「きれいなお部屋」とか「洗面台はこっちね」とか言いながら、バスルームに入っていく。栄養剤と花瓶を渡してさようならとはいかないらしい。

「花瓶はどこに置きましょうか?」

「じゃあ、こっちのデスクに」

 ティファニーは花を生けた花瓶を机に置くと、断わりもなくベッドに腰を下ろした。

「フロリダにはよく来るの?」

 唐突に始まる世間話に面食らいながらも、おれは「たまに」と答える。「母が住んでいるので」

「わたしはずっとここに住んでるわ。生まれたときから旅行以外で州を出たことがないの」

「そうなんだ。あのさ、悪いけど、おれ今夜は疲れてて……」

「会場ではほとんど立ちっぱなしだから無理もないわね」

「ああ、そうなんだ。だから、そろそろシャワーを浴びようと思ってて」

「ええ、いいわよ。どうぞ」

 どうぞ? って何だ?

 困惑するおれにティファニーは「わたしに構わずシャワーを浴びて」と言った。ここで『あっそう、じゃあ浴びさせてもらおうかな』などと返せるわけもなく、おれは「申し訳ないけど、ひとりになりたいんだ」と申し出た。しかし彼女はまったく怯まず「ひとりになりたいってどうして?」と聞いてくる。

「それは……さっきも言ったように疲れてるから……」

「わたしのことは気にしないで。お客じゃないから、気を遣わなくていいのよ」

「いや、気を遣うとかではなく……夜に女性がひとりで男の部屋にいるのは問題があると思わない?」

「だってあなたはゲイでしょ?」ティファニーは妙に得意げな顔でそう言った。「何も問題なんてあるわけないわ。二人きりでいても“いいお友達”ってだけで」

 おれは彼女のことを“いいお友達”と思ったことはない。どうやらかなりの意識差が発生している模様。

「わたしは平気だから」と言い張るティファニー。おれは唖然とし……いや、唖然としている場合じゃない。出て行って欲しい旨を明確に伝えなければ。彼女を傷つけないよう言葉を選び、「そうじゃなくて、本当にひとりになりたい」と告げた。

「きみがどうとかじゃないんだ。おれの問題で、単にひとりになりたい。それだけだ」

 ティファニーはおれの顔をまじまじと見て「わかったわ」とつぶやいた。「もう帰る。迷惑になりたくないから」

 ああ、よかった。思いのほか聞き分けがいい。長居は迷惑だとわかってくれたようだ。

 ドアまで見送り、花のことで礼を述べると、ティファニーは「好きでやってるんだからお気になさらず」と言う。

「わたしね、人に喜んでもらうことが何より嬉しいの。気に入った人には特に親切にすることにしているわ」

 それは普遍的に素晴らしいことだとは思うが、非常識な彼女が言うと落ち着かない心持ちになってくる。これが友達だったら、わざわざ来てくれたことに感謝を示し、冷たいコーヒーの一杯も出そうという気になるものだが、招いてもいない客(しかも勝手に部屋を突き止めた)をくつろがせるための準備はおれにはない。知りあいだからとドアを開けたが、もしかしてこれは危険なことだったんじゃないだろうか。

 不安のあまり、おれは母に電話した。それは『ママ怖いよ』と泣き言をいうためではなく、ティファニーの人となりを知るためだ。

 事情を話すと、ママは「ああ神様……なんてこと……」と、オカルト映画よろしくつぶやいた。それだけでもうおれは窓から花瓶を投げ捨てたくなる。

「わたしはこうなることを恐れていたのよ」

「こうなるって何だよ? いったいどういう意味?」

「ティファニーね。彼女、わたしのお友達にしては若いと思うでしょ?」

 何が始まるのかと固唾を飲みつつ、おれは「まあね」と軽く相槌を打つ。

「わたしのサークルのお仲間なの」

「サークルって、おばさんが集まってワインのテイスティングをしたりしてるんだっけ?『ドライフラワーの会』とかいう?」

「ドライフラワーじゃないわよ!『ミスティック・ローズの会』! だいたい、おばさんばっかりってわけでもないんだから」

「サークル名はなんでもいいよ。で? そのミスティック・ローズが何だって?」

「週に一度のペースで集まってるんだけど、いつもエドセルが手作りのお茶菓子を持たせてくれるの。それがまた凝ってて、デコレーションのカップケーキとか、かわいらしいマカロンとかなもんだから、皆に人気でね。『素敵な旦那様ね』とか口々に褒めてくれるわけ。わたしは恥ずかしくなってしまって『二十年以上も行方知れずだった夫のどこが素敵なのよ』なんて、ちょっと悪く言ったの。そしたらそれを聞いたティファニーが『いくら奥さんでもそんな言い方ひどい』って泣き出してしまって」

「意味がわからない」

「そうよね。まあ、結論から言うと、ティファニーはエドセルのことが好きだったのよ」

「はあ」

「ティファニーは元々落ち着きのない方だったけど、それからますます情緒不安定で、エドセルのストーカーみたいなことをし始めたわけ。注意すれば謝って泣くしで、もうみんな困り果ててしまったわ。それでエドセルはしばらく彼女の前から姿を隠した方がいいってことになったの」

「それでひとりでマンハッタンへ?」

「そう」

「なんだよそれは。エドセルが刺される危険性でもあるっての?」

「まさか。そうじゃないわ。エドセルの身を守るって意味じゃなくて、ティファニーのためよ。彼が近くにいたんじゃ、いつまでも思い詰めるでしょ。引き離せばそのうち落ち着くだろうと思ったけど、まさかあんたに矛を向けるとはね」

「矛って何だよ。勘弁してくれ。だいたいまだ何も起きてやしないじゃないか」

「まったく男って呑気ねえ。“何も起きてやしない”なんて、本当にそう思っているの? ティファニーはあんたの部屋を探し当てたのよ。そんなこと普通の娘はしやしないわ。うちの暗証番号を変えても意味なかったわね」

 コンドミニアムを訪問した折、ママはおれを追い返したわけだが、それは危険人物から息子を遠ざけんとする気遣いだった。あの時点でティファニーがおれに目をつけていたとは思いたくないが、どのみちさっきまでこの部屋にいたのだから、もう手遅れだ。そうぼやくと、ママは「あんたがマンハッタンに帰ればあきらめもするでしょう」と言う。「あとは滞在中に間違いが起きないよう気をつけることね」

「間違いって何だよ! そんなこと起きるわけがない!」

「男女のことは予測不可能よ。それに彼女を部屋に上げた後じゃ、あんたの台詞も説得力に欠けるってものね」

 そこを指摘されたらぐうの音もない。おれは迂闊だった。ティファニーの様子が普通とは違うことに気付いていながら、部屋に招き入れるなんて。

 ファニーなティファニーは父親のストーカー。新手のホラーコメディとして、ハリウッドに脚本を売りつけたい思いだ。



〈Paul〉

 ローマンからメッセージが届いた。それはたったの二行。


   エドセルがこっちに来てること、教えてくれなかったわね。

   彼からメールを貰わなかったらずっと知らないままだったわ。


 文面から察するに、おそらく彼は怒っている。エドセルが来てること、いちいちローマンに教える義務はないと思うけど?

 そう考えていると、すかさず追伸が届く。


   今日は一日エドセルとデートする運びとなりました。

   あんたの分は予約してないわ。

   二人っきりで楽しませてもらいます。


 いやにトゲのある言い方だ。ぼくは一緒に行きたいなんて言ってないのに。それにデートなんて言ってるけど、単に二人で会うってだけ。そういうのをデートと言うのなら、ぼくはここ最近でしょっちゅうエドセルとデートしてることになる。いったい何を予約したか知らないけど、彼のことだからミュージカルとか舞台の類いだよね? まあ別にどうでもいいか。とにかく何か返事をしなきゃ。『あっそう。別にどうでもいいけど、わざわざ報告どうも』とか? これもトゲのある言い方だけど、あっちが先に始めたことだ。

 それにしてもなんてタイミング。助けてもらったお礼もせずに文句を言ってしまったこと、今夜にも彼に謝りたかったのに。些細なことだけど、ローマンを恨みたくなってくる。でもローマンの方だって、ちょっぴりぼくを恨んでいるに違いない。『あんたの分は予約してないわ』なんて言ってくるのがその証拠だ。

 ぼくらの文面にはトゲがあって、意地悪な女子高生を思わせる。いい年をして子供っぽいし、こんなに稚拙なメッセージをぼくらがやり取りしているなんて、エドセルは思ってもないだろう。

 ぼくもローマンも彼の前では猫をかぶってる。彼氏の父親と親しく知り合う機会を与えられているのに、ぼくはまだ良い子を演じたいらしい。エドセルには自分のことを話してほしいと思いつつも、自分は猫かぶりだなんて狡い話だ。エドセルにオープンになってほしいと願うなら、まず自分から開くべきなのに。

 ローマンは彼に本性を明かすつもりはなさそうだが、ぼくはそれとは違う選択をしたい。拒絶が怖くて臆病風に吹かれそうになるけど、エドセルなら大丈夫。なんといっても、あのローマンを受け入れているのだから、その心は海のように広いはずだ。

 ぼくは携帯を開き、さっきの下書きを消去して書き直した。


   了解。

   今日は二人でごゆっくりどうぞ。

   エドセルのこと、よろしくね ;)


 送信すると、さっきより気持ちがマシになった。友達に対して意図的な意地悪はするものじゃない。ローマンはちょっと拗ねているだけだし、ぼくだってたまには心を海のようにすることができる。意地悪な女子高生はメッセージのデリートと共に消滅だ。



〈Dean〉

 展示期間中、おれは会場に毎朝通勤する。そしてティファニーも同じく。頼まれもしないのに、なぜか毎日姿を現している。スターバックスに行ってくると言って一度出て行った以外はずっと会場にいて、それはよほど暇なのか、もしくは他の意図があるのか(後者だとしたら、その理由については深く知りたくない)客なので無下にもできず、悩ましいところだ。

 とりあえず朝から忙しそうに振る舞ってみたが、午後になると雨が降り出して客足が途絶え、ティファニーはゆうゆうと椅子に腰を下ろしている。おれは腕時計を見て、大きなアクビをひとつ。退屈をジェスチャーで表明すると、彼女が「眠いの?」と聞いてきた。

「うん、昨夜は遅くまでボーイフレンドと電話で話していたから、睡眠不足なんだ」

「彼氏がいること、ミリアムから聞いて知ってるわ。一緒に暮らしているのよね?」

 ああ、そう。知ってたか。おれが彼氏持ちだとわかった上でこんな風に近寄ってくるってのか。いったい彼女はどういうつもりなんだろう。エドセルには妻がいて、おれはゲイだ。どちらも恋人にするには難しい相手だと思わないのだろうか。

 ティファニーに帰る気がないのであれば、いっそのこと確信に迫った方がいいかもしれない。男女のことは予測不可能。ママが知らないだけで、ティファニーはエドセルとの間に何かあったという可能性もある。おれは注意深く、だがハッキリと、エドセルについてどう思うか彼女に質問をぶつけてみた。

 ティファニーはその質問を待ってでもいたかのように微笑み、「あなたのお父さん、本当に素敵だと思うわ」と言った。「親切だし、とても頭がよくて、尊敬できる人物よ。わたし、よく話をきいてもらっていたの」

「彼とはどういう会話を?」

「主にわたし自身のことね。子供の頃のトラウマが原因で、今でもたくさんの問題を抱えてるの。母との関係性もよくなくて、いろんなことが人生の邪魔をしてる。だから仕事にもつけないし、ストレスも多いわ。でもエドセルはわたしを抱きしめてくれて、“きみはとてもいい子だ”って言ってくれたの。“間違っていたのは周りの大人の方だよ”って。それで頭にキスしてくれた。まるでディズニー映画のプリンセスになったような気がしたわ」

 そういえば、おれも一度エドセルから頭にキスされたことがある。ヨーロッパ式ではなく、父親が小さな息子にするやつだ。そのときおれは感情が乱れていて涙を抑えることができず、それでエドセルはキスという形の愛情をくれた。おそらくエドセルはティファニーにも同じようにしたんだろう。なるほど、どういうことか段々わかってきたぞ。

「エドセルはあんなに優しいのに、ミリアムは彼にあまり感謝していないみたいで、女王様みたいに振る舞ってる。あなたのお母さんのことを悪く言うつもりはないのよ。でもあれじゃエドセルがあんまり可哀想だと思ったの」

「いや、確かに母は女王様みたいなところはあるけど、でもあれでエドセルを深く愛してもいるんだよ。そうでなきゃ、失踪していた夫を受け入れるはずはないだろ?」

「それはわかってる。でもわたし、エドセルとは心が通じ合ってるの。彼が感じていることが手に取るようにわかるし、目を見れば考えていることもわかる。自分でも驚くほどよ」

 なんだそれは。人の考えが読めるんなら、CIAにでも就職した方がよくないか。もしくはテレビの超能力番組とか。そもそもエドセルの心がわかるなら、『ストーカーから逃げるためにマンハッタンへ逃げる』ってくだりも理解できそうなものじゃないのか。

「ほら、わたし、エドセルと同じ名字でしょ。だから何ていうか、運命を感じたの」

 おれもケリーだ。まさか運命を感じてやしないだろうな。

「でもエドセルはわたしにこう言ったわ。“きみを混乱させたのだとしたら申し訳ない。気持ちが落ち着くまでしばらく会わない方がいいと思う”って……」

 “落ち着く”っていつだ。五百年後か。

「あなたもエドセルに似てるわね。こんな風に話を聞いてくれるんだもの」

「あ、え? ごめん、ぜんぜん聞いてなかった。何だって?」

「“エドセルに似てる”って言ったの」

「そうかな。顔はまあ、そうかも。でも内面は全然違うって言われるよ」

「そうなの?」

「だいたい性癖からして違う。おれは男にしか興味ないし」

「でも昔はゲイじゃなかったんでしょう? 女性とお付き合いしていたことがあるってミリアムから聞いたわ。それってゲイじゃなくてバイセクシャルよね?」

「あー……まあ、そうとも言う……」

「あなた、あんまりゲイっぽくないもの」

「ぽくなかろうとも、でもゲイなんだ。彼氏もいるし」

「彼氏ってどんな人? お名前はなんていうの?」

「彼はポール。今までの人生で一番長く付き合いが続いてるよ。女性とはいつも短い期間で終わってたからね。おそらくおれには女性を幸せにするスキルがないんだと思う。でもポールとなら…」“うまくいく”と言おうとしたところ、ティファニーはおれに抱きついてきた。予想外のことに、思わず喉からしゃっくりのような悲鳴が出る。

「ディーン! そんなに自分を卑下することないわ! あなたは素敵よ!」

 抱きしめてゆさぶり、キスせんばかりの距離で目を見つめ「あなたは何も悪くない」とティファニーは言う。おれはヘッドライトに照らされた鹿よろしく硬直し、何も言い返すことができない。

「女性と続かなかったことが自分のせいだと思わないで。今まで出会ってきた相手が悪かっただけ。正しい人とお付き合いすれば、末永くうまくいくに決まってるもの。ところであなたの好きなタイプは?」

「え? えーと……ジョージ・クルーニーかな」

「わたしも彼は大好き。素敵よね。出演作ではどれが好き? わたしはオーシャンズのシリーズが気に入っているんだけど」

 会場を見ると、相変わらず閑古鳥が鳴いている。おれたちを二人きりにしたマイアミの気まぐれな天候が憎い。閉館まで雨は降りやまず、作品は一枚も売れなかった。



〈Paul〉

 先に眠ってしまうこともできるけど、ぼくはエドセルを待っている。ローマンとディナーに行くことは知っていたけど、日付をまたぐなんて聞いてなかった。起きて待っていてほしいと言われたわけじゃないけど、こんなに遅くなるとさすがに不安になってくる。無粋なことをとローマンに言われるのが嫌だったので連絡を入れることはしなかったけど、念のために無事を確認したい。先日は強盗に遭ったばかりだし、心配しすぎってことはないはずだ。

 携帯の履歴から彼の番号を見つけ出したところで、外から人が入ってくる音がした。ぼくは携帯を畳み、玄関に迎え出る。エドセルは申し訳なさそうに「起こしてしまったかな?」と言った。

「いえ、起きてましたから……大丈夫ですか?」

 状態を確認したのは、彼の足がふらついていたからだ。どうやらずいぶん飲んでいるらしい。ぼくの推測を裏付けるように、エドセルは「久しぶりに深酒をした」と告白した。

「今までローマンといたんですか?」

「うん、彼の気に入っているバーをはしごしてたんだが、気がついたらこんな時間になってしまった。彼の住まいは歩いてすぐのところだから泊まっていくようにと何度も言われたけど、タイミング良くタクシーが通りかかって。日付は変わったけど、なんとかひとりで戻れたよ」

 そのタクシーは天使が遣わしたのかも。ローマンの策略は残念な結果に終わったけど、戻ってくれて心底ホッとした。エドセルは強盗に復讐されたのでも、下心のあるローマンに拉致されたのでもなく、ほんのちょっと飲み過ぎただけだ。

 ソファに座るエドセルに水のグラスを差し出し「いい一日でしたか?」と聞くと、彼は人懐こい笑みを浮かべ「とても楽しかったよ」と、携帯から一枚の画像を表示した。写っているのはエドセルとローマン。二人は木の枝の上に立っていて、ローマンは神経症のコアラみたいにエドセルにしがみついている。

「これ何ですか?」

「セントラル・パークのネイチャーウォークに参加したんだ」エドセルは水を一気に飲み干してそう言った。「ガイドに従って野草を探したり、アライグマの足跡を見つけもした。生態系のしくみについても教わったよ。この写真はロープを使って木に登ったところだ」

「この写真、ディーンに送ってあげられます?」

「できるよ」

「これ、ぜったいウケると思うな。ローマンが木に登るなんて、ゾウが逆立ちするより珍しいことだから」

 エドセルが携帯のメーラーを操作し始めたので、ぼくはその隣に腰を下ろした。送信し終わるのを待って「昨日はすみませんでした」と謝罪する。「助けてくれたのに、ひどい言い方をしてしまって。あのときは錯乱してて、ちょっとまともじゃなかったんです」

 エドセルは携帯を畳んで顔を上げ、「気にしてないよ。ひどい言い方とは思ってない」と言った。思った通り、彼は怒ってもいないし、気分を害してもいない。それでもぼくはきちんと謝りたかった。エドセルは気にしていないかもしれないが、こっちはずっと気になっていたことだ。

 謝り終えて気持ちが落ち着いたので、ぼくは強盗をやっつけた技について、エドセルに聞いてみた。

「あれは武道ですよね? いったいどこで習ったんですか?」

「アラスカで。ずいぶん昔にイヌイットのチーフ(酋長)が、おれに“身を護れ”と言ってきたんだ。“おまえは禍いに巻き込まれやすい。そのように占いに出ている”とね。それで彼は護身用にショットガンをくれようとしたんだが、おれは銃を持ち歩きたくないと思った。それで武道を習うことにしたんだ」

「備えあれば憂い無しですね。あなたが長年訓練してくれたおかげで、ぼくの命もお財布も無事だった」

「結果的にきみを助けることができたが、おれといなければあんな目に遭うことはなかっただろうな」

「そんな……ぼくは禍いとか占いは信じてませんよ?」

「いや、おれも信じちゃいないさ。そうじゃなくて、この街でおれみたいなのは襲われやすいだろうと思ってね。もし昨夜、きみと一緒にいたのがディーンだったらどうだ? おそらく強盗は回れ右したはずだ。おれは見るからに田舎者で、いいカモに思えたんだろう」

 エドセルのことを田舎者と思ったことはなかったけど、強盗からすればそう見えるのかもしれない。ぼくはマンハッタンに住んで長いけど、強盗に出会ったのは初めてのことだ。

「でも実際には“いいカモ”なんかじゃなかったですね。それどころか返り討ちにした。これがディーンとぼくだったら、きっと身ぐるみ剥がされていただろうな」

「何より腕時計が無事でよかったよ。もし取られてしまったら、昨夜のことを息子に説明しなきゃならなくなる」

 ぼくは驚き「このこと、ディーンに話さないんですか?」と聞いた。彼は「ああ、きみが話すつもりだったのなら、それは構わない」と言う。

「でも、あなたは話さないつもりだった?」

「心配させるだろうと思ってね」

 それはそうだ。ディーンのことだから、心配するに決まってるし、ひどく取り乱しもするだろう。だからぼくもこの件を伝えるのは、彼が出張から戻ってからにしようと思っていた。留守中の出来事を報告するのは当然のことで、“話さない”という選択肢があるなんて考えもしなかった。

「でもそれって、あの、それでいいんですか?」

「うん?」

「この件にディーンが過剰に反応するのは想像がつくけど、でも近所で危険な目に合ったんだから話した方がいいと思うんです。たぶん彼はあなたが強盗と戦ったことについて、ぼくがしたみたいに咎めるでしょうけど……でもそのあたりはぼくから説明します。まさか引っ越そうとまでは言わないだろうけど、でもディーンにしてみれば……」

 エドセルは薄い笑みを浮かべ、酔って潤んだ瞳をこちらに向けている。自分がひとりで捲し立てていることに気づき、ぼくは口を閉じた。力説していたことが恥ずかしくなり、「あの……ぼくの話、聞いてましたか?」と確認する。

「聞いてるよ」

「本当に? さっきぼくが何て言ったか再現できますか?」

「いや、それは無理だ。やっぱり聞いてなかった」彼は笑い、ソファの背もたれに肘を乗せた。

「そうでしょうとも」ぼくはあきれてため息をつく。「ぼくは大事な話をしているつもりなのに、聞いてないなんてひどいですよ。いったい何を考えていたんです?」

「きみの目の色がきれいだなって。見とれてしまって言葉が耳に入らなかった」

 エドセルは素晴らしい微笑みを浮かべ、そう言ってのける。ああ、この酔っぱらいめ。作為なくこんな発言をするなんて。ピュアっていうか、ちょっとズルいよ。

「もう……こっちは真面目に話してるのに」

「うん、ごめん」

 くすくすと笑うエドセルの瞳はブルーグレー。きれいなのはそっちだ。とても吸引力のある目をしてる。こういうの、“吸い込まれそうな瞳”って言うんだろうな……。

 そんなことを考えていたら、本当に吸い込まれてしまった。気がついたらぼくは彼にキスをしていた。そのことに気付いたのは、彼が「きみも飲み過ぎか?」と言って、ぼくの前髪をくしゃりと掴んだからだ。

「いえ、あの、ぼくは今夜は一滴もお酒は……」

 しどろもどろになるぼくを押し退けないよう、エドセルは注意深く身体を起こして言った。「ベッドに行った方がよさそうだ」

 ベッ…!? ええええ!? ちょっと待って!!!

「もう寝よう。きみは明日も早いんだろ?」

「あっ、はい、ええ」

 なんだ、そういう意味か。ぼくは何を早合点してるんだ。動転するぼくにエドセルはおやすみと言い、続け「ディーンには内緒だ」と付け加えた。

 ぼくはひとりリビングに残り、ソファの上でぼんやりしている。“ディーンには内緒”ってどれが? 強盗に襲われたこと? それとも今のキス?

 ぼくが押し倒したとき、エドセルは抵抗しなかった。慌てるそぶりすらなく(慌てたのはぼくの方だ!)完全に落ち着き払って、ただ穏やかにされるがままになっていた。いったいこれってどういうこと?



 カフェに到着すると、ローマンはテラス席からブンブン手を振って合図してきた。昨日のことを話したくて仕方ないといった風で「ちょっと聞いてよ!」と息を荒くして喋りはじめた。ぼくがブルーチーズとパイナップルのバーガーをオーダーしている間も、「これ見て! 昨日のデートで痣になっちゃった!」と、これ見よがしに腕を目の前に出してくる。

「公園のネイチャーウォークに参加したんだって? それって痣ができるほどハードだったの?」

「そうよ。エドセルはこういうの好きだろうと思って選んだけど大失敗。自然に親しむイベントって、草花の名前を覚えたり、ハイキングみたいなものだと思うじゃない? それがあんた、とんでもない! 木に登らされるわ、ヘビを捕獲するわで、もう心身共に疲れ果てたわ」

「ヘビまで捕まえたの? 木に登ったときの写真は見せてもらったよ。ここぞとばかりにきみがエドセルに抱きついている姿を」

「あれは本当に怖かったんだもの! 彼に掴まってなきゃ頭から落ちて頭蓋骨陥没してたわよ!」

「大げさだなあ」

「大げさなもんですか。エドセルが励まして支えてくれなきゃ、とてもやってられなかった。彼ったら本当に素敵だったわ……筋肉のつきかたなんか完璧あたし好み!」

「怖がってた割にずいぶんしっかり観察したね」

「そりゃ、こんなチャンスめったにないもの。自然の中で見るエドセルはとってもセクシー。頼もしくて逞しくて……ああ、もう思い出すだけでたまらない……早く彼に中出ししたい……」

「それがきみの愛情表現だってのはわかるけど、エドセルに言ったらドン引きすると思うよ?」

「言うわけないでしょっ! あたしだってそれくらいわきまえてるわよっ!」

 ローマンはカプチーノをスプーンでかき回し、「とにかくデートは骨折り損」と結論づけた。「エドセルの素晴らしさを再確認できたのはよかったけど、あたしはてんで良いところなかったわ」

「それでもあんなに遅くまで彼をひっぱり回せたんだから、大した体力だと思うよ。一日中歩かせてヘトヘトにしてから酔いつぶそうだなんて、ずいぶん古典的な作戦だけど」

「伝統的な手法が生き残るのは、それが役に立つからよ。でも今回はうまくいかなかったわ。彼ったら、どうしても帰るってきかなくて……あの後は大丈夫だった?」

「健康状態は問題なかったよ。ひどく酔っぱらってはいたけど……おかげでこっちまでアクシデントに見舞われた」

「あらやだ、なあに?」

「きみの作戦の余波がこっちに回ってきたみたい」

「どういうこと?」

 事の顛末を話すと、ローマンは「嘘!」と「冗談ばっかり!」と否定し続けたが、遂に信じるに至ると「悔しい!」「羨ましい!」「憎ったらしい!」を繰り返した。

「ちょっと待ってよ。きみが想像してるみたいなロマンティックな話じゃないんだってば」

「だってキスしたんでしょ? それだけで充分ロマンティックよ。しかしあんたもやるときはやるのねえ」

「やろうと思ってしたんじゃない。なんていうか……気がついたらキスしてた。自分で行動を選択したつもりはないんだ。彼がすごくセクシーで魅力的に見えたのは事実だけど」

「彼はセクシーで魅力的。今さら何? ずっとあたしが言い続けてきたことじゃない。寝起きを共にして、気がつかない方がどうかしてる」

「そういう目で彼のことを見たことはなかったよ。だって当然だよね? エドセルはディーンのお父さんで……そう、彼氏の父親にキスするなんて最低すぎる。ぼくは完全にクレージーだ」

「そうかしら。あまり驚くには値しないけど」

 どういう意味かと聞くと「だって元々あんたは老け専だもの」とローマンは答えた。「エドセルって、つまるところ“老けたディーン”でしょ。ディーンに年齢を加算して、包容力と落ち着きと誠実さを与えて、マヌケさをとっぱらったら、エドセルになる。つまりアンタの理想の男よ」

「そういう言い方はやめて。二人は別人だし、ぼくはディーンを愛してるんだから」

「そんなことはわかってるわ。いいこと、これは愛とは関係ないの。たとえ彼氏のことを愛していても、他の男とキスできるってことがわかった?」

「それは身を以て理解したよ。でもショックだ。さっきも言ったけど、そういう目でエドセルのことを見たことはなかったのに、いきなりこんな展開になって」

「寝たわけじゃなし、そこまで罪悪感にかられることでもないでしょうに」

「だって昨夜はエドセルと一緒に料理をしてる夢を」

「あら、かわいいこと」

「それがそうでもない。最終的には指についたホイップクリームを舐め合う展開だから」

「まあ、すてき! 彼氏の留守中にフェティッシュな妄想とは、あんたもやるわね!」

「妄想じゃない! 夢だってば!」

「どっちだっていいわ。いずれにしろ実際にしたわけじゃなし、頭の中くらい自由でいたらどう? あたしなんて妄想で大統領を押し倒してる」

「きみの意見は面白いけど、極端すぎて参考にならないな」

 ローマンは鼻の穴を膨らませ、「いい男を前にして反応が起きるのは当然よ」と偉そうに言い放つ。「チャンスがいっぱいあるのに何もしないなんて、あたしからしたら愚かの極みね。だいたい命を助けてもらったなんて最高のシチュエーション! 最高にドラマチック! あたしだったら目一杯お礼しちゃう!」

「“お礼”って、それはエドセルが喜ぶようなものなの?」

「あたしのテクに降参しない男はいないわよ。もちろんエドセルだって例外じゃないわ」

「へええ、すごい自信。ぼくが思うに、エドセルはきみみたいなキラキラ系より、ぼくみたいに地味で大人しいタイプが好きなんじゃないかって気がするけど」

「んまあ、そっちこそ自信たっぷりじゃないの。亡くなったエドセルの彼氏はワイルドなタイプだったそうだから、そこから推測すると、あたしもあんたも圏外ってことになるわね。でも人の心はそういう風に分析できるものじゃない。何が起きるかわからないのが恋愛の醍醐味よ」

 何が起きるかわからない。それは本当にそうだ。昨日の今頃は、こんなことで頭を悩ませるなんて考えもしなかった。

 ローマンはカプチーノを飲み干し、「昨日の今日で二人きりになる気まずいってのなら、あたしがお泊まりに行ってあげてもいいわよ」と提案。ぼくは瞬時に断わった。

「エドセルが居る間は、きみを家に入れるなってディーンからキツく言われてるんだよね」

「ちょっと何それっ!? あたしはバイキン!? あいつったらほんとムカつく!」

「そのムカつく人を好きだったのはどこの誰だっけ?」

 ローマンはかつてディーンを落とそうとしていた。ぼくの気持ちを知って手を引くに至ったけれど、そうでなければディーンに迫っていただろう。

「もちろん忘れちゃいないわ」ローマンは認め「今だって嫌いじゃないもの」と意味深なことを言う。「あのとき、あんたに遠慮なんかしないで、ディーンと付き合やよかった。そしたら今頃、父親と息子の両方を手に入れられたのに」

「なに言ってんの。もしきみがディーンと付き合ったら、一ヶ月もしないうちに破局だよ。今まで半年以上、同じ人と恋愛が続いたことってあった?」

「あらあら、自分が続いてるからって上から目線? あんたもディーン同様ムカつくんですけど。彼氏の無礼が伝染したのかしら」

「なにそれ? ぼくがエドセルと一緒にいて悔しいからって、いくらなんでもあんまりな言い方じゃない?」

「だって悔しいもの! ヤキモチくらい焼かせなさいよ! だいたい、あんたも失礼よ。あたしがエドセルのこと好きだって知ってるくせに、なんだってこんな恋バナをしてくるわけ?」

 言われてみればそうだ。いつも何でもローマンに相談しているから、今回も自然とそうしたけど、彼からしてみれば、こんな話は聞きたくないはず。嫉妬するのは当然だ。

「ごめん、そこまで考えが至らなかった。いつも頼りにしてるから、つい」

 ぼくが謝ると、ローマンは「あたしにヤキモチ焼かせるあんたも大したもんだけど」と、訳の分からない褒め方をした。

「でももう手加減しない。ディーンのことは譲ってあげたけど、エドセルはあたしのものよ」

「エドセルはきみのものでもぼくのものでもない。彼は結婚してるんだ。可能性はこれっぽっちもない」

「あら、その言い方ったら懐かしい。“ローマン、ディーンはストレートなんだ。可能性はこれっぽっちもない”」

 ぼくの口調を真似するローマン。ディーンと付き合う前、ぼくはそう言ってローマンを牽制し、同時に自分の気持ちを抑圧してもいたのだ。

 ぼくは気弱に「でもそれとこれとは違うと思うな」と意見を述べたが、ローマンの耳にはまったく入っておらず、「あたしにもキスのチャンスがあるってことよね」と、独り合点している。彼はポジティブ・シンキングの見本のような性格だ。

「あ、そうだ。最後にエドセルが言ったこと。“ディーンには内緒だ”ってどういう意味だと思う?」

「そりゃ秘密にもしたいでしょうよ。息子の彼氏から押し倒されてキスされるなんてことは」

「そうかもだけど……ぼくは黙ってる方が心苦しいよ。ディーンには何でも打ち明けたいもの。でもエドセルが内緒にしてほしいなら、そうするべき?」

「どちらの意志も尊重されるべきね。あんたは言いたい。エドセルは黙っていて欲しい。“どっちが正しいか”じゃなくて、“どうありたいか”よ」

「エドセルは“内緒だ”ってぼくに言ったんだ。これってまだ何か続きがあるってこと?」

「さあね。あたしはわからない。好きに解釈すれば? ノロケ話の代金として、ここのランチはあんたの奢りだからね」

 ぼくにしてみれば全然ノロケ話などではないのだが、ローマンがプリプリしているので払うことにした。彼にしてみれば、ぼくに起きたことはハッピーなアクシデントで、喜びこそすれ、悩むところではないというわけだ。ローマンのように考えられたら人生はさぞかし楽しいだろう。でもそんなのとても無理。あのキス以降、ぼくの頭はショートしていて、まともに働いてくれやしない。次にエドセルに会うときどんな顔をしたらいいか、ぼくはそればかりを気にしている。



〈Dean〉

 ここにあるのは一通の手紙。封は切られておらず、おれは封筒を睨んだまま、小一時間も経過しただろうか。

 差出人はティファニーだ。郵送ではなく、ジャケットに忍び込ませてあった。おれが脱いだ上着のポケットにこっそり手を入れていたという事実については目をつぶろう。問題はこの中に“何が書いてあるか”だ。

 今までの経緯からすると、これがラブレターであることは予想の範疇。とはいえ、ティファニーは普通とは違っている。彼女の個性は常人のそれを遥かに越えているため、恋愛ドラマのセオリーが通じると思わない方がよさそうだ。

 今日も朝から“出勤”していたティファニー。会場スタッフは苦笑し、おれに向かって「大変ですね」なんて言ったりする。彼女は展示品やカタログを眺めているときは大人しいが、おれに話しかけてくる女性客がいると態度を変える。その客がおれから離れた後、こっそり「あの人に近づかないで。彼はゲイなんだから狙っても無駄よ」と、呪いの言葉を耳うちしたりするのだそうだ。それは今日になって客から知らされたことで、そんなことが起きているとはまったく知らなかった。さすがに営業妨害になるので本人に注意したところ「そんな言い方はしていない」と突っぱねられて終わった。

「わたしは少し話しかけただけ。そのお客さんが自意識過剰で被害妄想なのよ」

 おれからすれば、ティファニーこそが自意識過剰で被害妄想なのだが、彼女には自覚がないらしい。

 手紙をどこかに落としたとして、このまま中を見ずに処分してしまおうか。だがそんなことをして、命に関わるようなことがあっては困る。しかし“開封することで”命に関わるようなことがあっては、もっと困るのだ。

 答えのない悩みに、時間だけが過ぎていく。まるで時限爆弾を前にした科学者の気持ちだ。赤と青、どちらのリード線を切るべきか。この場合、どっちを取っても爆発するような気がしてならない。

 頭を抱えていると携帯が震え、思わずおれも身震いをする。ティファニーに個人の連絡先は教えてない。直接連絡が来るはずはないんだと自分に言い聞かせて携帯を開く。メールの差出人はエドセルだ。メッセージは写真つきで、ローマンとセントラル・パークのネイチャーウォークに参加した旨が書かれている。ストーカーから逃げた先でセクシャルハラスメンターに捕まるというのは悪い冗談のようだが、ひきつった顔のローマンはともかく、エドセルの方は何の問題もなさそうだ。そして問題があるのはおれの方……。

 おとうさん。あなたが逃れた厄災をぼくは一身に受けています。身代わりになるなんて、立派な息子だと誇ってくれるでしょうか。

 もちろんエドセルはおれがこんなことになっているなんて知らなくていい。離れているところで余計な心配はかけたくないものだ。

 それにしてもティファニーは何を考えているのか。おそらく彼女には“自分がおかしなことをしている”という意識がないのだろう。惚れた男が既婚者だとか、友達のミリアムの夫だとかいう情報は、ティファニーにとって大きな意味を持たない。ただ愛のみに情熱を燃やし、それがいけないことだとは露ほども疑ってはいないのだ。そうでなければエドセルの件に関して、あんなに手の内を明かすはずはない。よく言えば純粋。悪く言えばストーカー。

 エドセルは優しい男で、ティファニーをディズニー映画のプリンセスみたいに扱った。そこに恋愛的な要素は少しもない。何といっても彼はおれにだってキスしたくらいだ。

 エドセルがおれのことを妙に子供扱いするのは、おれの幼少期を知らず、また成長する過程を見ていないためだと、おれは解釈していた。突然現れた息子との距離感がわからず、妙に子供扱いしてしまうのだろうと。でもどうやらそうじゃない。エドセルはアラスカで子供のための教室を長年に渡って開いていて、かつて教えたことのある生徒が、娘や息子を連れてくることも珍しくないのだとか。要するに、彼にとってみればある一定の年齢から下、つまり教え子と同じ世代の者は、皆、子供に見えるのだ。

 そしてティファニーはいい年をした大人で、男性からのキスやハグは、子供時代とは別な意味に受け止める。エドセルがするスキンシップに、女性的な喜びを見いだすことがあったとしても不思議ではない。

 ここまでを踏まえてみると、どうやらエドセルは誤解を招きやすいタイプだ。これはおれが自覚していることでもあり、ポールから散々言われてきたことでもある。彼はおれに「女の子に優しくしすぎないで。誤解させたら女の子たちが可哀想だよ」と常々忠告してくれていた。

「きみにそんなつもりがなくても、相手は勘違いするんだから。こういうことを言うとぼくがヤキモチを焼いてるって思うのかもしれないけど、ぼくは女の子たちを心配してるんだ。きみに好かれたと思って舞い上がって、その後突き落とされる気持ちがどんなものか考えてもみてよ? 勝手に勘違いする方が悪いなんてぼくは言えないし、それって本当に気の毒なことだから」

 ポールによると、おれは普段の表情が険しいため、たまに微笑みかけようものなら、相手はそれが自分だけに向けられた特別なものと勘違いするのだという。しかし、おれのクールビューティは生まれつきで、そこに問題があると言われても困る話だ。間抜けなハリウッド・スターみたいに、喋っているとき以外ずっと笑顔を浮かべているのは真っ平だし、これについての解決方法は、今のところ見つけられていない。

 とにかくおれは男性経験の浅い女性に好かれる傾向がある。そしてそれはエドセルも同じらしい。さすがは親子。似なくていいところが似るものだ。

 ホテルのショップで買った缶ビールで喉を潤し、その勢いで手紙を開封する。便箋は七枚におよび、びっしりと細かい文字が綴られている。その内容は予想していたようなラブレターではなく、何というか、ブログのようなひとり語りだった。自分たちは名字が同じだから、ルーツが同じだということに始まり、家系図のような図が手書きされている。そこから突然、自分の子供時代の話になったかと思うと、好きな音楽に話題が及び、お気に入りサイトのURLがいくつも書かれて、最後は自作のポエムのようなもので締めくくってあった。そのどれもが修正テープだらけで読みにくいことこの上ない。書き間違えたにしても修正箇所が多すぎるし、テープの上に書かれた文字がゆがんでいるのも不気味さに拍車をかけている。修正テープの下にはいったい何が書いてあったのか、想像するのも恐ろしい。これはあれだ。ネットでよくある『検索してはいけない』みたいなものだ。

 ああ、ポール! おれは今すぐにでも帰りたい! しかし理由を聞かれたら? ストーカーに貼り付かれていて怖いからだなんて、とても言えない。それに言ったところでどうにもならないし、いたずらに不安がらせるだけだ。ここは腹をくくって、ポールに対しては、普段通り振る舞おう。近々、元の生活に戻るんだから、今をやりすごせばいいだけだ。それ以後はもう二度と、こんなことは起こらない(ないよな?)。



〈Paul〉

 ディーンと出会うまで、ぼくは年の離れた男とばかり付き合ってきた。父親を持たない同性愛者であるぼくにとって、年上の男性に父親を彷彿することはなく、彼らは常に性愛の対象だ。でもだからって、まさかこんなことになるなんて。

 ローマンは嫉妬しつつも煽るようなことを言うし、ぼくはどうしたらいいかわからない。彼はセクシーで魅力的。寝起きを共にして、気がつかない方がどうかしてる。問題はそれに“気づいてしまった”ってこと。

 ディーンが戻ってくるまで、友達の家にでも避難してようか。でも本音を言えば、そんなことはしたくない。エドセルをひとりぼっちにはしたくないし、これまで通り、彼と一緒に食事や会話を楽しみたい。

 ……“これまで通り”ってのは無理か。ぼくの気持ちが“これまで通り”じゃないんだから、どうしたって違うことになる。

 “キスしたい”と思う間もなく起きたハプニング。だったらその後は? 自分自身に信頼をおけなくなった今となっては、何があってもおかしくない。両方ともが酔っぱらっていたら、自制が利かなくなることだってあるだろう。

 ああ、ディーン! 早く帰って来て! でも理由を聞かれたら? エドセルと間違いが起きそうだからなんて、とても言えない。それに言ったところでどうにもならないし、いたずらに不安がらせるだけだ。ここは腹をくくって、ディーンに対しては、普段通り振る舞おう。近々、元の生活に戻るんだから、今をやりすごせばいいだけだ。それ以後はもう二度と、こんなことは起こらない(ないよね?)。

 そんなことを考えていると携帯が震えた。発信者はディーン。ぼくの決意を試すかのようなタイミング。落ち着け、ポール。深呼吸だ。



〈Dean〉

 昨日は久しぶりにポールと会話をした。声を聞けたのはよかったが、普通に振る舞えたかどうかわからない。出来うる限り、最大限の努力はしたが、彼は“普段通りのディーン”と思ってくれただろうか? 

「声の調子が変じゃない?」と聞かれたが、おれは「いつも通りだ」と反論した。しかしそれはまずかったかもしれない。下手に否定せず、「きっと疲れてるせいだ」とか何とか言うことだってできたんだ。隠し事があるせいで、過剰反応してしまったのは否めない。ポールは勘の働くところがある。この些細なやり取りから、“何かが起きてる”と察することがあるかもしれない。

 しかしそんな心配も今日限りだ。長かった展示会も本日が最終日。マイアミは嫌いじゃないが、地元が恋しい。アイラブ、ニューヨーク。アイラブ、おれのボーイフレンド。ティファニーから離れ、自分の部屋で思い切り寝たい。ただひたすらにそれだけを願う。

 おれがそんなことを考えているとも知らず、ティファニーは隣に立ち(そう、また隣にいる)「最後の夜ね」と感傷的につぶやいた。

「もしよかったら一緒にディナーをどうかしら? いい店を知ってるの。きっと気に入るわ」

 さりげなく繋いでくる手を、さりげなくほどき、「そうしたいけど、母のところに行く用事があって」と断わる。

「それならミリアムもお誘いしたらいいわ」

「いや、今夜は母に用があるから。悪いけど二人だけでいたいんだ」

「そう……」

「ごめん」

「いえ、いいのよ。お気になさらず」

 “お気になさらず”と言うが、気にしているのは彼女の方。しょんぼりした横顔を見ると気の毒になってくるが、ここで情を出すわけにはいかない。それはティファニーのためにならないし、言うまでもなく、おれのためになることでもない。

「わたしの買った絵だけど、あなたが届けに来てくれるの?」

「いえ、宅配業者が納品します」

「連絡先を教えてくれる?」

「あ、じゃあ、ここのホットメールに」

「必ずメールするわ」

 そう言った後、ティファニーはひと呼吸置いて「あなたがゲイじゃなかったらよかったのに」とつぶやいた。

 おお、神よ、おれをゲイにしてくれてありがとう。いや、過去にはゲイじゃなかったんだが、その頃であっても、ティファニーとは付き合えなかっただろう。ゲイがどうとかでなく、それ以前の問題だ。

 最終日は二時間早く閉館となり、ティファニーは名残惜しそうに帰って行った。展示作品をトレーラーに積み込むのを見守って、今回の仕事は終了となる。撤収作業はスタッフに任せて、ひと足先に会場を出る算段だ。

 帰り支度をするおれに「これからマンハッタンへ戻られるんですか?」とスタッフが声をかけてきた。ええと、彼女の名前は……『Xファイル』だから、ダナ・スカリー……じゃなくて、ジリアン。そう、ジリアンだ。

「本当はすぐにでも帰りたいけど」と前置きし、「これから母と会う予定があって、駆けつけなきゃならなくて」

「お母様がこちらに?」

 ビーチ近くのコンドミニアムに母親が住んでいることを話すと「娘の保育園の近くだわ」とジリアンは言う。「通り道だし、よかったら乗せていきましょうか?」

「そうしてもらえると助かるけど……でもここの後片付けは?」

「わたしは子供がいるので早番にしてもらっているんです。これからすぐに出ることになりますけど、それでもよければ」

 ジリアンは気さくで親しみやすい雰囲気だ。逆の性質を持つ女性と長くいたせいか、とてつもない安心感を彼女から感じる。今優しくされたら、おれは泣いてしまうかもしれない。

 知らない人の車に乗ったら駄目と言われたのは二十年も昔のこと。今は警戒することなく親切を受け取り、ジリアンのプリウスに乗せてもらった。保育園はコンドミニアムの近くにあり、マンハッタンでは考えられないほど、駐車場は広々している。彼女がトランクからベビーカーを出している間、おれはカバンを持ったが、これが予想以上に重たい。「鉄アレイでも入ってる?」と聞くと、ジリアンは笑って「子供がいるとどうしたって荷物が多くなるのよ」と答えた。車で待っててと言われたが、この重たいカバンを返すことは気が引けたので、荷物持ちに徹することにする。ジリアンの娘は母親の姿を見つけるなり、嬉しそうに駆け寄ってきた。娘はジリアンにそっくりで、ほっぺたはマシュマロのようにふわふわだ。

「今日はママのお友達のディーンも一緒よ」とジリアンが言う。「ご挨拶できるわよね?」と促したが、ちびちゃんは無言で子馬のぬいぐるみを撫でている。おれは彼女の目線にしゃがみ、「やあ、こんにちは」とご挨拶。「きみの名前は?」

「モリー」

「そのポニーは?」

「サリー」

「どっちも素敵な名前だね」

 モリーはおれを見たが、すぐにサリーに興味を移す。

「恥ずかしがってるのよ」とジリアン。「男の人にあまり会うことがないから」

 不審者を警戒するのはいいことだ。少なくともシャイな女の子はおれ好みで、子馬も一緒というのは尚のこと素敵だ。

 ジリアンはベビーカーに娘を乗せ、おれはさらに増えた荷物を肩に担ぐ。子供ひとりにかかるアイテムはとてつもない量だ。着替えにおむつ、毛布にミルクにベビーフード。休暇に入る軍人だってこんなに大荷物じゃないだろう。これが毎日だというのだから恐ろしい。

 育児の大変さに戦慄していると、駐車場に見覚えのある人物が立っていた。睨みつけるようにこちらを見ているのはティファニーだ。さっき会場で別れたばかりの彼女、いったいどうしてここにいるんだ?

 おれが疑問を口にする前に、ティファニーは「なによ!」と声を張り上げる。「なんだってこんなことをするの!?」

「こんなこと?」どうやら彼女は怒っているらしい。でもどうしてだ?

「ミリアムのところに行くなんて言っておきながら、こんな……」つかつかと歩み寄り、「ゲイの振りして、現地妻がいたなんて最低!」と叫ぶ。

 げ、現地妻?! 現地妻って、それはジリアンのことを言ってるのか?

「誤解だ、ティファニー。彼女は会場のスタッフで……ほら、何日か前にも会っただろ?」

 ティファニーはおれの言葉を無視し、ジリアンとモリーを順番に見た。ここで子供に何かあってはと、おれは二人の前に立ちはだかったが、それはティファニーの感情をさらに刺激したらしい。

「奥さんと子供を庇い立てするのね? 嘘ばかりついてるくせに、なんて人かしら」

 嘘ばかりって何だよ?! わけがわからない! もう完全に意味不明だ! それにもし仮におれに現地妻とやらがいたところで、彼女には何の関係もないことじゃないのか?!

 顔を真っ赤にするティファニーの前に進み出たのはジリアンだ。「ねえ、あなた。わたしはディーンの妻じゃないし、ガールフレンドでもないわ。本当になんでもないから、安心して。ね?」

 なだめるように語りかけるが、どうやらこっちでも誤解が生じている。ジリアンはティファニーをおれのガールフレンドだと思い込んでいるらしい。しかしそれはどうでもいい。今はモリーとジリアンの身を守ることが最優先だ。

「ジリアン、ここはいいから、行ってくれ」

「でも……」

「モリーを怖がらせたくはない。早く」

「あなたはどうするの?」

「おれは大丈夫。迷惑をかけて本当にごめん」

 二人を車に乗り込ませ、おれはティファニーと対峙する。それにしてもどこから話したらいいのだろう。現地妻じゃないと言っても信じてもらえないだろうし、うかつなことを言ってこれ以上激高させたくはない。ところがティファニーは態度を一転させ、「わたしのために残ってくれたの…?」と、またしても訳の分からないことを言い始めた。

「奥さんと娘さんは行ってしまったわ。それなのにわたしと居てくれるのね?」

「いや、あのさ、あれは奥さんと子供じゃない。おれには妻も子もいないし、前に話した通り、ゲイなんだ。ジリアンはただおれを送ってくれただけでさ……」

 するとティファニーはアハッと笑い「いやだ、わたしったら、勘違いしてたのね」と舌を出す。さっきの剣幕はどこへやら、急にケラケラ笑い出した。これはいったい何なんだ。

「どうしてこうドジなのかしら。わたしのママもわたしのことを自慢に思わなかった。こんな娘じゃ当然よね……」

 今度は涙ぐみ始めた。もうおれの手に負えない。これは本当によくない兆候だ。

「ねえ、ティファニー、きみは助けを必要としてる。でもそれはおれやエドセルじゃない。専門医に診てもらうんだ」

 ティファニーはぐすんと鼻を鳴らし、「ええ、そうね。たぶんそうなんだわ」と言った。自分の症状を認められるのだから、最悪の事態ではないのかもしれないが、処置は早い方がいい。ママに電話して事情を話すと「すぐに行くから、人の多い場所で待ってなさい」と言う。その間、ティファニーは自分の親がいかに間違っているかを話し続け、ミリアムが到着すると、彼女の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。ママはティファニーを病院に連れて行くというので、おれはタクシーを拾ってコンドミニアムに向かった。マイアミでの最後の晩飯はサブウェイで済ませ、夜にはビールを浴びるほど。誰が悪いわけでもないが、久しぶりに会社を辞めたいと思う。田舎に越して養蜂でもして暮らせたらどんなに素敵だろう。いや、養蜂よりも早くポールのところに戻りたい。おれのことを想い、大事にしてくれる恋人。誠実で優しく、離れていても浮気もせずに待っていてくれる。それに今はエドセルもいる。彼もまた誠実で優しい男だ。ティファニーのように胸に顔を埋めて泣きじゃくることはできないが、息子の愚痴をこっそり聞いてくれるだろう。百万がいち、おれの留守中にポールとエドセルがデキてるなんてことがあったら、そのきとこそ真剣に養蜂家の道を検討しよう。



〈Paul〉

 昨日は久しぶりにディーンと会話をした。声を聞けたのはよかったけど、普通に振る舞えたかどうかわからない。出来うる限り、最大限の努力はしたけど、彼は“普段通りのポール”と思ってくれただろうか? 

 ディーンの声音が固く感じたので、「声の調子が変じゃない?」と聞いたけど、彼は「いつも通りだ」と答えたので、ぼくは質問したことを後悔した。声の調子が変なのは自分の方。やましい気持ちがあるせいで、相手に自己投影してしまった。まさかこれでディーンが察することはないとは思うけど、些細なやり取りから、“何かが起きてる”と感じ取ることがあるかもしれない。

 でもそんな心配も今日限り。明日はディーンが戻ってくる日だ。そう、これはエドセルとの最後の夜……。

 ディーンに会いたい気持ちは変わらずあるのに、このままエドセルと二人でいたい気持ちが同時に存在する。恋人以外の人間に性的感心を向けることについて、ぼくはちっとも理解できないと思っていたし、それについてディーンを責めたこともある。しかし、いざ自分がその立場になってみると、モラル的にはともかく、感覚的にはまったく問題がないと感じていたりもする。恋人以外の人間に好ましさを感じたからといって、恋人を軽んじているわけでは、決してない。ぼくはディーンを愛してるし、その上でエドセルにも好意を抱いている。でもこの状態が正しくないことは火を見るより明らか。浮気相手がボーイフレンドの父親だなんて、どうみてもラブコメ映画のシチュエーションだ。

 ぼくがモヤモヤしている横で、エドセルはウイスキーをロックでやっていて、なんだか妙にご機嫌な様子。昨夜のアクシデントについてどう思っているのかな? ぼくは遠回しに「もうアルコールは控えようって言い出すかと思ったけど」と聞いてみた。彼はグラスを回して氷を泳がせ、「それはありえないな」と答える。

「お酒が好き?」

「アラスカに行ってから好きになった。親友がバーを経営してるせいだ」

「チャールズですよね? ディーンから名前を聞いてます」

 チャールズは飲食店を経営している独身男性。ディーンによると、古いタイプのハンサムで、若い頃にはエドセルに片思いしていた(ここは過去形でいいのかな?)とのこと。昔のアラスカで、俳優上がりの同性愛者というのは、とても生きづらかったに違いない。

 エドセルはテーブルのボトルを回してラベルを見せ、「これはシングルモルトだ」と言う。「アラスカに住む前はシングルモルトとブレンデッドの区別もつかず飲んでいたよ。ウイスキーについてはチャールズが色々教えてくれた」

「教えてくれたのはウイスキーについてだけじゃないですよね?」

 ぼくの言葉にエドセルは片眉を上げた。この反応。どうやらぼくは妙な含みのある言い方をしてしまったようだ。

「ええと、つまりアラスカで暮らしていくにあたっての様々なことを、チャールズから教えてもらったんだろうなって……」

「そうだな。カリフォルニアから極寒の地に移住したんだ。覚えることはとにかく多かったよ」

「帰ろうと思ったことは?」

 エドセルはグラスの中の琥珀を見つめ、「ないこともないが」と言う。「でも諦めた」

「ボーイフレンドができたから?」

「それもあるが、他にもいろいろあってね」

「いろいろの部分って秘密ですか?」

「秘密じゃないが、長くなるんだ」

「ぼくは明日お休みだから、聞く時間ならたっぷりあるけど」

「きみの分のグラスを用意するというのなら、話して聞かせよう」

 シングルモルトとビーフジャーキー。秘密じゃないけど、長くなる話。最後の夜は特別なものになりそうだ。ぼくは嬉々として自分のグラスを用意したが、エドセルの人生を聞き終える頃にはすっかり疲弊していて、正直、聞かなきゃよかったとさえ思ったほどだ。彼が体験した数々のことは、誰にとっても恐ろしく、一度でも自分の身に起きたなら自殺さえしかねない。そこには恋人の死も含まれるが、それが些細に感じられるほど、衝撃的な内容だった。

 クリネックスを何枚も必要とするぼくに、エドセルは「もう乗り越えたんだよ」と穏やかにささやく。どうやったら彼がこんなに平和そうにしていられるのか、ぼくにはとても想像もつかない。それについて彼は「人に助けられたからだ」と言う。

「バルの家族はとても親身になってくれたし、イヌイットのグループは仕事を支援してくれた。それにチャールズ。彼は他の誰もができないようなことをおれにしてくれたんだ」

 “他の誰もができないようなこと”。それはチャールズの愛ゆえだ。死んでしまいたいようなことが人生に起きたとしても、愛によって復活することができる。だから人はそれを失くすのが何より怖いんだ。

 エドセルはどうしてチャールズを好きにならなかったんだろう。ぼくがエドセルの立場だったら、絶対に彼を恋人にするのに。それについて訊ねると、彼は「チャールズは本当にいい男だよ」と言った。「彼がいい男でも恋人にはしない。そういうことも人生にはあるのさ」

 そのあたりを詳しく突っ込んで聞いてもいいものか迷っていると、エドセルは「家に帰ることは諦めたが、家に帰る夢は何度か見た」と言う。

「夢の内容はいつも同じだ。おれが家の前に車を留めると、娘のアイリーンが駆け寄ってくる。彼女はおれが家を出たときの年齢のままの姿をしていて“早く家に入ろう”と促すんだ。家の中にはミリアムがいて、性別のわからない赤ん坊を抱いている。それを見て、おれはこう思う。『家族を失った気がしたが、いったい何を思い違いしていたんだろう。皆ここにいるじゃないか。誰もいなくなってなんかいない』……そして目が覚め、現実は夢と逆だと気づくのさ」

 なんて切ない夢だろう。再び目に涙が戻ってくるのを感じ、ぼくは「もしかしたら、ご家族も同じ夢を見ていたかもしれませんね」と言った。「その夢の話、ディーンは知らないんですよね? さっきしてくれた過去の話も?」

「ああ」

「あなたに起きた事の全貌をディーンが知っていたらよかったのに。もし彼がこの話を知ったら、父親が戻らなかったことについて責めたりはしなかったと思う。少なくとも、怒りをぶつけることはなかった。きっと彼はぼく以上に同情して…」

「だからこそ、そうはしたくなかったんだ」エドセルは力強くその言葉を口にした。「父親から捨てられたことについて、ディーンが怒る機会を取り上げたくはなかった。子供は親に怒りをぶつけるものだし、それを受け止めるのが父親の仕事だ。自分は長らくそれを放棄していたし、おれを責めることはディーンにとって必要だったと思ってる」

 なんだかすごい。ぼくのママだったら絶対に考えないようなことをエドセルは考えている。これが父親というものか。でもすべての父親がこうだというわけじゃないだろう。

 エドセルの過去について、さっきは“聞かなきゃよかった”と思いもしたが、やっぱり聞いてよかったと思う。内容が内容だけに打ち明けるのは勇気のいることだったかもしれないけど、それでも彼は話してくれた。ぼくも勇気を持ちたい。起きたことを恋人に話せる勇気を。

「あの、ぼくはディーンに話そうと思ってるんです」

「なにを?」

「こないだぼくたちが……したこと」

 言葉をぼやかしたが、エドセルは察してくれたようで、『何のことだ?』とは聞かれなかった。

「秘密にしたら、なんだか悪いことしてるみたいで。ディーンに対して後ろめたい気持ちでいたくないんです」

「何が後ろめたいんだ?」

「だって……あなたは黙っていて平気なんですか? どうして?」

「自分が平気かどうかは、おれにとってどうでもいい。問題はディーンが平気かどうかだ」

「どういう意味ですか?」

「きみが正直になったとして、ディーンはどうなると思う?」

「それは……」

「彼はおそらくこの出来事を受け止められない。きっと混乱するだろう」

 もしディーンがこのことを知ったらどうなると思うか。いろいろ考え始めて、パニックに陥るのが目に見えている。ぼくとエドセルが揃って“大した事じゃない”と言ったとしても、ショックを受けることに忙しく、聞く耳を持てないような気がする。

「ディーンはとても繊細で、おれに対してはコンプレックスを抱いているようだ。なぜかはわからないがね」

 “そんな必要はないのに”とでも言うように苦笑するエドセル。彼は父親として、息子のことをよく理解している。それは恐らくディーンが思っている以上に。

「きみは“ディーンのために正直でありたい”と言うよりは、手っ取り早く罪悪感から解放されたがっているように見えるね。相手の気持ちよりも、“自分はこうあるべき”という形に捕われている。反射で行動する前に、きみにとって何がもっとも大事なことなのか、改めて考える必要があるんじゃないかな」

 まったくその通りだ。エドセルが理解しているのは息子のことだけじゃない。彼は他人のことに関してとても鋭い。そして他人から向けられる特別な好意にはひどく疎いらしい。

「もしおれたちが本当に惹かれ合っているとしたら、そのときは正直に話すべきだと思うけどね。今回に関して言えば、ディーンと間違えてキスしただけだ」

 ディーンと間違えてキスしただけ? そうか、彼の中ではそういう話になってるのか。ぼくは別に間違えたわけじゃないんだけど……でもそれならそういうことにしておいた方がいいのかもしれない。

「おれたちには意味のないキスでも、ディーンにとっては違うことになる」

 エドセルにとってあれは意味のないキスだった。“内緒に”と彼が言ったのは、息子の気持ちを思い遣っていたからだ。“ぼくみたいなのがタイプかも”なんて、馬鹿な妄想をしてしまった。エドセルが考えてるのはディーンのこと。親として当然の感情だ。

 彼はぼくに恋してない。そのことは知っていたはずなのに、はっきり宣告されて、ゆっくりと気持ちがしぼんでいくのがわかった。ぼくはエドセルになんて言って欲しかったんだろう。こんなにがっかりしているということは望む言葉じゃなかったということだ。でももし望む言葉を言われて、さらなる展開を迎えたとしたら……完全に破滅だ。

 強盗に襲われたという危機的状況は、ぼくに強い恋愛的感情を抱かせたが、それは所詮“吊り橋効果”に過ぎなかった。もしエドセルから誘われていたら浮気をしていたかもしれないが、そんなことは起こり得ない。息子の彼氏に手を出すような人じゃないからこそ、ぼくはエドセルを好きになった。最愛の彼氏の父親はとても素敵な人。そのことを心から喜ばしく思う。

 エドセルはカーテンの隙間から差す光に視線を向け、「すっかり朝になってしまったな」と言った。腕時計を見て、「ミリアムに電話をする時間だ」と立ち上がる。

「毎朝この時間に?」

「毎日しなくていいと言われてるんだけどね。でも彼女の声が聞きたいんだ」

「……奥さんのこと、愛してるんですね」

「ミリアムはおれの罪を許して、受け入れてもくれた。かけがえのない女性だよ……と、今ははっきり言えるが、最初からこうだったわけじゃない。おれも彼女も昔は愚かで、相手にひどい態度を取って傷つけ合った。お互いをどのように大切にしたらいいのか、若かった時分にはあまり理解していなかったんだ」

 ぼくはまだ若い。そして愚かでもある。お互いをどのように大切にしたらいいのか、完全にわかっているわけではなく、ローマンを怒らせたり、ディーンとは頻繁に喧嘩をする。自分自身のことについても知らないことがいっぱいだ。

 かつてエドセルは失敗したが、その体験を教訓にして、大切な人をどうやって扱うべきか学ぶに至った。ぼくに父親はいないが、“父性”というものをこの人から学ぶことができるだろう。エドセルは生きたお手本だ。

 心に平安が訪れると、眠気が一気にやってきた。「もう駄目。瞼が支えられない……」言いながら立ち上がり、そのままエドセルに両手を伸ばす。彼は自分がどうするべきか完全にわかっていて、ぼくのことを力強くギュッと抱きしめてくれた。なんて安心できるハグなんだろう。エドセルはぼくに恋してはいないけど、愛情は間違いなく持っている。ディーンにも話していないことを、彼は打ち明けてくれた。それは深い信頼に基づいた行為だ。

 エドセルはハグをしたまま「ぐっすり眠って。朝だけど」と言い、ぼくの頭にチュッとやった。そこに恋愛要素はまったくなく、子供にするみたいなキスはちょっと恥ずかしいけど、同時に嬉しさも感じられる。短かった片思いはぼくの中で早くも素敵な想い出になっているらしい。“振られて尚、幸福”という奇妙な感覚だ。

 ミリアムに電話するエドセルの後ろ姿はディーンによく似ている。それを見ながら、ぼくは思う。『ディーンがエドセルと似ているのなら、ぼくはミリアムのようになりたい』と。

 ディーンがぼくに対して罪を犯しても、それを許し、受け入れられるように。もし彼が出て行ってしまったとしても、いつでもぼくのところに戻ってこられるように……。



〈Dean〉

 ニューヨークに向かうボーイングの中で、ママは機内食について文句を言い始めた。いつもだったらイラつくところだが、まったくもって気にならない。おれはマンハッタンに帰るんだ。愛する者が待つ土地へ。こんなに強く幸せを感じたことは、ここしばらくなかった気がする。当たり前だと思っていたことが、実は特別なことなのだと気付かせてくれたティファニーには、高度1万メートルから感謝を捧げたい。彼女もいつか魂の片割れと出会って、心の平和を手に入れますように。マイアミを離れた今となっては、心からティファニーの幸福を願うことができる。

 いつもは出迎えることのないポールだが、今回はエドセルと一緒に空港に姿を現した。二人はとても健康そうで、おれの留守中に不幸があった兆しはない。

 エドセルが「荷物はこれだけ?」と聞いた途端、ママはフライトの愚痴を言い始めた。彼はそれをニコニコして聞いている。この文句たれおばさんのどこに惚れているのか、甚だ謎だ。

 両親はホテルの送迎バスの発着場へ向かい、おれとポールはタクシー乗り場へ。後部座席に乗り込むや否や、ポールはおれにキスし、「会いたかった……すごく……」と、切なくつぶやいた。

 その言葉はいつもよりおれの胸に迫り、彼のことを抱きしめずにはいられない。

「おれもすごく会いたかった。離れている間、気が狂うかと思ったよ(主にティファニーの件で)」

「ぼくも頭がおかしくなるかと思った(主にエドセルといる間)」

「離ればなれになっている間、どれだけつらかったかわかるか?(特にティファニーから手紙を受け取ったあたりがヤバかった)」

「わかるよ、ぼくも同じ気持ちだった(エドセルとキスしちゃってからは、とてつもなく気が動転したから)」

「ひどく長い一週間だった」

「ほんと。ぼくたち、あまり長く離れない方がいいみたい」

「同感だ」

「“たまには別々に過ごすのもいい”って言ったけど、あれは間違いだったね」

「いや、そうでもないさ。『たまには別々に過ごすのもいい』という説が、大いなる間違いだと証明するために、別々に過ごす体験が、おれたちには必要だったんだ」

「それって屁理屈じゃない?」

「ああ、“負け惜しみ”と言ってもいい」

「出張はどうだった? 何か変わったことは?」

「いや、特に何も。きみの方は? おれの留守中、何か変わったことは?」

「別に」

「ならよかった」

「うん。きみも」

 タクシーの窓から、ニューヨーク名物のビル群を眺める。やっぱりおれにはここが最高。マイアミも嫌いじゃないが、どこに行くにも車で移動というのは性に合わない。それに何より、マンハッタンは最愛の恋人が住まう場所だ。ジョージ・クルーニーも嫌いじゃないが、おれの運命はこの街とポールと共にある。



〈Paul〉

 ディーンと久しぶりののセックス。それはいつも以上に素晴らしかった。彼はとても情熱的で、留守中ぼくの気持ちが揺らいだことに気付いているのかと思わされるほど。もし気付いているとしても、何も言わないのがディーンの優しさだ。彼が恋人でよかったと心から思う。

 エドセルに対するぼくの熱は冷めたが、ローマンはそのまま突っ走り、みごと玉砕したらしい。彼はランチのベーグルを頬張りながら、情けない顔をして「エドセルに振られちゃったのよ!」と叫ぶように言った。

「振られたって、それはもうずいぶん前に起きたことだよね?」

 ぼくがそう確認すると「そうよ! でも今回は改めて振られたの!」と言う。「エドセルは押しに弱いって知ったから、これはチャンスかもしれないと思って、ちょっと強引に迫ってみたの。そしたら彼、少し笑って“ポールから何を聞かされた?”って……あたしは前からエドセルのことが好きだったのに、あんたに便乗したみたいに思われたのよ!?」

「だって実際に便乗してるじゃない?」

「そうだけど、そう思われたことが嫌なのっ! エドセルはあたしを受け入れてはくれなかった……。彼はこう言ったの。“きみを混乱させたのだとしたら申し訳ない。少しの間、離れていた方がいいかもしれないな”って……距離を置かれちゃった! すごくショック!」

「エドセルも目が覚めたのかもね。今まで彼がきみに距離を置かなかったのが不思議なくらいだから」

「今そんなこと言う!? 毒舌はディーンだけで結構よっ!」

「ああ、ごめん。うまくいかなくて残念だったね?」

「とってつけたような慰めだけど、ないよりはいいわ。それで、わかってるだろうけど、ディーンには内緒にしてね。エドセルにちょっかい出したことがバレたら面倒なことになるから」

 また内緒か。ディーンに秘密にするようなことが、これ以上増えないといいんだけど……。



〈Dean〉

 ポールと久しぶりののセックス。彼はいつもに増して情熱的で、病みかけていたおれの心を完全に癒してくれた。勘の鋭いポールのこと。おれが出張先で何らかのアクシデントに見舞われたことを察しているのだろう。気付いていながらも聞いてくることをしないのは、ポールの優しさだ。彼が恋人でよかったと心から思う。

 後日、ローマンにエドセルと行ったネイチャーウォークのことを聞いたが、どういうわけだか舌が重く、あまり話してはくれなかった。お喋り男らしからぬことだが、彼の人生もいろいろあるのだろう。何から何まで打ち明けるのが、いいことではないと知ったばかりだし、あまり根掘り葉掘り聞くのは、場合によっては相手の負担にもなる。どことなく元気のないローマンに、おれは意味なくランチを奢ってやり、別れ際にはエドセルがよくやるように、彼の頭にキスをした。真の男は同性へのスキンシップを恐れない。おれはエドセルから、大人の男がどういうものかというのを学びつつある。

 女王のように振る舞う文句たれおばさんにエドセルが寛大であるように、おれもポールには豊かな気持ちを持っていたい。そしてできる限り、彼のそばにいたいと思う。

 孤独で死ぬのはウサギだけ? 実は人間もそうかもしれない。誰しもひとりでは生きていけず、他人の存在を必要としている。そしてそこに愛がないとしたら、それはひとりでいるのと同じことだ。エドセルにはミリアムが必要で、おれにはポールが必要。かけがえのない人間といられることは、かけがえのない幸福。もちろんいつもそれを感じているわけではなく、たまに忘れもするが、最終的には真実へと戻ってくる。それはあたかもボーイングが懐かしい土地へと戻るように。おれとポールは互いの滑走路となって、相手のために着陸灯を灯す。

 もし仮に、ポールがかつてのエドセルのように孤独への道を選び、家を出るようなことがあったとしても、おれはそれを許し、彼が戻った暁には自然に受け入れたい。その点については、文句たれおばさんにも学ぶことができるだろう。

 エドセルとミリアムは若い時分にこそ傷つけ合ったが、今は関係性を確固たるものにした。いつかおれが配偶者を持つとしたら、現在の両親のようにありたいと思う。そしてその相手が“彼”であることを、おれは心から望んでいるのだ。


END

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る