第27話:恋人たちのセラピー(Nobody Knows Me)

『ゲイに“なる”のではない。それは“認識”するものである』

 これはおれが同性愛のコミュニティに属するようになってから、幾度か聞かされた説だ。「どうやってゲイになったのか」という質問への回答としては極めて分かりやすく、またゲイを治療しようという働きに対しては、そもそもの解釈が間違いであるとの指摘にもなっている。

 幼児がある段階で自分の性別を認識するように、同性愛者もそれと同じ気付きを、遅かれ早かれ得る。異性と結婚したのち、しばらくしてから「おや、自分は同性愛者みたいだぞ」と気がつくこともあるのだ。

 自分に関して言えば、“ゲイになった”という意識はあるが、“ゲイである”という認識はあまりない。今の状態になる以前は女が好きで、ゲイになったのはポールのことを好きになったから。つまり「ポール(男)が好きなんだから、自分はゲイだろう」という解釈をしたまでだ。

 彼氏を持つ身分になったものの、ホセ・カンセコの尻や胸に興味を覚えることはなく、未だにセクシーな女性のバナー広告を、ほとんど無意識でクリックしたりもしている。(その後、なかなか消えないポップアップ広告と格闘させられるのは言うまでもない)

 こんな調子だから、おれにとってゲイの世界は、“我が住処”というよりも、“独創的な別の惑星”に感じられる。バーンズ&ノーブルのジェンダーのコーナーにすら縁がなかった者としては、見るもの聞くものすべて珍しく、セクシーな“男性”のバナー広告をクリックしてみるのは、性的なこととまったく関係のない、単なる興味からだ。行き着いたサイトではジャスティン・ビーバー似の成人男性が、ペニスを巨大化させる装置を手に微笑んでいたり、ターミネーターのような黒人男性が、男性用ウェディングドレスの縫い方を紹介していたりと、様々なコンテンツを見ることができる。

 まずはゲイの出会い系に始まり、ゲイを対象とした書店。ゲイ専用のセックスグッズ。これらは既にポピュラーと言える。他には、ゲイ向けのペア・アクセサリー及び、エンゲージリング。ゲイのオーナーによる、ゲイのための宿泊施設。ゲイのアニメ。ゲイの電話相談。ゲイのクッキング。ゲイのマッサージ(エロくないやつ)……などなど。“ゲイ専用教会”はさすがに見当たらなかったが、いつか登場するだろう。同性愛は経済市場としても確立されていて、それは不況知らずのマーケットなのかもしれないが、ゲイでない人たちには全く関係のない分野だ。

 おれは“ゲイでない人たち”にギリギリ近く、未だに「どうも、ぼくは同性愛者です」と自己紹介できない新参者。アメリカの大都市において、同性愛への理解と認識は日々高まり、カミングアウトにはさほど問題のない環境にいるのだが、胸を露にした女性のバナー広告を嬉々としてクリックしている奴が「男が好きなんです」と公言していいものか悩むところだ。

 よって、今のところはクローゼットから出るつもりはなく(※クローゼットから出る=ゲイを周囲に告白する)黙っていたところで日常生活に支障はない。「わたしの好みは背が高くて、年収が10万ドルの白人男性よ」とか「胸がでかくて扱いやすい女が好きだ」などと、普段の会話で言うことがないように、“ゲイかどうか”なんてことは、よっぽどのことがない限り、取りざたされることはないものだ。

 おれが他人の性癖に興味を示さないように、他人もおれの性的傾向には無関心なはず。

 そう思っていた。ついきっきまでは。



 仕事から帰宅するなり、ポールは「今日はすごく不愉快なことがあった」と、“すごく不愉快”な面持ちで、起きたことを話し始めた。

「きみの会社の近くのカフェでお昼を食べたんだ。サンドイッチが美味しいって評判だったから、少し足を伸ばしてみようと思って」

「『ジェシー・オリジナル』か? あの店はおれも好きだ」

「うん、それ。でもサンドイッチのことは、これからする話に関係ない。どうでもいいポイントさ。問題はね、きみの会社の同僚が、その店できみのことを噂してたってこと。“ディーン・ケリーはどうなの?”って。ずっと喋ってた」

「おれのこと?」


 ─── 再現映像 ───

 登場人物 : 20代の女性三名

 状況 : 日当りのいいテラス席で、フレンチロールをパクつきながら


「ディーン・ケリーはどうなの?」

「彼ってゲイでしょ?」

「違うわよ。前に営業推進課の子と付き合ってたみたいだし」

「そうなんだ? お洒落系イケメンだからゲイかと思ってた」

「ディーン・ケリーがゲイなわけないわ。あいつの女を見る目つきって、完全にオトコそのものじゃない」

「典型的なタラシよね。話は面白いし、すごく優しい。だけど中味はないタイプ」

「スマートに下心を隠せてるから、タラシに免疫のない子は簡単になびくんじゃない?」

「ああいうのと結婚したら地獄を見るわね」

「彼の腕時計、見たことある? やたら高価なブランド時計を、とっかえひっかえつけてきてるのよ」

「妻よりも服に金をかける夫ってどうなの?」

「お金もそうだけど、浮気が心配ね。どうみたって大人しく家庭に収まる感じじゃないし」

「妻が幸せを噛み締めるのは、結婚式で友達に自慢する瞬間だけ」

「リゾートで連れ回すのはいいんじゃない? エスコートサービスだと思えば楽しめそう」

「ひと月くらいなら付き合ってもいいけど、それ以上は無理だわ」

「同感」

 ─── 終了 ───


「勝手なこと抜かしやがって! いったいどこのどいつなんだ!? そいつらの名前はわからないのか?!」

「居合わせたぼくがどんな気持ちだったかわかる?」

「わかるとも! 恋人を侮辱されてさぞかし腹が立っ…」

「そうじゃないよ! きみがゲイを隠してるからこんなことになるんじゃないか!」

 そこから先はポールの独壇場だった。呼吸をするのも忘れ、おれがいかに問題を抱えているかを指摘してくる。自分を偽ることで周囲に誤解を与え、他者から正しい理解を得られずに孤立する。それが今のディーン・ケリーの姿なのだそう。

「きみはいつまでそうやって自分のことを話さないつもりなの? 悪口ならまだしも、きみの本質を知らず、片思いしている女性が社内にいたとしたら?」

「もしそうなったら、そのときに考えるさ」

「そうなってからじゃ遅すぎる! きみは人の気持ちをぜんぜん真剣に捉えてない! だいたいこの間だって…」

 今から一週間以上前の出来事をポールは蒸し返し始め、おれは忍耐強く、彼の言い分に耳を傾ける。長い話の内訳は、“ディーンは問題を抱えている”ということで、どのように言い方を変えても、クレームのポイントはひとつのようだ。

 おれはポールの目を見つめ、「きみのことを愛してる。それだけじゃ駄目なのか?」と訊ねた。彼は「それだけでいいに決まってる」と答えた後、「でもときどき、きみからの愛が感じられないんだ」と悲しげに言った。「ゲイであることを否認するってことは、ぼくを否定することも同じなんだってこと、どうしてわかってくれないの?」

 アイデンティティが明確なポールは、“ゲイ=自分”という図式が完璧に完成されている。おれからすれば、ゲイ人種の自意識は、些か行き過ぎという気もするが、それは“ゲイを否認するってことは、ぼくを否定すること”という話になるんだろう。

 こちらが思案している間もポールは説明を続け、ときどき「どうして黙っているの?」なんて聞いてくる。それでも次の瞬間には、おれが口を挟む余地のないほど、喋り続けるのだ。

「今は芸能人だけでなく、スポーツ選手だってゲイを告白してる」とポールは言う。「みんな自分に正直に生きるってことに意識的になってるんだ。それなのに、きみはまるで百年も昔の人みたいに、ゲイを告白することを恐れてる。そんなに人の目が怖いの? 他人からどう思われるかが?」

 芸能人やスポーツ選手は、自分を表現することで世界を変えていくことができる。彼らは勇ましい戦士だ。そしておれはそうじゃない。ただの一般市民で、つましくささやかに暮らしていきたいと思っている普通の男。社内でゲイの広告塔になるつもりはないし、興味本位の好奇な視線に晒されるのは不本意なことだ。そもそも同僚たちとは、それほど深く関わっているわけじゃなく、基本的には仕事上だけの付き合いでしかない。そんなところで自分はゲイだとか、彼氏がいるとか、昨日も風呂場でセックスしたとか、自宅ではアップルのコンピューターを使っているとかは、言いたくもない。それは例えば隣の席のジェドや上司のシーラに、おれへの攻撃材料を提供するも同然に思える。彼らに話せるのは『先日、コーヒーメーカーを買い替えたよ。なかなかいいね』ってことくらい。カムアウトが嫌なんじゃなくて、全般的に個人的なことをシェアしたくないんだ。それに相手だって、元々普段の会話が少ないところへもって、突然「おれって実はゲイなんだよね」と告白されても、リアクションに困ることだろう。まあ、はっきり言えば、“面倒だ”というのが本音なんだが。

 しかし、そんなことをポールに訴えても無駄だ。彼の同僚にはゲイも多く、当然ながら皆が自分の性的嗜好をカミングアウトしている。同性愛者としての道をまっとうに生きているポール。おれの言い分が理解できないのも無理はない。

「もっと自分のことを真剣に考えてよ……きみがずっとそんななら、ぼくは……一緒に居るのが困難に思えてくる」

 ポールは目を潤ませ始めた。勢いで言っているのだろうが、さすがにこれは楽観できない展開だ。

「いや、ちょっと待ってくれ。おれだって何も考えてないわけじゃないさ」

 無言でおれを見ているポール。その顔には“何も考えてないくせに”と書いてある。

「本当さ。さっきもネットでいろいろ調べてたんだ」

 おれはマッキントッシュの前に彼を座らせ、セクシーな女性のサイトに飛ばないよう、注意深くブラウザを操った。もしここで巨乳のポップアップ広告が飛び出したら、おれの命は今夜限りとなるだろう。

「自分に向いた洞察の方法があるかも知れないと思ってさ。ゲイ向けの書籍とか、電話相談とか……。同性愛のコンテンツがこれだけ充実してるのも驚きだよな。きっと“ゲイ専用教会”ってのも近いうちに…」

「これは?」

 ポールがタブをクリックすると、シンプルなホームページが出現。タイトルバナーには〈恋人たちのインサイト・セミナー〉と書いてある。

 内容はゲイのカップルが互いの育成に励む勉強会のようなもので『真に愛し続けるために』『成長への取り組み』『より良い関係性』などという言葉が並んでいた。

「このサイトに興味を? 自分を洞察するために?」

 ポールの目が輝いたのをおれは見逃さなかった。ここぞとばかりに「まあな」と頷いてみせる。

「様々な角度から、客観的に自分を見つめられるかと思ったんだ」←というのは真っ赤な嘘。このサイトに足跡を残したのは、間違えて広告を踏んでしまったからに過ぎない。実際は五秒も閲覧しなかった。

「きみはこういうの苦手かと思ってたけど」とポールが言うのと、ほぼ同時に、おれは「関係性に助けになることがあれば、未知の分野でも飛び込んでみる価値はあるさ」と言い放った。

 これは別に嘘じゃない。自分の人生に真に役に立つのであれば、どんなドアでも開けてやろう。それが“人生に真に役に立つドアであるなら”だ。この手のセミナーは『驚くほど人生が変わる』とか『積極的な自分に大変身』だとか、魅力的な謳い文句で人を誘うが、おれはちっとも信じちゃいない。引っかかるのは、よほど純真か相当なマヌケ。自分はどちらでもなく、ポールだってそうだろう。ところが彼は食い入るようにサイトを見つめている。おれが『まあ、実際に受講するかは別だけどな』と注釈する前に、彼は「来週末なら、何とか休みが取れるかも知れない」と、画面を見ながらつぶやいた。そしておれの方に向き直り、「ディーン……」と、優しくささやきかける。

「セミナーに出るのは本当に勇気がいることだよ。それなのに“飛び込んでみる価値はある”だなんて……ちょっと驚いたけど、嬉しいな……すごく」

「うん、まあ、自分でも、そうだな、ちょっと驚いた」

「きみがぼくらのことを、こんなに考えていてくれたなんて思ってもみなかったよ」

 おれもこの瞬間まで思ってもみなかった。ここまで自分が考え無しだとは。

「参加申し込みは、ぼくの休みが取れるか確認してからでいい? たぶん大丈夫と思うけど」

 ああ、神様。どうかポールの休みが取れませんように。もしくはこの会社が破綻して、セミナーが中止になりますように。

 だいたい予想がつくだろうが、おれの願いが神に届けられることは滅多にない。ポールは無事に休みが取れて、セミナー会社は依然として健在だ。この週末、おれは〈恋人たちのインサイト・セミナー〉で過ごすことと相成った。



 ハドソン川を北上すること一時間半。自然公園内の宿泊施設でセミナーは行なわれる。受講料はひとり300ドルという法外な設定だ。

 長距離バスの中で価格へ不服を口にすると、ポールは「この手のセミナーの料金はこれくらいが相場だ」と、やんわり諌めてきた。

「たった半日だぞ? 何人参加するか知らないが、ぼったくりもいいとこだ」

「こういうのは、お金を払うところからコミットメントが始まってるんだってローマンが言ってた。誰かに支払ってもらって来るお客より、自腹を切って来る人の方が真剣味があるって」

「そりゃ真剣にもなる。誰だって300ドルをドブに捨てたくはないだろうからな。それ相当の価値を持って帰りたいと思うはずだ」

「ぼくたちも価値を持って帰りたいね」

「もちろん。そのために来たんだ」

 300ドルもあればいい食事が楽しめる。欲しかった腕時計が買えるなどとは考えない。ハミルトンでいいのがあったんだ。スーツにも合うデザインで、あれは確か300ドルくらいだったような……と、いうことは考えてはいけない。これは何より大切な、おれたちの関係性のための料金だ。金で未来永劫の信頼と親密さが手に入るなら安いもの。それに見ろ。ポールのこの嬉しそうな顔。これもまた300ドルがもたらす価値のひとつとすれば悪くない。彼は天使のような笑顔をおれの頬にくっつけ「きっといい週末になるよ」と、ささやいた。

 おそらく明日には自分もこんなふうに笑っているはず。大金を失って尚、微笑みを持ち続けるとは、いったいどんな講習なのか。現段階では少しも想像つかないが。



「ここは野戦病院か? おれたちが払ったのは300ドルで、300ペソじゃないよな?」

 部屋で荷物を下ろしたおれの第一声がこれだ。そしてポールの感想は「あまり素敵じゃないけど、ちゃんと掃除はしてあるし、まあ、こんなもんじゃないかな」

 着いた先にどんな五つ星ホテルが待ち受けているかと思えば、施設はボーイスカウトが泊まるようなコテージだった。用意された部屋は狭苦しいこと、この上なく、ベッド二台でスペースはいっぱい。バスタブはなく、シャワーのみで、テレビはロビーに一台きり。もちろんケーブルは入っていない。皆がくつろげるようにと配置された長椅子は固く、冷戦時代のソビエトを思い起こさせる。良く言えば清貧。悪く言えば『カネ返せ』。

 ポールはさっさとジャケットをハンガーに掛け、「重要なのはセミナーの内容で、部屋じゃない」と、極めて正しい意見を言った。

「そりゃそうだが……」おれはため息をつき、カーテンを開ける。三階からの展望はよく、湖と山並みが一望できた。現在のところ最高と言えるのは景色だけ。心安らぐ風景であることは間違いない。おそらく、これくらい風光明媚な場所でなきゃ、自己啓発の苦行と施設の酷さには耐えられないんだろう。

「これで食事がひどかったら、拳銃自殺だな」

「ディーン」ポールが強くおれの名を呼んだ。

 ああ、今のはまずかった。心の中で言ったつもりが、声に出ていたらしい。おれはごめんと謝り、もし食事が悪かったら、どこかに食べに行こうと提案した。

 するとポールは顔をしかめ「この辺り、歩いて行ける距離にお店はないよ」と言う。「街に出るバスは一時間に一本だけ。パンフレット、読んでないね?」

 今回の取り組みについて、恋人はあまり熱心じゃないらしいと、ポールは薄々、気がつき始めている。セミナー開始前に不機嫌になられるのは、どう見積もっても、いいことじゃない。

 おれは務めて明るく「予備知識なく入った方がいい場合もある」と言ってみた。「映画なんかそうだろ。先がどうなるか知らないでいた方が、感動が大きい。部屋に関しちゃ想定外だったが、受講内容についての知識は極力入れたくなかったんだ」

「確かにそうかも。先に内容を知ってしまったら、きみは予習しかねないしね。まっさらの方が、きみにとってはいいに違いないよ」

「さすが、おれのことをよくわかってるな。講師よりも優れた洞察力なんじゃないか?」

「そりゃあそうさ。彼氏だもの」

 ポールは得意そうに言い、荷物をクローゼットに詰め始めた。

 講師よりも優れた洞察があるのに、わざわざここへ来た目的はなんだろう? おれはセミナーについて何も把握しておらず(パンフレットを読んでないんだ)これから起きる出来事について無頓着だった。当然ながら、おれは未来予知ができるわけじゃない。だから現時点ではまだ呑気だ。もしわずかでも知っていたら、こんなところへ来たりはしなかったはずだ。



 セミナーが行われるのは、一階にあるホールだ。椅子や机の類いはなく、壁の一面が鏡になっていて、手すりがついている。普段はバレエやダンスの教室に使われているのだろう。講師はヒスパニック系の女性で、年齢は四十代くらい。ドーラと名乗った彼女は、ゆったりしたジャージ素材のパンツと、Tシャツにパーカーを羽織って現れた。ヨガ講師のような格好と穏やかな微笑みで、参加者に安心感を与えてはいるが、目に鋭さを有してもいる。

 受講生は円になって床に座らされ、まるでネイティヴ・アメリカンの集会のようだ。パイプを回す儀式こそないが、それなりに神妙な面持ちになってくる。するとドーラは「みなさん、よく訓練されてますね」と笑って言った。「“こういうときは静かにするのがルール”。そうですか? 誰がそんなことを言ったんでしょう?」

 ドーラはハキハキと話し、目から鋭さは消えていた。四十代くらいだと思ったが、よくみると五十代、いや、もしかしたら六十はいっているかもしれない。

「このプログラム中は様々な感情があなたの中に湧き起こってくることと思います。みなさんは、そこに注意を払ってください。自分の中に巻き起こる感情に目を向けること。それがここにいる間の約束事です」と微笑みかける。

「今言ったことがもっとも大事で、これさえ覚えていれば問題ないわ。後の内容は忘れてくれても構いません」

 彼女がジョークを飛ばすと皆が笑い、場の雰囲気は一気にほぐれた。ドーラはチャーミングで好感の持てる講師だ。

「みなさん、ご自身のパートナー以外は初対面ですね? さあ、お互いの顔を見て。遠慮は無用です。『人のことをジロジロ見るんじゃありません』なんてことは、ここでは忘れていいんです。思い切り他人に興味を持ってみましょう。今週末を一緒に過ごす人たちは、どんな人たちでしょう?」

 その言葉を塩に、受講生たちは互いを見始めた。参加者は二十代から四十代のカップル。全員が同性愛者のため『コーラスライン』のワンシーンのように、ゲイをカムアウトして泣くという展開は見込めない。

 おれたちは胸に名札をつけていて、現時点で明らかになっているのは、名前と性別と顔のみだ。セミナーが終わる頃には、全員と親しくなって、連絡先を交換するまでになるのかもしれない。

 ドーラは円の周りを回り「これからするのは“自己紹介”ではなく、“他者紹介”です」と説明を始めた。「あなたパートナーのことを、皆に紹介してください。思い切りノロケてもいいんですよ。その逆に、悪口を並べ立てても構いません」

 聴衆に再度、笑いが起きる。彼女はスピーチの最後にオチをつけるのが好きみたいだ。

 カップルはひとりひとり挙手し、自分のパートナーを紹介し始めた。年齢や職業といった情報を開示する者もあれば、知り合ったときのエピソードを話す者もいる。ボーイフレンドの悪口を並べ立てる者は、今のところいないようだ。

 基本的なマニュアルに沿って進行していくプログラム。実はこの手のセミナー、おれは初めてではない。営業時代に似たようなものを受講したことがあり、それは業績を伸ばすための『ビジネスセミナー』というやつだ。互いに発言し、意見を聞き、ちょっとしたゲームなどのやり取りから、自分が持っている才能や、欠けている部分を見つけ出す。学生時代にやったブレインストーミングなども同じようなもの。おれは人前で話すことに抵抗はないし、上手くこの週末を乗り切ることができるだろう。

 そんなことを考えていると、ドーラが「ディーン」とおれの名を呼んだ。「あなたの彼氏はどんな人かしら?」

 ぼんやりして話を聞いていなかったのがバレたらしい。おれは不真面目の汚名を返上すべく居住まいを正し、「彼はポール・コープランド」と話し始める。

「彼の職業は美容師だ。仕事熱心で、また腕もいい。とても気が利くのと高い技術力で、多くの顧客を抱えてる。今言ったのは社会的に認められている彼の素晴しい点で、もっと個人的なことを紹介すると、ポールの笑顔はチャーミングだし、一緒にいるのが楽しくて仕方ない。おれは元々ゲイじゃなかったんだが、彼と出会って寝返ったほどだ。もし相手がポールじゃなかったら、自分はストレートのままだったに違いないね。後にも先にも、彼以外の男はいないし、興味もない。おれの知る限り、彼はもっとも魅力的な恋人だ」

 話し終えると、周囲から温かな拍手が湧いた。聴衆の中にはうんうんと頷いている奴もいる。これぐらいのスピーチは職業柄お手のモノだ。

 拍手が鎮まると、ドーラはポールを促した。

「ディーンはあなたに相当お熱みたいね? あなたはどうかしら?」

 皆の視線が一斉に注がれ、彼は「ええと……」と口ごもる。

「ぼくのディーンは……その……」

 さあ、ポール。言えよ。恥ずかしがるな。パートナーの素晴らしさを存分に語る時間だぜ。

「ディーンはとっても……優しいです」

 だよな。

「とてもハンサムだし」

 うん、その通り。

「絵画販売の会社に勤めてます」

 そこでポールは沈黙し、ドーラが「他には? もうおしまい?」と聞くと、小声で「はい」と答えた。

「ありがとう、ポール。では次の人…」

 え? ちょっと待てよ、それだけなのか? てゆうか、それでいいのか? 講師は続きを促さないのか?

 おれの混乱をよそに、セミナーは進んで行く。注意して聞いてみると、これはうまくしゃべることが目的ではないらしい。内容に関してチェックが入ることはなく、指摘されるのは「声が小さくて聞こえません」ということぐらいだ。

 最後のひとりは「ぼくのボーイフレンドはここにはいません」と皆を驚かせる発言をした。なんでもパートナーが体調を崩したとのことだが、彼としてはどうしても参加したく、ひとりでも来ることに決めたのだそう。その勇気に皆が拍手をしたが、セミナーの進行として、これはやりにくいのではないだろうか。カップルであることが原則のプログラムでは、パートナーと組んでやる実技もある。おれが主催者なら断わるところだが、ここの会社は参加を許した。参加費を返却したくないのか、それとも熱意にほだされたか。ひとりで来た彼の名前はボビー・ベイントン。平凡な名だが、内面は勇者なのかもしれない。

 他者紹介が終わると、すぐに別のプログラムに入る。「皆さん、リラックスしてますか?」とドーラは訊ね、「してなくても進めますよ」と、にっこりする。

 次もまた、ひとりひとりが発言する実習だ。意見を発する側は“ホットシート”に座り、それ以外の者は“コールドシート”へ。コールドシートに居る間は発言権はなく、ただ黙って、ホットシートの言葉に耳を傾けるのみ。自由にディスカッションせよと言われるまで、口を開いてはいけない決まりだ。

「それでは」とドーラ。「皆さんはなぜここに来たのでしょう? 当セミナーの参加目的を聞かせてください」

 ううむ、そうきたか。おれには“参加目的”なんてものはない。できれば来たくなかったし、宿泊施設を見たら帰りたくなったほどだ。なぜここにいるかといえば、痴話喧嘩を回避すべく、その場しのぎで言ったことが実現化したからに過ぎない。

 思った通り、皆は「パートナーとの相互理解のため」とか「よりよい恋人同士であるために」などの模範的な回答。中には「掃除の当番を無視した罰として、無理やり連れてこられたんだ」と笑いを取るものもいる。

 ホットシートのポールは「彼が来たいと言ったから」と理由を述べた。「ディーンは“関係性に助けになることがあれば、未知の分野でも飛び込んでみる価値はある”って。だから参加の手配を」とおれを見る。その嬉しそうな表情ときたら。これではとても正直なことは言えない。事の顛末を面白おかしく話してやろうと思ったが、それをやったらウケは取れても、ポールからの信頼は失ってしまうだろう。爆笑王になることは諦め、ここにいる皆同様、おれも模範的な回答でお茶を濁すことにした。

 全員の動機が出揃うと、ホットシートとコールドシートが解除され、参加者は一様にホッとした表情になる。“口を挟んではいけない”というのは、思いのほか苦しいと、皆が知ったようだ。

 これまでの発言にレスポンスを返しても構わないとドーラが言うと、真っ先に手を挙げたのはボビー・ベイントンだ。

「ぼくが思うに、みんなはそろそろ正直になってもいい頃なんじゃないかな」彼は顎の下で手を組み、司令官のような表情でそう言った。「ここでずっとナイスに振る舞っていてもいいだろうが、そんなことをするために来たんじゃないだろう? 本当の価値を取りに行く勇気を出すときだ」

 穏やかならざるボビーの意見に、顔を見合わせるカップルもいる。おれとしては“ちょっと面白くなってきたな”という感じだが、進行係もかくやの彼の発言を、ドーラはどう感じているのだろう。彼女を見ると、さきほどと変わらず薄い笑みを浮かべているばかりで、何も言うつもりはないようだ。

「皆はどう思う? こんなところまで来て格好つけて、それで帰るっていうのか? 本心に辿りつかず?」

 熱を込めて話すボビーが、不意にこちらを向いた。

「たとえばきみだ、ディーン」

 ん? おれ?

「きみの発言はなんだかわざとらしい、いい子ぶった回答に聞こえたよ。スピーチを準備していたのかもしれないけど、ここは本心を話す場所だ」

 突然の攻撃に、おれは戸惑い「どういうことだ?」と説明を求めた。「きみはおれが嘘をついてるっていうのか?」

「そうは言わない」とボビー。「ただ、きみの言葉はぼくの心に響いてこないんだ」

「それはそっちの問題じゃないのかな。どう伝えればきみの心に響くのかわからないが…」

「みなさん」おれの言葉を遮ったのはドーラだ。「いいですか。ここでは何を言われても個人的にとらないように。自分の内面に何が起きているかを観察してください。お互いはお互いの鏡です。さあ、目を閉じて。落ち着いて深呼吸してください」

 皆は彼女に従った。もちろんおれも。目を閉じる直前、こっちを睨むボビーと視線がかちあう。

 確かにおれは“ナイス”だったかも知れないが、それのどこが悪いんだ? いい子ぶった回答はおれだけじゃない。『よりよい恋人同士であるために』と言ってのけた奴もいるのに、どうしてあえて、おれを名指しする? それにドーラ。彼女はセミナーを進行しているだけだ。おれとボビーを取りなそうともしない。ここの講師は楽なんだな。これで金がもらえるなんて、ずいぶんいい仕事じゃないか。

 深呼吸の瞑想の後は、昼食の時間だ。大学のカフェテリアのような場所で、受講生たちに振る舞われたのは、乾いたチキンサンドとしなびたフライドポテト。いったい300ドルはどこに消えたんだ?

「前半はどうだった?」とポールが訊くので、おれは「まあまあだ」と答えた。

「“まあまあ”ってどういう意味? まあまあ良し? まあまあクソったれ?」

「その中間だ……。ああ、どうやらコーヒーはまともだな。ちゃんとした豆を使ってる」

「さっき怒ってなかった?」

「いいや」

「そう?」

「別に怒っちゃいないさ」チキンサンドに噛み付き、おれは言った。「いろんな意見が出るのは当然だ。でも講師はちょっとな。おれとボビーの緊張が高まってきたとき、ドーラは具体的に何も言わず、ただ流れをブッた切ったろ。少し様子を見るでも、間に立って取りなすでもなく。あれはどうかと思ったよ。もっとマシな対応ができなかったんだろうか」

「ぼくもそれには同意見だけど……」

「だけど? なんだ?」

「“このセミナーがどうあるべきか”って判断するんじゃなく、自分の中に巻き起こる感情に注意を向けることがポイントなんだと思うけど」

「そうか、そうだったな。で、きみの方はどうだ? まあまあ良し? まあまあクソったれ?」

「ぼくはまあまあ良しだね」

「発言が短かかったようけど、そこは問題ないのかな」

「問題って?」

「いや、こういうところでは多く発言を求められるのかと思ったから。パートナー紹介のとき、あまりおれのことを多く話さなかっただろ」

「ああ、あれ。なんだか、とっさに思いつかなかったんだ。上がり症なのかも」

 ポールの順番はおれの後だ。それはさほど“とっさ”でもないと思うが……まあ、こういう場で緊張するというのは頷ける。それにしても、ポールが上がり症だとは知らなかった。パートナーの知られざる一面を知ることができたのはいいことだ。



 早起きをしてバスに揺られ、見知らぬ場所で初めての人たちと話し合う。この状況で腹がいっぱいになれば、眠くなるのは自然のなりゆきだ。それを予測してか、午後のプログラムは睡魔を吹き飛ばすような内容だ。

「ここからは“恐怖”について取り扱います」とドーラは言った。円の周りを歩いて回ることはせず、皆と同じように円座の一員として座っている。

「心の奥にある恐怖について話してください。何が怖いですか。あなたが恐ろしいと感じることについて話してください」

 ルールはさきほどと同じ。ホットシートが発言をし、コールドシートは沈黙を守る。

「誰からでもいいですよ」ドーラが促すと、メガネをかけた男性がサッと手を挙げた。

「ぼくの部屋はとても散らかっているので、それを人に見られるのが恐怖です」そして照れ笑いをし、隣にいるパートナーと顔を見合わせる。「でも彼はそういうところでぼくを判断しない。だから、安心して部屋に招き入れることができるんです。ぼくに恐怖心を抱かせない、素晴しいボーイフレンドです」

 おいおい、結局ただのノロケじゃないか。“恐怖”はどこへ行ったんだ。

 そう思ったところで、ドーラが「自分の心をよく探ってください」と忠告した。「皆さん、心の深いところに入っていってください。真の恐れはずっと深いところに隠されているんです」

 次は五十才代の男性だ。名札には『ビル』と書かれている。

「自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うんですが」と、ビルは苦笑しつつ前置きをした。聞けば、彼は子供の頃に母親からクローゼットに閉じ込められて以来、なんとなくクローゼットが恐ろしいという。

「お母さんとの関係はどうかしら?」とドーラが訊ねる。

「母はもうずいぶん昔に亡くなっています」とビル。

「あなたが恐怖を感じているのはクローゼット? それとも母親の威圧的な態度?」

「たぶん……後の方だと思います」

 それからの時間はビルと母親との関係性を取り扱い、最終的には受講生の多くが大量のクリネックスを必要とすることになった。ビルの母親は心を病んでいて、息子をひどく虐待していた。しかし子供だったビルは母親を愛していたので、彼女を庇い、他人からの助けを拒んだのだ。

 子供のように泣きじゃくるビルを見て、こちらも胸が痛くなった。おれがクリネックスを使用するところまでいかなかったのは、単に羞恥心の問題だけ。心の中では間違いなく彼と一緒に泣いていたと思う。

 次に名乗りを上げたのは、この部屋で一番若いジョエル。

「ぼくの恋人が、他の人に取られちゃうんじゃないかって……そのことがすごく心配なんです」

 “他の人にとられちゃうんじゃないか”と紹介されたジョエルのパートナーは、往年のエルヴィスを彷彿とさせるルックスに、脂肪を20ポンド追加したような男。思わず「きみの心配は杞憂だ」と肩を叩きたくなるような悩み事だ。

 しかしドーラはそんなことは言わず「他の人に取られたらどうなると思いますか?」とジョエルに質問をした。

「ええと…ひとりになっちゃいます」とジョエル。

「ひとりでいることに問題がありますか?」

「それはそうです。寂しいですから」

「孤独があなたの恐怖ですか」

「はい」

「それではそのことを見つめてください。“恋人が他の人に取られる”というのは、ただの“出来事”に過ぎません。“散らかっている部屋を人に見られる”というのも同じです。見られることの何が恐怖ですか? 見られたらあなたはどう感じるのですか? もっと深く入っていってください」

 なんだ、ドーラはやればできるんだ。ようやく本領発揮ときたか。講師は進行係とは違うんだし、こうでなけりゃ、金を払った意味がない。

『もっと深く』という言葉がプレッシャーになったか、ぱったりと挙手は止み、その沈黙の中、生徒の顔を見回すドーラと目が合った。

「ディーンはどうかしら? あなたの恐怖を教えてくれる?」

 皆の注目が一斉に集まる。『さあ、こいつは何を言うんだ?』という視線を感じつつ、おれは「自分はそういうのはないと思います」と答えた。

「ない?」

「“まるっきりない”ってのとは違うんですけど、それはあくまで一般的なレベルの話で……。例えば“失業したらどうしよう”とか、“癌になったら嫌だ”とか。そういうのって誰でもあるでしょう?」

「“誰でも”かどうかはわからないわ。それがあなたの恐れなの?」

「まあ、そう言えばそうです。でも普段は気にかけたことはないな。恐怖といってもその程度のことで」

 すると突然、「ちょっといいかな、発言しても?」と声がした。口を開いたのはボビー・ベイントンだ。“コールドシートは沈黙”の決まりを破った彼を叱るでもなく、ドーラは何食わぬ顔で「ええ、いいわよ」と承諾した。

「ぼくが思うに、ディーンは“恐怖”を隠していると思います」

 ボビー、ボビー、ボビー、またおまえなのか。おれのことを嫌いだってのはよくわかったから、いちいち個人攻撃するのはやめてもらえないか。

「それはどういうことかしら? ディーンに向かって説明してあげてくれる?」

 彼はおれの方を向き、真摯というにはあまりにも厳しい目つきで「きみは一体ここに何しに来てるんだ?」と言った。「ここは心を開く場所だっていうのに“癌になったら嫌だ”だって? きみは上手く参加しているつもりかもしれないけど、それは少しもきみの助けになっていないよ」

 ボビーはまくし立てたが、おれは同じ勢いにはなり得ない。腹立たしい気持ちはあるが、だからといって彼のように、初対面の人間に失礼なことを言うようなことはしたくなかった。

 おれはうんざりしながらも、それを表情に出さないようにし、「ありもしない恐怖をデッチあげるつもりはない」と彼に言う。「いったい何を話せば満足するってんだ? おれには虐待の経験もないし、仕事も恋愛もうまくいってる。過去には心に傷を負ったこともあるが、そんなのはすべて終わったことだ。長らく引きずっている問題など、ありはしないんだよ」

 なんとかわかってもらおうと、わかりやすく説明したつもりだが、ボビーは気に入らなかったようだ。「きみの言うことは、深く心に入っていった結果とは思えない」と決めつけ、「上っ面だけで参加するのはもうやめたらどうだ? それじゃ、あんまりパートナーが可哀想だ」とポールに同情的な視線を向けた。

 おれはますますもって呆れ、「どうしてきみがポールのことをわかるって言うんだ?」と聞き返す。

「きみの態度だよ」とボビー。「“おれは最高、おまえらは残念”って思ってるのが伝わってくる。そういう心持ちでいるのはどういう感じなんだ?」

「ボビー、きみはここで頑張っているところを人に見せたいのかもしれないけど、おれを攻撃してもいいことはないぜ?」

「攻撃してるわけじゃないさ」

「いいや、してる。午前中もおれを名指ししたよな? 他の受講生じゃなく、意図しておれを選んでるだろ」

「それはきみが人を見下してるからだ」

「見下してるのはそっちだろ!」

 ホールに怒鳴り声が響き、その後は沈黙が訪れた。

「いつもこうだ」おれは小声でつぶやいた。「こっちは普通にしてるのに、格好つけてるだの、人を見下してるだの……」

 ドーラは黙ったまま。そして彼女の代わりの口を開いたのは、やっぱりボビーだった。

「いいかい、ディーン。ぼくが思うに、それはきみの抑圧の……」

「抑圧なんかされてない! もう充分だ! こんな馬鹿馬鹿しいことやってられるか!」

 立ち上がり、パーカーを引っ掴んで、部屋を出て行く。背後に生徒たちのざわつく声が聞こえたが、おれは無言で歩き続けた。なにが“成長への取り組み”だ。なにが“より良い関係性”だ。来る前よりよっぽど悪い状態にさせるなんて、とんだセラピーもあったもんだ。

 恐怖を持っていないことの何が悪い? いや、強いて言うなら、おれが恐れを感じるのはこの場所だ。よく知りもしないで人のことを判断して、ベラベラと勝手なことを並べ立てる。ああそうか、恐れをなして部屋から飛び出したおかげで、おれの抑圧が証明されたってわけだ。あいつら今頃、大喜びしてるだろうな。

 怒り心頭で荷物をまとめていると、ポールが部屋に戻ってきた。

「ディーン……大丈夫?」

 おれはパーカーをバッグに詰めながら「悪いが帰る」と宣言した。「止めたって無駄だぜ。もう決めたんだ。あと一秒だって、こんなところにはいたくない」

「うん、わかった。じゃあ一緒に帰ろう」

「え?」

「きみが帰るなら、ぼくも帰るよ。このセミナーは失敗だった。そうだよね?」

 あまりに潔く彼が言うので「怒ってないのか?」と訊くと、「怒る? どうして?」と問い返された。

「だってその……おれがセミナーを途中で放棄して……てっきりきみはガッカリしたかと」

「ガッカリしてないし、怒ってもいないよ。ぼくも荷物をまとめるから、ちょっと待っててね」

「ああ……うん」

 バス亭までの道のりは、来たときよりも長く感じた。舗装されていない真っすぐな道路。空はどこまでも青く、羊のような雲がぽっかりと浮かんでいる。甘い花の香りと共に運ばれてくるのは、チチチと鳥のさえずる声。外の世界は馬鹿みたいに平和だ。しかしおれの心は今もって平穏ならざるところにある。

 いったい何が理由でボビーがおれに突っかかってくるのかは分からないが、こっちは責められる謂れなんてこれっぽっちもない。おれは完璧な人間じゃないが、現状には満足してるんだ。身体も、心も、どこも何も変えたいとは思わない。

 バス亭のベンチから湖を眺めていると、ほとんど無意識に「ここは美しいな」と感想が漏れた。「せっかく湖の近くのコテージなのに、部屋の中に籠ってるなんて馬鹿みたいだ。せめて室内じゃなくて、湖のほとりとか、青空の下で話し合えば、もうちょっとマシな成果が得られるんじゃないのかな」

 ポールも湖を見つめ、「うん、ほんと、そうだよね」と、おれの意見に同意した。

「あ、見て、橋のところにカルガモがいる」

「どこだ?」

「右の方、橋の……」

「ああ、わかった。親子かな?」

「たぶんね」

 こうやってカルガモの親子を眺めてる方が、セミナーよりもずっと健全だ。バスが到着し、おれたちは一番後ろの座席に腰を下ろした。この手のバスに乗ると、いつも『真夜中のカーボーイ』を思い出す。あの映画を見たのは高校の頃だったか。そのときは自分がゲイになるなんて思いもしなかった。主人公のジョーも、友人のラッツォを愛したことは予想外のこと。映画では彼の混乱がとてもうまく表現されていた。

 腕時計を見ると、三時を少し回ったところだった。時計つながりで思い出したのは、ハミルトンのジャズマスター。セミナーなんかに金をつぎ込まず、欲しかった腕時計をハナっから手に入れていればよかったんだ。

『自由なき人生なんて、惨めなもんさ』と言ったのは、ハミルトン社の由来となった、アンドリュー・ハミルトン。アメリカに生を受けたおれには自由のない暮らしなど想像もつかないが、同性愛を隠し続けたり、言いたい事を言えなかったりするのは、かなり惨めで不自由だろう。おれ自身、自らを隠してはいるが、それは自分の意志でそうしている。だから不自由さは感じていない。いったいそれのどこが悪い? ボビーは責めたが、あいにくおれは自分のことが気に入ってるんだ。おまえらは残念にもそうじゃないのかもしれないが───。

 そう思った瞬間、ボビーの言葉がフラッシュバックした。

『“おれは最高、おまえらは残念”って思ってるのが伝わってくるよ』

 おいおい、何だ今のは? おれは何を考えた? “おまえらは残念にもそうじゃない”だと? その言いっぷりはまるで……“おれは最高、おまえらは残念”みたいに聞こえるじゃないか!

 待てよ。そうだ。おれは最初からこう思ってただろ。『この手のセミナーに引っかかるのは、よほど純真か相当なマヌケだ』って。“こんなところに来る奴は”と、無意識でラベルを貼っていた。そうしたおれの思いが、参加者たちに伝わっていなかったとでも? あの場では誰もおれを理解しないと思っていたが、そんなことはない。こっちの思いは皆に筒抜け。ボビーはそう言いたかったんだ。あの部屋でおれのことに気付いていなかったのは……もしかしたらそれは“おれ自身”なのか?

 ええと、ボビーは他に何と言ってたっけ? そうだ『ディーンの発言はわざとらしくて、いい子ぶった回答に聞こえた』と言ったんだ。それについておれは『いい子ぶることの何が悪い?』と考えた。しかしよくよく思い返してみると、ボビーは“いい子ぶることが悪い”とは言っていなかった。そう受け取ったのはおれだ。なんだか責められたように感じたんだ。

『上っ面だけで参加するのはもうやめたらどうだ?』とも彼は言った。あのときおれは『職業柄これぐらいのスピーチはお手のモノだ』と思っていた。それはまさしく“上っ面”だ。そしてドーラの提示したルール、『何を言われても個人的にとらないように。自分の内面に何が起きているかを観察してください』というのを無視してもいた。おれの注意はボビーにあり、“自分の内面に何が起きているか”については、観察する余裕が生まれなかった。

『お互いはお互いの鏡』ともドーラは言った。おれはボビーに『きみはここで頑張っているところを人に見せたいのかもしれないけど』と言った。もしボビーがおれの鏡なら、おれは“ここで頑張っているところを人に見せたい”と思ったのだ。人に? 誰に? それは“ポールに”だ!

 沸き上がってきた真実にショックを受けていると、ポールが「何か考え事?」と聞いてきた。おれが「ああ」と返事をすると、「セミナーのこと?」と推測する。

「そうだ」

「やっぱりね。でももう終わったんだ。きみは何も気にすることはないよ」

「いや、気にしているとかではなく、たった今、気がついたことがあって…」

「あんなところだなんて思ってなかったからびっくりしたよね」ポールは鼻っぱしらにシワを寄せて笑った。「秘密がどうとかって“なにそれ?”って感じだった。誰だって隠し持ってることのひとつやふたつあるのは当然なのに、ああいうふうに人の心を強制的にあばくなんて、ずいぶん乱暴な話だよ」

「別に強制的ってことはないんじゃないのか? 嫌なら発言しなくたっていいんだし」

「そういうわけにはいかないよ。そんなふうだと、“心を閉じてる”って判断されるし」

「判断だって? 誰がだ? あいつらか? そんなの放っとけばいいさ。知ったことか」

「きみはそうかもしれないけど……」

 ポールは言葉を濁した。“きみはそうかもしれないけど”? その後の発言はなしか? “きみはそうかもしれないけど、ぼくは…”と自分自身の話に続くんじゃないのか?

 彼は発言を続けたが、それは自分についてではなく「ボビーみたいな人は大変だと思うよ」から始まり、「他人のことをああまで気にするのは疲れるだろうし、そういう人はこういうセミナーには向かないんじゃないかと思う」と説明する。「セミナーはもっと彼のような人に配慮すべきだよ。でないとあんまり気の毒だ。お金の無駄になりかねない」

 なんだこれは? いったいどうなってる? ポールが今しているのは、“このセミナーがどうあるべきかと判断すること”。でも彼はおれに向かって『このセミナーがどうあるべきかを判断するんじゃなく、自分の中に巻き起こる感情に注意を向けることがポイント』と言ったんだ。

 ポールは苦笑し、「きみのために良かれと思ったけど、セミナーに来たのは失敗だったみたいだ」と結論づける。

 “きみのために”だって? “おれたちのため”じゃないのか? そういえば、ポールはセミナーに参加する前から、ずっとおれに注視していた。“自分自身に”じゃない。“おれに”だ。ここへ来てからも彼は言ってたじゃないか。『きみは』『きみに』『きみが』『きみ』『きみ』『きみ』『きみ』……。

 振り返ってみると、いくつも思い当たる。あの場でポールは自分のことをほとんど語っていない。つまりこのセミナーが本当に苦痛だったのは、おれではなく……。

 おれはポールの腕を掴み、叫んだ。

「戻るぞ!」

「え?」

「会場に戻るんだ! 運転手さん! バスを止めてくれ!」

「ええぇ!? ディーン!?」

 セミナーやボビーに文句を垂れて週末が終わるなんて、馬鹿らしいにもほどがある。おれたちは最初にこう言ったんだ。『ぼくたちも価値を持って帰りたいね』『もちろん。そのために来たんだ』と。

 それはほんの数時間前の決意。おれは確たる価値をここから得る。このままじゃ300ドルをドブに捨てるようなもの。そんな無駄は絶対に避けるべきなんだ。



 おれとポールが戻ると、ドーラは「あら、早かったのね」と言ったきり、特に構うことはしなかった。きっとこういうことはよくあるのだろう。拍子抜けしたが、おかげで楽に円座に入ることができた。戻ってきたことを褒め称えられることも、嫌味を言われることもない。その両方を予想していたのだが、現実は違った。おれはいつもこうだ。『こう言われるだろう』と勝手に妄想し、予測される結果を回避するために、何も表現しなくなる。会場から逃げたりすることがいい例だ。そしてポールとの関係性でもそれは頻繁に行われる。『きっとポールはこう言うだろう』と予測し、そして『だから余計なことは言うまい』と続く。ここに来たそもそもの原因もそれだ。自分の性的嗜好をカミングアウトしないことについて、ポールに説明することをしなかった。なぜか。『そんなことをポールに訴えても無駄だ』と信じていたからだ。

 ボビーが言った通り、おれは人を見下してる。パートナーに対して真剣に関わる代わり、“真剣に考えている振り”をして、間違えてバナーを踏んだセミナーに行きたがっている振りをした。『それじゃ、あんまりパートナーが可哀想だ』。そう言ったボビーは正しかったのだ。

 おれはバスの中で気がついたことをひと通り話した。皆はそれを黙って聞いてくれた。『いい子ぶった回答』とも『とも『言葉が心に響いてこない』とも『上っ面だけで参加している』とも言われない。すべてを言い終えたとき、おれはずいぶんとスッキリした気持ちになっていた。もう誰にどう思われようと構わない。いかなる暴言を投げつけられたとしても、今ここにある心地よさは消えないだろう。

 次なる発言者は当然、もうひとりの方だろうと、皆の視線がポールに集まる。彼がやりづらそうな表情を浮かべると、ドーラが「話したくなかったら話さなくてもいいのよ」とフォローする。しかしポールは勇敢にも「話します」と言い切った。

「さっきディーンが……“おれが恐怖を感じるのはこの場所だ”……と、彼が叫んだとき……ぼくもまったく同じことを思ったんです。ぼくはここが怖い。ここにいると自分について話さなくてはならないから。ここで自分の言葉を聞くことがぼくの“恐怖”です」

 ポールは床を見たり、天井を見たりしながらも、懸命に言葉を紡ぎ続けた。自分の発言を耳にすることが苦痛なようだったが、それでも彼は表現することをやめようとはしない。

「ぼくはここで人のことを……ディーンのことを気にかけていれば、自分についてを見なくて済むと……。ディーンさえ変わってくれれば、すべてうまくいくんだって思ってた。でも、ぼくは誰かを変えることはできないし……」

 ポールはときどき頑固で、物事を人の(おれの)せいにする傾向がある。『どうしてきみって人はそうなんだ?』批判の裏側に隠れていたのは“恐れ”という感情だった。

 そしておれは彼とは真逆の方法をとる。物事を簡単に自分のせいにするんだ。『わかった、おれが悪かったよ』その後、内心ではこう続く。『それでいいんだろ? 納得したか? だったらこの話は永遠に終わりだ』

 自分が被ることで、他人との関わりを断ち、話し合いの余地すら与えない。これまで何人もの女性と別れてきたのは、この性格のせいだ。ポールはしつこく、またしぶといため、おれたちの関係は続いている。そうでなければ、とっくの昔に終わっていただろう。

「ディーンがカムアウトしないことについて、問題を感じてるのはぼくなんです」とポールは言った。「彼はカムアウトについて何とも思ってない。それなのにぼくは“彼がどうあるべきか”を押し付けてしまった。その原因はぼくの恐れにあって……彼に罪悪感を抱かせることで、彼をコントロールしようとした。でもさっき言ったように、ぼくは誰かを変えることはできない」

 話すうち、ポールの目には輝きが宿り、床や天井に視線を移すことはなくなっていた。今の彼は明晰で、声にも強い力がある。

「ぼくがベストと思う行動を、人がとらないことについて、ぼくはよくストレスを抱える。一番近くにいるディーンが、その最たるターゲットだ。ボビーの言葉を借りるなら、“それじゃ、あんまりパートナーが可哀想だ”ってね」

 ポールがボビーの口調を真似ると、皆は笑い声を立てた。これはいつものポール。気さくな口調で、温かみがある。自分の言葉を聞くことを怖がっていた男はどこにもいない。

 人間関係で問題となるのは、個々が抱える恐怖にある。相手に問題があると思うのは幻想だ。人のことばかりに目を向けると、他人に対する注意がおろそかになってくる。自分のことばかりに目を向けると、人に対する注意がおろそかになってくる。

 おれはうまくやることと、外側に怒りを燃やすことに忙しく、パートナーが何を感じ、どう行動しているかについては無頓着だった。一方ポールは、パートナーに意識を注ぐあまり、自分が何を感じ、どう行動しているかについて無頓着になっていた。この例からわかることは、自分の中にある恐怖から目を逸らす方法はいくらでもあるということだ。

 ポールが話し終えたとき、「きみたちが戻ってくれてよかった」と言ったのはビルだ。母親との問題をシェアした彼は「この話を聞けて、すごくうれしいよ。きみたちは勇気のあるカップルだ」と、おれたちを褒めちぎる。

 それはとても率直な言葉。何のてらいもなく、彼が本当におれたちのことを思ってくれたのだと分かる。皆の前で“勇気のあるカップル”などと言われ、照れくさかったが、嬉しさの方が多くある。どうやらおれも少しばかり、人間が素直になったみたいだ。

 気がつくとポールがおれを見ていて、その視線には“アイラブユー”と書いてある。ああ、とうとうやったぞ。これ以上の成果は望むべくもない。おれたちは目を見交わし、視線でキスをする。ここがハッピーエンドかと思いきや、ドーラは「外に食事の用意ができています」と言った。

 庭に出ると、この場所でセミナーをやった理由がようやくわかった。

 湖のほとりのバーベキュー。新鮮な肉と野菜とマシュマロを焼き、今日のことについて、ざっくばらんに話し合う。食材はすべて自然農法からなるもので、頑張って留まったかいがあったと受講生に思わせる、素晴らしい味だった。

 野菜ばかりついばんでいるかと思われたドーラは、威勢よく骨付きの肉にかぶりついていた。おれは彼女の隣に立ち、おれたちが戻ることがわかっていたのかと聞いた。唇を油で光らせたドーラは「激しい反応を見せる人ほど、ちゃんと戻ってくるものなのよ」と、事もなげに言った。「感情に揺さぶりをかけるワークショップだから、何らかの衝動はあってしかるべき。逆に終始ヘラヘラしている人の方が難しいわ。深く感じることを拒否しているということだから。あなた方はきっとまた来てくれると思ってましたよ。ただ、こんなにも早いとは想像してなかったけど」そして再び肉に取りかかる。

「きみ、ボビーとはもう話をした?」そう聞いてきたのは、ジョエルのパートナーのエルビス……ではなく、彼の名前はサムだ。

「ボビーと? いいや、まだだ」

「ぜひ話すべきだよ。きみらが教室を飛び出した後、ボビーは自分のことを話し始めたんだ。きみを追い出してしまったことについて、申し訳なく思うと言って、そこから自分を深く見つめていった。ボビーは泣いてもいたよ。きみとの対立は彼にとって、結果的によかったと思う……ああ、そこのトウモロコシが焦げそうだな」

 サムはそう言い、自分の皿に野菜と肉を救出し始めた。なんだかびっくりだ。サムが大食漢だからではない。ボビーのことだ。まさか彼が泣くなんて。それはおれを追い出した罪悪感なのか? もしそうなら訂正しなければ。おれは追い出されたわけじゃないし、サムの言葉を借りるなら、それは『結果的によかったと思う』ということだ。

 おれはボビーに近づき、「やあ」と声をかけた。ボビーは決まり悪そうに「ああ」と答えた。

「さっきのことだけど……」と言いかけると、彼は「本当にごめん」と即座に謝罪する。「まさかきみが出て行くとは思わなかったんだ。あそこはディスカッションしてもいい場所かと」

「いや、構わないさ。おかげでおれたち、重要な気づきを得ることができたんだから」

「それはぼくもだ」とボビー。「きみたちがいない間、皆には話したんだけど……ぼくがここにひとりで来た理由は、パートナーが体調を崩したからじゃない。実はこのセラピーに参加する直前に別れたんだ。ぼくたちの関係はうまくいってなかった。だからセラピーが必要だと思ったんだけど、彼は必要としてなかった。セラピーのことも、ぼくのことも」ボビーは寂しそうな笑みを浮かべた。「意地になってひとりで参加したはいいけど、やっぱり孤独を感じたよ。きみに反抗したのは、無意識にボーイフレンドの姿と重ねていたからなんだ。ぼくの彼は元々ストレートで、自分と付き合って初めてゲイになった。話し方の感じもきみとよく似ていて、なんて言うか……」

「腹が立った?」

「うん、まあ、そうだ。ポールを庇ったのはそういう理由だ。あのときは自分が何をしているのかわからなかった。ぼくの方こそ、“上手く参加しているつもり”だったんだ。でもきみが部屋を飛び出して行ったとき……思ったんだ。“ぼくの彼もこうやってぼくの人生から出ていった”とね。自分のどこに問題があるか、明確にわかった瞬間だったよ」

 ボビー・ベイントン。平凡な名だが、内面は勇者だ。自分の過ちを認め、手放し、先に進む。それは言うほど簡単じゃない。人の助けを借りることだってそうだ。集団の中で弱さをさらけ出すことは、現代社会において、間違ったこととされている。だからこそ、こういうセラピーが必要なんだろう。ボビーもおれも、“愚かさ”をさらけ出すことで、自分の問題に気付くことができた。仮想空間という安全な場所だからできたことだ。

 その後、おれたちはお互いマンハッタンから来ていたことがわかり、帰りは彼の車に乗せてもらうことになった。ボビーと連絡先を交換するこひとになるとは、数時間前には想像し得なかったことだ。

 バーベキューが終わって解散かと思われたが、最後にもうひとつ、実習があった。それは『自分に宛てて手紙を書く』というものだ。

 ドーラはレポートパッドを皆に配り、「自分に優しい手紙を書いてください」と言った。

「これはポストに投函しますが、届いてもすぐには開けないで。それは将来、あなたが本当に落ち込んだとき。“もう本当に終わりだ!”という場合に、開封してください」

 つまりこの手紙は“無期限のタイムカプセル”というわけか。緊急事態に開封される手紙。いくら面白ろかろうと、皮肉なジョークは御法度だ。落ち込んだ自分を窓から突き落としかねない。


===========================================

  親愛なるディーン。


  今、これを読んでいるということは、何やら最悪の事態が起きているようだな?

  まず深呼吸して、落ち着きを取り戻してから先を読み進めてくれ。

  そこにポールはいるか? いるならまだ“最悪の事態”じゃないはずだ。

  もしいないなら、それはかなり最悪の事態に近い。

  今すぐに彼の姿を見つけ、手を取って、愛情のこもった行為をすること。

  彼はきみの理解者だ。恋人としても、友人としても、美容師と客としても……

  どのような関係性であっても、彼が“信頼に足る男”というのだけは変わることはない。


  もしポールがおらず、ひとりぼっちだったら?

  安心しろ。世界が終わっても、おれはおまえの味方だ。

  どこにいても、何をしていても愛してる。

  信じられない? そうかもな。でも構わない。

  おれは今ここに“本当だ”と思えることを書いているだけだから。


  この手紙を開くことがないことを祈ってるが、もし開いたとしても大事ない。

  おれがチョコレート・ミルクシェイクを奢ってやるよ。

  

  世界の終わりまできみと一緒にいるディーンより。

===========================================


 宛名と差出人が同じという奇妙な手紙を書き終え、セラピーは無事(?)終了。

 おれとポールは帰宅するなり、熱い口づけからセックスに至り……ということはなく、シャワーも浴びず、眠りを貪った。こんなに疲れたのは何年ぶりだろう。運動の後とはまた違う疲労感。ベッドに倒れた直後、ポールは「愛してる」とつぶやいたが、それはほとんど寝言に近かった。セラピーの効果がでるのは、おそらく目覚めてから。比喩的にも物理的にも、そういうことだ。



〈恋人たちのインサイト・セミナー〉を受講した生徒たちは、皆、新鮮な気持ちで、今日という月曜を迎えたはずだ。おれは『リゾートで連れ回されるだけの、エスコートサービス』ではない。己を見つめ、解放し、より自由になった新しい自我をもって生きることを決意した男なのだ。

 その決心の現れとして、まずは職場のパソコンの壁紙を、ポールと並んで写っている写真に変えてみた。誰かが「これは?」と聞いてきたら、堂々と「おれの恋人だよ」と答えるつもりだ。

 しかし、数日経っても、壁紙について触れてくる者はひとりもおらず───。一週間を過ぎた頃、ようやくジェドが「そういえば最近、おまえにまつわる噂を耳にした」と振ってきた。

「噂って?」と、とぼけて聞いたところ、ジェドはニヤニヤして「おまえ、元はモデル志望だったそうだな?」と言う。

「は? モデル?」

「カルバンクラインのモデルになりたかったんだって? オーディションを受けたが、夢が叶わず、この会社に来たとか。まあ、おれも昔はスポーツライターになりたかった。文章を書くのがあまり得意じゃないと気付くまでは、そう思っていたさ」

 そうか、ジェドはスポーツライターになりたかったのか。そしておれは下着モデルになりたかったのか。どちらも初耳だ。

 おれは辛抱強く「他には?」と訊いてみる。「噂ってそれだけか? 他には何か聞かなかったか? 例えばおれの恋愛面で」

「ああ、あったな。そういえば」

「何だ?」

「姉から溺愛されてて、シスコンの気があるとか何とか。だから結婚しないし、恋人の噂もないってさ。おまえの姉さん、一度見かけたが美人だった。なあに、気にすることはない。彼女が姉なら、おれだってシスコンになるさ」

 なるほど。よくわかった。皆はおれに興味があるんじゃない。単に噂するのが好きなんだ。

 躍起になって訂正して回ったところで、また別の噂が流れるだろうし、暇な奴らから娯楽を取り上げるのも気の毒に思える。

 ジェドと会話した直後、デスクトップの壁紙を、緑なす丘と青空の写真に戻した。我がオフィスは今日も平和だ。


END

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