第25話:ディーンの親友(Something to Remember)

『冬、来たりなば、春は遠からじ(シェリー)』

 この句に慰めを見いだすには、マンハッタンの冬はあまりにも長過ぎる。通りを行き交う人々はロングコートやダウンジャケットに身を包み、厳しい冬を生き延びるべくの対策に余念がない。老若男女問わず、帽子とマフラーの間から、タバコの煙のような白い息を吐いていて、薄着でいるのはブロードウェイストリートの広告モデルと、セントラルパークの雪だるまくらいのものだ。

『冬、来たりなば、春は遠く、ホットチョコレートが恋しくなり、出勤はわずらわしい(上の句:シェリー、下の句:おれ)』

 とはいえ、誰もが心待ちにするホリディはこれからが本番だ。真冬のニューヨークは美しさにおいてベストシーズン。気温の低下に伴い、夜景はダイヤモンドの輝きを見せ、デパートは競うようにして装いを凝らす。インスタグラムやフェイスブックには、にわかフォトグラファーの作品がずらりと並び、そのどれもがクリスマスをテーマにしている。たとえ部屋に引きこもろうとも、今が12月であることを忘れることはできないだろう。

 仕事帰りにバーニーズに寄ろうと、いつもとは違うルートで帰宅する。目的はクリスマスギフトではなく、自分用の買い物。防寒のために、エルム街のフレディみたいな手袋が欲しいと思っていたところだ。

 五番街をまっすぐ上ると、サンタクロースが大売り出しのビラを配っていた。一枚差し出し、「クリスマスのプレゼントはもうお決まりかね?」と訊く。「まだならオルソンのギフトショップでお買い物を。このクーポンがあれば5パーセントオフだよ」

 見るとそれは若いサンタで、白いヒゲと眉毛は偽物だった。おれはクーポンを受け取り「どうも、メリークリスマス」とだけ言って立ち去ろうとしたが、サンタは「自分用のプレゼントはどうだね?」と食い下がる。

「何が欲しい? サンタのおじさんに言ってごらん?」

 子供に話すような口調でサンタが言うので、おれは思わず「そうだな、強いて言えば休暇が欲しい」と答えた。「おれの仕事は今が一番忙しい時期なんだ。皆がクリスマスのギフトに絵画を選んでくれればいいけどね」

「なるほど、きみは絵描きなんだな」

「いや、まさか。おれは絵の販売員さ。画家なんてとんでもない」

「おや、そうかな? きみは絵描きだ。少なくとも子供の頃は絵ばかり描いてただろ? スパイダーマンにバットマン。シルバーサーファーもお気に入りだ」

「へえ、よくわかったな。確かにおれは絵の好きな子供だったけど……」

「そりゃあ、ワシはサンタだからな。おまえさんが小さな頃から知っているよ。母子家庭で寂しがっているおまえのところに、モンスタートラックを届けてやったのは誰だと思う?」

 サンタが笑いながらそう言うので、おれは完全に面食らった。確かに子供の頃、モンスタートラックを貰った覚えはある。しかしそれはサンタからじゃない、ママだ。だってサンタクロースなんてものは存在しないんだから。

 絶句するおれに、サンタは尚も問いかける。「今年のプレゼントは何がいいかな? モンティパイソンのボックスセット? ニューヨーカーならサタデーナイトライブだろうに、おまえは何て変わった奴だ」

「ちょっと待てよ。なんでそんなにおれのことを?」

「そりゃあサンタに知らないことは……」

「いいかげんにしろよ。あんた、いったい誰なんだ?」

 サンタはひときわ大きく笑い「ディーン・ケリー! メリークリスマス!」と、つけヒゲを取った。

「……マーカス?」

「すぐに気付けよ」

 続けて帽子を取ると、豊かなブロンドの髪が現れた。それは赤鼻の老人ではなく、とても若く魅力的な容姿をしている。サンタの正体はマーカス・クレイ。おれの高校の同級生だ。



「あのときのおまえの顔ときたら……“ほんとにサンタがいた!”みたいに目を丸くして……マジで笑いを堪えるのに必死だったぜ」

 マーカスはくっくと笑い、ソファの上で長い足を組み替えた。サンタの衣装は脱いでいたが、靴だけは自前らしく、黒くて先の丸いミリタリーブーツを履いている。

「おまえの芝居が上手すぎるんだよ。声はまるっきり老人みたいだったし、台詞もよく出来てたから、思わず釣り込まれた」

「それにしたって気付くのが遅すぎる」マーカスはポールに視線をくれ、「こいつは昔からピュアなところがある」と説明する。「騙されやすいと言うか、つまり……」

「いい人?」

 ポールの推測に、マーカスは苦笑し「うん、まあそうだ。そうとも言う」と頷いた。

 おれは悪友の足を軽く蹴り、「“そうとも言う”って何だよ?」と聞く。「他にはどういう言い方が?」

「いや、他の意はない。そうだ、ディーン・ケリーは“いい奴”だ。間違っちゃいないさ」

「ビールのおかわりが欲しかったら言葉に気をつけろ」

 冷蔵庫に向かうおれに、マーカスは「ディーン、愛してる! おれは国産のビールが好きだ!」と呼びかけた。

 ポールの友人が家に来ることはたまにあるが、おれの客となると、これはかなり珍しい。マーカスとはここ何年も会っていなかった。偶然の再会がなかったら、次の同窓会まで顔を見ることはなかっただろう。

 冷えたサミュエルアダムスを手に戻ると、マーカスはおれとポールを交互に見、「しかし……驚いた」と、しみじみ言った。

「おまえが男と付き合うとは。おれにはちっともなびかなかったくせに」

「あたりまえだろ。おまえの本性を知ってなびくわけがない」

「おれに惚れたら苦しむから避けたんだろ」

「ああ、そうだな。おまえみたいな女たらしに惚れたら地獄を見ることになる」

「人のことが言えるのか? おまえの名言を覚えてるぞ。『美人は三日で飽きる』ってな」

「そんなこと言ってない」

「言ったさ」マーカスはビールをごくりとやり、「なんだよ、覚えてないのか?」と不満そうに言った。

「まさか二人でロングアイランドのビーチに行ったことも忘れたんじゃないだろうな?」

「それはもちろん覚えてる」

 マーカスはポールに向き直り「おれたち、一緒にビーチに行ったんだ。もう十年くらい前の話だ」と説明する。「二人きりだけど、別に怪しい関係じゃないぜ」と註釈し「目的はナンパだ」と、目を輝かせた。

「ビーチに着いて、おれはすぐに女の子たちに目をつけたけど、こいつはあまり気乗りしない風でさ。“あの子はどうだ?”と聞くと、嫌だと言う。“じゃあ、あっちは?”“好みじゃない”“あれはどうだ?”“いいや、駄目だね”。とにかくやたら好みがうるさいんだ。そうしたやり取りが何度か繰り返されたので、おれは“だったらおまえに任せる”と、キレ気味に言った。こんな調子じゃナンパは無理だと踏んだんだが、一時間もしないうち、ディーンはどこからか女の子を見つけてきた。それがものすごい美人なんだ。聞けば彼女たち、イタリアから来たモデルだって言うじゃないか。おれは心の中でこう思った。“わかった、おれの負けだ”とね。こいつはすごい奴だよ。どうやって口説いたんだか知らないが、おかげで楽しい夏が過ごせた。いい想い出だよ」

 青春時代を懐かしく披露するマーカス。おれにとっても確かにいい想い出だが、ポールに話して聞かせたことは一度もない。この手の話題は彼がもっとも嫌うものだからだ。ここは流れを変えた方がいいかもしれない。

「で? 今は何をやってるんだ? まさかサンタに就職したわけじゃないよな?」

 定番の質問に、マーカスは「あれはバイトだ。本業は役者だ」と答えた。

「へえ、驚いたな。まだ演劇を続けてたのか」

「即興は得意だと言ったろ? おまえはどうなんだ? 絵の方は?」

「もう何年も筆をとってない。もっぱら仕事が忙しくて」

「ふぅん……もったいないな。あんなに上手かったのに」

「ぼくはディーンの絵、一度も見たことがないんだよね」とポールが言った。

「本当に?」マーカスは少し驚いた顔でおれを見る。

「作品はまとめて処分したんだ。母と叔母のところには、いくらか残っているかもな」

「そんなに上手だったの?」ポールが訊くと、マーカスは頷き、「いい絵だった。おれは好きだった」と、しみじみ言った。

「やめちまったなんて本当にもったいない」

「別に絵を描くのが嫌いになったわけじゃないんだ。でも画家で食っていくのは大変だろ。趣味ならともかく、プロとなるとな。今の仕事をしてよくわかったよ。おれにはそこまでの才能も情熱もないんだとね」

「まあ、確かに生活ってのは切実な問題だ」マーカスはビールをごくりと飲んで「おれの周りでも、生活に困って劇団を離れる奴が何人もいる」と言った。「仲間の決意は残念だけど、止められるもんでもないしな。芸術を諦めることで生活が楽になるなら、それもいい」

「おまえはその中で踏ん張ってやってるんだから大したもんだよ」

「他にできることがないのさ。好きで貧乏しているわけじゃないが、信念は捨てられない」

 マーカスは室内を見回し「いいところに住んでるな」と言った。「ここは場所もいい。かなり高いだろ?」

「そうだけど、二人だからな。折半すれば払えないこともない額だ」

「おれも先々はこのあたりに住もうと思ってる」

「今はどこに?」

「どこにも」ビールを飲み干し「追い出されたんだ」と彼は言った。「先週のことだ。一緒に住んでた奴とモメて、出て行くハメになった」

「女か?」

「いや、男だ。同居人。わからず屋のイギリス人。顔を突き合わせなくなって清々したけど、バイト先の休憩室で寝泊まりするのは、あまり楽しいとは言えないね。でもそれも今日限り……サンタクロースは今日までなんだ。休憩室はもう使えない」

「行くアテはあるの?」ポールの質問に、マーカスは「そうだな、公園とか?」と答えた。

「公園だって? 冗談だろ?」おれがそう言うと、「冗談だったらいいよな」と軽く笑う。

 12月のニューヨークだ。外で寝たら凍死する可能性もある。それがわからないわけでもないだろうに、こいつは本気で公園に泊まるつもりなんだろうか。

「ここにいたら?」

 そう言ったのはおれではなく、ポールだ。

「うちにはゲスト用の部屋が余ってる。いつもは物置にしてるから、居心地はよくないと思うけど、公園よりはマシだと思うよ」

「有り難いが、そういうわけにはいかない。それに、二、三日やそこら泊めてもらっても、どうなるもんでもないしな」

「少しの間なら構わないよ」ポールは素早くそう言い、次に「ね?」と、おれの顔色を伺うような目つきをした。

 恋人の視線に押される形で、おれは「ああ、うん、そうだな」と返事をする。「ここで再会したのも何かの縁だ。うちの物置でよけりゃ、寝泊まりしろよ」

「……本当にいいのか?」

「おまえがセントラルパークでアイスキャンディみたいになって発見されたとあっちゃ、どうにも寝覚めが悪いからな」

 おれの言葉にマーカスは心底ホッとした顔になり、「助かるよ。恩に着る」と礼を言った。「おまえという親友がいて本当によかった。これでおれは死なずに済む」

「オーバーだな」

「もしおまえが路頭に迷ったら、絶対におれが助けてやるからな」

「そんなことがないことを祈りたいね」

 それからはさらに多くのアルコールを消費し、昔話に花を咲かせて楽しく過ごした。物置を片付けるのは翌日以降にして、今日のところはソファで寝てもらうことにする。

 ポールはベッドに入り、「勝手に言って悪かった?」と訊ねた。マーカスを泊めるにあたってのことだと分かり、「いや、そんなことはないよ」と、おれは答える。「本来であれば、おれから提案すべきだったんだ。自分の友達のことなんだから」

「だったらよかった。ぼくはいつも先走りすぎるから」

「むしろきみはいいのか? マーカスがここにいても?」

「いいとか嫌だとか以前の問題だよ。公園で寝るなんて言われたら放っておけないもの」

 その通りだ。マーカスが公園と言ったのはジョークだったのかもしれないが、あの言葉はかなり衝撃的だった。

 ポールは笑顔で「困ったときはお互いさま」と、彼が信条とする常用句を口にする。

 困っている人を助けることについて、ポールはあまり躊躇がない。もし彼がマーカスに宿泊を勧めなかったら、おれは『うちで寝泊まりしろ』とは言わなかっただろう。

 それにしても、ポールがおれとの間に第三者の存在を許すなんて珍しいことだ。彼はかなりのヤキモチ焼きで、おれと親しくなろうとする人間には、いつも目を光らせているきらいがあるというのに。

 その疑問を読み取ったか、ポールは「それにマーカスは嫉妬の対象じゃないしね」と言う。「きみたちの関係って男子高校生そのものだ。すごく男同士って感じがする」

「おれたちだって男同士だろ」

「そうじゃなくて、“普通の友達”ってこと。ローマンとぼくみたいな」

 そう言って、シーツの中で足を絡ませてくる。確かにマーカスとは、絶対に、死んでもこういうことはしない。ゲイにも男友達というのはいて、ポールにはローマン、おれにはマーカスがそれにあたる。いくら親しくても一緒のベッドでは寝ない関係性だ。



 翌日、職場から帰宅したおれを迎えたのは、すっかり片付いた客用寝室と、焼きたてのラザニアだった。内訳を訊くと、掃除はマーカス、ラザニアはポールとのこと。

「マーカスは部屋中を掃除して回ったんだ」とポールが言う。「物置だった部屋だけじゃなくて、居間もバスルームもベランダも。ぼくは床に掃除機をかけただけ」

 マーカスは食前酒を開け、「前に清掃のバイトをやったことがある。窓を拭くと部屋が二倍明るくなるんだ」と説明した。

「そんなに気を遣うなよ。でも、確かに部屋が二倍明るいな」

「掃除はできても料理は駄目だ。ポールは素晴しく手際がいい。ラザニアを生地から作るところなんて初めて見たよ」

「彼のラザニアは最高さ。おまえは運がいい。これはめったに食べられないんだ」

 ディナーの話題はマーカスがさらった。彼の人生でメインとなるのは、サンタのバイトなどではなく、ブロードウェイの舞台に立つこと。おれとポールは、芸術を語る俳優の聴衆となる。

「今、立っているのはオフ・オフだが、知っての通り、物の善し悪しを決めるのは客席数じゃない。むしろ小劇団の方が、より自由な表現ができるんだ。知り合いの脚本家は無名だったが、脚本がハリウッドで映画化されたことをきっかけにテレビの世界に入った。ドラマのシリーズを任されたんだが、それは残念なことに生彩を欠いていたよ。制限なく好きなことを書いていたときの方が、ずっと素晴しかったのに」

 マーカスは手酌でワインをグラスに注いだ。食べるよりも飲む方が活発で、熱弁のあまり、特製ラザニアの味もわかっていないようだった。

 ポールはおかわりをよそいながら「今はどこかの劇団に?」とマーカスに訊いた。

「いや、去年までは居たけど、フリーになった。新しい演出家と反りが合わなくて、大喧嘩になったんだ。あやうく奴を窓から突き落とすところさ」

「おまえの喧嘩っ早さは相変わらずか」

「そうでもない。これでもずいぶん我慢したんだぜ。窓から突き落さなかったし、そうなるまでに半年も堪えた」

「用心しろよ。おまえは役者なんだ。これ以上、顔に傷が増えたら困るだろ」

「顔に傷?」ポールは目を細め「どこに?」とマーカスの顔を見た。

「ここだ」左目の横を指すマーカス。「目立たないからわからないだろ。高校のときだ。ディーンの恋敵にぶん殴られてついた」

 ポールが交互におれたちを見ると、マーカスは「下らない痴話喧嘩さ」と話し始めた。「女を取った取られたのって、よくある話。おれは仲裁に入ってやったんだ。殴り合いになっても、二対一なら勝ち目もあるだろうと思ってさ。だけど相手は図体のデカい大学生だ。おまけに頭が異様に悪いときてる。話し合いはすぐに決裂して……」ファイティングポーズで拳を突き出す振りをし、「予想通り、暴力でカタをつけるハメになった」と言う。

「そいつは悪いことに指輪をはめてた。嫌らしいカレッジリングさ。指輪がおれの瞼に当たって、皮膚が切れたんだ。驚くほど血が出て気が動転したよ。どのくらいすごいかって、相手がビビって逃げ出すほどだった」

 ビビったのは敵だけじゃない。おれもだ。血を流す人を見たのは初めてだし、それが自分の親友で、その原因を作ったのは自分だ。あの日は、おれの高校生活でもっともひどい一日だった。

 マーカスは傷痕のある側の目を両手で抑え、当時の話をリアルに再現する。「おれは花壇の脇に座り込んで考えた。“どうしよう。喧嘩したことが親にバレたら大変だ。血を止めないとヤバいけど、学生だから病院にかかる金もない”」そしておれを見、「気がつくとこいつはいなくなってた」と言う。「病院に電話でもしに行ったかと待っていると、くだんのガールフレンドを連れてきたんだ。おれが血まみれなのに何なんだと思っていると、彼女は救急キットを取り出し、傷の手当をしてくれた。その子は看護婦だったんだ」

 オチまで話したマーカスは満足そうに微笑んだ。

「おかげでオペラ座の怪人役専門は避けられた。こいつのガールフレンドには感謝してる」

「あのな、さっきからガールフレンドと言ってるけど、スージーはおれのステディじゃなかった。あの図体のデカい大学生は勘違いしてたんだ」

「でも寝たろ?」すました顔でマーカスは言った。「おれが先じゃない。おまえが先に彼女と寝た。それは間違いないはずだ」

 ニンマリと口の端を上げ、「スージーか……懐かしい」と、グラスをくゆらせる。「彼女はすごく大人だった。おれがゴムをつけずにヤッたのは、あの子が初めてだ。ピルを飲んでたから妊娠の心配はないし、看護婦だから性病にも詳しい。もしもアクシデントで妊娠したら、おれかおまえ、どっちかの子供なんだって話したっけ。双子ができて両方いっぺんに親になったら最高だなって」

 マーカスはさらに調子づき「彼女は三人でヤリたがってた」と下品に笑う。「けど、おれもディーンもそれは嫌だった。だってそうだろ? 友達のチンポを見たい奴がどこにいる? シャワールームでならまだしも、勃起した状態だなんて、冗談じゃない」

 ポールは「双子ができても親はどっちか一人だ」と冷静に言い、「食器を片付けるね」と席を立った。

 マーカスは残った酒をすべてグラスに注ぎ「まあ、そうだよな」と頷く。「おれたちガキだったから、そのあたりのことは分からなかった。確か猫は複数の雄の子を生むことができるんだっけ?」

 酔って潤んだ目のマーカスに、おれは「ポールの前であれはないだろ」と苦言する。「あまり変な話を蒸し返すな」

「昔のことじゃないか。今さら恥になるでもない」

「そうじゃなくて、おれの恋人に失礼だって言ってるんだ。もしポールが女であっても、おまえは同じ話をするのか?」

 マーカスはやや考え、「いや、しない。しないな」と断言する。「悪かった。そうだよな、彼はおまえの恋人なんだ。つい男同士のノリで喋っちまった」

「今度からもっと気をつけてくれ。過去の女の話はこれで最後だ」

 残った食器を積み重ね、キッチンに運ぼうとすると、マーカスが「ポールはずいぶん親切だな」とつぶやく。「いくら恋人の友達だと言っても、見ず知らずのホームレスを招こうなんてさ」

「彼は困ってる人を見過ごせないタチなんだ。以前も腹ペコのドアマンを家に上げて、食事を振る舞っていたことがある。おれも最初は驚いたけど、もう慣れた」

「へえ……おまえの彼氏は最高だな」

「ああ、そう思うよ」

 マーカスは経済的に困窮していたが、それを除けば、極めて健全な人生を歩んでいると見てとれた。演劇を生き甲斐にし、苦境にあっても明るく、ポジティブな心を持ち続けている。決まった恋人がいないことも、今の彼にはプラスに働いているらしい。「独り身は気楽でいいぜ。どこに行くのも何をするのも好きにできる」と、モテる男ならではのコメントだ。

 物理的にも精神的にも自由でいることは、この社会において成し得るに難しいことだが、彼はそのポジションにかなり近いように思える。だから、改めて彼から借金を申し込まれたとき、おれは些か混乱してしまった。

 ポールが仕事に出ている土曜日は、おれが好きなだけ朝寝をする休日だ。マーカスは午前中に掃除をすっかり終え、コーヒーを淹れていた。

 寝起きのおれにコーヒーを出してテレビを消し、「久しぶりに会ってこんなことを頼むのは何だが、少し金を都合してもらえないだろうか?」と、単刀直入に願い出る。

「金っていくらぐらいだ?」

 マーカスは質問に答えず、「近いうちにバイト代が入る予定だが、シビルコートは待ってくれない」と言った。(※シビルコート=小額裁判引受所)

 この手の話はニューヨークでは珍しいことじゃない。たった一日、支払いが遅れただけで、裁判所の人間がドアの前に立つような街だ。

「今しょっぴかれるのはマジで困るんだ」

 マーカスは頭を抱え込むようにして髪を撫でた。

 アメリカで貧困と裕福の区別はつきにくい。一度訪れたインドでは、そのあたりの明暗はハッキリしていたが、この国では良いスーツを身につけていても破産していたり、流行遅れの服を着ていても莫大な遺産を継いでいたりする。マンハッタンはそれが特に顕著だ。

 呑気に見えるマーカスも窮状は変わらない。困り果てた上での相談だというのはすぐにわかった。会った直後に借金を申し出なかったのがその証拠だ。

「いくら必要なんだ?」

「八百ドル……いや、本当は千ドルあると助かる」

「千ドルか……」そいつはかなりの大金だ。手元に金がないわけじゃないが、気楽に出せる額じゃない。それでもおれは「わかった、いいよ」と答えた。

「返すアテはあるんだろうな?」

「ああ、もちろん。よかった、本当にすごく助かるよ。さすがはおれのアミーゴだ」

「うわっ! “アミーゴ”はよせ!」

 マーカスが続けて「カーマ、アミーゴ(落ち着け、兄弟)」と言うので、おれは恥ずかしさに顔を覆った。

 これはおれたちが高校の頃に流行った言い回し。スペイン語でのやり取りがクールに思えて、意味なく使っていたことがあった。別れ際の挨拶は“ハスタラビスタ”。金がないときは“エル・チーポ”。たぶん映画か何かを見て影響されたのだろうが、今にして思えばつくづく哀れだ。若さというのは、まったく罪深い。

「ディーン、ムチャス・グラシアス(本当にありがとう)」

「ノープロブレモ(問題ない)、アミーゴ」

 今はすっかり大人になったおれたちだが、顔を合わせれば昔の悪ガキに戻ってしまう部分がある。

 おれが下手なスペイン語を操っているところをポールが見たら、きっと笑うことだろう。恥ずかしいし、みっともないのは承知だが、それでもどこか、このやり取りを快く感じている。おれにとってアミーゴと呼べる友人はただひとり。困ったときはお互いさまだ。



 おれとポールが仕事に行っている間、マーカスは家にいて家事をしたり、ネットを見たりしている。閲覧しているのは求人サイトだが、期待するような成果はないと言う。

「ひとつの募集に百も二百も応募があるんだ。おれは若くもないし、ネットの応募は不利だよな」

 マーカスは求人のページをおれに見せ、椅子の背に身を預けて、こめかみを揉んだ。

「クチコミが一番だが、そうしょっちゅうあるもんじゃないし。年内はもう難しいかもしれない」

 しょんぼりと言うマーカスに、おれは「清掃の仕事はどうだ?」と聞いてみた。

「清掃?」

「ウチの会社に来てる清掃業者は、常に募集をかけてる。職場はオフィスビルが専門だ。勤務時間は夜だから、就職活動の妨げにはならないと思う」

 するとマーカスは考えもせず、「どうかな。あまり気乗りしない」と即答した。

「どうして?」

「芝居の稽古に差し支えるだろ。もっと短時間で稼げる仕事を探してるんだ。サンタのバイトは演技力を要求されるが、拘束時間は短い。給料も悪くはなかった」

「芝居の稽古って何だ? 今はどこにも所属してないんじゃなかったのか?」

「知り合いの劇団に客演させてもらうことになったんだ」

「ギャラは出るのか?」

 おれの質問にマーカスはわずか顔をしかめ、「いいや」と答えた。

「脚本が気に入ったんだよ。ギャラ云々の話じゃない」椅子をくるりと回して、おれに向き合い、「演劇の世界では、舞台に立ち続けることが大事なんだ」と、語気を強める。「この業界で顔を覚えてもらうことは本当に重要で、舞台から離れれば、忘れ去られる。次の仕事につなげるため、役者は常に現役でいなきゃいけない。だからギャラは二の次だ。おれの言うこと、わかるだろ?」

「まあ、なんとなくは」

 曖昧な返事を返したのは、“心の底から同意する”とは言えないからだ。マーカスの言うことは頭では理解できるものの、いまひとつピンとこない。正直な感想を伝えると、彼は「無理もない」と納得した顔をする。

「おまえには、おれみたいに打ち込めるものはないからな。いいさ、理解してくれなくても。こっちとしては泊めてくれるだけ有り難い。ここを追い出されたら本当におれは困るんだ」

 マーカスはブラウザを閉じて立ち上がり、「晩飯の支度を手伝ってくる」と、部屋を出て行った。



 数日一緒にいて段々わかってきたことだが、どうもマーカスは真剣に仕事を探してはいないらしい。彼にとってもっとも大事なのは舞台に立つことで、少しでもその妨げになるような職には就けないと、自ら就活の条件を厳しくしている。

 バーテンダーや料理人など、手に職があればいいのだが、人生のほとんどを演劇に捧げてきたため、具体的な特技は持っていない。マンハッタンはエンターテイメントの都だが、役者で食べていくのは(本人が言う通り)簡単ではないのだ。

 思うような職に就けない現状はマーカスを疲弊させ、テレビを見ている時間だけが増え続ける。精神衛生上、このままではよくないとおれが思い始めた頃、久しぶりに意気が上がることが起きた。


 〈今夜はどこにも寄らず、何も食べず、真っすぐ帰宅すること!〉


 仕事中に届いたのは命令口調のメッセージ。差出人はマーカスだ。彼は携帯を持っていない。おれのパソコンからアカウントにログインして、メールを送ってよこしたらしい。

 命じられた通り、真っすぐ帰宅すると、エプロンをつけたマーカスが「今日はパーティだぜ!」と怪気炎を吐いていた。

 キッチンには大きな発泡スチロールの箱が置いてあり、中には氷と魚介類が詰まっている。ホタテに牡蠣、ロブスター。真空パックされたものではなく、どれも生きて動いていた。

「すごいな。こんなにたくさんどうしたんだ?」

「サンタクロースからのプレゼントさ」

「嘘つけ。おまえみたいな奴にサンタが贈り物をするわけない」

「ほんとのところはサンタクロースの給料さ。街頭に立って凍えた報酬がやっと今日支払われたというわけだ」

「そうか、よかったな。でも結構な値段だったんじゃないか?」

「友達のツテで安く買えるルートを知ってるんだ」

 マーカスはロブスターを掴み出し、「ディーンも帰ってきたことだし、さっそくこいつをさばいちまおう!」と威勢よく言った。

「頼もしいな。おれは居間に避難してていいか?」

「なに言ってるんだ。手伝えよ」

「そいつは生きてるんだろ? 勘弁してくれ。貝類ならともかく、アリエルの友達を殺すところを見たくない」

「情けない奴だな」呆れて笑うマーカス。

 会話を聞いていたポールが「こっちはいいから、ディーンはサラダを作ってくれる?」と助け舟を出してくれた。

 おれはトマトとチーズを切り刻んで、ケッパーの瓶詰めを開けるという難関を担当。ベビーリーフの上にそれを散らせば出来上がりだ。

 少し値の張る白ワインで乾杯し、三人の野蛮な男はロブスターに襲いかかる。手をベトベトにしながらかじりつく様は、女、子供には見せられない。

 パーティの内訳は『なんでもない日のお祝い(Un-Birthday Party)』だ。サンタの給料は振り込みではなく、封筒に入った現金を手渡しされるのだそう。「久しぶりにドル札の匂いをかいで奮発したくなったんだ」とマーカスは言った。

 給料が入ったことで少しは楽になるのかと訊くと、彼はロブスターの殻を口から吐き出し、「金は右から左さ」と答えた。「督促されてた家賃を払ってしまえば、残る額は大したもんじゃない。これが最後の豪華な晩餐だ」

 ということは、おれに金を返すのはまだ先。今回の給料では無理だってことだ。まあ仕方ない。滞納していた支払いが先なのは当然だし、そうだからこそ、彼は“金を都合してくれ”と頼んできたんだ。

 だけどこの食材はどういうことだろう。安く買えるルートがあると言っても、タダじゃない。こっちとしては豪華なディナーより、100ドルでも返してくれた方がありがたいんだが……。

 肩の荷がいくらか降りたのか、マーカスの機嫌はここ数日で一番良く、食事の間もずっと喋り通しだ。ウースター・グループのメンバーと仕事をしたときのことや、劇団にCNNが取材に来たエピソードなど、話のネタは尽きることがない。おれは楽しい会話に水を注したくはなく、金や仕事については聞かなかった。今夜はパーティなんだ。そういう話はまた別なときにすればいい。



 たらふく食って酔っぱらった後には、汚れた皿と空の酒瓶が残される。片付けは明日にという結論に達し、お開きになったのは午前三時。ベッドに倒れ込むと、ポールが「珍しく飲み過ぎたね」と言う。

「そうか? うん、そうかもな。あいつが次々と酒を出して来たせいだ。それでいて本人はほとんど酔わないんだから、参るよ」

「マーカスはお給料が出たんだよね? いくらか返してもらった?」

 金を貸したことはポールには言ってあった。おれは眠い目をこすり、「いや、まだだ」と答える。

「そうだろうと思った」ふぅとため息をつくポール。「彼がきみにお金を返せるはずがない。今日の時点で、ぼくにもお金を貸してくれって言ってきたんだから」

「なんだって?」

「きみが帰って来る前にね。五百ドル都合して欲しいって」

「それで? 貸したのか?」

「“余分なお金はないから”って断わったよ。それでも結構ねばられたけど。“カードで借りられないか”とかね」

「そうか……ごめん」

「きみに謝られても」

「あいつにはよく言っておくよ」

「ああ、それはやめて。マーカスから“ディーンには内緒にしてくれ”って頼まれたんだ。こっちは約束したわけじゃないから話すけど、でも彼からしたら不愉快だろうし」

 内緒にだって? なんて念の入れようだ。おれを頼っていながら、“内緒に”とはいったいどういうつもりだ。ポールが話してくれたからいいようなものの、そうでなかったら、ずっと知らないままでいたわけだ。

「きみに金の無心をして、それでどうしてこんなパーティを? 金がないなら、どうして使っちまうんだ?」

「ぼくにはよくわからない。本人に聞いたら?」素っ気なく言い、毛布を肩まで引っぱり上げる。「でも要するに、“使っちまう”から、“金がない”んだよね?」

 おれの疑問文から簡単に真実を見つけ出すポール。確かに彼の言う通りだが、“使っちまう”ことの理由は分からない。どうやら少しマーカスと話す必要があるようだ。

「近いうち、マーカスと話をしてみるよ」

 おれの言葉に彼は応えず、ただ「おやすみ」とだけつぶやいた。こういうとき、ポールは何かを考えている。おれはそれについても訊きたかったが、まずはマーカスが先だ。ポールは『本人に聞いたら?』と言ったんだ。おれとマーカスは親友同士だし、立ち入ったことを訊ねても差し支えはないだろう。



 金の無心をされたことで、ポールがマーカスのことを不快に思うかと気を揉んだが、それについて心配はいらなかった。ポールは「早く仕事が見つかるといいね」と言い、借金以外での方法で、彼を助けることができないかと考えてもいるようだ。

 行きつけのレストランで食事をしているとき、ポールは「例えばホテルの仕事はどう?」とマーカスに提案した。「給仕スタッフの仕事なら時間の制約は短いし、お給料もチップでずいぶん稼げるよ」

 おれは少し驚き、「その手があったか。気がつかなかった」と言った。

 給仕の仕事はピンキリだが、ポールが提案したのは、イベントやパーティで活躍するスタッフだ。勤務時間は長くて三時間ほどで、業務内容はシャンパンやカナッペの乗ったトレイを持って歩き回るだけ。雇われれば簡単な仕事だが、面接はそう楽ではない。従業員に求められるのは機敏さでも気遣いでもなく、眉目麗しいルックスだ。会場に美男美女を取り揃えることに意味があり、ホスピタリティは二の次。しかし訪れる客は皆、金持ちなため、程度の低い接客でも、驚くほどのチップを貰うことができるのだ。

「おまえのルックスなら審査を通るのは確実だ。その種のパーティには、おれも参加したことがある。楽そうな仕事だった」

 マーカスはパスタをフォークに絡めながら、「どうかな」と、つぶやく。「以前やったことがあるんだが、あまり向いてなかった」

「何が向いてないんだ? 向き不向きのある仕事とは思えないが……」

「それがあるんだな。残念だけど、おれにはできない」

 マーカスが考えもしないで提案を却下したので、おれとポールは鼻白んだ。こいつが何を考えているのか、どうもさっぱり掴めない。仕事が欲しいと言いつつも、就職に関することはほとんど口にせず、むしろそうした話題は好ましくないと感じているようだ。

 ポールが席を外すと、マーカスは「給仕スタッフはロクな仕事じゃないぜ」と、愚痴をこぼし始めた。

「金にはなるが、プライドを傷つけられる。あるときなんか、ゲイにしつこく迫られてさ。最初は適当にあしらってたけど、何度もとなると我慢に限界がある」

「まさかおまえ……」

「シャンパンの瓶で殴ってやった。そしたらクビさ」

 マーカスはひょいと肩をすくめ、「おれはブラックリストに載ってるはずだ」と言う。「応募したところで、雇ってはもらえないよ。まあ、あんな仕事はこっちから願い下げだがな」

「シャンパンの瓶って……それは傷害事件だろ?」

「告訴には至らなかったよ。相手も自分に非があることは重々承知だったから」

「いくらなんでもやりすぎじゃなのか。下手すりゃ死んでたかもしれないんだぞ」

「死ぬほどは殴ってない。力は加減したさ、当然な」

「それにしたって……」

「おい? おれは被害者なんだぞ? 迫られたのは一度や二度じゃない。黙ってケツを撫でられてろって言うのか?」

「上司に相談するとか、他に対象方法があっただろ」

 おれの言葉にマーカスは顔をしかめ、「もういい。この話はしたくない。終わったことなんだ」と言った。「そういうわけで、おれは給仕の仕事はできない。わかったな」

 ポールが席を外してから、本当の理由を説明したのは、暴力沙汰の相手がゲイだからだ。奴としては気を遣ったつもりなのかもしれないが、おれはどうにも不愉快だった。うまく説明できないが、何だかモヤッとする。

 借金をポールに申し出た件について話をしようと考えていたが、問題の根はもっと深いようだ。金のことは氷山の一角に過ぎない。マーカスの人生はいったいどうなっているのか。うまくいっていないということだけは、明確にわかるのだが……。



 おれとポールが二人で歩いていると、自動的に“ゲイのカップル”と認識されるが、マーカスが加わってからは少し変わってきたらしい。まず、女性の視線を多く感じるようになった。正確には“女性のグループ”だ。彼女たちはこちらに目配せをくれ、通り過ぎた後、ひそやかにはしゃぐ声が聞こえてくる。

 二人でいればゲイ。三人でいればスリー・アミーゴス。ゲイは眼中にないが、イケメンの三人組となれば、興味の対象になるらしい。スーパーマーケットでカートを押すおれたちが、どのような関係性かを当てるのは、極めて難しいことだろう。これで全員が非モテ系だったら、ジャッカスの撮影だ。

 菓子売り場でマーカスは「このチョコレートが旨いんだ」と、500グラムはありそうな袋をわし掴みにした。パッケージをこちらに向け「ナッツとベリーが入ってる」と説明。「嫌いじゃないよな?」とカゴに放り込む。

 もちろん嫌いじゃないが、支払いはおれとポールだ。こいつには遠慮というものがまるでない。大した金額じゃないんだから気にすることはないと、自分に言い聞かせていると、ポールが「でもちょっと高いね」と口を挟んだ。「こっちのにしない?」と特売のチョコレートを提案する。マーカスは肩をすくめただけで何も言わなかった。

 おれが微妙な顔をしていたことに、ポールは気付いたのだろう。チョコぐらいでセコい男だとは思わなかったろうが、言いたい事も言えないでいるのは情けなく見えたかもしれない。

 ポールがレジで支払いをしている間、おれはマーカスに「何か問題があるのか?」と聞いてみた。

「金のことだけじゃないんだろ? おれと同じ年で、どうしてそんなに困窮してるんだ? 理由があるなら聞かせてくれないか」

「あるとも」マーカスはシリアスな視線をおれに向けた。「実はな、病気の妹がいるんだ。長く臥せっていて、治療にすごく金がかかる……って、そんなわけないだろ。おかしな顔するな」

 奴が笑いだしたので、おれはあきれ、そして腹が立った。

「ひどいジョークだぞ。ふざけるな」

「ああ、そうだな。悪かった」マーカスは親指で眉を掻き、「心配してくれるのは嬉しいが、特に理由はないんだよ」と苦笑する。「おれは自分が就く仕事にいろいろ条件をつけてる。それは前に言った通り、演劇を優先させているからだ。いったん舞台に取りかかると、一ヶ月は働けない。そしたらどうだ? 金が消えるのも道理だろ? なあ、おれはすべてわかってるんだ」

「好きで貧乏してるってのか?」

「貧乏は嫌さ。だが仕方ない。芸術を捨ててサラリーマンになれって説教は聞きたくないぜ」

「そんなこと言うもんか。それに、言ったところで夢は捨てられないだろ」

「その通り。さすがはおれのアミーゴ。よくわかってるな」満足げに微笑むマーカス。続け「こっちもひとつ質問をしていいか?」と訊いてきた。

「おれとつるんでた頃、おれのことをゲイ的な目で見たことがあるか?」

「ゲイ的な目?」

「つまり、おれと寝たいと思ったことがあるかってことだ」

 それは意外な質問だった。そんなことは、今まで誰にも言われたことがない。

「ないよ」当たり前だろという思いを込めて、おれは答えた。「おまえに性的な魅力を感じたことは一度もない。知ってるだろ。おれは女が好きだったんだ。本当のところ、今でも好きだ。ポール以外の男に魅力を感じることは一切ない。ゲイとしちゃ不完全かもしれないが、とにかくそういうことだ」

「そうか」頷くマーカスの顔には『それはよかった』と書いてあった。ストレートの男としちゃ、そういうことが気になるのは当然かもしれないが、なんだか侮辱された気分だ。おれは男と見れば飛びかかるようなゲイじゃない。ストレートのときだってそうだ。女だったら誰でもいいなどとは思ったことがなかった。

 マーカスの目におれはどう写っているんだろう? そもそも写っているのかも疑問だ。おれが仕事で疲れて帰宅すると、マーカスはのんびりテレビを見ていたりする。無職で暇なのはわかるが、あまりにも呑気すぎやしないだろうか。

 おれの気持ちも知らず、マーカスは「おまえは少し働きすぎじゃないのか?」と言ってくる。

「かもな。おまえとおれ、足して二で割れば丁度いいんだろ」

 不機嫌に返し、部屋に戻ると、ベッドの上に洗濯された服が置いてあった。きれいに畳んで、アイロンまでかけてくれている。マーカスは家事労働で金を返済しているつもりなのかもしれない。

 おれは何て短気なんだ。あいつはいい奴だし、こんな風に怒りを溜めるのは間違ってる。でも何をどう話したらいいんだ。

 トトンとノックの音がし、「開けるぞ」とマーカスが顔を出した。

「おまえに見せたい映画があるんだ。今夜9時から放映するやつで、きっと気に入る。よければ酒を買ってこようか?」

「ああ、うん、そうだな。頼むよ。それと洗濯物、ありがとう」

「どうってことない。洗濯機の使い方はマスターしたぜ」

「プレスまでして大変だったろ。いつもYシャツはクリーニングに出してるんだが」

「今度からおれがやってやるさ。中国人を儲けさせることはない」

「うまいもんだ。感心したよ」

「そうだろ。おれ、クリーニング屋になれるな」

 “なれるならなれよ。それで金を稼いでこい”───。反射的にそう思った。どうやらおれはまだイライラしているらしい。

 マーカスがビールを買ってきて、その晩は一緒に映画を見た。演出がいかに優れているかを彼は解説してくれたが、どうにも頭に入ってこない。なぜマーカスはこんなことをしているんだろう。旨いものを食べて、一緒に映画を見る。それ自体は悪いことじゃない。だけど、こいつは1ドルも稼いでいないんだ。夜の時間をバイトに当てることもできるし、将来についての話をすることもできる。遊んで暮らすのが人生の目的でもない限り……いや、マーカスはそもそもそんな立場じゃない。油田を持ってるとかならともかく、借り暮らしの身だ。

 そしてなぜおれは、彼に何も言えないんだ。本人が疑問を抱いていないところに、苦言するのが嫌なのか。それもあるが、それだけじゃないような気がする。



 普段は忘れているが、窮したときに思い出す人物がいる。イエス・キリスト? まあ、それもそうだが、もうちょっと身近なやつだ。

 我が友人、ローマン・ディスティニーは、様々なところにコネクションを持っていて、他者への援助を自身の誇りにしているフシがある。マーカスの助けになるのは、おれのようなノーアイディアの輩ではなく、おせっかいおばさん的なキャラクターだ。

 電話で二分も話さないうち、ローマンは「あるわよ。いいバイトが」と、期待通りのことを言ってくれた。

「カーウォッシュのお仕事で1時間100ドル。交通費は込みだけど、悪くないでしょ?」

「1時間で100ドルだって? 戦車でも洗うのか?」

「普通の自家用車よ。条件はハンサムな成人男性であること」

「……なんだか怪しくなってきたな」

「ぴっちぴちのビキニパンツだけ身につけて、裸で洗車するの。運転席には依頼主が乗ってるわ。ボディタッチはなし。極めて健全なアルバイトね」

「どこが健全なんだ! 若い男の裸に金を払うってことじゃないか!」

「個人情報のやりとりなしで、病気をうつされる心配もない。単に車を洗うだけと思えば、割のいいバイトでしょ」

 ゲイに迫られてキレるマーカスには、絶対にできそうもない仕事だ。やってみたいかと本人に訊くまでもない。

「あいつは窮しているけど誇り高いんだ。時給は魅力だが、とても無理だな」

「誇り高いのは結構なことだと思うわ。人生にはお金に代えられないものもあるでしょう。でも窮しているってのはどうかしらね」

「どういう意味だ?」

「本当に困っていたら、仕事なんてそうそう選んでられないものよ」

「彼が仕事を選り好みしているのは理由があるんだ」

「俳優業がメインだからよね? ポールから聞いたわ。でもわたしの知っている俳優たちは、皿洗いでも何でもしてる。彼らはとても誇り高いの。お友達にお金の無心なんてしない程にね」

「なんだよ、ローマン。おれを責めてるのか?」

「まさか。どうしてそういう話になるのよ。あなた、今の流れで“自分が責められてる”って感じたの?」

 よどみなかった会話がストップする。おれは黙りこくり、無言をもって“YES”と表した。

「もし責められてると感じたなら問題ね。何に罪悪感を持ってるか知らないけど…」

「おれのことはいいよ。今話してるのはマーカスのことだ。彼にしてやれることはないかって考えてる。友達として何ができるのかを」

「まずひとつはね、彼にお金を貸しちゃ駄目よ」

「もう貸した」

「ええ、知ってるわ。だから、これ以上、貸したら駄目。あんたの友達はお金中毒よ」

「お金中毒?」

「お金に中毒している人に、現金を渡してはいけないの。食事を奢ったり、プレゼントをあげるのは構わないけど、お金だけは駄目。与えたり貸したりするのは、解決にはならないどころか、もっと病気を悪化させるわ。ドラッグ中毒者にクスリを与えるようなものね」

「オーケー、わかったよ。今のは“友達として、しちゃいけないこと”だろ? “友達として、してやれること”についてはどうだ?」

「それはね、彼と友達でいることよ」

「だから彼とは友達だって…」と、言いかけ、おれはローマンの言葉の意味に気がついた。

「なるほど、そうか」

「そうよ」

「今の意見はすごく助かったよ。ありがとう」

「どういたしまして。今回はあなたが鋭くてよかったわ」

 言葉少なで意思の疎通ができる会話は気分がいい。ローマンとこれができるなら、きっとマーカスとも通じ合えるはずだ。

『彼と友達でいること』それは“単に友達でいる”ということだ。友達の役割からはみ出して、何か別なものになろうとしたとき、その関係性は壊れてしまう。友達関係のみならず、どのような人間関係にも当てはまることだ。

 友達なのに教師のような態度をしたり、恋人なのに親のように振る舞ったり、夫婦なのに子供のように依存したり、上司なのに恋人のように馴れ馴れしくしたり……。“役割”という領分を、相手の了解なしに侵犯したら、両者にとって極めて不愉快なことになる。

 おれとポールは友達から恋人にステップアップしたが、それは互いの気持ちが自然とそのようにシフトしたからだ。おれとマーカスにはそういうことは起きないので、“友達同士”のポジションから動くことはない。だからローマンは『彼と友達でいること』と念を押したのだろう。

 おれにとって友達とは、共に楽しく過ごす間柄のことで、恋人ほど深くはないが、人生には必要不可欠な存在だ。マーカスにとって、自分はそういう者でありたい。一緒にいて気を許せる友人だと、あいつから思ってもらえるように……。



「彼、いつまでいるの?」

 ポールがわざわざ『外で会おう』とメールしてきたのは、この話がしたかったからだろう。おれがマーカスに何も訊けないでいるので、とうとうしびれを切らしたらしい。おれたちはカフェで温かいカプチーノを楽しみながら、あまり手をつけたくない問題について話し合った。

「ぼくが彼を家に招いたんだから、それなりに責任はあると思う」とポールは言った。「あの時点で先のことも決めておけばよかったんだよね。マーカスは今後について何か言っているの?」

「いや、何も。今のところ、確たる展望がないんだ。先のことは決めかねてる状態だな」

「それって“決められない”んじゃなくて、“決めたくない”ってことだよね? 最初から家賃はもらうつもりはなかったけど、あまり長引くと、それも検討しなきゃならないよ」

 マーカスが家事をやってくれて助かると言っていた彼も、遂に我慢の限界のようだ。出て行って欲しいかと訊くと、ポールははっきり「欲しい」と答える。

 おれはまるで自分が責められているような気持ちに陥り、居心地が悪くなった。マーカスに対して不満を溜めてはいたが、出て行って欲しいとまでは考えていなかったのだ。

「きみに迷惑をかけて、本当に悪いと思ってる。でもまだもう少し、待ってやってくれないか? あいつとは近いうち話をするよ。今後についての具体的な取り決めを」

「今まできみがそれをしてこなかったのが不思議だよ。いったいどうして?」

「それは……」

 本当にどうしてなんだろう? おれはマーカスに何も言えないでいる。彼には真実を問い質せない雰囲気があるんだ。もし聞いてしまったら、何かを決定的にしそうな気もする。

「あいつがおれの友達だからだよ」と、おれは答えた。「困ったときに助け合えるのが友達だ。おれはただ……できれば黙って助けてやりたい。親みたいに“働けよ!”なんて、奴も友達から言って欲しくはないだろ。でも金のことを持ち出せば、どうしたってそういう話になる。わかってほしいんだが、あいつには悪気がこれっぽっちもないんだ。口は悪いが、心根は優しい。もしおれが路頭に迷うことがあれば、マーカスは絶対におれを助けてくれる。そういう奴なんだ」

 捲し立てるおれに、ポールは穏やかな声で「そうだね」と言った。「でもね、ぼくには彼がきみを助けるような状況が来るとは思えないんだ。ぼくは仕事柄、先の話はしない。美容師の仕事は、先物取り引きなんかとは違う。完全に労働報酬だ。いつかやってくるかもしれないお金の話なんて、まるで空気みたいなものだから」

 ポールはカプチーノに口をつけて、ひと呼吸置き、「こういうこと言うと意外に思うかもしれないけど……ぼくは働くのあんまり好きじゃないんだよね」と告白した。

「自分の仕事は好きだよ。でも一日何時間も働きたいとは思わない。週に三日、日に五時間程度で充分かな。でもそんなこと言ってたら食べていかれないし。きみはワーカホリックだからわからないかもしれないけど、ぼくは基本的に無理を押して働いてるようなところがあるんだよ。だから正直、マーカスみたいな人を見てるとイライラする。人にお金を借りたり、頼ったりすれば何とかなるって考えてる人にはね」

「彼がそう考えているかどうかは……」

「ぼくが何でこういうアティテュードを持つようになったかってね」おれの言葉を遮り、ポールは続けた。「ぼくの母親がマーカスみたいな人なんだ。“私は働くの向いてないの”とか言って、好きなことに好きなだけお金を使ってる。それで足りない分は、人から借りたりしてるんだ。そんな調子だから、ボーイフレンドはいても友達はいない。彼女、そういう意味ではとっても孤独なんだよね。ぼくはそういう母親を見て育ってる。きみの友達を受け入れられない背景はそんなところかな。悪く思わないで」

 悪くなんて思うわけがない。ポールの言っていることは正しい。おれだってそれくらいわかってる。

「きみの言い分はよくわかった。でもおれは、あいつを突き放すような真似はできない。正直、困ったことになったとは思っているよ」

「うん、きみが彼を突き放せないのはわかってるよ。でもね」ポールが真っすぐにおれを見た。彼の目をゆっくり近くで見たのは、とても久しぶりな気がする。

「ぼくだってきみの“友達”なんだ。それに、あの部屋はきみのものであると同時にぼくのものでもある。ぼくが今の状態を嫌がっていること、“友達であるきみには”知っておいてほしい」

 マーカスのことでストレスを感じているのは、おれだけではなかった。ポールは自分がマーカスを家に招き入れた手前、ずいぶん我慢していたのだろう。

 彼はおれを安心させるように、にこりと笑い、「マーカスが優しくていい奴だってことは知ってるよ。ロブスターのパーティは最高だった」と言った。「だからこそ、どこかで線引きをしなきゃならない。関係性に悪いことが起きる前に」

 ポールの言うことはすべて理解できる。彼は先のことを案じているのだ。おれもマーカスも、現実問題を先送りしてる。そうなればいずれ、“関係性に悪いことが起きる”こともあるだろう。

 空気の重さに逃げ場を探し、おれは窓の外に視線を移した。カフェからはセントラルパークがよく見渡せる。晴れた空、公園で遊ぶ子供たち。あそこには何も問題がないように見える。おれとマーカスも、端から見たら何の問題もなく見えるはず。しかし実情は違う。せめて二人のうち、どちらかだけでも、真実に目を向けなければならない。

 テーブルに肘をついて顎を支えるおれの手をポールは取った。手に軽くキスし「気がついてた? このところぼくたち、セックスしてないんだよ?」と小声でささやく。

「ああ、それはもちろん気づいてたさ」

「よかった。それすらもわかってなかったら、どうしようかと思った」

 “それすらも”か。ってことは、おれは“それ以外の様々なことがわかってない”。少なくともポールにはそう見えるんだろう。

 こっちだって馬鹿じゃない。わかってないわけじゃない。ポールの言っていることは正しいんだ。こんな状態はおれにとっても快いわけじゃない。でもだからと言って、真冬に友達を追い出すような真似ができるか? 今、具体的な提案をされたら、マーカスは困るに決まってる。あいつには家賃なんて払えっこない。それが真実だ。だがポールに迷惑をかけている以上、このままでいいわけもない。

 おれたちは店を出、セントラル・パークの横を通り過ぎた。公園の地面は凍り付いている。マーカスは外で寝るなどとほざいていたが、こんなことろで寝たら間違いなく死ぬだろう。マンハッタンが野宿に向いた土地じゃないのは一目瞭然だ。

 ホームレスにとっては厳しい冬だが、子供たちは天然のスケートリンクに大喜び。小さな足にスケート靴を履いて、嬉しそうにはしゃぎ回っている。散歩途中の犬たちも加わり、公園はドッグ&キッズランさながらだ。

「犬と子供には寒さなんて関係ないね」とポールが首をすくめる。「ほんとに楽しそうだもの。立って見てる親たちは気の毒だ」

「おれたちも仲間に入れてもらうか?」

「えっ?」

「スケートなんて久しぶりだ」

「なにそれ? 冗談だよね?」

 困惑するポールの手を引き、公園の中へと入って行く。

「本当に仲間入りさせてもらうの? 嘘でしょ?」

 半笑いで訊ねるポールに率先して、おれは氷の上にゆっくり足を乗せ、おそるおそる歩き出した。レッドウィングのアイリッシュ・セッターは、少しもスケート靴の代わりにはならない。ポールはダナーのトレッキングブーツで、彼の方がいくぶん有利とも取れるが、いずれにしても五十歩百歩。すべり止めがついていないのだから、危険なことには変わりない。

「転ぶときは尻からいけよ。頭を打たないように」親切に忠告すると、ポールは「転ぶ前提でここにいる意味がわからない」と笑った。

 おれたちは手を繋ぎ合い、うまくバランスをとりながら、“スケートらしい何か”の真似事をする。器用にすべる子供たちの中で、いい大人がヨロヨロやっているのを見て、ベビーシッターたちは苦笑い。ひとりのやんちゃな子供が、おれの背中をドンと押したのを皮切りに、氷の上で鬼ごっこが始まった。犬と子供は興奮して大騒ぎし、冬だというのにおれたちは汗をかいている。ポールは「なんでこんなことに」と、ぼやきながらも楽しそうだ。

 金はあるに越したことはないが、たとえ無くても楽しいデートはできる。そかしそれは生活という基盤が整っていてこそだ。

 公園を引き上げ、おれはポールをレストランに誘った。

「予想外にヘトヘトだ。もう今日は家で料理を作る気にはなれないよ」

 来た方角に戻ると、ポールは「食事って二人で?」と訊ねる。「ああ」と答えると、彼は嬉しそうに手を握ってきた。

 たまには二人きりもいいだろう。このところずっと、おれたちは“三人”だったんだ。マーカスに折り入った話をするのは、また後日。これは問題を先送りにしてる? いや、そうじゃない。今夜は友達ではなく、恋人のことを気にかけよう。ポールはこのところ、自分がないがしろにされていると感じていたはずだ。

 優しく語りかけ、幸せなデートをし、その間、キスとハグは何回でも。恋人にはこれでいい。しかし友達とはどうやって解決したものか。マーカスに対して行動を起こさなければいけないのはわかっている。でもどのように? 彼と何を話したらいいのか、現時点ではさっぱりわからない。



 ゆっくりとディナーを楽しんで帰宅すると、時計は午後10時を回っていた。マーカスはいつものように居間でテレビを見ている。ソファに寝そべり、顔を画面に向けたまま、おれたちに「遅かったな」とつぶやいた。

 おれはコートを脱ぎながら「メールを送ったんだけど、見てなかったか?」と訊いた。「“遅くなる”って書いたんだが」

「見てない」マーカスはまだテレビを見続けている。写っているのは通信販売のCMで、ダイエットのタブレットを紹介していた。

「そうか、悪かったな。一応電話もかけてみたん…」

「人のうちの電話に出るわけないだろ。ちょっとは考えろよ」

 マーカスはさっきからこちらを見ようとはしない。どうやら彼は怒っているようだ。

「ごめん」謝ったのはポールだ。「前もって言えればよかったんだけど、急な外食だったから。いったん家に戻るべきだったね」

 マーカスは身体を起こし、「別にいい」とポールに言った。「おれが携帯を持ってないのが悪いんだ。たまには二人で食事もしたいだろ。こっちに気を遣う必要はないさ」言ってポールに微笑んでみせたが、おれのことは無視だ。彼は立ち上がり「おやすみ」と部屋に戻ろうとした。

「ちょっと待てよ」

 おれの言葉が聞こえなかったかのように、マーカスは歩き続ける。

「ちょっと待て。待てったら」

 前に回り込むと、思った通り、不機嫌な顔をしていた。

「おまえ、怒ってんだろ。おれに言いたいことがあるなら言えよ。こういうの、お互いいい気分じゃない」

 マーカスはふーんと鼻から息を吐き、「この家では、一晩も不機嫌でいさせてくれないのか?」と皮肉な笑みを浮かべてみせた。「おまえに言いたいことなんてないよ。あれば言ってる。見損なうな」

「何も見損なってなんか…」

「じゃあなんだ? 見下してる? それとも同情してるのか?」

 こいつはどうしてこんなに交戦的なんだ? おれとポールが二人で食事に行ったことが気に入らないってだけじゃないはずだ。

 先日ローマンが言ったことを思い出し、「どうしてそういう話になるんだ。おまえ、おれから“自分が見下されてる”って感じてるのか?」と、逆に訊いてみた。しかしそれは状況を悪化させる質問だったようだ。マーカスは「ほらそれだ。上から目線でモノを言うな」と、目つきを険しくする。

「おれが苛立ってる理由はおまえとは関係ない。自意識過剰もいいかげんにしろ」

「だったら一体何があったんだ?」

「ちょっとツキが落ちたまでさ。ブックメーカーでスッちまった」

「ブックメーカー? ギャンブルで負けたのか?」

「おまえが下らないプレッシャーをかけるからだ」

「人のうちの電話に出るわけないと言っておきながら、おれの留守中にギャンブルの電話を?」

「通話料なら払うよ」マーカスはポケットから折り畳んだドル札を出し、「いくらだ?」と言った。

「ふざけるな。通話料のことなんかどうでもいい。金がないと言っておきながら、賭け事をするなんてどういうつもりだ」

「金がないから賭け事をするんだ。儲けるためにギャンブルをやってる。そんなこともわからないのか?」

 おれは呆れて口が利けなかった。ギャンブル業界がどうして潤っているか、こいつはわからないんだろうか。そんなやり方で、本気で金が儲かるとでも思っているのだろうか。

 ポールは傍らでおれたちのことを見ている。会話に参加するつもりはないようだが、立ち去るつもりもないらしい。

 おれは呆れながらも「おまえには才能があるだろ」とマーカスに言った。「どうしてそれを生かさない? 家にいてギャンブルだなんて……オーディションでも何でも受ければいいじゃないか」

 するとマーカスはすかさず「出たいと思う舞台がない」と切り返す。

「探せよ」

「探してる。おれは努力してるんだ。この業界の仕組みはそう簡単なものじゃない。おまえにはわからないだろうが」

「ああ、おれにはわからないよ。文句ばかり言って職に就かないでいることの理由はなんなんだ?」

「仕事についての指図は受けない。おれの生き方についてもだ。おれをコントロールしようとするなら、おまえは敵だ」

「……本気で言ってるのか?」

 それは聞くだけ野暮だった。マーカスは本気だ。目を見ればわかる。

「おれに説教をするのは頼むからやめてくれ。借りた金を返せてないことについては、悪いとは思ってるよ」

 マーカスの謝罪は心ないものだ。おれは「思ってないだろ」と指摘した。「おまえは悪いなんて思ってない。もし思っていたら、今やっているようなことはできないはずだ」

「今やってるようなこと?」

「ポールからも金を借りようとしただろ?」

 マーカスは舌打ちをし、ポールを一瞥。「ゲイはおしゃべりだな」と吐き捨てた。

「そもそもおれは、この家に世話になるつもりはなかった。“住ませてくれ”って頼み込んだわけじゃない。引き止めたのはそっちだ。招き入れておきながら、邪魔になったら文句ばかり。自分の都合で偽善行為か。さぞ優越感に浸ったことだろうな」

「よくもそんなことが言えたな!?」

「黙れオカマ野郎!」

 それはこれまで聞いた事もないような怒声だった。マーカスはおれを切り裂いた直後、声のトーンを低くし、「おまえは変わっちまったよ」と、つぶやいた。「おれの兄弟。イカしたアミーゴはもういない。がっかりだ」

「おれがゲイになったからか?」

「そうじゃない。それ以前の話だ。絵を描くのをやめちまうなんて」

 わずかに寂しげな顔をして見せたが、それはすぐに苛立ちへと変化する。

「どいつもこいつも。おれのように本気で芸術に生きる奴なんかいやしないんだ。結局のところ、会社勤めみたいな楽な仕事に流れちまう」

 会社勤めは楽な仕事じゃない。楽だという仕事すら満足にできないような奴に、おれを罵倒する権利はない。そう思ったが、反論はしなかった。何を説明しても無駄だという虚無感と、罵倒された衝撃が、おれの心を満たしていたからだ。

 マーカスはおれをひと睨みし、「昔のおまえなら、おれのこと殴ってたぞ」と言う。「おまえのためなら勝ち目のない相手と喧嘩するのも構わなかった。命をくれてやってもいい友達だと思ってた。それなのに……」ポールを横目で見、続く言葉を飲み込む。

 マーカスは一旦、部屋へ戻り、出てきたときには、手にカバンを、背にはジャケットを羽織っていた。

「世話になったな」と別れの挨拶を述べるマーカス。「感謝はしてる。本当だ。借りた金は後で送金する」

 おそらく金は戻ってこないだろうが、そんなことはどうでもいい。マーカスがここから去ろうとしている。それなのにおれは棒立ちになったまま、何も言えない状態だ。

 ドアが閉まる音を聞いたが、まだ身動きできなかった。ポールがそっとおれの手を取ったところで、我に返る。

「ごめん……おれは…」言いかけ、次の言葉を探す。おれは何について謝っているのだろう。

 ポールは首を左右に振り、「座る?」と訊いた。おれたちは揃ってソファに腰を下ろす。

 マーカスは出ていった。おれは出て行けと言ったのだろうか。いや、そんなことは一言も口にしてない。金を払えとも、働けとも言ってないはずだ。おれはわからない点について、いくつか質問をした。そしてそれはマーカスの気に触った。たぶん責められているような気になったのだろう。

 先日のローマンとの会話で、同じようなことがあった。『なんだよ、ローマン。おれを責めてるのか?』おれはそう言ったんだ。あのときおれは、マーカスを庇いだてしていると、たしなめられた気がした。しかし実際、ローマンはそんなことはひとことも言っていなかったのだ。

 人にする親切とは何なのか。マーカスにとっての親切は、おれが何も言わずに、何も聞かずに、金を貸すことだったんだろうか。

 そんなおれの考えを見通すように、ポールは「彼にお金をあげても解決はできなかったと思うよ」と言う。「これはそういう問題じゃないから……」

 金銭の問題じゃないとしたら、何が問題だったのか。おれとマーカス、どちらが悪いわけでもない。おれたちは自分の生き方に忠実であったまでだ。

 ローマンはマーカスを『お金中毒』と評した。もしそれが“薬物中毒”などのようなものだとしたら、きっと精神にも影響があるだろう。マーカスはあんなことを人に言うような奴じゃなかった。だからあれは病気による行動なんだ。

 ポールはおれの腕に手を乗せている。おれはその上に自分の手を重ね「もしできるなら、彼のことを悪く思わないで欲しい」と頼んだ。

「あいつは……あいつは本当は優しい奴なんだ。ただ、今は色々うまくいってないだけで……そうじゃなかったら、あんなことは……いつか何もかもうまくいって、ブロードウェイの舞台で……きっと……」

 おれの説明は空々しく聞こえる。自分でも何を言っているのか、よくわからなくなってきた。

 脳裏にマーカスの言葉がフラッシュバックする。

 ───オカマ野郎。

 この酷い言葉を口にしたことがないとは言わない。だが他人に向かって投げつけたことは、一度たりともなかった。そして投げつけられたことも。

 いつからマーカスはおれに対して怒りを溜めていたんだろう。芸術を捨てたことだけじゃない。おれが同性愛者になったことも、彼は嫌だったに違いない。

 先進国でゲイは受け入れられつつあるが、差別が完全に消えたわけではない。マンハッタンは進歩的だが、田舎に行けば“オカマ野郎”は、依然として忌み嫌われる存在だ。

 差別について無意識だったことはないが、それでも現実的には他人事だったように思う。友人や身内が新しいおれをすんなり受け入れてくれたおかげで、おれは自分がマイノリティになったと自覚することはなかった。しかし現実には、この国で“差別を受ける側”になっていたのだ。

 膝の上で組んだ自分の両手を見つめながら、おれは混乱をまとめようと必死だった。そしてようやく見つけた言葉を振り絞る。

「彼はおれの……親友なんだ」

 するとポールは悲しそうな顔で「いつ?」と訊いてきた。それだけでおれは、彼の質問の意図がわかってしまう。

「ああ、そうだな……ずっと……ずっと前だよ。きみに会うよりずっと……」

 おれは変わったのだろうか。かつての親友がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。その疑問を口にすると、ポールは「きみが変わってくれてよかった」と澄まして言った。

「もし変わってくれてなかったら、イカしたアミーゴのディーンは、女の子ばかり追いかけてて、きっとぼくには目もくれなかっただろうからね。マーカスには悪いけど、ぼくは現状に満足してるよ」

 ぺろっと舌を出すポールに、おれは思わず笑ってしまった。

「おかしい?」とポール。

「ああ」笑いながらそう答えると、「じゃあ、よかった」と彼も微笑んだ。

 ポールはおれを笑わせるのがとてもうまい。ときには言い合い、喧嘩もするが、最終的にはいつもお互いが笑顔になる。

「残念な聖夜になったね」とポールが言ったので、今日がその日であることを思い出した。時計は0時を過ぎ、日付は24日になっている。さらに思い出したのは、彼にプレゼントを買っていなかったということ。忘れていたわけではなく、先延ばしにしているうちに、買いそびれたというのが真相だ。

 そのことを謝罪すると、ポールは「このところ色々あったからね。気にしないで」と言い「ぼくからのプレゼント、ちょっと早いけど、もう渡すよ」と部屋に取りに行った。

「はい、メリークリスマス」

 手渡されたのはシックな黒の包装。バーニーズのものだと一目でわかる。

「今開けても?」

「いいよ」

 包みを開くと、革の手袋が現れた。エルム街のフレディがはめているみたいなやつだ。

「こういうのが欲しいって言ってたよね? まだ買ってないみたいだったから……」

 そうだった。こんな感じのを買おうと思っていたんだ。今の今まで、すっかり忘れてた。

「ああ、ポール。最高だ。ありがとう……」

 おれの親友はポールだ。それはこれからもずっと変わることはないだろう。

 彼は『どういたしまして』と応える代わり、おれにキスをした。ポールは親友であると同時に、最高の恋人でもある。ふたつの要素を、彼ひとりでいっぺんにまかなえるなんて、こんな素晴しいことがあるだろうか。

 レストランの予約を忘れ、ターキーも買っていないが、おれたちは素敵なホリディを作ることができる。寒空の下、公園で遊ぶだけで馬鹿みたいに楽しめる恋人同士。クリスマスはキャンドルを灯し、毛布をかぶって、世界が終わった空想をする。ここにはインターネットも電話も存在しない。家にある食料を食べ尽し、裸になって愛し合い、手を繋いで眠り、目が覚めたら缶詰とクラッカーを食べて、また愛し合う。後になって「クリスマスなのに電話にも出ないなんて非常識」とママに叱られたが、この小さな遭難劇は、おれとポールをとても幸福にしてくれた。



 一週間後、マーカスに貸した金が、全額郵送されてきた。どうやって工面したのかは分からない。携帯電話も持たない彼に、確かめる術はなかった。

 以来、街でサンタクロースを見かけると、おれはつい顔を確認してしまう。それがホームレス風の男であれば、いくらかチップを掴ませる。サービスを受けてもいない相手にチップをやるのは、相手を見下した失礼な行為? そう思うのは富裕層だけだ。ほとんどのサンタは、それを笑顔で受け取ってくれる。

 誰もが幸福を追い求めているが、この世は強い人間ばかりではない。マンハッタンの冬は長く、とても厳しい。春はまだ遠く、おれはこの街で、古い友達の幸福を願っている。


END

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