第24話:父の秘密(Justify My Love)

 人間が動物と異なる点をひとつあげよう。それは『美を認識する』ということだ。

もちろん他にもいっぱいあるだろうが、これはウチの社長のお気に入りのフレーズ。美術品を流通する会社にふさわしい主点だ。

 人が美を認識するとして、感覚的に他者とイメージを共有しているかといえば、それは大きく異なっている。ヘビを見て醜いと思う者もいれば、美しいと感じる者もいる。美とは曖昧かつ、個人的なもの。誰かが「これは美しい」と評価したものが、まるっきり自分に訴えかけてこないというのは、よくあることだ。

 今、おれの母親が「アート」としてハマっているのは、ポットホルダー。フライパンの取っ手を掴んだり、鍋の下に敷いたり、ポットのフタを開けたりするときに使う実用品だ。

 彼女の新しい趣味について、息子のおれが言うべきことは何もない。完全に“無”だ。

 しかし母親というものは、無から何かしらのものを生み出すことを得意としているらしい。電話口で捲し立てるは、ポットホルダーの講習会について。なんと母はポットホルダーのマイスターなのだ(無表情)。

「……それで何を教えたらいいかって考えたの。マイアミではセーターの編み方教室ってわけにもいかない。でもポットホルダーなら誰でも使うでしょ。どこのおうちにもひとつはあっていいものよ。レース編みもいいけど、趣味が限定されるしねぇ、でもあれは額に入れると本当に素敵なのよ。そもそもレース編みは……☆÷≧∞±◎*#~∴♂§<@」

 後半部分は文字化けではなく、おれの耳に入ってきた情報を正しく記号化したものだ。ママのスイッチが入ると、おれのスイッチはオフになる。レース編みの歴史と重要性。恐ろしく興味深い内容に、だんだん気が遠くなってきた。

「ちょっと? もしもし? 聞いてるの?」

 いや、まったく聞いてない。が、自動的に「うん、聞いてる」とか言ってしまう、おれの口。

「それでね、お教室にギャラリーを併設するのよ。ママも昔はショップで働いていたから、ディスプレイに関しては、それなりに詳しいんだけど。でも専門家のお知恵もお借りしたいと思って」

「専門家っておれ?」

「そうよ。いつも絵の展示会をやってるでしょ」

「うちのは販売目的だ。大規模なイベントで、奥様が趣味でやる、ちっちゃな作品展とはわけがちがう」

「おやまあ、格好つけちゃって。何も難しいことを聞こうってんじゃないのよ。飾りつけのコツとか、お客様に喜んで頂けるようなアドバイスをね、あなたから頂きたいと思ってるの」

「わかったよ。そういうのは後日メールに書いて送るから。もう切っていい? クリーニングを取りに行かなきゃならないんだ」

「はいはい、ママと喋るのが苦痛で仕方ないんでしょ。オシャレなズボンでも何でも取りに行ったらいいわ。あ、そうだ、エドセルがあんたのところに行くわよ。二、三日中に着くと思うの。詳しくは本人とやり取りしてちょうだい。じゃあね」

 なんでそういう重要な話を最後にするんだ。いや、ママにとっては“かぎ針編みのポットホルダー”の方が、夫と息子の対面よりも大事なのかもしれないが。

 それにしても、二、三日中とはずいぶん急だな。おっと、こうしちゃいられない。オシャレなズボンを取りに行かなくっちゃ。



 おれの父親、エドセル・ケリーは、長年の失踪を経、現在は母のところに“通い婚”をしている。エドセルの住まいはアラスカで、妻のミリアムはマイアミ在住。同じ国内とは思えないほど離れていて、間にあるカナダをどけたとしても、うちからブラジルに通うより遠い。距離と時間をものともしないのは愛のなせる業か。よく母が「年を追うごとに時間の経つのが早くって」とこぼしているが、15時間のフライトが20分ぐらいに感じられるのであれば、ジャネーの法則もそれほど悪くないように思える。

 父からメールがあったのは、母と話した三時間後。アラスカからマイアミに行く途中、おれのところに寄りたいとのこと。マンハッタンには彼の息子(俺だ)と娘(姉貴)そして孫(おれには姪と甥)が、住んでいる。アラスカとマイアミ、ニューヨーク間を結ぶと、合計六千マイルを軽く越える。スープが冷めるどころか、カビが発生してもおかしくない距離だ。

 それでも父は旅の疲れを少しも見せず、「会えて嬉しい」と、おれとポールを交互に抱きしめた。ママだったらこうはならない。まずフライトの文句から始まり、コーヒーを要求し、おれの健康状態をチェックしてから、ようやくハグに至るのだ。

 エドセルはトランクからサーモンとジャーキーを取り出して、「少なくてごめん」と謝った。「荷物のほとんどはミリアムへのお土産なんだ。肉や魚をマイアミに持って行って調理する。彼女は台所仕事が嫌いだからね」

「ママに顎で使われてるってわけ? “おれはきみの専属コックじゃないぞ!”って言ってやればいいのに」

「それが専属コックなんだ。彼女が喜んでくれるから、おれも楽しんでやってるよ」

 長年、家族の前から姿をくらましていた父は、失われた時間を取り戻そうとするかのように、母との蜜月を味わっている。両親が仲良くしているのは、子供にとって喜ばしいことだが、“いかにミリアムがポットホルダー作りの才能があるか”というノロケを聞かされるのは、いい年をした息子には面映いものだ。

「父さんまでおれにポットホルダーの話を? レース編みの講義はこの間、聞いたから大丈夫だよ」

 冗談めかして言うと、エドセルは神妙な顔つきになり、「いや、話は別にある……」とつぶやいた。

 本題はポットホルダーではなく、エドセルが持っている店のこと。父はアラスカでイヌイットの伝統的な工芸品を販売している。それはトーテムポールから、モカシンまでと幅広い。テレビで取り上げられたこともあって、それなりに繁盛しているのだが、今は店を畳むかどうか迷ってるそうだ。

「ミリアムから一緒に住もうと言われているんだ」エドセルはコーヒーに砂糖を入れ、そう言った。「おれが留守をしている間は、イヌイットの家族に店を任せている。彼らに権利を売って、マイアミで余生を過ごそうかと」

「いいと思うよ。ママのコンドミニアムは便利だし、ひとりで住むには広すぎる」

 彼が言うには、店を息子に譲渡することもできるとのことだったが、おれはアラスカには興味がないし、マンハッタンを離れるつもりもない。

「だから父さんが自由にやっていいよ。おれからは別に何も」

「うん……そうだな」

 父はカップを両手で包んで持ち、考え込むようにコーヒーを見つめている。

「何かまだ気になることがあるんですか?」そう訊ねたのはポールだ。「お店のことで心配事でも?」

 エドセルは「いや、そういうわけでは……」とつぶやいたきり、やけに歯切れが悪い。

「イヌイットの家族に店を任せるのが嫌だとか?」

 おれが推論をぶつと「そんなことはない。彼らはよくやってくれている」と否定した。

「じゃあ何?」

「うん、つまりね、土地に愛着があるんだよ。単純にそれだけの話だ」

 彼はそう言って微笑んだが、本当のところ、“単純にそれだけの話”ではなかった。それがわかったのは深夜近く。三人でビールを飲んでいたときのことだ。

「きみにとってはショックな話だと思うが」と前置きし、「おれはアラスカに恋人がいたんだ」と言う。

 こんなに男前なんだ。そりゃ彼女の一人や二人いただろう。おれは大人で、父親に母以外の恋人がいたからといって、ショックを受けるような幼稚さは持ち合わせていないつもりだ。

 おれはビールの栓を開けながら「でもあれだろ、もう別れたんだよね?」と確認する。

「いや、死んだんだ。おれがあの町に移住した翌年に。それだから、付き合っていた期間は短かった。半年ほどだったかな」

「お気の毒に」

 ポールはそれがついこの間、起きたことのようにお悔やみを述べた。

「それであの町を離れ難いんですか?」

 エドセルはビールの泡を見つめ、「まあ、そんなところだ」と言った。

「でもそれってずいぶん昔のことだよね? ここらで心機一転、引っ越すのもいいんじゃない。墓前に報告して、マイアミに越すことを許してもらうとかすれば」

 おれはターキー・ジャーキーをもぐもぐしながら、軽い口調で意見した。なぜエドセルが20年以上も前に付き合っていた恋人に気兼ねしているのか、さっぱりわからなかったからだ。

 ふとポールが「彼女の名前は何て?」と訊ねた。するとエドセルは「“彼女”じゃない」と答える。

「おれの恋人は“バル”と呼ばれていた。本名はバーナビー・ホールデン。とても魅力的な男だったよ」



 ビールの泡が消え、さらにぬるくなるに任せ、おれとポールはエドセルの話に聞き入った。

 今のおれと同じ年の頃に、父は男と交際していた。西海岸から来たエドセルと、不良の御曹司バルの物語。彼がこんなにしゃべったのを聞いたのは、間違いなくこれが初めてだ。

「ベッドに横たわるバルの手を握っていると、指の間から命がこぼれ去っていくのがわかった。不思議とそれが実感としてあったんだ。愛する者が目の前で死んでいく。それなのに自分は何もできずにいる……。愛は万能だとか、奇跡を起こすだとか言われもするが、おれに関しては残念なことに違っていた。いくら愛していようとも、死を止めることはできない。自分は無力だと痛切に思い知ったよ。それから何年もずっと、おれは打ちのめされた気持ちだった」

 鼻をすする音に傍を見ると、ポールが目を真っ赤にしていた。おれは黙って彼の肩を引き寄せる。

「ごめん、いつもはこんな泣き虫じゃないんだけど」ティッシュで鼻をかむポールに、エドセルは「構わないよ」と優しく微笑む。「バルのことで泣いてくれる人は今は少ない。彼も嬉しいと思うはずだ」

 父はそう言ったが、ポールはバルの死を悼んで泣いたわけじゃないだろう。エドセルが体験したこと。恋人を死神に連れ去られる男の気持ちを想って涙したのだ。

「あの…さ、母さんはこのことを…?」

 恐る恐る尋ねると「ミリアムには話したよ」という意外な答えが返ってきた。「驚いていたが、すぐに受け入れてくれた。『息子がゲイになったのは遺伝だったのね』とジョークを言って笑ってもくれたしね」

「それってジョークなのかな」

「まあ、そうじゃないかもしれないが。とにかく、彼女はおれを許し、受け入れてくれたんだ」

 父に彼氏がいたのは、もう二十年以上も前のことだ。今さら嫉妬もないだろうし、年を取ると人を憎んだり裁いたりが面倒になると聞く。サッパリした性格のママにしてみりゃ、“もうどうだっていい”ってことなのかもしれない。

 しかし、おれはどうにも奇妙な心持ちだ。“子が親に”ではなく、“親が子に”カミングアウトしてきたんだ。これで複雑な気持ちにならない息子はいないような気がする。

 エドセルが寝た後、おれとポールはベッドでこの件について話し合った。彼はエドセルの話を「美しい」と感じたらしい。

「エドセルにはとてもつらいことだし、こういうの不謹慎かもしれないけど、でも美しいと思ったよ。残酷な運命の中でも愛は輝く。むしろそれだからこそ、愛の尊さがわかるのかもしれない。あんな風にひとりの人を愛せるなんて……すごいことだよ」

 ポールはうっとりとした目つきで、柔らかくため息をついた。「きっと素敵なカップルだったんだろうな。きみのお父さんはきみに似てハンサムだし」と、おれに笑いかける。

最後のコメントは間接的におれを褒めたつもりだろうが、正直そこはどうでもよかった。不細工だからとか、ハンサムだからとかは、この話に関係ない。問題は親父がやったことだ。エドセルの選択は果たして正しかったと言えるのだろうか?

 おれは枕に肘をついて頭を支え、「どうも自分はこれを美談だとは思えないな」と言った。「あの話の影には捨てられた家族がいたんだぜ? おれとアイリーン、エドセルの妻のミリアムだ。バルとやらが死んでまでして恋人を引き止めなきゃ、親父はカリフォルニアに戻ってた」

「きみはまだお父さんに腹を立ててるの? きみたちを捨てて行ったことで?」

「いや、もう怒っちゃいないさ。ただ、何ていうか……親がゲイだってのはすごく変な感じがする。あのエドセルが男とキスしたり、抱き合ったりとか……ちょっと想像つかないし、したくもない」

「きみがゲイなんだから自然だとも言えるけどね。きみのママだって“遺伝だ”と」

「それはわかってる。エドセルとバルは惹かれ合った。ただそれだけの話なんだとはね」

「ねえ、きみ自覚ある? きみが今言ったことは、とても差別的なことだよ。もし逆だったらどう? エドセルがぼくらを祝福する代わりに、“息子が男とキスしたり、抱き合ったりするなんて、想像したくもない”と言ったらどう感じる?」

「表現を変えるなよ。おれはそんな言い方してないだろ」

「そう? ほとんど同じと思うけど」プイと唇を突き出すポール。

「なあ、ローマンにはこのこと、話すなよ」

「もちろんだよ。何でそんなことを?」

「きみは何でもローマンに言うだろ」

「何でもってなに? ぼくだって分別はある。エドセルが大切に仕舞っていたことを、他人にベラベラ喋るような奴だと思ってんの?」

「そんなことは思ってない。ただ一応……」

「もういいよ。この話は終わりだ」ポールは寝返りをうち、シーツを肩まで引っぱり上げた。

「人が喋ってるのにその態度は何だよ」

「威圧的に言われたら誰だって喋りたくなくなる」

「おい、誰が威圧的だって?」

「ほら、それだよ。きみはいつも無自覚だ。さっきもゲイ差別したし、本当にデリカシーがない」

「差別じゃない。おれはただ感じたことを言ったまでだ」

「きみはエドセルの繊細さは受け継がなかったんだな。彼の息子だなんて信じられない」

「別に信じてくれなくていいさ。おれが嫌なら、親父のところに行けばいい。素敵な話できみを泣かせてくれるだろうぜ」

「そんな言い方するなんてひどい!」

「そっちが先に始めたんだろ!」

 おれたちは背中を背け合い、互いの顔を見ずに眠ることに合意する。二時間前までは感激して涙ぐんでいたポール。今やすっかり白けた雰囲気になってしまった。

 思うに、ポールがエドセルの話に感動するのはゲイだからだ。『ブロークバック・マウンテン』なんかと混同してる。“もし自分がミリアム・ケリーの立場だったら”とは考えないらしい。

 ポールは同性愛者で、女嫌いではないが、やっぱりどこか女性に厳しく、ゲイの男に甘いところがある。そしておれはやっぱりどこか同性愛に抵抗があるのだ。

 “偏見”ではなく“抵抗”。ほとんど生理的なもので、観念とはまた別モノだ。「おまえもゲイなんだから理解できるだろ」と言われても、おれはポール以外の男には、一度たりとも惹かれたことはない。胸毛に欲情したことはないし、ましてやペニスなんてとんでもない。性的には完全にストレートと言ってもいいだろう。そんなおれの気持ちはさっき言った通り。“父親がゲイだってのはすごく変な感じがする”ってこと。

 だって、ホモセクシャルってのは、男とキスしたり、抱き合ったり、それ以上のことをしたりするんだ(おれはゲイなので、その手のことは普通よりも詳しい)。あのエドセルが、どこの奴とも知れない男と………なんて。考えただけで呼吸困難になりそうだ。

 自分のゲイは受け入れて欲しくても、親父のゲイは受け入れられない? そうかもしれない。自分勝手な話だが、それが本心なら認めないわけにはいかない。



 午後の飛行機でエドセルはマイアミに向う。姉のアイリーンはパリに家族旅行をしていて、会うことは叶わなかったが、その代わりに昨日は友達に会ったとのこと。

 おれはエドセルのスーツケースを運びながら「マンハッタンに友達がいたなんて知らなかったな」と何気なく言った。

「ローマンだよ」

「ええ!?」

「おれたちが友達だったらおかしいかな?」

「いや……そんなことは…ない……けど……」

 壊れたロボットのような喋り方になるおれに、エドセルはくすりと笑い「ただの友達だ」と強調する。それは先日の爆弾発言を意識してのことだ。

「きみの親友にゲイ的に惹かれているわけじゃない。安心して」

「ああ、やだな。別におれはそんなつもりで言ったんじゃないよ。あいつが父さんに変なちょっかい出すんじゃないかって心配しただけ。それに一応訂正しておくけど、ローマンはおれの親友じゃないから」

 タクシーが掴まりそうな大通りに出ると、エドセルは「きみには本当のことを知って欲しかった」と言った。「きみに男の恋人がいると知ったとき、おれは真っ先に自分の過去を思い出したんだ。それで、本当のことを話さないとフェアじゃない気がした。でも時期的に正しかったのかは疑問だ。きみにショックを与えてしまっただろうから」

 寂しげに微笑むエドセルに、おれはムキになって言い返す。

「なんでそんなこと言うの。話してくれて嬉しかったよ。おれたち親子だろ。変な気遣いは無しでいこうよ」

 我ながらよく言うよ。心の中では、“親父のゲイは認め難い”と思っているくせに。今のは“変な気遣い”だが、本当のことを言って、彼を落ち込ませたくはない。それにこの違和感は完全におれの問題だ。エドセルはこれっぽっちも悪くない。

 彼がタクシーに乗り込む直前、おれたちはハグをし、愛していると伝え合う。太った運転手がニヤけ顔でこっちを見るので、おれはわざと「じゃあね、“父さん”」と言ってやった。野郎二人がマンハッタンの目抜き通りで抱き合って、耳元に愛を囁いていたら、そりゃもう“ゲイに決定”だろう。

 エドセルもそれに気づき、「じゃあな、“息子”」と合わせてきた。おれたちは目を見合い、笑いを噛み殺す。

 走り去るタクシーを見つめ、そして考える。エドセルがいかにもオッサンっぽいルックスだったら、あのドライバーはおれたちのことを、普通に“親子”として認識しただろう、と。

 息子のおれが言うのも何だが、エドセルは魅力的な部類の人間だと思う。顔立ちが自分に似てるから言ってるんじゃない(無論それも彼の魅力のかなり大きなパーセンテージを占めるが)。話し方が穏やかだし、立ち振る舞いも静かで、何か独特の空気がある。どこがどうとはうまく言えないが、彼の周りだけ時間の流れが違うような気がするほどだ。

 おれが今の父の年齢になったとしても、おそらく同じ雰囲気を持つことはできないだろう。エドセルとは人生の蓄積が違う。悲劇は彼の額縁だ。そして嫌なことにゲイを惹き付ける魅力もあるのだ。ローマンはかつてエドセルに執心していたが、今でも連絡を取り合っているとは知らなかった。ポールやローマンがやたらに褒めるので、あえて見ないようにしていたが、エドセルは確かに男前で、妙な色気がありもする。それは過去のゲイ体験と関連するものだろうか。実の親父に“色気”とか言ってる時点で、もう何かおかしいような気もするが、リブ・タイラーだって父親のセクシーさは認めているはず。おれも彼女に倣って親父を絶賛してみようか。『うちのパパったら本当にセクシー!』……そりゃもう“ゲイに決定”だ。




「……どうしたの?」

「ごめん、駄目だ」

 恋人から離れ、枕に顔を埋める。ポールはおれの後頭部を撫で、「最近、調子が悪いね」と言った。「最後までしたこと、このところないよ?」

 そうなんだ。それはわかってる。相手を満足させたいし、自分も放出してスッキリしたいが、駄目なものは駄目だ。よもや、この年でこんなことになるとは。バイアグラの導入を真剣に考えるべきだろうか。

「一体どうしたの?」と聞かれ、おれは枕から横目でポールを見た。

「きみとしてるとその……浮かぶんだよ」

「なにが?」

「エドセルだ。親父のことを考えてしまう。これっぽっちも考えたくはないんだが、勝手に浮かび上がってくるんだ」

「ああ……」

「きみにキスすると、“親父もこうしたのかな”とか、“男を押し倒したりしたんだろうか”とか、“そもそもトップとボトム、どっちなんだ?”とか……本当に嫌になる」

「なんかきみ、自分がどうやって生まれてきたのかを知ったばかりの子供みたいだ」

 おれは上半身を起こし、「もっと悪いぜ」と言った。「男同士がヤッてもおれは生まれてこない。同性同士がセックスする目的は子づくりじゃないからな。知っての通り快感を得るためだ。エドセルは男とヤリたがった。いや、ヤラれたがったのかもしれないが……」

「そんな風に言ったら彼が気の毒だし、それにぼくらだって快感を得るためにセックスしてるじゃない。親だって人間だ。セックスは子づくりのためだけにあるんじゃないよ」

「わかってる。わかってるんだ。でもどうしょうもない。頭に浮かぶものはコントロールできない。おれだってこんなの嫌さ。どうしたらいいか……まったく……」

 エドセルのカムアウトは、とんだ弊害をもたらした。おれはなんだってこんなに神経質なんだろう。おそらくこれは親譲り。ママやアイリーンとは違う。ケリー家の男子のみに見られる遺伝的要因だ。

『ゲイ的に惹かれてるわけじゃない』とエドセルは言ったが、もう片方はどんなつもりかわかったもんじゃない。おれは携帯を取り出し、履歴から“親友でない男”を呼び出した。



 バーは照明が最低限に絞られていて、コソコソ話をするのに最適な場所だ。いつもはカウンターに並んで座るが、今日はボックス席をリザーブした。

「まあ、なあに。ポールに隠れてアタシと浮気しよって算段なら、申し訳ないけどお断りするわ」

 狭苦しいシートに身体を押し込め、ローマンは嬉しそうにそう言った。

「安心してくれ。きみと浮気するくらいなら、おれはドードー鳥を相手にするよ」

「相変わらず失礼ね。あんたが無礼なのは元気な証拠とも言えるけど」

 実際はそう元気でもない。とくに下半身にそれは顕著だ。しかしそんなことを言ったら、また面倒な話になるのは必須。今夜の密会はローマンの真意、エドセルに対してどういったアプローチをしているのかを、確かめることが目的だ。ただでさえ悩み多いところにもって、こいつが突拍子もない行為に出る前に、しっかり釘を刺しておかないと。

 ローマンはマティーニをオーダーし、「ああ、そうよ。こないだ彼とデートしたの。とっても楽しかったわ~」と、抜け抜け言った。

「なんだそれ。エドセルから振られてあきらめたんじゃなかったのか」

「それはそれよ。今はただの良いお友達のひとりとしてね」

「は。きみに“良いお友達”なんてものがいたとは驚きだな」

「あら、じゃあアタシたちの友情は?」

「おれたちのは“腐れ縁”ってやつだ」

「まあ、ひっど」

 ローマンは運ばれてきたカクテルに口をつけ、「あんたも息子なんだから、もうちょっとエドセルにマメになっておやりなさい」と、ママのような説教をする。「あたしの方があんたよりよっぽど多く彼とメールしてるわよ」

 いい年をした男が父親とマメマメしくメールなど、遺産相続でもない限り、発生しない。レース編みの個展を開く予定もないし、とりたて親に報告するべき日常でもないのだ。

 そう説明すると、ローマンは「不肖の息子ね」と、おれを評する。

 “不肖”とは、立派な親とは比べものにならない愚かな子を示す言葉。ポールのみならず、彼までおれと親父を比較している。

「確かにエドセルはいい奴だよ。でも完璧ってわけじゃない。きみもポールも、なんだってそんなに親父のことが好きなんだ? ゲイ的に訴えかける魅力があるとでも?」

「そりゃあるわ。でもそういうことだけじゃなくて。たとえばそうね……彼は偏見が少ないのよ。あの年でもって、かつアラスカの人で、ゲイフレンドリーなのって珍しいわ。エドセルは本当に心が広いのよね。どっかの誰かとは大違い」

「おれがエドセルの息子だなんて信じられないだろ」

「そうまでは言わないけど。なんたって外見上は濃い遺伝子の繋がりを感じられるわけだし」

 ローマンはじっとおれの顔を見、そしておもむろに頬にキスをした。

「なにするんだ!」

「ほら、もうここからして違う。エドセルはあたしがほっぺにチュッてしても、嫌がらないで受け止めてくれるもの」

「おい! 彼とは“良いお友達”なんじゃなかったのか!?」

「良いお友達でもそれぐらいはねぇ。まあ、キスっていうか、“ビズ”よ、“ビズ”」

「“ビズ”ってあれか、フランス語でいうところの挨拶のキス」

「そうよ、ちょっとは教養があるみたいね」

「ここはアメリカだ。フランスとは文化がちがう」

「よい文化は積極的に取り入れたいと思ってますの」

「きみには日本の文化をおすすめするよ。目を合わせず、身体のどこにも触れず、お辞儀をするんだ」

「やあよ、そんなのつまんない。エドセルはアラスカンだから、鼻と鼻をくっつける挨拶もいいわね」(※鼻と鼻をくっつける = 昔のイヌイットの挨拶)

 この男を退けたいのは、偏見以前の問題だ。隙を見てキスをしかけたり、鼻と鼻をくっつけようと企む奴に心を広く保つことなんて、できるわけがないし、したくもない。

 警戒のレベルをイエローからレッドに引き上げるおれに構わず、ローマンはしつこくエドセルを賛美する。

「ほんっと、彼のセクシーさったら、とてもひとことじゃ言い表せない。やっぱり人間は中味よねぇ。ジムで筋肉を鍛えようが、日サロに通ってブロンズの肌を手に入れようが、人生経験を伴う色気には勝てないわ」

「そりゃあ、彼はそれなりに長生きしてるからな。おれだって50過ぎれば、人生経験とやらも自動的に満期になる」

「それは何を積み立てるかによるわよ。エドセルは素敵なゲイ体験があるに違いないわ!……って、ちょっと大丈夫? お酒が気管に入った?」

 激しく咳き込むおれの背を撫でるローマン。涙目になりながら、おれは「あるわけ……ないだろ」と否定する。

「きみは何でもそれに結びつける。誰でも彼でも自分の妄想に引き込むな」

「誰でもってわけじゃないわ。あそこの席に座っている男性二名はストレートでしょ。あっちのスツールにかけてる彼もそう。でもって、あのバーマンはゲイね。ほら、ちゃあんと見極めて、より抜いているもの」

「そうか、きみのゲイ鑑定眼には恐れ入ったよ。だけど、エドセルはゲイじゃない。おれのお袋と結婚して、二人も子供を作った男のどこが同性愛者だって?」

「同性愛者だなんて言ってないわ。ただ“ゲイセックスの経験があるだろう”って思っただけ。それはゲイじゃなくてもできるでしょ」

 ローマンはそう言って、ゲイじゃないのに男の恋人を持った男、すなわちおれを指さした。

「ねっ、ほら、ぐうの音も出ない」勝ち誇ったようにローマン。「いいこと。エドセルには、ぜったいに、ゲイ体験が、あります」

 一字一句、正確に発音する彼に、おれは「ないね」と、突っぱねる。

「じゃ、賭ける?」

「賭けるのは嫌だ」

「そらやっぱり。自説に自信がないのよね」

「だいたい賭けの結果をどう知るっていうんだ?」

「そんなの本人に訊けばいいことよ。“あなた、男性と致した経験ございませんこと?”」

「おい、よせよ。馬鹿なことを彼に訊くんじゃない」

 そんな質問をされてみろ。おれがローマンにばらしたと、エドセルから疑われるに決まってる。

「ご安心あそばせ。もうちょっと柔らかい表現にして質問するから。とりあえず賭けは続行ね。50ドル? それとも100ドル?」

「……嫌だって言ってるだろ」

「あら? どこかで鶏が鳴いたかしら?」ローマンは意地悪く耳を澄ませた。「男ならバーンと張ったんなさいな。オカマに負けるのが怖いなんて、意気地がないわよ」

「ふざけるな! こんなのやってられるか! 負けるとわかってるのに賭ける馬鹿がどこにいる!」

 思わず怒鳴ると、ローマンは口をぱかんと開け、「……なにそれ、どういう意味?」と、つぶやいた。

 おれは慌てて口を覆ったが、出た言葉は回収不能。

「つまり、その、なんだ、おれが言いたかったのは、ええと……ちょっとトイレ」

 席を立とうとするおれの両肩に手を置くローマン。無理やり着席させ、「あたしに隠し事なんて百年早い」とドスの利いた声で言う。マティーニのグラスから楊枝に刺さったオリーブをつまみ上げ、「正直におなり。でないと、これを尿道に突っ込むわよ」と睨みつける。

 脅しかけられ、おれはすべてを告白した。ローマンのセクハラ予告は、マフィアに銃を突きつけられるのと同じくらい恐ろしい。これでしばらくはオリーブが食べられない体質だ。



「彼にそんな過去があったなんて、ちっとも知らなかったわ……」

 ローマンはベソベソ泣いている。ティッシュで鼻をかみ、「なんて悲しい……でも美しい話ね」と、感想を述べた。

 彼もまたこの話を“美しい”と感じている。おかしいのはおれだけなのか。いや、まだそうと決まったわけじゃない。男のゲイから二票得ただけだ。

「新しい土地でエドセルはひとりぽっちで。どんなに悲しかったことでしょうね。できることなら、当時の彼を慰めてあげたい……ええ、そうよ、もしも願いが叶うなら、わたしの魂を蝶に変えて。彼の元へと飛んでいきたい……」

「鱗粉でも撒き散らすってのか。せいぜい殺虫スプレーに気をつけるんだな」

「あんた、あたしの清い愛になんてことを」

「きみこそ、人の悲劇で遊ぶな」

「とんでもない。あたしは本気よ。いつだって本気なの」

 そしてバッグから鏡を取り出し、泣いた後の顔をチェックし、「よし」とつぶやき、鏡を戻す。

「とにかく、よくわかったわ。それでエドセルはアラスカを離れられないのね。恋人の魂が眠る土地だもの。あんたのおかあさんからしてみれば、ムカつく話でしょうけど。死んだ人には勝てないわ」

 死んだ人には勝てない。もっともだ。若く美しい時期を凍結して死んだ者は、良い思い出だけを残し、場合によっては神格化される。エドセルにとって、バルはジム・モリスンとかカート・コベインみたいな存在なのだろう。

 暴露ついでに、おれは自分とポールとの間に起きたことも話して聞かせた。茶化されるかと思いきや、「あんたも苦労が絶えない性格してるわね」と、同情たっぷりの目で見つめられる。やめてくれ。笑われてコケにされた方がまだマシだ。

「なんか、前にもこういうことがあったわよねえぇ?」

 そう彼が言うので、おれはちょっと考え込んだ。前にも? いったい何のことだ?

 憶えがない旨を正直に伝えると、「父親のことで悩んで、それでアラスカに行ったんでしょ」と言う。

 それはおれが最初にエドセルに会ったときの話だ。父親と対面することで、自分のアイデンティティに生じた葛藤を解消する。勇気のいる作業だったが、その旅は結果的にとてつもなく価値があった。おれに父親が戻り、ママは夫を取り戻したのだ。

「ここでウダウダ話してても埒があかないわよ」とローマンは言う。「思考を停止し、行動あるのみ。前回同様、アラスカで解決してきなさい」

「行って親父に聞けってのか? “パパ、あなたはトップ? それともボトム?”」

「そんな失礼な言い方、あんたにできるわけがない」

「じゃあどうしろって? だいたい今、親父はアラスカじゃない。おふくろとマイアミにいるんだ。妻の目の前でゲイセックスの話なんて、いくらオープンな家族だってあり得ないだろ」

「誰がそんな話しろって言ってんのよ。あたしが言いたいのはね、あんたはバルに会ってくればいいでしょってこと」

「バル? 彼は二十年以上も前に死んでるんだぜ? 会うってどうやって? 降霊術でもやるってのか?」

「アラスカには彼をよく知る人がまだ残っているでしょう。小さな田舎町だもの。マンハッタンみたいに週ごとに隣人が変わるなんてことはないはずよ」

 それはそうだ。あの町で最初に入ったレストランバー。あそこは紀元前からありそうだし、町の人々はエドセルのことをよく知っていた。

「あんたはアラスカの空気を吸って都会の垢を落とし、そこで考えるのね。人の愛がどんなものかを」

「きみが愛について語る資格があるとは思わなかったが……でもいいアイディアだ」

「でしょう? お礼のチュウは?」

「“ビズ”だろ」

 自慢げな彼の頬に軽く唇を落とす。ローマンはおれの親友とは言い難いが、腐れ縁もそれなりに悪くない。



 エドセルが住んでいる町は、セント・ピーターズ・タウン。そこで一番大きな農場を検索すると、とても簡単にヒットした。

『ホールデン農場&牧場』。オーナーは以前おれに民宿を世話してくれたバーバラ=アンだ。彼女が資産家だったとは、ちっとも気付かなかった。田舎のセレブはひと味違う。

 週末を利用して、アラスカまでひとっ飛び。雪のない季節で助かった。おかげで荷物は前回の半分で済む。

 町は相変わらずの寂れぶりで、巨大なビルもモールも建設されていない。中心地は五つの道が交差する通りで、『石切り場』というバーレストランが角にある。店に入ると、おれに気付いたオーナーが「やあ、久しぶりだな」と挨拶をした。前回以来だというのに、彼はおれの顔を覚えている。それもそのはず、おれはエドセルとよく似ているし、父は彼に“息子”が登場したことを話してあった。娯楽の少ないセント・ピーターズ・タウンで、“エドセルの隠し子”の噂は瞬く間に広まり(別に隠してたわけじゃない。単に忘れてただけだ)、イケメン親子は知る人ぞ知る存在だ。

 オーナーは「よく来たね」と言った後、「こんなに早く戻るとはエドセルは言ってなかったが……」と、記憶をたぐるような顔をした。

 おれはカウンター席に腰掛け、「父はまだマイアミです、今回はおれだけで」と答える。

「きみだけ?……ふむ」

 この“ふむ”は、“はて? どういうことだ?”という意味だろう。オーナーはチャールズといって、エドセルの友人だ。きっと父の携帯番号もメールアドレスも知っているに違いない。

 おれは正直に「実は親父には知らせずに来たんです」と彼に言った。「ええと、だからあの……」

 どう説明したものかと口ごもるおれに、チャールズは「わかった、“エドセルには内密に”だな」と頷いた。

「すみません。ご理解頂けて恐縮です」

「別に何も理解なんざしてないさ。ただ“面倒は御免だ”ってだけだ」

 チャールズは朴訥だが、ぶっきらぼうな言葉の影に暖かみが感じられる男だ。よくは知らないが、きっと口も固いはず。マフィアに拷問されても、おれのことは吐かないだろうと想像できる。

『石切り場』で昼食を済ませ、『ホールデン農場&牧場』に電話をする。バルのことを聞く目的ではなく、民宿を世話してもらうためだ。この辺りの物件はバーバラ=アンが仕切っている。前回と同じところを紹介してもらおうとしたが、なぜだか電話が繋がらない。まあいいか。まずは、“次に口止めする人物”に会いに行こう。



 エドセルの店は『石切り場』から五分のところに位置している。トーテムポールと木彫りのカラスで装飾された小さな土産物屋。町を訪れた人は、ここでアラスカ旅行の記念品を買って帰るのだ。

 キャッシャーには若いイヌイットの青年がいた。まだ学生だろうか。幼さの残る顔立ちで、おれを見ると「こんにちは」と笑顔を振り撒いた。

「何かお探しで?」

「いや、ここのオーナーの…」

「オーナーは今留守です」

「ああ、それは知ってる。ええと、きみ、お父さんかお母さんはここに?」

 エドセルは“イヌイットの家族に店を任せている”と言っていた。きっと彼の両親がそれだろう。

 青年は不思議そうな顔をし、「ぼくの親ですか? 今はアンカレッジに住んでますが…?」と首を傾げておれを見る。

 まずい、これじゃ不審な客だ。おれは慌て、エドセルの息子だと身柄を晒した。

 すると青年は「あなたがディーンですね」と明るく笑いかける。

「お会いできて嬉しいです。エドセルはまだ帰ってない……ですよね?」

「それなんだけど、実は親父に内密でここに来たんだ。おれがいること、彼に言わないで欲しいんだけど……変なことを頼んで申し訳ない」

 青年は微笑みながら、「うーん、それは理由によりますね」と微妙な返事。

 理由は“彼氏とのセックスに問題が生じて”ということだが、こんな純朴そうな若者にはとても説明できない。おれは懸命に「悪いことを企んでるわけじゃないんだ」と訴えた。

「エドセル抜きで、この町を見て回りたくて。親父がいると、どうしても“やあ!エドセルの息子!”みたいなことになるだろ? そういうの、何かやりにくくて……あのさ、それできみのご両親は? エドセルは“家族にこの店を任せてる”って言ってたんだけど」

「家族ってのは、ぼくのことです」

「え……でも、きみは……」

 そこへ、奥のドアからイヌイットの少女が入ってきた。腕には小さな赤ん坊を抱いている。青年は彼女に声をかけ、「エドセルの息子さんだよ」と、おれを紹介した。

「これはぼくの妻でモーリン。それと娘のタラ。言い忘れたけど、ぼくはジェスロ」

 はにかんで挨拶をするモーリンは、どう見ても中学生、下手したら小学生に見えなくもない。エドセルが店を任せたのは、この初々しい夫婦のことなのだ。

 少し世間話をすると、滞在の詳しい理由についてはウヤムヤになった。空港からここまでのタクシー代に話が及ぶと、ジェスロは「ここで車がないのは、足がないのと一緒ですよ」と言い、車のキーを差し出した。

「よかったら使ってください。商品搬入用の車なので、あまり奇麗じゃないですけど」

 車はエドセルのもので、自分の乗用車は別にあるとのこと。商品搬入用なら、軽トラックかライトバンあたりだろうと推測し、ガレージを開けてビビッた。メルセデス・ベンツのSUV、しかもGクラスだ。マンハッタンではまず見かけることのない車種で、黒光りするボディはうっとりするほど格好いい。差し迫って必要なわけではないが、喜んで借りることにする。(*SUV = 四駆のスポーツ車)



 輝く湖と、それを取り囲むクロトウヒ。車が通ると同時に、道ばたからカナダカケスが一斉に飛び立つ。アラスカの景観を眺めながらのドライブは大そう気分がいい。おれは窓を開け、窓枠に肘をかけた。風を受けながらオフロード車のアクセルを踏む。なんだかワイルドな男になった気がする。これで助手席にポールがいたら完璧だったのに。

 カーナビを無視して走り回り、最終的に到着したのはエドセルの自宅だ。もちろん鍵がかかっているため、入ることはできない。

 平屋の一軒家で、町からはずいぶん離れている。ついでに隣人宅からも離れていて、辺りに住宅はまるでなく、家の隣は巨大な池。そして、うっそうとした森がすぐ近くに迫ってきているとなれば、夜にはホラー映画さながらの光景となるに違いない。建物自体は典型的なアーリーアメリカン建築で、水色の壁はかわいらしいと言えなくもないが、周辺環境は斧を持ったジェイソンがいそうな雰囲気だ。

 メルセデスの高級車を乗り回しているくらいだから、金がないわけじゃないだろう。ここより好条件の場所はいくらでもあって、それでも引っ越そうとしないのは、やっぱり“土地に愛着がある”とかいうことなんだろうか。おれにしてみれば、こんなところに住むのは何らかの罰としか思えない。

 そういえば、バルの墓はどこにあるんだ? まさかこの辺りに埋まってるんじゃないだろうな。

 家の周りをぐるりと一周し、墓石らしきものを探す。見つかったのは物置とバーベキューグリル、薪割り用の切り株、それとゴミ焼却炉だけだった。

「普通に考えて、そんなもんあるわけないか……」

 バルは良家の御曹司だ。きっとそれなりのところに手厚く葬られているのだろう。

 時計を見ると午後8時を過ぎていた。日が長いのでまるで気付かなかったが、もう今は夜なのだ。アラスカヒグマの活動時間は何時からなのか。惨殺された自分の姿が脳裏をよぎり、おれは車に飛び乗った。ホッケーマスクの殺人鬼は映画だが、人食い熊は現実にいる。本当にエドセルは、なんだってこんなところに住んでるんだ。マイアミかアラスカか、どちらか選べと言われたら、だいたいの人はマイアミを選ぶに決まってるのに。

 28年も昔、それもたった数ヶ月間だけの恋人。バルとやらは、いったい何と言ってエドセルをこの町に引き止めたのか。

 おれから親父を奪った男は、ここにはいない。町に戻ってもう一度仕切り直しだ。



『石切り場』に戻ったときには、すっかり日が落ちていたが、おかげでディナータイムの混雑時は避けられた。エドセルの家に行ったことを伝えると、チャールズは「あそこまでどうやって?」と聞いた。

「ジェスロからエドセルの車を貸してもらえたので」

「ああ、彼らに会ったのか」

「二人とも、すごく若く見えますね。失礼だけど、最初は子供だとばかり。家族に店を任せてると父から聞いていたので、もっと年配を想像してたんです」

「店を任せるなら、若い奴にだな。世代交代の時期はいつか訪れる。うちの店も、そういうことは考えてるよ」

「どなたか跡を継がれるんですか?」

「いや、おれは独身で子供はいないし、委託するアテもない。だが、もうあと十年の間には決めないとな」

 町に若者は減っているとエドセルは言っていた。セント・ピーターズ・タウンが発展する見込みは、今のところなさそうだし、外の世界に出ていきたいという若者の気持ちはよくわかる。もしおれがこの町に生まれていたら、やはりどこか遠くへ、アンカレッジか、もしくは別の州に出て行ったに違いない。店内の客は、おれより年上の男ばかり。エドセルと同世代の者は、きっとバルのことも知っているだろう。

 ハンバーガーとイモのフライをすっかり平らげたにも関わらず、おれはまだ席についたまま。コーヒーのおかわりももう充分。いいかげん本題に入らなければ。

 店がすいたところで、おれはチャールズに「聞きたいことがあるのですが」と、切り出した。

「あの、バルって人について、何か知ってますか? 本名はバーナビー・ホールデンといって、昔この町に住んでいた男性で……もう亡くなった方なんですけど」

 チャールズはカウンター越しに、じっとおれを見つめ、少しの間を置いて「きみの口からその名が出るとは……」と、つぶやいた。

「奇妙な感じだ。きみはエドセルの若い頃にそっくりだからね」そしてしみじみとした口調で「ああ、よく知っているとも」と答えた。

「よければ教えてくれませんか。彼ってどんな人だったんです? 写真とかありますか?」

「バルの写真は家にあると思う。店を閉めるまで待ってくれ。もうあと一時間程度だ」



 チャールズの住まいは一棟に四世帯を収納する集合集宅だ。まったく同じ形の建物が八棟、林の脇に整列して並んでいる。屋根には小さな煙突があり、それは融雪ボイラーの排気用だとのこと。それを除けば、マンハッタンのアパートとあまり違いは見られない。室内は予想されたカントリースタイルではなく、ヨーロッパの品の良い家具が揃えられていた。

「外気温がマイナス40度ともなれば、家の中に凝らざるを得ないのさ」

 チャールズはそう言うが、エドセルの家には猫足のスツールやベネチアンランプは置いてないだろう。ひとりがけのソファにおれを座らせ、「ちょっと待っててくれ」と言ったきり、彼はなかなか帰ってこない。寝室で死んでいるんじゃないだろうかと思い始めた頃、埃だらけのクッキー缶を手に戻ってきた。

「何度か引っ越しをしたから、すぐに見つからなかった」とティッシュで缶を拭き、蓋を開けた。そこには古びた写真が整理されずに詰め込まれている。

「写真を見せる前に聞きたいんだが」とチャールズ。「きみはお父さんからバルのことをどう聞いてる?」

「どうって……その…父と彼は……」

「そうか」

 彼はそれ以上、何も言わなかった。どうやらおれの表情ですべてを把握したらしい。つくづくポーカーに向かない体質だ。

 チャールズは写真を無造作に取り、カードを切るみたいにして選り分け始めた。あれも違う、これも違うという感じで、探しながら「バルの写真はほとんどないんだ」と言う。

「彼はどんな人だったんですか?」

「うん、あいつはとんでもない奴だったよ」

 何か思い出したのか、チャールズの口元がほころぶ。“とんでもない奴”という言葉の意味を計りかねていると、「いわば、“ならず者”ってやつだ。今どきの言葉では、"Badass"だな」と言った。そして手を止め、「おっと、これだ」と、差し出す。

 数人の若者がラクガキだらけのレンガ塀を背に並んでいる構図。印画紙は色が褪せ、角が切れていた。そのうえフォーカスが甘く撮れている。この中にエドセルはいないようだ。写っているのは、レザーとデニムに身を包んだ、ならず者たち。中にひとりだけ、ずば抜けてクールな男がいる。おれは黒いテンガロンハットの男を指さした。

「この人ですか」

「そうだ。よくわかったな」

 写真に撮られるのが嫌いなのか、それとも撮られていることを意識しているのか、バルはカメラを睨みつけていた。

「こいつらは『ラングラーズ』というグループで、バルはそのリーダーだ。メンバーは揃いのバックルを身につけて、肩で風を切って歩いていたよ」

「『ウォリアーズ』みたいですね」

「そうだな。あの映画とだいたい同じ時期だ」

「エドセルもこの仲間に?」

「いや、彼は加わらなかった。渡頭を組むのが嫌いなタイプだ」

 チャールズは次の写真を選び出した。「これがエドセル。一緒に写ってるのは、バルの妹のエミリー。彼女は今ロスにいる。実業家と結婚して、確か子供が三人……いや、四人だったかな。帰郷すると、必ずうちの店に寄ってくれるんだ」

 食い入るように写真を見つめていると、チャールズは「どうだ? 若い頃のエドセルはきみとよく似てるだろう?」と聞いてきた。

 まあ、そうだ。顔の造形はほぼ一緒。言われる通り、よく似ているが……このエドセルはおれよりずっと素敵だ。何というか、表情に詩的なものが感じられる。写真の若者と今の自分を比較すると、おれはもっと薄っぺらい感じ。クリスマスツリーで言えば、プラスチック製の特売品と、森で切り出してきた樅の木くらい違って見える。

「エドセルが町に来た当初、バルは彼のことが気に食わなくて、ずいぶん嫌がらせをしていたんだ。車を壊したり、ラジオを盗んだりしてね。エドセルもほとほと困り果てていたよ。それがいつの間にか、惹かれ合うようになった……まったく運命というのは不思議なもんだな」

 西海岸からやってきたシャイな笑顔の若者と、町一番の不良が恋に落ちる。ドラマみたいな筋立てだが、この二人には似合っているんじゃないだろうか。彼らが恋人同士だというのは、絵的にしっくりくる。寝ているところを目撃したとしても、ゾッとするイメージにはならないだろう。写真を見せてもらってよかった。なんだか憑き物が落ちた感じだ。

 チャールズは話しながら写真を選別している。バルの姿はほとんどないが、エドセルを写したものはやたら多い。

「写真が趣味の男がいて、頼んで撮ってもらったんだ。写真家としてはアマチュアだが、腕はいい」

 撮影は一眼レフのモノクロ写真。背景はアラスカの大自然や、ノーマン・ロックウェル的、町の情景。その中にエドセルはいて、それはまるで映画のようだ。憂いを含んだ表情は、恋人に先立たれた後だからか。“アバクロンビー&フィッチ”とか、“D&G”とかロゴを入れたら広告にも使えそう。こんな条件で撮れば、誰だって格好良くなるに決まってる……というのは完全に負け惜しみだ。おれが同じことをしたら、そうとう嫌味になるだろう。プラスチックのクリスマスツリーじゃ太刀打ちできない。

 アンチェインド・メロディが聞こえてきそうな写真の数々。薪を割るエドセル。フライパンを持つエドセル。ダッジを運転するエドセル……。ええと、それらはいいけど、この“水浴びするエドセル”は、どうだ。湖での写真らしいが、何枚もある。下着はつけてるけど、なんか透けてるし。そのアマチュア写真家、名前はブルース・ウェーバーっていうんじゃないか? 父親の裸。ましてや若い頃のものだ。それを他人と一緒に眺めてる。なんだか落ち着かない気持ちになってきた。

「この写真家、ゲイなのかな……」

 無意識でつぶやいた言葉をチャールズが拾った。

「そう思うか?」

「いや、まあ、なんとなく……」

 言葉を濁すおれに、彼は言う。

「写真家は同性愛者じゃない。ゲイはおれだ」

 思わぬカムアウトに言葉を失っていると、チャールズはまったく涼しい顔で、「頼んで撮ってもらったと言ったろ?」と続けた。

「驚いたか? “なんてこった! アラスカにもゲイはいる!”……びっくりだな?」

「いえ、そんな……」“自分もゲイなので”と言いかけたところ、チャールズは今度こそ、おれを驚かせる発言をした。

「おれはエドセルから振られたんだ」

 そう言った後、“しまった”という風に額に手をやり「忘れていたよ。何も飲み物を出してなかったな」と言う。「失礼したね。コーヒーがいいかな? それとも酒を?」

「あ、じゃあ……酒で」

「すぐ持って来るよ」チャールズはキッチンに消えた。

 さっき彼は何て言った? 振られた? ゲイが親父に言い寄って振られたって? エドセルの写真をいっぱい持ってる? それはなに? ゲイだから? バルはエドセルの彼氏で、チャールズは友達。でもエドセルのことが好きだった? エドセルはゲイ? バルもゲイ? チャールズはゲイで、ついでに言えばおれもゲイだ。うぅむ、そろそろ混乱してきたぞ……。

 チャールズはメーカーズマークのボトルと、氷を満たしたアイスバケットをテーブルに置き、さっさと酒を作り始めた。さっきの話題を蒸し返していいものかと考えていると、彼は「バルが亡くなった後、何度かエドセルにアプローチしたんだ」と、自分の方から話し始めた。

「だが無理だった。エドセルは誰とも付き合わないと決めていて、特定の恋人を作らずにいた。おれはムキになって、かなり強引な真似もしたが……死人相手に勝ち目はない。結局バルからエドセルを奪うことはできなかった」

 次々と繰り出される告白。相づちすら打てないでいると、チャールズは「父親のこういう話を聞くのは妙な感じだろうね?」と言った。そして酒をひと口やり、「だが誰にでも若い頃はある」と続ける。

 そうだ。もちろんだ。誰にでも若い頃はある。でもこんな話じゃないはずだ。

 こっちの混乱を察したか、彼は別の写真を選び、「これがおれだ」と見せてくれた。写っているのは19世紀の男女。男はチャールズで、チャップリンみたいな山高帽と、フロックコートを身につけている。

「店を継ぐ前、おれはカリフォルニアで俳優をやってたんだ。ハリウッドの映画にも出たよ。端役ばかりだったが、面白い仕事だったな」

「俳優ですか。それはさぞかし素敵だったでしょうね」

 いきなりミーハーの虫が出た。おれは“ハリウッド”とかいう単語にやたら弱いんだ。

 するとチャールズは笑い出し「きみはエドセルとはルックスの点で瓜二つだが、中味はまるで違うな」と言う。「“さぞかし素敵だったでしょうね”なんて台詞がスラリと出てくる。昼も“ご理解頂けて恐縮です”とか言ってたな? 仕事でもないのにそんな口を利く奴は、この辺にはいない。まるで外国語のように聞こえたよ。きみは確か営業職をやっているんだったかな?」

「営業は以前に……今は契約とかそういう……まいったな、恥ずかしい……」

「ああ、すまない。嫌味に聞こえたら申し訳なかった」

「いえ、いいんです。あなたの言う通りだ。おれにはマンハッタンの社交術が身に付き過ぎてる。スノッブな若造だって思うかもしれないけど、悪気はないんです」

「気にすることはない。それは“地域差”ってやつだ」

「エドセルだったら何て?」

「彼はあまり口が立つ方じゃないからね。言っても『へえ』とか『そうなんだ』とか。そんな感じだな。あまりにも表現しないので、何を考えているかよくわからないことがある。あいつはとことん難しい男だ」

『それでも彼のことを好きになったんでしょう?』と言いかけてやめた。それはあんまり馴れ馴れしすぎる。

 チャールズが恋したのは、“口べたでわかりにくい、とことん難しい男”。エドセルとのことは、きっと言葉じゃなかったんだろう。

「エドセルは生涯に二人の人間しか愛さなかった。きみのおかあさんとバルだ。きみがなぜ父親の過去を探りたいと思ったかは知らないが、これだけは言っておくよ。エドセルは少しも浮わついた男じゃない」

 それはチャールズの言う通りなのだろう。父の誠実さとおれの誠実さはまったく違っていて、浮わついた男という点においては、おれの方が確実にエドセルよりまさっている。

 父の若い時分を“ドラマみたい”と思ったが、実際にドラマはあったのだ。おれとポールの間にも起きたからよくわかる。出会って惹かれて、恋に落ちるまでの物語。エドセルのは波瀾万丈だ。家族を捨ててアラスカに赴き、新しい土地で新しい愛を見つけたが、それは死によって奪われる。そこにチャールズという友人が加わり、それぞれの想いは交錯。ガス・ヴァン・サントあたりが撮りそうな、胸に刺さるストーリーだ。

 チャールズは琥珀色の液体で唇を湿らせ、アルコールで潤んだ目をおれに向けた。

 その眼差し。おれを通り越し、別の人物を見ている。おれの顔に若きエドセル・ケリーの面影を見つけているのだ。

 いつのまにかメーカーズマークは空になり、どうやら飲み過ぎたらしい。ほとんどチャールズが空けたのだとは思うが、おれもかなりいってるはずだ。

「遅くなったな。きみはどこに泊まってる?」

「あ……しまった。宿をとるのを忘れてた」

「明日、帰るんだろう? よければ泊まっていくといい。ただしソファで寝ることになるが」

 今から宿を取るのは大変だ。たった一泊だけだし、ここは好意に甘えさせてもらおう。

 貸してもらったソファは上等だったが、このサイズだと足を丸めて寝ることになる。おれは床に降り、フトンを敷くみたいにして、毛布を伸ばした。トルコ絨毯は美しいが、ベッドの役割を果たしてはくれない。きっと明日は背中が痛くてひどいことになる。

 チャールズのベッドを半分わけて欲しい気もしたが、あんな告白を聞いた後とあっては、かなり気まずいことになりそうだ。“誘ってる”と思われたら困るし、だからといって『誘ってるんじゃないんですけど、ただシンプルにベッドに入っていいですか?』と注釈するのは無礼極まりない。

 おれを見つめたときのチャールズの目。あれは恋する男のそれだ。ひょっとしたら彼は今でも、エドセルのことを愛しているのかもしれない。

 チャールズはバルが生きていた頃から、エドセルを好きだったんだろうか。そうだとしたら、彼らは三角関係ということになる。エドセルはそんなこと少しも言っていなかった。いちどきにではなく、追々話そうと思ったのだろうか。それともずっと隠しておこうと? バルとチャールズはエドセルを争ったのか? チャールズはカリフォルニアの俳優あがりで、外国客船の料理人をしていたエドセルとは話も合いそうだ。しかし選ばれたのはストリートギャング。不良がモテる時代とはいえ、あのチャールズを差し置いてというのは、なんだか腑に落ちない。まあ、きっとバルはそれだけいい男だったんだろう。エドセルの好みは少しもおれと似ていない。もしそれが遺伝してたら、おれはポールではなく、もっと野郎っぽい男に惚れていたのかも。

 そういや、チャールズって独身だよな? 彼に恋人がいないってのは、どういうことだ? エドセルがバルにこだわるように、チャールズもエドセルに関わり続け、それで未だに独り者ってことはないだろうか。でもそれを聞くのは失礼な気がするし…………やばい。まったく眠れない。どうしておれはこうなんだ。せっかくひとつ解決したと思ったのに、チャールズがカミングアウトしてくれたおかげで、また悶々としてしまう。

 時差ボケも手伝い、まんじりとせずにいると、頭の横で携帯が震えた。

 おい、朝の四時だぞ? こんな時間にいったい誰……──。着信はエドセルだ。まさかおれがアラスカにいることがバレた? だとしたら一体どこから漏れたんだ?

 通話にラインを繋ぐと、「ディーン?」とエドセルの声がした。

「ああ、父さん……言い訳したくないけど、でも聞いて、これには深い訳が……」

「ディーン、落ち着いて聞いてくれ。ミリアムが倒れた」



 マンハッタンとマイアミには時差はないが、アラスカとマイアミには四時間の差がある。こっちは明け方だが、マイアミは朝の8時過ぎだ。おれは大急ぎで飛行機のチケットを取ったが、デンバー経由の便で11時間と40分かかる。朝早くに連絡を貰ったにも関わらず、病院に着いたのは夜になってからだ。

 母は集中治療室に入れられていて、人工呼吸器と何だかわからない複数の管、モニタリングのための装置が設置されていた。エドセルの説明によると、風邪気味だと感じた母は、この病院で点滴を受けることにした。普段はそんなことはしないのだが、個展を目前に控えていたため、大事をとったつもりらしい。ところが点滴にアレルギー反応を起こし、ショック状態に。自発呼吸もできなくなり、その場で緊急入院となったそうだ。

 暗くて長い廊下からエドセルが戻る。

「アイリーンは明日の朝には着く。パリは悪天候だそうだ」言って、おれの隣に腰を下ろした。

 深夜の待ち合い所には誰もおらず、やけに大きな掛け時計が、カチコチと音を立てて秒針を刻んでいる。ウレタンフォームを貼ったオレンジ色の椅子が整然と並び、壁には優しげな絵───モネの『睡蓮』と、ルノワールの『花瓶の花』だ。 こういう場所には印象派というルールでもあるんだろうか。おれの行きつけの歯医者も、モネの『睡蓮』を飾ってる。平凡だが、正しい選択。どう間違ってもフランシス・ベーコンなんかは選ばれないだろう。

 こうやって絵画についてあれこれ考えているのは、わかりやすい逃避だ。自分の手に負えないことが起きると、おれはまったく関係のない事柄について思いを馳せる。起きている現実から逃げ出したくなるんだ。

 とにかく、ここに父さんがいてくれてよかった。もしこれが数年前に起きたことなら、おれはひとりでアイリーンを待つことになっただろう。それは恐ろしく心細いことだ。

「下の階に自動販売機のコーナーがある」とエドセルは言った。「行ってコーヒーでも飲んでくるといい」

 おれは首を振り、「一緒にいるよ」と答える。「父さんがここにいるなら、おれも」

「じゃあ、ふたりで買いに行くか。今夜は病院に泊まることになりそうだ」

 そう言って立ち上がった拍子、彼はよろめき、壁に手をついた。

「父さん、大丈夫?」

「すまない……ちょっと目眩がした」

「いいよ、横になって。看護師さんを呼ぼうか?」

「いや、少し休めば大丈夫だ」

 おれは強引にエドセルを長椅子に横たわらせた。

「無理しないで。父さんまで倒れたら困るよ。血圧を測ってもらおうか? それとも栄養剤か何かを注射してもらうとか」

「針は苦手だ」

「注射嫌いは遺伝だったのか……」

「うん?」

「いや、おれも同じ事を言うんだ。“針は苦手”。子供っぽい言いぶりだとは知ってたけど、まさか父さんもだとはね」

 エドセルは天上を見つめ、「DNAの不思議だな」と言った。「同性愛も遺伝した」

 それは静かなつぶやきで、ほとんど独り言のようだった。

「病院は嫌いだ。バルが亡くなったとき、嫌な思いをいっぱいした。昔のアラスカのことだから仕方ないが、当時は本当に酷かった。特に差別というものがね。バルは金持ちのひとり息子で札付きのワルだ。そんな彼の病室に、身内でもない男が毎日訪れる……。噂はすぐに広まったよ。バルの親父さんに取り入ろうとする者もいて、そういう奴はおれに親切だった。言うまでもなく金目当てだ。病院の外科部長は寄付を求めていたよ。重病の息子を持つ父親に向かって“支援を”と。バルの妹をストーカーする看護師がいたり、おれには隠れゲイをやってる奴が言い寄ってきたり……本当に数えきれないほど色々あった。そんな中で穏やかな最後をセッティングするのはとても難しくて……ああ、おれはなんでこんな話をしてるんだろうな。ちょっと混乱しているみたいだ」

「いいよ、続けて。こういうときじゃなきゃ、話さないだろ」

「いや、もういい。やめておこう」

「おれは聞きたいよ」その言葉にエドセルが視線を向ける。

「すごく知りたかった。今朝、電話をもらったとき、おれはアラスカにいたんだ」

「なんだって?」

「父さんがカリフォルニアに帰ってこれなかった理由……バルのことを知りたくてさ。探るような真似をしてごめん。でもどうしても気になったんだ。こんなこと、今話すべきじゃないってのはわかってる。でも…」

「“こういうときじゃなきゃ話さない”……だろ? わかってるさ」

 父は身体を起こし、長椅子に座った。

「おれの告白はおまえを不安にさせてしまったんだな。申し訳ない……」

そしておれの背に腕を回し、引き寄せる。父の肩に頭をもたせかけると、それはとても暖かく、とても頼れる感じがした。

「父さん、こわいよ。ママが死んでしまったらどうしよう?」

 おれはまだ身内を亡くしたことがない。近しい者を死で失ったことは一度もないんだ。

恐怖でいっぱいになっている息子に、エドセルは「もしそうなったらどうするかって?」と、質問をおうむ返す。肩を抱いた腕と反対の手で、父はおれの手を取った。「どうするも何もない。残された者だけでやっていくんだ。それはいつだってそうだ。おれがきみの側に居なかったとき、きみのママはひとりできみを立派に育てた。だから……」と、ここで言葉を切り、「よそう」と強く言う。「そんなことは考えるんじゃない。おれたちがしっかりしないでどうする。今もミリアムはひとりで戦っているんだぞ」

 もしこのとき、彼の手を握っていなかったら、おれは父の言葉に励まされただろう。息子の手を握るエドセルの手。それは小刻みに震えていた。

 冷静であろうとする父の心の中は、おれと同じくらい怯えている。いや、むしろそれ以上かもしれない。愛する人を失うことがどんなことか、彼はよく知っているのだ。

 いくら愛していようとも、死を止めることはできない。指の間から命がこぼれ去り、自分の無力さを思い知る。それからは何年も打ちのめされた気持ち……。

 人生はドラマのよう? 確かにそうかもだが、今はそんなこと考えたくもない。ここで起きていることは現実だ。

 おれは本当に馬鹿だ。エドセルの過去を調べ、それを“ドラマみたい”などと能天気に。なにがガス・ヴァン・サントだ。人の人生を軽々しく捉えて、わかったような気になって。実際は万分のいちも、エドセルの気持ちを理解していなかった。おれが今感じている痛みの数倍も、父は苦しんだに違いない。愛する者を失うことがどんなに悲しいことか。家族を捨てさせるまでの決断を強いられたんだ。

 おれは父の手を強く握った。おれたちはここにいて、同じ人のことを思っている。命の理において、人は無力かもしれないが、想う気持ちには力がある。

 エドセルがバルを失ったとき、こうやって近くに居たらよかった。今みたいに手を取って、彼を支えてやれたものを。その当時、自分は一歳くらいだから実際には不可能だが、それでもそうできたらと思う。ローマンが言っていた“蝶々になって云々”と同じレベルの話だ。

 親子がひとかたまりになっていると、不意に呼び出し音が鳴った。携帯ではなく、壁に取り付けられた電話からだ。おれはそこまで行って受話器を取った。

「もしもし……ああ、はい……わかりました」

 通話を切り、おれはエドセルに言った。

「ママが目を覚ましたそうだよ。今から会えるって」

 父は両手で顔を覆い、神の名を小さく口にした。そして頭を上げ、立ち上がる。そのときの彼の表情については、曰く言い難い。こんなときに、このような表現は不適切かも知れないが、とにかくそう見えたのだから仕方ない。

 ───父はとても美しい。

 おれは奇妙な既視感を体験した。写真で見た若い男、あの魅力的なエドセルと一緒にいるような気がしたのだ。



 結論から言うと、ママは完璧に助かった。奇跡の復活を遂げたのは三日と空けず、翌日のこと。目を覚ますと同時に自発呼吸が可能となり、その日の夜には「お腹が空いた」と文句を言って、フルーツジュースを飲んでいた。

「ほら、わたし、この年まで全然健康だったでしょ? それだもんだから、点滴が駄目だなんてわからなくて。食べ物にも金属にもアレルギーがないから、油断してたわよ」

 病院のベッドに身体を起こし、まくしたてるママ。ベッドサイドには見舞いの花々が咲き誇り、彼女の元気さと相まって、何かのお祝いのように見える。

「この年になってこんなことが起きるなんてねぇ? お医者さんもびっくりしてたわよ。ずっと謝り倒してて、何だか可哀想なことしちゃった」

「なに言ってんだよ。ママは被害者じゃないか。この病院を相手に裁判だってできるんだぜ?」

「訴えるなんて嫌よ。時間もお金もかかって面倒くさい。そんな暇があったら、個展よ個展。今回は皆にたくさん迷惑かけてしまったわ。退院したら挨拶にいかなくちゃ」

「そういうのは今はいいから。身体のことだけ考えて休まないと」

「休むとか向いてないのよね。動いていた方が早く元気になれるもの。こんなところに長居したら病気になっちゃう。でも、おかげで作品のデザインはずいぶん進んだのよ。看護婦さんたちも、“作り方を知りたい”って。ほら、これ見て。ハワイアンをモチーフにしてみたの。どうかしら?」

 毎日、病院に通っているが、日を追うごとに話が長くなる。先日まで呼吸器をつけていた人間とは、とても思えない。天国の入り口で『この人はうるさすぎる。迷惑だ』って帰されたんじゃないだろうか。

「あんたのパパね。かわいいのよ。少ししゃべっただけで、泣いちゃって。わたしが意識を失っている間、心配で仕方なかったみたい。もう良くなったから平気って言ってるのに、ここに泊まると言ってきかなくて。病院に迷惑だから帰ってもらったけど、とにかく大変だった。ほんと男って泣き虫なんだから」

「こっち見て言うなよ。おれの泣き虫は親父の遺伝だ」

「あら、アイリーンはそうじゃないわよ。あの子ったら、ホッケーの試合で五針縫ったときも、ちっとも泣かなかったわ」

「あいつは化物だ。姉貴が泣いてるのを、おれは一度だって見たことがない」

「あら、じゃあママは?」

「妖怪かな」

 ママは「この不良息子!」と、怒りながら笑い、息子のことを枕でバシバシ叩いた。これだけパワーがあれば大丈夫だろう。容態が急変する可能性がないことを改めて医師に確認し、おれはマンハッタンへ戻った。



 数日後、エドセルから電話があり、彼は店を畳むことにしたと言う。

「ミリアムが住むにはアラスカは寒すぎる。おれもこのあたりで楽隠居とさせてもらうことにするよ。すぐにとはいかないから、しばらくは行ったり来たりになるだろうがね。できるだけ彼女の側にいたいんだ」

 母の入院は、父の決断を後押しする形となった。人生に後悔はつきものだが、できるだけ少ないに越したことはない。バルの眠る土地を捨てることについて、エドセルはどう折り合いをつけたのだろう。下手に気に病んでいないといいのだが。

「あのさ、もしバルがここにいたら……彼に何て伝える?」

「伝える?」

「つまり、その……おかしなことを言うと思うだろうけど、でもおれたちは、ときどきこういうことをするんだ。友達同士で話す方が、カウンセラーにかかるよりずっと安くつく。なんたってビール代だけで済むんだから」

「おれにカウンセリングが必要だと?」

「そういうんじゃないけど……何か彼に伝えたいことがあるんじゃないかと思って」

 心残りや後悔は少ない方がいい。『話して楽になることがあるなら、吐き出しておしまいなさい!』と言うのは、我が友、ローマンの台詞だが、それについては、おれも同意だ。

 エドセルは「うーん」と考えるような音を発し、「もしここに彼がいたら……そうだな、“今は幸せだ”と伝えるね」と言った。「ようやく家族の元に戻れたんだ。こんなに有り難いことはない。どうやって家族を守り、大事にするか……それは彼が見せてくれたことだ。おれは今やっと、バルが教えてくれたことを実践してるんだよ」

 父の回答は悪くはないが、こちらが意図したものと違っている。おれはしつこく、「それで? バルが“ここにいたら”、何て?」と、ふたたび問いかけた。

 するとエドセルは黙りこくり、しばらくしてからフゥと息を吐く音がした。

「……愛してる」

 父のひそやかな声をおれは聞いた。

「きみの存在をおれの人生から取り去ることはできない。愛しているよ。永遠に」

 水が染み渡るような、静かな告白。まったく予想だにしないことだが、おれの目から涙があふれた。

 ああ、そうか。これは美しい話だ。エドセルの苦難を知った上で、あえて言おう。『これは美しい話なのだ』と。

 父がしたことは正しい行いではなかった。しかし彼はバルに出会ってしまった。そこで起きることは、誰にも止められなかった。ミリアムを愛すると同時に、まったく別なところでエドセルは永遠にバルを愛し続ける。これは不貞がどうとかいう話じゃない。彼の人生に起きたことは、おれの理解を遥かに超えることだ。

「エドセル、父さん、大好きだよ。愛してる」

「おれもきみを愛してるよ」

 泣いていることを気取られないよう、早々に電話を切ったが、たぶんバレているだろう。“パパは何でも知っている”って、昔から言うほどだしな。(※『パパは何でも知っている』は50年代のテレビドラマ)



「よかったね。今回はいろいろあったけど、終わりよければ、みな良しだ」

 ポールはこのことを“よいこと”と結論づけた。彼の前向きな捉え方には励まされる。あまりにおれと正反対なため、ぶつかることもあるが、学ぶところもまた多いのだ。

 スコーンとクリームと苺のジャムで、休日の遅い朝食をとる。ティーポットにかぶせてあるのは、ママが作ったティーコゼー。紅茶で染めた布を使っていて、なかなか凝った出来映えだ。

 おれは紅茶にミルクを入れながら、「アラスカに行ってよかったよ」と言った。「おかげで今はエドセルをもっと身近に感じられる。父親としてだけでなく、ひとりの人間として見られるようになったんだ」

 長いことおれには父親がいなかった。生まれたときから片親だったため、父に甘えたこともなく、当然、反抗した記憶もない。だからまさか自分が、“父親離れできていない子供”だとは思ってもみなかった。

 エドセルの存在を知ってから、おれはひどく混乱し、結果的に彼にはずいぶん迷惑をかけたと思う。今回の件で、ようやく心の平安を手に入れることができた。おれは自立した大人として、彼の息子でありたい。父親に依存することなく、良き家族として。

「おれがアラスカに行く発端になった話、“まだお父さんに腹を立ててるのか”って、きみはおれに聞いたよな?」

「うん、そうだね」ポールはスコーンを二つに割った。

「あのときおれは無自覚だったけど、たぶん腹を立ててた。それは親父にじゃなくて、きみになんだ」

「ぼく? なんでまた?」

「簡単に言えば嫉妬だな。おれはエドセルにヤキモチを焼いたんだ」

 ポールはクロテッドクリームを塗る手を止め、“何の話だろう?”という感じで聞き入っている。おれは仕方なく続きを口にした。

「要するに何て言うか……彼みたいなの、きみのタイプだろ」

「タイプ?」

「きみは本来、年上が好きなんだ。過去に付き合ってきた男は、皆ずいぶん年が離れていただろ? エドセルは優しいし、無神経でもない。威圧的に話すことだってないし、おれは親父の繊細さは受け継がなかった」

 するとポールは眉を下げ、「ぼくが言ったこと、気にしてたんだね」と、つぶやいた。

「エドセルはそりゃ素敵だけど、そういう風には見たことないよ。彼のことを好きになったのは、きみのお父さんだからだ。そして、ぼくが愛してるのはきみ。きみだけなんだよ」

 ポールはおれの唇に軽くキスをし、そのままおれの頭を抱きしめて言った。

「まったくもう……そんなことを言い出すなんて。どうやらきみはまだ“ぼくがどれだけディーンのことを好きか”って、わかってないみたいだな」

「だったらどうする? これからおれの素晴らしさを語り尽くす算段か?」

「いいや、そんなことはしない。言葉は誤解のもとだ。身体でたっぷりわからせてあげるよ」

 そこからの展開はご想像の通り。おれはベッドでいいように扱われ、二度とポールからの愛に疑いを挟めないよう、しっかり調教された。

 ミルクティとスコーン。クロテッドクリームと苺のジャム。食後の運動には愛あるセックスを。素晴らしい休日の見本と言ってもいいだろう。(しかし、いつもこれでは身体と精神が保たないが……)



 親父とのことは一件落着だが、この件で忘れ去られていたのはママだ。もしママがこのことを苦しく思っているとしたら、おれは息子として力になってやりたい。病院の待ち合い所でエドセルの手を握ったように、彼女が必要とすることがあれば、できるだけのことをするつもりだ。

 連絡にインターネットのテレビ電話を使ったのは、長距離の通話料が無料だからじゃない(いや、それもあるけど)。こういうことは顔を見て話すのがいいと思ったからだ。

 勇気を出して言いにくい話題を切り出すと、ママは「ほんと変テコよね。あんたたち、親子でゲイだって」と、ゴシップでも話す口ぶりで返してきた。

「おれのことはいいよ。聞きたいのは、“ママはそれでいいのか”って話」

「いいも何も終わったことだわ」

「嫌じゃないの? 納得してるの?」

「過去のことを掘り出して、いいことなんかひとつもないわよ。それに、わたしだって生涯あのひとだけってわけじゃないんだし」

「えっ!? ママ、彼氏がいたの!?」

「まあ、それなりにはね」

「嘘だろ……そんなの初めて聞いた」

「子供たちの気持ちを第一に考えたら、簡単に紹介したりできなかったわよ。あんたらの新しいパパになるかもしれないんだもの。まあ、結局わたしは元の鞘に戻ったわけだけれど。人生、長い短いに関わらず、いろんなことが起きるものよ。息子がある日突然ゲイになったりとかね」

「夫がゲイを告白したりとか?」

「そうよ」

「ママは平気なの? 本当に? 痩せ我慢してるんじゃなくて?」

「何が痩せ我慢よ。だいたい考えてもごらんなさい。半年やそこら男と付き合ったからって何? もしバルちゃんとやらが不治の病に侵されなかったらどうなったと思う? 絶対に続きゃしなかったわよ。成金農家の不良息子と、ヒッピー思想の甘ちゃんがうまくいくとでも? しかもどっちも元々ゲイじゃないんだもの。半年やそこらしか付き合わなかったからこそ、青春の美しい思い出として残ったの。もし生きてたら三年もしないうちに破局ね。あんたもパパも、そこんところに気付いてないだけ」

 マシンガンのように言葉を吐くママ。あまりにもシビアな意見に骨髄液が凍り付いた。きっと彼女は『ブロークバック・マウンテン』を見ても同じことを言うに違いない。

 エドセルの話を聞き、男のゲイ三名は泣いたが、女性目線では、まったく違った形に受け取れるようだ。特別おそろしいママは別として、他の意見はどうだろう。おれは同僚の女性たちに、「ネットで読んだ話だけど」と偽り、エドセルとバルの物語を話して聞かせた。ひとりぐらいは感激するかと予想したが、全員がクールな反応をし、最終的にまとまったのは「美談とかそれ以前に、そもそもゲイは女と結婚しないで欲しい」という意見だった。

 それでは美しさは何かと問うたところ、ひとりは『シガーソン・モリソンの靴』、もうひとりは『マグノリアベーカリーの新作カップケーキ』、最後のひとりは少し考えたのち、『自分』と答えた。正直しばらく女とは口を利きたくない。


END

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