第23話:山中の画家(Lament)

 フライトは約8時間。着陸したのは2時間前だが、おれはまだ機内に閉じ込められている。原因はテロでもハイジャックでもなく、ストライキによる空港の閉鎖によるもの。この国で起きることは予測不可能と聞いてはいたが、こんなに早く体験できるとは幸先が悪い。やっとのことで解放されたのはニ時間後。すっかり夜も深けたというのに、節電のためか空港の照明はとても暗く、あたりには消毒薬の匂いが漂っている。外に出るとそれは排気ガスの匂いにとって代わり、空気は重く湿っていた。

 タクシーはここだと騒ぐ運転者たちを退け、携帯から電話をかける。ポールではなく、上司のシーラにだ。

「もう到着したの? 彼には会えた?」

 彼女の快活な声は、電波の悪さをものともしない。

「いえ、まだ。たった今、ニューデリーに着いたばかりです」

「うまく会えることを祈っているわ。もし契約が取れたら休暇ではなく、出張扱いにしてあげるから頑張るのよ」

 珍しく優しい言葉。ここまで遠くに来ないとねぎらいを受けられないというのは、実に残念きわまりないが。

「じゃあね、電話代がかかるから、もう切るわよ」

「最後にひとつだけ」

「なに?」

「おれが肝炎になったら労災保険が適用されますか」

「肝炎にならないよう、気をつけなさい」

 通話は切れた。部下思いの上司を持って幸せだ。

 続けて恋人に電話をすると、応答したのは留守番電話。無事に着いた旨をメッセージしていると、赤ん坊を抱えた老婆が小銭をねだってくる。こういうのはマンハッタンにも多くいるが、乳飲み子と老人の組み合わせは珍しい。ここで財布を出したらどうなるか解り切っていたので、電話をしている振りを続け、足早に逃げ出すことにした。

『ディーン・ケリー様』と書かれたカードを持っている男を見つけ、ここから何時間かかるか訊ねところ「たったの13時間」と答える。

「三時間に短縮してくれたら、料金を倍払う」と申し出ると、彼は「それなら宮殿もつけてくれないとね」と笑った。どうやらジョークは通じるらしい。

 季節はずれのバケーションを“インド”(そう“インド”だ)で過ごそうというのは、もちろん理由がある。

 画家のデニス・ダディコフが、この国に移り住んだのは一ヶ月前のこと。変わり者で有名な彼の移住は、一部のファンの間でのみ話題になったが、その理由は公になっていない。アート業界の裏情報でダディコフが不治の病だと噂されたとき、おれは上司の承諾を得て、彼と契約を結ぶ手はずを整えた。しかし高名な画家は「とっとと失せろ。金の亡者め」と言い放ち、アメリカから出国。偏屈で通ったダディコフは、どの会社とも長期的な契約は結んでいない。部下の玉砕にシーラは「無理もない」と言ったが、おれはどうしても諦めきれず、彼を追ってこの国にやってきたのだが……果たして無事に対面することができるだろうか?

 雇った運転手は穏やかな男だったが、ハンドルを握ると人格が変わる手合いで、クラクションの使用率はハンパない。カーブであってもスピードを落とそうとはせず、対向車線のドライバーも一様に勇敢さを見せつけてくる。崖下に転がったトラックを見つけたときには、遂に睡眠薬を服用するに至った。あまりの恐ろしさに目覚めていることが困難になったためだ。熟睡していれば、恐怖を感じる間もなく天国に行けることだろう。



 ダディコフが住む村までは、車で十三時間とのことだったが、実際は十時間ほどで到着。運転者のサンジュは、三時間も縮めたことが自慢そうだったが、おれの寿命は三時間以上縮まったと推測される。

 デリーから北上して着いたのは、標高二千メーターの小さな村だ。広大な自然の中に、点在する集落。山肌を切り開いた段々畑に、積み木のような家が建ち、彼方にはヒマラヤ山脈が威厳を示している。空港周辺にあった喧噪はどこにもなく、町から村へ流れる川のせせらぎと、鳥たちの歌う声ばかりが聞こえてくる。

 住所を頼りに探し当てたダディコフの家は、小さな木造の二階建てだ。この村では平均的な住まいのようだが、偉大な画家の居住にしては、あまりにも質素だ。油染みた木戸から、ぬっと現れたのは画家本人。たったひとり、通訳もつけずにやって来たおれを歓迎するどころか、「金の亡者がこんなところまで来やがって」と吐き捨てた。

 肩まで伸ばしたモジャモジャの長髪と、顔を覆い隠すモジャモジャの髭。インドの行者に倣ったわけではなく、これが昔からの彼のスタイル。ヒッピー然としたルックスだが、眼光は鋭くフラワーチルドレンの面影はない。

「何度言ったらわかるんだ? おれの絵は新聞の日曜版じゃない。いくら追って来ようと、コピーさせるのは絶対にお断りだ」

「コピーではありません。複製版画です」

「同じことだ。クソ下らん。とっととニューヨークに帰れ。素晴らしき文明社会で、芸術を金に換える仕事に戻れ。貴様の顔を見てると昼に食ったカレーを戻しかねない」

 これくらいの毒舌は覚悟の上だ。怒鳴られても馬鹿にされても、契約を取ってしまえばこっちのもの。なんとしてでも彼にサインさせてやる。

「どうか書類を見てください。ことごとく、あなたに有利な契約だとわかるはずです」

「契約とやらには興味がない。おまえにもだ。二度とここへ来るな。さもないと首をへし折るぞ」

 扉は鼻先で閉められた。少し会話ができたので、まずまずの滑り出しだと思うことにする。まだ一日目だ。気長にいこう。



「消え失せろ!クズ野郎!」「下着でもかぶってろ!」「おまえの顔でケツを拭いてやる!」「殺されたいのか?!」「おれのXXXを貴様のXXXにXXXXしてやる!!!」「XXXXXXX!!!!!!」

 人を罵倒する言葉に、こんなにもバリエーションがあったとは。ここへ来て一生分の罵詈雑言を浴びたのは間違いない。ホテルから車で片道一時間かけて、毎日ダディコフの住処に通っているが、進展はまるでなく、むしろ会うごとに彼の嫌悪を募らせている。

 運転手のサンジュ(ここにいる間は、彼がおれの足だ)が、「いつか彼も変わりますよ」と励ましてくれた。

「その“いつか”って、いつだと思う?」と訊ねると、「さあ? 来世かもしれませんね」と笑顔で言う。これはインド風のジョークだと思いたい。おれは輪廻を信じていないし、契約は来世に適用できないからだ。

 気が付くと、小学生くらいの子供たちが、くすくす笑いながらこちらを見ていた。きっと外人が珍しいのだろう。

 サンジュは英語が話せるため、おれのような外国客を相手に商売をしているが、この村の人々は外人および、外国語に明るくない。ヒンディー語とも違う現地語を話し、よそ者には人見知りをするようだ。しかし子供たちはそんなことお構いなし。おれに向かって手を振ったり、ダディコフの家を指さしては、何やら笑い転げている。

「子供たちは何て?」

 サンジュに聞くと、彼は言いにくそうに「ダディコフさんの悪口を言ってます」と答えた。

「悪口? どんなことを?」

「へそ曲がりで意地悪だと」

「そいつは的確だな。他には?」

「二人のアメリカ人が喧嘩していると言ってます」

 二人の……って、おれか。おれは別に喧嘩してるわけじゃないんだが。

「こういうの、子供たちの情操教育によくないかな?」

「ジョウソウキョウイク?」

「外人が喧嘩しているようなところを見せるのは、子供たちによくないんじゃないかってこと」

「ワタシにはよくわかりません。外人は喧嘩しませんか?」

「しないことはないけど、あえて見せたくはないな。アメリカ人のイメージが悪くなる」

「イメージアップならいい方法あります」

「たとえば?」

「チョコレートです」

「ははあ、なるほど」

 チョコレートは全世界で大人気。子供の好きなアイテムに国境はない。お菓子に漫画にアニメーション。へそ曲がりで意地悪なアメリカ人が漫画家だと知ったら、子供たちの彼を見る目は変わるだろうか。

 ダディコフは元々コミックアーティストだ。誰もが知っているスーパーヒーローに深い人間性を与え、独自の世界観を構築した偉大な作家。近年は画家としてキャリアを伸ばしているが、ダディコフの主なファンはコミック時代の彼を愛している。

 表通りに向かって路地を歩いていると、ピンク色のサリーを着た女性が前からやってきた。野菜の入った籠を両手に持ち、おれたちを見ると顔を輝かせた。

 サンジュは彼女に声をかけ、「ワタシの奥さん、ラニと言います」と紹介。ラニは艶やかな髪をした美人で、ダディコフのところに家政婦として雇われているという。

「ケリーさん、チョコレートを買いますか? ダディコフさんはチョコレート好きだそうですよ」

 サンジュはおれの味方になってくれる。菓子じゃダディコフは懐柔できないだろうが、今はワラにもすがる気持ちだ。翌日は備えを万全とし、チョコレートの袋を幾つも買った。封を開けると子供たちは蜂の巣をつついたように大騒ぎ。男の子も女の子も皆、笑顔になり、これにてアメリカ人の面目躍如。なんだかサンタクロースにでもなった気分だ。

 ラニにことづけて、ダディコフにも一袋献上することにした。どうせお気に召さないだろうが、ここは何でもいいから印象づけたい。『あなたの親愛なる隣人より』とメモを付け、スパイダーマンのイラストを描き添えた。マーベルとDCのヒーローは未だにソラで描くことができる。おれの算数の教科書は、常に漫画のラクガキだらけだった。

 子供たちはおれのスパイディを真剣に見つめ、カバンからノートを出して“ここに同じものを描いてくれ”と催促した。スーパーマンにバットマン。ノートを持っていない子には、腕に直接描いてやる。こんなことをしたら親に怒られるかもしれないが、風呂に入れば落ちるインクなので問題ないだろう。

 庭先に座り込み、漫画を描いていると、ダディコフが二階の窓から顔を出した。

「おい、クソ野郎。ちょっと来い」

「クソ野郎って、おれですか」

「他にクソ野郎がいるか? いいから早く来い」

 玄関に向かうとラニが待っていて、中に入れとジェスチャーする。窓が小さいため、室内はとても暗く、ダディコフはランプに火を入れていた。彼は椅子に胡座をかいて座り、「絵は売らん。が、おまえのことは認めてやる。とりあえずな」と言う。

「それは有り難いですが……なぜ急に? まさかチョコレー…」

「阿呆か。菓子ごときでほだされるなら、とっくに契約してる」

「ではどうして?」

「……ラニだ」

「ラニ?」

「彼女が飯を作ってくれなくなった。おまえと仲良くするまでストライキすると」舌打ちをし、土間にしゃがんでいるラニを見やる。「どうせ貴様が何か入れ知恵をしたんだろう? この卑怯者め」

「いえ……おれは何も……」

「まあいい。ここはおまえの勝ちだ。うまくやったな。しかしここまでだぞ。契約はしない。わかったな」

「あ、はい」

「よし、では飯を一緒に食え」

「それもラニが?」

「そうだ。あのインド女め。まったくいまいましい」

 ラニは澄ました顔でチャパティを焼いている。どうやら味方はサンジュだけではないらしい。

 カリフラワーのカレーと焼きたてのチャパティは、ホテルのレストランなんか目じゃないくらい旨かった。ダディコフが折れたのも頷ける味だ。

 食事をしながら、おれはダディコフが話すのを聞いている。「貴様はロクでもない奴だ」「金のために卑しい真似をして恥ずかしいと思わないのか」「ラニがいなきゃ、今頃おまえはガンジスの源流に沈んでるぞ」

「あの……」

「口を利くな。家に上げてもらっただけ有り難いと思え」

 ラニはニコニコして、おかわりを皿によそっている。英語がわからない彼女は、おれたちが会話していると思っているのだ。

「これまで何人もの亡者がやってきては、おまえとまったく同じことを言った。“絵を売れ、金に替えろ”とな。おまえたちは自分だけが正しいと思ってる。こっちの気持ちなぞお構いなし。少しも敬意を払おうとしない」

「そんなことは…」

「しゃべるなと言ったはずだ」

 ダディコフはカリフラワーにフォークをぐさりと突き刺した。そして出し抜けに「おれはもう死ぬ」と言う。

 おれが黙っていると「驚かんな?」と軽く笑った。「知ってたか。おれの家族に聞いたのか?」

 それは質問のようだったが、答えることはできない。ダディコフは食後のチャイを所望し、大きなげっぷをひとつした。

「おれが死んだら遺体は灰にして、ガンジスに撒いてもらうと決めてある。そしておれの絵も荼毘にふす。塵は塵に灰は灰に……」

「なんですって!?」

 口を利くなという忠告を破り、おれは声を上げた。

「それって絵を焼くってことですか?!」

「そうだ」

「そんな……非常識な……」

「なにが常識でそうでないかはおれが決める。娘には遺言状を残してきた。あとはうまくやってくれるはずだ」

 甘いスパイスティを飲みながら、おれは必死に考えをまとめようとした。これはとんでもないことだ。遺言書の効力は、この場合において絶対。知っているのは彼の身内のみ。本人が死んでしまえば、誰もダディコフの絵を守ることはできない。版権が外部にあるものは無事だが、それはわずかなコミック原稿だけで、絵画の類いはほとんど含まれないはずだ。

「本来、絵画はそうあるべきなんだ」とダディコフは言う。「投資に使われるなど言語道断。ミケランジェロやボッティチェリがコピーを遺したか?」

「その時代にゼロックスはありませんよ」

「時代が違えば版画にしたとでもいうのか」

「かもしれません。確かめようはないですね。ぼくが話しているのは、ミケランジェロやボッティチェリではなく、あなたの作品のことです」

 ダディコフは胡散臭げに目を細めた。何か言われるかと身構えたが、口は閉じたままだ。睨みつけられ、緊張を感じたが、とにかく説明を続けることにした。

「あなたは絵画流通について、ネガティブな面にばかり目を向けているようですが、ご自身はどうですか? ミケランジェロやボッティチェリが作品を破棄していたら、我々は『ダヴィデ像』も『ヴィーナスの誕生』も見ることは叶わなかった。それら芸術に触れたことがないとは言わせませんよ。あなたはバロウズとニコラス・ローグのファンだと聞いたことがあります」

「小説と映画は、絵画とはまったく違うものだ。うまいこと言ったつもりだろうが、引き合いに出すポイントを間違えたな」勝ち誇ったよう笑うダディコフ。それはいくらか楽しそうにも見えた。

「偉大なアーティストの絵画がどんな扱いを受けているか……。モナリザのTシャツ、ゲルニカのマグカップ、最後の晩餐の書類挟み……書類挟みだぞ!」

「ミケランジェロやボッティチェリが生きていたら、書類挟みを作らせることはなかったと?」

「他のやつらは知らん。おれは自分の作品がレイプまがいの扱いを受けることに我慢ならないだけだ。ダディコフ印の書類挟みを作らせる気はさらさらない」

「だからと言って何も絵を焼かなくても……。書類挟みが嫌なら遺言書にそう書けばいいだけです」

「おれが嫌だと思うことを遺言書にすべて書いてみろ。そいつは百科事典の厚さになる。読む奴のことを考慮して、ひと言で済ませてやったのさ。“デニス・ダディコフが死んだら、すべての絵を燃やせ”とな」そしておれの目を覗き込み「貴様の首をはねろと書き加えるのを忘れたが」と付け加える。

 これはダディコフ流のジョークだと思いたい。絵を燃やすというところから、すべて冗談だったらどんなにいいか。しかし彼は本気だ。文字通り、“死んでも”絵は売らないという腹づもり。こうなった以上、なんとしてでも契約を取らないと。おれや会社だけの問題じゃない。ダディコフの絵が燃やされるなんて、アート界への重大な損失だ。首をはねられてでも成すべき使命はある。はねられないのがベストであることは、言うまでもない。



 ホテル周辺では外国人の姿もちらほら見かけるが、自分とはまるで違う人種に見える。長髪に絞り染めのTシャツを着た彼らは、60年代からタイムスリップしてきたかのよう。マリファナの香りをコロン代わりにし、ぼんやり遠くを見つめる目つきをしている。牛とヤギが道行くようなところで『今日こそ契約を取ってやるぞ!』などと意欲を燃やしている白人はおれくらいのものだ。

 ポールにはメールを一通送った。声を聞いたら里心がつきそうなので、電話はしない。自分をストイックな状況に置くことで意識を高め、より良い結果を得るためだ。

 歯を磨きながら窓を開けると、ホテルの真下に川が流れているのが解った。インドの川はガンジスに通ず。ダディコフがおれを沈めると脅したのは、この源流だ。流れは早く、泳ぐことは難しいように思える。サンジュに聞くと、雨で水かさが増えているとのこと。

「十年に一度の大雨です」

 彼はそう言ったが、なんだか大げさに聞こえた。今はそれだけ大変なシーズンだということだろう。

 サンジュはラニを後部座席に乗せ、野菜や小麦粉をトランクに入れた。おれは助手席からラニに礼を伝える。言葉は通じないが、言わんとすることは感じとってくれたようで、通訳の必要はなかった。

 英語が解らないラニが、どうやって外人の家政婦をしているのかというと、まずダディコフが用件をメモ書きし、ラニに渡す。ラニはそれを持ち帰って、夜にサンジュが解読。そうして翌日、もしくは翌々日に、用が果たせるという仕組みらしい。実にまだるっこしく思えるが、ここでは時間の無駄という概念はないようだ。人々はのんびりと仕事をし、もっとのんびり休憩をする。人生の最後をインドで迎えたいというダディコフは、忙しい都会に疲れて果ててしまったのかもしれない。

 おれだったらどんなに疲れようとマンハッタンを捨てることはあり得ないが、死を目前とした老人であれば、そうした選択もさもありなん。うるさいニューヨーカーがやって来て、さぞかし迷惑なことだろうと思うし、穏やかに死なせてやりたいのはもちろんだが、世界遺産が滅びるのを黙って見ていられるかといえば、それはまた別問題だ。

 作品を切り売りしたくないという、ダディコフの言い分は理解できる。マグカップにプリントされた絵画を見て、「ピカソの絵って大したことないのね」と評されるのは不愉快なことだし、最後の晩餐を書類挟みにするには、レオナルドに許可を得てからするべきだ(降霊会でもなきゃ、それは無理だが)。

 チャチな印刷物は、オリジナルの迫力を完全に殺してしまう。だからといって、アートを庶民から取り上げるべきかというと、それは違うような気がしている。

 誰もがルーブルに足を運ぶわけではなく、原画が購入できるわけでもない。最初の出会いは書類挟みだとしても、いつか本物に触れる機会が訪れるかもしれない。ダディコフはコピーと切り捨てたが、現代の版画印刷は高い技術で生産されていて、一般で手に入れられる物としては充分な出来だ。マグカップや書類挟みはともかく、額に入った絵画は購入者にとって、特別な価値を持っている。

 ダディコフに画家としての信念があるように、おれにも絵画販売業としての誇りがある。でなきゃ、インドくんだりまで来るもんか。守銭奴あつかいされたが、こういう仕事は金じゃない。そもそもここに居ること自体、“休暇”であって、仕事とは認められていないんだ。

 おれはトランクからスケッチブックとカラーマーカーのセットを取り出した。こう見えてもアートスクールの出だ。スケッチなんてするのは数年ぶりだが、絵を描くことが嫌いになったわけじゃない。ここに来るにあたって予測していたのは『おそろしく時間をもてあますだろう』ということ。絵を描くことはいい暇つぶしになると期待している。

 カラーマーカーを広げると子供たちは色めき立った。これから始まるパーティを予感し、弟妹を呼びに走る子や、さっそくノートを差し出す子など、皆はおれの作品を歓迎してくれている。

 庭先でお絵描き大会をしていると、騒ぎを聞きつけ、ダディコフが降りてきた。胡散臭げに眺め、「絵を描くのか」と聞くので、「ラクガキです」と、スーパーマンを描きながら答えた。彼は歩み寄って覗き込み、「そのようだな」と鼻を鳴らして去って行く。

 デニス・ダディコフに自分の描いたスーパーマンを見てもらえた。これが二十年前だったら、どんなに嬉しかったことだろう。おれが絵の好きな小学生だったら、ダディコフももっと優しくしてくれたかもしれない。

 思いつく限りのキャラクターを描き、そろそろネタが尽きてきた。他にどんなものを描いたらいい? インドの子供が好きなものって何だろう? 動物? 花? スーパーカー? 考えながら目の前の子をスケッチすると、スパイダーマンよりも反応がいい。自分も描いてくれと次々ねだられ、今日一日でスケッチブックを使い切ってしまいそうな勢いだ。

 一心不乱に絵を描いていると、ラニが晩ご飯を知らせにやってきた。子供たちを帰し、散らばったマーカーを片付けていると、一本足りないことに気付く。その辺に転がってやしないかと何度も見たが、どうしても見つからず、不思議なこともあるものだと思っていると、ラニが身振りで“子供たちが持って行ったのだろう”と示した。

 それはおれにとって、まったく思いもよらぬことで、正直とてもショックだった。食事の席でそのことをダディコフに言うと、「そいつはおまえが悪い」と、たしなめられる。

「おまえが持ってるものは、彼らが喉から手が出るほど欲しいものだ。これ以上、泥棒を作りたくなかったら、財宝を見せびらかすような真似はするな」

 ダディコフがここで質素な暮らしをしているのは、それなりの理由があったわけだ。生活の水準を合わせることは、この地において重要なこと。インドでは、持つ者と持たざる者とは、住む場所を分けられていると聞く。カーストとやらは、おれにはよくわからないが、他人を羨む気持ちは知っている。物質的な貧しさが圧倒すれば、出来心が生じ、そこに“心の豊かさ”を問いかけるのは難しい。盗まれたのは黒のマーカーで、赤とか緑とか、きれいな色がたくさんある中、あえてそれを持って帰った。それはおそらく、文字や数字を書くため。好奇心からというより、必要に駆られて持ち帰った。しかも犯人は子供。こんな悲しいことがあるだろうか。

「今度からもっとよく考えて行動するんだな」

 いつもは憎らしい暴言ばかり吐くダディコフの言葉に正論を感じ、晩飯はあまり喉を通らなかった。

 ホテルに戻る途中、車窓から満天の星空を望む。やけにゆっくりとした流れ星を見つけたと思ったら、「あれは人工衛星です」とサンジュが教えてくれた。そんなものが肉眼で確認できるなんて驚きだ。ミルキーウェイを横切る人工衛星は、うまくできた彗星のよう。『芸術は自然を模倣する』というアリストテレスの言葉を思い出す。

 揺蕩うように時間が流れるこの村が、平和で穏やかな場所だと思うのは、おれが外国人だからだ。よくよく知ればどの国も何かしらの問題を抱えている。わかっていたことだが、目の当たりにするのは厳しいものだ。

 この夜、夢にポールが出てきた。内容はいたって普通で、いつものように一緒に晩飯を食べるというもの。メニューは焼きたてのラザニアと新鮮なサラダ。目が覚めてもすぐに起きることはせず、しばらくベッドに横たわっていた。おれには戻るべき場所があり、想う相手がいる。それさえ理解していれば、どこにいても大丈夫だと、恋人が夢の中から教えてくれたような気がした。



 今日は道具を使う遊びはやめだ。集まった子供たちには、ロンダートを披露してみせる。勢いを付け、地面に両手をついて空中で一回転。もしここにポールがいたら子供らの髪を切ってやるとか、何らかの貢献ができるだろうが、自分にはこれが精一杯。いい年をしてこんな特技しかないことを恥ずかしく思ったが、意外やこれは高評価。子供だけでなく、大人にも受けがいい。主婦は仲間を連れて戻って来て、近くで土木作業をしていた男たちは、仕事の手を止めてまでして見物する始末。何度もやらされてめちゃくちゃ疲れたが、喜んでもらえたのは何よりだ。言葉も通じぬ土地で、拍手喝采を受けるという素晴らしい栄誉。ダディコフの心もこれくらい簡単に掴めたらいいのに。

 石段に腰掛けてミネラルウォーターをごくごくやっていると、三人の女の子がやってきた。何やら言いながら差し出したのは、昨日なくした黒のマーカーだ。

 いちばん背の高い子が一生懸命説明をしてくれたが、おれには一語もわからない。雰囲気から察したのは、『このペンを持っていた子がいたので、自分たちが見つけて取り戻した』という内容だ。

 役目を終えると、彼女たちはすぐに立ち去った。お礼にチョコレートでもあげればよかったと思いついたのは、ずっと後になってからだ。おれは馬鹿みたいに呆然として、手にしたペンを見つめていた。

 マーカーのセットは元通りになったが、使う気はしない。近くの小学校を訪ねて寄付すると、おれよりもずっと若い女教師は、本当に嬉しそうに受け取ってくれた。これについて『良い事をした』という感覚はなかった。マーカーを寄付するなど微々たる行為で、豊かな外国人の自己満足に過ぎない。この村は物資が不足していて、それはおれの想像を絶している。

 小学校は民家と変わらぬサイズの建物で、悪いオオカミが息を吹きかけたら崩れてしまいそうな、古レンガでできていた。商店には品物が少なく、その店の前を乞食の親子が通り過ぎる。彼らがここで買い物をすることは、まずないように思えた。

 ここ数日の体験をポールに話したい。彼の意見を聞き、言葉に耳を傾け、髪に触れ、キスをして、互いの愛を確認したい。ストイックな状況はそもそも苦手だということを、今になって思い出した。しかし今ポールの声を聞いたが最後、心が折れて帰国の途についてしまいそうだ。せめて彼に愛を送ろう。ポストカードのサイズであれば、余計な愚痴を書き込むスペースもない。


  ────────────POST CARD───────────

   やあ、ポール!

   表の写真をよく見てくれ。そう、ヒマラヤだ。

   山の中腹あたり、LLビーンに身を包んで凍えている

   ニューヨーカーの姿が確認できるだろ?(よく見て!)

   トイレに紙がないという“些細な”問題はさておき、

   ここはとても美しいところだ。

   これでスターバックスがあれば完璧だな。

   きみとカフェオレとベーグルが恋しい。

   絶え間ないキスを送るよ。その時間はたっぷりあるんだ。

                 インドの青空の下にて, D

  ─────────────────────────────



 この日、ダディコフは珍しく留守にしていた。何でも近くの温泉に出かけたとのこと。そんな素敵な施設があるとは知らなかった。サンジュを介し、どこにあるのかとラニに尋ねると、ここから車で五時間かかると言う。彼らにとってそれは“近く”なのかもしれないが、端から端まで徒歩で移動しきれるマンハッタンに住むおれには長旅だ。残念だが温泉はあきらめよう。インドには観光で来たわけじゃないんだ。

 ラニはダディコフが居ない間、家中を掃除しようと張り切っている。ベッドを動かすのを手伝ってほしいと頼まれ、彼の寝室に足を踏み入れた。居間と同様質素な造りで、ベッドとサイドボード以外の家具はない。壁は煤け、窓は曇り、照明は裸電球がひとつぶら下がっているきりだ。

 ラニが布団とシーツを勢い良く引っぱがすと、はずみ、おれの足元に、何枚もの紙が広がった。それはレターサイズ程の大きさで、すべてに絵が描いてある。慌てて片付けようとするラニを制止し、よく見てみると、サインこそないが、間違いなくダディコフの手によるアートだと解った。

 驚いた。彼はここでも作品を描いていたんだ。しかもわざわざ自国から画材を持ち運んでまでして。風景や人物など、どれも見事な出来映えだったが、わざわざ隠してあるってことは、誰にも見られたくないんだろう。もう見てしまったものは仕方ないので、とりあえず無かったことにする。偶然とはいえ、おれが発見したことがバレたら、何を言われるかわかったもんじゃない。



 ダディコフが戻った直後に雨が降ってきた。十年に一度の大雨だそうだが、この降り方を見ると本当のように思える。道はぬかるみから小川となり、サンジュはラニを迎えに来られない。つまりはおれのことも。

『家から出るのは危険だ』と主張するラニ。彼女とおれの間では、すでに会話が成立している。言葉は相変わらず通じないが、互いの言っていることが何となく解るようになっていた。

『今夜は泊まらせてもらおう』とラニは言ったが、それは無理な気がした。だってあのダディコフだ。おれの首をはねるとか、ガンジスの源流に沈めると言った男が、敵を泊めるわけがない。

 激しく窓を叩く雨音を聞きながら、そこはかとなく絶望的な気持ちになりつつ、どうやってホテルまで戻ろうかと思案していると、「家から出るのは危険だ」とダディコフが言った。

「こないだも川で二人ほど流されたばかりだ。地盤が弱いから落石も多い。今夜は泊まって行け」

 これが空耳でないとしたら、彼には良心があるということだ。念のため「おれに言ったんですよね?」と確認すると、「嫌味を言うなら出て行け」と返された。

 そういうわけで、おれたちはダディコフの所に泊まることになった。ラニは土間で寝ると言ったが、女性をそんなところに寝かせるわけにはいかない。しかし彼女は『ぜんぜん平気よ』という感じで笑っている。

「ここはインドだぞ」とダディコフは言う。「おまえやおれと同室というわけにはいかないんだ。ちょっとは考えろ。恥をかくのはラニの方だぞ」

 自国で常識と思われていることでも、他文化では非常識と成りうる。ラニは既婚女性で、アメリカ人の男二人と泊まるというのは、非常時であって尚、とんでもないことらしい。この後、近所から主婦がやってきて、彼女を引き受けてくれるということで折り合いがついた。無論おれはそのままだ。

 ラニを送り出した後、ダディコフは唐突に「ペンが見つかったそうじゃないか」と、話しかけてきた。機嫌良さげに微笑みを浮かべ、手巻きタバコのペーパーを指先で弄んでいる。

 おれはフリースの膝掛けを胸まで引っぱり上げながら「それってラニから聞いたんですか?」と尋ねた。

「いいや。あの女は英語が喋れないだろ。おれはほとんど口を利いたことがない。夕方に小学校の教師が来てな。こいつを置いていった」

 テーブルに乗っているのは、五つのザクロ。小ぶりだが、熟れていて食べごろだ。

「逆に気を遣わせてしまったみたいですね」

「まあ、これくらいは構わんだろ。学校にはザクロよりペンが必要だ」

 多弁と上機嫌の原因は察しがつく。さっきから部屋中に漂っているこの煙。質の悪いパーティでよく嗅ぐものだ。

「おまえもやるか」とシャグ(手で巻いたタバコ)を差し出すので、「ドラッグはやりません」と断わると「こんなもの、ドラッグのうちに入らん」と笑う。「ここいらじゃ、そこらへんにいくらでも生えてる雑草だ。それにアメリカでは医者から貰ってもいたんだ。“医療大麻”と言ってな」

「フィルターなしで吸って、喉を悪くしないんですか」

「さてな。おれは死を目前としてる。今さら健康に気を遣うでもないだろう」

 処方薬、痛み止め、ビタミン剤など、ダディコフは毎日おびただしい量のタブレットを飲んでいる。死ぬ覚悟はあっても痛みは願い下げ。誰だって苦しんで死ぬのは本意じゃない。死に行く苦痛や恐怖を、マリファナは軽減してくれるのだろう。

「おまえは何かに耽溺しないのか。酒はどうだ? タバコは?」

「酒はあまり強くないし、タバコはやめました」

「女はどうだ? ギャンブルは?」

「今はきまった恋人がいて、賭け事は好きじゃありません」

「つまらん人生だな。そんなで生きてて楽しいのか?」

「楽しいですよ」

「何が生き甲斐だ? 夢中になれるものはあるのか?」

「今はあなたと契約を結ぶことが生き甲斐です。夢中になりすぎてインドまで来たくらいで」

「おお、そいつは可哀想に。おまえの願いは叶いそうもないぞ。こんな僻地まで来て気の毒なことだ。やっとのことで得たものが、手で糞を拭く体験だけとは」

 哀れっぽく節をつけてダディコフが言うので、さすがに少し腹が立った。勝手に押し掛けて迷惑をかけているのはこっちだと解ってはいるが、侮辱されるのが当然とは思えない。

 おれが黙ると、「なんだ? 怒ったか?」と聞いてくる。

「ええ、まあ。少し」

「ほう、正直だな。てっきり、“いいえ、とんでもない”とくるかと思ったが」そして顔を近づけ、「その顔が本物だな? 不愉快で不機嫌なツラだ。ナイスな笑顔よりよっぽどいい」と、低く言う。

「あなたはその顔が本物なんですか? いつもは不愉快で不機嫌な表情をしてますけど、今夜は笑ってる」

「かもしれん。おまえも笑いたきゃ、煙を吸い込め」

「あなたが契約してくれたら、心の底から笑ってみせます」

「売春婦みたいなことを言うな。契約に応じる応じないはおれの自由だ。おまえがここにいることも。すべては選択だ」

「死は違うでしょう」

「そうだ。死は違う。これは運命だ」

「でもあなたは変えることができる。死、以外のことを」

「どういう意味だ?」

「たとえばあの小学校。あんなひどい建物は見たことがない。強めの地震でも起きたら、たちまち崩れてしまうでしょう。あなたがうちと契約すれば、学校を建て替えることもできるんですよ」

「おれは“よそもの”だ。土地の人間とは深く関わらない。そのようにしている」

「でもそれは…」言いかけたおれの言葉を遮り、「おまえはペンを盗まれて何も学んでいないのか?」とダディコフは言った。「この国にはこの国の“速度”というものがある。外から来た人間がよかれと思ってやることは、たいがい失敗だ。インディアンに白人が影響して、いいことがあるわけがない」

 ネイティブ・アメリカンとインド人をかけてダディコフは説明したが、おれにはどうも納得がいかない。米国の過去の汚点と、ここの小学校が危険な建築であることとは、まったく関係ないはずだ。

「でもペンは戻ってきました。この件については、たしかにおれが迂闊でしたが、些細なアクシデントです」

「自体は些細でも、それが象徴するものは手に負えないくらい巨大だ。それがわからないようでは、この国にいる資格はない」

 なんだかどんどん話がズレてきた。こんな言い合いがしたいわけじゃないのに。立ちこめる煙のせいで、こっちの頭もぼんやりしてる。ダディコフはハシシを指先ですりつぶし、マリファナと混ぜてくるくる巻いた。薄暗い中で器用なものだ。

「本当に、お願いだから考え直してもらえませんか」

「何をだ」指先をペロリと舐める。

「絵を焼くことを。うちと契約するしないは別として、作品は保存すべきです。せめて〈踊る人〉の連作だけでも」

「ふん、あれが好きか? おれも気に入っているよ。だからこそ焼くんだ。そうすりゃ、作品が汚されることもない。安心して死ねるってもんだ」

〈踊る人〉はダディコフの最高傑作と謳われている。絵画の世界では軽んじられていた彼を、画家として認めさせたのは、あの作品があったればこそだ。“漫画家くずれ”と小馬鹿にしてきた批評家も〈踊る人〉だけは認めざるを得ない。いつか名だたる美術館に飾られる日が来るだろうと、おれは信じてた。それなのに、ここへ来て聞いたのは“絵は燃やす”という無情なひと言。偉大な作家の巨大なエゴには、とりつくしまもない。

「作品は今やあなただけのものではない。芸術界の共有財産です。作家の一存でどうこうできると本当にお思いで?」

「版権について言ってるのか? そんなもの、燃やしてしまえばおしまいだ」

「版権じゃなくて“気持ち”のことです。ファンの想いまであなたは燃やそうとしている。他ならぬ自分のために」

「それの何が悪い?」

 おれたちの会話は堂々巡り。煙のせいで目が痛くなってきた。窓を開けたいが、立ち上がる気力が湧いてこない。まるで酔っぱらったような感覚だ。

「……もったいないじゃないですか。あんな名作を焼こうなんて、どうやったら思えるんです? そりゃあ、おれは死にかかってるわけでもないから、あなたの気持ちを理解しようったってしきれるもんじゃない。でもこれだけは断言できる。自分だったら絶対にそんな馬鹿げたアイディアをひねり出すことはない。死の間際なら尚更だ。もしおれにあなたのような才能があったら……」

 友達に言うような口調で語りかけていたことに気づき、口を閉じる。すると彼は「なんだ?」と聞いてきた。

「……つまり、その、おれはあなたのファンなんです。それはもう子供の頃からずっと。字が読めるようになる前から、あなたの作品に親しんでいた。たぶん、おれみたいなファンは世界中にいっぱいいて……。だから、どうしてもあなたの考えには賛成できなくて……」

 しどろもどろに説明するおれを、ダディコフは「そんなことを聞いてるんじゃない」と遮った。「“もしおれにあなたのような才能があったら”……あったらどうだって言うんだ?」

「……わかりません。でも少なくとも自分の絵を燃やすような真似はしないでしょう」

 ダディコフは無言になり、会話は終わった。おれは立ちのぼる煙を見つめながら、ポールのことを考える。有能で美しいボーイフレンド。ハサミ一本で食っていける彼は、おれの誇りで、憧れだ。かたやこっちは絵も料理もスポーツもやったが、どれも中途半端で、プロのレベルにはほど遠い。もしおれにダディコフのような才能があったらどうするか。さっきは言わなかったが、答えは明白。絵を描いて、描き続けて、その果てに死ぬだろう。

 コミックの神様と呼ばれた男が、目の前でゆっくりと死にかかっている。それは誰にも止めることはできない。命は煙のように消えてしまう。しかし作品は後世に残すことができるのだ。

 突如、睡魔が襲ってきて、おれは底なし沼に引きずり込まれるが如く、眠りに落ちた。夢にポールは出て来ず、パストラミのサンドイッチと濃いコーヒーだけを見る。食べる直前に目が覚めるのはお約束。顔を洗おうと土間に行くと、ラニが朝食の支度をしていた。カレーだった。



 ペンはないし、ロンダートは疲れる。今日はどうやって過ごそうか。ここにはバスケットのゴールもサッカーボールもないときた。言葉を使わずにできる遊びって、どんなことがあるだろう?

 暇つぶしのアイディアに頭を悩ませていると、さっそく子供たちがやってきた。おれの腕を強引に引っぱり、興奮気味に何かを訴える。

「ちょっ……ちょっと待て。何だ? いったいどうしたんだ?」

 引かれるままについて行くと、道路っぱたの家に出た。見ると、昨日まで庭先に繋がれていたヤギがいない。小屋の金網は切られ、困り顔の家主が立っている。彼は首を横に振り、「ヤギがいなくなった」と、おれに言った(おそらく)。

 この家のヤギは“カーリー”という名で、性格が大人しく、皆の人気者だった。草をやったり撫でたりして可愛がっていたものが、突然いなくなってしまったわけで、子供たちの憤りは収まりがつかない。「探しに行く」と騒ぎ立てるので、本日のスケジュールはヤギの捜索に決定した。しかし子供が探せる範囲などタカが知れているし、そもそも飼い主が警察に届けているはず。正直、見つけられるとは思っていなかったが、あまりに彼らが真剣なのと、やることがないのとで、結局、夕方まで探すハメになった。

「えーと……おれは何でここに来たんだっけ?」

 ホテルでシャワーを浴びながら、そんなことを考える。もちろん覚えてはいるが、“ヤギのことばかり考えている午後”には、本気で理由を忘れかけていた。

 契約は取れず、ヤギはいない。インドではこういうとき、どの神にすがるのだろう? とにかくこれ以上、ひどいことが起きないようにと祈るばかりだ。

 そう思った途端、シャワーが停止。断水はままあると聞くが、おれはコンディショナーを髪につけたばかり。今後一切この国の神には祈るまいと心に誓う。



 ヤギの捜索が日課に組み込まれたおれに、ダディコフは「きっともう食われちまってる」と皮肉に言う。懸命に探し続ける子供たちには聞かせたくない言葉だ。もっともダディコフの言葉を耳したところで、彼らには通じないのだが。

 ホテルのショップで色ペンを見つけたので、何本か買った。前に持っていたマーカーのセットと比べて質は落ちるが、描けなくはない。

 庭先の段差に腰掛け、山並みをスケッチしていると、ダディコフが歯を磨きながらやってきた。「性懲りも無くまたペンを買ったのか」と覗き込む。「おれの言ったことを覚えてないのか? 子供たちに見せびらかすのは…」

「今度は見せびらかす真似はしません。絵は子供にあげるためじゃなくて、自分のために描いてるんです。こんな奇麗なところ、なかなか来られないですからね」

「人の絵を金に換えたがってる男が、“自分のため”とは、利いた風な口を」

 おれはペンを走らせながら、「あなたも絵を描いてるでしょう?」と言った。

「なに?」

「ヒマラヤの絵。子供たちの絵。あれは自分のためなんですか? それとも彼らの──」

「何が言いたい?」ダディコフは歯磨き粉を吐き出し、ペットボトルの水で口をゆすいだ。

「以前あなたはインタビューでこう話していました。“自分の描くものは、すべて己の愛情の対象である”と。そしてあなたは彼らを絵に描いた」

「いったい何が言いたいと聞いているんだ」首にかけたタオルで口元を拭う。

「あなたはこの土地と人々に愛情を抱いてるということです」

 ダディコフはどうでもよさげに「半年もいれば情も湧く」と、つぶやいた。

「なぜそれを彼らに表現しないんです? 子供たちはあなたに興味を持っていますよ。それにラニだって。彼女は毎朝あなたに食事を作ってる。なのにほとんど口も利かないなんて」

「おれはもう死ぬ。先が短いのに関係性を持ってどうする。お互い悲しみが増えるだけだ」

「あなたはまだ生きてるじゃないですか」

「明日にも死ぬかもしれん」

 もうだめだ。この人には何を言っても通じない。インドに来たのは完全に無駄足だった。

 会話が途切れたところで、子供たちがやってきた。わからずやの爺さんと居るより、騒がしい小学生と居るほうが、よっぽど楽しい。

「やあ、チャンドラ、ラジブ。今日は弟は来ないのか? クマリ、アムリタ、えーと……プリヤダルシニ。何とか全員の名前が言えたな。さて、今日はどこまで探しに行く?」

 スケッチブックとペンをカバンに仕舞うおれに、「ヤギはとっくに食われちまってる」とダディコフがしつこく諭す。「犯人はそのつもりで盗んだんだ。生きてるわけがない」

「あなたはいつも文句を言ってるだけだ」

「おまえは馬鹿だ。いもしないヤギを探して、取れもしない契約のためにここにいる」

 もう彼の言うことは気にしないでおこう。初めからそうするべきだった。子供たちと手をつなぎ、表通りに向かって歩き出すと、背後から声がした。

「叶わなかった自分の夢をおれに託すのはやめろ。迷惑だ」

 迷惑は今日限り。おれは明日帰国する。



 空港に向かう前にダディコフの所に立ち寄ったが、彼は留守だった。おれが来ることは解っていたのだから、意図的なことだ。子供たちはまだ学校に居る時間。おかげで別れはあっさりとしたものになった。

サンジュが運転しながら「契約は取れましたか?」と聞いてきた。

「駄目だったよ」

「残念でしたね」

「まあ仕方ない。でもいい想い出になったよ。インドは楽しかった」

「ありがとうございます」

 サンジュは“アメリカの曲”をカーステレオで流してくれた。サービスはありがたいが、今はエレクトロポップを聴く気にはならない。ついでに言えば『ヒューマン・リーグ』はイギリスのバンドだ。

 音楽を消すと、車内はやけに静かになった。思い出されるのは昨日の言葉。

 ─── 叶わなかった自分の夢をおれに託すのはやめろ ───

 今まで彼から幾つもひどいことを言われたが、一番ショックだったのはこれだ。あれから何度も考えている。おれはダディコフに自分の願望を押し付けていたのかと。

 もの心つく前から、絵を描くことは好きだった。子供の頃の夢は絵描きになること。トラック運転手か野球選手になりたい時期もあったが、それらは一時的なことで、心のイメージは常に“絵を描いている人”にあった。小学生のときはコンクールにも応募したし、先には美術学校にも進学したが、やればやるほど周囲との才能のひらきに気付かされ、最終的に、より現実的な職につくことを選択した。そのことに後悔はないし、未練もない。……ないつもりだったが。

 ダディコフは素晴らしい才能に恵まれている。それなのに、考えうる限りもっともひどい選択をしていて、おれはそれを見過ごせなかった。以前に増して契約を強要したが、彼はことさら態度を頑にした。この“完全なる失敗”が、おれのエゴのせいだとしたら? 昨日、ダディコフに指摘されるまで、自分に“隠された動機”があるなどとは考えてもみなかった。契約が結べなかったのは、おれ個人の問題のせいなのか……いや、考えるのはもうよそう。

 ラニが持たせてくれた弁当を開く。メニューはサンドイッチとゆで卵。運転中のサンジュには悪いが、先に頂くことにする。

 食べながら窓の外を眺めた。荒々しく流れる川。向こうには濃い森が広がり、果てしなく続いているように見える。ここは何もかも巨大で広大だ。めったに見られない風景を心に焼き付けておこうと凝視していると、向こう岸に動くものがある。鹿でもいるのかと注目すると、それは茶色のヤギだった。

「うそだろ……まさか……」

 頭のてっぺんに白い毛が確認できる。間違いない。あれはカーリーだ。

「サンジュ、車を…ちょっと車を停めてくれ…!」

「はい? ディーンさん? どうしました?」

 おれは車を降り、河原へと走った。川はごうごうと音を立てて流れていて、向こう岸のカーリーは、森に入ったり出たりを繰り返している。大雨があったのは逃げた後だ。川の水かさが増したせいで、自力で帰れなくなってしまったのだろう。

 ガードレールをまたぐと、地盤は思いのほか柔らかく、数歩で足場が崩れ始めた。『あっ、マズいな』と思っている間、ズルズル滑りながら川に落っこちる。すぐに上がろうとしたが、水の勢いはとても強く、引っぱり込まれる感じで流された。水深は不明だが、足がつかないのでかなり深いようだ。水温は低く、皮膚に痛みを感じるほど。心臓マヒを起こさなかったのは奇跡かもしれない。こうやって泳ぎもせずに流されているのは、水が冷たすぎて手足が動かないからで───。

「おい貴様! そこで何やってる!?」

 英語で呼ばれ、岸に目を向ける。ガードレールに身を乗り出しているのはダディコフだ。なんでここに彼がいるんだ? まあ、おれも現状『なんでここにいるんだ?』という感はあるが。

「いいか、よく聞け! そのまま流れてろ!」

 は? そのまま? 流れてろって? おれを嫌っているのは解るが、まさかそこまで極悪非道とは。

「その先に大きな中州がある! 泳ごうなんて思うな! 流れに逆らわず、ただ浮いてるんだ!」

 大声を出すダディコフに、おれも負けじと声を張り上げる。

「ヤギが…! ヤギがいたんです! あの向こう岸に!」

「おまえはバカか!? ヤギなんてどうでもいい!」

「でも──」

「少しは状況を把握しろ! 貴様は死にかかってるんだぞ!」

 ダディコフに怒鳴られ、我に返った。おれは死にかかってるのか。なるほど、そいつは確かにヤバい。

 ここで無理に泳げば体力を消耗する。中州とやらに着くまで流されているのは賢明だろう。それにしてもこの川はどこに繋がっているんだ? 先には滝があったりするんだろうか? ハリウッドの映画だと大抵そういう展開になるんだが。なんだろう、死にかかっているというのに冷静なもんだ。

 俺たちの声を聞きつけ、地元の人々がやってきた。誰もが強ばった表情をしていて、口々に何か指示してくる。言葉はわからないが、間違いなく命に関わることだ。村中の人がやってきたのかと思うほどの人だかりに、憂慮すべき事態であることを思い知り、『いよいよこれは死ぬんじゃないか』という考えが頭をよぎった。ペットボトルにロープを繋いだ救命用具が投げられたので、なんとかそこまで泳ぎ着く。引っぱり上げられて恥ずかしかったので、大丈夫なことをアピールしようとしたが、できなかった。身体が冷えきり、歩けない。結局この日の帰国はならず、サンジュがおれを病院まで運んでくれた。



 九死に一生を得ることは、めったにあるものではなく、そうした意味でもこの旅行は貴重だった。シャワー中、突然お湯が出なくなるとか、カレーを手で食うとか、トイレに紙がないとかいうのも貴重な体験だったが、“死にかけ”と比べれば些細なものだ。

 病院では入院するような所見はなかったのに、夜になって高い熱が出た。一難去ってまた一難。インドの風邪にアメリカの薬は利くだろうか。ラニがベッドに運んでくれたのは、ミルクで甘く煮たオートミールと、スパイスの効いたチキンスープ。ここに来て初めてカレー味以外のものを口にした。

 おれが寝ているのはホテルではなく、ラニとサンジュの家。わざわざベッドを空けてくれ、彼らは床に布団で眠っている。

 ラニがしゃべって回ったおかげで、おれが川に落ちたことは近所中に知れた。見舞いに果物や野菜が届き、やけに親切なものだと感激したが、これにはロンダートが役に立ったらしい。“宙を舞うアメリカ人が窮地に陥った”ということで、主婦たちは代わる代わる様子を見にやって来た。ヤギを見つけた先の事故であるという事情もあり、同情はひとしおだが、子供たちはお構いなしで『いつになったら遊べるの?』という感じ。窓から覗き見し、母親に叱られて、ようやく引っ込む有様だ。

 カーリーは無事に保護され、飼い主の元に戻った。盗難犯はやっきになってヤギを探しまわるアメリカ人に怖れをなし、カーリーを人目につかないところに放したのだろうと、サンジュが推測した。

 主婦や子供がいなくなったのは夜になってからだ。静かになってやっと眠り落ちたが、熱のせいで喉が渇いて目覚める。ベッドの傍らにダディコフが座っていた。いつからそうしていたのか、まるで守護者のように見守り、こっちが何か言う前に、スケッチブックを差し出した。描かれていたのは、おれの寝顔だ。

「……言ってくれたら起きてモデルをつとめたのに」

「寝てる顔が面白かったんだ」

「貰ってもいいですか」

「ラクガキだ、好きにしろ」そう言った後、「売りに出すなよ」と付け加える。

「売れませんよ。ラクガキですから」

 おれがそう言うと、ダディコフは苦笑した。

「ここの小学校を建て替えることもできると言ったな?」

 唐突な話題に「えっ?」と聞き返したが、ダディコフは構わず続けた。

「おれの絵を売った金で、それを実現してくれることを条件に含むなら……」いったん言葉を切り、彼は言った。「おまえのところと契約してやってもいい」

 ……信じられない。これは奇跡だ。

 声ひとつ出さないでいるおれに、ダディコフは「ありがとうくらい言えんのか? それとも耳が聞こえないのか?」と、いつもの調子で毒づいた。

「あの……ひとつ聞いていいですか。どうして急に気が変わったんです? もしかしてぼくの頑張りを見て、あなたの心が…」

「阿呆、いいように解釈しすぎだ」

 やっぱりか。だったら何が理由だ? 質問しようとしたところ、ダティコフはまたしても唐突に「おまえは皆に迷惑をかけてる」と話題を変えた。

「呼ばれてもいないのにやってきて、さんざんおれに付きまとった挙げ句、最後には川に落ちやがった。どんな馬鹿かと呆れ返ったよ」

 それについては一言もない。まったく彼の言う通りだ。

「この馬鹿を生かすために、多くの者の手を煩わせた。何の義理もないインドの奴らに世話をかけたんだ。特にサンジュ。あいつはおまえが払う賃金以上の働きをした。アメリカ人として、おれはラニの夫に詫びた。そしたら奴はこう言った。『インド人は“人に迷惑になる”という概念がありません』とな。奴が言うには、人はひとりでは生きていけない。それは生まれてから、死ぬまでのことで、人間は常に誰かに迷惑をかけて生きている。だからインド人は、これを“迷惑”と解釈しないそうだ。他人の面倒をみるのは、自分も他人に助けられていることを理解しているから。お互いさまで、それが“カルマ”なのだと。それが奴の言い分だった」ダディコフは椅子の背に反り返り、「しかしだな」と腕を組む。「そいつはインド人の倫理観だ。おれはアメリカ人だから、奴には同意はしかねる。おれはそのうち誰かの手を煩わす。要するに、誰かがおれの死体を運ぶんだ。最終的には、どうあってもインド人に迷惑をかけることになる。いいだろう。それは認めよう。だがおれはそれを“お互いさま”とは言わん。そこで自分なりにできる罪滅ぼしをしたいと思った。この国の奴らに、借りを作ったまま死にたくはないんだ」

 それがダディコフの理論だった。よくわかったような、わからないような話だが、結局のところ、彼は小学校に寄付をしたいと思ったのだ。弁説ありがたいが、おれにとって理由は重要ではない。ダディコフの芸術を守ることができた。それが何より大事な点だ。

「後で書類を渡せ。サインしてやる」

 ぶっきらぼうに言い残し、出て行こうとする彼の背に「ここに寝てて思い出したんですけど」と呼びかける。「おれが耽溺するもの、ひとつありましたよ」

「何だ?」振り向いてダディコフ。

「チョコレート。甘いものはやめられない。やめるつもりもない。そのことに気づきました」

「シュガー・ジャンキーか。いいぞ。人生にひとつくらい悪いものを残しとけ。自分が不完全であることを忘れないために」

 ダディコフは不敵に笑い、静かに扉を閉めた。

 ひとりになって天上を眺めていると、嬉しさがゆっくりと込み上げてきた。ひとりでに顔がニヤけ、笑い出したい気分だ。それは契約が取れたからでも、村に小学校が建設されることでもなく、『これで大手を振って帰れる!』という単純な喜び。

 マンハッタンに戻ったら何を食べようか。ベーグルはまず外せない。普通のパスタと、スシも食べたいし、ポールのラザニアも。その前にまずチョコレートだ。色とりどりの可愛らしいチョコを、一箱一気に食い尽してやる!

『叶わなかった自分の夢をおれに託すのはやめろ』と彼は言ったが、それは間違いだとハッキリわかった。おれの夢は絵描きになることじゃない。素晴らしい絵画を“おれみたいな奴”の元に届けること。それが今の夢であり目標だ。つまり、川に落ちたのは無駄じゃなかったというわけ。



 ニューヨークに戻った五ヶ月後、デニス・ダディコフは校舎の完成を待たずして、この世を去った。

 おれの手には彼のスケッチが残り、ダディコフ印の書類挟みが発売される予定は永遠にない。


 END

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