第20話:聖・ディーン(Like A Prayer)

「♪晴れたる青空、漂う雲よ〜。小鳥は歌えり、林に森に〜」

 賛美歌を歌っているのは、我が友、ローマン・ディスティニー。今、彼に訪れているブームは、ヨガでもピラティスでもなく、“信仰”だ。

 なんでもカトリックの修道院で五日間の体験入院(?)をしたとかで、この調子。『ジョイフル ジョイフル』は、常に人生を喜びで満たそうとする彼にぴったりの曲だ。

「でもきみはカトリックじゃないだろ?」

「カトリックだったのよ。脱落したけど。ほら、あたしは“ローマン”でしょ、教会とはそう縁遠くないの」(※ローマン=“ローマ人”の意)彼は得意げな顔をし、持参のトラピスト・クッキーを口に運んだ。

 ポールはコーヒーをカップに注ぎながら、「こないだまで“ユダヤ教って素敵”とか言ってたのに」と苦笑する。「でもさ、ゲイだってことは修道院ではどうなるわけ? 聖書の禁止条項なのに」

「善き羊飼いたちはそんなこと気にも致しません」と、すまし顔のローマン。

「善き羊飼いの群れにオオカミを放つのは禁止条項だろ?」そうおれが茶化すと、彼は「まあ、あんたも体験してみればわかるわよ」と、一枚の紙切れを差し出した。そこに書いてある文字は……

〈修道院体験、申込書〉

「……おれが修道院に? 冗談だろ」

「“おれ”じゃなくて、“おれたち”。おふたりでいかが?」とローマン。

 ポールは身を乗り出し、「おもしろそう」と感想を述べたが、残念ながらこっちはそうは思えなかった。

「おれはいいよ。修道僧にうっとりする趣味はない」

 申込書を突き返すと、ポールが横から取り上げる。

「別にうっとりするために行くんじゃないと思うけど?」

『だったら何のためだ?』とは聞かなかった。どうせ行かないんだし、元々ディープな信仰には興味がない。いつだったか、『パートナーの困った生活習慣の違い』について、ポールと話をしたことがあった。

 ポールの元彼のハーカンはイスラムの男で、セックスの後に水浴びするという奇妙な習慣を守っていたそうだ。それは彼らの戒律のひとつらしいのだが、パートナーですらも水を浴びねばならないという激しいルールにポールは根を上げ、結局半月ほどで別れたという。

 おれの恋人だったマイヤは厳格にコーシャーを守っていた。我が家の台所に野菜と魚専用のナイフを持ち込み、牛肉を切るときは周囲にチーズがないか目を光らせる。ひと切れでもベーコンを皿に見つけたら、その料理はすべてゴミ箱行き。ゼラチンは海草でできたものを使っていて、それで作ったマシュマロときたら、とても食べられたものじゃない。ココアに普通のマシュマロを浮かべたいおれとしては、やはり彼女と別れるしかなかった。

 おれとポールには、さしたる習慣の違いはみられない。ポールがひと月も断食をしたり、おれが十人の妻を娶ったりすることはなく、宗教的思想の相違で決裂することは、まず考えにくい。無論ちょっとした考え方の違いはあるが、あくまでそれは日常レベルでのこと。宗教や戒律とは関係のないところで生じるだけだ。

 自分は神をまったく信じないというわけではないが、特定の宗教と深く関わることを、これまでずっと避けてきた。日曜ごとに教会に行ったりはしないし、食事の前に祈りの言葉を唱えたりもしない。カテゴライズするなら、“不可知論者”にあてはまるだろう。

 真冬にあっても水浴びしたり、牛や豚を食えなくなったり、決まった時間に謎の呪文を唱えたり、判断のすべてを古い書物に求めたりするようになるのだとしたら、神と契約を結ぶのは、女と結婚するのと同じくらい大変なことだ。中世に生きるのであればそれもいいかもしれないが、おれは平均的な現代アメリカ人だし、この国の文化はあまり宗教的ではない。信仰が救いになるというより、むしろ“平均的であることを困難にする”のであれば、あえてそれを選ぶ必要はないと思うわけで、修道院にこれっぽっちも興味が持てないのは、そういう理由だ。



「休暇を僧院で過ごすなんて、変わったアイディアだよな」おれは溜め息をつき、ポールに言った。

「ローマンによると、“とっても楽しい”って話だよ」

「そりゃ彼には楽しいだろ。なんたって男の園だ」

「このパンフレットによると僧院は自然に恵まれていて、食事もおいしいらしい」

「悪いがおれは期待してない。今回はきみのお伴で来たまでだ。楽しめるかは別として、せいぜいゆっくりさせてもらうよ」

 修道院に向かう車の中から、窓の外を見る。天気は上々、緑なす木々……晴れたる青空、漂う雲よ。小鳥は歌えり、林に森に……。

 日常で神のことを気にかけることはないが、それでもなんとか生きていられる。これからの五日間、“ジョイフル”なことが起こるとは思えないが、恩恵は特に期待していない。ポールにとってご機嫌なバケーションとなるのであれば、それだけでおれは満足だ。

 マンハッタンから北上し、およそ三時間半。その修道院は森の中にあった。重厚な石造りの壁と小さな窓。天井のアーチは優雅なカーブを描き、建物を囲むようにして長い回廊が続く。派手な装飾はいっさいみられず、見る者におのずと畏敬の念を抱かせる雰囲気を持っている。建築は古めかしいが、実際に建てられたのは六十年前とのこと。そもそもここはアメリカで、ロマネスク様式がブームだった頃には、まだコロンブスは生まれてもいなかった。

「祈りの家にようこそ」

 出迎えてくれたのは、ブラザー・サイモンだ。見た感じは、おれよりも十以上年上。小ぶりでガッチリした体つきをしていて、フードつきのローブを身にまとったその姿は、金鉱を掘るドワーフを思わせる。

「まずは中を見て頂きましょうか」と、案内してくれたのは、礼拝堂、図書館、集会室、食堂……売店に事務室まで見せてくれた。ぐるっと回ったところ、この修道院、思っていたよりずっと広い。五日間の滞在中、迷子にならないよう気をつけるのが最初の試練だ。

「そしてここがあなたがたの部屋です」おれとポールはそれぞれ個室を与えられた。

「狭いところですよ」ブラザー・サイモンがそう言ったのは謙遜でも何でもなく、単なる事実。狭いの何の、さながら牢屋だ。ベッドと机、小さなキャビネット、水差し、ゴミ箱。家電製品は電気スタンドのみで、携帯電話はすでに没収された後だ。

「ドライヤーはどこですか?」と、おれが質問する前に、ブラザー・サイモンは「ここは眠りと祈りのための部屋です」と言った。「生活の拠点はこの部屋の中ではなく、僧院全体がそうなのです」

 おれたちが滞在する部屋は眠りと祈りのためにある。プライバシーは必要とされず、狭かろうと特に問題はない。(で、ドライヤーは?)

 茶色いフードつきのローブを渡され、身につけるようにと指示される。こいつを着ると、さすがに身が引き締まる。ニワカではあるが、一応信者として認められた。これで腰にライトセイバーがあれば、オビ=ワン・ケノービのコスプレとしては完璧だ。

 部屋を出たところで、ブラザー・サイモンは「ブラザー・ジョン」と、痩せた背の高い男を呼び止めた。

「紹介するよ。今日から五日間、我々の仲間になるブラザー・ディーン、そしてブラザー・ポールだ」

 ブラザー・ディーンとブラザー・ポール。なんてクールな響き。そうすると、おれたちはここで兄弟なのか。まるでブラック・コミュニティにでも来たみたいだ。

「ちょうどよかった、ブラザー・ジョン。きみはブラザー・ディーンに仕事を案内してあげてくれないか。ぼくはブラザー・ポールに庭の仕事を」

 庭仕事? そういえばローマンは『修道院にいる間は、皆等しく労働ををしなければならない』とか言っていたが……。

「ブラザー・ディーン、こちらです」

 ブラザー・ジョンの後についていくと、聖堂に向かう回廊に出た。

「あなたにはこの廊下の清掃をお願いします」

「この廊下?」

 古い石造りの廊下はまっすぐに伸びていて、遠近法の練習にぴったりだ。その突き当たりには修道士がふたり立っている。最後にメッツ戦を観たとき、バックネット越しに眺めた投手が、だいたいあのくらいの大きさだったと思う。

「ええと……あそこの突き当たりまでってことですか?」

 恐る恐る質問するおれに、神の僕はこう言った。

「この廊下は突き当たりで左に折れています。その曲がった先から行って、さらに突き当たりまでですね」

 にっこり微笑むブラザー・ジョン。笑顔の意味するところは、“ザマーミロ”だろうか。

「もちろん今日中にというわけではありませんよ。滞在五日間の期間にです」

 ははは、それは朗報だ。僧院では労働基準法の摘要はあるだろうか。まあ、無理だろうな。ここでのルールは神がお定めになる。そして神とは、ひどいサディストなんだ。なんてこの世はユーモアにあふれているんだろう。

 おれがそう訴えると、ポールは笑い、「ここで神様の悪口を言うなんて、ブラザー・ディーンは恐れ知らずだな」と言った。

「笑い事じゃない。体験入院がこんなに大変だなんて聞いてなかった。“着いたその日から労働に従事”ってのは、パンフレットには記載されてなかったはずだ」

 気持ちのいい風と日差しが差し込む中庭のベンチで、おれはさっそくポールに愚痴をぶちまけた。短い休憩時間の有効利用。来たばかりで文句を垂れたくはないが、どうしても言わずにいられない。

「廊下は石畳なんだ。隙間に入り込んだ砂や小石を取り除くのに、何度も屈み込まなきゃいけない。おかげで腰が痛くなったよ。きみの仕事はなんだ?」

「ぼくは芝刈り」

「芝刈り?! なんて羨ましい!」

「もしかして、芝刈りカートに乗ってる図とか想像してる? だったらきみはまだ修道院を甘くみてるな。芝刈り機は手で押すタイプのものだよ。もちろん電動じゃない。小石とか木の根がはさまったら、いちいち作業を中断して、それを取り除く。帰るころにはプロゴルファーみたいに真っ黒に日焼けしてるだろうな」

「おれは逆だ。薄暗いところにいるから、白アスパラガスになる。ローマンはここで何をやってたんだ?」

「養蜂の手伝いだって」

「蜂蜜の収集か」

「蜂の巣から直接、蜜をすくって食べるとすごく美味しいって言ってたよ」

「はあ、うまいことやったな。おれもそっちがよかったよ。移動願いを出そうかな」

「何て言って?」

「それは……」わずかに考え、かぶりを振る。「そうだな。やっぱり駄目だ。与えられた仕事をやらなけりゃならない」

 おれのあきらめに、ポールはにこりと微笑んだ。どうやら彼は修道士の適正があるみたいだ。

 日々の糧を得るには、与えられた仕事をやらなけりゃならない。聖書にもある通り、『汝、額に汗してパンを得、涙のうちにそれを食う』。でもこういうのもあったよな。『人はパンのみに、生きるに非ず』。神の理屈はいろいろあって、どうあっても人間はやり込められる結果になっている。



「すべて労働は祈りにつながる」とブラザー・サイモン。「聖ベネディクトゥスの言葉だ」

 聖者の言葉を引用しながら、パンを引き裂く。それは儀式としてではなく、単に晩飯の最中。食堂のテーブルは長く、横並びになっていて、おそろいの衣装を着た修道僧たちが、いっせいに食事をとっている。

 食事は温かく、量もたっぷり。トレイを見つめ、「カチカチのパンと干涸びたチーズが出てくるんじゃなかったわけだ」と、ポールにそっと耳打ちする。するとブラザー・サイモンは笑い出した。どうやら聞かれてしまったみたいだ。彼は笑い終え、「そんなことをしたら皆の労働に差し障りがでる」と言う。「神の恵みは食卓にも顕著だ。ほら、この蜂蜜を試してごらん」

 蜂の巣が入った壺にさじを入れ、ひとすくいしてパンに乗せる。それはえも言われぬ美味しさ。ミツバチの仕事ぶりには感謝あまりある。

 ここでの食材は基本的に自給自足とのこと。ハーブや蜂蜜、パンの酵母ですらも自家製だ。そこらの自然食レストランでも、こうはいかない。蜂蜜はまだ序の口であることが、続く食事で判明した。

野菜はどれもみずみずしく新鮮で、塩漬けの豚肉と一緒に食べると、口中に至福が広がった。パンはずっしりとした重さがあり、二つに割ると、香ばしいかおりがあたりに漂う。チーズに至っては、アメリカにこんなまともなチーズがあったのかと驚くほど。そして食後のアイスクリームはまさに絶品だ。濃厚なバニラに、数種類のベリーがアクセントになっていて、シンプルながらこれ以上のものは望めないほどの味わいを醸し出している。ここの食事は間違いなく、ヨーロッパの伝統を引き継いでいる。明日の朝食が早くも楽しみになってきた。

 口腹の満足を告げると、ポールはニンマリとして「ねっ、来てよかったよね?」と、誘導尋問を試みた。おれは頑固に「まあ、食事だけは」と微々たる同意。金を払った上に、労働までさせられてる。これで飯まで不味かったら、スティーブ・マックィーンよろしく逃げ出したところだ。(いや、彼は逃げきれなくて、途中で収容所に連れ戻されたんだった。しまった、不吉なことを)

 食事は美味いが、それだけだ。昼間の労働はハンパなくキツい。明日の朝食を摂らず、今すぐ帰れと命じられたところで、何ら惜しいとは思えない。

 ある説によると、死後落とされる地獄というものは、人によって内容が違っていて、そのパーソナリティに合わせた刑罰が用意されているのだとか。以前、友達とそのことを論じたとき、ある友人は「厳格なベジタリアンであることを強いられることが地獄だ」と言い、また別な友人は「三部作映画の三本目だけが見られない地獄」について、身を震わせて語った。

 おれの場合はそこまでユニークではなく「女性がひとりもいなくて、日がな一日重労働」というのが、想像できる精一杯だったのだが……。

 聖なる場所は、かつてイメージした地獄にほど近い。そして電動芝刈り機とフロア・ウォッシャーマシンを導入したらと思うおれは相当、現代社会に毒されているらしい。神様はウォッシャーマシンがお好きではないのかな? 若い男が汗水たらして、苦痛の表情を浮かべるのを見たいとか? それだったら神はローマンと気が合いそうだ。女人禁制の僧院や女だらけの修道院が神のご意志で作られたのだとしたら、神って奴は相当……おっと、これはまずいか。ここは神の住まう家。おれの考えは向こうにすべて筒抜けなんだ。神とのホットラインは接続中。こっちの意志では断線できない。

 やあ、神様。おれはとってもいい子です。今日も廊下を掃除しました。だから早く、ここから自由にしてください。五日間がマッハの勢いで過ぎますように。アーメン。



 一日の始まりは、個人的な祈りと神聖な読書から。それはいいけど、四時って時間は朝じゃなくて“深夜”だろ?

 予定された起床時間は三時半。ポールは目を覚まして聖書を読んでいたようだが、おれは朝の礼拝までぐっすり眠っていた。一日のスケジュールは決まっていて、まず六時にミサ。聖体を賛美し終わると朝食。次にアンジェラスと呼ばれる祈りの時間があり、次にそれぞれの労働につく(おれは昨日に引き付き廊下の掃除)。

 正午の祈りと昼食。ここで休憩時間があり、各自好きなように過ごす。軽い運動や散歩、読書などが人気のアトラクションだ。昼下がりの祈りを済ませ、午後の労働につく(ふたたび廊下の掃除)。

 夕方、聖書を学ぶ授業を受ける。これはおれたち一般市民のための授業で、日曜学校みたいなものだ。短い休憩時間をはさみ、晩祷。六時に夕食。終課は祈りと聖歌の詠唱。歌詞はラテン語だ。部屋に戻る。野球の結果を知らされることなく就寝。寝る前には祈りを忘れずに(って、まだ八時だぞ!)。

 ご覧の通り、どれだけ祈れば気が済むんだというぐらい、修道僧たちは祈ってる。毎日毎日そんなに祈るべきことがあるってのがびっくりだ。これも神の命令なのか。

 刑務所でもテレビは見られるし、場所によってはタバコも吸えるが、ここではその二つの行為は禁じられている。了解を得てニコチンパッチを持って来ているが、まだ今のところ貼らなくてもよさそうだ。「このまま禁煙したら?」とは、ポールからのアドバイス。そんなの冗談じゃない。ここを出たら真っ先にすることは、タバコを吸うことと決めている。この気持ち、非喫煙者には絶対にわからないだろう。



 修道院において、食品の商いは古くからの伝統だ。それはここでも例外ではなく、生計を立てるために、さまざまな食べものを製造、販売している。菓子の類いは特に豊富で、クッキーやマドレーヌ、ジャムを挟んだパイのようなものなど、見ているだけで心踊る品揃えだ。今朝はヨーグルトとアップルパイが出た。甘いものは脳の働きを活性化するのに有効で、朝食にとるのはもってこいなのだとか。現代科学の考察も用いられているところを見ると、時代に逆行しているわけでもなさそうだ。

 食堂のテーブルには、おれとポール。そしてブラザー・サイモン。座る場所が決まっているわけではないが、なんとなくこの並びがしっくりくる。

 アップルパイにナイフを入れたところで、目の前の席から、若い僧がおれに合図を送って来た。テーブルを指先でコツコツと叩いて注意を惹き、それからクロテッドクリームが入った壺を指し示す。なるほど。これをつけろってことか。

 素焼きの壺に入ったクロテッドクリームは冷やされていて、まだ温かいアップルパイの上に乗せると、たちまち融け始めた。フォークでパイを切り、慌てて口に放り込む。

 ……クロテッドクリームのカロリーは天文学的? そんなの知ったことか! これを食べずに死ぬことは、人生を生きずして死ぬことに等しい。おおげさだと思うなら、ここへきて同じものを口にするといい。おれの肩を叩いて、涙ながらに同意したくなるはずだ。

「これは感動的な味だな。ほんと、すごくうまいよ。教えてくれてありがとう」

 アップルパイのクロテッドクリーム添えを提案してくれた修道士に感謝を述べると、彼は無言で微笑んだ。その笑みはなんというか……今しがた口に入れたメニューを凌駕するような素晴らしさだった。濃いブルーの瞳とミルク色の肌。豊かなブロンドの髪は巻き毛で、驚いたことに背中のあたりまで伸びている。ここが僧院でなければ、ミュージシャンかと思うほど。美しい髪だが、こんな長髪はルールに沿うものなのだろうか?

 その質問を彼にぶつけてみると、ツェッペリンのボーカルみたいな髪をした修道士は、ただただ微笑むばかり。おれが辛抱強く返事を待っていると、横からブラザー・サイモンが口を出した。

「彼は無言の誓いを守っているんだよ」

「無言の誓い?」

「そう、つまり“言葉を使わない”ってことだ。簡単なようで難しい」と、パイを口に放り込む。

「言葉を使わない……ひと言も?」

「ひと言もだ」

「いつまで無言を?」

「さあ」と肩をすくめる。「彼は少なくとも、わたしが知っているだけでも二年以上は続けていると思うが」

「二年も!?……ローマンだったら気が狂うだろうな」

「ローマン?」

「おれの友達。少し前にここで世話になってたんです」

「ああ! あの彼か! そうだな。確かに彼では不可能だろう。口を縫い合わせても手話でしゃべり続けそうだ」

 無言の彼が唇の端を上げた。どうやら耳は聞こえているようだ。もっとおかしなジョークを聞いたら、苦行に拍車がかかるだろうな。

 見たところ、年齢はおれより若い。若いが完璧に大人だ。しかしこの男の表情ときたら、とても大人のそれとは思えない。口を利かないなんて、とてつもなく困難な修行だろうに、彼は……なんというか、“美しいまま”だ。もっとこう、苦行者たる雰囲気を有していてもよさそうなものだが、表情に苦痛の類いは一切見られない。まるで聖堂のステンドグラスの天使のような顔つきをしている。

 彼の名前はとブラザー・サイモンに聞くと、「名前はない」という驚愕の答え。「無言の行に入ったと同時に名を捨てたんだよ。今はただ“ブラザー”とだけ呼ばれている」

 言葉もなく、名前もない。それって存在そのものを消すようなものじゃないのか。おれは教義について詳しくはないが、修道士が自我を手放した存在だというのは理解している。名前や発言を放棄して、ただ人々のために祈る。俗世を捨てるというのは、究極的にこういうことを言うのかもしれない。

 それ以後、テーブルに会話はなかった。“ブラザー”の無言の行が、おれとポールを圧倒していた。



 なあ、これで過労死したらどうしてくれる? そうなったら殉教に数えられる? おれが死んだら聖人として祀ってもらおうか。“聖ディーン”なる聖者はもう存在したかな? 

 廊下は長く、仕事は遅々としてはかどらず。おれは壁に寄りかかって、溜め息をついた。

 日々の労働により自我を手放し、無心となる。そんなのまったくの嘘っぱちだ。少なくともおれは、そうはなれない。沸き上がるのは愚痴や文句。口にこそしないが、心の中はひどい状態だ。だいたい望んでここに来たわけじゃない。無償の奉仕に感謝できるほどおれはピュアじゃないんだ。ピラミッドを積まされた奴隷ってこんな気持ちだったろうか。もしくはガレー船を漕ぐ奴隷。同じ奴隷なら性奴隷の方がいいな。アマゾネスの館でなら、おれでもいい仕事ができそうだ。

「ブラザー・ディーン、今日の労働はいかがですか?」

 声をかけられ、我に返る。初日に会ったブラザー・ジョンだ。

「手のマメがつぶれました」と手の平を見せると、彼は眉間にシワを寄せて言った。

「それは大変だ。医務室で治療を受けた方がいい。何なら明日から別な場所に作業を移してもらうように手配しようか?」

「あ、それは……」願ったりなはずの提案に、おれはなぜか難色を示す。

「何か問題でも?」

「いえ、せっかくここまでやったので……できれば最後までやり遂げたいのですが」

「それはもちろん構わないよ。きみさえよければ」

「ええ、大丈夫です」

「でも無理しないで」ブラザー・ジョンはおれの手を優しく包み、「神は手の皮が剥けても掃除をしろとはおっしゃらない」と微笑んだ。

「そうですよね。ありがとうございます」

 同士を見送り、作業再開。それにしても何だ? アマゾネスの館で性奴隷だって? そんなことを考えるなんて、よっぽど性欲が溜まってるらしい。宗教家でない普通の男にとって、奉仕と禁欲はむしろ逆効果。神はいまひとつそのところがおわかりでないようだ。



 窓が小さいのはロマネスク様式の特徴だが、おかげで昼でも室内は暗い。夜ともなれば、もっとだ。

 部屋の電灯を消し、祈りのためのキャンドルに火を灯す。おれとポールは並んでベッドに腰掛け、揺れる炎を共に見つめた。ささやかな明かりに照らされ、彼の輪郭が柔らかく浮かび上がる。若き修道士と静かな夜。やけにロマンティックな雰囲気だ。

「この聖衣、持って帰れないかな?」と、彼のローブに触れながら言う。

「気に入った?」と、ポール。

「ああ、修道士姿のきみはセクシーだ。興奮するよ」

「不埒だな」

「抑圧のもとでは、情熱はさらに燃え上がる」

「三日後が楽しみだね」

「そんなに待てるか?」言いながら僧衣ごと彼の腕を引っ張る。するとポールはほんとうに困ったような顔になって、「ディーン……」とつぶやいた。その表情におれは制され、掴んだ手をほどく。

「わかったよ。三日後だな。ああ……ローマンのやつめ」

「ぼくたちまだここに来たばかりだし。三日後にはローマンに感謝するようになるかもよ?」

「どうだか」

 カトリックの神父はきわめて厳格な貞節の誓いを守っている。ペニスの使用目的は排尿のみにとどめるべし。それが真実かは余人の知るところではないが、少なくとも表向きはそういう話だ。

 ポールは「おやすみ」とだけ言い、キスもせずに自分の部屋へと戻った。おれはひとり、ベッドに横になる。こんなにモヤモヤした気分で眠れるものか。睡眠を妨げる悪魔よ、去るがいい。去らなきゃこっちが屈服することになるじゃないか。

 昼間のミサはあんなに眠いのに、今になって目が冴えてくるなんて皮肉なもの。睡眠誘導剤の代わりに祈りの一節を──うろおぼえではあるが──唱えてみることにしよう。

「神様……天にまします我らの父よ。

 御名の崇めさせたまえ。

 御国を来たらせたまえ。

 日々の糧を与えたまえ。

 我らが人にゆるすがごとく。

 我らの罪をもゆるしたまえ。

 そして我らを誘惑に導かず(←ここが重要なんだ!)

 悪より救い出したまえ……アーメン」



 天の父は願いを聞き入れてくれたようだ。昨夜はサキュバスからおれを守り、マスターベーションせずとも眠りにつくことを可能にした(※サキュバス=姦淫に誘惑する魔物)。サキュバスがナタリー・ポートマンにそっくりでないかぎり、おれは毎夜、主の祈りの一節を唱えることになりそうだ。

 滞在期間はあと三日。ここにいる間のディーンは“祝せられた童貞の忠実なるしもべ”(※童貞=カトリックの僧を意味する)。貞潔にして、天使的なる若者だ。

 おれにとっては一時的な話だが、僧院のブラザーたちには永続的な誓い。生涯を神に捧げた彼らは、誰をとっても素晴らしい人格を備えている。

 たとえばブラザー・バーソロミュー。ヴァチカンの図書室にある書物のような佇まいを持つ彼の年齢は不詳。語る言葉には英知があり、見つめる眼差しは千年より向こうの対岸にあるかのよう。もし彼が聖書の時代から生きていると知っても、さして驚きを覚えない。

 とても強靭な肉体を持っているブラザー・ジェイコブ。ポールは彼が巨大な木の根をひとりで掘り起こすのを見たそうだ。そんなヘラクレスと会話をしてみると、実はとてもシャイであることがわかる。気は優しくて力持ち。おとぎ話に出てくる木こりを思わせる、大きなハートの持ち主。

 若いブラザー・フレデリックは、おれを見かけると、必ず声をかけてくれる。話題はささいなものだが、気にしてくれているらしい。「何ならずっといてくれても構いませんよ」と、冗談まじりに笑いかける。その微笑みの爽やかなこと。こんな素敵な若者が世に出たら、世間の女たちはまず放っておかないだろう。

 そしてブラザー・サイモン。こんなにも神とうまくやっている男をおれは他に知らない。いつも笑みを絶やさず、時にはジョークを交え、ニワカ信者に神の摂理を説いてくれる。ショウビジネスの世界に入ったら、さぞかし成功するだろうと思うのだが、彼が契約したのはパラマウントではなく、天の父。ユニークな神のしもべは、天の国の言葉を通訳する。

 見渡す限り好人物という環境は、めったやたらにあるものではない。ローマンがハマったのも頷ける。ここには彼がとうの昔に失った純粋さと清純さがあるのだ。

 昼食後の休憩時間、おれは少し冒険してみることにした。冒険といってもロッククライミングをするとか、深夜のブルックリンをひとりで歩くとかいうものではない。いつもより遠くに散歩に出るだけだ。それでもここでは充分、冒険的。あと一ヶ月もいたら、ナチョスにハラペーニョを入れることすら、大冒険となるだろう。



 昼なお暗し、森の中。陽は木々に遮ぎられ、春だというのに肌寒い。ニューイングランドの木々といえば、カナダで見られるような美しい紅葉をイメージするかもしれないが、今はシーズンではなく、すべての木々は黒と黒に近い緑でカラーリングされている。

 賢者の風格を称えた老木が見守る中、長いローブを身につけたブラザー・ディーンが登場。こんなシーンは、映画の中でしか見たことがない。なんだかまるで物語の主人公にでもなったよう。苔に覆われた岩陰から、今にもホビットが飛び出してきそうだ。

 来た方角を確認しつつ歩いていると、どこからか水の流れる音がする。重く湿った空気を嗅ぎ、水音に誘われるように進んで行くと、案の定、川が現れた。

 さほど大きな川ではないが、とても力強い流れを有している。ベニー叔父さんが見たら、喜んで釣り糸を垂らしそう。魚の類いが見えるだろうかと、水に近づくと、流れの中央に人がいることに気がついた。長いブロンドの髪と、腿まで水に浸かったその姿から想起したのは、水の精オンディーヌ。しかし、それはほんの一瞬のことだ。川の中にいるのが例の無言のブラザーであることは、すぐにわかった。

 彼はローブを着たまま、うつむき加減で目を閉じていた。黙想の邪魔をしないよう、静かに近寄り、川の縁の斜面に腰を下ろす。

 自然の中で祈りを捧げる様子は、神秘的かつ、美しかった。もしダ・ヴィンチが彼を見たら、手元に置いて愛で狂うんじゃないだろうか。長いこと絵筆を手にしていないおれでさえ、この男をモチーフに大天使をえがきたくなってくる。

 つかの間、眺めていると、視線を感じたか、ブラザー・ノーネームが顔を上げた。おれの存在に気づくと、にっこりと笑みを送ってくる。ああ、そうだ。この顔だ。先日も見た、奇跡的な笑み。大人の男はこんなふうに微笑めるものじゃない。これは赤ん坊とか子犬とか、そういう種類の生き物にほとんど近く、完全なる無垢さが現れている。

 彼は優雅に右手を上げ、こちらに向かって手招きをし……。ん? 手招き? まさか……。

おれは自分の胸を指し、それから川を指し示した。彼につられて言葉を放棄したわけではない。水音がうるさいので、ジェスチャーのがわかりやすいと思ったまでだ。おれの動作に、ブラザーは『うん、うん』と頷いてみせた。

 こいつはとんだ場所に来てしまったようだ。春とはいえ肌寒く、ましてや流れる川の中ときたら、どれだけの水温かは想像がつく。真夏以外は遠慮したいところだが、彼はしつこく手招きを続けている。修道院の兄弟に呼ばれては、断わるわけにはいかない。

 とりあえず靴だけは脱ぎ、ブラザーに倣ってローブのまま、あまり穏やかとは言えない流れに、足をゆっくりと入れてみる。思った通り、身を切るようだ。すぐに陸が恋しくなったが、ブラザーがこちらを見ている。ここで根性無しだと思われるのは悔しいし、そもそも無言の苦行に比べたら、こんなもの。心臓マヒさえ起こさなきゃ、大したことじゃない。

 水底は滑らかな岩肌で、足の裏を傷つける心配はなさそうだ。きっと何年もかけて、水と砂利とが、岩を磨いていったのだろう。

「さあ、来たぜ」

 ブラザー・ブロンドにそう呼びかけると、彼はまた微笑んだ。それからおれの両手をそっと取り、祈りの形に組んでくれる。普段の祈りでは、手の形についての指導はなかったので、これは『ここで祈りなさい』という、彼からのメッセージなのだろう。

 若い修道士がふたり、川の中に身を浸している。妙に色っぽいシチュエーションと、しばらくの禁欲生活で、下半身が反応したらどうしようかと考えたが、それはまったくの杞憂だった。川の水はとても冷たく、とてもじゃないが、それどころじゃない。『くっそ寒い!』と叫びたくなったが、それは悪魔の言葉だ。おれは心を穏やかにすべく、目を閉じて、川のせせらぎに耳を澄ませた。

 深く息を吐き出し、鼻から息を吸い込む。始めは痛いほどに感じられた川の水も、慣れればさほど苦痛ではない。以前ヨガの教室で習った呼吸法が、こんなところで役に立つとは思ってもみなかった。

 “考え”に頭を支配されないよう、祈りの文句を心の中で唱える。しばらくすると、自分の肉体が消滅したかのように感じられる瞬間があった。あまりの寒さに感覚が麻痺したのだろうか。それとも別な何かなのか。

 川の音が気にならなくなる。自分の身体も気にならなくなる。祈りの言葉すら去ってしまった。おれは川底の岩と同じ。水に磨かれ、ただここにある。

 どれくらい時間が経ったのか。長いようにも、短いようにも感じられる祈りが終わったと知ったのは、兄弟がおれの身体に触れたからだ。その合図がなかったら、おれはいつまでもここに立っていただろう。それぐらい没頭していた。こんな深く集中して祈ることができたのは、ここへ来てから初めてだ。

 水から出て、青い草の斜面を登る。おれはもうここがどこだか分からなくなっていて、ひとりで修道院に戻るのは不可能だった。ブラザーの後について行くと、やや開けた場所に出た。ちょうど森の切れ目になっていて、吹き抜けのように陽が差している。中央には大きな平たい岩があり、それは日の光を受け、輝いていた。ドワーフの食卓に着いたのは偶然ではない。彼が意図してここへ来たのは明白だ。

 次は何が始まるのかと思うより早く、ブラザーがさっとローブを脱いだ。おれは僧衣の下に服を着ていたが、彼はほぼ裸だ。そこでおれは思わず、女が服を脱いだときと、同じ反応を───と言っても、興奮したとかじゃない。つまり、“反射的に顔を背ける”というやつをした。瑞々しい彼の肌に中性的なもの感じ、面食らってしまったのだ。しかし冷静に考えれば、慌てることはない。おれたちは兄弟で、男同士。性的な問題を抱える間柄ではなく、仮に素っ裸でも何も起こらない。そうだとわかっていながらも、やはり彼を直視できないでいる自分に気づく。美しすぎるというのは罪なものだ。

 彼は濡れたローブを絞り、それを岩の上に広げ始めた。おれも真似して、服を脱ぎ、絞る。ローブのシワを伸ばしながら、『やることがあってよかった』と思った。おかげで彼の身体から意識を離すのに成功した。

 おれがブラザーを直視できないのは、性的な意味ではなく、むしろその逆だ。見てはいけないものを見たような気になるのは、彼があまりにも清浄だったから。神聖に感じられるほど、おかしがたい気品がある。さきほど“中性的”と表現したが、それは正確ではない。どちらかと言うと、彼は“無性的”なんだ。この男を見て天使や妖精をイメージするのは、それが特定の性別を持たないことに起因する。言葉もなく、名前もなく、性別すら手放したように見える不思議な存在。ここに来る前はどんな人生を歩んでいたのだろう。普通に恋をしたり、テレビを見て爆笑したりしたことがあるんだろうか。そんなのさっぱりイメージじゃない。いっそ『空から落ちてきた』って言ってくれた方が納得できるくらいだ。

 さて、服が乾くまでには時間がかかる。まさか裸で僧院に戻るって話じゃないだろうなと言いかけたところで、ミルク色の肌を持つ天使は、大地にごろんと横になった。眠るように目を閉じ、口も閉じたまま。なんというか、この人はずいぶんマイペースなようだ。

 おれも彼の隣に大の字になってみる。日光で暖められた、柔らかな苔の上。想像以上に寝心地がいい。目を閉じていても、太陽を感じる。冷えていた身体に急激に熱が戻り、心臓が脈打つ音が耳に響いた。規則正しい身体のリズムを感じていると、あるひとつの言葉が、不意に浮かび上がってきた。

『神はいたるところに───』

 神の遍在として習ったそれを、なぜ今思い出したのかは分からない。薄く目を開くと、傍らに透き通った、ちいさなキノコが生えていた。それは愛らしく美しい存在。無駄なものはひとつもなく、すべてが自然の一部であり、繋がっている。

 完璧な連鎖。完璧な存在。自分もその一部。日の光が眩しく、涙が流れる。手を伸ばすと、兄弟の身体に触れた。彼もまた手を伸ばし、おれの指を掴む。おれたちは繋がっている。言葉がなくても、容易にそれを信じることができた。



 結局その日は、午後の祈りをまるっきりすっぽかすこととなった。休憩から戻らず、姿をくらましたことについては、誰からもお咎めなし。「どこにいたのか?」と訊ねられることも、「サボってタバコを吸ってたんじゃないのか?」と叱りつける者もいない。ここでのおれは、兄弟として信用されている。こうなったらサボるなんてとんでもない。罰を与えられるよりも、無条件に愛されることの方が、よっぽど衝撃的だ。

 神との一体感を感じたのはあれっきりだったが、それでも多少、意識が変わったようだ。まず仕事中に、余計なことを考えなくなった。これまでは“やれ面倒”だの、“もっとうまくやろう”だの、“神のために頑張ってみよう”だの、“やっぱりもう嫌だ”、などなどなど……。とにかく様々な考えで、頭をいっぱいにしていたのだが、今ではもっとシンプルになった。

 “ただ実行する”ということ。やるかやらないかで言えば、これは“やる”だ。あのとき川の水と同化したように、ここでは廊下と親密になる。まあ、単に掃除という行為に慣れたのかもしれないが、とにかく進歩だ。おかげでずいぶん作業は楽になり、つぶれたマメも気にならない。

 この日の深夜、トイレに行った帰りに、礼拝堂を覗いてみた。聖壇にはいくつものキャンドルが置かれ、黄金の光を放っている。木製の十字架とイエスの聖画が幻想的に浮かび上がり、それは日中より優しげに見えた。時折、響く足音と静かな話し声は、不寝番の修道士たちのもの。彼らは一晩中眠らずに、祈りの火を見守っている。

 おれとポールは明日ここを離れる。最後にこの美しい光景を見ることができたのは、神の恩恵のように思えた。



「このデータ、作成者の名前がないんだけど、どうなってますか?」

「すみません、ミーティングの時間が三十分繰り下がったので調整してくださいとのことです」

「急がせて悪いんだけど、資料の方はできてる? 先方から矢のような催促が来てるからさ」

「もしもし、何度も催促がましくて恐縮です。来月の展示の件で、確か今週中にお返事いただけるとのことだったと思いますが……」

「おい! このコピー誰のだ?! 個人情報を置きっぱなしにするなよな!」

 そう、これがおれの日常。昨日までローブを着て、祈りの日々をおくっていたというのが嘘のようだ。

「なんだその手は? ジムで張り切り過ぎたのか?」

 同僚のジェドがおれの手の絆創膏を見て言う。祈りの日々が現実であった証拠は、つぶれたマメ。この名誉の負傷がなければ、本気で『あれは夢だったのかな?』と思ってしまいそうだ。

 ポールにそれを話すと、彼は「まったく同じことをぼくも思ったよ」と笑う。

「職場に戻ってパーマ液の匂いを嗅いだ途端、一気に現実に引き戻された。もう、自分はパブロフの犬かと思ったよね。俗世に戻るのはすごく簡単だって、これでよくわかった」

「聖域に戻りたくなったか?」

「ううん、しばらくはいいや。それに……」と、おれの頬に顔を寄せる。「あそこではこういうことはできないしね」

 おれの耳にキスを落とし、シャツの裾から手を入れてくる。ベルトの金具を外し終わったところで、彼は「どうしたの?」と聞いてきた。

 おれはソファに頭をもたせかけ、「なんかちょっと……」と、口ごもる。

「したくない?」と、ポール。

「ん……」

「疲れた?」

「かもしれない」

「大変な五日間だったものね。うん、今夜はゆっくり休んで。また次の機会に備えよう」

「ごめん」

「気にしないで」

 それからおれたちは軽くキスを交わし、何もせずにただ眠った。祈りの言葉を唱えることもなく。



「まだ疲れてるって?」

 怪訝な顔でポールが言う。彼はベッドの上に身体を起こし、バスローブの帯を結び直した。

「手のマメだってもう治ってるのに、まだ疲れが残ってる? それって何なの? いったいどうしちゃったわけ?」

 ほとんど不機嫌とも聞こえる口調で問いただすポール。腹を立てるのも無理はない。修道院から戻って今日で一週間目。その間、おれたちは一度たりとも肉体関係を持っていないのだから。

 おれは力なくベッドに横たわったまま、「ごめん」と謝った。

「ごめんじゃなくて、理由を聞いてるんだ」

 理由。理由か……。もしそれがわかるくらいなら、とっくに言ってる。実のところ、“疲れている”というのは、詭弁に過ぎない。本音を言えば、“やりたくない”んだ。しかし、“なぜやりたくないのか”となると、自分でもさっぱり見当がつかない。

「あともう少し、猶予をくれないか? もうしばらくしたら、元通りになると思うから」

「いいけど……病気とかじゃないよね? ぼくは心配して言ってるんだからね?」

「ああ、わかってる。思い遣ってくれてありがとう」

 ポールはシーツをかぶり、「恋人なんだから思い遣るのは当たり前だろ」とか何とか、ブツブツつぶやきながら寝てしまった。

 おれは別に不能になったわけじゃない。朝立ちはするし、勃起不全の兆候はわずかもなく、ましてやポールのことが嫌いになったとかでもない。彼のことは変わらず愛しているし、キスとハグも毎日してる。ただ、そこからセックスにまで及ばない。食欲も睡眠欲もあって、ただ性欲だけが、すっぽり抜け落ちている。

 ひとつの感覚が削ぎ落とされてしまった今の気分どんなものかというと、意外にも別段、悪い感じはしなかった。むしろどこか身が軽くなった気がするほどで、もしかしたらあの修道士たちは、常にこういう感覚を味わっているのかもしれない。

 精神と肉体の健康面からみて、自身に問題は感じられないが、特定の恋人を持っている以上、この状態を維持するわけにはいかないだろう。神はおれが性欲を手放したことをお喜びになっているかもしれないが、おれは神よりポールが大事だ。信仰が我々の救いになるどころか、むしろ“関係の維持を困難にする”のであれば、あえて天使になる必要はない。

 怒って寝てしまったポールの髪を撫でながら、『こんなことは長く続かないはずだ』と自分に言い聞かせる。おれが性欲をまったく失うなんて、ちょっと考えにくい話だし、人間が天使でいるには限界がある(はずだ)。だがもし、万がいち……“このまま”だとしたらどうなるだろう? パートナーに性的満足を提供できなくなったとしたら? 肉体的に愛し合うことがなくなってしまったら? そうなったらポールはどうする? おれは……いったいどうなるんだ?



 十日を過ぎたところでポールがキレた。

「いったい何がそんなに嫌だって言うわけ?!」

 数分前まで、おれたちはソファでゆっくりくつろいでいた。コーヒーを飲みながらの、他愛も無い会話。ポールが甘えるように寄り添ってきて、おれのシャツのボタンを全部外したあたりで……彼は突然、上記のように怒鳴ったわけだ。

「そのやる気のなさは一体何なの? 問題があるのはぼく? それともきみ? この状態について、今日こそはちゃんと説明してもらうからね」

 クッションをぎゅっと抱きしめ、ポールは臨戦態勢に入った。ちゃんと説明するまでは寝かせてはもらえなさそうだ。

 おれだって男だ。男性の性的フラストレーションが、どれだけ精神に影響を及ぼすか、知らないわけじゃない(現にポールは、いとも簡単にキレ、大声を出した)。

 あれから十日。修道院に行く前からと換算すると、もう十五日以上も、おれたちはセックスレスだ。恋人同士として、いい状態じゃないのはよくわかってる。でも仕方ない。これっぽっちも、本当にこれっぽっちも、やりたくないんだ。

 おれはシャツの前をかき合わせ、ソファにきちんと座り直した。

「説明しろって言われても……自分でも何が何だかサッパリ……」

「それは何度も聞いてわかってる」ポールはクッションの角についた房をいじりながら、「でも糸口くらいはつかもうよ」と言った。「話すことで明かされることが、あるかもしれないから。ねえ、覚えてる? 修道院では、きみ、したがってたじゃない?」

「ああ」

「あのときまでは性欲はあったんだよね。で、いつからそれが消えちゃったの?」

「いつかな……たぶん、その翌日」

 聞かれて思い出した。拭ったように性欲が消えてしまったのは、あの日からだ。ブラザー・ブロンドと一緒に沐浴をした。その素晴らしい体験の後、おれは一度もセックスのことを考えなくなっていたのだ。

 ようやく思い当たる節に辿り着き、おれはポールに事の顛末を話して聞かせた。すると彼は口をあんぐり開け、「信じられない……」と、つぶやいた。

「おれだって信じられないよ。まさかあの儀式が性欲減退の源だなんて、思うわけもないし、それに……」

「どうしてぼくに黙ってたの?」

「えっ?」

「今の今まで隠してたなんて、信じられない」ポールは暗く、じめっとした目でおれを見、そして言った。「きみはぼくに隠れて……あんなところで浮気してたなんて」

「浮気!? いったい何の話をしてるんだ!?」

「あんな奇麗な子とふたりきりで水浴びして、それから後は、ぼくとセックスしたくないって? なんなのそれ? 馬鹿にしてるの?」

「水浴びじゃない、沐浴だ! それにおれたち服は着てたぞ!」

「最後まで?」

「陸に上がってからは脱いだけど……ああ、そんな顔するなよ! 脱いだのは服を乾かすためで、別にやましいことじゃないんだから!」

「やましくないなら、どうして隠したりするんだ! ぼくが聞かなければ、一生黙ってるつもりだったんだろ!?」

「別に隠してたわけじゃない!」

「だったらどうしてすぐに言ってくれなかったのか説明して。いつだって話すチャンスはあったのに……」

 話すチャンスは確かにあった。でも話そうとは思わなかった。というよりも、あの経験を誰かに“話す”という発想に至らなかったんだ。あれはあれで完璧に終わったことで、説明の必要は誰にも──自分自身にすら──なかった。話そうとは思わなかったし、隠そうとも思わなかった。

「もう一度聞くよ。やましくないなら、どうして隠してたわけ?」

「それは……なんて言ったらいいのか……」

 あの体験を言葉で説明するのは難しい。確かに、物理的側面だけでみたら、男同士ふたりきりで川の水にひたって、その後に服を脱いで……ときたら、誰だってポールが思うようなことをイメージするに決まってる。ああしたことは体験した者じゃないとわからない。砂糖を舐めたことがない者に、砂糖の甘さを説明することがどうやってできる? おれにとって、川での一連の出来事は美しい思い出となったが、ポールはそう受け取らなかった。当然と言えば当然のこと。

 ゴブラン織りのクッションは柔らかで、顔に当たったところで怪我をすることはまずない。ただ、それが恋人から投げつけられたものだとしたら、心に重い痛みを残す兵器となる。ポールは頭から湯気を出しながら、自室へと消え、おれはクッションとふたりきりになった。ああ、ふかふかのクッションよ。汝は兵器として生まれ来たわけではない。おれを癒すために、天から遣わされたのだ。そういうわけで、おれは今夜、ひとりでクッションを抱いて眠ることになりそうだ。うっかりクッションとの間に愛が芽生えてしまったら、そのときこそ、おれは修道院に入院しようと思う。



 朝の日課はコーヒーメーカーをセットすること。今日は土曜で、おれは休日。ポールにとっては、まれな週末の休みだ。

 部屋のドアをノックし、「ポール……もう起きてるか?」と、ドア越しに声をかける。

「よかったら朝食を一緒にと思ったんだけど」

 反応はない。わずかに物音がしたので、起きてはいるようだが。

「卵はどうする?」茹でたのか、焼いたのか、焼くなら片面か両面か。反応はない。今日は卵の気分じゃないのかも。

「それとさ、休みのところ悪いんだけど、この前から約束してたヘアカット、今日やってもらうわけにはいかないかな?」

 反応はない。構わず続けて話しかける。

「それで、午後はどこか外で食事でも……」と、素敵な提案を言い終わる前に、ドアの下から、細長い、チケットのような紙が出て来た。拾い上げ、見てみると……

〈このチケットをお持ちの方、一名様に限り、技術料を10%オフ〉

 ……美容室の割引券だ。なんという親切。おれの恋人は怒り狂っているときでも、思いやりのある男だ。

「どうも。ありがたく使わせてもらうことにするよ」

 礼を述べ、キッチンに戻る。コーヒーが良い匂いを立てていたが、ひとりで味わうとなると、香りも美味しさも半減するような気がする。

 髪を切りたかったのは、修道院に行く前からだ。いいかげん切らないと、上司からチェックが入るし、何より中途半端な髪型でいるのは、自分が嫌だ。タイミングの悪いときに喧嘩をしてしまったと思ったが、よく考えてみれば“タイミングのいい喧嘩”なんてものはあるはずがない。

 一度、“髪を切りたい”と思ったが最後、本当にそれを実行するまで、その言葉は呪いのようにつきまとう。髪を切りたい。髪を切りたい。髪を切りたい……。

 通い慣れた美容室に足を踏み入れるなり、店のスタッフは目をまるくし、「あらっ、お珍しい人が来た」と言った。

「やあ、ダグラス。久しぶり」

「今日はポールはお休みよ」

「知ってる」

「じゃあ何しに来たの?」

「美容室に野菜を買いに来たとでも?」

「それは思わないけど……まあ、いいわ。誰かご指名はある?」

「きみに頼むよ。忙しくなければ」

「忙しいけど、ぜんぜんオッケーよ。一度あなたの髪をやってみたいと思ってたのよね。とりあえず、そこに座って待ってて」

 待ち合いの椅子にかけ、雑誌をめくる。目に飛び込んでくるのは、カラフルな欲望の数々。ブランド物の服に靴。海外旅行とグルメ。マッキントッシュのiシリーズ。メディアはこぞって物欲を駆り立てる。おれもこの間まで、この中に身を浸していたのだ。今となってはずいぶん遠くに来た気がする。

「お待たせしました。こちらへどうぞン♪」

 言葉に節をつけ、ダグラスはおれを案内してくれた。彼はいつも楽しそうで、笑顔でないときを見たことがない。ややオーバー気味の体重を覆い隠す、艶やかな黒い肌。それに加えて上背もあるため、黙っていれば怖いお兄さんといったところだが、気さくな笑顔とオネエしゃべりが、彼をコメディの住人とさせている。

「あら、ディーンさん、お久しぶりですね」

 またしてもおれをよく知るスタッフの登場。ここでは最年少だったアニーも、いつのまにか見習いからアシスタントへと昇格していた。それでも輝くような若さは変わらないままだ。

「せっかくいらして頂いたのに、今日はポールお休みなんですよ」

「ああ、知ってる」

「そうなんですか?」

 アニーは不思議そうな顔をしている。きっと彼女も“じゃあ何で来たの?”と思っているに違いない。

「たまには店に来ないと、みんなに忘れ去られると思ってね。それに新しいスタッフも入ったって聞いたから」

「そうなんですよ」アニーは“話題が変わってホッとした”という顔をした。ポールとおれがかつて深刻な喧嘩をしたことを、彼女はとてもよく知っているのだ。

「あそこにいる彼が新人のオッリです」

 アニーが目で示したのは、シャンプー台の横でタオルを畳んでいる青年。整った顔立ちと、巻き毛のブロンドが、修道院のブラザーを思い起こさせた。

「オッリ。北欧系かな」

「ええ、でも二世だから、外国語がしゃべれるわけじゃないそうですけど」

 シャンプー台に横たわり、タオルを顔にかけられる。温かいお湯に、心の底からリラックスを感じた。美容室のシャンプーはどうしてこんなに心地いいんだろう。これを味わうだけでも、ここに通う価値がある。いつも家でポールにカットしてもらうばかりでなく、たまには来店してもいいかもしれない。割引券もあることだし。

 丁寧なシャンプーにうっとりしていると、柑橘系の香りが鼻をくすぐった。彼女、フレグランスをつけていたのか。今まで意識したことはなかったが。みずみずしい香りはアニーにぴったりだ。

「お湯の温度は熱くないですか?」

「ああ、いや、香りが……」

「香り? あ、これは新しく開発したシャンプーなんです」

 シャンプー? いや、おれが言ってるのは、そっちじゃなくて香水の……まあいいか。

「このシャンプー、すごく香りがよくて、泡立ちもきめ細かいんです。わたしも家で使っているんですよ」

 家で? シャワー室で? 裸でか? シャワールームのアニー。全身は泡だらけ。すごく香りがよくて、泡立ちもきめ細かい。真っ昼間から、客に向かってなんて会話を振るんだ? いや……おかしいのはおれのほうだ。

「もちろんご購入もできますから。後でサンプルを差し上げますね」

 アニーの手が優しく触れる。その感触ときたら、すべての男を奮い立たせるかのような、特別な感情が込められていかのような……ああ、もう駄目だ。そんなところに触らないでくれ!……といってもそれは髪の毛だ。シャンプーするのにそこに触れないわけにはいかない。動機と息切れとめまいを感じたが、それはどれも快いものだ。病気ではない。いや、やっぱり病気かも。

「ちょ……ちょっと待って……待ってくれ!」

 顔からタオルを除け、起き上がろうとすると、アニーは短く、小さな悲鳴を上げた。

「ど、どうなさったんですか?」

「気分が悪いんだ、トイレに行きたい」

「えっ……あ、はい、どうぞ」

 濡れた髪にタオルを巻いてもらい、シャンプー台から降りる。美容室のローブは膝下までの長さ。助かった。

 トイレに向かう途中、オッリに呼び止められた。

「具合が悪くなったと聞いたんですが……」

 若干、猫背ぎみのおれの背に、彼の手がそっとかけられる。

「大丈夫ですか?」

 濃い睫毛とミルク色の肌。オッリは本当にきれいな顔立ちをしている。こんな子を隣にはべらせたら、さぞかし気分がいいだろうな……じゃなくて! いったいおれは何を考えているんだ!?

「もし何だったら、救急車をお呼びしますが……」

 美少年の手がおれの背中をさすり始めた。ああ! そんなことするな! どいつもこいつもおれにさわるんじゃない!!!

「いや、その、救急車はいいよ。ただ少し……休めば治る」

「そうですか? でももし駄目そうだったら、いつでも……」

「ああ」トイレのドアをばたんと閉め、おれは個室で頭を抱えた。

 ちくしょう、まったくこれはどういう病気なんだ? こんなところで、こんなことをするのは、非常にためらわれる。しかしやらないわけにはいかないだろう。ファスナーを下ろすと、ディーン・ジュニアは元気いっぱい。気の毒なほど張り切っていて、誰かに遊んで欲しがっている。トイレットペーパーを引き出し、目を閉じる。♪塀にビールの瓶が2本、1本が落ちたら、残るは1本のビール瓶♪ ……すべてはあっという間に終了。プレイガールを思い起こす必要もなかった。

「ケリーさん?」と、オッリの声。そしてコンコン、ドアを軽くノックする音。

 おれは適当な返事をし、蛇口から勢いよく水を出す。両手をシャボンだらけにし、肘のあたりまで擦ったのは、たった今しがたの行為を洗い流すべくだ。おれはこんな公共の場所で……とんでもない行為に及んでしまった。キリスト教において、“手を洗う行為”は、『この罪は自分とは無縁である』ということを意味する。しかしこの場合、罪は間違いなくおれにあるのだ。アニーはともかく、オッリにまで欲情するなんて、どうかしてる。だいたいここはポールが働いている店じゃないか。

 ドアを開けるとオッリが飛び退くようにして、後ろに下がった。「大丈夫ですか?」と心配そうな顔をし、「中から苦しそうなうめき声がしたから」と言う。

 ああ、やっぱり聞こえてた? 別に苦しくはなかったんだけどね。

 アニーが小走りでやってきた。手には蒸しタオルを持っている。

「ディーンさん、ご気分は?」

「もう平気だよ。びっくりさせてごめん」

「どうします? お帰りになられます?」

「いや、ほんとにもう大丈夫だから。よければ続けてもらえるかな」

「ええ、わたしはもちろん……でも本当に平気なんですか?」

 まだ不安げなアニーに、オッリが「本人がそう言うなら、大丈夫なんじゃない?」と口を挟む。「ぼくもときどき同じようになることはあるからよくわかる。こういうのって波があって、吐くとすっかりよくなるんだけど、それまでがつらいんだ」

「ああ、そうさ。身体の中のモノをすっかり出しちまえばどうってことはない……」

 出したところは違うけど、オッリの言わんとするところとは、遠からずわかる。おかげで今はすっかり気分がいい。あのままだったら、どうなっていたことやら。きっとアニーとオッリを無理矢理、個室に連れ込んでいたに違いない。

「さ、アニー、おれたちどこまでやったっけ? シャンプー台には乗ったんだよな?」



『こういうのって波がある』と言ったのはオッリ。彼の説は正しかった。おれは帰宅途中、またしても“波”に襲われた。

「あんなところでセックスしたのは初めてだ」と、ポールは言う。

 “あんなところ”とは、玄関のこと。いや、アパートメントのエントランスじゃない。我が家の玄関のことだ。

 激しい性衝動に駆られるままに帰宅し、玄関近くにいたポールを見つけるや否や、おれは彼に掴みかかった。これでもずいぶん我慢したんだ。スターバックスか何かのトイレでコトを済まさなかったのは、家に恋人がいるとわかっていたから。いきなり襲われたポールは、最初こそびっくりしていたが、おれが暴力をふるおうとしているのではないとわかると、すぐに同調し、行為に至った。おれたちは着衣のまま取っ組み合い、玄関の次は、居間のソファ(ここでは半分くらい服は脱いだ)。三回戦でようやくベッドに移動し、それを終えたら腹が減ったので、冷蔵庫をあさって適当に食べ、またベッドに戻った。これじゃまるで動物だ。とはいえ、短時間の間、こんなに何度もセックスする動物がいるかは謎。まあ、とにかくタクシーの後部座席や、エレベーターの中で破廉恥な行為に及ばなかっただけましだ。

 おれはポールの髪に指を絡ませ、弄びながら、「きみが“死にそう”って言うの、初めて聞いたな」と、つぶやいた。

 ポールはおれの胸に頭を乗せたまま、「死はネガティブなイメージだから、セックスのときには使いたくないんだけど」と前置き、「でも今回ばかりは無理だったな」と笑う。「だって、ほんとに身体がどうかなるかと思った。あんなふうにしたのは初めてかも」

「辛かったか? きみに無理を?」

「大丈夫だよ。きみはいつも、ぼくがちょっとでも“嫌”とか“駄目”とかいうと、行為を制御するからね。たまにはこういうのも素敵だ。それにぼくは少し強引にされるくらいの方が好みだし」

 ポールはセクシーに目を細め、ふふと笑うと、突然「昨夜はごめん」と謝ってきた。「今日ね、ローマンに叱られたんだ。彼、こう言ってた。『確かにあんたの彼氏はスットコドッコイだけど、相手の言い分も聞かず、頭ごなしに話すのはどうかと思うの。気持ちはわかるけど、こういうときほど、落ち着いて寛大でいなきゃね』って」

「スットコドッコイは余計だ」

 不機嫌におれが言うと、ポールは「だね」と笑ってみせる。いつもの笑顔。とても優しい、穏やかな笑いだ。

 ポールはおれの手を優しく掴んで、「ねえ、あんなふうに怒っちゃうなんて、ぼくは本当にどうかしてたね」と、微笑んだ。「ローマンに言われるまで、自分がおかしなことになってるって、気がつかなかったんだ。よく考えたら、あんなにキレる話でもなかったのに」

「気にするな。性欲が溜まってりゃ、キレやすくもなる」

「そんな性欲魔人みたいな状態じゃなかったと思うけど……」

「目がギラギラしてたぞ。“いつ襲ってやろうか”って感じだった」

「そんなことない!」

「この一週間というもの、いつ頭からとって食われるかと」

「ひどい! 人を変態みたいに言うな!」

「変態でもきみが好きだ」

「だから変態って言うなってば! ……もう、こんな馬鹿な会話してることが修道院に知れたら、“おまえたち、二度と来るな”って言われるよ」

 それは軽いジョークだったが、おれはすぐに反応を返すことができなかった。ポールはすぐにそれに気づき、「どうしたの? 何か気に触った?」と、聞いてくる。

「いや、気に触ったわけでは……ただ……なんだか急に……」

 そこで出かかった言葉は、おれにとって意外なものだった。“罪悪感”───。

「急に? 何?」

 不安そうな表情になるポール。おれは少し息を吸って、深く吐き出してから、こう言った。

「おれは今まで、真面目に考えたことがなかったんだ」

「真面目にって、なにを?」

「神について」

「そんなの……ぼくだって」

「修道院での体験はすばらしかったよ。そんな素晴らしい体験を、神はおれにくれたってのに、おれの方は神をあざむいた……」

「あざむいた?」

「おれは……告白しなかった。きみとのことを」

「ああ……」ポールも深く息を吐いた。それは意識的にと言うよりは、ほとんどため息に近い。

 おれは天井を見つめ、「天国に行けないからとか、罰が怖いとかじゃないんだ」と言った。「自分は神に対して、あそこにいた兄弟たちに対して不正直だったと思う。この件では神に借りができたのかも知れないけど、だったらおれはこれまでどれくらいの罪の借りがあるんだ?」息を吐き、人差し指と中指で、両のこめかみを揉む。「こういうことを考えたのは初めてだ。正直……どうするべきかわからない」

 イスラムのハーカンと、ジューイッシュのマイヤ。おれとポールにとって、ふたりの生活習慣は奇異なものだったが、彼らにとってのそれは、単なる生活習慣などではなく、より深い、魂のレベルでの何かだったのだ。今のおれにはそれがわかる。わかるが、何をどうすべきかはわからない。

 おれたちはしばし黙り込み、互いの温もりを感じてじっとしていた。

「これはぼくの考えなんだけど……」と、口火を切ったのはポールだ。

「もしきみが本気で“借りを返したい”って思うならそうすればいいと思う。教会に行くとか、方法はいくらでもあるだろうからね。だけど、“死後のために”とか、“人の子はそうすべきだから”、もしくは、“そうすべきでないから”とかいう理由で何かを選択した場合、それはおかしなことになると思うんだ。あそこにいた修道士たちってのは、本気で神さまと一緒にいようって決めた人たちなんだろうね。だから迷いもないし、ただひたすらに日々、成すべきことをやり続けることができる」

 人生を祈りに捧げた修道士。彼らに迷いは微塵もなかった。それはそうだ。もしあったら、あそこにはとてもいられない。100パーセントのコミットメントがあって、初めてあの生活を“苦痛でない”と感じることができる。おれにはとても無理な話だ。

 ポールはさらに言葉を続けた。「きみはきみのやり方で、神さまに身を捧げることができると思う。どれだけ自分自身に誠実になれるか、人生をどのように生き、何に捧げるか……」それはまるで自分に言い聞かせるようで、最後の方は聞き取るのが難しいほどのささやき声だった。そこから彼は急に声のトーンを変え、「ぼくのイメージでは、神はすごく寛大というか、放任主義なんだよね」と明るく言う。

「放任主義?」

「なんていうか、理想的な親みたいなものでさ。神が望んでいることといえば、子らが愛し合って、幸せに暮らすこと……それ以外のことは、たぶんあまり考えてないんじゃないかな?」

 ポールがあまりにもあっけらかんと言うので、おれは思わず笑ってしまったが、その笑いには、どこか疲れも滲んでいた。

「ぼくが思い描く神さまってのは、そんな感じ。世の中には罰することが好きな神もいるようだけど、そこには招かれたいとは思わない。もっと大らかで優しくて、楽しい神の家を訪問するよ」

「そいつはいい……席はあいてるかな?」

「きっと何人でも」

「じゃあきみのとなりに座ることにするよ」

 ポールは黙っておれの頬にキスをした。それはまるで兄弟のような口づけ。気持ちが落ち着くと、空腹を感じた。

「また腹が減ってきたな」

「あれだけカロリーを消費したんだもの。キッチンに行って何か食べようか」

「こんな夜中に?」

「たまには小さな堕落も素敵だ」ポールは勢い良くベッドから降り、裸のまま、台所に向かった。おれもまた同様の格好で、後に続く。

 冷蔵庫から外国産のビールを出し、フリーザーからはアイスクリーム。缶詰のツナをマヨネーズと合わせ、塩とコショウを追加。それをトルティーヤチップスの添え物にする。チーズスプレーにクリームスプレー。アイスクリームにはハーシーズのチョコレートシロップをたっぷり。

 大らかで優しくて、楽しい神の家。アダムとエバがリンゴを口にする前の姿で、おれはポップコーンをレンジにかけた。

「脂肪と砂糖のパレードだ」と、おれが言うと、ポールは「まさに有罪の味だね」と、ビールを口に含んだ。

「いや、どうかな。おれたちの神はお許しになるんじゃないかな?」

「神は許しても体重計はシビアだよ」

「確かに。じゃあ、これは今夜だけ。明日は一緒にジムに直行だ」

「いいね。運動するきみを見るのは好きだよ。興奮する」

「不埒だな」

「不埒なんだ」

 おれたちは顔を見合わせて笑い合い、そして自然にキスをした。今度は恋人同士の口づけだ。

小さな堕落も不埒も素敵。チョコレートシロップ味のキスはもっと素敵。唇を離し、ポールが言う。

「ねぇ、ディーン。英国で同性同士の結婚が認められたって話は知ってるよね? 時代は変わってきてるよ。ソドミィは絞首刑の罪じゃないんだ。楽にやっていこう」(注 : 同性同士の結婚 = シビルパートナーシップ制度のこと)

 かなり前からゲイとしての人生を生きているポール。この手のことについて、考えた時期もあっただろう。おれはまだ同性愛の初心者で、パートナーから学べることはいくらでもありそうだ。

 信仰は口づけと共にベッドの中へ。おれは心で十字を切り、誠実な気持ちで祈りを唱える。


 天にまします我らの父よ。

 おれたちが他人をゆるすように、

 おれたちの愚行をどうかゆるしてほしい。

 ときに愚かな考えに負けてしまう弱き存在。

 あなたの子らをどうかそっと見守ってほしい。

 おれとポール……恋人同士がいつでもお互いを思いやれるように、どうか……。アーメン。


 END

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