第19話:元カレ登場!(The Power Of Goodbye)

「ディーン、目覚ましが鳴ってるよ」

「ああ……悪い……」

 ベッドサイドテーブルに手を伸ばし、時計を叩いて黙らせる。一夜を共にした朝、けたたましい音で目覚めさせられるのは、恋人にとって不愉快なことに違いない。それがエンジンの排気音だというのなら、尚のことだ。

 ポールは寝返りをうち、「なんでこんな時間に目覚ましなんか?」と、つぶやいた。「今日はぼくたち、ふたりとも休日なのに」

「セットした覚えはないんだけどな……起こしてごめん」

「いいけど」ポールは枕に肘をつき、頬杖をついた。どうやら彼は完全に目が覚めてしまったらしい。おれの目覚まし時計を見て、「前から思ってたけど、この時計。きみの部屋のインテリアと合ってないよね?」と言う。

「そうだな」まだ眠いおれは、適当に返事をした。

「それにあちこち痛んでる」

「ああ」朝の日差しがまぶしい。それでも身体は未だ眠りを求めている。

「新しい目覚まし時計をプレゼントしてあげようか?」

「別にいいよ」

「電波時計とかどう? サマータイムに慌てることがなくなるって」

 彼が話し続けるので、こっちもだんだん目が醒めてきた。おれは仰向けになり、「これでいいんだ」と、改めて言った。

「どうして?」とポール。彼が不思議に思うのも無理はない。ヘルメットをモチーフにした目覚まし時計は少しもお洒落じゃないし、この部屋には明らかにミスマッチだ。

「ボロなのはわかってる。でも捨てられない。こいつには想い出があるんだ」

 そう言うと、ポールは「だと思った」と、にやりとした。

「きみはこれを旅行先にまで持ってきてたものね。よかったらその想い出、聞かせてもらえる?」

 ゆるやかな休日の朝、ベッドで恋人に話して聞かせるには、“子供時代の思い出”は、なかなかいいテーマかもしれない。おれは目覚ましを手に取り、ポールに見せた。

「この時計、ヘルメットの側面にサインがあるだろ?」

「サイン? ああ、これ」

「もちろん印刷で手書きじゃないけどさ。これはF1レーサーのマイケル・マクファーソンのものなんだ。小学校の頃、周りの連中はインディ500やナスカーのファンが多かったけど、おれはF1派だった。なんといっても世界最速のカーレースだもんな。これに勝つには空を飛ぶしか手は残されてない」

 長くなりそうな話の予感に、ポールは“続けて”と目で先を促した。

「マクファーソンが年間総合優勝した年、彼の名前が刻印された限定版のタグホイヤーが発売されたんだ。おれはそれが欲しくってさ。クリスマスプレゼントに貰えないかって、期待してた。で、クリスマス当日、サンタがくれたのはこの目覚まし時計……。ママは目覚ましと腕時計とを勘違いしたんだよな。だからって抗議するのも悪い。とりあえず喜んだふりはしたけど……まあ、本音を言えばガッカリだった」苦笑し、ポールに時計を手渡す。彼は印刷されたサインを指でなぞった。

「限定のタグホイヤーはかなり高価なものだし、子供がクリスマスプレゼントに貰えるようなもんじゃないってことは、考えてみればすぐにわかる。それでもおれは期待してたんだよな。この目覚ましだって悪くないって思えるようになったのは、もう少し後になってからのことだ。マクファーソンの限定品だし、ホイヤーほどじゃないが、そこそこ値は張る。母子家庭では精一杯の贈り物だ」

「そっか。この時計には、お母さんの気持ちがこもってるんだね」

 ポールは優しい顔で微笑んだ。“ちょっといいエピソード”に感激したのかもしれない。

「お母さんの気持ちだか怨念だかがこもってるせいで、この時計はちっとも壊れないんだ。だから買い替える機会を逸してる。いつか買おうと誓ったタグホイヤーは、今やオークションではとんでもない値がついてるしな。結局まだ手に入れてないよ」ポールの手から時計を取り、サイドテーブルへと戻す。

 それにしても、どうして目覚ましが鳴ったんだろう? 昨夜セットした覚えは無いし……もしかして、この時計、とうとうガタがきたのかもしれない。お母さんの気持ちだか怨念だかの期限切れか。

「あのさ、聞いていい?」とポール。「マイケル・マクファーソンって、そんなにすごい人?」

「ああ、マックは最高さ」

「他のレーサーを殴ったこともあるのに?」

「殴ったのは一度だけだ。89年のホッケンハイムで。あれは世間が騒ぎすぎたんだ。マックはいいスケープゴートにされたのさ」

「子供のヒーローなのに、タバコの広告に出たりして」

「それは仕方ない。F1でタバコ会社は大きなスポンサーだ」

「背なんかすごく小さい」

「レーサーとジョッキーはチビの方が有利で……って、なんだよ。おれの英雄をそんなにけなすことないだろ」

「ごめん。ただ、ぼくにとって彼はあまり英雄じゃなくってさ……」

「どうして?」

 会話が重要なくだりにさしかかったとき、不意に鳴るのがドアフォンだ。

「誰だ? こんな時間に珍しいな?」

 おれはベッドから降りた。チャイムの音から判断するに、来訪者は一階のエントランスからではなく、我が家の玄関前に立っている。

「ローマンかもよ」とポールが言った。

 ここまであがって来られるのは、ドアマンに顔パスの友達だけだ。訪問販売や宗教伝道の類いは、アパートメントの入り口で通行止めになる。

 見知った相手だろうという気楽さから、おれはローブ一丁で応対に出た。ローマンに「ひどい恰好」と言われたら、フラッシャーの真似でもしてやるつもりだ。(※フラッシャー=裸にコートだけを羽織った変質者。コートの前を開いてアピールすることから、フラッシャーと呼ばれる)

 ドアを開けると、そこには男が立っていた。ローマンではない。ローマンだったら、こんなに低い位置に目線を据えることもない。男の身長はおれの顎のあたりまでしかなく、薄い頭部がやけに目についた。

 背後からポールが「ディーン? 誰?」と声をかけてきたが、おれは応えることができなかった。

 誰かって? 誰なのかはわかってる。目の前の男の名前をおれは知っている。それでもその名を口にすることはできない。

 小さな男は背伸びをし、おれの肩越しにポールを見て言った。

「やあ」

 それに答えるポール。「いったいどうしてここが?」

「調べたのさ」こともなげに言う男。二人の間に挟まれたおれは、さっきから一言も発してない。あまりの驚きに、声帯の機能がフリーズした模様。

「久しぶりだね、ポール。きみは少しも変わってないな」

 男はそう言って、おれを通り過ぎてポールへと向かった。そしてハグ。おれの目の前で、おれの恋人が、おれの英雄に抱かれている。

 日差しが差し込む休日の朝。平和で平凡であるはずの日に、信じられない光景を目にしている。“ヒーローはいつも突然に”。そんなアメコミのキャッチコピーを証明するかの如く、現れたのは少年時代の英雄。マイケル・マクファーソンが、おれの家にやってきたのだ。




「なんというか……びっくりしたな」

 しみじみそう言うと、ポールは「ぼくもびっくりした」と、つぶやいた。「別れて以来、彼とは一度も会ってなかったから」

 そうは言うが、おれのびっくりは、ポールのそれよりも遥かに大きい。テレビでしか見たことのない人間がいきなり日常に現れたのだ。NASAが宇宙人を地球に連れ帰ったとしても、ここまで驚くことはない。

 おれたちは二人掛けのソファに並んで座っていて、一人掛けのソファは空いている。テーブルには空のティーカップ。両方とも、ついさきほどまでマイケル・マクファーソンが使っていたものだ。

「まさかきみの元カレが、“彼”だったとは」

 おれの恋人の元カレは、おれの幼少期のヒーロー。言ってみれば、それは“スパイダーマン”や、“マイティ・ソー”が、ポールの彼氏であったとかいうような話。それについてポールは自慢するでもなく、「別に隠してたわけじゃないんだ」と、弁解がましい口調で言った。

「なんていうか、つい言いそびれて。わざわざ昔のことを持ち出すのもどうかって思ったし。それにぼくが彼と付き合ってたのは、ほんとうに若い時だったから。あんまり子供すぎて、“付き合う”ってことの意味もわかってなかった。だいたいマックとは、あまりいい別れ方でもなかったし……」

「ポール」おれは彼の肩に腕を回し、引き寄せた。「別におれは怒ってないぜ? なんでそんなにまくしたてるんだ?」

「ん……そうだね」ポールはおれの肩に頭をもたせかける。「ちょっと動揺してるんだと思う」

「ああ、おれもだ」そう言うと、ポールはプッと吹き出した。

「ほんとだよね。あのときのきみの顔ったら……ヘッドライトに照らされた鹿みたいだった」

「どんなトワイライトゾーンに紛れ込んだかと思ったよ。今朝は時計の話をしてたばかりだったし」

「そうだった。ええと、つまりね。きみの目覚まし時計と同じものが、マックのベッドサイドにも置かれていたんだよ」

「電波時計に買い替えさせようとしてたのはそういうわけか。きみがカーレースを好きじゃない理由もこれでわかった。てっきり競争の類いが好きじゃないのかと」

「確かに競争はあまり好きじゃないね。それなのにぼくはレーサーと付き合ってた。矛盾してるなって当時から思ってたよ」

「で? どうするんだ?」

「何が?」

「彼からのオファー。受けるのか?」

「ああ、そのこと。受けないよ」

「なに!?」

「コーヒーを淹れ直そうか?」

 ポールはすっと立ち上がり、キッチンへと移動した。

「ちょっと待てよ! ポール!」

 おれは彼の前に回り込み、訊いた。「断わるのか!? どうしてだ!?」

「気乗りしない」

「なぜ!?」

「なぜでも」

 ポールはコーヒー豆をグラインダーにかけた。豆を挽く音で会話が中断され、おれはさきほどのやりとりを思い出していた。マイケル・マクファーソンの話はこうだ。

「ポール、わたしと一緒にモナコへ来てくれないか?」

「モナコ?」そう聞き返したのはポール。おれはただ座っているだけ。

「わたしが監督を務めるチームの十周年記念パーティがモナコであるんだよ。ついてはきみに仕事を頼みたい。ヘアメイクのスタイリストとして会場に居て欲しいんだ」

「なんだってぼくにそんな話を? あなたのコネがあれば、スタイリストなんていくらでも探せるんじゃなくて?」

 それはそうだ。マックの最初の奥さんは女優だし、次の奥さんはデザイナーだ。スタイリストを探すなら、まずそっちをあたるべきだろう。

 するとマックは笑い、「それが不思議な縁なんだよ」と言う。「わたしの古い知り合いに、アレクザンダーという男がいてね。わたしがスタイリストを探しているというと、彼は“それだったらいくらでも紹介できる”と言ってくれたんだ。インターネットでスタッフのデータベースが見られるとのことだったので、わたしはそれを開けてみた。するとどうだ!」マックは両手を大きく開き、手品師のようなオーバーアクションをして見せた。「後は言わずともわかるだろう? どうしてわたしがここに来たか。海外で仕事をした経験があって、外国語に堪能なスタッフという要望もきみは満たしていた。素晴らしいことだ。ちなみにアレクザンダーというのは〈アレクザンダー・アーベル〉の創始者だ。きみの勤務先には姿を見せるかな?」

 ポールは肩をすくめ、「一度、遠目で見かけたことは」と答える。

 マックはにんまりとし、コーヒーをすすった。その仕草の優雅なこと。日焼けした顔に刻まれた皺は、おれが最後にテレビで見たときよりも深くなっていて、濃い色の金髪は色あせて白くなっている。いくぶん老朽化は進んだようだが、そんなことは些細なことだ。ただ一度でも世界一最速であった男にとって、年月というものは多く意味を成さない。記録は瞬間的で、永遠なものなのだ。

 マックは「きみのキャリアにとって損になる仕事ではないはずだ」と言い残し、穏やかな笑顔を浮かべて去っていった。なんという貫禄。会見は一時間にも満たないが、おれは完全に圧倒されてしまった。

「それなのに断わるって!?」

「うん」ポールはおれの胸にマグカップを押し付けるようにして手渡した。「きみは知らないだろうけど」と前置き、「パーティの控えスタイリストなんてロクな仕事じゃないんだ」と言う。「招待客はばっちりセットアップしてくるわけで、そんなところでやることなんてほとんどない。マカロンを食べて口紅が落ちたとか、笑い過ぎて睫毛がズレたとか。誰でもできるようなことばかりやらされてさ。お金はいいけど、プライドが傷つく。興味の持てる仕事とは言えないね」

 金より誇り。こういうところがポールの……なんというか、“素腹らしいところ”だ。セレブリティが集まるパーティでの楽な仕事。マカロンを食べすぎたお嬢様や、睫毛がズレた奥様たちは、きっといいチップを払ってくれるだろう。この手の場所で名刺を配りまくり、売り込みに余念がないスタイリストと比べて、ポールはいささか硬派すぎる。いや、もちろんそれが彼のいいところだ。もちろん。

 ポールはおれの顔を上目遣いに見て、「残念そうだね?」と言った。

「まあ……きみの決断だからな。これがおれに来た話だったら受けただろうが……。そうだな、今からでもマックに頼んでみるか。ズレた睫毛を直すくらいならおれでもできるって。報酬はサーキットのピットに入れてくれるだけでいい」

「あまりいいところじゃないよ。レース場は排気ガスが臭くって」

「ああっ……ポール! あまりおれに嫉妬させるな! 羨ましくて死にそうだ!」

「そっか、ごめん。でもぼくにとっては、特別なことでも何でもなかったんだよ」コーヒーのフィルターをぽいとゴミ箱に放り捨て、改めて「この仕事は受けない」とキッパリ宣言。「だいたいね、別れた彼からのオファーなんて縁起でもないと思わない?」

 ふむ、ポイントはそこか。ポールは“別れた彼からのオファー”というところでも、この仕事を快く思っていないのだ。

「あのさ……訊いていいか? なんで別れた?」

「彼は気が多いんだ」

「それはさぞつらかっただろうな」

「ぼくはどうしてか、そういう人と付き合ってしまう傾向にあるみたいで」

「そうなのか」

「いまだにね」

「………………そうか」

「こっちも訊いていい?」

「何を?」

「きみは平気なの? ぼくが彼からのオファーを受けても?」

「どういう意味だ?」

「意味は……」ポールは少し考え込むような表情をし、それから明るい口調で「自分で考えて」とだけ言って、リビングへ消えた。

 この手のことについて、“自分で考える”のは、おれにとって不得手なこと。複雑なゲイ心について、誰より詳しい男にお伺いを立てるとしよう。




「そんなの簡単なことよ」

 ローマンはバーカウンターに両肘をつき、スマートな指先で顎を支えて言った。

「ポールが言った文章を完成させましょうか?『きみは平気なの? ぼくが彼からのオファーを受けても? よく平静でいられるね。昔の彼氏が訪ねてきたのに。嫉妬するどころか、コーヒーまで出して“ようこそ”だなんて。きみって馬鹿なんじゃないの?』」

「最後の一言は余計だ」

「まあ、そんなところよ」カクテルのオリーブを口に放り込んで噛み砕き、そのままマティーニで流し込む。

「あのな、おれだってそれぐらい分かってるよ。昔の彼氏が訪ねてきた。それでポールに都合良く仕事の話を持ってくる。それもかなりオイシイ話だ。おれだって馬鹿じゃない。そりゃ、変だなって思わなくもないさ」

「だったらどうして『帰れこの野郎!』って言わなかったの?」

「きみはマックのことを知らないからな」おれは溜め息をつき、グラスの氷を回した。「彼は紳士だ。おれたちの仲を引き裂くような真似はしないよ。あのときだって、おれの手を取って、“ポール、きみの彼氏は素敵な男だね。なあ、ディーン。ポールは男を見る目は昔からあるんだ”と」

「なんだって一字一句覚えてるのよ。不気味ね」

「ローマン、彼はおれの子供時代のヒーローなんだよ。きみだってマリリン・モンローに褒められたら、一字一句、記憶に刻み付けるだろ?」

「モンローはもう死んでるわよ」

「だったらシェールでもいい。とにかくおれにとってマックはそういう存在だったんだ。ファンだった当時、おれはゲイじゃなかったけど、彼とだったら寝てもいいとジョークにして言うぐらい好きだった。バックパスをもらえるのだったら、身体でも何でも喜んで捧げただろうよ」

「わかったわよ。あなたの憧れの彼氏がやって来て、それでどうだっての? ポールはその仕事、断わるんでしょ?」

「だからさ、きみからポールに言ってもらえないか?」

「なにを?」

「この仕事は彼のキャリアにとってもマイナスになるものじゃ……」

「無理よ」

「なにが?」

「アタシに根回しさせたところで、ポールの決意は変わらない。あの子、けっこう頑固なところあるもの」

 それはローマンの言う通り。ポールはこうと決めたら梃でも動かないところがある。もちろんわかってたさ。ただ駄目モトで言ってみただけで。

「まあ、よかったじゃないの。子供時代のヒーローに会えたんだもの。それだけでも貴重なことよ」ローマンはにっこり微笑み、優しくおれの腕を叩いた。

「そうだな。そう思うことにするよ。話を聞いてくれてありがとう」

「で? 彼となら寝てもいいってほんと?」

「……そこだけ拾って返すな」




 その日、帰宅したポールはむっつりとした顔をしていた。雨の日でも嵐の日でも穏やかな彼には珍しいことだ。

「社長から電話があった。“マックからの依頼を受けるように”って」上着をばさっとソファに放り、深く溜め息をつく。

「きみのところの社長って、アレクザンダーか? マックの古い友人の?」

「いや、その後の社長。アレクザンダーはもう引退してるから。でも誰が根回ししたかは明らかだ。今の社長は『この仕事はきみのキャリアにとってもマイナスになるものじゃないだろう』って言うんだ。こっちの事情なんてお構いなし。こんなやり方、汚いよ。根回しして、ぼくの上司から圧力をかけさせるなんて」

 おれは軽く咳払いをし、「まあ……一概に汚いとは言い切れないんじゃないかな」とつぶやく。「ええと、それで? きみはどうするんだ?」

「やるしかないだろうね。ここでぼくが断わったら社長とアレクザンダーの顔をつぶすことになる」

「無理強いを? 民主主義の国でそれはないだろ。断わったらギロチン送りってわけでもないだろうに」

「もういいんだ。その代わり、ぼくの方からも要望を提出させてもらったし」

「要望?」

「仕事を受ける代わりにね。現地休暇に加えて、同行者一名」

「それってもしかして……」

「きみも一緒に来てくれるよね?」

「本当か!? ああポール! 最高だ! ……あ、いやごめん。きみにとっては愉快なことじゃなかったっけ」

「いいんだ。もう気持ちを切り替えたよ。思う存分、モナコでバカンスしよう」

 愉快でないことを愉快にすることができたなら、人生はより充実した素晴らしいものになるだろう。ポールが使った魔法はポジティブシンキング。誰もが知っているが、誰もが使うわけではない高度な技だ。彼の寛大さと思いやりに感謝を。そしておれの根回しが有効化されなかったことにも感謝しよう。(あぶないところだった!)




 魅惑の国、モナコ───。地中海に面したこの国の魅力は、簡単には語り尽くせない。豊かな食材と美しい景観。気候は温暖で、街のいたるところに花々が咲き乱れる。公道にはフェラーリやロールスロイスが日常的に走り回り、宝石や高級時計を身につけて歩いても、不安な思いをすることはない。モナコは金持ちのための楽園だ。故グレース・ケリーがこよなく愛した美しい国に、おれはやってきた。ポールのおまけみたいなものだが、それはまあいい。重要なのは“なぜここにいるか”ではなく、“ここにいる”ということ。恋人とふたりでモナコの休暇を満喫するというのは、幸福なことに他ならない。無駄に高いホテルの天井を見るにつけ、ここが他の国とは違うのだということを、しみじみ実感させられる。

「またその目覚ましを持って来てる」

 おれがベッドサイドに時計を置くと、ポールは苦笑した。

「いいだろ。今回こそはふさわしいアイテムだと思わないか?」

「どうかな。老舗のホテルには若干ミスマッチだと思うけど」

「バスルームを見たか?」

「見た」

「アメニティは?」

「エルメス」

 おれたちは顔を見合わせ、にんまりと大きな笑顔を浮かべた。

「来てよかったと思ってるだろ?」そうおれが訊くと、ポールは「まあね」と言い、「でもまだ結論するのは早いかな」と肩をすくめた。

「明日の仕事が終われば、きみの気も楽になるさ」

 再三、気乗りしないと言っていたポールだが、コートダジュール空港から、モナコに入るまでの間、彼の態度は明らかに変わった。コバルトブルーの海や、古く美しい佇まいを見せる建造物を目の当たりにして尚、人は不機嫌でいられるものではない。仕事のプレッシャーはあるかもしれないが、それも明日の夜半過ぎまでのこと。明後日は何もかも忘れ、この国を堪能することができるのだ。

「そうだ、マックに無事着いたことを連絡しなきゃ」ポールは携帯を取り出した。

「ホテルは最高。感謝してると伝えておいてくれ」

「いいよ。きみからの感謝とキスを」

「キスはいい」

「そう?」

「いくらここがフランス語圏でも、それはやりすぎだ」

「キスくらい平気かと思った。何たってきみはマックとなら寝てもいいって話だし?」ポールはいたずらっぽい表情で目を細め、携帯電話を耳にあてた。

「……ローマンには何も話せないな」おれは苦笑し、ポールの頬にキスをする。「おれのキスはきみ専用だ。他には誰も思い浮かばないね」

「模範解答。安心したよ。……もしもし、マック? うん、今ホテルにいる。そうだね……うん、平気……」

 彼が電話をしている間に、シャワーを使った。バスルームは大理石。うん、なかなか悪くないな。うちの風呂も大理石に張り替えるか(言ってみたかっただけだ。本気じゃない)。

 二人分も身幅がありそうなローブを羽織り、部屋に戻ると、ポールがテーブルの上のアルミケースと対峙している。メイク道具を収納した頑丈なボックスは、ギャング映画で悪人が持ち運ぶ“不審な何か”によく似ていた。

 おれに気がつくと、ケースのフタを開け「これ見てよ。ひどい。鏡が割れてる」と言う。見ると、丸い鏡にヒビが入っていた。

「いつ割れたんだろ。全然気がつかなかった」顔をしかめるポール。

「空港でか?」

「わからない。もしかしたら最初から割れてたのかもしれないし」

「大事なものか? 必要なんだったら買いに行こうか?」

「いや、いいよ。なくても差し支えないものだし、これはボックスに据え付けるタイプだから、そのへんじゃ売ってない」

 鏡が割れるのは不吉な印という説があるが、天涯付きのベッドで抱き合うおれたちにとって、迷信の類いは多く意味を成さない。しかしよく考えてみれば、今回の話は奇妙な偶然によって導かれたもの。仕掛けていない目覚まし時計が音を立てる。噂をすれば影が来る。そして鏡の破損は……言うまでもなく不幸の兆し。迷信深くなくとも、注意深くあることは必要ではあるが……だけどここはモナコなんだ! 輝く海と晴れ渡った空。夜ともなればパーティにカジノ。治安はすこぶる良く、街を守る警察官はルックスにも気を遣う(※作者注 : モナコの警察は体重と身長に制限がある)。そんなところで何を懸念するって? おれたちは幸福で浮かれてる。もとい、おれは浮かれてる。考えるのは明日のパーティのこと。きっと一生忘れられない体験になるだろう。そしてそれは予想通り。結果から言うと“一生忘れられない体験”となったのだ。




 空がコバルトブルーからインディゴに変化する前に、おれたちは一足先に会場入り。ホテルからは歩ける距離だったが、それでもリムジン(ホテル所有のだ)を回すのがモナコ流。ポールの仕事道具はけっこうかさばるので、おれは都合、荷物持ちのアシスタントに変貌。もう数時間もすれば高級車が続々と到着し、その箱の中からは煌めく宝石のようなセレブリティたちが飛び出してくる。こっちは彼らの足元にもおよばないが、それなりに身成は整えた。おれはフォーマルな正装。ポールはカジュアルでないダークスーツを身につけている。

「スタッフでもこれくらいはね。そうじゃないと会場のトイレにも足を運べないから」とはポールの弁。彼は様々なパーティに仕事で赴いている経験がある。そしておれはヨーロッパのパーティは初めて。ウィンナ・ワルツを踊らされることはなさそうだが、マナーの点で不安がある。どう振る舞ったらそれらしく見えるかをポールに聞いたところ、彼は「なにも食べないでヘラヘラしてること」と教えてくれた。

 いざ始まれば、ボールルームは満員御礼。決して狭い会場ではないのに、人があふれかえっているのは、マイケル・マクファーソンのキャリアと人望によるものだ。招待客の平均年齢は高く、ときおり見かける若者は、おそらくレーサーか、その卵。見るからにスーツなど着慣れない風で、テーブルに貼り付いて餌を食らっている。

 しばらく人物観察に興を見いだしていたが、知り合いもいないパーティはやはり退屈なものだ。おれはポールがいる控えの間に顔を出し、「調子はどうだ?」と訊いてみた。彼の答えは「別に」。女優が使うような巨大な鏡に囲まれ、明らかに退屈そうだ。

「暇みたいだな」

「今日のお客は後れ毛がほつれたマダムと、ネックレスのチェーンが切れた女の子だけ」

「平和で何よりだ」

「会場の様子はどう?」

「フランスの女優を見かけたな。名前は忘れたけど。それとモンテゼモーロが来てた。知ってるか? フェラーリの重鎮だぜ!」

「きみは楽しそうでいいな」ポールは携帯をいじくり、「ローマンが『ショコラトリー・ド・モナコのチョコレートを買ってきて』って」と、メールを見せる。

「きみの欲しいものは?」

「特にない」

「特になくてもここでは金を使うべきだ」

「そんなの馬鹿らしいよ」

「たまには思う存分、馬鹿らしいことをするのもいいだろ。高いシャンパンに真っ黒なキャビア。一日だけなら王様になるのも悪くない」

「バスタブにモエ・エ・シャンドンを注ぐとか?」

「もしきみがそうしたければ。ヒュー・ヘフナーみたいなローブとスリッパを身につけてもいい」

 ポールはくすりと笑い、「馬鹿らしいけど、いいアイディア」と言った。やれやれ、やっと笑顔が出たか。

 馬鹿らしいけれど一度はやってみたいことについての企画を出し合っていると、コンコンとノックの音がした。ドアは開いてる。マイケル・マクファーソンは開いたドアをわざと叩いて、おれたちの注意を惹いたのだ。

「楽しそうだね」と彼が微笑む。それは優しげな表情だったが、おれはちょっとバツが悪くなった。

「すみません。ポールの仕事の邪魔をしていたわけでは……」

「ああ、わかってる」マックは手を振り、「まだそれほど忙しくはないだろ」と言った。これから忙しくなるとも思えなかったが、ここは退出した方がよさそうだ。それじゃあと部屋を出ようとしたところで、マックはポールに「この後、少し時間がとれるかな?」と訊いた。「今後の仕事のことで話があるんだが……」そしておれの顔をちらりと見る。ポールもまたおれを見た。どうやら返事はこちらにあるようだ。

 空気を察し、おれはポールに「先にホテルに帰ってるよ」と告げた。

「でも……」と言いかける彼を遮り、「仕事のことだ」と小声でささやく。「途中でローマンのチョコレートも買っておくから」

「ごめんね」

「こっちのことは気にするな」そして耳元に「いい話し合いになることを祈ってる」と追伸。

 いい話し合いとは、もちろん“今後の仕事”に関すること。たとえおれがマックのファンでないとしても、これが重要なコネクションだということはよくわかる。こういうときに商売っ気が出るのは仕事柄だろうか。上司のシーラは「売れるときに顔は売っておけ」と常々言っている。モナコのパーティで売れるものをおれは持っていないが、ポールは違う。彼の仕事はどの国でも通用するし、それは恋人の欲目などでは決してない。なんたって世界に名だたるレーサーだって認めてるんだ。ただポール自身が、そのことに若干、消極的なだけで。




 おのぼりさんらしく、チョコレートの箱をいくつも購入し、カフェでは怪しげなフランス語を駆使してコーヒーをオーダー。案内された席は夕暮れの海が見渡せて、完璧に居心地がよかった。価格は一杯が40ドルだったが、ここでの贅沢は敵ではない。いちいちドル換算すること自体、罪なことだ。今だけは我が身の貧しさを積極的に忘れよう。

 パーティで興奮し過ぎたのと、着慣れないフォーマルの相乗効果がもたらすのは泥のような疲労。ホテルに戻り、五分だけ休もうとベッドに横になったのだが、次に目を開けたときには朝になっていた。ベッドカバーの上で目を覚まして、真っ先に気がついたのは、ポールがいないということ。もし彼がいればおれのことを起こしてくれたはず。ポールがいない。それはつまり、“帰ってきていない”ということだ。

 携帯電話を見ると、着信の形跡が二度あった。時間は23:37と23:45──。なんだ? パーティはもっと早く終わってただろ? それで戻ってきてないって、いったい何が起きたんだ?

 どういうことだかよくわからないまま、おれはポールに電話をかけた。彼はすぐに出て、「連絡が取れないから心配したよ」と言った。

「心配はこっちだ。ホテルには戻らなかったんだな? マックとの仕事の話は?」

「ああ、仕事……うん……話をしたよ」ポールの声は暗い。おれは一気に不安になり、「なにがあった?」と聞いた。

「マックはね、モナコに自分の店を持たないかって」

「え?」

「ええとね、つまり……どこから話したらいいかな……」

「自分の店って? きみの? 美容室か?」

「まあ、そんな感じ。マックが百パーセント出資してくれるそうだよ。一応断わったけど……」

「一応って何だ?」話がさっぱり見えない。おれが寝起きだからか? いや、そうじゃない。これは電話じゃ埒があかない話なんだ。

「ポール、とにかく戻って……いや、おれが今からそっちに行く。今どこに居るんだ?」

「ホテルに」

「どの?」

「ぼくらが泊まってるのと同じホテルだよ。上の部屋。すぐ戻る。待ってて」

 それで電話は切れた。ポールが戻るまでの間、おれは軽く身支度を整えつつ、これまでに起きた出来事を整理してみる。


1. 突然ポールの元カレが現れる

2. 元カレ、数年会っていなかったにも関わらず、仕事のオファー

3. その仕事は特にポールでなくてもいいような内容

4. しかもモナコ

5. 元カレ、ポールに今後の仕事の話をもちかける

6. その仕事とは“自分の店を持たないか”という提案

7. しかもモナコ

8. ポール、朝まで戻らず(←イマココ)


 ……おかしくないか、この話は!?

 いや、おかしいのはおれか。どうして今頃、この話がおかしいってことに気がつくんだ。

 そりゃ、少しは変だと思ってはいたさ。でも相手は“あの”マックなんだ。レースでは姑息な手を使ったことなど一度もなく、いつも公明正大に振る舞っていた男。彼はおれのヒーローで、またポールの元カレでもあり……ああ! なんだかわけがわからなくなってきた! とにかくポールと、いや、マックとも話をしなければ。

 ノックの音がし、ポールが戻った。前日とまったく同じ恰好で、疲れ果てた顔をしている。

「寝てないのか?」

「寝てない」ポールはふらつく足取りでベッドまで歩き、どさりと腰を下ろして「死にそうに疲れてる」と言った。

 なんで寝てないんだ。どうして死にそうに疲れてるんだ。マックとひと晩中一緒だったのか。上の部屋はスイートルームだ。ポールは元カレと一緒にスイートルームで一夜を過ごした。なんだってスイートルームに泊まったりなんかしたんだ。その間、おれは下の部屋で熟睡していたわけだ。恐るべき間抜け。

 幾つもの質問が喉から出そうになったが、今はとりあえずひとつだけ。

「……何があった?」

 彼の横に座り、その顔を覗き込む。ポールは暗い表情で「モナコに店を」と、つぶやいた。

「それってつまり……」

「うん、そう。よりを戻さないかって話」

 ああ、やっぱりそうか。でなけりゃ、“モナコに店を”で、こんなに暗い顔をするわけがない。

「そうか、それで?」

「それでって?」

「きみはどうするんだ?」

「どうするって? もちろん断わったよ」

「それにしちゃ……ずいぶん話が長かったみたいじゃないか。“モナコに店を持たないか”、“いや、いらないよ”。それだけだったら、五分で済むだろ?」

「ぼくを疑ってるの?」

「そうじゃない。何があったか話してほしいだけだ」

「別に何もない。ただ……」ポールはふーっと息を吐き出した。

「ただ?」

「いろんな話をしたんだ。今の自分のこととか、きみのこととか」

「おれのことを? 何て?」

「きみがストレートだって言ったら、マックは“おれも以前、ストレートの男を恋人にしたことがある”って。その人は結局、女が好きで、それでマックから離れていったんだって。ゲイじゃない奴と付き合うとだいたいそうなるって話してくれた」

 ふん、そうきたか。ゲイじゃなくて悪かったな。そんなことでポールの注意をひいたつもりか? 作戦としてはお粗末だよな。

「ぼくはニューヨークで仕事をしてる。だからモナコに住むわけにはいかないって彼に言ったよ」

 ん? ニューヨークで仕事をしてるから? だからモナコに住むわけにはいかない? どうしてそうなるんだ?『ぼくにはディーンがいるんだ。だからモナコに住むわけにはいかない』それが正解じゃないのか? もしくは『ディーンも一緒なら喜んで行くよ』とか……いや、それは正解じゃないな。

「彼、ぼくが自分の店を持ちたいって話してたことを覚えてたんだ」

 そうなのか? おれは初耳だ。ポールが自分の店を持ちたがっていたなんて。

「“髪を切る仕事ならマンハッタンでなくとも出来るだろう”って言うんだ。“どうしてモナコじゃ駄目なんだ?”って……」

 それは確かに。ポールの仕事はどの国でも通用する。ただポール自身が、そのことに若干、消極的なだけで……。

「“夢を叶える手伝いをさせてくれ”と言われたよ。むしろ“頼み込む”って感じで」

 よく考えたらこれはすごい話だ。一生に一度、舞い込むかどうかのチャンス。仕事をする男であれば、喉から手が出るほど欲してもおかしくはない話。しかし、おれだってポールの夢を叶える手伝いはできる。

「“資金面でわたしはきみを援助することができる”って、マックは言うんだ」

 おれだって───とは言えないな、この場合。レーサーの年収は、他のプロスポーツ選手と比べ格段に高い。ポールの名前を冠したチェーン店を展開することぐらい、マックにとっては朝飯前なんだろう。いい話だ。まったく、胸クソが悪くなった。

「それで? きみはひと晩かけて彼を拒み続けたってわけか。さぞかし大変だったろうな。おれだったらほだされかかってたかもしれない」

 おれは立ち上がり、胸ポケットをさぐった。そこにタバコはなく、そのことにイラっとする。

「それって嫌味?」とポール。「ぼくが戻らなかったのは、彼が仕事の話だって言ったからだよ。ほんとに、そう信じてた。きみだって、“行ってこい”みたいな雰囲気だったし……。それにどうしたって話は長引いたんだ。昨夜はマックが“家に来い”というのを断わってここまで来たんだよ。まさかぼくらの部屋にマックを連れて行くわけにもいかなかったから、仕方なく部屋を。別になにもなかった。夜中じゅう起きて話をしてただけで」

「何かあってたまるか」

 無性にタバコが吸いたい。ここは禁煙? そんなことはどうでもいい。隣の部屋に行き、スーツケースを開く。確かここにタバコがあったはずなんだが……。

「ディーン…!」怒鳴るようにポールがおれの名前を呼んだ。振り向こうとしたが、彼がおれの背中にしがみついたので、うまくいかなかった。

 ポールは背中にしがみついたまま、「怒ってるんだね……」とつぶやいた。「昨日、ぼくが戻らなかったから。でもほんと、彼とは何もなかったんだよ。信じられないのも無理はないけど。でもぼくは昨日の時点で……」一方的に話し続けるポールに、おれは困惑し、「いや……おれはただタバコを……」と遮ると、彼は「あ……」と言って、背中から離れた。

「なんだ? なんだと思ったんだ?」

「荷物をまとめて帰ろうとしたのかと」

「きみを置いてか? そんなことするわけないだろ」

「そんなことをするくらい怒ってるのかと」

「もちろん怒ってるさ。でもそれはきみにじゃない。マックにだ」

 そうだ、おれは彼に怒ってる。だいたいこんな失礼な話があるか? 人のボーイフレンドを朝まで拘束したあげく、それが同じホテルのスイート。馬鹿にするのもほどがある。そんじょそこらの若造だというならともかく、地位も名誉もあるいい大人が、こんな間男みたいな真似をするなんて。

「マックはどこにいるんだ? まだ上の部屋に?」

「わからない。そうかも。電話してみる」ポールは携帯を取りに、ベッドルームへ戻った。

 ……ったく『ピットに入れて羨ましい!』なんて……おれは阿呆か!!! なんて見当違いのところに嫉妬してたんだ。

『きみは平気なの? ぼくが彼からのオファーを受けても? よく平静でいられるね。昔の彼氏が訪ねてきたのに。嫉妬するどころか、コーヒーまで出して“ようこそ”だなんて。きみって馬鹿なんじゃないの?』

 ローマンがそう言ったのは正しかった。おれは何もわかっちゃいなかった。最初からポールに『この話はやめとけ』って言うべきだったんだ。

 三十分ほどしてやってきたマックは、昨日のフォーマルとはうって変わって、ラフな恰好だった。革のサンダルとジャージの上下。近所のコンビニにでも行くような雰囲気だが、そこらのオヤジと違うのは、アイテムのすべてが“名入り”であるということ。ジャージは彼のレーシングチームのものだし、サンダルは有名ブランドとのタイアップ商品。サングラスのフレームには、ご丁寧に“マイケル・マクファーソン”とフルネームが刻印されている。これじゃ歩く広告塔だ。まあ、服に自分の名前が書いてあれば、迷子になっても安心だし、目に鮮やかなイエローとブルーの服は、夕暮れ時によく目立って、交通安全対策にもなる。おれの姪も幼稚園ではすべての持ち物に名前を入れていたっけ。

 マックは携帯で誰かと会話をしながら部屋に入ってきた。あわてるでもなく悠々と話し、しばらくしてから電話を切って、「昨日はどうも」と、親しげにおれの腕を叩いた。このあいだまで彼のフレンドリーさを快く思っていたが、今は違う。これは人を馬鹿にした態度だ。おれのことをライバルとも見なさず、取るにたらない奴だと思っている。

 腕を叩たかれた拍子に、彼の腕時計が見えた。タグ・ホイヤーの限定品。おれが子供の頃に欲しいと思っていた例のやつだ。

「この部屋は気に入ったかな?」と訊かれたが、おれは返事をしなかった。こっちがむすっとしているので、さすがのマックも、ここは世間話をするところではないと気づいたようだ。

 彼は白い長椅子にちょこんと腰を下ろし、「それで」と本題に入る前振りをする。

「すでにポールから話は聞いたと思うが……」

「ええ。ポールは断わったそうですね。おれたち、明日帰国します。もうお会いすることはないでしょう」

「おや? そういう話になっているのかな?」マックは眉を上げ、ポールを見た。ポールは立ったまま、唇をきゅっと結んで、黙っている。

「ポール、わたしはきみに返事はまだ先でいいと伝えたはずだ。ニューヨークに帰ってから、ゆっくり結論して欲しいと」

 諭すような口ぶりのマックに、おれは「結論はもう出てます」と言った。「さっきポールと話し合いましたから。彼は“断わった”と。そうだよな、ポール?」

「そうやって強制するのはどうかと思うね」やれやれというふうに頭を振り、「きみは自分のエゴのために彼の夢を潰すというのか?」と眉間にしわを寄せる。「店を持ちたいというのはポールの希望だ。それをバックアップするのが恋人の務めだろう。彼はそろそろ夢を叶えてもいい年齢だ。このままではあと何年経っても実現できない。きみはそれがわかっていて、彼を引き止めるのか?」

 まるで用意していたかのように、マックはすらすらと言葉を発した。一方おれはただ呆然としている。あまりに唐突な個人攻撃。スタートから強引にトップに躍り出るのが彼の得意技だが、まさかここでもそれを使うとは。

「ポールは大人しい子だ。自分の要望を強く言えないところがあるのは、きみも知っているだろう。わたしに対して“断わる”と言ったのは彼の本意じゃない。きみを大切に思うあまり出た言葉だ」

 矢継ぎ早に出るマックの言葉。こっちは完全に周回遅れ。

「そんなポールに、きみは“自分のために夢を犠牲にしろ”と言うのか? もしそうだとしたら、たいしたボーイフレンドもあったものだ。なあ、ちょっと考えてみたまえ。きみとわたしのどっちがポールにふさわしいと思うか?」

「おれに決まってるだろ! 卑怯者! 仕事のこととゴッチャにするな!」

「わたしを卑怯者よばわりするのか?」

「だってそうだろ! こんな姑息な……仕事の話だなんて言って、ただ単にポールを取り戻したかっただけじゃないか!」

「仕事の話もしている。どこかおかしいかね?」

「そんなふうに開き直るなんてあきれたね! かつてのチャンピオンも地に落ちたもんだ!」

「そこまで侮辱するというのなら仕方ない……決闘だ!」

「望むところだ!……レース以外ならな!」

 おれたちは互いを睨みつけた。もし今、銃を持っていたら、間違いなく抜いているところだ。持ってなくてよかった。

「きみは恋人のことをどれだけ知ってる?」とマック。「ポールが店を持ちたいと言っていたことについては?」

「もちろん知ってたさ」いや、嘘だ。おれはついさっきまでそれを知らなかった。嘘をつくことは罪だが、この状況は特別だ。勝負にはブラフも必要。さもなくば、マックに点をやることになる。

「あなたこそポールの何を知っていると言うんです?」

「彼のことなら何でも知っているさ」

「あいにくだけど、その情報は古いんじゃないかな? あなたは最近の彼を知らない。たとえば先月、ポールは牡蠣でアレルギーが出た。それは彼にとって生まれて初めてのことだった。もしあなたがここでポールに牡蠣を食べさせたらどうなると思います? ブランクというのはそういうもので、あなたはこの件では少しも有利じゃない」

「それを言うなら、きみこそが不利だ。わたしはポールの過去を知っている。きみの知らない時代を共に生き、また支えになってきたんだ。彼にはさまざまな体験をさせてやった。そのことがいかに今のポールの基盤となっているか、きみは考えたことがあるか? わたしは彼の成長を見守ってきたし、そしてこれからもそれができる。彼に広い世界を見せてもやれる。牡蠣のアレルギーを知っていたからといって得意になるのは愚かなことだ」

「愚かなのはあなただ」

「いや、きみだ」

「ポールのことを知らないくせに」

「きみの知らないことも知っているよ。たとえばポールが子供の頃の話はどうだ? 彼が小学校の舞台でやった芝居は?」

「ジャックと豆の木」

「では、その役柄はなんだ?」

「金のガチョウ」

「ハズレ! 豆の木のマメだ!」

「ああっ! くそっ!」

 おれが頭を抱えたところで、「やめてくれ!」とポールが怒鳴った。マックとおれの視線が彼に集中する。

「ふたりとも……ぼくをサカナにして競争するのはやめてくれ」低いトーンで言うポールに、マックは「もとはと言えばきみがハッキリしないのが悪い!」と大声を出した。「きみはわたしとディーンのどっちを選ぶんだ!?」

「そうだポール! スッパリこいつに引導をわたしてやれよ!」

「こんな馬鹿さ加減を見せられて、ふたりのうちどちらか、選んでもらえると思っているとはね……まったくおめでたいよ」ポールは冷ややかな目でおれとマックを交互に見た。「なにもこの世の男がきみたちだけってわけじゃない」そして「すごく眠い」と凶暴に言う。

「ぼくは昨日、一日中仕事をして、それで一睡もしてないんだ。だからもう寝る。もし起こしたら、誰であっても殺すからね」

 寝室に入る直前、ポールはくるりと振り向き、「いっそふたりが付き合ったら?」と提案。「ディーンはマックなら寝てもいいって話だし」言い捨て、彼は姿を消した。

 おれとマックはただ立っていた。両手を身体の横に垂らし、寝室の入り口を見つめ、横並びになって立ち尽くす。

「わたしと寝てもいいって?」と、マック。

「若気の至りの発言です」と、おれ。

「大変申し訳ないが、きみはわたしの好みではない」

「よかった、おれもです」

 窓の外では、カモメが猫のような鳴き声を立てている。ここはどこだ? そうか、モナコか。そんなことはもうどうでもいい。

「きみのせいだぞ」と、マック。

「あなたのせいです」と、おれ。

「きみが怒鳴るからだ」

「あなたが馬鹿なクイズ出すからです」

「わたしと寝てもいいって?」

「そこだけ拾わないでください!!!」

「ディーン」

「……はい」

「我々は振られたのか?」

「認めたくないけど、そうでしょうね」

「二度もポールに振られるとは」

「おれは一度目。だからと言ってラッキーじゃない」

「わたしは振られるのに慣れていないんだ」

「おれだってそうです」

「自分で言うのもなんだが、わたしはもてるんだ」

「おれだってそうです」

「だろうな、きみは男前だ。ディーン」

「あなたもね。マック」

「でも振られた」

「でも振られた」

 おれたちは同時に椅子に腰を下ろし、しばらく無言だった。いい大人が、まったく情けない。しっぽをなくしたイーヨーだって、ここまでしょげかえってはいないだろうに。

「驚きだな」とマックがつぶやく。「ポールがあんなふうに怒鳴るなんて……まったく驚きだ」

「そうですか。おれにはしょっちゅうあんな感じだけど」

「そうか」

「ええ」

「わたしには初めてだ」

 おれはマックを見た。彼は顎の下で手を組み、思案するような表情をしていた。

「彼があんなにはっきりものを言うなんて信じられない。わたしといるときのポールは……もっとこう……人の後ろに隠れているような感じでね。自分を主張することが少なく、何をするにしても“相手に合わせる”ということを優先させていた。もちろん彼は今よりずっと若くて子供だったし、わたしが年上だから遠慮しているということもあっただろうが……そうしたことを差し引いてもだ。少なくとも昔のポールだったら、我々を罵倒してから熟睡するなど出来なかったはずだよ」

 マックの顔は妙に真剣で、それはレース前のそれとよく似ている。

「わたしと別れることを決めたときも、彼は黙ったまま、何かに耐えているような顔をして、言葉は発さなかった。言いたい事はきっと山ほどあっただろうにね」何かを思い出したのか、マックは苦笑して頭を振ってみせた。「彼は変わった。ただ人の後ろに隠れている、奥手な若者ではなくなった。そのことはとても嬉しい。それがわたしとの関係の間で培われたなら、もっと嬉しかっただろうが……」深々と息を吐き、おれの方を向く。かつてテレビや雑誌で何度も見た顔には、深いシワが何本も刻まれていた。

「ポールは成長している。昔よりずっと魅力的になった。立派な大人の男だ。今、きみとの間にある“対等な関係”というものが彼を変えた。まったく……腹が立つ」サングラスをかけ、立ち上がる。「負けを認めるというのは嫌なものだな。どんな状況であったとしても」

 これは勝ち負けの問題じゃないんじゃないかとおれは思ったが、今や去ろうとしているマックに、余計なことを言うつもりはなかった。

 ドアへと向かう彼に、おれは「ひとつ言っておきたいんだけど」と呼びかける。

「89年のシケインでのクラッシュ。あれはあなたが悪いんじゃない。ぜったいに違うからね。あの処罰は厳しすぎだ」

「出場停止になったのは、相手のレーサーを殴ったからだよ」

「あいつは殴られて当然さ」

「実のところ、わたしもそう思ってる」にやりと満足げな微笑みを浮かべる世界チャンピオン。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。マックは部屋を出て行った。




 ひとりでカモメの声を聞いているうち、いつのまにか眠ってしまったらしい。目が覚めたらポールが隣に座っていた。

「起きた?」

「ああ……」おれは目をこすった。

「マックはきみに何て?」

「“負けを認めるというのは嫌なものだな。どんな状況であったとしても”……そう言ってた」

「そっか。彼らしいな」

 マックは世界一の負けず嫌い。表彰台の真ん中に立つのが何よりも大好き。恋愛にも勝ち負けの方程式を持ってくる。それはまったく彼らしいことだ。

 ポールは長椅子の背もたれに肘をつき、おれの方を見て言った。

「ごめんね」

 いくらか残っていた眠気が、今の台詞できれいに吹き飛ぶ。

「な、なんで謝るんだ……まさか……!」

「まさかって?」

「きみはおれと……」“別れたいのか?”という質問が胸元に滞る。そんなこと、怖くてとても訊けない。

 ポールは「マックにはほんとにまいったな」と苦笑いし、「今回のことでは、自分を試された気がする」と、何やら哲学めいたことを口にした。

「恋愛のこととか、仕事のこととか。普段、改めて考えないようなことを、いっぱい考えさせられた。マックはいつもこういう風にぼくを成長させてくれる。いつもいいことばかりとは限らないけどね」

 おれが聞きたいのは抽象的な哲学ではなく、実質的な結論だ。改めて考えないようなことを考えさせられた結果、彼は何を(誰を!)選択するんだ?

「この件では自分の嫌なところも見えたし」

 “自分の嫌なところ”? 今いる恋人を捨てて、金持ちとモナコで一緒になるような奴だったってことか?

「正直言うと……迷いが生じたよ。気持ちが揺れたんだ。もう彼とのことは過去のことで、今はすっかり忘れたと思ったのに。一瞬でもそんなふうに迷うなんて、自分が信じられない……」

 ポールは虫歯が痛むみたいな表情をしている。それがどういうことを意味するのか、おれにはよくわからない。よくわからないまま困惑していると、ポールは歯痛な表情の意味を明かした。

「今はきみがいるっていうのにぼくは……自分が許せないよ」

 ああ、さっきの“ごめんね”はそういう意味だったのか。自分への怒りが、彼に苦痛を感じさせている。

「ポール、なぜきみがそんな風に思うんだ」おれはポールの両手をとった。「悪いのはおれだろ。それとマック。きみはそんな風に、怒りの矛先を自分に向けるべきじゃない」

「じゃあ、きみに向けようか?」

「……それもあまりいいアイディアじゃない」

 おれが暗くそう言うと、ポールは泣き笑いのような顔をし、「きみもマックも悪くないよ」と言った。「もちろんぼくも。そうだね、怒りの矛先は誰に向けるべきものでもない。今は平和があるだけだ。ぼくたちはこれからも付き合っていくわけだし」

 ああ! よかった! よかった、よかった、よかった!!! そのひと言が聞きたかったんだ!

 飛び上がりたいほど嬉しいが、目を潤ませている恋人を前に、“ひゃっほう!”でもないだろう。おれはポールの肩を抱き、「そうさ、決して別れたりなんかしない……」とクールに言い放つ。

「ディーン……」

「ポール……きみを愛してる……(ひゃっほう!)」

 長い口づけを交わし、おれたちは互いの気持ちを確認する。千の言葉を駆使するよりも、ひとつのボディランゲージが有効なこともある。そしてひと安心した後は、また千の言葉を駆使するんだ。

「それにしても、マックにはほんとにまいったな」おれはポールの台詞を反復した。「まさかこういう形で、おれが彼と戦うことになるとは。世界最速の男がライバルだなんて……最初に玄関に現れた瞬間なんか、早業もいいとこだ」

「彼はきみのライバルじゃない」

「ああ、おれはA級免許も持ってないしな」

「そうじゃなくて。きみには誰もライバルなんかいないよ。少なくとも恋人のことに関しては。それがわかってれば、きみはあんなに怒る必要はなかったと思うよ」

 言われ、おれは自分が怒っていたことを思い出した。

「おれが怒ったのはつまり……きみの夢の実現について、自分が足を引っ張ってるだなんて思いたくなかったんだ。もしそれが事実なら、おれは……」

「“きみはそんな風に、怒りの矛先を自分に向けるべきじゃない”」おれの言葉を遮るポール。「きみがぼくの足を引っ張ってるって?」質問するように首を傾げ、「なんでそういう考え方になるのかなあ」と苦笑する。「きみはマックに“仕事のこととゴッチャにするな”って怒鳴ったよね? でもきみ自身がそうなんだ。きみはマックの意見に同意があった。だからあんなに怒った。違う?」

 確かにその通りだ。自分のエゴのためにポールの夢を潰すのかと言われ、おれはぐさりとやられた気分がした。パートナーの夢をバックアップするのが恋人の務め。平凡なサラリーマンと一緒では、ポールはあと何年経っても店を持つことができない。腹が立ったのは、図星だと感じていたからだ。

「きみの考え方はマックのそれと近いんだよね」とポール。「“資金援助しよう”とか、“足を引っ張ってる”とか。それって同じところから発生するものでさ。ぼくはそういう風には考えない。美容師なんてジプシーみたいなものさ。ハサミとクシさえあればどこでも仕事ができる。基本的にひとりなんだ。きみたちは自分の影響力によっほど自信があるのかもしれないけど、ぼくは仕事の面ではもっとドライだから」

 ポールはとても自立した男で、生活や仕事の面で、人に頼るということがほとんどない。恋愛では子供っぽいところを見せることもある彼だが、こういうところは本人が言う通り、本当にとてもドライなのだ。

 ポールはおれの肩にひょいと頭を乗せ、「ねえ、さっきはひどいこと言ってごめん」と甘えたような謝罪をした。それは子供っぽく、複雑な精神分析はどうやらここまで。今からは“恋愛モード”に突入のようだ。

「ぼくは本当に疲れていたものだから、ついキレたこと言っちゃったけど、実はけっこう嬉しかったんだ。きみがぼくを取られると思って焦っている姿ったら……とってもかわいかったよ」

 ポールはうふふと意味深な笑みを浮かべた。ときどき思うが、彼はちょっとサドの気があるんじゃないだろうか。

「そりゃ焦りもするさ」と、おれはすねた口ぶり。これもまた、かなり子供っぽい。「なんたってきみは“気持ちが揺れた”らしいからな。まあ、モナコでの事業展開に揺れない奴はいないだろうけど」

「ぼくが揺れたのは、モナコでの事業展開じゃないけどね。彼の真摯な態度に思わず……」

「ああ、ポール! おれを不安にさせるようなこと言うなよ!」

「ごめん。わかった。“ディーン、ぼくはお金に目がくらんだんだよ”……これでいい?」

「まだ不安だ」

「マックのことなんかなんとも思ってないよ」

「それは本当じゃないだろ」

「ディーンのほうが遥かに素敵」ポールは唇の端と片眉を上げた。なんだか聞けば聞くほど不安になってくる。

「なあ、ポール。きみはおれを選んだんだよな? 彼よりも」

「うん」

「マックはスーパーヒーローだ。全世界のキッズの憧れ。おまけに大金持ち。空港にだって彼の名前がついてる。そんな男よりもおれがいいって? いったい何が決め手になったんだ?」

 その質問に、ポールはうーんと考え込む。

「そんなに悩まないと出てこないことなのか……」そうおれがつぶやくと、彼は「ああ、そうじゃないよ」と否定する。「ただね、こういうのってある意味、難しいことだと思うんだ。“どこどこが好きだから、あなたを選びました”……愛情ってのは、そんなふうに量れることじゃないから」

「おれにはよく……わからないな」もしそうでないとしたら、いったいどこで恋人を選ぶっていうんだ? どうも何か誤摩化されてる気がしないでもない。

 おれがそう言うと、ポールは「じゃあ、きみはどうなの?」と聞き返してきた。「ぼくにはおっぱいもついてないし、ミニスカートが似合う脚を持ってるわけでもない。なのにどうして? どうしてきみはぼくと一緒にいることを選んでいるの?」

「どうしてって……」今度はこっちがうーんと考え込む番だ。しかしこいつはさほど難しい問題ではない。

「簡単なことさ。きみといると楽しい。なんて言うか、とてもリズムが合うんだ」言って彼を見ると、“続けて”と目で先を促してくる。

「あまりたくさん説明しなくても、こっちの言いたいことがわかってくれるし、おれのジョークを面白がってもくれるだろ。ひとりで出かけたときに、面白いものを見つけるとこう思うんだ、“ああ、これをポールにも見せたいぞ”って……」ここで言葉を切り、ポールの頬を指の背で撫でる。「だからきみは……おれにとって特別な人間なんだよ」

「うん、ぼくもだよ」

「ずるいぞ」

「何が?」

「あれこれ喋ったのは結局、おれのほうじゃないか。きみがおれのどこが好きか、まだそれを聞いてない」

「きみが言ったのと同じだよ」

「“以下同文”。手を抜くな」

「本当だって。本当にまったく同じことを思ってた。びっくりするくらい同じ。やっぱりぼくらは通じ合ってるね」

 おれがうなると、ポールは「不服?」と聞いてきた。

「いや、不服じゃない。それが本当だってなら仕方ない。きみがおれを賛美するのを聞きたかったけど」

「きみもローマンと同じ病気?」

「病気?」

「ナルシスト」

「ああ、確かに。でもそのナルシストを好きなのは誰だ?」

「ナルシストなところも好きだよ。そうだね……『テーマ : ポールはディーンのどこが好きか?』」ポールの目がきらりと光る。

「“その1 : 酒を呑んでも、みっともなく酔っぱらったりしないところ”」

「そんなの常識だ」

「ぼくの昔のボーイフレンドは違ったけどね……“その2 : 女性がいなくてもトイレの便座を下げておくところ”」

「おれは女だけの家庭で育ったからな……他には?」

「“その3 : 眉の形がいつも完璧”」

「ちょっ……眉とか便座とか、どうしてそんなのばっかりなんだ? おれの昔のガールフレンドは、おれのこと“ジュード・ロウより素敵”って言ってくれたんだぞ?」

「“その4 : ジュード・ロウより素敵”」

「この…っ!」笑い転げる恋人に飛びかかり、そのままソファに押し倒す。唇を奪うと、彼は「その5 : キスがとてもうまい……」と、ささやいた。

「きみに鍛えられたからな」

「その6 : 今すぐにベッドに入りたくなる」

「偶然だな。おれもたった今、そう思っていたところだ」

「やっぱりぼくらは通じ合ってるね」

「ああ、“びっくりするくらい同じ”だ」

 おれたちは普通の恋人同士。金持ちでもなきゃ、事業展開のメドもない。ただ“びっくりするくらい同じ”で、大抵の場合、通じ合っている。一緒にいるととても楽しく、キスをしたくなる特別な相手だ。

 帰国後、おれとポールは一緒に新しい目覚まし時計を買いに行き、ヘルメットをかたどった時計はエアキャップでくるんで、クローゼットの奥にしまった。

 過去のことは過去。それは想い出としてのみ、心の中に残る。時が経てば、おれたちはモナコでの出来事を懐かしく思い出すだろう。そのときもマイケル・マクファーソンはおれのヒーローで、ポールの元恋人だ。


END

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