第18話:ディーンの赤ちゃん(Cherish)

「泣いてる! 泣いてるぞ、ポール! いったいこれはどうしたらいい?」

「ぼくに聞かれても困るよ。こんな事態に直面したことは、今まで一度もないんだから」

「ああ、そうだよな……もちろんおれも……」

「とにかく何とかしなきゃ。このままってわけにはいかないよ」

 おれとポールは困り果て、部屋の中にいる“未知なる生物”に同時に目を向けた。

 耳をつんざくようなわめき声。口から絶え間なく透明な液体を吐き出していて、その顔は今や顔は火のように赤くなっている。身体はやたらグニャグニャしているが、無脊椎動物でないことは確か。言語によるコミュニケーションは不可能で、また理性的なふるまいとも無縁。このモンスターの名前は、人類の誰もが一度はそう呼ばれていたことのあるもの……“赤ちゃん”だ!!!

 どうしておれたちがこんな危機的状況に陥っているかというと……それは説明するより、見てもらった方が早い。今から数時間ほど前に場面を移そう。




 仕事を終え、自宅に着くまでおよそ二十分。その間、考えることと言えば、終わった仕事のことと、明日の仕事のこと。週末の予定ついて思いをめぐらせたりもするし、購入すべき日用品のリストも展開される。ジムに寄ろうか、どうしようか。それよりビールだ。それにしても疲れた。晩メシはラザニアに決定。疲れた。ビール。ラザニア。

 結局のところ、そう大したことは考えていない。『オフィスから自室まで移動する間、これからとんでもない事件が起きるぞ』なんてことは、少しも考えたりはしない。するはずもない。

 アパートメントのエレベーターを降りてすぐ、異変があることは即座に気がついた。部屋のドアの前に、ベビーカーがぽつんと置かれていたからだ。通常ベビーカーというものは誰かが押しているもので、赤ん坊が自分で運転できるようになるまでは、もう十数年ばかり時を待つ必要がある。だからこのベビーカーも、当然“それを押すべき人物”が、周囲にいてしかるべきなのだ。

 それにしても他人の部屋のドアの前に、ベビーカーを放置するなんて。しかもご丁寧に“中味入り”ときた。いったいどこの親がこんなことを。これじゃドアが開けられないじゃないか。

 そのベビーカーを、おれはそっと押した。“中味”が目を覚まさないよう、そっとだ。そこで第二のポイントに気づく。赤ん坊を包んだ上掛けの上に、一枚のメモ用紙が置いてあるのだ。そこにはこんなメッセージが記されていた。


 ───ディーンへ。これはあなたの赤ちゃんです。スザナ・レイクウッド───


 スザナ? 彼女がここへ? あなたの赤ちゃん? なんだそれ?

「スザナ?」と、おれは呼びかける。これは何かの冗談なのだろう。

「いるんだろ? スザナ?」

 廊下の角から彼女が顔を出すはずだ。

「スザーナー?」

 出てくる……はずじゃないのか!?

「スザナ! かくれんぼは終わりだ! いいからもう出てこい!」

 辺りはシンと静まり返っている。よし、もういいだろう。911に電話だ。




 警察はすぐに来てくれた。ニューヨーカーにはなじみ深いブルーの制服を身につけた男。顔だちはつるっとしていて、背は低い。鋭いとは言い難い目つきをしていて、刑事というよりは保険の外交員のように見える。ダーティ・ハリーほど頼もしそうではないが、れっきとした刑事だ。未だかつてない窮地から、きっとおれを救ってくれるに違いない。

 刑事は「NYPDのジョシュア・コールドバーグです」と名乗り、例のポリスバッジを、“一瞬”見せてくれた。

 突如として現れた妙な“落とし物”について、おれがひとしきり説明すると、ジョシュア・コールドバーグは固い面持ちで、「なるほど、状況はわかりました」と頷いた。

「つまり、離婚した相手が、あなたの子供を置き去りにした……と、こういうわけですね?」

「あの、いや、そうじゃないよ、スザナはそうじゃない。おれはこれまで結婚したことなんか一度もないんだ」

「なるほど。では認知は?」

「するわけない!」

「それはなぜですか?」

「子供がいたなんて聞いてないからだよ! 今さっき、おれは初めて知ったんだ!」

「それはお気の毒です」

「そう言えってマニュアルに書いてあるのか?」

「マニュアル?」

「いや……なんでもない。話を先に進めよう」

 ヤバい。こいつはもしかしたら、最悪なことに、阿呆なのかもしれない。

「それにしても」とポールが言った。「よくここまで入ってこれたね」

 おれが警察を呼んだ五分後に帰宅した彼は、この置き土産に驚いていたが、すぐに冷静になり「警察は呼んだ?」と聞いてきた。きっとこの後、おれと彼は大喧嘩するハメになるんだろうが、我が恋人は今のところ落ち着いた様子を見せている。

「セキュリティはちゃんとしているのに、いったいどうやって?」とポール。

「ベビーカーを押している女性を怪しむ人はあまりいないですからね」と刑事。

「テロリストもベビーカーを押した方がいいってわけか」これはおれの意見。

「どうでしょうね、それは。あまりいいアイディアではないと思います」

 ジョークを真に受け、コールドバーグは険しい顔をした。どうやらポリスアカデミーでは“ユーモア”の講習は行われていないらしい。

 警察立ち会いの元、おれは監視カメラの映像を確認した。ロビーでベビーカーを押す若い女性。それは間違いなくスザナだった。入口のセキュリティをどう突破したのかについては、ドアマンのヘンリーが供述してくれた。かつては足しげく、おれの部屋に通っていたスザナ。彼女の顔を半端に記憶していたヘンリーは、親子連れの後ろからベビーカーを押して入る女性に不信感を持たず、それを通した。出て行く際にはベビーを連れてはいなかったが、上の部屋のどこかで寝息をたてていると想像すれば、とりたて不審ではない。ベビーカーはセキュリティカメラに映らない角度に置かれていた。つまり犯行は計画的で巧妙。“ついうっかり置き忘れた”という可能性は皆無だ。

「あなたの元ガールフレンドの……スザナ・レイクウッドさん」コールドバーグはスペルを確認するように、丁寧に名前を発音した。「彼女の一連の行動について、思い当たることはありますか?」

「どうしていきなり赤ん坊を置いて行ったかって?」おれは肩をすくめた。「わからないね。スザナとはしばらく会ってない。子供がいたことだって初耳だ」

「あなたと付き合っているとき、彼女は……」と、ここで言葉を切り、考え込むような表情をする。「何か問題を持っていませんでしたか?」

「それは精神的な意味で?」

「様々な意味で」

「おれと付き合っていたときには、特には。仕事もしてたし、トラブルを抱えるようなことはなかったな。むしろスザナは人一倍しっかりしてる。責任感の強い女性なんだ」

「責任感の強い女性ですか……だとしたらこうも考えられませんか。彼女からすれば、あなたは責任を放棄しているわけです。そこで“今度は男親が面倒を見る番”と……そうした発想もあり得ますね?」

「ちょ……それは違うだろ。だからおれは子供がいるなんて、ちっとも知らなかったんだ。今さっきだ、ほんの数時間前にそれを知った。あずかりしらない責任について、放棄も何もないだろう?」

「それはそうですが、相手の女性の精神状態はおそらく普通ではなかったわけですから」

 それはそうだ。もしスザナが“まともな状態”だったら、絶対にこんなことはしない。いったい彼女に何があったんだ? 秘密結社から追われる途中、おれに赤ん坊を託したとか? それほどの理由があるのなら納得がいく。それほどの理由でもなきゃ、こんな不条理は納得できない。

手かがりは『あなたの赤ちゃんです』と書かれたメッセージのみ。手帳から破ったとおぼしきメモの切れ端は、それが衝動的な行為だという可能性を残している。犯行は計画的で巧妙? いや、“突発的かつ、計画的”だ。

 コールドバーグはポールを見、「失礼ですがこちらの方は?」と質問した。

「おれの友人だ。ここに一緒に暮らしてる」

「なるほど」頷くコールドバーグ。彼の『なるほど』は、これで二度目。刑事ってのはそんなにたくさん納得するようなことがあるんだろうか。

「あのさ、刑事さん」

「私は刑事ではありません。警官です。ジョシュア・コールドバーグ巡査です」

「“警官さん”、彼女を探してくれるんだろうね?」

「もちろんです」コールドバーグは、手にしたバインダーに何かを書き付け、「ですが、ケリーさん」と、顔を上げた。「あなたが子供と血縁関係にあるとなると、話は少し違ってくるんです」

「と、言うと?」

「あなたには父親たる権利が発生します。つまり子供の養育義務、扶養義務のことです。失礼ですが、お心当たりは?」

「……ありますね」おれは正直にそう言った。「でも避妊はしてたし、彼女が妊娠したなんてことは一言も聞いてない」

「とにかく鑑定をしてみないことには、なんともいえません」コールドバーグは“避妊など何の意味もない”とでもいうような口調で、再び何かを書き付けた。

「DNA鑑定というのをご存知でしょう。それで血縁かどうかはっきりしますから」

「スザナが見つかるまで、この子は?」

「施設に預けることが可能です」

「預けるところがあるのか」

「ACSといって、市の児童保護局ですね」

 そうか、よかった。ちゃんと引き渡せる場所があるんだ。

 おれが安堵の息をつこうとしたその矢先、コールドバーグは「それも可能ですが……」と語尾を濁し、おれとポールの顔を交互に見た。

「失礼ですが……お見受けしたところ、あなた方は経済的にひっ迫しているようではありませんね?」

「それがなにか?」

「ACSで子供を保護する場合、いくつか条件がありまして。まず親が死亡した時。親が刑務所に長期間収監されうる時。親が外国人で、母国に強制送還される時。これがまず最優先です。そして次に来るのが、親が重病、ないしは子供に暴力をふるうことが確認できて、子供のために良い決断を下すことができなくなった時です」

「スザナは最後の枠にあてはまるだろう?」

「ええ、彼女は」

「それはどういう意味だ?」

「つまりですね、あなたがこの子の父親だった場合について考えてみてください」

 瞬間、全身の毛穴から、目に見えない何かがドッと噴き出したような感じがした。冷や汗をかくとは、こういうことを言うんだろう。“父親”という単語は、結婚や妊娠を経たのちに、耳にするものだと思っていたが。

 おれの困惑に構わず、コールドバーグは「実のところ」と切り出した。「施設は手いっぱいというのが現状なのです。さきほども言いましたように、ACSでは親が子供の面倒を見ることが困難な場合を優先することになっています。DNA鑑定の結果が出るまで二週間。その間だけでも、こちらでなんとかしてもらうことはできませんか? それにその方が、後の裁判で有利に持ち込めます」

「後の裁判……」

「あなたがこの子の父親だった場合の裁判です。子供の存在を知ってから、あなたは一度も育児放棄をしたことがない、と裁判で胸を張って言うことができれば、陪審員の心証もいいはずです。ご存知でしょうが、育児放棄は幼児虐待の罪に問われますから」

「おれがここで子供をACSに渡したら幼児虐待? 前科者になるって?」

「あなたが父親であると確認できない原段階では微妙ですね」コールドバーグはいくらか刑事っぽい表情を見せ、「ただ、だからこそ、いろいろな可能性を考えておくのが得策かと」と、結論づけた。

「ここはプロのベビーシッターを雇うか、親類などで子育ての経験がある方に協力してもらう形がベストでしょう。もちろん週に一度以上は、ACSからスタッフをこちらに派遣させます」

「ベビーシッターを雇う場合、市から援助金は?」

「残念ながら。しかし、子供があなたと血縁でなかった場合、かかった養育費用は裁判で取り戻せると思います」

「裁判に良心があることを祈れってことか……まったく、おれたちは何のために高い税金を払ってるんだ? このうえオムツ代とベビーシッター代まで搾り取られるとはな」

おれがため息をつくと、コールドバーグは「どうしてもと言うのであれば、何とかできないことはありませんよ」と、希望のあることを口にした。

「あなたが精神的に不適合であるという申し立てを申請すれば、ACSの方から即……」

「ちょっと待てよ、それはどういう意味だ? おれが精神的に不適合?」

「経済的に逼迫していないとなると、その方法しかありません。そうなると医師の診断書が必要になりますが」

「別にどこも悪くない」

「ええ、お見受けしたところそのようです。ですからこれはあくまで“法的処置”ということで」

「警官がそんなこと言っていいのか」

「やむを得ない場合もありますからね。警官は市民の安全を優先します」

「おれが赤ん坊を虐待するとでも?」

「そうは言っていません。ですが、昨今はその心配をしなければならない世の中なのです。あなた個人がどうこうという意味ではなく」

 聞くべきことはすべて聞いた。あとはこっちがどうしたいかって話なんだろう。

「いいよ……わかった」腕組みし、軽く頷く。「たった二週間だ。プロの手を借りれば大したことじゃない」

「大丈夫ですか?」疑わしげにコールドバーグ。さっきまで散々、“自分でなんとかしろ”と責め立てたくせに、今さら大丈夫かどうか不安だってのか?

 おれは居住まいを正し、「きみは『S.T・インシュアランス』を知っているかな?」とコールドバーグに訊いた。「あそこの経営者がおれの義兄なんだ。彼を通して、会社から専任のスタッフを派遣してもらうことにするよ」

「そうですか」警官は安心したように頷いた。義兄の社名は、おれの名刺よりも、“おれ自身”よりも、彼にとって信頼のおけるものらしい。

「実のところ、こういうケースはときどきあるんですよ」とコールドバーグ。「私の勘だとあなたのガールフレンドはすぐに戻ってくると思います」

「スザナはおれのガールフレンドじゃない」

「そうでした……失礼しました」

 “すぐに戻ってくる”だと? こいつ、最後に本音を吐きやがった。“すぐに戻ってくる”んだとしたら、このコールドバーグは各種、面倒な手続きを踏むことはない。こいつはこれをただの痴話喧嘩だと決めつけ、簡単に処理してしまいたいと思っているのだろう。そりゃあ、このマンハッタンで刑事事件といえば、殺人や強盗などが最優先。こんなことはジョシュア・コールドバーグから見れば事件のうちに入らないかもしれない。しかしおれには人生を揺るがす大問題なんだ。

「何かあったら、すぐに電話を」

 映画でおなじみの台詞を残し、刑事……いや、“警官”は帰っていった。

 室内に残されたのは“三人”。最初に口を開いたのはポールだった。

「お義兄さんに連絡を?」

「いや……しない。するわけないよ。あれは便宜上っていうか……そうでもいわなきゃ、あいつ、納得しそうになかったから」

 さっきはついムキになって、身元証明に義兄の名前を出してしまった。人の権力を笠に着るとは情けない。ノーマンとアイリーンは現在、離婚の手続きを進めている。おれと義兄は近いうちに、無関係になる間柄だっていうのに。(そもそも“専任のスタッフ”って何だよ?)

「じゃあ、お姉さんの方に相談する?」とポール。

「それもしない。なに、たった二週間だ。他の方法でなんとかするよ」

 アイリーンは離婚で忙しい。それに、この件を知ったら『ママに話せ』と喚くだろう。この赤ん坊が本当におれの子供だってのなら、いずれ言わなきゃならないだろうが、現時点では何も決まったことではない。事を大きくするのは“何か”が判明してからでも遅くはないはずだ。

「スザナはすぐに戻ってくるかもしれない」とおれは言った。「おそらく、ほんの二、三日中に……」

 そこで突然、誰かがとてつもない叫びを上げた。室内に残されたのは三人。おれとポールでないとすれば、このチェーンソーのような泣き声は、赤ん坊のものだ。

「泣いてる! 泣いてるぞ、ポール! いったいこれはどうしたらいい?」

「ぼくに聞かれても困るよ。こんな事態に直面したことは、今まで一度もないんだから」

「ああ、そうだよな……もちろんおれも……」

「とにかく何とかしなきゃ。このままってわけにはいかないよ」

 ……というわけで、ここでシーンは冒頭と一致。以下は時間軸の通りに進行する。




 赤ん坊はピンクの産着を身につけていた。それから類推するに、性別は女の子。『ピンク色=女性』というのは、古い時代の考え方かもしれないが、今は古典的判断を信じよう。この赤ん坊が“女装癖”という個性を早くも有しているのでなければ、リボンのついた上掛けや、小花模様のよだれかけは、この子が“彼女”であるという可能性を示唆している。

「母親がいなくてショックを受けたのかな? そもそも目が覚めたら知らない家だしな。泣きたくなるのも無理はない」

 おれが“女性”に同情を寄せると、ポールは「そんな複雑なことじゃないと思うよ」と意見する。「きっとこれは、“ある種の欲求を満たしたい”ってサインじゃないかな?」

 “ある種の欲求”───。それは『一流シェフのいるフレンチレストランで食事がしたいわ』とか『ブルーミングデールズでお買い物がしたいわ』とか『フェンディの新作が欲しいわ』とかいうものではないだろう。“ある種の欲求”とは、原始的な欲求。人が人である以上、決して逃れられない生理現象。

「言われてみれば……さっきから妙な香りがする」

 ベビーシッターを手配するまでこのままというわけにもいかず、おれは恐る恐る、未知なる生物に手を伸ばした。泣いている赤ん坊の両脇に手を入れ、そっと持ち上げる。で? それから?

あからさまにやりにくそうにするおれを見て、ポールは「きみは姪や甥の面倒をよく見てたよね?」と言った。「こういうのにもっと耐性があると思ってたよ」

「そうだな。おれもそう思ってた」

 しかし思い返してみれば、そんなに世話らしい世話はしたことはなかった。姪のステラにしても、甥のリロイにしても、泣けば母親、もしくはおばあちゃんに引き渡したし、オムツの時間には部屋を出た。抱っこはできるが、それだけだ。キスしてハグして、愛をささやく。いいとこどりで苦労知らず。おじさんという存在は“愛人”に近い。金払いはいいが、決して責任を取ることはないのだ。

 なんとかベビーカーから引き離したものの、これから先はどうしたらいいのか。赤ん坊は背を弓なりにして泣きわめいている。そんなに反ったら頭が尻にめり込むぞ。もちろんそんな忠告はおかまいなし。

「ポール、悪いけど、タオルか何か持ってきてくれないか?」

「わかった」

 我が家にパンパースの買い置きがあるわけもなく、スポーツタオルを代用品とする。それを装着させるまでの道のりについては、ここでは語らない。語りたくない。あえて語るとすれば、赤ん坊のオムツを交換する作業は、ある種の罰則として、1万ドル以下の罰金と合わせて併用するのが望ましいと認識した程度だ。ちなみに目視で確認したところ、この子の性別は女性と判明。ピンク色の産着は伊達じゃなかった。

 下の世話が終わると、なんとか泣くのはやめてくれたが、しかし安心はしていられない。原始的な欲求は、何も排泄に限ったことではないからだ。

「粉ミルクを買ってこないとな」

「ぼくが買いに行くよ」と申し出るポール。「きみはこの子を見てなきゃだし」

「すまない。本当にすまない。頼まれてくれるか?」

「うん。それにぼくは“残る側”になるより、買い物の方がずいぶん楽だ」言い残し、ポールは出ていった。

 そういうわけで、都合、おれは“残る側”だ。いつまた泣き出すかしれない時限爆弾とふたりきり。いざスイッチが入れば、この相手は話し合いにも応じず、自分の要求が通るまで容赦ない態度を取るつもりなんだ。

「まったく……なんだってこんなことに……」

 おれはソファに腰を下ろす。今日帰宅してから初めてのことだ。

 一流のフレンチレストランやブルーミングデールズ、フェンディの新作などで、機嫌を直す女について、今までおれは「なんて手間がかかるんだろう」と思っていたが、それは間違いだった。少なくとも彼女たちは、自分で服を着替え、食事をし、排泄をする。最低限のマナーは皆、守ってたじゃないか。

 スザナは今なにをしているんだろう。どこにいて、そして何を考えているのか。おれが付き合ってきた女性の中では、もっとも常識的で、最低限のマナーどころか、キチンとした女性の見本のような性格をしていた。そんな彼女がなぜこんなことを。いくら考えてもわからない。そもそもこの子は本当におれとスザナの子供なのか。それについても、いくら考えてもわからない。赤ん坊はふたたび寝息を立て始めている。この子が何を考えているのか。それもおれにはサッパリ理解できない。




 赤ん坊がいようがいまいが、出勤時間は変更なし。おれとポールが仕事に出ている間は、ベビーシッターに来てもらうことにした。その日の午後にはジョシュア・コールドバーグから連絡があり、ACSからスタッフが派遣される日にちを話し合う。提示されたのは月曜と木曜の週二回。しかしそれはほんの数時間で、赤ん坊の面倒を見るのではなく、保護者が適正であるかどうかを監視するようなもの。結局のところ、民間のベビーシッターを頼らざるを得ず、おれはスザナが戻って来た折りに突きつけるべく、せっせと領収証を回収した。

 この赤ちゃん、よく見ると下の歯が二本生えていた。シッターによれば、もう離乳食を食べさせてもいいとのことだ。

 歯が二本。性別は女。髪は黒。目はブルー。スザナはブロンドで瞳は青かった。おれは黒髪で目はグレー。この赤ん坊、いっそのこと髪が緑で目が金色とかだったらよかったのだが。

疲れて帰宅すると、家の中には他人がいて、「今日はとっても元気でした」とか「ごはんをたくさん食べましたよ」などと報告してくれる。おれは礼を言い、シッターを送り出すが、家の中にはまだ赤ん坊がいるのだ。実に奇妙。

 この子が来て三日経つが、まだ少しもこの状況に慣れない。一方、ベビーはといえば、ここでの暮らしずいぶん慣れたようだ。まるで我が家にいるかのように、何を気遣うでもなくリラックス。“ミカーサ、エスカーサ(※Mi Casa Es Tu Casa “私の家はきみの家”という意味のスペイン語)”。順応性が高いのはいいことだ。

「このくらいの赤ん坊ってのは、みんなこうなのか? 母親がいなくなっても平っちゃら? だとしたらまったく薄情な生き物だよ」

ビールを開けつつ、おれが言うと、ポールは「でもだからこそ、この子は生きていけるんじゃない?」と、妙に深い結論を導き出した。

「そうだな。この年で、たとえ一時的にしろ、“親に捨てられた”って理解するのは辛すぎる。なあ、そうだろベイビー……寝てるか」

 レンタルしたベッドで、天使はスヤスヤと寝息を立てている。ベビーベッドが居間にあるせいで、夜にテレビや映画を見ることはできなくなった。見る番組といえばキッズ・チャンネルくらいのもの。おかげでセサミストリートのキャラクターに詳しくなった。

「ねえ、見て」とポール。「すごくかわいい寝顔だよ」

「ああ、そうだな。これで醜かったら川に流してるところだ」

「赤ちゃん、嫌い?」

「別に嫌いじゃない。ただ、あまり情を移すのはどうかと思って」

「どうして?」

「だって……すぐにスザナが迎えに来るだろ」おれはビールを飲み干した。

 ポールは赤ん坊に視線を据えながら、「すぐに迎えに来るって思ってるんだね」と、つぶやく。

 おれが黙っていると、彼もまた黙った。おれたち、予想されたような喧嘩は一度もしていない。この件でポールは怒り狂うだろう思ってた。そしておれも、何やら弁解がましいことを彼に言うんだと思ってた。しかし今のところ、そんな展開に及ぶ気配はまるでない。

「眠る赤ちゃんを見てると、こっちまで眠くなるな」とポール。

「そうだな……おれたちももう寝るか」

「そうしよう」

 ビールは一本だけ。タバコは論外。赤ん坊がいると早寝になる。実に奇妙。そういえばここ数日、妙に体調がいいような……(ブルブル!何て恐ろしい!)。




《“まさか自分がこんなことをするとは”のリスト。ディーン・ケリー版》

 ◎オムツを買う

 ◎ベビーフードを買う

 ◎ベビー用品をレンタルする

 ◎セサミストリートを見る(今から20年以上前の、ある一時期を除く)

 ◎書店の育児書のコーナーに立ち寄る


 そうだ。育児書のコーナーに立ち寄るなんてことが、よもや自分に起こるとは。

 おれが本屋に寄るとなれば、それはお気に入りの作家の新刊や、面白そうな特集の雑誌を買うときだけ。間違っても“育児書”と書かれたスペースに入り込むことはない。“手芸”とか“占い”のコーナーの方が、まだ可能性が残ってる。

 育児書。それは未知なる領域。ざっと背表紙を見渡すが、どれもなかなかふるっている。

『誰も教えてくれない育児』『ベビーと暮らす初めの一年』『新・子育てQ&A』『赤ちゃんとハイタッチ!』

 タイトルだけでは何が何やら。育児書はフランス刺繍の本と同じくらい興味がある。歯のない生き物が笑顔を浮かべている写真を表紙にした本は、まったくもっておれと無縁だ。そう、ほんの先週までは、“まったくもっておれと無縁”だったんだ。

『ニューズウィーク』や『カー&ドライブ』、『プレイボーイマガジン』でもいい。とにかくここ以外のジャンルに移動したい。ドロシーよろしく祈ったその時、一冊の本が目にとまった。タイトルは『シングルファーザー ダニエル父さんの初心者向け育児マニュアル』。

 題から察するに、どうやら著者は男性のようだ。しかもこれは“初心者向け”。ついでに“マニュアル”という男心をくすぐる単語も入っている。

 開いてみると、たくましい男性が赤ちゃんを抱いている写真があり、そこには“ダニエル父さんと天使のブリジッド”と添え書きされていた。著者は妻に先立たれてシングルファーザーになった男性で、『かつて自分がひとりで育児をしていたときに知りたかったと思える情報を、本書には残らず記してある』とのこと。二ページ目に『今はティーンエイジャーまっさかり、ナマイキ盛りの娘に捧ぐ』と謝辞が記されている。


 《ダニエル父さんの育児マニュアル》

  本書はシングルファーザーのための育児指南書である。

  なんらかの事情によりシングルファーザーになってしまった君。

  そのことを嘆く必要はこれっぽっちもない。

  あなたの腕に抱かれているのは、まごうことなき天使である。

  ただ、その天使とふたりだけで暮らしてゆくには、

  いくばくかの困難があなたを試すことだろう。

  しかし案ずる事なかれ。

  天使は君を苦しめるためにいるのではない。

  その瞳を覗き込みさえすれば、

  そこには君に対する無条件の信頼と愛が宿っている。

  君は天使に選ばれし者。

  その幸運に感謝し、意気揚々と胸を張って、

  オムツの特売の列に並ぼうではないか!

  案ずる事なかれ。さすればきみは幸福に。

  ドントウォーリー・ビー・ハッピー。


 面白い。少なくとも『赤ちゃんとハイタッチ!』よりは読めそうだ。よし、これに決めた。

 ……と、決めたはいいが、おれがこの本をレジに持っていくまでの間、『ニューズウィーク』と『カー&ドライブ』と『プレイボーイ』を用もないのに手に取り、最終的はジェイク・ギレンホールが表紙の『GQマガジン』と一緒に、ダニエル父さんの本を購入した。我ながら、かなり混乱していると思う。




「……では次に。お手元の資料の26ページ目をご覧下さい」

 いいかげんにしろよ、ジェド。おまえのプレゼンは長いばっかりで面白くないんだ。もっと要領よくやれば、この半分の時間で済むと思わないか? その手際の悪さ故、会議はもう二時間以上も長引いてるんだ。だいたい何だ? 5ページから9ページまでがミスプリで、2008年のデータと2001年のデータが入れ替わってるだって? どうやったらそんなミスを犯せるんだ? 知性を持たないコピー機ですら、自動で順繰りに印刷する才能を有しているんだぞ?

 おれは鉛筆の尻を噛み、会議室のテーブルをひっくり返したい衝動を、かろうじて押さえつける。今夜ポールは遅番だ。だからおれは早めに帰宅するつもりだった。時刻は8時をとうに過ぎた。ベビーシッターに延長料金を払うのは構わないが、そもそも“延長を頼む”という電話をかけることすら、ままならない。まさかベビーシッターは赤ん坊を見捨てて帰ってしまったりはしないよな? 仕事が長引くかもしれないことは、契約の段階で言ってあることだし……。

「ディーン・ケリー」

 上司のシーラがおれの名を呼んだ。会議室中の目が一斉に“ディーン・ケリー”に集まる。

「さっきから時計を何度も見てるわね? この後、何か用事でも?」

「いえ、そういうわけでは……」

「じゃあ、このプレゼンが退屈なのかしら?」

 “ええ、ビンゴ”……とは言えない。口が裂けても。

「退屈そうなあなたの意見を聞かせてもらえるかしら? 景気低迷の今、絵画市場における我々の役割とは何であるとお考え?」

 酷薄そうな薄い唇がニッコリと微笑む。なんという悪魔だ。我が家で寝ている天使も、あと十数年したら、こんな風に笑ったりするようになるんだろうか。

 おれはジェドの資料をさりげなく押しやり、“絵画市場における我々の役割”について話し出す。これでまた会議の時間が伸びた。赤ん坊は泣いてやしないか。オムツの替えは大丈夫だろうか。こんな状態で面白い意見など言えるわけがない。

 ジェドのプレゼンよりひどい、ディーン・ケリーのスピーチ。赤ん坊が気になって仕事に身が入らないなんて、いったいどこのお母さんだ。これだったらいっそ専業主婦になった方がいいかもな。あ、そうか。だから一部の女性は子供を産むと社会復帰しなくなるのか。キャリアを捨てて主婦を選択するビジネスウーマンの気持ちが今わかった。身を以て理解したい事ではない。




 結局、おれが家に戻ったのは0時すぎ。会議の途中、小休憩のときにベビーシッターの携帯にかけたところ、彼女はもう帰る途中だった。まさか赤ん坊を放置して? 一瞬、あせったが、そんなことはなかった。ポールが早めに帰宅したので、時間延長は発生しなかったらしい。

「予約していたお客さんが急にキャンセルになって。それで帰ってこれたんだ」とポール。彼は夕食の支度をすっかり済ませていて、赤ん坊のオムツが爆発したような形跡は、どこにも見当たらなかった。

「予約がキャンセルになったからって、早退できるような職場じゃないだろ? いったい何でまた?」

「うーん、何でだろうね?」ポールはドラゴンフルーツの皿をテーブルに置いた。「何となく感じたんだ。“今日は早く帰ろう”って。どうしてそう思ったのかはわからないけど」

「すごいな。それって超能力じゃないか? おれはその頃、会議で上司に虐められてたんだ」

「だったらきみのSOSを感じ取ったのかもね」楊枝で果物を突き刺し、口に入れる。

「もしくはベビーがきみに電波を送ったとか」

「どっちもあり得る」

「とにかく助かったよ。ありがとう」

「ねえ、この子、果物は食べられるかな?」

「ああ……たぶん。確か本に書いてあったな」

「本?」

「育児書を買ったんだ」おれはカバンから、ダニエル父さんの本を取り出し、ポールに手渡した。彼はページをめくり、「へえ、これは分かりやすい」と感心したように言った。「食べさせていいものが月齢順に書いてあるよ」

「なかなかいい本だろ。読みやすいし、ユーモアも盛り込まれていて面白い」

「面白いって? きみが育児書を面白い?」

 ポールが今にも笑い出しそうな顔をしているので、おれは「爆笑したら赤ん坊が起きるぞ」と警告する。「それに、“面白い”ってのは、他の育児書と比較しての話だ。別にこれがウィリアム・シェイクスピアの新刊より面白いって話じゃない」

「他の育児書を読んだの?」

「いや、正直言うと読んでない。書店のあのコーナーにいるだけで、おれにはある種の拷問だったからな」

「ぼくが“男性誌”のコーナーに立つようなもんか」ポールは本のページをパラパラとめくり、「この章、読んだ?」と、ページを指す。


 《ダニエル父さんのオムツ指南》

  ロングスカートからミニスカート。ベルボトムからスリムパンツ。

  流行はいつも繰り返す。

  近年はまた布のオムツがブームだと、赤ん坊たちが噂しているのを耳にした。

  しかしここでは紙と布のどちらがいいかは論じない。

  ただ着けて、そのときがきたら、外す。

  それをクリアすれば、第一関門は突破だ。

  どれが環境にやさしいか、などは今のきみにはハードルが高すぎる。

  それぐらいちょろいと言う猛者は、自分と赤ん坊以外のこと、

  つまり環境の心配をしてくれて一向に構わないが。

  紙オムツと布オムツの簡単な着け方を、以下に図入りで紹介しよう。

  取り付け棚の組み立てや、パソコンのメモリー交換と同レベルの簡単さだ。

  案ずる事なかれ。さすればきみは幸福に。

  ドントウォーリー・ビー・ハッピー。


「おれは紙でいいと思うな。布は手間がかかりすぎるし。そこまでマニアックに育児できない」というのは、ディーンの意見。さきほどのプレゼンより、よっぽど歯切れがいい。ポールも「同じく」と同意し、「流行にうとくて申し訳ないね」と、赤ん坊の方を向いて、笑いかけた。

「で? 明日は何時に?」とポール。

「予約は午後からだ。余裕があったら帰りに買い物を済ませておくよ」

「赤ちゃんを連れて? 無理しないで」

「無理はしないよ。余裕があったらだ」

 明日の予定はDNA検査だ。鑑定結果はすぐには出ないが、とにかく事態は進展するだろう。




 ニューヨーク州保健省に出向くとおれは思っていたが、紹介された場所は普通のビルの一室。裁判所指定ではあるものの、民間が運営する企業だった。

 スタッフは皆、白衣を着用しているので、病院、ないしは何らかの研究機関のように見える。受付を済ませて通された待合室には、両親と子供の親子連れ(おそらく“親子”だ。検査の結果は知らないが)と、ひとりで来ているらしい若い女性がいた。

 おれはベビーカーをロックし、長椅子に腰を下ろした。電光掲示板のランプが番号を照らし出すと、若い女性が席を立って、小部屋に入っていく。ときおり電話が鳴る音がするだけで、待合室はとても静かだった。

『ご自由にお取り下さい』と書かれたラックに小冊子があったので、時間つぶしにと手に取ってみる。ページを開き、目に飛び込んできたタイトルは『性犯罪の抑制につながる道しるべ 〜DNA鑑定と凶悪犯罪〜』。読まずに戻す。

赤ん坊はベビーカーの中から、辺りをキョロキョロと見回している。手におもちゃを握らせてやると、機嫌が悪いのか二秒で投げた。拾い、それを上着のポケットに仕舞う。ベビークッキーを差し出すと、今度は投げずに口に入れた。大人しく餌を食べているのを確認し、おれはカバンからダニエル父さんの本を取り出した。


  天使の口から透明な液体がたれていても臆することはない。

  それはヨダレだ。

  ずいぶん量が多いと思うかもしれないが、

  日によだれかけ五枚ほどならば、気にするほどのことではない。

  大人はそれを飲み込む術を覚えただけのこと。

  実際、その程度の分泌は我々にもあるものだ。

  案ずる事なかれ。さすればきみは幸福に。

  ドントウォーリー・ビー・ハッピー。


 目の前の天使を見ると、ヨダレまみれのクッキーを幸福そうに舐めている。おれは本に視線を戻した。


  きみの天使が眠らない?

  そう、深夜のサッカー中継がない日に限って、

  赤ん坊は夜更かしをしたがるものだ。

  しかし案ずることなかれ。

  抱いて立ったり座ったり、あやしたりしているうちに、

  必ずや天使は寝てくれる。

  まるで永遠かと思えるような時間だが、

  眠らない人間はこの世にはいない。

  とにかくいつかは必ず寝てくれるのだから、希望がある話ではないか。

  その“いつか”が、ヒバリが囁き出した時刻であるかもしれないが、

  それでも眠ってくれたら御の字だ。

  なに? 明日は会社だって?───健闘を祈る。


 我が家の天使は幸い寝付きがいい。むしろよすぎて心配なくらいだ。深夜に何度も目を覚ますのはおれの方。あまりにも静かなため、死んでいるのではないかと不安になるのだ。

 スザナが迎えにくるまで、この子にはひっかき傷ひとつつけてはならない。人間の赤ん坊以上に大切な預かりものが、果たしてこの世に存在するだろうか? 50年代のフェラーリを義兄から借りたときよりも、取り扱いに緊張する。これが自分の子供であれば、そこまで神経質になることはないのかもしれないが……。

 電光掲示板が22番を表示した。おれの番号だ。誰かが「22番の方どうぞ」と呼んでくれる気配はない。おれは赤ん坊を抱きかかえ、さきほど女性が入っていった部屋に入室した。



 おれは注射が大嫌いだ。男なのに情けない? 麻薬中毒じゃないかぎり、針が好きだってヤツはいないはず。

「楽しいことを考えてれば、注射なんて一瞬で終わるのよ」インフルエンザの予防注射のときに、ママがそうアドバイスしてくれたことを思い出す。おれは目を閉じ、女の子でいっぱいのビーチと、オレンジのささったマイタイのことを考えた。

「さあ、じゃあ次は赤ちゃんの方ね」

 こっちが痛い思いをしている間、赤ん坊はクッキーまみれの手を拭いてもらい、クマのぬいぐるみを渡されてご機嫌だった。スタッフは注射器のビニール袋を破り、採血の準備をしている。それはおれに使ったのと同じサイズに見えた。確か歯医者なんかでは、もっと髪の毛みたいに細い注射針を使っていたと思ったけど。本当にこんな太い針が、赤ん坊の採血に必要なんだろうか?

「その針を射すんですか?」注射器を用意する女性スタッフに、おれは訊いた。「血液検査以外の、他の方法はないんでしょうか? DNA検査は唾液とか髪の毛からでも可能ですよね?『60ミニッツ』ではそう言ってた」

「心配なさらないで」と女性スタッフ。「ポリオやインフルエンザの予防接種と同じですから」

 おれの問いには答えず、彼女はてきぱきと動き続けた。消毒液のしみたコットンを、ピンセットでひょいとつまみあげる。その光景に恐れを成したか、赤ん坊はおれの腕の中でぐずり始めた。

「大丈夫だぞ、おちびさん」おれは周囲に聞こえないよう、そっと小声で赤ん坊の耳元にささやきかけた。「なあに、ビーチとマイタイのことを考えてりゃ、すぐ終わるさ。こんなの大した事はない。ちっとも痛くないからな」天使を安心させるためだ。これぐらいの嘘は許されるだろう。

「しっかり抱いていてくださいね」と指事するスタッフ。注射器のキャップを外しながら、「こういうとき、赤ちゃんがどうして泣くかご存知?」と言った。「赤ちゃんは注射が怖いんじゃないんですよ。そもそも注射のことなど何も知らないのですから。赤ちゃんは周囲の空気を感じ取るんです。たとえば親の心の状態。親が不安だったり、緊張していたりした場合、それを敏感に察知して、それで泣くんです。きっと何かが伝わってくるんでしょうね。だからあなたが緊張してはいけませんわ」そして、にっこりと笑ってみせる。その微笑みときたら、まるで戦地で出会った白衣の天使だ。こっちも注射で気が弱くなっているから、特に安心する。

「あの、失礼ですが、お名前を伺っても? おれはディーン・ケリーです」

「アリス・バークレーですわ。ミセス・バークレー」

「ミセス・バークレー、お子さんはいらっしゃいますか?」

「ふたり。上の子はもう高校生です」

 ティーンエイジャーの子供がいるようには少しも見えない。ミセス・バークレーはとても魅力的な女性だ。しかしこの場でそんなことを言うのはたとえ事実でも不適切なこと。だからこそ彼女は“ミセス”とわざわざ名乗ったのだろう。とにかくこれで“名前”が決まった。




「さあアリス、ごはんの時間だぞ。いっぱい食べて、早いとこ眠ってくれよな?」

 テーブルつきのベビーチェアに座らせ、プラスチック製の食事用エプロンを装着。エプロンをむしり取る前に、まずはベビーフードに注目させる。

「アリス、ほら、こっちだ。これを見ろ。さあ、今日のメニューは何だと思う?」

 瓶のフタを開け、オレンジ色の物体をスプーンですくう。メニューは『ミックス・ベジタブル&チキン』とのことだが、昨日食べさせた『スイートポテト&ターキー』とまったく変わらない色と形状をしている。

「アリスって、本当にかわいい名前だね」とポールは言う。「アリス・イン・ワンダーランド。不思議の国の女の子だね」

「テニエルのイラストは金髪碧眼だけどな。このアリスは黒髪にアイスブルーの瞳なんだ」

「その方がずっと知的に見えるよ」

「アリス、聞いたか? きみは知的だ。だから頼む。お願いだから口を開けてくれ」

「食べないの?」

 さっきからアリスはスプーンに少しも興味を示さない。口元に運ぶのだが、そのつど避けるように、上を見たり、横を向いたりするのだ。

「どうしたアリス? ダイエットは必要ないんだぞ?」

 アリスは唸り声を発し、テーブルを叩いた。察するにこれは不機嫌のサインだ。

「そうか、よし、きみが食べないのなら、おれが頂くとするよ。ちょうど腹が減ってたところだしな」

 彼女の食欲を促そうと、おれはドロドロの食物をひとさじ、口に入れた。

「ほら、とってもおいし……うえっ! 何だこれ?!」

 吐き出すことをかろうじて免れたのは、母親の躾によるもの。『食べ物を口から出すんじゃありません!』しかしこれは口から出すのが正しい行為と言っても差し支えない気がする。

 おれのリアクションに、ポールは「おいしくない?」と訊いてきた。

「おいしくないどころの話じゃない。刑務所でもこんな料理は出さないんじゃないか?」

「そんなひどい? っていうか、さっきからアリスが聞いてるけど?」

「聞いててもいいさ。実際、マズいんだから。これじゃ食欲がわかないのも無理ないな」

「どれ?」ポールも一口、食べてみる。「うーん、どうだろ? 離乳食なんてこんなもんじゃないの?」

「もしすべての離乳食が“こんなもん”だったら、赤ん坊の自殺率が跳ね上がるだろうよ。もっとまともな料理を食べさせないと。これじゃ舌が馬鹿になるぞ」

 アリスはスプーンを取って放り投げた。正しいマナーとは言えないが、気持ちはわかる。大人がそれをしないのは、単なる分別によるものだ。

 三十分後。食卓に登場したのは、サーモンのクリーム煮とチーズのグラタン。どちらもそう難しくはない。大人が食べるときよりも味をうすく、細かく刻んで長く煮込めばいいだけだ。こんなに簡単と知っていたら、初めからベビーフード産業に儲けさせることはなかった。

「さあてアリス、今度のごちそうはなんだろうな? タイユバン? それともアラン・デュカス? ボナペティ、マドモワゼル」

 おれの稚拙なフランス語にポールは苦笑。「外国語教育はちょっと早いんじゃないかな」と意見する。

「ニューズウィークによると『英才教育は0歳から』って説が有力らしい。もっともまだ母国語も話せないけど……おっと、こぼした」

 アリスはとてもご機嫌で、やっと食欲も出たようだ。赤ちゃんは周囲の空気を感じ取る。おれとポールがリラックスしているのがわかるのだろう。




 ローラーブレードを履いた若い女性が「ハーイ、スウィーティ」と声をかけ、通り過ぎた。

「おれかな?」胸に指を立て、ポールに問うと、彼は「きみじゃないと思うよ」と笑って頭を振る。

「それにしてもすごいな。今まで何人に声をかけられた?」

「ほんと、驚きだね。人が赤ちゃんにこんなに話しかけるなんて、今まで全然しらなかった」

 ポールはベビーカーの日よけの角度を調整し、「今日は一日中晴れるって」と天気の予定を教えてくれる。

 休日のセントラルパークは家族連れが多い。馬車を追いかける子。植物の採取に余念がない子。芝生の上をオムツ一丁で走り回る子。さまざまな年齢の子供たちが、人工的な大自然を満喫している。敷地内には子供の遊び場が多くあり、おれも二十年ほど前には、公園のプレイグランドすべてを、一日で制覇することに意欲を燃やしたものだった。

 赤ん坊の社会性を養うためにも、外出は欠かせない仕事だ。甥のリロイがまだ小さかった頃、おばあちゃん(つまりおれのママだが)は、やたらと日光浴を勧めていた。母の知識ではそれが最善のことだったのだが、残念ながら今やそれは古い情報なのだそう。赤ん坊が紫外線に当たる時間は、短い方がいいというのが現代の定説。そこでおれたちは三人とも帽子をかぶり、うち二人はサングラスを装着している。もちろん日焼け止めも完璧。いつもよりUV対策に真剣なのは、紫外線の悪影響をネットで調べて怖くなったからだ。

 ピンクの帽子をかぶったアリスは、オムツのCMに出られそうなほどの美人。おれとポールが女の子を連れ歩いてるって、それはまるで〈インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア〉のトム・クルーズとブラッド・ピットのカップルみたいじゃないか? あいつらはゲイって設定だったかな? まあ、吸血鬼は間違っても、日光浴がてら公園を歩き回ったりはしないだろうけど。

 ベンチに座ってひと休みしていると、年配の女性が話しかけてきた。

「かわいい天使ちゃん。ご機嫌はいかがかしら?」

 メリル・ストリープよりもずっと年上の女性。察するにこれは、おれたち目当てのナンパではないだろう。

「女の子ね。お名前は?」

 紫のブレードハットをかぶった上品な女性は、ベビーカーの中味に問いかけている。もちろん赤ん坊は答えられないので、代わりにおれが「アリスです」と紹介した。

「アリスちゃん。素敵な名前だわ。何ヶ月かしら?」

「ええと……」

「わからない?」

「あの、友人の子供を預かっているもので」

「あら、そうなの。じゃあハンサムなベビーシッターさんを二人も従えて、天使ちゃんはご機嫌ね?」

 “そのとおりよ”とでも言うように、アリスはキャッキャと笑い声を立てた。

 ご婦人が去った後、おれはポールに「おれたち怪しくないか?」と質問する。

「あやしい?」

「誘拐犯に間違えられなくてよかった」

「ああ、そういうこと」

 この界隈では、どんな家族構成も珍しくはない。老いた白人の母親に黒人の赤ちゃん。姉妹ほども年が近い親子。サッカーチームができるほど子だくさんの家族。若い後見人とティーンエイジャーの子供たち。ポン引きの親と売り物の娘。これだけ多種多様な人間がまぜこぜになっていると、二人の男親が赤ん坊を連れていたとしても、すぐに通報される可能性は低い。アメリカ人のゲイの夫婦が、エイズに感染したアフリカの赤ん坊を引き取って育てているのを、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがある。こうしたことは、保守的な地域ではあり得ないことだ。

 都会は人々の結束が薄く、人間関係がギスギスしているという見方があるが、そのかわり、田舎にありがちな人種差別や下らない偏見は比較的少ない(まったくないとは言えない)。ローマンがいつも口にする台詞に『マンハッタンは赦しと癒しに満ちた街』というのがある。マンハッタンが犯罪多発地帯であることは世界的に周知の事実だが、しかしローマンが言っているのは、犯罪の増加率の話ではない。彼が見ているのは物事の良い側面だ。常にポジティヴなローマンは、この街を“赦しと癒しに満ちた場所”と信じ、またそれを自ら実戦することで、自分の発言を事実として提唱しているのだ。

 赦しと癒しに満ちた街で、人生をやり直そうとする者は多い。始めは孤独であっても、いずれ仲間を見つけ、愛し会う人と出会う。捨てられた子供は成長し、いつか自分に力があることに気づく。それまで生き延びるのは並大抵のことではないが、マンハッタンは赦しと癒しに満ちた街。それを信じることができれば、助けの手は必ず見つかるのだと……いや、正直なところ、完全には信じていないが……それでも今日は信じよう。通りすがる人々が、天使に声をかける街。空は青く、空気は甘い。セサミストリートのモデルはニューヨークの下町だ。人間とモンスターが仲良くゆかいに暮らす街。オスカーみたいなおっさんは、その辺りの通りでよく見かけることができる。

 ベンチでひなたぼっこするおれたちの前を、二人の男性が通りかかる。ひとりがこっちを見て、「やあ、かわいい帽子だね」と微笑みかける。

「おれかな?」そうつぶやくと、ポールは笑った。今日はいい日だ。




「あぁ………」

「ん……あっ……」

「ディーン、ああ、ディーン」

「ポール……いいよ、すごく……」

「いって」

「ああ……いくよ、もういく……」

「そうじゃなくって……アリスのところに行って。彼女、泣いてる」

「泣いてる?」

 耳をすますと、かすかな泣き声が聞こえた。

「ああ……」

 おれはガックリと頭を垂れた。あと五分待ってくれれば……いや、天使のオーダーに“あと五分”は通用しない。おれは行かなくてはならない。ペニスの状態がどうであれ、今すぐに。

「行って」

「ああ」

 ポールから離れ、アリスのベッドを訪問。どうやらそうひどく泣きわめいているわけではない。空腹やオムツの時とは、あきらかに違う泣き方で、ふにゃふにゃとぐずっている程度だ。

「ベイビーどうした? 怖い夢でも見たか? それともヤキモチか?」

 サークルを覗き込み、手を差し伸べると、アリスはおれの指をつかんだ。しばらくそのままにしていると、様子に変化が出始める。表情が徐々にやわらかくなっていったかと思うと、泣くのをやめて眠りについた。その間、五分にも満たない。

「やっぱりヤキモチだったんだな? いい女はそう簡単に嫉妬するもんじゃないぞ」

 おれはそろりと手を引っ込め、アリスの上掛けをかけ直す。指の背で彼女の頬をそっと撫でると、なんだか胸が苦しくなった。

 彼女にとって、この部屋は世界のすべて。おれとポール、ときどき来るベビーシッター。それがアリスの頼るべき人間のすべて。母親が不在な今、おれはアリスに対して責任がある。相手から完全に信頼されている状況というのは、大人同士ではめったにあることではない。

 部屋に戻ると、ポールはシーツに包まっていたが、完全に目を覚ましていて、「大丈夫?」と訊いてきた。

「ああ、問題ない」

「ミルクを?」

「いや、行って声をかけたらすぐ寝たよ」

 おれは恋人の隣に滑り込む。汗でシーツがわずかに湿り気を帯びていた。

「泣き声に気がついてよかった」とポール。「ひとりで夜中に目が覚めて、怖い思いをしたのかもね」

「暗闇で見ると、ぬいぐるみの熊も恐ろしげに感じるからな」

「それってきみの話?」

「もちろん。試しにやってみるといい。ピエロの人形なんか迫力満点だ」

「ぼくは平気だよ」

「今じゃない。子供の頃の話さ。なあ、考えてみれば不思議だよな。人間の誰もが赤ん坊だった。きみも、おれも、これってすごいことだ」

「ほんと。ぼくたち、ひとりでトイレにも行けなかったなんて」

 ジョージ・ブッシュも、エリザベス女王も、オビ=ワン・ケノービも、みんなみんな赤ん坊だった。当たり前のことだが、とても信じられない。

 誰しも親から細胞を受け継いで生まれる。もしアリスがおれの子供だとしたら、おれの遺伝子はここに受け継がれたわけで、おれの父と母、そして祖父と祖母。さらにそのまた両親、さらには祖先へとDNAは遡る。そしてアリスが成長して、また子供を生めば、その遺伝子はさらに未来へと運ばれるわけだ。はあぁ、なんだか気の遠くなるような話じゃないか。

「ねえ、ディーン。きみが赤ちゃんだったときの写真ってある?」

「うちにはないだろうな。ママはいくらか持ってると思うけど。なぜそんなことを?」

「別に。単なる興味」

「……アリスとおれが似てるかどうかを確かめたいのか?」

 おれの言葉にポールはハッとしたような表情になった。それから「そんなつもりない」と眉根を曇らせる。「ただ、きみが赤ちゃんだったときを見てみたいって思ったんだ。どんなだったのかなって。検証しようだなんて思ってもみなかった。なのに、そんな言い方……」

「ああ、悪かった」おれはポールの手をとった。「ついうっかり。失言だ。許してくれ」

「悲しくなるようなことを言わないで」

「ごめん」

 おれはポールを抱きしめた。彼もまた、おれを抱き返す。怒っているわけではない。ポールはただ悲しみを感じたのだ。

 でもこれはどういうことだろう。彼はおれとアリスの血縁を疑っていないのだろうか? 愛しているから信頼する。そういうことなのか?

 ポールはおれを検証しようなど思ってもみなかった。おれはポールが検証しようとしているのかと疑った。本来ならこれは逆なはず。ポールが疑い、ディーンが信頼を求める。当初、おれはそんな展開を想像していたのだが……。

 汝、試すなかれ。愛を試すなかれ。けれども、この件には、どうしたって検証しなきゃならないことがある。おれとアリスのDNAに関連はあるのか否か。“悲しくなるようなことを言わないで”とポールは言った。だが今後、“悲しくなるようなこと”を通過しないとは言い切れない。




「こちらは地球管制塔。ポール少佐。応答せよ」

 ベビーピンクの最新機器に向かって通信すると、ポールは寝室から顔だけ出し、「こっちからは音声を飛ばせないんじゃなくて?」と、応答した。

「ああ、そうか。この無線は一方通行だっけ。おれの声は?」

「よく聞こえたよ」

 本日、我が家に導入されたハイテクはベビーモニター。これは小型の無線機で、離れたところからでも、赤ん坊の声を感知できるスグレモノ。泣き出せばすぐに駆けつけることができるし、穏やかな寝息を立てていることがわかれば、こちらも神経を尖らせる必要はない。要するに、「別の部屋で何かに気をとられていても大丈夫」ってこと。

「何かって?」とポールが聞くので、おれは「もちろん、きみさ」と答え、彼の頬にキスをした。ポールはくすぐったそうにし、「これでセックスに集中できるね」と言った。

 ということは、彼もまた赤ん坊のことが気になって、セックスどころじゃなかったということか。そうと知っていたら、もっと早くこのマシンを導入したのに。

「きみもアリスを気にかけてるんだな」

「家に赤ちゃんがいて気にならないって人はいないと思うけど」

「“気にならない”じゃなくて、“気にかけてる”って言ったんだ」

「そりゃあ、気にもかけるよ。一緒に暮らしてるもの。ねえ、このベビーモニターってレンタルじゃないの?」

「ああ、買ったんだ。そんなに高価なものじゃない」

「長いことレンタルするくらいなら、買った方が安いってこともあるか」

 “長いこと”というコメントに、おれは違和感を覚えた。ポールはこれを“長いことかかる”と思っている。実際アリスが来て一週間が経過しているが、七日間というのはそう長い時間ではない。ポールが言っているのは、今後のことだ。これから、もっと長くかかると彼は思っている。この暮らしが、長引くのだと。それなのにどうしてポールは不機嫌にならないのか。恋人の元カノが置いていった赤ん坊。その面倒をみさせられ、やっかい事に巻き込まれている。この赤ん坊はおれの子かもしれない。恋人と他の女との間に出来た子供。どう考えたって、面白い話じゃないはずだ。

 その夜、おれは「ひとつ聞きたい」と切り出した。

「きみはどうして怒らないんだ?」

“何について”と説明するまでもなく、彼は質問の意図を汲み取り、そして答える。

「どうしてだろうね」

 ポールはキッチンペーパーを手に巻き取り、コーヒーメーカーの周りを拭きながら言った。「自分でもわからない。なんでぼくはきみに怒らないんだろう。いつもみたいに怒鳴りちらして、怒り狂ってもおかしくないって、自分でも思うんだけど」ゴミ箱にペーパーを捨て、煎れたてのコーヒーに口をつける。「ぼくは母親に捨てられた赤ちゃんに同情してるのかな? それともきみを気の毒に思ってるのかも?」

「そうなのか?」

「ううん……どっちも違う。なんだろう。まったくわからない」とカフェラテの香りのする溜め息をついた。「もしかしたら赤ちゃんがマイナスイオンのようなものを発してて、ぼくの怒りを中和しているのかもね」

「まさか」おれは軽く笑った。それがポールの冗談だと思ったからだ。しかし彼は真面目な顔で「どうかなぁ、まさかじゃないかも。むしろそれが一番しっくりくるな」と言う。「もちろん非科学的な話だってのはわかってるよ。でも、ぼくの今の状況は科学的には説明がつかない。だってこれは腹を立てるべき状況なんだから」

 それはおれもまったく同意だ。ポールはこの状況を正しく理解している。頭では“怒るべきだ”と知っている。しかし実際には腹が立ってはいないのだ。それは人一倍嫉妬深い彼らしからぬこと。一体どういうことだろう。何が彼に起きているのだろう。どうしてなのかはポール本人にもわからないのだから、これ以上議論しても仕方ない。




 市から派遣された観察員がやってきたのは、翌日のこと。忙しい月曜の午後に、おれは「健康診断がある」と会社を抜け出した。とりあえず嘘はついてないはずだ。

 観察員はルイーズという名の女性。五十歳代のイタリア系で、ふくよかな体つきは見るからに子育てのベテランという感じがする。

 ルイーズはアリスの胸に聴診器を当てたり、ペンライトを顔の前にかざしたりして、何かをチェックしている。足の裏に手の平を置くと、アリスはそれを蹴って押し返した。

「とっても元気ね」満足げに微笑むルイーズ。優しく撫でてくれようとしたが、アリスは不機嫌な顔で、彼女の手をひっぱたいた。

「あらまあ」ルイーズは笑ったが、おれの肝は冷えた。“暴力性あり”とか、“情緒不安定”とかの採点がつけられることを恐れ、「いつもはいい子なんですが……」と、微弱にフォローのコメントを述べてみる。

 ルイーズは「もちろんよ」と言い、黒いカバンからプラスチックのおもちゃを取り出した。「ほら、これは何かしら?」

「アヒルですね」とおれは答える。

「あなたに訊いたわけじゃないのよ」

「そうですか」

「ねえ、アリス。おかしなパパだこと。ほら、アヒルさんが鳴いているわよ」

 アヒルは空気穴から、ガアガアと音を発した。アリスはそれをじっと見つめている。ルイーズがそれを左右に動かすと、アリスは掴もうと手を伸ばした。

「ちゃんと目で追うし、好奇心も旺盛。しっかりお育てになっていると、記録には記しておきますね」

 どうやらひっぱたいたのは採点のうちに入らなかったらしい。

「何も異常な点はないということですか?」と訊ねると、「何か心配事が?」と、逆に聞き返された。

「心配というか……何ぶん育児には不慣れなもので」

「何か具体的なことで心配事がおあり?」

「心配と言えば何でも心配です」

「今日見たところでは、大きな異常は見つかりませんでしたよ。何か気になる点に気がついたら、お電話くだされば、センターの方でご相談にのりますから」

 気になる点は、この子の遺伝子がおれと繋がりがあるのかということ。そして母親の居所について。でもそれはセンターのご相談の範疇外だ。

「そう心配しないで。最近はね、むしろ男親の方がちゃんとしていたりするものなんですよ」

 その言葉に心臓を掴まれたような気がした。ルイーズの発言に深い意味はないのだと自分に言い聞かせたが、会社に戻ってもおれはまだ動揺したままでいる。

 おれはアリスの“男親”なのか。事実はどうあれ、原段階では誰が見てもそうだ。アヒルに反応するおかしなパパ。まったく、アリスの母親はどこへ行ってしまったんだ。子供を置き去りにして一体どこへ行くってんだ。スザナはおれの性格を知り尽くしてる。彼女はアリスをおれ任せても大丈夫だと踏んだのだ。託す相手は男親。最近は男親の方がちゃんとしていたりする。スザナは今なにをしているのか。考えれば考えるほど、悪いイメージばかりが頭に浮かぶ。

 散々悪い考えに取り憑かれたその日は、ほとんど仕事にならなかった。ルーティンワークは何とかこなしたが、それすらも能率が悪い。心の状態がモロに顔に出るタイプのおれに、同僚のジェドは「何だ? 検診でガンでも見つかったのか?」と、笑顔でジョークを言ってよこした。死ね。




 夜中に突然目が覚めることは、何らかの虫の知らせだという説がある。今夜、おれはそれを実際に体験した。

 何となく目が覚め、何となくアリスの様子を見に行くと、彼女もまた目を覚ましていた。お気に入りのクマのぬいぐるみを手術していて、哀れな患者は首から綿を噴き出し、微笑んで絶命している。これは後でベビーシッターに縫い直してもらおう。

「今夜はずいぶん夜更かしだな?」

 彼女の手からぬいぐるみを取り上げようとしたその時、おれは突然気がついた。アリスが汗をかいている。それもとても大量にだ。髪が濡れ、額にぺったりと貼り付いていた。手を握ってみると、それは熱い。額に触れる。ここも熱い。なんてことだ、アリスは熱を出している。

 とりあえず汗をふいてやり、それから体温計を探した。ベビー体温計は持っていない。大人用だが、これで大丈夫だろうか?

「よし、こいつを脇の下に挟んで……じっとして……動かない……」

 そう言い聞かせたところで、じっとなどしているわけがない。アリスはまだオペの途中だ。今度はクマを片目にしようとしている。

 むりやり腕を押さえて計った体温は39度。どう考えても、この小さな身体が発する熱量じゃない。

そもそもいつから熱があったんだ? 食事のときは普通だった。よく食べたし、笑ってもいた。いや、今だって笑ってる。ぐったりしているとか、ぜいぜい息をしているわけではない。異常に汗をかいていることと、熱があることを除けば、いつも通り元気な様子だ。

 それにしても何というタイミング。今日の検診では正常と判断されたばかりだったのに。いったい何が原因でこんなことになったのだろう。変わったことと言えば、ルイーズから貰ったアヒルを食後のデザートにかぶりついていたことぐらいか。他に思い当たる点はない。

 おれはポールをそっと起こし、「ちょっと病院に行ってくる」と告げた。

「病院?」目をこすりながらポール。

「アリスが熱を出してる。他の症状は見当たらないけど、かなり高熱だから医者にみせるよ」

 汗まみれの肌着を着替えさせ、万いち吐いてもいいように、身体をバスタオルで巻いて包んだ。アリスが離したがらないので、死にかけのクマも連れて行くことにする。既に両目がなくなっていた。有能な外科医が食べたのでなければいいが。

 タクシーを捕まえるべく大通りへと出たが、こんなときに限ってうまくいかない。酔っぱらい客を乗せたキャブは、無情にもおれたちの前を通り過ぎて行く。

 アリスはといえば、普段見る事のない街の明かりに興奮しているようで、手を叩いたり、奇声を発したり大喜び。具合が悪いはずなのに、やたらご機嫌だ。これは赤ん坊における一般的な反応だろうか? ダニエル父さんの育児書には、こんなことは書いてなかった。

 すぐにタクシーが捕まるだろうと思ってベビーカーを置いてきたのだが、どうやらそれは失敗だったらしい。人間の赤ん坊は見た目よりずっと重量がある。腕はとっくにしびれていて、こっちまで汗だくだ。おれが手にしている命はなんて重たいんだろう。

 歩き続けているうち、結局病院に着いてしまった。アリスは眠っているが、依然身体は熱いままだ。受付を済ませ、待ち合いの長椅子に腰を下ろす。時間は深夜2時を回っているが、病院は千客万来。目の前をストレッチャーが走り去り、腕にガラスの刺さった男が、おれたちの隣に座った。事故や事件の多いマンハッタン。どう見ても彼らが先なのはわかってる。でもこっちだって重病人だぞ。救急外来では子供の発熱は優先順位が低いかもしれないが、それにしても待たせ過ぎじゃないだろうか。いっそJFKから飛行機でキューバに飛んだ方が早いかも。

 アリスを抱いたまま、うつらうつらしていると、看護婦がおれの肩を叩いた。待ったのは三時間。そして診察は五分。アメリカの医療システムには明らかな問題点がある。マイケル・ムーアが〈シッコ2〉を撮るのであれば、おれはそれにゲスト出演してもいい。もちろんギャラはハリウッド価格だ。




 静かにドアを開け、音を立てないよう注意したつもりだったが、ポールはすぐに姿を現した。部屋着ではない普通の恰好をしているところを見ると、どうやら起きて待っていたようだ。

 彼は開口一番、「お医者さんは何だって?」と言った。

 おれはベビーベッドにアリスを寝かせ、「入院しなくても大丈夫だそうだ」と答える。

「他には?」

「こんなにタオルでぐるぐる巻きにするのは間違ってると言われた」

「それで?」

「マメに肌着を着替えさせるようにと」

「そうじゃなくて……」ポールの表情に一瞬、イラつきが現れたが、彼はすぐにそれを消し、「病状については何て言ってたの?」と訊いてきた。

「よくあることだそうだ。ウイルスや細菌が体に入って、赤ちゃんはそれと戦ってる。だから熱が出る。親からもらった免疫が切れてこうなったというので、有効期限は延長できないのかと訊いたら、笑われたよ」

「どんな処置を?」

「解熱剤。症状が変わるようならまた来いと言われた。あとは座薬とシロップの飲み薬をもらった」

 ポールはベビーベッドを覗き込み、「よく眠ってるね」と言った。

「疲れたんだろうな。ずいぶん長く待たされたし。軽めの睡眠導入剤をもらったけど、使わなくても済みそうだ」

 キッチンに移動し、ミネラルウォーターを飲む。ただの水なのに、胃に刺激を感じた。どうやら疲れているらしい。

「きみも寝た方がいいよ」とポール。

 おれは首を横に振った。「もうすぐ朝だ」

「少しでも眠っておいた方がいい」

「きみの方こそ」ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻す。「まさか起きて待ってるとは思わなかった。寝ていてくれて構わなかったのに」

 ポールは「だって心配だったから」と応える。

「そうだよな。ごめん」

「なにが?」

「こんな朝まで付き合わせて」

「別に付き合わされたわけじゃないよ」

「それでも……」

「ディーン」名前を呼んで、おれの言葉を遮るポール。「もう寝よう? きみは疲れてる。少しでも横になって、目を閉じていた方がいいから」

目を閉じる。ここで目を閉じたら、話し合う機会を失うことになる。これまでだってずっと目を閉じてきたのだから。

「なあ、ポール。聞いてほしいんだが……」

「明日にしようよ」

「このままスザナがあらわれなかったら……おれはアリスを育てるつもりだ」

「ひとりで?」

 おれが黙ったので、次の言葉はポールから発せられた。

「どうして“一緒に育てよう”って言ってくれないの?」

「これはおれの問題だ。きみに迷惑はかけられない」

「ぼくには関係ない?」

「そういう意味じゃ……」

「ディーン」おれの言葉はまたしても遮られ、ポールは穏やかに話し続ける。「ねえ、ぼくはいつもきみの力になりたいって思ってるんだ。どんなことにも例外なくね。そもそも“育てる”ってどうするの? 今現在、ぼくらは一緒に暮らしてるんだし、どっちにしてもぼくは手伝うことになるんじゃない?」

確かにそうだが、彼の言っていることは、ずいぶん奇麗ごとのように思えた。ポールは聖者ではないし、子供を育てるのは並大抵のことではない。犬や猫じゃないんだ。ここにいるから面倒みようだなんて、そんな簡単に決断できることじゃない。

「きみらしくないな」とおれは言う。

「何が?」

「いつもならもっと現実的な考え方をするはずだ」

「現実的って?」ポールは首を横に傾けた。「アリスを施設かどっかにやること?」

「そんなことは言ってない」

「じゃあ何?」

「きみは平気なのか? 本当にきみは平気なのか? おれが他の女に産ませた子供と一緒に暮らすことが? いつからきみはそんなマザーテレサみたいな性格になったんだ!?」

おれが声を荒げると、ポールも顔を紅潮させて叫んだ。

「そりゃ、ぼくだってきみとスザナのことは面白くないよ! 自分の彼氏が他の女と子供をつくって、愉快だって思えるわけない! でもだったらどうしろって?! アリスには何の罪もないんだ! 身勝手な大人の犠牲になってるだけで!」

 “身勝手な大人”という言葉が、おれの胸に刺さった。ポールの言う通りだ。今までの会話で唯一同意できる点だ。怒鳴られてむしろホッとしている自分に気づく。これはいつも通りのポール。ようやく本音をぶつけてくれた。

 しかし感情の吐露は一瞬。彼は息を吐き、うなだれ、それから顔を上げて、「怒鳴ってごめん」と言ったのだ。

 感情のゲージが一気に下がり、おれも彼に謝った。怒鳴り合うことは必要じゃない。必要なのは話し合うことだ。

 こうなってみて初めてわかる。おれもポールも、話し合うことを恐れていたのだと。何となく先延ばしにし、無意識に能天気に振る舞って。“もしものこと”を少しも考えないように。むしろそんなことはあり得ないかのように。『この赤ちゃんはいつかスザナに返す赤ちゃん』 そう思ってこれまで育児にあたってきた。だから何も不安はなかった。いや、不安など感じてないかのように、自分を騙していたのだ。だからおれたちは喧嘩をしない。この件で喧嘩をするということは、自分たちが事実、問題を抱えていることを、決定的に認めることになる。『赤ん坊がいるのは今だけだ。だから気楽にいこうじゃないか』 そうやっておれたちは何に目をつぶってきた? そこにはシビアな現実がいくつも転がっている。

「ポール、聞いてくれ。おれは考えたんだ。これからどうするべきなのか。それはやっぱりアリスを第一に考えなければならない。もしスザナがあらわれたら……おれは彼女と結婚する」

「きみはスザナを愛してない」

「ああ、そうさ。それでも……おれはアリスの……」

「まだ決まったわけじゃないよ」

「アリスの髪は黒い」

 おれはアリスのベビーベッドを見た。子馬がデザインされたベッド。ほんの数週間前までは、こんなものはリビングになかった。

「スザナは金髪だ。黒髪じゃないんだ。子供には両親が必要なんだ」

「両親がいなくても子供は立派に育つよ。きみがいい例だ」

「だからだよ、ポール。おれはアリスに寂しい思いをさせたくはない。彼女にはおれが必要なんだ。それに……スザナのことも、努力すれば……きっと……」

 おれは語尾をうやむやにした。馬鹿なことを言っているのは自分でもわかっている。さきほど、おれはポールの発言を奇麗ごとだと思ったが、今おれが言っているのは、奇麗ごとを遥かに越えたファンタジーだ。現実的なところは少しもなく、滑稽にすら聞こえるだろう。

 めちゃくちゃなこと言うおれに、ポールは怒り出すでもなく、「ぼくたち、ちょっと落ち着いた方がいい」と意見を述べた。「だってこれはすぐに結論の出せる問題ではないと思うんだ。スザナにだって考える余地はあるわけだしね。とにかくきみの決意はわかった。今後のことについては今のところ……保留にしようよ」

 なだめるような口調。これもいつも通りの彼。とても現実的な考え方をするポールだ。

 おれの出した信じ難い提案に、彼が怒り出さないのは、おれが混乱しているからだろう。こっちの決意を尊重しているふりはしているが、実際それが現実的ではないことを見抜いている。だから『保留にしよう』と言ってくれた。言い換えれば、『もっと落ち着いたときに話し合おう』と。

 おれは気が動転していて、正常な判断が下せない状態だ。それでもおれは何か言いたかった。アリスのために、母親に捨てられた彼女のために、何かマトモなことを提案してやりたかった。誰かがきみを大切に思っているのだと。おれが言いたかったのは、それだけなんだ。




 仕事の合間にも、おれはアリスのことを考えている。

 小型のビデオカメラをベビーベッドに設置して、インターネットで中継できるようにしようか。それなら会社からでも様子を見ることができる。ベビーシッターがよくやってくれているのはわかっているが、長い時間離れていると、とにかくやたら気にかかる。家に赤ちゃんがいて気にならないって人はいないはずで、この件では“自分が親かどうか”って話は、また別問題だ。

 定時で仕事を切り上げ、早足で家へと向かう。マンハッタンでは誰もが急いでいるから、競歩の速度で地下鉄を歩いていても、特に目立つということはない。スーツ姿の男が街を走っていたら、それは“会議に遅れそう”とか、“突然、取引先に呼び出された”とかいうシチュエーションを想像するが、実際のところ、“ただ単に早く家へ帰りたい”という場合だってあるかもしれない。

 別に急ぐことはない。今日はポールがアリスを見ていてくれている。だから何も問題はない。でもおれは急いでる。自分でもなぜだかわからない。




 アパートメントの前にNYPDと書かれた車が停まっている。それだけで、誰がここに来たのか、おれは瞬時に理解した。

 エントランスに居たのはコールドバーグ刑事。そして懐かしいスザナの姿があった。長かった髪は肩まで短く切られていたが、顔かたちは以前と変わってはいない。疲れた様子は見えるものの、美しいままだった。

 コールドバーグは「たった今、あなたに電話をかけていたところでした」と携帯をしまい、「彼女がそうですね?」と短い言葉で確認を要してきた。

 スザナは苦いものでも口に含んでいるような顔でこちらを見ている。何か言わなければとおれは思ったが、すぐに言葉が出て来ない。

「ディーン……わたし……」

 彼女がか細く声を発したのと同時に、おれは「スザナ」と言っていた。この名前を呼ぶのは、ものすごく久しぶりだ。スザナはそのことに気づいているだろうか。

「ディーン、聞いて」

「いや、待ってくれ、おれに先に言わせてくれ」遮り、言葉を続ける。「おれは子供の父親で、それについて果たすべき責任と義務が……」

「あなたの子じゃないの」

 ───なんだって?

 おれが黙ると、彼女は「ごめんなさい」と謝った。「わたし、あなたに嘘をついたわ。あの子はあなたの子じゃないの」

「どういうことだ? だっておれたち……」

「あなたと同じ時期に、わたしは別の男性ともつき合っていたのよ」

 スザナは再び「ごめんなさい」と言い、それから静かに話し始めた。

「妊娠して、どっちの子供かはすぐにわかったの。もうひとりの彼は避妊するのを嫌がっていたから。赤ちゃんができたことを告げたらそいつは言ったわ“堕せ”って。でもわたしは堕したくなかった。だから産んだ。ひとりで育てる覚悟を決めてはいたけど……あなたの子供だったらよかったのにって思ったりもしたわ……」苦い笑みを浮かべるが、すぐにそこから笑みを消し、後には“苦さ”だけを残して、「あなたにとても迷惑をかけてしまった」とスザナは言った。「あのときのわたしの精神状態は普通じゃなかった。でももう二度と子供を手放したりしない。離れてみて、娘がかけがえのない存在だって、心の底から感じたの。わたしを最低の母親と思うかもしれないけど、これが本心よ。どうか信じて」

 今ここで彼女が語った言葉。それのどこに、嘘を見つけることができるだろう。スザナの目には後悔と真実とが、ない混ぜになって宿っていた。

 たったひとりで出産を経験した母親。それはどんなに寂しく、辛かったことだろう。誰も頼れず、ひとりで子供を育てる日々。育児がいかに大変か、今のおれにはほんの少しわかってしまった。だからといって彼女のしたことは正当化できない。しかしそれを裁く権利はおれにはないのだ。

「まずは警察が身柄を預かることになります」権利の代理人であるコールドバーグが発言した。「その際は子供も一緒にですが、問題ありと判断された場合は、即刻、法的な処置をおこないます」

 異議なしだ。あとは法律がアリスを守ってくれる。おれにはなんの権利も責任もない。異議の申し立てすらも。アリスとおれとはアカの他人だったのだから。

 エレベーターホールから、ポールがベビーカーを押してやってきた。アリスはぐっすり眠っていて、来たときと同じ服を着、同じ上掛けに包まれている。

「ああ……ママによく顔を見せて」

 スザナはしゃがみ込み、愛しそうに娘の両頬を撫でた。彼女の目から涙が溢れる。ポールは一瞬、おれを見て、それから母子に視線を移す。

 スザナは涙を拭い、「元気そうで嬉しい」と泣き笑いの表情を見せた。「とても顔色がいいもの」

「さっきプリンを食べたから」とポールが応える。

「あなたが?」

「うん」

「大切にしてもらっていたのね、キャサリン」

“キャサリン”───そうか、アリスはキャサリンというのか。

「いい名前だ」とおれがつぶやくと、スザナは「あなたはなんて呼んでいたの?」と聞く。

「べつに……ただベイビーと」

「そう」

 頬に涙の痕はあるが、受け答えはしっかりしている。さきほどまでの暗い表情はどこにも見当たらず、おれの知っている彼女に戻りつつある。スザナは責任感のある女性で、おれはそれを知っていた。すぐに戻ってくると最初の段階で予測してたじゃないか。それにコールドバーグも。『こういうケースはよくある。母親はきっとすぐに戻ってくるだろう』と言っていた。彼の勘は見事に当たった。もしかしたらジョシュアは、有能な警官なのかもしれない。

 スザナはひとりぼっちで悩み、苦しみ、そしておれのところに娘を“預けた”。それは間違った判断だったが、預け先は間違ってはいなかったのだ。

「キャサリン、ディーンにさよならを」

「起こさなくていいよ。一度起きると寝かせるのが大変だ」

「ええ、そうなの。よく知っているわね」

 もちろん知ってるとも。二度寝させるのは大変なことだ。食事させるのも大変。風呂に入れるのも大変。やっと大変から解放される。これでまた自分の時間が持てるんだ。

 スザナの娘は眠ったまま、エントランスを出ていった。




 部屋に戻り、おれは冷蔵庫からビールを取り出した。栓を開け、ソファに腰を下ろし、「よかった。ほっとしたよ」と、瓶のまま口をつける。

 ポールがおれの傍らに立った。おれは彼を見ないようにし、ビールをもう一口。うがい薬を含むように頬に溜めてから、ごくっと飲み下す。

「これでいいんだ」

「ディーン」

「“おわりよければすべてよし”ってことだな」

 テレビのリモコンに手を伸ばす。それを掴む前に、ポールの手がおれの手に触れた。触れられたとたん、目から悲しみが溢れ出そうになった。

「ポール……」

「うん」

「おれたちの天使がいなくなってしまったよ……」

 おれは座ったまま、ポールの腕に顔を押しつけた。

 これは悲しむべきことではない。ものごとはあるべき形に納まった。アリス……キャサリンは肉親の元に帰った。これ以上ベストなことはないはずだ。

 そう自分に言い聞かせて顔を上げ、おれは思わず息を飲んだ。ポールが泣いている。彼は無言で、ただポロポロと目から涙をこぼしていた。

 悲しんでいるおれに同情したのだろうか? いや、そうじゃない。彼もまた、天使が去ってしまったことを寂しく感じているのだ。

 なぜポールがおれに怒らなかったのか。その理由が今になって、何となくわかったような気がする。赤ん坊がいる間、ポールは優しい気持ちになっていた。彼は心のどこかで、このハプニングを歓迎していたのかもしれない。パートナーと共に子供を育てること。愛なる存在を育むことを、彼は幸福に感じていたのではないだろうか。

 男にも母性本能はある。今、おれたちが悲しみにくれているのがその証拠だ。天使を失った喪失感。それについて、ダニエル父さんはページを割いてはいなかった。マニュアルなどには載せきれないほど、人生にはさまざまな出来事が起こりうる。今回の件は、なかでもとびきりに変わっていた。うちに天使が来て、そして去っていったのだ。まるで不思議な夢でも見ていたかのよう。リビングあるベビーベッドが、夢と現実の区別をつけることに、かろうじて役に立っていた。




「こちらは地球管制塔。ディーン少佐。応答せよ」

 突然、耳元で男の声がし、驚き飛び起きる。

「マンハッタンは晴天なり。ディーン、起きてる?」

 見ると、枕元でベビーモニターが喋っていた。ポールだ。いつここに子機を持ってきたんだ?

「起きてるよ」と返事をしてから気がついた。このマシン、相手側には通話できないんだっけ。

 それでもポールは、まるで聞こえているかのようにくすりと笑い、「起こしてごめん」と言った。

「ディーン、あの本の最後のページを見て」

「あの本?」

「もう一度言うよ。あの本の最後のページを見て」

 それを最後に通信は切れた。

 “あの本”。どの本かはすぐにわかった。ホームズでなくとも謎解きは簡単。恋人同士であれば簡単なことだ。

 おれはベッドから起き出し、机の上に置きっぱなしの、《ダニエル父さんの育児マニュアル》を手に取る。最後のページを開くと、そこには手書きのメッセージが、青いインクで書かれていた。


 《エンジェル 去りし後》

  天使はきみのことを忘れてしまうかもしれないが、

  きみは天使のことを忘れはしない。

  きみは愛を失ったのではない。

  天使によってそれを得たのだ。

  案ずることなかれ。

  きみの心のなかに天使は住んでいる。

  彼女から貰った愛をこれからも育み続けようではないか!

  ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー!xxx



 本を閉じ、部屋を出ると、ポールはキッチンにいて、朝のコーヒーを淹れているところだった。

 おれは彼に歩み寄る。恋人は穏やかに微笑んだ。おれは優しく彼を抱きしめる。彼もまたおれを抱きしめ返す。おれたちはそうして、しばらく互いを抱いていた。

 天使が去ったとき、おれたちは共に悲しんだ。共に悲しみ、共に喜び、ありとあらゆる局面を乗り越えて。真に助けになるのは育児書ではない。互いを助けようとする想いこそ、なにより相手の救いになる。おれたちは天使を助けようと、できる限りのことをした。そしてそれは間違いなく幸福なこと。目に見えない愛というものを心に育て、ただ毎日を生きてゆく。

 おれとポールは同じ家に住み、愛し、助け合う間柄。人はそれを“家族”と呼ぶのだ。


END

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