番外編:運命の相手(Future Lovers)

 劇場のロビーはシーンと静まり返っている。ときどき漏れ聞こえてくる歓声は、防音の扉に阻まれ、こもった音に変化する。クリスマス・イブで観客は満員。でもロビーには誰もいない。暇そうな売店の親父と、舞台に飽きて席を離れたおれがいるだけだ。

 今夜、この劇場にはミュージカルを見に来た。でも言っとくけど、これはおれのシュミじゃない。九つ年上の姉のアイリーンは、今ミュージカルにハマってる。別に来たくもなかったけど、ママが三人分のチケットを買ってしまったのだから、付き合わないわけにはいかないんだ。

「いい舞台をいっぱい見ておけば、おのずと目が肥えてくるわよ」とアイリーンは言うが、おれは別に“肥えたい”と思ってるわけじゃないし、中世の衣装や、歌いながらしゃべる役者に興味もない。かつて姉はおれにバレエを習うことを強制したこともある。少し教室に通ったけど、男の生徒はおれだけだった。そりゃそうだ。男でバレエなんて絶対に変だもの。しかしアイリーンは「それは偏見よ」と解説する。「趣味や教養で男女の区別をつけるなんて、そんなの時代遅れ。それに将来には、男がバレエしたところで珍しくもなんともなくなるでしょう。だから今からやっておけば先駆者になれるのよ」

 だからといって、弟にタイツとポワントをはかせるって? まったくもう、冗談じゃない。だいたいおれはまだ10歳。将来のことなんてどうだっていいし、考えたこともない。大人になったら自分が何になりたいかとか、そういうのはもっとずっとずっと後になってから決めることだし、そもそも姉が口出しすることでもないと思う。

 舞台が終わるまで、あと一時間以上。ロビーのソファで時間をつぶすにはちょっと長過ぎる感じだ。漫画本でも持ってくればよかったな……。そういえば、ロビーの角にガムボールマシンがあったっけ。お金ならポケットに入ってる。ガムを買うくらいはあるはずだ。

 ガムボールマシンの前には人がいた。誰もいないかと思ったのに。それはおれと同じ年くらいの男の子。じっとマシンを見つめて立ち尽くしている。

 おれは彼の後ろで順番を待ったが、どういうわけだかこの子はいつまでたっても動かない。そこで「どうしたの?」と声をかけてみた。彼は振り返り、「これ壊れてる」と言う。「さっきお金を入れてみたけど、ガムが出て来なくって」

「返却レバーは?」

「やったけど駄目みたい。きっと詰まってるんだね」

 男の子は肩をすくめ、「もういいや」と言って、歩き出そうとした。

「え、ちょっと待ちなよ。お金、返してもらわないの?」

「いいよ。どうせ50セントぽっちだし」彼はまた肩をすくめた。

「でもさ、そんなのフェアじゃないだろ」おれは覚えたての単語を使った。“フェアじゃない”は、ここ最近気に入ってるフレーズだ。「“ぽっち”でも返してもらうのが筋だ」そして、売店に駆け寄り、ぼんやり店番をしている男に訴える。

「ちょっと、おじさん。あの機械壊れてるよ。ガムも出てこないし、コインも戻ってこないんだ」

 口ヒゲを生やした男は、「なんだ?」と、雑誌から目を離した。

「だから! あそこにあるガムボールマシンが壊れてるって言ってるの!」そう怒鳴ると、彼はいかにもめんどくさいって感じでカウンターから出て来た。ガムボールマシンの返却レバーを回したり、ゆすったりして、最後に「ああ、こりゃ駄目だな」と独り言。

「いくら入れた?」

「50セント」

「じゃあ、ほら」ヒゲ男はポケットから50セント玉を出して、おれに握らせた。「すまんな坊や。ガムはよそで買ってくれ」

 役立たずの店員が去ったところで、おれは男の子にお金を返した。彼は受け取るときに「ありがとう」と言い、「きみ、すごいね」と続けた。

「すごい?」

「ちゃんとそういうの言えるんだね。ぼくはああいうふうに大人に言えないから。きみがいなかったら50セント損してたよ」

「もしおれがきみの前に並んでたら、おれの金が詰まってたんだ。どっちが文句言っても同じことだよ」

「ありがとう」彼はもう一度、礼を言い、「よかったらコーラでもどう?」と申し出る。「さっきのお礼に、ぼくが奢るよ」

 それはずいぶん大人っぽい誘い文句に思えた。おれは人に飲み物を奢ったことなんて、今まで一度だってない。50セントを“ぽっち”って言うからには、彼は金持ちの家の子なのかもしれない。ブロンドの髪はふあふあで、なんとなくリッチな雰囲気だ。

「あ、でもきみ席に戻る? よね?」彼はちょっと心配そうな顔でそう訊ねた。

「いや、おれは追い出されたんだ。“椅子の上でモゾモゾするんじゃありません。大人しくできないのならロビーに出てなさい”って」

「誰? きみのママ?」

「そう。ママと姉き。おれは来たくなかったのに、無理矢理つれてこられた。ミュージカルなんか本当は興味ないんだけど」

「ぼくもさ」

「きみもママと?」

「うん」

「ミュージカル好きの家族ってほんと迷惑だよな」

「ぼくのママは別にミュージカル好きじゃないんだけどね。舞台にママのボーイフレンドが出てるんだ。それでチケットを貰ったんだって」

「出てる? 出演者ってこと?」

「そう」

「それってすごくない?」

「よくわかんない。別にすごくないんじゃない? 主役とかじゃないし」

「知り合いが出てるのに見なくていいの」

「別にいいんだ」

「ママのボーイフレンドって、きみのお父さんってことじゃないの?」

「ううん、ちがう。ね、コーラ奢るよ。どっか座ろう。さっき外で漫画買ったんだ。見る?」

「何?」

「ええと……なんだっけ」彼はコミックの表紙を確認し、読み上げた。「“マーベル・チームアップ──スパイダーマン&ゴーストライダーの巻”」

「ああ、それすごいな!」

「座ろうよ」



 おれたちは通路のソファに並んで座り、ふたりで一緒に漫画を読んだ。彼は普段めったに漫画を読まないそうで、マーベルのコミックにはあまり詳しくはなかった。おれがゴーストライダーの生い立ちを説明して聞かせると、とても興味深そうに耳を傾けてくれた。

 漫画は楽しいけど、ページ数が少ないのがたまにキズ。あとは女みたいにおしゃべりでもするしかない。

「トロントってどんなとこ?」とおれは聞いた。彼の家はカナダのトロントで、今はホテルに泊ってるのだと言う。「カナダには面白い遊園地とかある?」

「さあね、ぼくもまだよく知らない。半年前に引っ越してきたばっかりだから」

「そうなんだ。じゃあ遊園地はこれからか」

「遊園地には行かないだろうな。来年はまた引っ越すかもだから」

「半年しか住んでないのにもう引っ越し? きみのママ、ずいぶん忙しいんだね」

 おれがそう言うと、彼はソファから降り、「ちょっと待ってて」と、どこかへ消えた。それがあんまり唐突だったので、自分が何か気に触ることでも言ったかと心配になった。でも漫画はここに置きっぱなしだし、戻ってこないってことはないはずだ。

 しばらくすると、彼はポップコーンのバケツを持って戻ってきた。サイズはラージ。つまり一番高いやつ。

 おれはびっくりして、「なんでそんなにお金もってんの?」と思わず口走っていた。「もしかしてきみんちって金持ち?」

 すると彼は「ぜんぜん金持ちじゃないよ」と笑って答える。金持ちじゃなかったら何なのかは言わなかった。

 彼はポップコーンを少し食べ、「もういらない」と顔をしかめた。おれもまったく同じ気持ちだ。ポップコーンはしけていた。せっかくのラージサイズ、こんなものに金を払ってしまったなんてもったいない。

「ガムは出ないし、ポップコーンはまずい。ここの劇場って最悪だな」おれが率直な感想を述べると、彼も残念そうに「最悪」と言う。せっかくカナダから来たのに、これじゃニューヨークの印象も最悪だろうな。おれのホームタウンは、こんなシケたポップコーンみたいんじゃないのに。

 彼は足をぶらぶらさせ、「もう漫画も読んじゃったし、やることないね」と、つぶやいた。おれはそれを受け、あるひとつの提案をする。

「じゃあさ、外に行かないか?」

「え?」

「この上演が終わるまであと二時間はあるだろ? それまでに戻ってくればいい。こんなチャンスめったにないよ」

 うん、これは我ながらいいアイディアだ。ここにはママもアイリーンもいない。おれたちは今、完全に自由。しかも夜のマンハッタンだ。きっと、いや、ぜったいに楽しいに決まってる。

「行こうぜ」おれは彼の手を掴んで、立ち上がった。

「でも……」

「大丈夫。おれは産まれたときからこの街に住んでるんだ。迷子になったりなんかしないよ」

 彼は何度か瞬きをし、(今気がついたけど、この子の目はすごくきれいなブルーなんだ!)どうしようかと考えているようだった。

 おれはもう一度「大丈夫」と言った。「ほんとさ、大丈夫。おれの言うこと、信用できない?」

 すると彼は「ううん」と首を横に振った。「信用するよ。うん、わかった。連れていって」

「そうこなくちゃ! よし、行こう!」

 おれは彼と手をつないだまま、小走りでロビーを通り抜けた。新しい友達と夜の街。これでワクワクしないわけない。




 マフラーと帽子は劇場に置いてきてしまった。でもいいや、あれはもうおれには似合ってない。子供っぽいデザインだし、むしろ今、彼に見られなくてよかったくらいだ。

 吹きつける風は冷たくて、ポケットには小銭しかないけれど、こうして歩いてるだけで楽しい気分だ。さて、これからどこに繰り出そうか。FAOシュワルツはもう閉まっているし、ロックフェラーセンターのツリーを見せてあげたいけど、行って戻って来るだけで時間いっぱいだ。ゲームセンターに入りたいけど、きっと年上の奴らが占拠してる。夜、子供だけで行くのは絶対に危ないだろうな。

 おれがあれこれ考えていると、彼がぽつり、「なんかもう……」とつぶやき、それからくすくすと笑いす。

「なに? なんかおもしろいもんあった?」

「ううん、そうじゃない。思い出し笑いしただけ。ね、きみってほんとすごいな。“気分が悪くて外の空気を吸いたい”……だなんてさ。あんなのよく思いついたね」

 それは劇場から外に出るとき、おれがした“言い訳”。あそこから一歩、外に出てしまったら、もう二度と再入場することはできない。おれたちは上演が終わるまでに、またあのロビーに戻らなくてはいけないから、それにはなにかうまい“説明”が必要だった。親切なもぎりのお姉さんは、「遠くまで行っちゃ駄目よ」と親切に忠告。妙ちきなミュージカルに酔って具合が悪くなった子供たちを、自由の身にしてくれたんだ。

「“マンハッタンで生きるには賢くいなさい”っていつもママが言うんだ」おれはママの台詞を彼に言って聞かせた。「“この世の中はずる賢い人がいっぱいいるの。だからぼさっとしてちゃ駄目よ。いつもおりこうさんでいて、しっかりした行動をなさい”ってね」

「それで“子供だけで夜の街に出よう”なんて、ずる賢いこと思いつくんだ」

「ずる賢いかな?」

「“気分が悪くて”ってのは嘘でしょ?」

「まあね、でもいいじゃん。こうして外に出られた。楽しくない?」

「うん、楽しい」

 彼がにっこりしたので、おれもつられてちょっと笑った。

「さてと、どこに行きたい?」

「ぼくはこの街、初めてだからわからないな。きみが案内してくれないと」

 それもそうだ。じゃあ、おれからの提案は……「なあ、あそこのバーに入れると思う?」赤いネオンサインと赤いドアの店を指してそう言うと、彼は目を丸くして、「ええっ?」と声を上げた。それから一拍おいて、「無理じゃない?」と冷静な反応。

「無理かな?」

「だって子供だよ? 例えIDを偽造しても、ひと目で10歳だってわかっちゃう」

「別に酒を飲もうってんじゃないんだ。ただちょっと見てみたい。店の中がどんな風になってるのか。どんな人が飲みに来てるのか」

 そこまで言って、おれは彼の返事を待たずに歩き出した。店の壁は落書きだらけ。窓には紙がベタベタ貼ってあって、店内の様子を見ることはできない。おれはドアを開け、中に首を突っ込んだ。

 見えたのはずらりと並んだ男の背中。皆、カウンターの方を向いて、酒を飲んでいる。入り口の方を振り向く客は誰ひとりとしていない。

「テレビで見るのとおんなじだな……」

 目を細め、店内を見回す。明かりはわざと暗くしてあるらしい。これなら潜り込んでもわからないかもしれない……と、思った途端、「こらっ!」と、怒鳴る声が耳に飛び込んできた。

「おい、ガキども。おまえらいくつだ?」

 腕組みをしておれたちを見下ろすのは、汚れたエプロンに、チェックの半袖シャツをコーディネートした男。半袖だって? 今の季節を考えたことある?

「えーと……いくつに見える?」おれは軽く首をかしげた。

「さあな。まあ、ハタチには見えん」

「あ、それは正解」

「あと十年してから来い」

 男はおれたちを押し出し、ドアを閉めようとした。

「ちょっと待って、あのさ、中にぼくたちのパパがいるんだ」

「パパ?」濃い眉をしかめる男。

「そうだよ」おれは頷いた。

「わかった。親父さんの名前は何て言うんだ? 探してやるから、名前を教えろ」

「J・ジョナ・ジェイムソン」

「よし、ちょっと待っとけ」

 半袖男がいなくなったので、おれたちはようやく店の中へと入ることができた。

「座ろうぜ」とカウンターのスツールに飛び乗る。何か注文したいけど、さすがにそれは無理だろうな。そもそも50セントで何が食べられる?

「何か注文できたらいいのに」と彼が言う。「でも無理だよね」おれたち、また同じことを考えていた。なんだかずいぶんタイミングが合うみたいだ。

 おれはカウンターに肘をつき、手で顔を支えてみる。こういうの一度やってみたかったんだ。隣の席の男がこっちを見たので、そのままのポーズで「やあ」と挨拶。そいつはヘンな顔をして、すぐに顔をそらした。

 トントンと肩を叩かれ振り向くと、さっきの男がそこにいた。

「J・ジョナ・ジェイムソンとやらは来てないとさ」

 おれはスツールから下りず、「たぶん偽名を使ってるんだ」と肩をすくめた。「ぼくらが迎えに来るのがわかってるから。飲み過ぎていつもママに叱られるんだよ」

「おれはおまえたちを追い出さないと、オーナーに叱られる。さあ、とっとと出て行くんだ」

 ぽいっと外に放り出されると、風の冷たさが身にしみた。なんだかさっきよりずっと寒くなったみたいだ。

「もっと長く居られるかと思ったけどな……寒くない?」そう聞くと、彼の答えは予想通り。「寒い」

「だよな。これだったら劇場のロビーにいた方がよかったかもな」

「ううん、そんなことない。確かに寒いは寒いけど、ぼくはぜんぜん平気だし」彼は前を向いたまま、明るい口調でそう言った。「それにニューヨークの街をちゃんと見たのって初めてだしね。こういうの、すごく楽しいよ」

 楽しいって? 真冬の街をただうろついて、バーから追い出されるのが? 彼はもしかして、おれに気を遣ってくれているんだろうか。

「ねえ、きみのお父さん、デイリー・ビューグルの編集長じゃないだろ」歩きながら、目を三日月型にする彼。「本当は何て言うの? お父さんの名前は?」(※デイリー・ビューグルの編集長=漫画スパイダーマンの登場人物、通称JJJ)

「ええっと……なんだっけ」おれが考え込むと、彼は「え?」と、不思議そうな顔をした。

「おれ、父親いないんだよ。おれが生まれる前に死んだんだって」

「そうなんだ、ごめんね」

「別に。大したことじゃないし」

「うちも似たような感じだよ。父親はいない。ぼくが生まれる前に離婚してるとか、そもそも結婚してなかったみたいで」

 ああ、そうだったのか。だから“ママのボーイフレンド”ってことなのか。

「じゃあ、今のママのボーイフレンドが、将来きみのパパになるわけ?」

「どうかな……ママはこれまでに何人も恋人を作ったけど、だからってぼくのパパだってわけじゃないし。でも今回のが長続きすればそうなるかもね」

「へえ……」

「きみのママにもボーイフレンドが?」

「うちのママはそんなのいない。“もう男は真っ平”とか言ってるし」

「じゃ、きみのママはどうやって稼いでるの?」

「親戚の店で働いてるんだ。アンティークショップで店員をやってる。きみんちは?」

「うちはいつも彼氏がなんとかしてくれてるみたい。ママはめったなことじゃ働かないよ」

「働かなくてもお金が入るなんていいな」

「そうでもないよ。ママのボーイフレンドが変わるたびに、ぼくらは引っ越さなきゃならなくなる。きみんちみたく、誰の世話にもならないで自分で働けるほうが、ぼくはいいと思うな」

「そうかな」

「そうだよ」

「ねえ、じゃさ、もしあのミュージカルの彼氏がきみのママと長続きしたら、きみはニューヨークに住むわけ?」

「多分そうなるだろうね」

「そしたらいいな」

「なんで」

「だってまた一緒に遊んだりできるじゃん。これきりじゃなくて」

 郵便ポストの脇には雪が積もっている。溶け残ったそれを、おれは足でキックした。この行動にあまり意味はない。ただ雪を見ると蹴りたくなるだけだ。

「……きみ、変わってるね」と彼。

「変わってる?」雪をキックしたのはガキっぽかったか、やっぱり。「雪を見ると蹴りたくならない?」

「そうじゃなくて」ぴたり、と彼は立ち止まった。上着のポケットに両手を入れ、少し上目遣いでおれを見る。

「“また一緒に遊んだり”なんてさ。会ったばかりでぼくのことなんにも知らないのに。ぼくがすごい嫌な奴かもしれないのに。そういうのちっとも知らないじゃない?」

「嫌な奴かどうかなんてすぐわかるだろ」おれはまた雪を蹴った。今日は寒いから、氷みたいに固くなってる。これを崩すのがまたいいんだ。

「ぼくがおかしな趣味を持ってるかもよ。蜘蛛を飼ってるとか」

「飼ってるの」もう一度キック。敵はなかなか手強い。

「飼ってないけど」

「じゃ、ふつうだ」ひときわ強く蹴ってみる。ポストが揺れて雪が割れた。やった、おれの勝利。雪、弱い。

 闘いの余韻に酔いしれていると、どこからか『もろびとこぞりて』の歌声が聞こえてくる。声の方を見ると、消火栓に腰を下ろしたおばあさんが、『クリスマスのおめぐみを』と書かれた、段ボールの切れっ端を掲げ、歌をうたっていた。その声はざらざらしていて、とてもお金を貰えるようなレベルじゃない。それでも彼女は歌うしかないんだろう。

「ホームレスの人、マンハッタンはすごく多いんだね」彼はおばあさんを見て、そうつぶやいた。

「カナダにはいない?」

「あんまり……」おばあさんから視線を外そうとしない彼に、おれは「怖がることないよ」と言った。「恰好はボロボロだけど、別におかしな人じゃない」

「怖がってはいないよ」と彼。「ただ……かわいそうだなって……」

 “かわいそう”───そういえば、おれも昔はそう思っていたっけ。少ない小遣いを物乞いの人にやったこともあった。それがいつもまにか“慣れっこ”になっちゃって、ホームレスを見ても何とも思わなくなってしまった。おれが物乞いに金をやった話を、クラスメートのトムにしたところ、あいつおれに「ばかじゃねぇ?」と言ったんだ。「ああいう奴らは政府から援助を貰えるんだよ。それなりの施設に行けば、おれたちの昼飯よりもずっとマシなもんを食えるんだぜ? そんなことも知らないで金を巻き上げられるなんて、間抜けもいいとこだ」

 おれは“巻き上げられた”とは思っていなかったが、“自分は間抜けなのかもしれない”とは思い始めていた。ママだっていつも言ってる。『マンハッタンで生きるには賢くいなさい』『この世の中はずる賢い人がいっぱいいるの』『おりこうさんでいて、しっかりした行動をなさい』……おれはそうしているつもりだったけど。でもさっきは彼に何て言われた?『“子供だけで夜の街に出よう”なんて、ずる賢いこと思いつくんだ』……おれは『この世の中はいっぱいいる“ずる賢い人”』になっちゃってるんだろうか……。

「どうしたの? 急に静かになっちゃって?」

 我に返ると、彼がおれの顔を覗き込んでいた。やばい、なんかボーッとしてたらしい。この街で夜ボーッとするのは、けっこう危険なんだよな。

「なんでもない」おれは顔を上げ、気を取り直して歩き出す。彼も後ろから着いてきたが、突然「あっ!」と声を上げた。

「なに!? どうした!?」叫び声に驚き、おれも大声を張り上げる。

「今そこに猫がいた!」と彼。

「まじ? どこに?」

「あっちの路地に入っていったよ」

「ほんとに猫? ドブネズミじゃなくて?」

「だって大きさが」

「マンハッタンにはチワワくらいのネズミがいるんだよ」

「うそ!」

「嘘じゃない。おれは見たことある。おれの同級生のビムも、おれのママも見たことある」

「なにそれ、ミュータント?」

「かもな。どっちに行ったって?」

「あっちの路地」

 おれたちはメインストリートから外れ、細い裏通りに入っていった。路地はビルとビルの間で日陰になっているため、雪が多く残っている。靴下を履いていない野良猫は、全員凍傷になってしまうかも。

「猫……いないな」

 凍った地面は墨を流したみたいに暗い。ナイフを持ったブギーマンが飛び出してきてもおかしくはない状況。なんだかちょっと怖くなってきた。

「今の──聞こえた?」と、目を細める彼。

「今のって?」質問した矢先、おれの耳にも聞こえた。それは仔猫のような声だった。

「やっぱり猫だよ」彼がそう言うので、おれはドブネズミの説を諦める。もちろんその方がいい。こんな暗い路地でチワワほどもあるドブネズミと遭遇するより、かわいい仔猫を見つけるほうがずっと楽しいわけだし。

「あっちの道かも」彼が走り出したので、おれも後を追い、「先に猫を見つけた方が10ポイントだ!」とルールを決める。

「オーケー! じゃあドブネズミは?」

「普通のは5ポイント。チワワサイズは50ポイントだ!」

「わかった! ぜったいに見つけてみせる!」

「おれだって! きみより先に見つけるからな!」

 おれたちは走った。笑いながら走った。何が可笑しいのかはわからなかったが、どういうわけだか笑いがとまらない。それは彼も同じようだった。

 ひとつの角を曲がったところで、おれたちは同時に発見した。それは猫でもドブネズミでもなく───サテンのドレスを着た女と、フロックコートの男。彼らはしっかりと抱き合い、キスをしている。なんじゃこりゃ。

 招かれざる客──しかも子供の──到来に、ラブシーンを演ずる大人はびっくりして硬直していたが、それはこっちもまったく同じ。一瞬、四人は互いを見つめ合ったが、子供の方が先に行動を開始。コヨーテから逃げるロードランナーみたいに、ぴゅーっと走って、サテンとフロックコートを後にする。

 割れた植木鉢と、ブルーシートに包まれた粗大ゴミが並ぶ路地で、おれたちは転がるように座り込み、そしてまったく同じタイミングで叫んだ。

「見た!?」

 それからはもう大爆笑だった。

「信じられない! あいつらあんなところで!」

「きっとあれで隠れてるつもりなんだよ!」

「最悪! 大人って馬鹿だよな!」

「ほんと! みっともないったらないね!」

 おれはグラフティ(落書き)だらけのシャッターに背中をもたせかけ、「あいつら、商売女と客なんじゃないかな」と推測。「このあたりは女の人が働く店がいっぱいあるから。たぶんそれだよ」

 彼は「そっか……」とつぶやき、それから「女の人が働く店に興味とかある?」と聞いてきた。

「興味って……よくわからないよ。でも一度くらいは入ってはみたいかもな。さっきのバーと同じで入ったことないからさ。どんなかなって」

「ぼくは入ったことあるよ」彼はきっぱりとそう言った。「前にママがバイトしてたんだ。ウェイトレスだったけど、ときどきダンスのショウがあって……それで踊ったりもしてた」

「きみのママはダンサーなんだ? だから彼氏もミュージカル? きみもダンスを習ったりしてた?」

「ぼくはしない。ダンスは嫌いだ」

「おれもさ。前に無理矢理バレエを習わされたことがあったけど、すぐにやめてやった。今日のミュージカルだって」

「うん」

「別に好きで来たわけじゃない」

「ぼくもだよ。ダンスなんてどうでもいい。女の人が働く店にも興味ない。そういうところで踊る女の人も好きじゃない。そういう店に行きたいと思う男の人も好きじゃないよ」

 つまりそれは“そういう店のすべてが大嫌い”という意味だ。それにしても、“そういうところで踊る女の人も好きじゃない”ってのは、どうなんだろう。だって彼のママはダンサーなのに。

「きみは……おかあさんのこと好きじゃないの?」

「わからない」

 その答えは、おれをびっくりさせた。で、その“びっくり”が、たぶん顔に出ちゃったんだと思う。彼はあわてて、「いや、うん、そう、好きだよ。もちろん」と付け加えた。それから声のトーンを落とし、「でも……」と続ける。「ぼくのママは、ぼくよりもっと別の人のことが好きなんだよね。そういうのってなんかさ。つまんない」

「つまんない?」

「うん。つまんない。ぼくがママをいくら好きで、夜遅くまで待ってても、ママは帰ってこないんだ。ママはいつも他の人と一緒にいて、そっちの方が楽しくってさ……だからぼくはつまんない。それに無駄だよね。ママを待ってる時間がさ。だからそういうときは、ぼくにも誰がいたらいいなって思うよ」

「誰かって?」

「わかんないけど、誰か。ママに楽しい相手がいるようにさ、ぼくにも楽しい誰かいればいいって思う。そうすればぼくはママを待つ必要もないし、ママに待たされたからって腹を立てる必要もなくなるはずだし」

 それはかなりいいアイディアだとおれは思った。彼は本当にずいぶん頭がいい。

「でも……そういう相手が見つかるかどうかはわかんないけどね」と、彼はため息をつく。「ママは何人もの男に逃げられてる。“今回もミスター・ライトじゃなかった”とか言ってさ。(Mr. Right=自分にとって正しい相手。運命の人)。だから、そういう相手を探すのってすごく難しいことで、出会う確率もすごい低いんじゃないかって思うんだ」

 おれはこれまでそういうことを考えたことがなかった。彼はどうやら、いろいろなことを考えて生きている。大人っぽく見えるのは、そういう頭のよさから来るんだろうか。

「“ミスター・ライト”が見つかる確率ってどのくらいなんだろう?」と不安げに彼。「ぼくのそれがママよりも低かったらどうしようかな……」

「見つかるよ。きっと」

 おれがそう言うと、彼は聞こえなかったみたいに「えっ?」と言った。だからおれはもう一度、「見つかるよ」と繰り返す。「スパイダーマンにはMJがいるし、ハルクにだってベティー・ロスがいる。あんな緑色の化け物だって彼女がいるんだ。きみは見た目ふつうだし、蜘蛛も飼ってないし、たぶんずっと簡単に見つかるよ」

「でもそれは漫画の中のことだから」

「だからって現実的な話じゃないとは限らないだろ」

「うーん、どうかな」

「わかんないだろ」

「わかんないね」

 そして彼はニヤっと笑ってみせた。おれも同じようにニヤリとする。

「なあ、そういう相手を探すのは難しいってさっき言ってたけど、結構そうでもないかもしれないぜ? おれたち、ニューヨークとトロントに住んでて、通ってる学校だって違う。出会う可能性としてはすごい低いのにさ、でも出会ったわけだし」

「うん」

「確率とかそういうの関係ないんじゃないかな」

「かもしれないね」

「会うことになっている相手ってのは、きっともう生まれたときから決まってるんだよ」

「そうかも」

 本当は今の発言に根拠はない。ため息をつく彼の横顔が寂しそうに見えたから、何か言ってなぐさめたいと思っただけ。

 車の走る音が遠くに聞こえている。この辺りはとても静かだ。上を向くと、夜の空が見えた。建物に切り取られた藍色の空間。マンハッタンは明るくて、星なんかちっとも見えやしない。下を向くと、汚れた水たまり。非常灯の明かりが反射して、キラキラと光っている。夜空に星のない街。水たまりの方がずっときれいだなんて、おかしな話だ。きっとトロントの夜空には、星がいっぱいあるんだろうな……。

 ぼんやり考えごとをしていると、不意に彼が「さっきみたいのしたことある?」と言った。

「さっきみたいの?」

「キス」

「ああいうキスをしたことあるかって!? おえっ! あるわけないだろ! きみはどうなんだ? あるのか?」

「ないよ」

「だよな」

 彼が黙ったので、おれも黙った。一瞬の沈黙。そのとき───ブルーシートがガサッと音を立て動いた。驚きの悲鳴を上げなかったのは、ひとりじゃなかったからだ。それに、音の正体はすぐにわかった。

「うるさくて寝てられねえな……」

 ブルーシートの中から現れたのは、ひげもじゃの男。ニットの帽子からはみ出た髪はまっ白。長いひげも白い。着ているものがここまでみすぼらしくなければ、サンタクロースみたいだと思ったかも。ブルーシートを毛布にして、まるでベッドの上にいるかのように、上半身を起こして座っている。

「なんだ……子供か……」おれたちを眺め、「おまえら、ここで何してる? 迷子か?」と聞く。

「迷子じゃないよ」おれは答えた。「ちょっと休憩してるだけ」

「休憩か。うん、おれもだ」言ってニット帽の上からボリボリ頭をかき、「タバコ、持ってるか?」と聞く。

「持ってないよ。子供だもん」

「持ってないのか……」

 男はブルーシートを身体に巻き付け、固い地面にふたたび横になった。こんなところで寝たりして、凍死しないんだろうか。そもそもいつからここにいるんだろう。

 ひげもじゃサンタの側に移動し、シートを覗き込むと、ばっちり目が合った。

「なんだ?」言葉と一緒に、白い息が彼の口から出る。もちろんタバコの煙じゃない。おれはポケットから50セント硬貨を取り出し、差し出した。

 コインを見、彼は「はん?」と、目を眇める。

「あげるよ。50セントじゃタバコは買えないけど。今これしか持ってないから」

「金か……」

 彼は少し身体を起こしたが、手は出さず、「金は大事だ」と言った。「無駄遣いするんじゃない」

「無駄じゃないよ。おじさんにあげるんだ」

「しまっとけ」

 差し出す手をそっと押し返し、彼はブルーシートに潜った。おれは両手を身体の横にたらし、動かないシートを見つめている。

「ねえ……」と、指先に誰かが触れた。「そろそろ戻らないと……劇場に入れなくなる」

「うん」おれは振り向かず、頷いた。

「戻ろうよ」遠慮がちに触れた手は、おれの手よりも温かい。

 おれたちが歩き出すと、ブルーシートから声がした。

「いいクリスマスをな……」

 おれは返事をしなかった。声が出なかった。『あなたもいいクリスマスを』───そんな風に言えるわけがない。路地裏で迎えるクリスマス。それが“いいクリスマス”じゃないってことぐらい、10歳のおれでも理解できたから。




 来た道を戻る途中、彼は「出会う確率って不思議だな」とつぶやいた。「あの路地裏に入り込まなかったら、あのおじさんには会えなかった。あの人、やさしい人だよ。自分が困ってるのに、“いいクリスマスをな”だなんて」

「そうだな」

 この街にはああいう人がいっぱいいる。アイリーンは『レーガンのせいよ』なんて言ってるけど、おれにはよくわからない。レーガンがいなかったら、ああいう人がゼロになるのかどうかも、おれにはわからない。おれにわかったことは、この街にはホームレスがいっぱいだということ。それは普通にいい人で、寒いところで寝たり、タバコも買えなかったりするんだってこと。

「ぼく、ほんとはニューヨークには来たくなかったんだ」と彼が言う。「遠いし、飛行機に乗るのは好きじゃないし。でも来てみたら、いい人にふたりも会えたんだ」

「ふたり?」

「きみとあのおじさん。おかげですてきなホリディになった。来てよかった」

 それは大人みたいな言い方。こっちもクールに何か言いたかったけど、かっこいい台詞が思いつかない。『また遊ぼうな』ってのはガキっぽいし……でも、別に恰好つける必要なんかないじゃないか。どうしておれは、この子に“いい恰好しよう”としてるんだろ? さっきホームレスにお金をあげようとしたとき、おれはちょっと恰好つけたかったのかもしれない。ホームレスに親切にしてるってところを、彼に見せたかったのかも。でも結果的には恰好いいことにはならなかった。おれがやったのは余計なお世話だったわけだし……。

 劇場に着くと、エントランスからは人が溢れ出ていた。あんなちっぽけなシアターに、こんなにたくさんの客が入っていたなんて、まるで手品みたい。

「これじゃ、ママを探すのもひと苦労だな」

 しかしそんな心配はいらなかった。

「やっと見つけた!」

 雑踏から、空気を切り裂くような声。一瞬で身が縮むような声は、おれのママのものだ。

「あんたったら……いったい今までどこにいたの!? ずいぶん探したのよ!」

 遠くから叱るママ。人ごみに阻まれて、こっちに来ることができないようだ。このときおれの心にあったのは、『あ〜あ、またひどく怒られるぞ』ってこと。それ以外のことは何も考えてはいなかった。

「ちぇっ、戻らないと」

 おれがそうつぶやいたとき、別な叱り声が耳に届いた。

「ちょっと、あんた何やってんの!? その子は誰なの!?」

 反対側の雑踏から、知らない女の人がこっちを見ている。「ママだ」と彼がつぶやいた。やっぱりそうか。それにしても遠目でもわかるくらい、すごいきれいな人。うちのママよりずっと若いみたいだ。

『きみのママ、美人だな』と言おうと思ったところで、いきなり目の前が影になった。彼の顔が目の前に来て、少し触れて、それですぐに離れた。一瞬何が起きたのかわからなかったほど、それは素早く───何が起きたのかわかったときには、鬼がおれの襟首を掴んでいた。すごくおっかない顔して、「今度という今度はもう許さない!」と、おっかないことを言う。

「警察を呼ぼうかと思ったのよ!? いったい何を考えてるの!?」

「だって……たった一時間くらい……」

「外は危険だって知ってるでしょう!? 親が目を離した、たった十五分の隙に殺されてしまった子供だっているのよ!?」

 外は危険、警察、殺人、今度という今度はもう許さない。ママの説教はいつも恐ろしい単語のオンパレードだ。

「ママ、タクシーつかまえたわ」数メートル先からアイリーンが手を振っている。

「ほらっ、行くわよ。おしおきはおうちに帰ってからね」

 ママはおれの腕をぐいっと引っぱった。

「ちょっ……待ってよ、まだ……」

「早く!」癇癪もちのアイリーンが叫ぶ。「タクシーを待たせてあるのよ!」

 まったくもう、なんで女ってのはこんなにいちいち小うるさいんだろ。そのくせすぐに泣いたりするんだ。おれは大人になってもぜったいに女とは結婚しないからな!

 腕を掴むママの力はものすごくって、警官なんかいらないくらい。引っぱられながら人ごみを見回したけど、彼の姿はもうなかった。あっちもママに連行されたのか。せめてバイバイくらい言いたかった。探すのに名前を呼ぼうにも、おれはそれを知らないんだと今、気がついた。馬鹿じゃないのか。一時間以上も一緒にいたのに、相手の名前を聞き忘れたなんて。

 ───確率とか、そういうのは関係ない───

 さっき自分で言ったこと。おれはそれを信じるしかない。発言には何の根拠もないけど、それでも嘘はついてない。会うことになっている相手は、きっと生まれたときから決まってる。それが本当なら、きっとまた。いつかどこかで。

 信じれば願いは叶うって、誰が言ったっけ? サンタクロースの存在を信じる年は過ぎたけど、奇跡は起きないって決めつけるつもりはない。今夜はクリスマス・イブ。だから神サマ、いつかもう一度、おれの友達と再会させてください。そしたら真っ先にこう言うんだ。『きみの名前を教えてもらえる? おれの名前はディーン・ケリーって言うんだ」って……。




「……とまあ、そういう想い出があるんだよ、この劇場には」

 懐かしい子供時代の思い出話。クリスマス・イブに恋人に話して聞かせるにはぴったりのエピソードだ。おれはチケットの半券をポケットにしまい、手袋を脱いだ。売店はきれいに改装され、ガムボールマシンは撤去されている。

「だから、おれがホームレスにやたら小銭をやるのも、あのときの体験があったからだと思うんだよな……ええと、席はどこだっけ」一度しまった半券を取り出して見る。印刷がかすれてるのは今も昔も変わらない。

「ディーン……」

「ん?」

「あのさ……本気でボケてる? それともわざと?」ポールは妙に困ったような顔をして、そう言った。

「わざと?」

「うーん…何て言ったらいいか……」わずか思案し、それから「ぼくにもこの劇場にまつわる想い出はあるんだよね……」と告白する。

「へえ、どんな?」

「すごく素敵な思い出」

「聞かせてもらえる?」

「まさにこの場所だよ。このロビー。当時ぼくは10歳で、自分がちょっと変わってるってことに気がつきだした頃だった。つまり、“自分は女の子を好きになれないかも”って。それってやっぱり不安なことでね。何か悪いことをしているような気になったものさ」

「罪悪感みたいな?」

「そうだね……っていうか自己嫌悪? “だれも自分のことを愛してくれないんじゃないか”って。でもここで、ある男の子と出会って、自分を否定する気持ちが溶けていった。彼はぼくの存在を肯定してくれた初めての人だ。大人になるまでの間、自分はゲイだってことで葛藤したこともたびたびあったけど、そのたびにぼくは彼のことを思い出してた。彼がぼくの存在を許してくれたから、今の自分がある……そんな感じ」

「それってすごいな。いったいその子は何て言ったんだ?」

「うん、彼はね、こう言ってくれんだ。『スパイダーマンにはMJがいるし、ハルクにだってベティー・ロスがいる。あんな緑色の化け物だって彼女がいるんだ。きみは見た目ふつうだし。たぶんもっと簡単に見つかるよ』……って」

「え? それってさっきおれが言った……」

「ぼくが初めて“キスしたい”って思った男の子だよ」ポールはふあっと柔らかく目を細め、おれの頬に手を置いた。

「ポール、きみは……」

「またキスさせて……今度はちゃんと……」

 そして彼は唇を重ねてきた。今日はクリスマス・イブ。劇場のロビーで、人目もはばからずにキスをする恋人同士がいてもおかしくはない日。出会うことになっている奴は、生まれたときから決まってる。それが本当なら、きっとまた。いつかどこかで。

 クリスマスには奇跡が起こる。でもそれはとっくに起きていたわけで、おれは気がつくのが少し遅かったみたいだ。

 メリークリスマス、いつかの友達。ファーストキスが今のパートナーとだなんて、光栄な話だ。



End

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