第17話:想いの行方(Frozen) 〜第1シーズン終了〜

 誰かを好きになるのは素敵なことだ。そのカテゴリはカラフルな綿菓子やキラキラした宝石に同じ。相手のことを想うだけで、頭の上にハートマークが飛び、どこからか甘いBGMが聞こえてくる。夏の夜のパレードにも似た興奮と喜び。共に過ごす時間は夢のよう……。

 人を好きになれば、ついてくるのが幸福感だが、もしそうした気分を味わえなかったら? そうしたら人は恋することを諦めるだろうか? それについての答えを、おれは今のところ持っていない。恋は人を幸福にしてくれる。二十数年かけて得た認識がそれなのだ。だから答えられないのも無理はない。そうじゃない場合のことは、これまで少しも考えたことはなかった。



 “スーツケース”とはよく言ったもの。たとえばおれがハワイに行くとして、この中にアロハシャツを詰め込んだら、このカバンは“アロハケース”だと言えるのか。そんなことを考えながら、“スーツケース”に“スーツ”を入れる。用意した靴は二足。ナイキでもビルケンシュトックでもないそれに、靴下を丸めて詰める。これは型くずれを防ぐためだ。下着類は小さく畳んでジップつきのビニール袋に。ライターとカミソリ、整髪ジェルは手荷物に入れる。

 季節は夏だ。この時期に荷造りをしてるって、それは素敵なプランだと思うだろう? ところがおれの顔を見てくれ。憂いに満ちたこの表情。オプションには“ため息”なんてのもついてくる。

「別に出張が嫌なわけじゃない」バチンとスーツケースを閉じて、おれは言った。「でも今回はいくらなんでも長過ぎる。二週間もオフィスを留守にしろだなんてさ。会社にとっておれは不必要な人間なのかな? いなくなっても何の損害もない奴とか?」

「会社はどうか知らないけど」と、おれの背中にもたれかかるポール。「少なくともぼくにとっては多大なる損害だね。二週間もひとり寝だなんて、果たして耐えられるかどうか」

「耐えてくれないと困る。おれがドサ回りしている間に浮気なんて嫌だぜ」

「きみこそ。ミュージシャンとのツアーには誘惑がつきものだ」

「そう思うんなら、きみはまだおれの境遇を理解してないな。おれと一緒に回るのはモトリー・クルーじゃない。中年のカントリーシンガーと一緒にいて、いったいどんないい目を見れるやら」

 スーツと革靴は準備オッケー。パスポートも水着も持たず、恋人と離れ、おれは行く。アメリカの母なる大地、マンハッタンから遥か離れたコロラド州へ───。




 文学小説の表紙、児童書の挿絵、保険会社のポスター、ピーナッツ・バターのCMなどなど、この国で普通に生活をしていれば、誰でも一度はロナルド・バーガーの絵を目にしたことがあるはずだ。こよなくアメリカを愛する画家として知られている彼が、実は東ドイツ出身であることを明かしたのは、数年前に出版された自伝小説でのこと。亡命者である両親の元で、経済的に貧しい幼少期を経たバーガーは、絵を描くことで自分の人生を打ち立てる。彼が画家として成功を手にするまでを書いた物語は、有名監督の手によって映画化され、公開されるや、世界各国から絶賛を浴びた。バーガー役の主演男優はオスカー候補まちがいなしと言われているし、作品賞をはじめとするいくつかの賞を獲ることは確実とさえ噂されている。しかし原作者であるロナルドは、そうした派手な話題とは無縁のキャラクターだ。素朴で飾り気のない人柄と、それに見合った服装。濃い眉毛の下にある大きな目は優しげで、茶色い巻き毛はあごひげと繋がっている。彼を見るたび、おれはセサミストリートのオスカーを思い出さずにはいられない。パペットと違う点は、ロナルドがとても気だての良い性格をしているということ。ひねくれもののオスカーとは仕事をしたくはないが、彼とであれば最後までうまくやれそうな気がする。

 ホテルにチェックインすると、フロント係が「ロナルド・バーガー様がお待ちです」とロビーを示した。ロナルドはソファで新聞を読んでいる。おれに気がつくと、子供のような笑顔になった。

「いらしていたんですか。お待たせしてすみません」

「なに、こっちが待ちきれなくて勝手に足を運んだまでだよ」ロナルドは新聞を畳み、「実を言うと昨日も来たんだ」と笑う。「なんたって、ぼくの自宅は目と鼻の先だからね。こんなに近くで展覧会ができるとは有り難いことだ」

「自宅はロスアンゼルスでは?」

「あれは別荘なんだ。こっちにある丸太の家が本宅だよ」

 ロナルドはまったく気取らない男で、彼のこういうところがおれは好きだ。贅沢品は身につけず、自分の才能を鼻にかけたりしない。イラストレーターというよりも、画家という肩書きがぴったりくる感じだ。

 彼の絵画は本人同様、流行に左右されないタイプの作風で、それはオールド・ブルースやジャズ同様、いつの時代にも評価される。ただ、“流行に左右されない”だけあって、“売れ筋”とは言い難いのが本当のところ。それが映画によって突然注目を得たのは、質素を旨とする彼にとっても、やはり幸福なことだろう。絵画をプロデュースする会社に目を付けられ──うちの社長はこういうところが抜け目ないんだが──ロナルド・バーガーの芸術は瞬く間、世に流通するようになった。そのため今回のイベントは、いつもに増して規模が大きい。おれが半月も出張に出なきゃならないのは、それによる“恩恵”だ。

「さっきボニーに電話をしたよ」とロナルド。「彼女、リハーサルには間に合うように来るそうだ」

 リハーサルは明日の午後で、予定では今日からここに来るはずだ。マネージメント会社は『すべてスケジュール通りです』と言っていたはずなのだが……?

 おれがそう言うと、ロナルドは困ったような顔で顎を撫でた。

「うーん、何と言うか……ボニーは時間にルーズなんだよ。でもリハーサルにはちゃんと来ると思う」

 “と思う”。なんという不確定な要素を含む言葉だろう。そういえば彼女の携帯電話、昨日からかけているのだが、まだ一度もつながらない。電波のせいかと思っていたが、どうやらこれは“人為的”なもののようだ。

「ごめんよ。ボニーはいつもこうなんだ」

 まるで自分の身内のことのように謝るロナルド。実際、彼らはほとんど家族のような間柄だと聞いている。

 くだんの映画化によって、脚光を浴びたのはバーガーの絵画だけではない。カントリーシンガーのボニー・レインも、古き良きものを見直そうとする人々の注目の的だ。彼女の往年のヒット曲、〈ロッキーマウンテン・ロード〉は、有名なポップアイドルにカバーされ、映画の挿入歌に使用された。これに端を発し、現在音楽シーンでは、ちょっとしたカントリーブームが起きている。若手ミュージシャンが古い曲をリメイクしたり、ロックの大御所がアンプラグドでウエスタンミュージックを奏でたり。流行というのはまったく奇妙なものだ。忘れ去られたと思っていた人物が、一夜にして雑誌のフロントを飾ったり、デヴィッド・レターマンのトークショウに駆り出されたりする。そして今回のように、絵画展とセットでコンサートを行ったりもするのだ。

「ボニーは大丈夫さ。きっと明日には姿を見せるだろう」ロナルドはそう言って微笑んだが、彼の言葉に根拠があるわけではない。

「だといいですが……」

「そんなに心配そうな顔をしないで。気楽に待とう」ポンとおれの腕を叩くロナルド。彼の気遣いは嬉しいが、おれが欲しいのは、“必ずここに来る”という約束だ。そういえば、以前一緒に仕事をしたミュージシャン、トッド・スケイスも時間にはルーズだったっけ。音楽業界では“時間通り”というのは、“ダサいこと”なんだろうか。

「もしボニーがコンサートをすっぽかしたら……」おれは深刻な顔でロナルドに言う。「代わりにあなたに歌ってもらいますよ」

「いやいや、歌は苦手だ。ライブペインティングならどうにか出来るけど」

「それはいいですね。個人的にはとても見てみたいな」

 冗談はともかく、本当にボニーが来なかった場合のことを、おれは考えた方がいいのかもしれない。イベント客の半数以上は、ライヴが目当ての人たちだ。それが急にキャンセルになったとあれば、とんでもなく大変なことになる。(どのように“とんでもなく大変”かは、具体的に想像したくない)。イベントに“予想外”はつきものだが、着いてから五分も経たないうち、いきなり予定が狂うとは思ってもみなかった。

「ボニーは来るよ」とロナルド。そして「たぶんね」と、付け加える。

 “たぶん”か。これもまた不確定な要素を含む言葉だが、今は彼の言葉を信じよう。他に信じるものはないし、手立てになるようなものもないのだから。




 ボニー・レインは遅れてやってきた。絵画展のオープニングセレモニーには間に合わなかったが、それでもなんとか来てはくれた。

 マネージャーも連れず、たったひとり、ギターケースを肩にかついで歩いてくるボニー。このイベントのために用意されたバックバンドはすでにリハーサルを終え、休憩に出ている。招待客もすっかりはけた会場で、おれとロナルドは大いに安堵した気持ちで、彼女を迎え入れた。

 おれはボニーに改めて挨拶。名刺を差し出すと、彼女はそれに目もくれず、「外の警備員」と、謎の言葉をつぶやいた。

「何ですか?」聞こえはしたが意味不明の単語を、今一度聞き返す。

「この会場の警備員。わたしを見て、“絵画展はまた明日”とか言って、入場を止めようとしたんだ。リハーサルに来たと分かってもらうまで、10分はかかったかな」

「それは……申し訳ありませんでした」

「通用口がわからなくて表から入ろうとしたわたしも悪いんだけどね。それにしても彼の態度はどうかと思うよ」言いながら、ギターを床に下ろす。屈んだはずみ、彼女の長い髪が顔に落ちた。もっさりとしていて艶のない黒髪。体格はとても小柄で、背はせいぜいおれの胸のあたりまでしかない。痩せた身体はクリムトが描く女のようで、色あせたスリムジーンズが骨盤にかろうじて引っかかっている。これがあの有名なボニー・レイン。スターというにはあまりにも輝きが暗すぎる。

「なるほど、きみはコロラド州では有名人じゃなかったというわけだ」そうロナルドがからかうと、ボニーはむっとした表情で「別に“どこでも名が知れてる”なんて思ってるわけじゃない」と反論した。「ただあの警備員の態度に頭にきただけさ。よっぽどUターンして帰ろうかと」

 おっとと……そんなことでUターンされたらこっちが困る。おれは思わず、「とにかく来て頂けてよかったです」と本音を口にしていた。「それに、たとえあなたの顔や名前を知らなくとも、〈ロッキーマウンテン・ロード〉は誰でも知ってますよ」

 機嫌を損ねたアーティストをフォローしようとしたつもりだったが、これがマズかった。ボニーは「へえー」と、わざとらしく感心したような声を出し、「そうか、じゃ他には何の曲を?」と質問する。さあ、困った。予習が完璧じゃなかった生徒は、こういうとき何と答えるべきだ?

「ええと……実はおれはあまり音楽に詳しくないんです」

 知ったかぶりをするわけにもいかず、正直に告白すると、ボニーは「きみ、名前は何だっけ?」と、思い出したように聞いてきた。(ちなみに名刺はさっき渡した)

「ディーン・ケリーです」

「わたしは“ボニー・レイン”だ。二週間よろしく、ディーン・ケリー」

 一片の笑みも浮かべずに、彼女が自己紹介したところで、バンドのメンバーがわらわらと戻ってきた。ボニーは無言で彼らの方に歩きだし、ギターを取り出して打ち合わせを開始。どうやら仲立ちは必要なさそうだ。彼女の背中に『こっちへ来るな』と書いてある。

「怒らせてしまったみたいですね」

 おれがそう言うと、ロナルドは「気にすることはない」と、気さくに笑う。「ボニーはだいたいいつも怒ってる。あれが普通の状態なんだ」

「彼女はあなたにも“普通の状態”を?」

「もちろん。高校のときから、ぼくは一番の被害者と言ってもいいくらいさ」自慢話でもするかのように、ロナルドはおどけて胸を叩いてみせた。

 ボニーとロナルドとの縁は、映画における楽曲提供がらみだけではない。彼らは高校時代からの友人同士で、ボニーの最初のアルバムのジャケットを手がけたのは、当時すでに有名になっていたロナルドだ。恋人関係になったことは一度もないそうだが、二人の友情はそのおかげで長続きしたのだろうと、ロナルドは自伝のあとがきにそう綴っている。

「とにかく彼女が来てくれてホッとしましたよ」おれはそう言い、ボニーに視線を向けた。彼女は椅子にかけ、ギターの音を合わせている。どんなに不機嫌であろうとも、とにかく“本人”さえいてくれれば安心だ。スターの輝きがなかろうが、音が調子っぱずれだろうが、最後までここに彼女がいてくれるということが重要なこと。今回のコンサートは絵画展のおまけのようなものだ。イベントの目玉は確かにボニーだが、客とてここがラジオシティ・ホールじゃないことは百も承知。会場に足を運ぶのは、厳しい音楽評をぶつような層ではない。彼らは“生のボニー・レイン”が見たいだけ。企画展とはそういうものだ。




 宿泊施設がイベント会場の敷地内にあるのは、この企画に関わった誰にとっても、願ってもない幸運だ。ホテルにジム、ショッピングモール、そしてラジオシティ・ホールには及ばない、多目的ホール。田舎の大型施設は、宇宙に浮かんだコロニーのよう。ここから離れたが最後、文明らしい風景とは数百キロに渡っておサラバだ。

 おれはホテルの部屋に戻り、まず真っ先にシャワーを浴びた。熱いお湯に打たれながら、明日の手順をイメージ。同時に今日の問題点を反芻する。あれは失敗だったな、と思えるのはボニーとのやりとりだ。彼女の曲をよく知りもしないくせ、調子のいいことを言ってしまった。おかげでしょっぱなからの悪印象。彼女からしたら、こっちは口先ばかりの営業マンみたいに見えたことだろう(まあ事実だが)。しかし、だからと言って、あれからずっと無視され通しというのは、どうなのか。彼女のキャリアについて詳しく知らなかったことは申し訳ないが、それは職務上の不手際ではない。むしろ不備があるとすれば、約束の時間に現れなかったボニーの方だ。連絡もなく大幅に遅刻してきたうえ、いきなり喧嘩腰というのは、立派な態度とは言えないんじゃないか? こっちは彼女の曲を聴き込まねばならない義務もなく、ましてやそれについてイビられる謂れもないってのに……。まあ、あの時点でUターンされなかっただけマシか。今後はもっと気をつけよう。

 バスローブを羽織り、濡れた髪のままで電話をかける。出るなりポールは「遅い」と文句を言った。

「そっちに着いたらすぐに電話をくれるかと思ったのに」

「そのつもりだったんだけど、昨日はいろいろバタバタしてて。気がついたら夜の十一時をまわってた。こっちが十一時なら、そっちは深夜一時だろ? もう寝てるかと」

「起きてたよ」

「そうか、ごめん」

「いいけど。イベントはどう? 順調?」

「ああ、もちろん。年増のシンガーにさっそくいじめられたよ」

「ボニー・レインと会ったんだね。彼女、どんな人?」

「今言ったろ。素敵に意地悪だ」

「へえー、そうなんだ」

「そっちは?」

「うん、特に問題はないよ」

「そうか? ひとりが寂しくて泣いてるんじゃ?」

 “ぜんぜん平気さ”とか、“たった一日で泣くわけないだろ”とか、そんな答えが返ってくるかと思いきや、意外にポールはしおらしく「うん」と、つぶやいた。「ひとりでいるのはとても寂しいよ。早く帰ってきてほしい」

 素直な彼の言葉を聞き、おれは無性に切ない気持ちになった。

「ああポール、おれも寂しいよ」

「キスして」

「いいとも、きみもだ」

「うん」

 受話器越しに交わされる短いキス。千六百マイル彼方から、お互いの想いを伝え合う。最後にポールは「いつでも電話して」と言った。「きみがしたいと思うときに」

 愛は時差をも物ともせず。誰にいじめられようと問題なし。恋人とのキスさえあれば、おれはいつでも瞬時にハッピーになれるんだ。




 ぐっすり眠れそうだというときに限って邪魔が入るのは、一般的なことだろうか。それともおれにだけ生じる悪い法則なのか。いずれにしろ安眠は破られた。遠慮がちにノックしてはいるが、起こすつもり満々であることは、そのしつこさからも充分感じ取れる。

「ディーン? もう寝てるかな?」

 寝てましたとも。いや、厳密には“寝入りばな”ってくらいかな。おれはホテルのガウンを羽織り、ドアを開けた。

「ああ、遅くに済まない。起こしてしまったかい?」

 くつろいだ恰好のおれを見、ロナルドは申し訳なさそうに謝った。

「いえ、大丈夫です。何か問題でも?」

「問題というか……ちょっと話がしたくてね」

 わざわざ部屋に来るくらいなのだから、ただの世間話というわけではなさそうだ。招き入れようとしたが、彼はドアのすぐ内側に立ったまま、「ここでいいよ」と話し始める。「ボニーのことで、きみに言っておきたいことがあるんだ」

 ああ、やっぱりそうきたか。願わくば『もう帰ってしまった』という最悪の事態でありませんように……。

「今ボニーはあまり調子がよくないんだ。精神的に落ち込んだ状態にあると言っていい」

 うん? それで? 彼女はまだここにいるんだよな?

「ボニーは重たいドラッグの常用者で……」

「ええっ?」

 おれが声を上げると、ロナルドは慌てて、「ああ、いや違う」と首を横に振った。「今はそうじゃない。これは昔の話だ。しかしこのところの彼女は何と言うか……」ここで言葉を切り、何かを探すように、床や壁に視線を巡らせる。おそらく彼は“適切な言い回し”を探しているのだろう。それから唐突に、「ボニーがマネージャーをクビにした話を?」と聞いてくる。

「耳にしています。なんでも彼女が一方的に解雇したとか」

 そう、彼女にマネージャーさえいれば今回の仕事はもっとスムーズにいっただろう。それが解雇されたばっかりに、“連絡がつかない”だの、“来るかどうかわからない”だの、まるで自分がマネージャーになったかのようにヤキモキしなきゃならないハメに陥っているのだ。

「解雇は表向きの話だ」とロナルド。「実際はクビにしたんじゃない。ビルは……マネージャーの彼、ビルと言うんだが、彼はボニーと決裂したんだ」

「決裂?」

「金銭と恋愛の両方でね」ここまで言えばわかるだろうというように、彼は小刻みにうなずいて見せた。

「そういうわけで今のボニーは気持ちが不安定な状態なんだ。どうか彼女のことを気にかけてやって欲しい。万が一にも、ドラッグに手を出さないように」

 なんてこった。これはとんでもない仕事になってしまった。そうと知っていたら、ウチの会社、彼女と契約はしなかっただろうに。

 おそらくおれはここで嫌な顔をしたんだろう。ロナルドはあわてて「職務として依頼しているわけじゃないんだよ」と、言葉を付け足した。

「ただ友達として頼んでいるだけなんだ。無理にとは言わない」

 “友達として”だって? そっちの方がもっと断りづらい。それに今まで忘れてたけど、彼女の部屋は、悪いことにおれの部屋の隣なんだ。今の会話を聞かれたとは思わないが、ロナルドが来たことは気づいたかもしれない。後になって不審がられなきゃいいが。

「わかりました。今後はそれとなく注意をはらってみることにします」

「ありがとう」

 彼が出て行った後、おれは壁ぎわに耳を澄ませてみた。ボニーの部屋からギターをつまびくような音が聞こえている。これは生演奏だろうか? それともCDか何か? いずれにしろ彼女が音楽に集中していたなら、こちらのことは気にも留めてないだろう。

 部屋が隣あっているということは、発想を変えれば、見張るには好都合とも言える環境だ。面倒なことだが、ロナルドが正直に言ってくれたことはよかった。留意点があるのなら、前もって聞いておきたいし、それが悪い話であればあるほど、配慮は必要なのだから。

 不意にギターの音がやむ。他には何も聞こえてこない。こんなすぐ近くで人が悪い薬物を使用しているかもしれないと思うと、ずいぶん落ち着かない気持ちになってくる。おれはまともな服を身につけ、部屋を出た。




 彼女は不機嫌そうな顔だった。それは昼に見たときよりももっと。ドアを半分だけ開け、招かざる客を睨みつけ、「何の用?」と低く言う。その声はざらざらした砂を思わせる。

「大した用では……今日はおつかれさまでした。明日のライヴ、宜しくお願いします」

「わざわざそのことを?」重たげな長い黒髪。それが暗い表情をさらに暗くしているのだとおれは気がついた。

「いえ……もしよければCDを……あなたのアルバムをお借りできないかと」

「CDは持ち歩いていない」

「そうですか」

 アルバムは借りられなくても別に構わない。これはボニーの部屋を訪ねるための口実だ。

「体調が悪いのですか?」とおれは聞いた。彼女が手にピルケースを握っているからだ。

「これは睡眠薬だよ」

「睡眠薬……」

「別におかしな薬じゃない。ちゃんと医者の処方箋もある」

「いつも睡眠薬を?」

「たまにだ」

 薬局やスーパーで売っているものではなく、医者が処方するような睡眠薬を必要としているのか。まあ、これを服用しているくらいなら、他のドラッグは使っていないのかもしれないが……。

 そんなことを考えていると、ボニーは「何を心配している?」と眉根を寄せた。

「心配しているのはロナルドです」

「ロニーか。彼に何を吹き込まれた?」唇の端を片方上げるボニー。おれが答えないでいると、「彼はいつも心配するだけさ」と、よくわからないことをつぶやいた。

 ロナルド・バーガーの自伝に登場するボニー・レインは十七歳。世間知らずの可愛い田舎娘として書かれていた。年月というのはこういうものか。映画からボニーのファンになった客が、このギャップにショックを受けなきゃいいが。

「さあ、わたしはもう寝る。明日もよろしく頼むよ、心配性のきみ」ピルケースから直に薬を口に放り込み、いくぶん乱暴にドアを閉める。

 心配性なのはおれじゃない。ロニーこと、ロナルドだ。こっちはしたくもない心配を“させられている”だけ。どうやら長い二週間になりそうだ。




「へえ、そう」

 それが今日のボニーの第一声。彼女は馬にハミを噛ませながらそう言った。

 なぜ馬がいるのか。絵画展に客として訪れたわけではない。ここは会場からほど近い牧場で、ボニーはこれから乗馬をしようというセッティング。色あせたラングラーのジーンズに白いTシャツと、どこで調達したか、黒いカウボーイハットまでかぶっている。昼下がりの乗馬には完璧なファッションだが、そんなことはどうでもいい。おれが彼女に伝えたのは、ホテルから姿を消したボニーを三時間以上も探し回っていたことと、市長が今夜のコンサートで挨拶に訪れたいと希望していること。その二点だ。彼女がどちらについて「へえ、そう」と言ったのかはわからないが、いずれにしてもシャクに障る返答であることは間違いない。

「市長は昔からのあなたのファンだそうです」

「ふーん」

「ショウの前に会う時間を作ってもらえたらと思うのですが」

「前か。前は嫌だな。後ならいいよ」言いながら馬のたてがみを撫でる。

 相手は市長だ。忙しい時間を縫ってくるに決まっている。それなのにこっちが時間指定とは、さすがに大物だ。

「ライヴの前は困るんだ」とボニー。おれには目もくれず、馬だけを見つめている。「ステージに立つ前、わたしはすごく緊張しているからね。悪いけどそのように伝えてくれ」

 そのように伝えてくれって、それもまたおれの仕事なのか。マネージャーを同行していないってのはやっかいなものだ。こんなことまでさせられんるなら、おれはボニーの事務所に給料を請求できるんじゃないか?

「馬に乗るのは久しぶりだ」と柔らかく目を細める。「きみもどう? こんなチャンス、めったにないよ」

 なくて結構。もし落馬でもしたら後のイベントに差し支える。

「乗馬は未経験なもので」

「だったらなおのこと。やってみるといい。わたしが教えてあげるよ」

 今日のボニーは上機嫌なようだ(これが薬物の影響でないとは言い切れない? かもしれない)。このときおれの頭にあったのは、乗馬がどうとかではなく、ご機嫌なボニーのご機嫌をとること。初対面時に失った面目を取り戻すにはいいチャンスかもしれない。

「そら、手綱をとってごらん」

 彼女に与えられるまま、おれは一頭の大動物にまたがることにチャレンジした。労災保険の種類に“馬から落ちる”は含まれていただろうか。

 ボニーはひらりと馬に乗り、こちらに顎をしゃくって「その子はスポットだ」と言う。

「スポット?」

「その馬の名前。スポットというんだそうだよ。年をとっているから初心者には乗りやすいはずだ」

 黄ばんだ白地に、茶と黒の斑点を持つスポット。一方ボニーの馬は、黒く艶やかな皮毛をまとっている。

「あなたの馬は何て?」

「スターライト。見てごらん。鼻のところに白い流星があるだろう?」

 ボニーはスターライトで、こっちはスポット(ぶち)。まあいい。馬の善し悪しはカラーリングじゃない。ここで大事なのはスポットじいさん(ばあさんかも)の経験値。初心者にはポルシェよりもホンダが向いているのは当然の事だ。

「ちょっと! ちょっと!」

 馬場を出ようとしたおれたちに、農場の主らしき男が声をかける。おれにカウボーイハットを差し出し、「兄さんも帽子をかぶったほうがいい」とアドバイス。

「それは落馬に備えてですか」

「そうじゃない」と笑う男。日焼けした顔にくっきりと刻まれた皺は、“マルボロ・カントリー”といった雰囲気だ。

「帽子は日射病予防だ。風が吹いて涼しいからわからないかもしれないが、ここいらの日差しは相当強いよ。気をつけないと倒れるハメになる」

 渡されたカウボーイハットは色あせたベージュ色。くたくたに古びていて、まるで七十年代のウエスタン・ムービーからタイムスリップしてきたかのよう。頭に乗せると、サイズが小さいことがわかった。鏡を見るまでもない。これは絶対に、おれに似合っていない代物だ。

 農場主は「さあ、行ってらっしゃい」と、馬の横っ腹を握りこぶしでドンと叩いた。合図を待っていたスポットは、ゆるやかに歩き出す。

 馬場を出たところで、「なんだってそうやたら手綱を引っ張ってる?」と、スターライト号の騎手がおれに聞いた。

「何かおかしいですか?」

 おれの脳にインプットされている乗馬はこれだ。授業で描かされた騎馬像はこんなポーズだったし、テレビで見る競技乗馬もしかり。そう言うと、ボニーは「きみのはイングリッシュ・スタイルだ」と教えてくれた。

「ここの馬たちはそういうのに慣れてない。もっと手綱を緩めてあげないと可哀想だよ」

 どうやらボニーは動物には優しいらしい。この調子で人にも手綱を緩めてくれると有り難いのだが。

 牧場を出、森の小道に入っていく。ここは馬たちの散歩コースなのだろうか。スターライトとスポットは仲良く左右に並び、おれが“運転”するまでもなく、スムーズな歩みを見せている。道の両脇に生い茂る木が、日光を遮断してくれているおかげで、今のところ日射病の心配はなさそうだ。爽やかな風がときおり吹きつけ、聞こえてくるのはポクポクいう蹄鉄の音だけ。初めての乗馬の緊張感も薄れ、だんだん気分がよくなってきた。ボニーはまっすぐ前を向き、緩やかに手綱を操っている。

「あなたはいい乗り手みたいですね」気がついたらそう彼女に話しかけていた。「どこで乗馬を習ったんですか?」

「子供の頃に───」ボニーは前を向いたまま返事をした。「わたしの家から数キロ離れたところに農場があって、そこに一頭の馬がいたんだ。レディという名の年老いた馬で、わたしは彼女のことが大好きだった。学校の帰り、毎日のように会いに行ったものだ」

 目深にかぶったカウボーイハットから、わずかに微笑みが確認された。彼女が笑うのを見たのはこれが初めてだ。

「その農場主はカントリーが好きでね。わたしがカントリーソングを歌うかわりに、ただで馬に乗っていいと言ってくれた。だからわたしの初ステージは、農場脇の切り株の上なんだよ」それからひと呼吸おき、「ときどき田舎が恋しくなる」と、しみじみつぶやく。

 おれは都会が恋しい。生粋のニューヨーカーが懐かしむのは、コンクリートの大地と排気ガス混じりの空気。古き良きアメリカの原風景が誰の心にもあると思ったら大間違い。おれの郷愁はマンハッタンの喧噪の中にある。

 しばらく進むと、目の前に池が現れた。鏡のようになった暗い湖面に、周囲の木々が写り込んでいる。底はかなり深そうだ。どうやらここが折り返し地点。来た方へ戻ろうとするおれに、ボニーが「向こう岸へ渡ろう」と提案する。

「渡る?」一見したところ、どこにも橋はないようだが……。

「今日は暑いし、馬も汗をかいてる。この子たち、たぶん泳ぎたいと思っているはずだ」

「泳ぐですって?」

「ああ、馬は泳げる。知らなかった?」

「おれたちはどうするんです?」

「このままさ」

「このまま?」

「ただ乗っていればいい。馬が向こう岸まで連れて行ってくれる」

「冗談でしょう? こいつら、どう見てもボートには見えませんよ」

「馬は泳げるんだ」

「だからってそんな……」

「心配しなくていい。スポットがちゃんとやってくれる」

 ボニーはそう言い残し、馬に乗ったまま、ざぶざぶと池に入っていった。スターライトは少しも動じず、騎手を乗せたまま水面から首と背を半分出し、まったく上手にスイスイと泳いでいる。

 自分の目が信じられない。こんなデカい生き物が泳げるなんて、いったいどんな仕組みなんだ。見たところ、水かきはついていないようだけど……。

 おれが呆然としている間に、スターライトは見事、池を渡りきっていた。ボニーは鞍から降り、舌を鳴らして、スポットの名を呼ぶ。するとスポットは耳をきゅっとボニーの方に向け、待ってましたというように歩き出す。

「スポット、おい、馬鹿はよせ……スポット……」

 今しがた相棒が池を渡るのを見ていたスポットは、それが自分にもできると証明したいのだろう。わかった、おまえが泳げるのはわかったよ。だから水泳はまた別の日、おれじゃない誰かと楽しんでくれないか?

 馬の止め方は手綱を引くこと。引いてはいるが、それでもスポットは停止しない。なんたるポンコツ。こいつのブレーキは壊れてる。

 ああ、確かに馬は泳げる。それは嘘じゃない。今おれたちがこうして池に浮いているのがその証拠だ。だけどわざわざ泳がなくたっていいじゃないか! スイミングは魚とかイルカとか、せいぜいラッコぐらいにまかせておけばいい。おまえらは何も無理して泳ぐことはないんだよ!

 靴とスラックスが濡れたところで、おれの心に“あきらめ”という文字が浮かんだ。こうなると騎手にできることは何もない。このボートが無事に岸に着くことを祈るのみだ。

「頼むぜ、スポット。うまくやってくれよ」

 池の真ん中に差し掛かったところで、そう声をかけたのがいけなかったのだろうか。賢い馬は急速に理解したらしい。手綱を引っ張って泳ぎづらくしているのは背中の男だということに。

 美しく頑丈な首を、スポットがブンと振ってみせたその瞬間、気がついたらおれは落馬していた。落ちたのが固い地面でなかったのはラッキーだと言うべきだろうか。濃い緑から漆黒へ。光から遠ざかるほど、その色は濃くなっていく。水底に茂っているであろう、おそろしい水生植物がおれの足を掴むより先に、なんとか水面に顔を出すことに成功したが、フェラガモの靴を片っぽ失うという、尊い犠牲を払ってしまった。しかしどうやら命だけは助かったらしい。肺に新鮮な空気を送り込んでいると、ボニーがこっちへ泳いでくるのが見えた。

「ディーン、無事か?」

「ええなんとか……」

 借りた帽子もどうやら無事だ。おれの傍らに、プカプカ呑気に浮いている。(依然フェラガモは行方不明)

「でもボニー、なんだってあなたまで飛び込んだりなんか」

「きみが溺れたかと思ったんだ」

「溺れているように見えましたか?」

「湖を渡るのをあんなに嫌がっていたから、てっきり泳げないのかと」

「泳ぐのは嫌いじゃないですよ。嫌がっていたのは、服を着たまま水に入りたくなかっただけで」

「そうか」

「結局、全身ズブ濡れですけどね」

 向こう岸では、スターライトとスポットが、おれたちのことをじっと見つめている。

「あいつらのあの顔……こんなことなら最初から服を脱いで泳ぐべきだったな」

「まったくだ」

 彼女は声を立てて笑った。二人のいい大人が、服を着たまま池に浮かんでいる。これは確かに笑える話で、不機嫌が“普通の状態”であるボニーですらも、破顔するほどのエピソード。だいたいいつも怒っていると誉れ高い彼女の笑顔は、意外なほど晴れやかで、美しいものだった。




 おれの携帯電話は防水仕様ではない。池の水に浸かるという苦行にも当然対応しておらず、それはあっけなく息絶えてしまった。失ったのはデータ満載の携帯とフェラガモの靴。それと買ったばかりのタバコとダンヒルの銀ライターだ。死にかけた割に被害が少なくてよかった。(皮肉だ。本気にしないでくれ)

 代用機が届くまでは、昔懐かしい公衆電話に頼ることになる。必須アイテムはたくさんの小銭。ホテルのロビーにある電話機は三台で、うち二台は壊れていた。ダンベルのように重たい受話器を上げ、25セント玉をいくつも入れる。今夜はボニーのコンサートだ。それが終わったら十一時を過ぎる。こっちが十一時なら、マンハッタンは深夜一時。「遅い」と言われないためにも、ラブコールは早めの方がいい。

 昼間の出来事をポールに報告すると、彼は「ぼくもそっちに行きたいな」と言った。それは恋人に会いたさからではなく、「自然の中で乗馬なんて羨ましい」という理由。

「きみは話を聞いてなかったのか? おれは池に落ちたんだぜ? しかも服を着たままで。おれこそがそっちに行きたいよ」

「ボニーのコンサートは今夜?」

「ああ、これからだ」

「電話なんてしてていいの?」

「実際やることはもうほとんどないんだ。忙しいのは設営と撤収、それにオープニングのときぐらいで。馬に乗って遊ぶ時間だってあるほどだしな」

「だったらもっとエンジョイしたら? 半分バケーションみたいなもんだと思ってさ」

 バケーション。馬と泳ぐより、オフィスで仕事している方がずっと楽しめるおれには、この土地をエンジョイするのは難しいような気がする。そう告げると、ポールは「きみは本当に田舎と相性が悪いんだね」と感想を述べた。

「おれがおれでいられる場所はここじゃないんだ。もし田舎と相性がよかったら、“故郷”に帰りたいとは思わないだろうな」

「帰りたい?」

「今すぐにでも」

「ぼくに会いたい?」

「もちろん。今すぐにでも」

 ロナルドの作品に〈Home is where the heart is(故郷とは心を残してきた場所)〉という題の絵がある。おれが心を残しているのはマンハッタン。海亀や鮭のように、帰巣本能が身に付いている。ここに来てまだ三日だが、ふるさとの何もかもが懐かしく感じられるのがその証拠だ。上司のシーラですらも、今やおれの愛情の対象と言っても過言ではない。(いや、やっぱりそれは過言か)

 名残惜しく電話を切ると、返却口からコインが溢れ出た。これじゃスロットマシンだ。ちょっと多めに入れ過ぎたな。

 足止めはあと十日。もっと小銭を両替する必要がある。




 コンサートのセッティングを見届けたのち、ロビーのカフェでタバコを一服していると、ロナルドがやってきた。

「ディーン、うちの家族を紹介するよ」そう言って、傍らの女性たちに目を細める。「女房のクレアと娘のアンだ」

 微笑み、挨拶するクレア。髪は燃えるような赤毛だが、気の強そうなところは少しもない。ゆったりしたサマーニットが、彼女のふくよかな体型を優しく包み込んでいる。ロナルドがイラストを手がけたピーナッツ・バターのブランドに描かれた女性は、この奥さんがモデルだったのかもしれない。暖かく安心感のある雰囲気は、良妻賢母という死語をおれに思い起こさせた。

「はじめまして」と、消え入りそうな小声で言うのは、クレアをそのままミニサイズにしたようなアン。人見知りなのか、恥ずかしそうに頬を染めている。

「ボニーのコンサートは初めてだわ」とクレア。「庭からお花を切ってきたの。もしよければ彼女に届けたいのだけど」

 手にしているのは、薄桃色のピオニー(シャクヤク)の花束。それは五番街の花屋でもなかなか見られないくらい、とても見事に咲き誇っている。

「彼女は楽屋かな?」とロナルド。

「ええ、おそらく。少し時間がとれるか聞いてみます」

 カフェに彼らを待たせ、おれはボニーに電話……しようと思ったが、携帯がないことを思い出した。まあ、もし携帯があったとしても連絡がつくとは思えない。彼女は今まで一度も、おれからの電話に出たことはないのだから。

 楽屋を訪れると、ボニーは開口一番、「出て行ってくれ」と言った。ちなみにおれはまだ部屋の中に入ってもいない。

「ショウの前は嫌だと言ったろ。聞いてなかったのか?」

「相手は市長じゃないですよ? ロナルドとその家族です」

「誰の家族でもどうでもいい。ライヴの前は誰にも会いたくない」

「でも……」

「いいか。もう二度と言わない。“ライヴの前は誰にも会いたくない”。わかったね? 誰にも──つまりは君にも──会いたくはないんだ」言い捨て、鼻先でドアを閉める。これはデ・ジャブだろうか。同じ場面を以前にも見たような気がする。(おれの記憶が確かなら、それは昨夜のことだ)

 ボニーに会えないことについて、クレアはとても残念がっていたが、ロナルドは“やっぱり”という表情を浮かべ、なぜかおれに向かって「気にしないで」と優しく言った。「なんとなく予想はしてたから。仕方ないね。“ご謁見”はコンサートが終わってからするとしよう」

 貴賓席に彼らを案内した後、クレアから預かった花束をクロークへ渡す。

「あなたもボニーを見に来たのね?」嬉しそうに話しかけてきたのは、見知らぬ中年女性だ。

「あ、いえ、おれは……」

「わたしも大ファンなの。今夜のコンサートが楽しみすぎて眠れなかったくらい」そう言って、彼女はウフフと笑ってみせた。

 こんな大きな花束を持っているんだ。こっちがかなりのファンに見えるのも無理もない。

「ボニーの曲では何が好きかしら?」と彼女が聞くので、おれは唯一知っているタイトル、〈ロッキーマウンテン・ロード〉と答えた。

「そうね、あれは名曲よね。でも最近の曲もとてもいいのよ。〈道なき道〉とか、〈ミシシッピーの日々〉とか……。ボニーはいつの時代も本当に素敵。ねえ、あなたもそう思うでしょう?」

 さきほど、不機嫌なボニーと遭遇したばかりでなければ、「そうですね」くらいの社交辞令は言えただろうが、今のおれにはそんな短い嘘すらつけない。幸い彼女はおれの意見などどうでもいいようで、こちら返事を待たずして、話題を変えてくれた。

「あなた、若いのにボニーのファンだなんて、なかなか見所があるわよ。うちの娘なんか、“カントリーなんて今どき終わってる”なんて……。あら、そろそろ時間かしら」ボニーファンの婦人は腕時計を見、「お互い楽しみましょうね」と言ってホールへと消えた。




 おれがホールの扉を開いたのは、物販や会場周りをひと通りチェックした後。ショウはもうとっくに始まっていて、今はギタリストが間奏部分を奏でているところだった。最後列の空いている席に腰を下ろし、改めて───いや、“初めて”ボニーの音楽に耳を傾ける。

 コンサート向きではない小さな会場。完璧とは言えない音響設備。それでもシンガーの声はよく聞こえた。どこまでもよく通る、伸びやかな声。それは深みがあり、また力強くもある。メロディはカントリーそのものだが、声量ときたらオペラ歌手のようだ。

 “ファンは生のボニー・レインが見たいだけ”。しかしそれこそが重要なことなのだと、おれは少しも分かってはいなかった。

 コンサートが絵画展のおまけだなんて誰が言った? ああ、おれだ。そうだ、おれが間違ってた。ここはラジオシティ・ホールじゃないが、アーティストの質は最高だ。

 曲が終わり、拍手と歓声が鳴り響く。それが静まるのを待って、ボニーは椅子にかけ、「次はわたしの大好きな曲を……」と前置き、アコースティックギターをつま弾き始めた。

 ───There are places I'll remember all my life, though some have changed...───

 よく耳にする有名なフレーズ。おれの記憶が正しければ、これはビートルズの〈イン・マイ・ライフ〉という曲だ。

 さきほどとは打って変わり、優しくしんみり歌いあげる。ギターの音色がボニーの低い声と混ざり、胸の中に静かに染み通ってゆく。

 ロナルドは心配していたが、彼女はドラッグをやったりはしないんじゃないだろうか。根拠はないが、そんな気がする。

 ライヴが終わり、おれはすぐにポールに電話をかけた。ロビーは人であふれかえっていたが、公衆電話はガラ空きだ。

「ちょうどコンサートが終わるところだなって思ってたんだ」とポール。「どう? 無事に終了した?」

「前言撤回だ」

「なに?」

「ボニー・レインのことさ。昨日、おれは彼女について、“素敵に意地悪だ”と言ったけど、訂正するよ。彼女は“素敵で、意地悪だ”」

 おれはコンサートの内容を彼に説明した。普段は偏屈なボニーが、ステージではとにかく素晴らしかったこと。彼女は間違いなく本物の歌手であること。曲を聴いていて、喉元が熱くなったこと……。

「この時代、本物の歌手ってもんに出会えるのは珍しいことだ。ボニーはまるで……なんて言ったらいいか、まるで女版トム・ウェイツみたいな……いや、それは違うか。彼女は誰とも似ていないんだ。唯一無二の存在って、きっとこういうのを言うんだろうな」

 沈黙が流れたので、おれは「もしもし?」と呼びかけた。わずかな間があり、「うん、聞こえてる」と彼が答える。

「悪い。おれ、ひとりで喋り過ぎたな。今度はそっちのことを聞かせてくれないか」

「こっちは別に代わり映えないよ」

「そうか」

「ねぇ、明日も電話してくれる?」

「ああ……って言うか、毎日電話してるだろ?」

「うん、そうだけど」

「そのうち一緒にボニーのコンサートに行こう。ニューヨークで公演があったときに」

「そうだね」

 電話を切ったところで、ひとりの女性と目が合う。「あら、どうも!」と手を上げる彼女。開演前に会話した、“ボニーの大ファン”だ。

「ねえ、とっても素晴らしいコンサートだったわね!」

「ええ、本当に」あの声を聞いた後だ。今度はまったく素直に同意できた。

「ますます彼女のことが好きになったわ!」

 おれは頷き、ごく自然にこう言っていた。

「おれも彼女のことが大好きになりましたよ」



 山よりも海の方がおれは好きだ。「そりゃあ、山にはビキニ姿のお嬢さんはいないものね」などと、ローマンのような意地悪を言わないでほしい。海が好きなのは“お嬢さん”に興味を持つようになる前からのことで、それはおれの出身地に深い関わりがある。

 マンハッタンには、“アメリカ大陸”と聞いて人々がイメージするような草原や山々はどこにもなく、野鳥やリスに会いたければセントラルパークに行くしかない。そんなニューヨーカーが手近でバカンスするとなればロングアイランドだ。おれも子供の頃から今まで、ファイアーアイランドにはたびたび足を運んでいるし(ファミリー向け地区からゲイ向け地区へと、多少位置は移動したが)、コニーアイランドは遊園地がなくなった今でも大のお気に入りだ。海に落ちる夕日に照らされ、潮の香りを感じ、波の音に耳を傾ける……。おれがロッキー山脈よりも、大西洋に愛着があるのはそういう理由で、スイムウェアの女性の有無はあまり関係がないことだ(と思う)。

 そんなおれでも「山はいいな」と思う瞬間がないわけじゃない。たとえばこんな風に、誰もいない草原で優しい風に吹かれているときは『仕事なんて忘れて、いつまでもここに留まりたい』と考えることだってあるのだ。

 これは昨日の乗馬に続いて二度目の大冒険。服に草の汁がつくことも恐れず、大地に横たわり、空に浮かぶ雲をただ眺めている。

 今日も今日とて、ボニーのマネージャーのようなことをしているおれが、彼女を捜し回り、ようやく見つけたところで『結局、彼女は事務所に電話するつもりはないらしい』という悟りを得るまで、ほんの五分。草原にごろんと大の字になっている彼女から、「きみもどう?」と呑気な誘いをかけられた。

「原っぱで横になるのは未経験なもので」そう答えると、ボニーはくくっと笑い、「だったらなおのこと。やってみるといい。わたしが教えてあげるよ」と、昨日と同じ台詞を返した。

 脱ぎ捨てられたボニーの上着のポケットから、一冊の本がはみ出している。おれは寝返りをうち、「何を読んでるんですか?」と彼女に聞いた。

「詩だ」とボニー。

「中を見ても?」

「いいよ」

 それはとても古い本だった。中の紙は黄ばみ、表紙の角はケバ立っている。詩人の名はウォルト・ホイットマン。彼の作品はおれも大好きだ。

 表紙をめくったところに、ブルーのインクで書かれたメッセージを見つける。

『立ち止まるな!───ジョニー』

 まじまじと見ていると、「それはジョニー・キャッシュが書いたんだ」と、ボニーが言った。「古いミュージシャンだ。知ってるかな?」

「ええ、名前は。カントリーのシンガーですよね?」

「子供の頃、わたしはカントリーがあまり好きじゃなくてね。でもジョニー・キャッシュを知って変わった。彼はとても素晴らしいシンガー・ソングライターだ」ボニーは片肘をついて頭を支え、おれの方に顔を向けた。「もう十年以上前、ある音楽イベントで偶然ジョニーに会う機会があったんだ。とても興奮したよ。何たって彼はわたしのヒーローだから。どうにかきっかけをつくって話しかけられないものかと様子を伺っていたところ、彼が本を手にしているのが目に入った。ホイットマンの詩集だ。わたしはホイットマンが大好きだと彼に言った。いい話の接ぎ穂だと思ったんだ。するとジョニーは『だったら、この本あげるよ』って……」眩しそうに目をこすり、ふふっと笑う。「おかしいだろ。大好きなホイットマンの本をわたしが持っていないわけはない。そのこと、ジョニーは気がつかなかったのかな? それともこの本が趣味に合わなくて手放したかったのか……とにかく彼はわたしにこの本をくれようとした。そこでわたしはチャンスとばかりに、本にサインを入れてくれと頼んだんだ。考えてみればこれも変な話だよ。彼が書いたわけでもない本に『サインを』だなんてさ」言って、ジョニーの筆跡を指先でなぞる。「この本はコンサートには必ず持って行くようにしている。わたしにとってはバイブルみたいなものさ。きみはジョニー・キャッシュの曲を?」

「ちゃんと聴いたことは一度もないですね。彼の伝記映画は見ましたけど」

「わたしも観た。映画は愛らしかったし、俳優も頑張ってはいたけど、本物はあんなもんじゃない。もっと遥かにすごいよ」

「あなたもね」

「誰?」

「あなた。ボニー・レイン。ロナルド・バーガーの映画には“ボニー・レイン”が出てくるけど、本物の足下にも及ばない。昨日のライヴを見てそう思いました」

 ボニーはおれを見るのをやめ、ごろっと仰向けになって空と対峙した。彼女が黙っているので、おれは話を続ける。

「昨夜、あなたのオーディエンスと少し会話したんです。彼女はとても長いことボニー・レインのファンで、それはもう人生のほとんどの時間だと言っていました。そんなに長くファンでいられる相手を見つけたられたことは、とても幸福なことじゃないかって、おれは思うんです。それは気の合う友達や恋人を見つけるに等しい……そう簡単なことではないような気がして」

「かもしれないね。わたしにとってのそれはジョニー・キャッシュだから、きみの言わんとすることはよくわかるよ」

「長いことファンを失望させない秘訣は何だと思います?」

「さあね。私生活を上手く隠すこととか?」

「おれが思うに、やっぱり歌唱力じゃないかな?」

「きみの好きなミュージシャンは?」

「特には……好きなアルバムはいくつかあるけど、好きなスターとなると、すぐには思いつきませんね」

「ヒーロー不在の人生? 崇める相手は鏡?」

「いや、おれのヒーローは音楽の畑にはいないんですよ、きっと」

「へえ?」

「ピカソやシャガール、クリムト、ダ・ヴィンチ……絵描きだったらいくらでも名前があげられます。残念ながら彼らはすでに他界してるから、サインをもらったり、グルーピーになったりするのは不可能ですけど」

「きみがピカソのグルーピーに?」

「ベッドまでは無理かな。ダ・ヴィンチなら可能性あるかも」(※レオナルド・ダ・ヴィンチは同性愛の罪で逮捕暦がある)

 おれはホイットマンの本を開き、一番気入っている彼の詩を見つけだす。

 ───ある子供が両手いっぱいに草を取ってきて、「草って何?」といった。わたしはその子にどう答えたものか? わたしとて、それが何なのかなど、彼以上に知ってはいない───

 標高2500メートルの草原に、天高く鳥がさえずる。「あれはルリツグミだ」とボニーが言った。おれにはツグミとヒバリの違いもわからない。でもその声が美しいのだということは理解できた。




 娯楽らしい娯楽のないこの地域で、楽しみなのは食事の時間だ。朝はまず冷たいレモレードで目を覚ますところから始まる。焼きたてのスコーンにはクロテッドクリームをたっぷり。カリッと焼きあげた塩漬けの豚肉に、白いグレービーソースをかけ、付け合わせのポテトと一緒に味わう。濃厚なヨーグルトに新鮮なベリーを添え、黄金色に輝く蜂蜜を落とせば、コルドンブルーのパティシエも舌を巻くようなデザートの完成だ。こんな朝食を目の前にして、低カロリーのグラノーラをついばむのは愚かの極み。今はただ、この快楽に身を委ねよう。マンハッタンに戻った暁には、またジムに通えばいいことさ。

 森が見渡せるテラス席で食後のコーヒーを楽しんでいると、小鳥の声が耳に届いた。あれはルリツグミだろうか。それともヒバリ───。違いはわからないが、その声は……ちっとも美しくない。“さえずり”とはほど遠い、小鳥たちの歌。甲高い声でひっきりなしに鳴き続けていて、ちょっと怖いくらいだ。まさか鳥の発情期?

 ただならぬ騒音に目を向けると、茶色の小鳥が数十羽、ボニーの頭の周りを飛び交っている。ディズニー映画みたいなメルヘンチックな光景じゃない。まるでヒッチコックの恐怖シーンだ。

「ボニー!」駆け寄り、テーブルナプキンで悪魔の鳥を追い払う。「しっ! しっ! あっちに行け!」

 鳥たちは散り散りに飛び去り、後に残ったのは無惨に食べ散らかされた朝食の残骸のみ。ボニーはふうと息をつき、「ああ、びっくりした……」と、髪をかきあげた。

「いったい何をやらかしたんです?」

「パン屑をやっただけだ。一羽の小鳥があの木に止ってこっちを見てたから。それでパンをちぎってやったら、あっという間に集まってきて……」

 テラスの手すりには、『小鳥に餌を与えないでください』の看板がかけられている。

「これを見なかったんですか?」

「見たよ」

「じゃあなぜ餌をやったりなんか」

「可哀想だと思ったんだ」

「可哀想?」

「小鳥がじっとこっちを見てて。わたしのパンを欲しがっているように見えた。この看板のせいで、欲しいものが得られないんだとしたら可哀想だ。だから、たまにはいいんじゃないかと思って」

「なるほど。それでヒッチコックの映画みたいなことになったんですね」

 彼女の髪には鳥のフンがついている。おれは紙ナプキンでそれをつまみ取りながら、「今後は看板の警告に従うべきですね」と苦言した。

「警告を恐れるミュージシャンなどいないよ……しかし、まあ……たまには従うべきだね」そして密かに笑い、「ヒッチコックの映画みたいだったって?」と、片眉をあげる。

「あと五分、救出が遅れたら、フンまみれになってたでしょうね」

「何がフンまみれだ。それが女性に向かって言うことか」

「女性だろうと女王陛下だろうと、アクシデントが起こるときは起こる」言って、彼女にそっと紙ナプキンを握らせる。

「ディーン、いけ好かない奴」

「あなたもね、ボニー」

 言葉とは裏腹に、おれたちの顔には笑みがあった。くすくす笑いは拡大し、とうとう二人して爆笑に至る。鳥のフンとヒッチコック。それはその場にいなければ、笑えないようなネタだし、それにしたって腹をかかえるほどの話じゃない。それでもおれたちは笑い止めることが困難だった。しばらく一緒に大笑いし、それから一緒にコーヒーを飲んだ。おかしな朝の光景だ。




 この日のボニーはご機嫌だった。午前中に市長と会い、午後は絵画展に顔を見せ、コンサートは開始を一分も押すことなく、時間通りに始められた。

 なんだ、彼女はやろうと思えばやれるんだ。まあそうでもなきゃ、長いこと芸能界に身を置けるものではないのだろう。

 ショウが終わり、ロビーの公衆電話にコインを入れていると、ロナルドが来てこう言った。

「ディーン、おもしろいものを見に行こう」彼はいたずらっ子のように瞳を輝かせている。

「おもしろいもの? 何です?」

「まあいいから来てごらんよ。すぐ近くだから」ロナルドは身振りで“ついておいで”と言い、エレベーターの方へと歩き出した。

 なんだろう。彼があんな顔をするなんて、よっぽどおもしろいものなんだろうか。おれは受話器を置き、コインをポケットに回収してから彼を追った。

 着いたところは本当に“すぐ近く”。ホテルのB1フロアだ。ここにあるのは広めのバーだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。防音扉を開けた途端、鼓膜を刺激するほどの大音量に迎えられ、ピンクや紫の照明が網膜を刺激する。天井には光るミラーボール。そうか、ここはディスコなんだ。しかもトラボルタ華やかなりし頃のディスコ。おそらく全盛期(60年代だ)には、襟の尖った紳士や、髪をソフトクリームみたいに盛り上げた淑女が、フロアを埋め尽くしていたのだろう。しかし今日ここで踊っているのは中高年が主。ほとんどがボニーのコンサート客のようだ。

 さて、これがおもしろいものだって? おれのママと同世代の人たちがツイストするのは確かに珍しい光景だが、“おもしろい”ってほどじゃないと思うけど。

 ロナルドはおれの耳に顔を近づけ、「ほら、あれだ」と言って、フロアを指した。そこにはボニーが───ミラーボールの下でダンスを踊っている。

「彼女、踊れるんだねぇ」とロナルド。「象が逆立ちするのはタイで一度見たけど、ボニーがダンスするのを見るのは初めてだ」

「ははあ、それは見物ですね」

「だろう?」

 カラフルなライトを浴び、ダンスに興じる老若男女。誰もが活き活きとしているが、なかでも輝いているのはボニーだった。髪が乱れるのも構わず頭を振り、リズムに乗ってステップを踏む。“生きる喜びに身を投じる”というのは、きっとこういうことを言うんだろう。細い身体をエネルギーでいっぱいにするボニーは、このフロアで誰よりも目立っている。

 ロナルドが飲み物をとりに行ったところで、ボニーがこちらに気がついた。目が合うと彼女は手招きをし、フロアへと誘う。おれは首を振ってそれを断る。するとまた手招きをするので、もっとオーバーに“NO”の意思表示。ボニーは何か言っているようだが、騒音に阻まれ、聞き取ることができない。おれは仕方なくフロアに近づき「何ですか?」と大声で聞き返した。するとボニーも大声で応える。「踊ろう!」と。

「ああ、踊り。いえ、遠慮しときます」

「冗談だろう? 音楽がかかってるのに踊りもしないって? 足の裏を地面にくっつけたままでいるってのか?」

「おれの足、地面が好きなんです」

「馬鹿言ってないで、ほら! 踊って! 音楽を楽しむんだ!」

 無理矢理ひきずられ、気がつけばおれはディスコの真ん中に立たされていた。ボニーといると、一事が万事、ずっとこんな調子だ。

 隣で踊っているのは七十代くらいの老夫婦。その向こうには昼間の展示会で見かけたカップルがいる。BGMはR&Bのスタンダード曲。トラボルタをすっとばして、50年代に到着だ。こんな中でぼうっと突っ立っているのは、誰であっても、どの角度から見ても、マヌケに違いない。オールディーズに背中を押され、おれの足はそろりと地面から離れだす。

「その調子だ」と微笑むボニー。やれやれ、彼女は何て気分屋なんだろう。この間までは、おれに仏頂面しか見せなかったのに。

 今かかっているのは、ウィルソン・ピケットの〈ダンス天国〉。ソウルフルな歌声がフロア響く。おれはボニーの手を取り、脇の下でくるりと彼女を回した。

「踊れるじゃないか!」ボニーは驚いたように叫んだ。

「踊れないなんて誰が言いました?」

「嫌がっていたから、てっきり踊れないのかと」

「泳げもするし、踊れもします。嫌がっていたのは、汗をかきたくなかっただけで」

「そりゃすごい、他には何が出来る?」

「そうだな……じゃ、こんなのは?」

 曲に合わせ、彼女の身体を両手で高々と持ち上げる。見事なリフトに周囲から歓声が湧いた。ボニーは短い悲鳴を上げたが、それでも嬉しそうに頬を紅潮させる。隣の中年女性が「素敵よ!」と、おれたちに檄を飛ばす。老夫婦が踊りながら、こちらに手を振ってくる。おれは笑顔でそれに応えた。

 プレスリーからチャック・ベリー。気がつけば全身汗まみれだ。もちろんボニーも同じ状態。額に玉のような汗を浮かべている。

「汗をかきたくなかったって?」とボニーが笑う。「もう手遅れだよ!」

「服のまま泳ぐほどには濡れてませんよ」

「確かに。それほどには酔狂じゃない」

 踊り続け、酸欠で倒れそうになってきたところで、不意に照明が落とされた。スローなナンバーがかかり、フロアの雰囲気は一転。ボニーは席に戻ろうとしたが、おれは彼女の手を掴んで引き戻す。

「音楽がかかってるのに踊りもしない?」

「バラードだ。こんなの踊れない」

「人を踊らせておいて、それはないでしょう」

「こういうダンスは駄目なんだ。わたしはプロム(卒業パーティ)にだって出てない。踊り方がわからないよ」

「ただ揺れてればいいだけです。おれに合わせて」

 ボニーの身体は汗で湿り気を帯びている。おれも同じだったが、構わず彼女の肩を抱き寄せる。

 名も知らぬ緩やかなバラード。おれの腕の中で、ボニーはどういうわけか緊張しているらしい。さっきまで笑っていた勝ち気な女性はどこへやら。それはロナルドの伝記映画で見た通り、田舎から出てきた、ウブな女の子のようだった。




 バラードが止み、ムードミュージックへと変わったところで、おれとボニーはフロアを後にした。彼女をシートに座らせ、おれはバーへ。ジンのクランベリー割りはボニーのオーダー。おれはビール。銘柄は何でもいい。とにかくビールだ。

 酒を手にし、席へ戻ろうとすると、ロナルドと話しているボニーが見えた。いや、“話している”んじゃない。怒鳴ってる。会話の内容までは聞こえないが、様子はわかる。どうやら彼らは喧嘩をしているらしい。よくよく見れば激昂しているのはボニーだけで、ロナルドはいつも通りなようだが、何にせよ、酒を手に「お待たせ」と近寄れるムードではない。

 とりあえずバーカウンターにグラスを置き、スツールに寄りかかる。消え始めるビールの泡を見つめていると、「あなた、さっきフロアで踊ってた人でしょ?」と声をかけられた。二つ隣のスツールから、ブロンドの女性がこちらを見ている。

「ね、さっき踊ってたわよね。わたし、見てたの」

 幾何学模様のチュニックに、細身のパンツという出で立ちの彼女。髪は艶やかで、目はグリーン。ひとめ見て、このあたりの人間ではないと分かるキャラクターだ。

 二十代前半とおぼしきその女性は、「わたし、サンフランシスコから来たの」と、聞かれてもいないのに、自己紹介をし始めた。

「シスコから来たのは先週よ。両親がこっちに住んでるの。パパとママがボニー・レインのファンだから、付き合ってここに来たんだけど、わたし、両親ほどは楽しめないみたい」言って、きゅっと肩をすぼめて見せる。「あなたもここの人じゃないわね? どこから来たの?」

「ニューヨーク」

「マンハッタン?」

「ああ」

「そうか、やっぱりね。洗練されてるもの。ここに来てる人はみんな“ウエスタン!”って感じの人ばっかだし」

 バーテンダーが彼女の前にマティーニを置いた。これが一杯目というわけではなさそうだ。

「ねえ、さっきボニー・レインと踊ってたわよね?」濃い付け睫毛の下、緑の瞳がきらりと輝く。「あなた背が大っきいし、相手はあのボニーでしょ。わたしだけじゃなく、みんながあなたたちのことを見てたと思うわ」

 オリーブに刺さった楊枝を爪先でいじりまわし、「もしかしてボニーの恋人なの?」と、何気ない調子で訊ねる。

「いや、違う」

「そう」彼女はにっこりと微笑んだ。「そうよね。ボニーとあなたじゃ、年が離れすぎてるもの。ねぇ、これからわたしの部屋に来ない?」

 こっちの名前を聞きもせず、部屋に誘う彼女。おれの手の上に、そっと手を重ね、「このバー、もうすぐ閉まるみたいだし」と言う。

 それに対し、おれは「いま何時かな?」と、明らかにどうでもいいことを口にし、失礼にあたらない程度の速度で、彼女の手から逃れる。振り返ってシート席に視線を向けると、ロナルドもボニーも姿を消していた。




 エレベーターを降りたところで、ロナルドと出くわす。

「ああ、ディーン」びっくりしたような、安堵したような顔の彼。「さっきは済まなかった。ひと声かけようと思ったんだが」

「ボニーと一緒では?」

「いや、彼女は部屋に戻った」

「何を話していたんです? なにか、その……揉め事でも?」

「たいしたことじゃないんだ。ただ……」ロナルドは深く息をはいた。「ボニーとはいつも言い合いになる。怒鳴っているのはたいがい彼女だけどね」

「何について?」

「ほんとうに大したことじゃない。ぼくは彼女にこう言った『きみとディーンが踊っているのを見たよ』とね。『プロムでも踊らなかったのに、いったいどういう心境の変化だい?』と聞いたら……彼女、いきなり怒り出した」

「どうして?」

「さあ……どうしてだか」ふたたびため息。「いつもそうさ。“どうしてか”なんてわからない。どこで彼女のスイッチが入るのかなんて、さっぱり読めないよ。ただわかるのは、“ああ、また自分はボニーの地雷を踏んだ”ってことだけだ」

 きっと彼はこうしたやりとりを、ボニーとの間で何度も経験してきたのだろう。“高校のときから、ぼくは一番の被害者”。それは間違いなく事実で、彼はそのことに傷ついている。繊細な絵を描くロナルドは優しい男だ。人間関係の痛手に慣れることは、無神経になることだが、彼は無神経とはほど遠い。何度踏もうと地雷は地雷。痛くないわけがない。




 しつこくドアを叩き、彼女の名前を呼び続ける。ボニーが“誰とも会いたくない”と思っていて、それで聞こえない振りをしているのだろうとは想像がつくが、あまりにも長く反応がないので、段々不安になってきた。しばらく忘れていたが、薬物依存の件もある。もしも彼女が部屋の中で倒れでもしていたら? いっそフロントに頼んでドアを開けてもらおうかと考えたところで、ガチャンと何かが倒れる音がした。部屋の中に人がいることは証明されたが、それは何の希望にもならない。

「ボニー! ドアを開けてください! 開けないというのなら、ブチ破りますよ!」

 ややあって「うるさいな」とボニーが顔を出した。髪は濡れ、バスローブを身につけている。今までシャワーを浴びていたのは一目瞭然だ。

「何の用だ?」

「その……あなたの部屋から物音が……」

「物音だって? わたしの部屋をスパイでもしているのか?」

「何かが倒れる音がしたんです」

「ああ、それか。電気スタンドだ。大したことない。割れて破片が飛び散っただけだ」

 電気スタンドが割れて破片が飛び散ったのは、大したことじゃないのか。

「片付けるのを手伝いますよ」

「別にいい」

 ボニーの部屋は空調が効いていて、ここに立っていても、冷え冷えとした冷気が感じられる。そのせいか、彼女はシャワーを浴びたばかりだというのに、顔色がとても悪かった。

「唇が紫ですよ」

「なにが?」

「あなたの唇が」

「わたしの唇なんてどうでもいい」

「冷蔵庫にでも入ってたんですか?」

 ボニーは表情を変えず、「水を浴びたから」と、つぶやいた。

「水を? なんでまた?」

「頭がすっきりする」

「風邪でもひいたらどうするんです」

「ディーン、きみはわたしのマネージャーか?」

「もちろん違います。しかし契約しているアーティストにもしものことがあった場合……」

「大げさだ」おれの言葉を遮るボニー。「わたしは大丈夫だよ」

「こんなに顔色が悪いのに?」

「しつこいな。きみの会社に迷惑はかけないよ」

「会社がどうとかいう問題じゃありません」

「じゃあ何だ?」

 冷たく睨みつけられ、おれの胸は苦しくなった。

「あなたが……心配なんです」

 それはまったくの本心だったが、彼女にとってはどうでもいいことのようだった。ボニーは鼻を鳴らし、皮肉な笑みを浮かべて見せる。

「“心配”“心配”“心配”……きみもロナルドと同じ病気だな。わたしのことは放っておいてくれ」

「無理です」

「“心配”なんて欲しくないよ」

「だったら何が欲しいんです?」そう言っておれが歩を詰めると、ボニーは困惑したような表情になった。

「いったいあなたは何が欲しいんです?」

 後ずさるボニー。彼女がさがったぶんだけ、おれは距離をつめる。

「聞かせてください。あなたは何が欲しいんですか?」

 彼女は答えず、うつむいたはずみ、長い髪からおれの頬に水がはねた。その水滴はとても冷たかった。

「ボニー」

 彼女の手を掴む。まるで氷のようだ。

「ディーン、離……」

 彼女の手は冷たい。

 彼女の唇は冷たい。

 彼女の身体はとても冷たい。

 相手が何を欲しがっているかもわからず、ただ自分が与えたいと思うものをおれは与えた。体温で氷を溶かし、ボニーの名前を何度も呼ぶ。熱が戻るまで、おれは彼女を抱きしめていて、この日を境にポケットの小銭は減らなくなった。




 あれから毎晩、彼女はおれの腕の中で眠っている。まるで子供のように、おれの胸に額をくっつけて。小鳥のように華奢な身体は、少しでも乱暴にすると壊れてしまいそうだ。どう扱うべきなのかよくわからず、おれは不安なまま彼女を抱く。ひとつのベッドにおれたちはいて、それでも会話はほとんどない。朝になって目が覚めると、隣にボニーがいることに少し驚く。彼女もまたおれを見て、しばらくぼんやりとした顔をしているので、同じようなことを考えているのかもしれない。

 部屋でふたりきりになると、話すことはほとんどなかったが、日中、仕事の間は普通だった。一緒にランチをとったり、乗馬をしたり。そんなときは笑い合ったりもする。でも夜になると、おれたちは黙りこくり、空間は奇妙な緊張に包まれてゆく。

 彼女はおれの指先を軽く握った。遠慮がちとでもいうようなその触れ方に、なぜか傷つけられたような感覚に陥る。触れるべきでないものに触れ、見つめるべきでないものを見つめ、おれとボニーは互いを求め合った。

 翌朝にはここを去るという晩、おれはボニーに何かを言うべきだと思った。しかし言葉はとても重たく、胸のあたりに引っかかって出て来ない。おれが妙に真剣な面持ちをしているので、ボニーは髪をとかすのをやめた。おれたちはベッドに並んで腰を下ろす。

 最後の夜だ。何か言うことがあるはずだ。おれは膝の上で組んだ両手に視線を落とした。握りこぶしの関節が白くなっている。

「ボニー……」

 彼女の名前を呼びはしたが、顔を見ることはできない。血の気の引いた指先を見つめ、たどたどしく言葉を綴る。

「おれは…きみが……きみと…一緒に……」

 “一緒に”? 一緒に何だって言うんだ。おれはいったい何を言おうとしているんだ。

「ディーン」ボニーがおれの後頭部に手を置いた。「きみは何を言ってるんだ」

 おれの考えは彼女の唇を借りて発せられた。

「まさか馬鹿なことを言って、わたしを困らせたりはしないだろうね?」

 言葉は教師のようだが、発音はとても優しげだ。

「きみも本当はわかってるはずだよ。わたしたちの人生はまったく別なところにある」

 おれは彼女を見ることができない。ボニーの手が髪を撫でている。

「それにね……わたしにはもうずっと前から愛している人がいるんだ」

「ビル?」小さくつぶやくと、ボニーは「おや、ロナルドからその話を?」と聞いた。おれが黙っていると、彼女は独り言のように「いいや、ビルじゃない」と言う。「彼のことを好きだったこともあったけどね。わたしが愛しているのはロナルドさ。もうずっと昔から、ほんの小娘だった頃から、わたしはロナルドだけを愛しているんだ」そして立ち上がるボニー。

「さようならディーン、もう……会わないよ」

 言われて、おれはようやく顔を上げる。ボニーは笑っていた。にっこりと微笑み、馬鹿な男を見つめている。

 彼女の言ったことはとてもよく理解できた───できたにも関わらず、このときおれが考えていたのは、『ボニーの瞳はなんて美しいんだろう』ということだけだった。




 ラガーディア空港はいつもより混雑している。交通労働組合のストの影響で、タクシープールは異常な行列。いらついた人々の怒鳴り声が嫌でも耳に入ってくる。いつもなら三十分で家に着くはずが、もう一時間も足止め状態だ。その惨状を見越して、ポールが空港まで迎えに来てくれた。外からマンハッタンに入るのは大変だけど、その逆は楽なのだと彼は教えてくれた。

 荷物をタクシーに積み込み、後部座席に並んで座る。ポールは「飛行機は揺れた?」とか「今夜は何が食べたい?」とか、そんなことばかりを聞いてくる。ずっと連絡をしていなかったことについて、不信を抱いていないわけがない。適当な会話が途切れたところで、彼が不意に手を握ってきた。そして「すごく会いたかった……」と、ささやくように言う。

「ああ……おれも……」手を握り返す。

「帰ってきたくないかと思った」

「そんなことはない」

「どっかに行っちゃって帰ってこないんじゃないかって」

「どこに?」

「わからないけど」

「おれの家はここだ」

「わかってるけど」

「帰ってこれて嬉しいよ……ほんとうに……」言って、おれは目を閉じた。

 嘘ではない。自分の居場所はここだ。こんなに安心できる場所は他にない。愛する人と暮らす街。おれの幸福はすべてここにある。服を着たまま水に入ったり、汗をかきたくないときに踊ったり。夜中に目を覚まし、胸の中にちゃんと相手がいるかなどと確認したり、今夜は薬を飲み過ぎてないだろうかと案ずることもない。一緒にいても癒されることがなく、触れていなければ不安に思うようなことは真っ平だ。

 マンハッタンのアパートメントに足を踏み入れた今、おれは心から安堵している。帰って来れて嬉しい。嘘じゃない、本当だ。おれはここにいる。ここにいたい。おれの家はここだ。ガラスのような瞳を見つめ、苦しい思いをするのは嫌だ。そんな時間はもう終わった。ここは“おれがおれでいられる場所”。それは絶対に間違いない。おれはここにいるべきで、誰といるべきかもわかってる。




 ポールはレタスを一枚一枚、手ではがし、サラダを作る準備をしている。角切りにした野菜に、レモンとオリーブオイル。おれの好きな『羊飼いのサラダ』だ。

 こちらに背を向けたまま、「もうすぐできるよ」と言うポール。抑揚がなく、固い声。「座って待ってて。疲れたでしょ」

「ポール」

「座っててってば」トントンと野菜を刻む音。

「ポール、おれは……」

「聞きたくない」彼は振り向かない。

「どうして?」

「聞いたらきみを嫌いになってしまうから」

「ポール」

「嫌だ」

「おれはボニーと寝た」

 彼の動きがとまった。そしてくるりと振り向き、「どうしてだよ」と強く言う。

「どうして言うんだ。聞いたら……嫌いになるって言ったのに!」レタスの葉を掴んで投げつけるポール。それはおれの頭に当たって床に落ちた。もう一度、野菜を投げようとする彼を、おれは素早く抱きすくめる。

「離せ!」

「愛してる」耳元にそう告げると、ポールの声がか細くなった。

「どうして……」

「おれはきみを愛してる」

「どうしてそんなこと言うんだ……」

「愛してる」

「離せ! ぼくに触るな!」抗い、振り払おうとするポール。

「離さない。おれはきみを」おれは抱く腕にさらに力を込める。

「きみは最低の男だ!」

「愛してる」

「大嫌いだ……」

「愛してる……」



 ポールがおれの顔を見るようになったのは四日後。会話をするようになったのは、それからさらに四日後のことだ。コロラドでの数日間に何が起きたのか。それについての細かな説明を、彼は求めようとしなかった。実際のところ、それはまったく別なところからもたらされたからだ。数年ぶりにリリースされたボニー・レインの新曲。その歌詞に、事のすべてが歌われていた。


  信じられないでしょうけど、でも聞いてほしいの。

  わたし、プロポーズされたのよ。

  それはニューヨークから来た素敵な彼。

  とてもハンサムで、みんなが彼を振り返るの。

  彼に好かれて、わたしは舞い上がってしまった。

  まるでティーンエイジャーのように。


  アラバマの農場で、わたしと一緒に暮らせるかしら?

  馬にも乗れず、カウボーイハットだって似合っていない彼。

  このアラバマで、わたしと一緒に暮らせるかしら?


  素敵な目の色と、素敵なダンス。

  彼に好かれて、わたしは舞い上がってしまった。

  まるでティーンエイジャーのように。


 曲調は明るく、ハッピーエンドを思わせる歌詞だったが、それでもポールはこの曲を「悲しい歌だ」と評した。




 休日の午後。遅めのランチをバルコニーにセッティングしたのはポールだった。テラス用の白いテーブルとチェア。買ったはいいが、めったに使用されることのないそれを、彼はいつの間にか磨き上げていたらしい。プラスチック製のガーデンテーブルは、買ったときと同じくらい真っ白に輝いている。

 食後のコーヒーに口をつけ、ポールはふぅとため息を漏らす。そしてぽつり、「彼女のこと……愛してた?」とつぶやいた。彼の視線はコーヒーカップに据えられている。

 おれはシュガーポットを見つめて言った。「……わからない」答えは正直なものだったが、明確さは皆無だ。

「あれが愛なのかどうかは……ただもうやたら苦しかった。きみと一緒にいるみたいに幸福じゃなかった」

「そうか」軽く頷くポール。「それはね、恋だよ」

「恋?」

「馬鹿なディーン、今までたくさんの女の子と付き合って、ぼくという恋人までいるってのに。きみは今頃、“初めての恋”なんてものをしているんだから……」ポールは顔をしかめ、鼻から笑った。嫌味な顔。こんな表情は初めて見る。おれがそうさせている。彼の顔を変えたのはおれなんだ。

「おれのこと、嫌いになったよな」

「なったよ」笑い止め、真剣な顔になるポール。そしてコーヒーをすすり、「でも愛してる」と言う。

 怒るでも、悲しむでもなく。彼は考え事をしているような目つきをしている。それはおれに言っているというより、どこか遠くに向けて宣言しているように聞こえた。

 テラスに吹く風は、夏の終わりを告げている。重たい湿り気のある空気や、熱したフライパンのような日差しは徐々に気配を消し、ゆるやかに秋が忍び寄る。テラスで食事ができる回数も、きっとあとわずかだろう。日は移り、影が伸びる。ボニーとの日々が何であったのか、おれにはまだ見当がつかない。ポールはそれを恋と呼んだが、おれが知っている恋とは別物だ。恋は人を幸福にしてくれる。それが恋だとおれは信じていたのだから。

 目を閉じると、頬に西風が感じられた。その感触は、あの日の草原をおれに思い起こさせる。風は胸に優しく傷を作り、そして来たときと同じくらい爽やかに去っていった。


END

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