第16話:愛はいつでも突然に(Crazy For You)

 人の心は複雑怪奇だ。

 赤ん坊の頃は誰でも素直で、欲しいものは欲しいと(それはミルクとかオムツとか、ごく単純なものだが)ハッキリ主張していた。しかし大人になるにつれ、人間の感情は複雑さを増してくる。好きなのに虐めてしまったり、嫌いなのに愛想良くしたり───。そんなことをしても事態は少しもよくならないとわかっていながら、多くの人がこのややこしい不思議なゲームに参加し、プレーしている。

『素直がいちばん!』などと口では言うものの、それは所詮タテマエに過ぎない。特にこのマンハッタンでは、本心というものは巧妙に隠されている場合が往々にしてある。

 以前、おれが付き合っていた女性、シャーロット=アンとの間にこんなことがあった。

「トーマスが一緒にコンサートに行かないかって言うの」と彼女は言った。「クラシックの合唱がマーキン・コンサート・ホールであるからって」

「それで?」と、おれは聞き返す。「きみは行きたいの?」

 ちなみにおれは合唱など趣味ではない。

「ええ……そうね」彼女はこのとき、確かに頷いてみせた。

 トーマスはおれたちの共通の友人だ。おれにとっては“知人”程度の存在の彼が、シャーロット=アンを狙っているのは前々から知っていた。いたが、おれはこの件に関して取り乱すことはしなかった。トーマスは彼女よりずっとチビだったし、おれとシャールの関係はうまくいっていたからだ。

「別にコンサートに行くだけだろ? いいよ、行っておいで」

 おれは大人の男として、寛大な態度を示したつもりだった。しかしシャーロット=アンはそれを聞いて顔色を変えた。

「どうしてそんなことが言えるの? わたしのことが心配じゃないの?」

「心配? 心配なもんか」おれは優しく彼女の髪を撫で、言った。「おれはきみを信用してる。たとえ誰と出かけても不安になんて思うわけがない」

 それはおれにとって、最大の賛辞のつもりだった。こっちは彼女との愛を疑っていない。チビのクラシックオタクとシャールが出かけたところで、何の問題があるだろう? もし彼女がそうしたいというのであれば、おれはそれを止めたりはしない。『行くな』だなんて命令するのは、彼女の不貞を疑うも同然だからだ。

 その出来事から二週間後、シャーロット=アンはチビのクラシックオタクと付き合い始めた。のちに彼女の友人、ベッカが言っていたのは「シャールはあなたのことを試したのよ」ということ。「あの子はあなたに“行くな”って言って欲しかったんだわ」

「なんだそれは? だって彼女はコンサートに行きたいって言ったんだぜ? その望みを阻んで、束縛して欲しかったって言うのか?」

「ディーン」ベッカは頭を軽く振って言った。

「あなたって女心をわかってないのね」

 こんなややこしいものが一般的な女心というならば、すべて男は心理学を専攻すべきだと思う。では男心が簡単かと言えば、それもまたそうでもない。男は意地っ張りで強情な部分がある。どうしてもセックスしたいのに、そうじゃない振りをしてみせたりなどが、いい例だ。(しかしながら、これを素直に表現するとなると、裁判沙汰にもなりかねないため、“そうじゃない振り”というのは、社会的に必要なアイテムなのかもしれない)。

 とにかく人間というのは複雑なもの。ときには自分自身の本心すらもおぼつかないのに、他人の、ましてや“女心”を解き明かせというのは、そう簡単なことじゃない。

 では“ゲイ心”についてはどうだろう? こいつはなかなか興味深いところだ。おれが認識する限りでは、彼らは男ほど頑固ではなく、女ほど複雑ではない。自分のアイディンティティを認め、それを解放したゲイたちは、思うがままに生きている。似合う似合わないに関わらず、好みの服を身につけ、落ちる落ちないに関わらず、好きな相手に突進する。これはあくまでおれから見た彼らのことで、一般的な認識とはまた違うかもしれないが、少なくともマンハッタンの一部社会には、確実にこうした生物が存在するのだ。

「あの子ったら本当に素敵。もう食べちゃいたい」

「こないだ知り合った彼にアタックしてるんだけど、なかなか手強いわ〜」

「ねえ、どっかにいい男いない? もしいたらあたしに紹介してよ」

 これらは彼らの日常会話。感情と欲望とが、すべて行動となって現れている。

 素直なことはいいことだ。ゲイ連の実行力は、まこと称賛に値する。それはあくまで『こちらに降り掛かってさえ来なければ』の話だが……。




 冷蔵庫には特別なシャンパン。もしそれが好みじゃなかった場合に備えて、外国のビールを数種類。さらに、それも好みじゃなかった場合に備えて、国産のビールもたんまり。あとは手作りのカナッペにグリルドチキン。食後にはローファット“じゃない”アイスクリームを用意した。

 数日前からそわそわしっぱなしのおれの様子を見て、「まるでローマ法王でもお迎えするみたい」とポールは笑っていた。

 むしろローマ法王だったら、さほど気忙しいことにはならないだろう。聖者はとても寛容で、おれの生活態度など、おそらく少しもお気になさらない。もし法王が「ギネスは嫌いだ。カナッペは不味い」と言ったところで、おれはその言葉を個人的にとることはしないし、それによって下された評価がたとえ“D−”だとしても、おれの人生にはさほど関係のないことだ。(“死後の裁き”については、ここでは考えないことにする)。

 だがしかし。今日ここに迎えた男から、「ギネスは嫌いだ。カナッペは不味い」と言われでもしたら、おれはたぶんガッカリする。生活態度をチェックされたあげく、“D−”と評されたら……きっと自分自身を根底から否定されたような気持ちになることだろう。

 特別なシャンパンは彼のため。おれがいくぶん緊張をもって迎え入れるは、“天の父”ではなく、“人の父”だ。唯一にして無二の存在は、ホワイトステッチのダンガリーシャツと、古びたリーバイスをはいていて、長めの黒髪とブルーグレーの瞳をもっている。

 彼は「すてきな部屋に住んでいるな」と、初めて訪れる我が家のリビングを見回して言った。それだけのことなのに、おれはずいぶん嬉しいと感じる。同じことをローマ法王から言われたら、それは社交辞令だと思うかもしれない。

「空港からずっと荷物を持たせて済まなかったね。重たかったろ?」そう彼が言うので、おれは「大丈夫です」と答えた。実際、それはとても重かったが。

 頑丈そうな帆布のバッグを彼は開いた。中から出てきたのはビニールのパックや瓶詰めの類い。

「食料品だね?」と、おれは彼の背後から覗き込んだ。

「ああ、これはきみたちへのお土産だ」

 手渡されたのはジャーキーの袋。パッケージには、かわいいムースの絵が描いてある。

「ヘラジカのジャーキー?」

「嫌いじゃないといいけど」

「嫌いとか以前に食べたことないな」

「ビーフジャーキーより癖があるが、おれは好きだ」

「楽しみだな。後でビールのツマミに開けよう。こっちは何?」メタリックな真空パック。それはずっしりとした重さがある。

「それはスモークサーモン」

「わぉ! スモークサーモン! これはママが羨ましがるだろうな。彼女、スモークサーモンのマリネが大好物なんだ」

 アラスカ土産に喜悦を上げるおれに「きみは母親のことを“ママ”と?」と、彼が訊く。

「ああ……ええ、そう。いい年をしてみっともないかな? でも今さら“おかあさん”ってのも何かヘンだし……。ねえ、エドセル、これは冷蔵庫に入れた方がいいのかな?」

 謎の瓶詰めはヒンヤリしている。パッケージから推測するに、おそらくレストランか何かで詰められた手製の何かだ。

 彼はおれの質問には答えず、ただ黙って、何か苦いものでも口に入れたような、複雑な表情を浮かべている。

「エドセル?」

 この沈黙は何だろう? おれは何かヘンなことでも……あっ、そうか。

 合点した瞬間、彼はこちらの表情を読み取り「いや」と、慌てたように手を振った。

「いや、別にいいんだ。当然だ。だっておれたちは、その……長いこと会ってなかったんだから。無理もない」

 早口でそう言い、不自然な笑顔を作るエドセル。おれと彼とが最後に会ったのは昨年の冬だが、“長いこと会っていなかった”というのは、この半年の間を指すものではない。

 ここは何と返事をするべきかとおれが考えていると、彼は「そうか、ミリアムはスモークサーモンが好きだったのか」と、話題を変えた。

「もっと早くそれを知ってればよかったよ。五ヶ月前、初めて彼女の家に行ったとき、おれはエスキモーの民芸品を土産に持って行ったんだ。それは複雑に編み上げたショールで、織り上げるのに何ヶ月もかかる。ところがマイアミは温暖で、毛皮を編み込んだショールの出番はないんだな」

 おれは思わずくすりと笑った。するとエドセルもつられ、わずかに笑顔を見せた。

「そのとき、もうひとつ用意したのはトナカイの糞入りの石鹸だ。美容にいいと評判の商品だったが、これまたきみのママはお気に召さなかった。『トナカイの糞ですって? 相変わらず女心がわかってないのね』。そう言われたよ」

「そういうことなら、先におれに訊いてくれればよかったのに。ママの好きなものはヨーロッパのアンティークとルイ・ヴィトン。あとはスモークサーモンにキャビア、ロブスター…魚介類はみんな好きかな」

「ああ、そういえばそうだった。彼女はおれの作るエビのフリッターが大好きだったっけ」

 遠い目をしてそう言うエドセルは、やっぱりなかなかの男前だ。身体に余分な脂肪はついておらず、髪はしっかり残っていて艶もある。人間、外見がすべてだと言うつもりはないが、それでもこの結果におれは満足だ。自分の将来についての保証を得た思いがする。

『ところであなたの父親という人はハゲではないですよね?』と聞きたくなってきたあたりで、「あ、もう来てたんだ」とポールが登場。

「思ったより早かったね」彼はスーパーの紙袋をテーブルに置いた。

「高速が空いてたから助かったよ。きみはスーパーマーケットに?」

「トイレの電球が急に切れたから、買いに行ってた」

「トイレの電球。初対面のワンシーンに相応しい単語だな」

 おれはポールをエドセルに、エドセルをポールに紹介した。

「はじめましてケリーさん。お会いできて嬉しいです」

「こちらこそ。おれのことはエドセルと呼んでくれて構わないよ」

 ふたりはにこやかに握手を交わした。

 ポールは“エドセル”と呼んでいい。ではおれはどういうふうに呼べばいいだろう。今さら“父さん”ってのもヘンな感じだし、“親父”なんて呼ぶほどには親しくない。ましてや“パパ”なんてもっと奇妙だ。何たって、おれは産まれてこのかた、これらの単語を人に向かって発したことはないんだから。

「あ、そうだ」とポール。「さっきローマンから電話があってね。今からこっちに顔を出すって」

 なんだそれは。事後承諾なのか。突然の凶報に顔を曇らせるおれに、ポールは「大丈夫」と言って笑った。「彼はちょっと荷物を届けにくるだけだから。すぐ帰るよ」

「だといいが……」

 おれが不安げに希望的観測を述べたところで、玄関のベルが鳴った。インターフォンのボタンを押すや否や、飛び出す声はもろちん……“噂をすれば影”だ。

『今日はゲストが来てるから、玄関先で悪いけど』と制止する間もなく、ずかずか上がり込むローマン。ここが他人の家であることを、たまに思い出してもらいたい。

「もー! 今日お休みしてるなんて言ってなかったじゃない! あたし、お店の方に行っちゃったわよ!」

 プリプリ怒るローマンに、ポールは「ごめん」と謝罪した。「今日はアリシアと勤務日を交代したんだ」

「ほらこれっ! ご所望の海草のパックと死海の泥石鹸! 業務用サイズが五個ずつ! すっごく重たかったわよ! ここまで持ってくるの大変だったんだから!」

「ちょっと……もう少し声のトーンを落としてくれないか?」

「あらっ、ディーン。あんたもいたのね。だったら迎えにきてもらやよかった。見てよこれ、手が真っ赤! 後でクリーム塗らなくちゃ」

「客が来てるんだ。もっと静かな声でしゃべってくれ」

「あら、失礼。お客様? 珍しいわね? どなた?」言ってリビングを覗き込もうとするローマン。物見高い彼が首を伸ばすと同時に、おれの背後から声がした。

「お友達?」

『いや、別に。化粧品のセールスマンだよ』そう言ってみたい衝動に駆られたが、いくらなんでも通らないだろう。

「そう……ええと、紹介するよ。友達のローマン。ローマン、彼はおれの父親でエドセル・ケリー。前に話したよな?」

 するとローマンは、おれにではなく、エドセルに向かって「ええ、お噂は」と、微笑んだ。「とても素敵なお父様だと伺いましたわ」

 いきなり言葉遣いが丁寧になった。さっきまでゼンマイ仕掛けのオモチャみたいにキーキーわめいていたくせ、この変わり身の早さときたら、まったく尊敬に値する。外面の良さは、そんじょそこらの政治家も顔負けだ。

「ケリーさんは、アラスカの民俗学に精通していらっしゃるのでしょう?」と、ローマン。

「精通というほどではないけどね……おれのことはエドセルと呼んでくれて構わないよ。どうも敬称には慣れていないもので」

 だとしたらきっと“父さん”って呼ばれるのにも慣れてないだろうね。さて、それでおれはあなたのことを何て呼べばいい?

「よろしければ」と、改まって言うローマン。「アラスカの文化について、二、三質問させて頂いてもいいかしら? こんな機会めったにあるものではないから……。もし差し支えなければ」

 にっこり微笑む彼に、おれは素早く言い放つ。

「いや、差し支えるよ。エドセルはさっき着いたばかりなんだ。とても疲れてる。だからきみの質問はまた今度」

「ディーン、おれなら平気だよ」声に笑いをにじませるエドセル。「老人じゃないんだ。そんなに心配してくれなくてもいい」

「別にあなたを老人扱いしたわけでは……」

 そうじゃなくて、このお騒がせ男に消えてほしいがゆえの方便なんだってば! しかしそんなことがエドセルに伝わるわけもなく、彼はニコニコと「で、何が聞きたいんだい?」と、ローマンに話しかけている。リビングに消える二人の背を見送り、ため息をつくおれの肩に手を置いたのは、もちろんポールだ。

「ごめん。ぼくがローマンを断るべきだったね。せっかく親子水入らずだったのに」

 申し訳なさそうに言う彼の手をおれはとり、「別に“水入らず”とかはどうでもいいんだ」と否定する。

「そう?」とポール。

「ああ、おれが心配してるのは、ローマンが妙な発言をしやしないかってことさ。つまり、アラスカの素朴な中年男にとってショッキングな話題を」

「それは心配いらないと思うな。ローマンはあれで常識があるんだ」

「あれが常識人だったら、コートニー・ラブはファースト・レディになれる」

 おれの主張にポールは笑い、それから“やれやれ”という風に笑って首を横に振った。

「ディーンってば。いったいどうしたの? お父さんが来てるってそんなに緊張すること?」

「緊張はしてないさ」

「じゃあ何?」

「それは……」言いかけたところで、ローマンが顔を出す。

「ねえ、ちょっと。あなた方、ゲストにお茶も振る舞わないの? いえ、“ゲスト”って、わたしのことじゃなくて」

「ああ、ごめん。今行く」

「この間、わたしがあげたハーブティはまだある?」

「あるよ」

「あなたのお父様にそれを出してあげたいと思うんだけど」

「ああ、いいよ。……ところで初耳だな。きみがアラスカの文化に興味があるとは知らなかった」

「あたしは色々なことに興味があるのよ」

 ローマンはきゅっと肩をすぼめて見せた。そしてとびっきりのスマイルをひとつ───。なんだか嫌な予感がする。




 結局のところ、ハーブティは一杯だけ。おれたちはすぐにビールの栓を抜いて、ジャーキーをかじりながら、とりとめもなく様々なことを喋り合った。

 案じていたローマンの奇言は少しも見られず、それどころか彼は良い料理人となって、おれの父親をもてなしてくれた。“まさかこのまま朝まで居るんじゃないだろうな?”というこちらの気持ちを察したか、迷惑にならない程度の時間に引き上げるという配慮も忘れない。なんだ、彼はやればできるんじゃないか。いつもこれぐらいのセンスでもって生きてくれれば、おれだって無下に追い返そうとはしないのに。

 翌日、掃除機をかけていると、「昨日はおじゃまさま〜」と、ローマンがやってきた。

「無理に居座ったりして、ごめんなさいね。でもおかげでとっても楽しかったわ。これ、お礼によかったら」言って、小さな紙袋を差し出す。

「なに?」

「焼きたてのマフィンよ。チェダーチーズ味。お父様がお好きかと思って」

「エドセルはどうかしらないけど、おれは大好きだ。嬉しいな、ありがとう」

「お父様は今日はいらっしゃらないの?」

「姉のところに行ったよ。孫と会うのは初めてだから」

 包みを開くと、チーズのいい香りが広がった。これでコーヒーを淹れない手はない。

 キッチンでコーヒーフィルターの準備をしていると、ローマンが背後からツツツとにじり寄って来た。

「何か手伝うことあぁる?」

「いや、大丈夫。座ってろよ」

「ねえ、ディーン……あたし、あなたに言っておきたいことがあるの」

「きみの使ってる美容液には興味ないよ」答えながら、コーヒー豆をスプーンで計る。

「あなたのお父様、とてもすてきね」

「ありがと」深煎りだから、少なめでいいか。

「あたし彼に一目惚れしちゃった!……って、やだちょっと! 豆こぼれてるわよ!」

 キッチンの床に散らばるコーヒー豆は、おれの心象風景に同じ。衝撃により拡散し、まとまりがない状態を示している。

「一目惚れ……」

「そう♪」嬉しそうに微笑むローマン。

「嫌な冗談言うな」

「冗談じゃないわ。昨日あたしは恋に落ちたの」

「沼にでも落ちてろ」

「ひどっ! なによ、その言いぐさは!」

 ホウキで床を掃きつつ、おれは「正気に戻れよ」と、アドバイス。「一目惚れ? 何だそれ? そんな馬鹿な話があるか」

「何が馬鹿?」

「いくらエドセルがおれに似て男前だからって……別に普通のおっさんだぜ? 格好はあの通りだし、きみの好むブランド服を着てるわけでもない」

「だからアンタは浅はかだってのよ。恋は衣服でするもんじゃない。ハートでするのよ」

「普段、人の服のラベルばかりチェックしてる奴がなに言ってるんだ。そもそもきみの好みって言ったら、ダンサーとか俳優とか、そういう手合いだろ? アラスカのみやげもの屋の主人までターゲットに入ってるとは思わなかったけど」

「ダンサーとか俳優とかなら掃いて捨てるほどいるもの。でもあんな人、このマンハッタンで見たことあって?」

「ブロードウェイ通りにはよくいるよな。外国からの観光客だ」

 おれとローマンの意見は、いつも基本的に一致しない。それはわかっていたが、まさかここまでわけのわからないことを言い出すとは。『あなたの父親に一目惚れ』と告白されたところで、『ああ、それはいいね』なんて言えるわけがない。そんな簡単なことが、どうして彼にはわからないのだろう。

「マジな話、おれの親父はよしとけ。どう考えてもゲイじゃないし、それに一応まだ、お袋と結婚してる。エドセルがきみの恋人になる可能性は、百万分のいちにも満たないよ」

「その百万分のいちを掴むのが、ワ・タ・シ♪」

「無理だね。今回だけは」

「うふふ、まあ見てらっしゃい。きっとびっくりする結果になるわよ」

「ならない」

「“ママ”って呼んでもいのよ」

「呼ぶか! 気色悪いこと言うな!」




 ポールはソファにかけているが、身体を前に二つに折りして、ゲラゲラ声を上げて笑っている。これ以上屈んだら、きっと彼の頭は床にめり込んでしまうことだろう。

「すごいことになって……なんでまた……そんなこと……」

 笑い上戸のポールは呼吸困難になっている。そりゃあ、面白い話だろう。おれだってこれが自分事じゃなかったら、涙目になって爆笑しているに違いない。

「それで……エドセルは何て?」

「彼はまだ何も知らないよ。自分がゲイのお兄ちゃんに狙われてると知ったら、今この瞬間、呑気にシャワーなんて浴びてられないと思うね」

 二人の孫がとても可愛いと言って、ご機嫌で帰宅したエドセル。そんな素敵な一日を台無しにするような話は、おれにはとてもできない。まあしかし、彼の滞在期間は五日程度だ。とりあえずは真実を知らぬままでいてもらって、あとは良きに計らえだ。

 おれがそう言うと、ポールは「そんなにうまくいくかなぁ?」と、不安になるようなことを口走る。

「なんだそれは、どうしてそんなことを言うんだ?」

「だって考えてもみてよ。あのローマンだよ? 五日程度ってきみは言うけど、五日もあれば彼は……」と、そのまま言葉をフェードアウトさせる。

「なんだ? “五日もあれば彼は”……何だってんだ?」

「とにかく、ローマンの実力を甘くみない方がいいってこと」

 ぞぞっ。背中にただならぬ冷気が走った。この部屋にゴーストがいるのかも。

「それで?」と、おれ。

「それだけ」ポールはさっと立ち上がり、「牛乳、まだあったかな?」と言ってキッチンへと向かった。

 おいおい、牛乳なんてどうでもいいだろ。なにかもっと差し迫った会話をしてたんじゃなかったのか、おれたちは。

 首にタオルをかけた格好で、エドセルが現れた。

「ここの家の風呂はすごいな。サウナやらジェット噴射やら、ボタンがいっぱいあって」

 こちらもまた呑気なコメント。濡れた髪のまま携帯をいじり、「おっと、メールが来てる」と確認する。

「ローマンからだ」ぽつり、と言うエドセル。呑気なコメントは一転、緊張の内容へと変貌する。

「なに? 彼にアドレスを教えたわけ?」

 おれがそう聞くと、エドセルは「“メアド交換”ってやつだよ」と、不似合いな単語を口にした。

「明日は彼とミュージカルを観に行く約束を……」

「なんだって!?」

「ローマンとミュージカルを観に行く約束をしたんだ」

 その時ポールがキッチンから顔を出した。

「大きな声……どうしたの?」

 おれはすがるような目で彼を見た。そして悲痛に一言。

「エドセルがローマンとミュージカルを観に行くそうだ……」

 ポールは「ああ」と納得したような顔をして、キッチンにいったん引っ込み、それからビールの缶を三本持って来た。そうだよな。バッドニュースにはホットミルクでなく、やっぱり酒だ。

「何を観に行くんですか?」と質問するポールに、おれは答える。

「〈レント〉じゃないのか? それとも〈ヘアスプレー〉」

「〈ライオンキング〉だよ」と、エドセル。

「エルトン・ジョンつながりか」

「“つながり”?」エドセルは小首をかしげた。

「いや、何でも……。ところでなんでまたローマンとミュージカルを?」

「マンハッタンではみんなミュージカルを観て帰るんだろう?」

「それはローマンが?」

「いや、きみのママが。『何でもいいから何か観て帰りなさい』とね」

「だったら、別にローマンとでなくてもいいと思うけど……」

「彼がチケットを手配できると言ってくれたんだ。なんだかコネがあるんだって?」

「ローマンはいろんなところに顔が広いよ。特に“ゲイ”関連のツテがね」

「そうか」エドセルは頷き、ビールを開けた。

 自分の父親がホモフォビア(同性愛嫌悪症)でないことは喜ぶべきことだ。しかしローマンとデートすることがいかに危険かくらいは、まず理解してもらいたい。

 こちらもまたビールを開け、「ミュージカルならおれと一緒に行けばいいのに」と、不服を述べる。

「そうしたいが」とエドセル。「ローマンの手配は昼の部なんだ。きみは日中は仕事だろ?」

「まあ、そうだけど……」

「夜は一緒にディナーをとろう。仕事は何時に終わるんだ?」

「明日は会議があるからわからないよ。たぶん九時過ぎると思う」

「待ってるよ」

「十時に近い九時だ」

「別にいいさ」

「そんなに遅くまで待っててもらうなんて悪いよ」

「悪いことなんてない」エドセルはにこっと微笑んだ。「きみを待ってるよ」

 気がつくと、ポールが優しい表情でおれたちのことを眺めている。これはあれだ『微笑ましい光景だなぁ』って思ってる顔だ。

 おれはぶっきらぼうにエドセルに言う。「そんな遅くまで待っててもらうなんて心苦しいよ。こっちも気になって会議に集中できない」

 すると、彼はちょっと寂しそうな表情で「そうか」と言った。その顔、なんだかあまり見たくない種類のものだ。おれはポールにビールを渡し、「風呂を使うよ」とバスルームに入る。

 バスタブにお湯を溜めていると、ポールが来た。

「どうしたのディーン。さっきのは」

「さっきの?」

「エドセルにあんな感じの悪い言い方をして」

「感じ悪いか?」

「自覚がなかったの? わざとかと思ったけど」

「どうもおれは彼とうまくやりにくいな……」言って、バスタブの縁にかける。「でも無理もないよな? なんたって父親と過ごすのは産まれて初めてなんだし。こっちもどう会話していいかわからないんだから」

「そうだね」ポールはおれの髪に手をあてた。それを撫でるようにしながら、「でも」と言う。「さっきのは“父親とうまくやりにくい”って言うか、単に意地悪な感じがしたな。どうしてあんな言い方を?」

「どうしてかな……」ポールの手からビールを取り、それに口をつける。しばし考え、「たぶん腹が立ったから」と言う。

「何に?」

「エドセルが自ら危険に飛び込むような真似をするからさ。こっちはローマンを何とか遠ざけようとしているのに、おれの配慮をまるっきり無視するようなことをして」

「それだけ?」

「それだけって何がだ?」

「ん、きみがそう思うなら別にいいけど……」

 なんだか含みのある言い方だ。このまま議論を続けたら喧嘩に発展するかもしれない。今おれはイラついてる。でも無理もないよな? なんたって父親と過ごすのは産まれて初めてのことなんだ。




 次期ローマ法王でも決めようかというほどの長い会議が終わり、オフィスを出たのは予想通り、十時に近い九時だった。携帯を見ると、エドセルからメールが届いている。

 ─── やあ、ハードワーカー! 会議は順調? よかったらディナーを一緒にどう? 仕事が終わったら連絡を貰える? ───

 なんだそれ。おれは昨日の時点で断ったつもりだったのに。『よかったらディナーを一緒に』って、こんな時間まで待ってもらった状態で断れるわけないじゃないか。

 彼に電話をすると、今はコーヒーショップにいるという。おれはその周辺のレストランで、予約がいらないところをいくつか思い描き、タクシーを捕まえた。運転手に行き先を告げ(それはほんの目と鼻の先だが)考える。エドセルはおれを待ってたんだ。メシも食わずに、息子の仕事が終わるのを。なんだろうこれは、こういうことをするのが“父親”ってやつなんだろうか。おれにはそれが長いこといなかったので、よくわからない。そもそもエドセルだって、“父親としての正しい行い”なんて、わかってはいないだろう。

 もしこれが普通の親子関係だったら、こういう場合はどうする?

『なんだよ親父! おれは昨日、“待っててくれなくていい”って言ったじゃないか! 人の話を聞いてないのか?!』

 ……いや、これはないか。たとえおれとエドセルが普通の親子関係を持っていたとしても、おれは親に対してこんな口の利き方はしないはずだ。

 あれこれ考える間もなく、タクシーはコーヒーショップに到着。エドセルは店の外で、おれのことを待っていた。

「やあ、ディーン、急がせたかな? 無理に呼び出したりして済まない」

「いえ、いいんです。ところでエドセル、タイ料理は好き? この近くにいい店があるんだけど……」

 ナイスな笑顔とナイスな会話。おれたちのやり取りは、やっぱりどこかぎこちなく、別れていた年月の長さを感じさせる。

 ちなみにエドセルはタイ料理が苦手だった。辛い食べ物とパクチーが駄目なんだそうだ。そんなことおれは知る由もない。別れていた年月の長さは伊達じゃないと感じさせてくれるエピソードだ。




 タイ料理屋のあてが外れた後は、ちょっと散々な目にあった。いつもだったら予約せずとも入れるはずのフレンチの店は、その日に限って満員御礼。次に選んだ地中海料理は定休日だ。歩き回った末に「もうここでいいか」と、辿り着いたのは、インドネシアのレストラン。おれも初めて入るその店は、味は悪くなかったものの、サービスがいまひとつ。割れたスピーカーからはガムランが大音量で流れていて、普通に会話することもままならない。明らかにおれの選択ミスだが、エドセルは「そんなに悪くもないよ」と慰めてくれた。それでも、ずいぶん手際の悪い奴だという印象を与えただろうことは否めない。いつもだったらもっとスマートに“デート”できるんだが、今日に限ってセンスが鈍ったようだ。

「よりによって今夜だ。まるでおれに意地悪するかのように、どの店にも入れなかったんだ。こんなことってあるのか? エドセルには悪いことしたよ」

 帰宅し、ポールに“失敗”を訴えると、彼は「楽しくなかったの?」と聞いてきた。

「楽しいとかそれ以前の問題だな。音楽があんまりうるさいもんで、おれたちはいちいち“えっ?何だって?”とか言ってさ……まあ、それがなかったとしても、会話が弾んだかどうかは怪しいけど」

 ポールはおれの椅子に逆向きにかけ、「今夜はずいぶん疲れたみたいだね」と言った。こっちはスーツのまま、ベッドにだらしなく横たわっていて、それは“ずいぶん疲れたみたい”な格好に相違ない。

「疲れたよ。長い会議の後だしな。おれとエドセルは、まだお互いリラックスした関係性じゃないんだから。さっきのデートがいい例だ。おれたち、いつキスをしたらいいかと様子を伺う、付き合い始めのティーンエイジャーみたいにぎくしゃくしてて……いや、これはあんまりいい例えじゃなかったか」

 ポールは少し笑い、椅子からベッドへと移動。屈み込んでおれにキスをした。一瞬触れるだけの軽いキスだが、それだけでおれの気分はずいぶん楽になる。

「きみたちがぎくしゃくしてたって?」と思案げな顔をし、ポールはつぶやいた。「それはどうだろう……そうなのかな?」

「どういう意味だ?」

「うん、きみは昨日『父親とうまくやりにくい』って言ったけど、ぼくにはそうは見えなかったんだよ。むしろ、“きみたち、本当に親子なんだな”って思ったくらい。ぼくに父親はいないけど、ああいうやり取りって、父子ならではだろ?」

「“ああいう”って?」

「“父親にすねる息子の図”」

「すねてなんかいるもんか!」

「ほら、大きな声」戒め、おれの鼻先にチョンと指を置く。「ね、もしよかったらこないだの続きを聞かせてよ」

「こないだの続き?」

「ぼくは訊いたよね? “お父さんが来てるってそんなに緊張すること?” そしたらきみは“緊張はしてない”って」

「ああ」

「緊張じゃないとしたら、それって何なの?」

 なんて難しい質問をするんだ? これにうまく答えられたら賞品でも? おれがそう聞くと、ポールは「賞品はきみが“本当の自分に気づける”ってことさ」と笑って言った。

「そうか、よしわかった。ええと…何だろうな……」天井を見つめ、おれは考えを巡らせる。「何だろう……自分でもよく……」

「わからない?」

「ああ」

「じゃあ今は無理に頭で考えようとしないで。でもぼくの質問を心に留めておいてくれると嬉しいな」

「そうするよ」

 現時点では答えられない。だから賞品もおあずけだ。本当の自分に気づけること。その賞品の価値は、簡単に言えば“幸福への切符”。

 たとえば、おれは“ポールのことを愛している”という自分の本心に気がついた。その気づきはおれに幸福をもたらし、今に至る。仮に真実がネガティブなものだとしても、最終的には幸福になれるだろう。自分が苦手とするものを知ることは、何が好きかを知るのと同じくらい重要なことだからだ。

 おれは今回の件で、どんな真実を手に入れるだろう。エドセルといて、おれはいったい何を感じてる? もしそれがネガティブなことだったら……。それでもおれは(“おれたち”は)幸福になれるんだろうか?




 翌日、おれが仕事から帰宅すると、エドセルがソファで電話をしていた。親しげな会話の様子から、てっきりお袋としゃべっているのかと思ったが、彼の口から「この間のライオンキングは……」と言う台詞が飛びだしたので、電話の相手がミリアム・ケリーでないことを、おれは悟った。

「ずいぶん長電話だったね?」と聞くと、エドセルは「本当はめったに電話で人と話さないんだ」と肩をすくめた。「でもローマンは会話がうまいから、つられておしゃべりになってしまったよ。なんだろう、彼には不思議な魅力があるね?」

「“魅力”というか“魔力”がね。気をつけて。あいつに魅入られたが最後、ミュージカルとマドンナと日焼けサロンが好きになってくるから」

「だったら今のところ魅入られた兆候はないな」そう言って笑うエドセル。

 兆候があってたまるもんか。ミュージカルとマドンナと日焼けサロンが好きな親父だなんて冗談じゃない。別に差別するつもりはないが、父親がゲイになって嬉しい息子なんて、どこの世界に存在する? それにもし万がいち、エドセルがゲイになったりしたら、お袋が気の毒だ。やっと見つけた夫がホモになっての帰還だなんて。あまりにも悲劇すぎて、いっそコメディみたいじゃないか。

「ミュージカルを観たこと、お袋には?」

「いや、まだだ」

「彼女に電話を?」

「そうだね……」携帯を見つめ、考え込むような顔をするエドセル。

「どうしたの? まさかママと何か……」

「いや、別に何もないよ」エドセルはぱっと顔を上げた。「何もない。きみが心配しているようなことは何も」

「おれが心配しているようなこと?」

「あ、いや……」墓穴を掘ったと気づいた彼は、諦めたようにため息をつき、「決めつけたように言ってごめん」と謝った。

「ミリアムとはうまくいっているよ。ただ……」もう一度、ため息をひとつ。「やっぱりね、長いこと彼女と会っていなかったものだから、それなりに“ブランク”というものを感じているんだよ。どうもおれは彼女の機嫌をそこねてしまうようなことばかりするらしくって。ミリアムはおれといるとイライラし通しだ。『女心がわかってない』と、しょっちゅう言われるし……正直、どう振る舞っていいのやら」

 困った様子のエドセルのとなりにかけ、「女心を理解するのは難しいよ」と、おれは言った。「だっておれたちは女じゃないんだし。それにうちのママは特に難しい性格をしてるからなぁ」

「そこがミリアムのかわいいところだ」

「ほら、じゃあ、そういうことを言ってやれば?『きみのそういうところがかわいい』」

「そんなこと言ったら殴られるだろうな」

「ああ、確かに」

 おれたちは軽く笑いあい、そして沈黙が訪れた。

 ああほら、またこれだ。“正直、どう振る舞っていいのやら”ってのは、きっとおれにも該当する話なんだろう。エドセルがローマンと長電話できるのは、彼らが初対面という間柄だからだろうか? “ブランク”のあるママやおれよりも、“ノーブランク”な相手の方が、一緒にいて気が楽ということもあるのかもしれない。

「やっぱりミリアムに電話をするよ」と、エドセル。「“きみのそういうところがかわいい”とは言えないけど、それに類する言葉をかけてみようかと思う」

「それはいいね。幸運を祈ります」おれは立ち上がり、彼に指をクロスさせて見せた。

「彼女に泣かされたら慰めてくれよ」

「ええ、もちろん。一緒に泣きましょう」

 エドセルが妻に電話をしている間、おれは自分の部屋から、ローマンに電話をかけた。

「あらー、ディーン。あなたから電話なんてお珍しい。さっきね、あたしエドセルとおしゃべりしていたの」

「ああ、知ってるよ。見てたから。なあ、おれは完全にきみに油断してたぜ。何が『アラスカの文化について、二、三質問』だ。あの会話のどの瞬間に連絡先を聞いたのやら。ローマン・ディスティニーは個人情報を引き出す天才だな」

「まあ、お褒めに預かって、どうも」

「褒めてない。いつもに増して褒めてないぞ」

「あら、それはどうも」

「どうしてエドセルなんだ? いいかげん他の奴をあたってくれよ。きみならよりどりみどりだろ? おれの親父にちょっかいを出すのは頼むからやめてくれ」

「人の恋路をジャマするっての? いくら息子でも、お父さんの幸せを阻む権利はないはずよ」

「お父さんが不幸になるのを黙って見ているほど、薄情な息子じゃない」

「心配しないで。あたしがエドセルを幸せにして、あ・げ・る」

「きみの幸福は彼の不幸だ」

「なんでそんな風に決めつけるのよ? エドセルはねぇ、あたしといるとき、とーっても幸せそうなんだから! ケラケラよく笑ってるし、時間の過ぎるのなんかアッという間。『きみは本当に素敵だね』って言ってくれたのよ」

「それぐらい……言うだろ。社交辞令として」

「ああいう人は社交辞令なんて言わないわよ。彼ったら本当に素直でキュートだわ〜」

 ケラケラよく笑ってる? 時間の過ぎるはアッという間? なんだそれは、いったい誰のことを言ってるんだ? 少なくともおれの知ってる誰かのことだとは信じ難い内容だ。

 電話を切ると、待っていたかのようなタイミングでポールがやってきた。おれはポールを椅子に座らせ、「この間の続きだ」と宣言する。

「“おれがエドセルのことをどう思ってるか”───覚えてるか?」

「もちろん」とポール。

「よし」うなずき、おれは話し始める。「エドセルはとてもいい人だ。だけど、おれの中には戸惑いもある。それは彼という個ではなく、“父親”というものに対してなんだ。たとえば、おれの父親がエドセルでなくても、おれは困惑して、同じような態度をとったと思う。なぜって、おそらくおれは父親から良く思われたいんだ。『まるでローマ法王でもお迎えするみたい』ときみは言ったよな? おれにとって父親との対面はそれ以上のものだ。彼に否定されることは、自分のアイデンティティを否定されるも同じことだからさ。───以上」

「それがきみの答え?」

「そうだ」

「そうか……」ポールは軽く目を伏せた。

「何だ? 何か不服か?」

「不服っていうか……何か“頭で考えました”みたいに聞こえたから」

 それはそうだ。おれはこのところ、ずっと考え続けてた。おれとエドセルのことを、さまざまな角度から見つめてみようと努力したんだ。

 ため息をつき、おれは言った。「明確な答えかと思ったんだけどな」

「うーん、そうだね。確かにかなり分かりやすい。分析結果としては悪くないと思うけど」

「『分析はクライアントの仕事じゃない』そう言うんだな?」

「まあね」

「おれもどこかではわかってたよ。嘘くさい答えだと」

「さすがディーン、曖昧に逃げないのはきみのいいところだね」

 ずいぶんわかりやすく褒められた。ポールはカウンセラーとしても、いいセンスを持っているのかもしれない。とにかく“賞品”はまだオアズケだ。

「なあ、おれもきみから聞きたい話の続きがあるんだ」

「なに?」

「ローマンのことさ。『五日もあれば彼は』……そう言ったきり、きみは黙ったろ? おれはその続きが気になってる。五日もあればローマンはどうだって?」

「ああ、それか」彼は思い出したようにクスッと笑い、「昔の話だけど」と切り出した。

「ずっと前、ローマンはある男の人を好きになったんだ。彼の名前は……仮にXとしておくよ。なぜってその人は有名な俳優だから」

「おれでも名前を知ってる?」

「もちろん」

「オーケー、続けてくれ」

「あるときローマンはこう言った。『あたし、彼に一目惚れしちゃった!』周りにいた友達はみんな笑ったよ。『だからどうしたっての? あたしもよ』『一目惚れですって? 馬鹿ね! 彼はセレブなだけじゃなく、既婚者のストレートよ!』……でもローマンは少しもひるまなかった」ポールの目がきらりと光る。おれは無意識に拳を握りしめていた。「Xと出会ってから数時間後、ローマンは楽しそうに彼と談話していた。その翌日、彼らは一緒にミュージカルを観に行った。そのまた翌日は長電話をしていて、その翌日はショッピングに出かけてた。さらに翌日には花を贈っていて、その夜には……ベッドインしてたんだ」

 ここで思わず悲鳴を上げると、ポールはおれの手にそっと手を重ね「大丈夫、落ち着いて」と優しく言った。

「ふたりは結局、長続きしなかったんだけど、でもXは奥さんと離婚したんだ。ローマンが直接の原因かどうかは知らないけどね。でも無関係ではないと思う。これは四年くらい前の話だよ」

 脳裏に『四年くらい前に離婚した有名な俳優』のリストが展開されそうになったが、頭を振ってそれを追い出す。おれは映画が好きなんだ。こんな下らないゴシップで、素晴らしい愉しみを奪われてたまるか。

「そうか、わかったよ。つまりローマンには五日もあれば……」

「充分すぎる時間だ」ポールはこくんと頷いた。

 おそろしい話だ。キャンプ場で聞いたら眠れなくなるような、第一級のホラーだ。

「“目をつけられたのが自分でなくてよかった”って思ってるでしょ」とポール。

「ああ、そりゃあな。エルム街のフレディに目をつけられた方がずいぶんマシだ」

「ローマンはかつて、きみのことも狙っていたんだよ」

「なにっ!?」

「でもぼくがきみのことを好きだって知ってたから、具体的なアプローチには出なかったんだ」

「そうか……じゃあ、きみはおれの命の恩人ってわけだな?」

「ある意味では。でもぼくが邪魔しなかったら、きみは今頃ローマンと幸せに暮らしていたかも知れないよ?」

「ないな。それはない」

「どうかなぁ」にやりとするポールの肩に腕を回し、自分の方へ引き寄せておれは言う。

「ポール、“運命”ってものを甘く見るもんじゃない。おれはきみと結ばれる結果にあったし、それ以外の可能性なんて、これっぽっちも存在しないんだ。悪魔──すなわちローマンがどんな手を尽くしたって無駄さ。おれたちはこうなる運命だったんだから」

 すると、ポールはおれの顔を見つめ、「わぁ……」と感嘆したような声を上げた。

「なんだ?」

「すごい。なんだか改めて口説かれた感じ。どうしよう、何かドキドキしてきた……」

 頬を染める彼の様子は、“愛らしい”の一言だ。こんな感情をローマンに感じることは、百パーセントあり得ない。

「ポール、おれたちの愛は悪魔にも打ち勝つ……きみのドキドキを聞かせてくれ……」

 甘くささやきつつ、彼のシャツの裾から手を入れる。ポールは小さく震え、うっとりと目を閉じてベッドに倒れた。おれとポールは結ばれる運命。それは今夜、この瞬間にも───。ところでXってマジで誰なんだろう……。




 後になってよくよく思い返してみると、ポールの言葉には恐ろしい予言が含まれてやしなかっただろうか。彼の語ったところによると、ローマンの行動は以下の通り。

 1日目 : 楽しそうに談話する。

 2日目 : 一緒にミュージカルを観に行く。

 3日目 : 長電話。

 4日目 : ショッピングに出かける。

 5日目 : 花を贈る。

 5日目の夜 : ベッドにインする。

 なんとスピーディかつ、無駄のない計画。エルム街のフレディも、こうやってひとつひとつ、目的を成就していったのだろう。ローマンとエドセルが出会ってから今日で四日目。この日はポールが朝からエドセルを連れ出してくれたくれたおかげで、とりあえず魔の手を遠ざけることができた。しかしローマンの計画は現段階、“長電話”まで順調に進んでいるらしい。

 ポールに髪を手入れしてもらったエドセルは、手前味噌かもしれないが、ますますもって男前に磨きがかかってる。こんな状態の彼をローマンの前に出すのは、世界残酷物語に等しい展開だ。

 キッチンでサラミを切っているエドセルに、おれはそっと近寄り、「ちょっと嫌な話をしてもいいかな?」と、シリアスな顔で話しかけた。

「嫌な話───それは嫌だな。でもいいよ。何だい?」彼はナイフをまな板の上に置いた。

「ぼくからの忠告です。ローマンとはもう会わないほうがいいと思います」

「それはどうして?」

「彼はゲイなんです」

「ああ、そうだってね」

「あなたを狙ってます」

 途端、彼は爆笑した。声を上げて笑い、「おれのことを彼が? まさかそれはないだろう」と、頭を振る。

「嫌な話だけど、本当ですよ」

「こんな田舎の年寄りを狙おうだなんて……そんなことはあり得ないよ」

「あり得るんです、これが」

「ローマンはスタイリッシュな子だし、もっと若くて格好いい男の子と付き合いたいんじゃないのかな」

「若くて格好いい男の子は食い飽きたんですよ!!!」

 おれがそう怒鳴ると、エドセルは腕組みし、シンクに寄りかかった。

「じゃあ、もし万がいち、彼がおれを狙っているとして、だ。おれがどう危険だって言うんだ?」

「それは……」

「街中で押し倒されるでもないしな。おれたち、ふたりでモーテルにでもシケこまない限り、互いの貞操は守られるよ」

 冗談めかして言うエドセル。おれの忠告を少しも真剣に捉えてないみたいだ。

「まあ……あなたがそれでいいって言うなら、ぼくも止めませんけどね」肩をすくめ、両手を広げる。「ローマンとショッピング。いいでしょう、好きにしてください。きっと彼は最新のファッションをあなたに紹介してくれますよ」

「ディーン、きみは何をイラついているんだ?」眉間にシワを寄せてエドセル。

 そんなこと、いちいち言わなきゃわからないのか? ゲイの友達と自分の父親がくっつきそうになってて、イラつかない息子がどこにいる?

「自分の胸に手を当ててみたらどうです?」

 言われ、エドセルは真面目くさった顔をして、胸に手を置いた。そして「何もわからないね」と、かぶりを振る。「おれの心はおれ自身のことしか語らない。きみのことはおれにはわからない。きみ自身が話してくれるまでは」

 なんというニブさ。彼は“女心”どころか、“息子心”もわかってない。だいたい『きみは本当に素敵だね』なんて、どんなシチュエーションで、どの面さげてローマンに言ったんだか。そりゃ、厭らしい意味なんてないっていうのは分かるよ。ただエドセルは純粋に……ローマンみたいな優しくて気の利く“息子”が、かわいいと思ったんだろう。

 エドセルはじっとおれを見つめ、「きみとおれとが初めて会ったとき」と、話し出す。「あのときもきみはそんな風だった。今度こそはおれは聞きたい。どうしてきみがおれに怒っているのかを」

「“どうして”だって?!」彼の台詞におれはブチ切れた。「あなたはぼくを捨てたんだ!」詰めより、さらに続ける。「これ以上シンプルな怒りの原因が他にあるとでも?!」

 肩で息をするおれと対照的に、エドセルはとても静かな表情をしている。そして穏やかに、「いつそれを言われるだろうと考えていたよ……」と、つぶやいた。

「実のところ、その件についてきみと話す機会を待ってた。きみがいつ“本題”を切り出すかと」

 エドセルがあまりにも落ち着いた様子なので、おれは自分が大声を出したことが恥ずかしくなった。彼はこれを待っていたというのか。でもだとしても、こんな喚き声からスタートすることはなかったはず。力んで怒鳴った後は、全身の力が抜けたようになった。人を傷つけるのは、どんなときだって気分のいいものではない。

「今になって、初めてきみの声を聞いた気がするな……」エドセルは微かに微笑んだが、それはどこか寂しそうでもあった。

「きみはおれを憎む権利がある。罰を与えることも」

 おれはあんたを憎みたいんじゃない。ましてや罰するなんて考えてもみなかった。

「きみがおれを嫌うのは無理もない話だ」

 ちょっと待てよ。おれがいつ、あんたのことを嫌いと言った? 

「どうやったらきみに償えるだろうと考えていたよ。この長い空白の時間を……おれはどうやったら埋めることができるのかと……」

 そんなこと、おれに聞かないでくれ。おれにだってわからない。この長い長い、喪失の時間をどうやって埋めればいいのかなんて……。

「ディーン、泣かないでくれ」エドセルは苦しげにそう言った。「おれは息子に泣かれたら、どうしていいかわからない父親だ。きみが泣くと胸が締め付けられる……どうしたらいいのか……わからないんだ……」

 エドセルはおれの頭を抱きしめ、まるで小さな子にするみたいに、頭のてっぺんにキスをした。こっちは父親に甘える少年って年齢でもないし、事情を知らない奴が見たら、ゲイの痴話喧嘩みたいに見えるだろう。

 エドセルに優しく揺さぶられ、おれは自然に言葉を見つけ出した。

「おれは……たぶん嫉妬してるんだ」

「嫉妬?」

「そう、あなたがローマンと楽しそうにしてることが面白くなかったんだ。それはアラスカでもそうだった。おれはあの町の人々に焼きもちをやいた。おれが持つべきだった父と子の時間。それをあの町の人は受け取っていた。それってまるでビンゴの賞品を横取りされたみたいな気持ちでさ……」そう言って、おれはポールの言葉を思い出した。『賞品はきみが“本当の自分に気づける”ってこと』───。そうだ、たぶんこれが本当の気持ちだ。それにしてもどうして真実は、いつも涙と共に訪れるんだろう。

 おれは軽く笑い、鼻水をすすった。「なんだろう、こんなこと言ってるなんて馬鹿みたいだな。もう子供じゃないってのに……我ながら不気味だ」

「不気味なもんか」とエドセル。「それに子供じゃないってことはない。きみはずっと子供なんだよ……おれのね」

 エドセルは穏やかにそう言った。その言い方。なんだか心が休まるようなリズムだ。これはDNAの成せる業なのか。いつの日か、おれが八十、九十になったとしても、“彼の子供”であるという事実は変えようがない。そういう意味では、人は永遠に子供なのかもしれない。

「明日はローマンと出かけるよ」とエドセル。「約束をしたからね。ミリアムへのプレゼントを彼に見繕ってもらうんだ。それで明後日はおれたちだけで出かけよう。どこかきみのおすすめスポットはあるかな?」

「そうだな……コニーアイランドはどう? おれはあそこが大好きなんだ」

「いいね、おれはまだ行ったことがない」

「それで夜はビリヤードのできるバーに行く」

「ビリヤードか。きみは得意なの?」

「おそらく、あなたを泣かせるくらいには」

「ディーン、それは甘いな。アラスカの冬の娯楽は何だと思う? 雪で家に綴じ込められっぱなしの間、おれがどれだけキューを握ってたと思うんだ?」

 そう言って、エドセルは不敵に微笑んだ。ビリヤードの腕を自慢するとき、きっとおれもこんな表情をしているんだろう。それはそうとう魅力的で、ローマンが惚れるのも無理はないかな、という感じだった。




 都会のイケメンに飽きた奔放なゲイが、アラスカから来た渋い中年男に魅力を感じる。それがさほど奇妙なことではないと納得がいったとしよう。だからと言ってそれを黙って見ていられるかといえば、それは別問題だ。

「ポール! ポール! 来てくれ! 大変だ!」

 出勤前の慌ただしい時間帯。エドセルはまだベッドの中で、おれは朝っぱらから気が動転している。

「どうしたの……?」髪にねぐせをつけたまま、ポールが部屋から出てきた。おれは玄関先にひざまずき、「花が……」とつぶやいた。「ローマンから花が届いた……」手にしているのはフラワー・ボックス。プレゼント用に包装されたそれは、愛する者の腕に抱かれようと、香しい薫りを放っている。

「なんてことだ……」とポール。その表情からは絶望が感じられる。

「どうしよう、ポール。おれはどうしたらいい?」

「ディーン、落ち着いて」

「だって、そのXとやらは、花が届いたその晩のうちにローマンと……」

 義理堅いエドセルは、ローマンと出かける予定を崩そうとはしない。あと数時間もしたら、二人はショッピングに出かけてしまう。ショッピング、花、そしてベッド。これがローマンのやり口だ。

「ああ……おれはいったいどうしたらいいんだ……」両手で顔を覆うおれに、ポールは優しく言葉をかけた。

「しっかりして。何もかもが終わったわけじゃない。まだ打つ手はあるはずさ」

「打つ手だって? おれはもうローマンにもエドセルにも忠告をしたんだぞ!? これ以上どうしたらいい!? エドセルをクローゼットに閉じ込めるとかか!?」

 ポールは厳しい表情で頷き、「何か手を考えよう」と固く言った。

 “何か手を”だって? 無理だ。おれがやれることはもう何もない。ローマンの危険さについては既に説いたが、エドセルは『おれがどう危険だって言うんだ?』と、まるで事態を理解していなかった。これ以上、『危険だ、危険だ』と、彼に言い続けることは、まるで二人のことを信頼していないかのように聞こえるし(いや、少なくともローマンのことは信用していない。今までの実績から言っても)、人のいいエドセルはそこまでローマンのことを悪く思っていない。おれがローマンを誹謗すればするほど、こちらの心証は下がるばかりだ。

 じゃあエドセルではなく、ローマンの方を説得するってのはどうだ?

『頼むからやめてくれ』…ってのはもう言ったよな。

『ぼくのパパだぞ! さわるな! あっちいけ!』…ってのはいくら何でも頭がおかしい。小学生じゃないんだから。だいたい“説得”なら最初からしてるじゃないか。それなのにあいつは『人の恋路をジャマするっての?』と聞く耳も持たないんだ。

「エドセルもローマンも、おれの言い分なんてどうだっていいんだ……」おれは諦めるように頭を垂れた。「もう彼らに言うべきことは言ったんだ。それでも二人を止めることはできなかった。もしかしたらローマンとエドセルはなるようになるのかもしれない。おれときみとが惹かれ合ったように……」

「ディーン……」

「おれは昨日、エドセルに『ローマンに嫉妬している』と言ってしまったんだ。これから彼をクローゼットに閉じ込めたところで、それは“親切心”ではなく、“嫉妬心”だと解釈されるのがオチだ。おれが誤解されるのは構わないが、エドセルが状況を理解していないとなると……」

「しっかりして、ディーン。きみが自暴自棄になってどうするんだ」おれの両肩を掴んで揺さぶるポール。まるで雪山で眠りに落ちる男を目覚めさせるかのようだ。

「ローマンはエドセルを幸せにすると言ったんだ……」なんだか頭が朦朧としてきた。これは何だろう。もしかしたら酸欠なのかもしれない……。「それにいくら息子でも、父親の幸せを阻む権利はないんだし……」

「権利だって!?」ポールが突然大声を出したので、おれは雪山から瞬時に帰還した。

「ディーン、そんなことを言うならぼくにも考えがあるよ」

「か、考え?」

「いいかい、これは恋愛の話なんだ。“親切心”なんてお門違い。むしろ“嫉妬心”の方が正しいくらいだ」

「おれが彼らに嫉妬するのが正しいって?」驚いてそう言うと、ポールは「きみじゃないよ」と笑い出した。「すべてを正しい方向に戻そう。今すぐに」

 彼は決然と言い放ち───そして行動を開始した。




 そろそろ昼食の時間。おれはオフィス一階のロビーへ降り、ローマンとエドセルの姿を探した。彼らはまだ来ていない。『どのへんにいる?』とメールを打つと『もうすぐ到着 ;-)』と、ローマンから返信があった。

 やっぱり会社を待ち合わせに指定したのはまずかっただろうか。時間的に仕方ないと思ったが、他の場所にすればよかったかもしれない。そもそもこれでうまくいくんだろうか。

「遅れてごめんなさ〜い! 待たせたかしら?」

 ロビーに響き渡る声。やたらよく通るそれは我が友ローマンのもの。

「済まない、おれが買い物に手間取ったんだ」とは、おれの父エドセル。遅延の理由がショッピングとは、まるでママみたいだ。

「それで? お昼はどこに予約してるの?」目を輝かせるローマン。これで『どこも予約していない』と言ったら、どうなるだろう。

「歩き通しで腹が減ったな」とエドセル。本当にごめん、今日はマジでどこも予約してないんだ。

「どうしたのよ、ディーン。あなた顔が暗いわよ?」と、ローマン。「お仕事で何か失敗でも?」

「いや、そういうわけでは……」

「何か食べれば元気になるさ」とエドセル。

「ええと……ちょっと待って」まいったな。もうとっくに着いててもいいはずなのに。

 携帯を取り出し、確認する。着信はない。

「何をそわそわしてるの?」ローマンが画面を覗き込んだ。「ポールもここへ来るとか?」

「ポールじゃなくて……」と、言いかけたところで、エドセルがつぶやいた。

「ミリアム……」

 おれとローマンは同時に顔を上げる。そこには仁王立ちした母の姿があった。よっぽど急いで来たのか、彼女の頬は紅潮している。エドセルを見つめ「あなた……」と言ったきり、次の言葉が出て来ない。

「ミリアム、いったい……どうしてここへ?」

 エドセルはそう言って妻に近寄ろうとしたが、彼女は距離を詰めようとしなかった。

「あなたったら、こんな……」と、夫を睨む。「ディーンから電話をもらったときは、まさかと思ったけど……」と言って、息子を見る。都合おれまで睨まれた。こっちは何も悪いことをしてないっていうのに。

 彼女がマイアミから飛行機でぶっ飛んできたのは、おれが“緊急事態だ”と告げたからだ。めったに頼み事をしない息子が「すぐに来てくれ」と言えば、駆けつけるのが良い母親。いくらかオーバーに状況を説明もしたが、“緊急事態”であることは間違いない。ローマンから花が届いたんだから、執行猶予はあと半日ってところだ(ちなみにこれはすべてポールの企画提案であることは言うまでもない)。

「あなたはこんな……こんな若い男の子と……」ママはうめくように声を発した。頬が赤くなっているのは、どうやら急いだからというわけじゃなさそうだ。

「いい年をしてみっともないと思わないの?! いったい何を考えているの!?」

「ミリアム……おれは……」

「なによっ!?」

「そうじゃないんだ。聞いてくれ」

 うろたえる父と、怒り狂う母。これはおれが初めて目の当たりにする夫婦喧嘩だ。自分が呼びつけたとは言え、心情的には男の方を応援したくなってくる。と、そう思ったのはどうやらおれだけではないようだ。ローマンは間延びした口調で「ちょっとぉ」と口を挟んだ。「ねぇ、ディーンのママ。何だか誤解があるみたいだけど、少し落ち着いて彼の…」

「坊やは黙ってらっしゃいっ!!!」

 ───叱咤一喝。ローマンは顔の横に両手を上げ、そろりそろりと後ろに下がった。普段おばさんっぽい彼も、本物のおばさんには敵わないというわけか。もちろんおれはとっくのとうに後ろに下がってる。怒った女性からはある程度の距離をとるのが、賢い男の選択だ(しかもそれが自分のママときたら尚のこと)。

「わたしはね、息子がゲイなのは別にいいのよ」と、おれを指さすママ。

 えーと、ここはおれの会社のロビーで、おれはまだ社内の誰にもカムアウトしてないわけなんだけど……まあ、いいか。続きをどうぞ。

「でも、なんだってあなたまでゲイになろうっての?! マンハッタンにいるからって、急に宗旨替え? 一週間もしないうちに、自分の息子と同じ年の男の子となんて……まったくあきれてものが言えないわよ!」

 それにしても不思議だ。どうして女性ってのは、“あきれてものが言えない”と言いながら、ベラベラとまくしたてることができるんだろう? いや、それはこの場面においてさほど重要な話じゃないか。オーケー、続きをどうぞ。

「そうじゃないんだよ、ミリアム」エドセルは首を左右に振った。「おれがゲイになっただなんて……いったいどうしてそんな話になるんだ?」

 あ、ごめん。それはおれが大げさに言ったんだ。でもほら、あと半日後にはどうなっていたか分からなかったわけだし。念のため、前もってみたまでのことで。

 ママは厳しい表情で黙り込んでいる。両腕を胸の前で組み、目の中には炎。戦闘前のジャンヌ・ダルクか、街に赴かんとするゴダイヴァ夫人か。いずれにしても……閑話休題、続きをどうぞ。

 エドセルは周囲に視線を泳がせた後、ふと思い出したように、手に持ったショッピングバッグに視線をとめた。「ええと……ほら、これを見て」そう言って、中からエアキャップに包まれた何かを取り出す。「アンティークの壁掛けだ。素敵だろ? ミリアム、これはきみのために買ったものだ。それにこっちは有名店のチーズケーキ。空輸でマイアミに送ろうと思ってた。あとはティファニーのアクセサリーと……」

 エドセルは手品師のように、袋からいろいろなものを取り出して見せた。しかしママは腕組みをしたまま微動だにしない。はあ、やれやれ。おれはエドセルに歩み寄った。

「───父さん」肩に手を置き「女心がわかってないな」と苦言する。「ママが聞きたいのはそんなことじゃないよ。肝心の台詞、まだ言ってないだろ?」

 父はおれの顔を見、それからぎゅっと唇を引き結んで、「ミリアム」と、目の前の小柄な女性に向き直った。

「おれはこの通り、女心のわからない男だ。きみのことをわかりたいと思うのに、おれには何も……」と頭を軽く振る。「おれが理解できるのは、おれ自身のことだけなんだよ。それだって長く時間がかかることも多い。今頃になってようやく理解したことは、おれが生涯で犯した重大な間違いについて……。それはミリアム、きみから離れてしまったことだ。この過ちを許してくれなどとは言わない。だけど……」真っすぐに視線を向け、父は言った。「きみを愛してる。誰よりも。おれとまた一緒になってくれ」

 ふたりの視線が強くぶつかる。エドセルは妻を“見つめて”いたが、ミリアムの方は夫にガンを飛ばしていた。

「なんて自分勝手なの……」今しがた、愛の告白を受けたばかりの女性は、唸るようにつぶやき、そして突然「馬鹿っ!」と怒鳴り声を上げた。「あんたみたいな勝手な男と一緒になってくれる女がいると思うの!?」

 全身から電気を放出させるかのような叫び。この衝撃により、半径10メートル圏内の携帯電話がすべて壊れた。おそらく。

 ママは疲れたように肩を落とし「いると思う……?」と質問を繰り返す。「いやしないわよ……わたしの他には……」

「ミリアム……」そして夫は妻を抱いた。これでめでたし、ハッピーエンド。ちょっとトウが立ってるけど、なかなか素敵なラブシーンだ。

 背の小さなママは、夫の胸にすっぽりと収まっている。こうして見ると、二人は長く連れ添った夫婦のようだ。

「きみの息子は素晴らしい」と、父。

「あんたの息子よ」と、母。

「ああ、そうだとも」彼はおれを見て、そして言った。「おれの……自慢の息子だ」

 その眼差しを受け、おれはまた──この間、さんざんっぱら泣いたというのに──またしても喉に熱いものがせり上がってきた。しかしこちらが決壊するより先に、溢れ出た奴がひとり。

「うわぁぁぁぁ───ん!」

 鼓膜をつんざく叫号。やたらよく通るその声は……ころっと忘れてた。我が友ローマンがここにいたことを。

「振られちゃったぁぁぁぁ! もうやだぁぁぁぁ! 最っっっ低!」

 泣き叫びながら走り去るローマン。おれは慌てて彼を追いかける。しかしその足の速いこと。オネエにしておくにはもったいないほどの脚力だ。

「おい…! ローマ……ちょっ……ちょっと待て…!」

 三ブロックほど走ったところで、なんとか追いつくことができた。半ば強引に彼のシャツを掴むと、「ひっぱらないでよっ!」と、おれの手をなぎ払う。ローマンは泣きべそ顔であるにも関わらず、しゃんと背を伸ばして立っている。一方こちらはまだ呼吸が定まらない状態だ。

「きみ……めちゃくちゃ足が速いんだな……しらなかったよ」

「どうせあたしは足が速いわよ! 悪かったわね!」

「いや、それ会話になってないだろ……ともかく、ほんと、残念だったな」

「どうせいい気味だと思ってんでしょ! わたしの泣きっ面を見て楽しもうってなら、どうぞ! 思う存分ご覧なさいよ!」

「そんなこと思ってないよ。ローマン、かわいそうに」

「そうよ! あたしは世界一かわいそう! せっかく愛する人と出会えたと思ったのにぃ!」

 ぼろぼろと涙を溢れさせるその姿は、まるで小さな子供のようだ。おれが知る限り、誰よりもハンサムなローマン。彼は涙を流すときも、きっと美しいのだろうと思っていたが、それはおれの買いかぶりだった。

「ほら、もう泣くな。エドセルによく似たおれがここにいてやるから」

「なによぅ! あんたなんか全然ちがうんだから! 彼の足下にも及ばないんだからぁ!」

「はいはい、よしよし」おれはローマンを優しく抱きしめた。進んでハグするのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。

「やだもう! 触んないで!」

「きみって案外かわいいとこあるんだな」

「ふん! 捨てられ男を口説こうったってそうはいかないわよ! 今なら簡単に落ちると思ったら大間違いなんだから!」

「そうか、それは残念だ」

「あんたなんか大っ嫌いなんだからね!」

「本当、残念……」

 泣きわめくローマンを腕の中に揺らし、おれは初めて彼のことを本気で“愛しい”と感じていた。無論、恋愛とかそういうんではなく、何というか、身内に感じるような情愛だ。おれには男の兄弟はいないが、もしいたらこんな感じなのかもしれない。

 ローマンは自分の魅力について自信があり、自己プロデュースもお手の物。何でもわかっているかのような口ぶりと優雅な振る舞いで、常に上手に世渡りをしているように見える。しかし、そんな彼でも人生につまづくことはあるのだ。

 おれとポールが結ばれたことが運命ならば、“おれとローマンが友達同士になる”というのも、また運命の一部だろう。おれたちは出会い、そしてさらに知り合い、どういうわけだか長続きしている。

 遠い昔、ミリアムとエドセルは結婚し、しばらく離れて暮らしたのち、またもくっついた。そのことにどんな意味があるのかはわからない。ただ言えるのは、“それも運命の思し召し”。

 おれたちはこの世界樹の下、ジタバタとあがき、悩みして、それでもどうにかこうにか進んで行く。過去の空白は埋めることができない。しかし、新しい時間を積み重ねることはできるだろう。ミリアムにも、エドセルにも、ローマンにも、ポールにも、そしておれ自身にも───“これから”をどう生きるか。その時間はまだ残されている。今日のところはローマンにランチを奢って、夜にもなればポールと一緒に愚痴を聞いてやる。明日は両親を連れてコニーアイランドへ観光だ。

 これからをどのように生きるか───あまり先のことはわからないが、今日明日は、そんな感じでやっていこうと思う。(ところでXって……)



END

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