第15話:不信と嫉妬(Hung Up)

「よくわかったよ」とポールは言った。そこには理解と許しがあるとおれは思っていた。なんといっても彼はわからず屋じゃないし、基本的には懐の広い男だ。

「よくわかったよ」。その言葉の意味をおれはもっとよく考えるべきだった。彼が何をどう“わかった”のか、そこのところを突っ込んで聞くべきだった。

「よくわかったよ」。一見なんの問題もなく聞こえるその言葉の中に、恐るべきメッセージが含まれていると、いったい誰が予想し得ただろう?

「よくわかったよ」。それは彼からの最終通達。ポール・コープランドの静かなリベンジの幕開けだったのだ。(ホラーか? これは?)。




 ある週末の夜のことだ。おれとポールは韓国料理店でとびきり辛いディナーを満喫。運動がてら歩いて帰ろうと決めた十五分後に雨が降り出す。マンハッタンの激しいタクシー争奪戦に敗北し、びっしょり濡れて帰宅した後に、その事件は起きた。

「ほんとにひどい降りだったな……あと五分で家に着くってところでこれだ。くそっ」

 おれは悪態をつきながら、ジャケットを脱いだ。ヘンプ(麻)は水を吸いやすい素材だ。こいつを絞ったら、きっとこわいくらい雨水が採れることだろう。

 床をまんべんなく濡らす前に、まずはバスルームに直行……しようとしたところ、電話の留守録ボタンが、赤くチカチカと点滅しているのが目に入った。でも今はそれどころじゃない。

「あれ、電話だ」ポールがそう言って〈再生〉のボタンを押したのも目に入った。でもおれはとっとと靴を脱ぎたかったし、とにかく床を汚したくなかった。再生される留守番電話のことはどうでもよかった。それが実際に再生されるまでは。

『“カチャッ”……ハイ、ディーン。昨夜は楽しかったわ。次回はカンガルーにしましょうね……じゃあまた……“カチャッ、ピー”……』

 時は止まり、すべての動きが凍結された。留守録ボタンは点滅。おれの心のランプも点滅。流れた音声はどう聞いても女性のもの。推定される年齢は二十代から四十代までのいずれかだ。

「誰これ」電話機を見据えながらポールがつぶやいた。

 仕事を終え、食事も終え、雨に降られて帰宅した後、やることといえば風呂に入って寝るだけだと思うだろう? ところがどっこい本番はこれから。今夜のメインイベントは、深夜11時からのスタートだ。

「仕事の付き合いで遅くなるって言ったじゃないか!」

「仕事だ! 彼女は会社で使ってる広告代理店のデザイナーなんだ!」

「女だなんて聞いてない!」

「いちいち性別を申告する必要があるのか?」

 一週間の疲れがたまった週末。体力的にはくたびれ果てているはずだが、おれたちは元気いっぱいに怒鳴りあっている。普段食べつけない香辛料の採り過ぎには、エネルギーを増大させるパワーが隠されているのかもしれない。それは“怒り”という、キムチによく似た、パンチのある感情だ。

 ポールは冷ややかな目でおれを見、「美人だった?」と腕組みをした。「聞かせてよ。彼女はどんな人? ブス? 平均? 美人?」

「そんなことどうでも……」

「言って」

「…………美人だ」

「そらみろ!」

「何が“そらみろ”だよ!? 美人だったらどうだって言うんだ!? 一緒に食事をしただけだ! ベッドを共にしたわけじゃない!」

「そうだね、未然に防げてよかったと思ってるよ」ポールが頭を振ると、水滴が左右に飛んだ。彼は自分がびしょ濡れだってことも忘れてしまったようだ。

「彼女、きみのこと一人暮らしだと思ってるんだね? よりによって自宅にメッセージを残すなんて……ぼくのことは相手に何も?」

「仕事の相手だ。そういうことは話してない」

「仕事の相手に自宅の電話番号を教えるわけ?」

「きっと名刺を見たんだろ」

「会社の名刺に自宅の番号を載せるわけがない」

「相手によってはプライベートな名刺を渡してる。週末や緊急のときに、ファックスを送ってもらうことが発生する場合があるからな。特に広告は紙媒体だから、メールじゃ済まないこともあるんだ」

「苦しい言い訳」

「おれの言うことが信じられないのか?」

「信じたいけど、彼女の声音の方がずっとリアルで……。ねえ、ここでバレなきゃ、次回は“カンガルー”? なにそれ? 新しいセックスの体位かなんか?」

「アフリカ料理の話をしただけだ。カンガルーのステーキの話をした。彼女はまだ食べたことがないって」

「アフリカン・レストラン。なるほど、それが次のデートの場所なんだ?」

「ったく……こうなるからきみには言いたくなかったんだ」

「言いたくなかった? そうか、これは予測の範疇だったってわけだ。他には何を隠してるの?」

「何も隠してやしない! こうまで言いがかりをつけられるんなら、隠したくもなるけどな」

「ぼくが言いがかりをつけてるって? どうやっていきなり被害者になったわけ? 浮気したのはきみの方だってのに!」

「浮気なんかしてないって言ってるだろ! 嫉妬深いのもいいかげんにしろよ!」

「きみがそうさせるんだ!」

「なんでもおれのせいか?! 嫉妬深いのはディーンのせい!? 自分に落ち度はこれっぽっちもないんだな!?」

「ぼくに落ち度があるから他の女に目移りしてる? だから浮気を?」

「浮気してない! そんなに言うなら彼女に電話してみろ! おれが浮気したかどうか、直接聞いて確かめてみればいい!」おれは受話器を取って、彼に突きつけた。

「……ぼくにそんなことをさせようっての?」

「納得しないんだから仕方ないだろ」

「もういい」

「なに?」

「きみは自分の時間を好きに使う権利があるし、誰と会うのも自由だ。仕事のことも含め、誰とふたりっきりで会うのも好きにできる。そういうことだね?」

「……あ…まあ……そうだ」

「よくわかったよ」

 彼は急に怒りを取り下げ、バスルームへ消えた。バタン!と強くドアを閉めたところを見ると、怒ってはいるらしい。今のところは休戦ということか。

 点滅する留守番電話のボタン。〈消去〉を押すと、「消去してよろしいですか?」と女性の声で確認される。

「よろしいに決まってんだろ! 消せ!」

 怒鳴り、再度ボタンをプッシュ。電話は“ピーッ”という心電図のフラット音にも似た音を発し、ようやくメッセージを消去した。

 まったく、心肺が停止したのはこっちの方だぜ。もう早いとこシャワーを浴びて眠ってしまいたい。せっかくの週末、ひどいスタートもあったもんだ。ところでポールはこの後、二時間もバスルームを占拠した。これが彼の“かわいい”復讐だというのは、言うまでもない。




 休日の朝、まずおれがやることと言えば、それは“たっぷり眠る”こと。朝七時に眠りから醒め、今日が土曜だということを思い出してまた眠る。時計が午後を指す前に起き出し、熱いシャワーでようやく目を覚ます。キッチンでグレープフルーツを絞っていると、ポールがやってきた。彼は「おはよう」と挨拶をし、おれに優しく微笑みかける。どうやら機嫌はよさそうだ。

「出かけるのか?」とおれは聞いた。ポールはきちんと身支度をしていて、帽子までかぶっていたからだ。

「うん、夜までには戻るよ」

「どこへ?」

「ちょっとデートに」

 グレープフルーツ・ジュースに口をつけたおれは、固唾と共にそれを飲み込んだ。*ごくん...*

「なんてね、冗談だよ」ポールは晴れやかな顔で笑った。「お店のお客さん、女の子たちと出かけるんだ。ランチをとって、それからショッピング。“ガールズ・ディ”だね」

「男はきみだけ?」

「そう、うらやましい?」

「ああ、ちょっとな……なんて、冗談だ」言って、おれはポールの反応を見た。彼は笑顔を崩そうとはせず、昨日のことは気にもしてないみたいだ。

「でも珍しいな? 店の客と出かけるなんて。ダイレクトメールですら書くのを嫌がっていたのに」

「前から誘われてたしね。たまにはこういうのもいいかと思って」

「顧客を大事にするのはいいことだよ。ところでその帽子は新しいやつ? 初めて見た」

「うん、こないだ買ったばかり」

「いいデザインだ。よく似合うよ」

「そう? ありがと。じゃ、行ってくる」素早くおれの頬にキスし、白いソフト帽のハンサムは出て行った。

 あの帽子、彼にしては珍しいチョイスだ。そもそも“ポールが帽子”って自体が珍しい。冬場にはニット帽をかぶることもある彼だが、それだって防寒の目的が主だし。なるほど、白いソフト帽は“ガールズ・ディ仕様”ってことか。確かに女の子が好きそうなデザインではあるが……。それにしても、出かける相手が女の子でよかった。“デート”と言われたときは一瞬、動きがとまったからな。昨日の仕返しでもされるのかと。彼はああ見えて、一度怒ると止まらなくなるところがある。怒りに火がつくのはあっという間で、昨晩のようなことは、これまでにも何度かあった。一方、おれは感情を溜め込む方。ああやって一気に吐き出すことはまずないので、ポールのやり方にはずいぶん面食らうところもある。まあ、でもこんなのは些細なことだ。小さな喧嘩と和解。世の恋人同士、誰にでもある小さなやり取り。

 窓から外を見ると、マンハッタンは素晴らしい晴天だった。恋人が不在の休日の午後。今日一日をどうやって過ごそうか?

 おれは受話器を取って、短縮番号をプッシュした。

「あら、ハーイ。ディーン、めずらしいわね。元気?」

 “そっちは元気?”と聞き返すまでもなく、とっても元気そうな声はおれのママ。ニューヨークからマイアミに移り住んでからというもの、彼女は昔よりも若返った気がするほどだ。

「あのさ、ちょっと教えてほしい。アップルパイの作り方なんだけど」

「ママは冷凍のパイシートを使ってるのよ」

「それは知ってる。だからそのやり方をさ」

「りんごを甘く煮るのよ。あとはパイシートの箱に書いてあるわ」

「ずいぶん適当だな」

「そっちはずいぶん料理にマメになったこと。なんだか娘ができたみたいで嬉しいわね」

「娘はいるだろ。アイリーンが」

「あの子はお菓子作りなんか全然興味ないのよ。ブラウニーの焼き方も知らないで、いつも買ってきたものばかりを子供たちに食べさせてるんだから。ところでポールはお元気?」

「ああ、元気だよ。今日は出かけてるけどね。女の子たちとデートだ」

「デート? だってあんたの彼氏でしょう、ポールは」

「うん、だから単なるデート。店の顧客と買い物に行ったんだ」

「それって心配じゃないわけ?」

「別に。ポールは女には興味ないよ」

「そりゃそうだろうけど……相手はどうだかわからないじゃない?」

「そんなの!」おれは思わず笑った。「もし女性に惚れられたとしても、ポールは迷惑するだけだろうね。これが同性と二人きりでとなれば別だけど。心配するようなことは何もないよ」

「そうなの。ならいいけど」

 ママは気を回しすぎだ。もっとも母が若かった時代には、恋人でもない異性と出かけること自体、珍しいことだったのかもしれない。

 詳細なメモを頼りに、おれはアップルパイの材料を買いに出る。ところでこのレシピ、本当に砂糖が8オンスも必要なんだろうか?(8オンス=約250g)




 アップルパイは焼きたてが一番うまいとおれは思っているので、窓辺に置いて冷ますような真似はしない。砂糖はレシピよりも減らし、シナモンは多めに入れた。これで食べるときにバニラ・アイスクリームを添えれば完璧。

 ポールの帰宅は思いのほか遅かったが、アップルパイの焼き上がり時間にはぴったりだ。

「死ぬほど歩き回ったよ」と言う彼は、両手にたくさんのショッピング・バッグを持っている。

「ブルーミング・デールを買い占めたのか?」

「うん、メンズ売り場はね」

「荷物、部屋に置いてこいよ。とびきりのアップルパイをごちそうするから」

「アップルパイ?」

「おれが焼いた」

「へえっ! すごい!」床に紙袋を置き、キッチンに駆け込むポール。オーブンからパイを取り出すと、彼は目を細めて香りを吸い込んだ。

「ねえ、さっき電話をくれたのって、もしかしてこれ?」

 おれはポールの出先に電話をかけた。帰宅時間を知りたかったからだ。

「ああ、パイをオーブンに入れるタイミングを見計らってた」

「そっか。なんだ」

「なんだ、って?」

「“何時頃帰ってくる?”なんて、珍しいこと聞くなって思ったから。てっきりぼくのデートを心配したのかと」ポールはひょいと肩をすくめた。

「心配するようなことがあったのか? おっかない女性たちに襲われそうになったとか?」言いながら、ポールの腰に両手を回す。

 彼はくすぐったそうに笑い「そんなの何もないよ」と答えた。「ぼくはゲイだし、女性と出かけたところでどうにかなるわけない。きみとは違うんだしね?」

「ああ、まだ言うか、こいつ!」おれはポールの脇腹を思いっきりくすぐった。ここは彼のウィーク・ポイント。案の定、功を奏し、ポールは奇声をあげて飛び跳ねた。

「減らず口を叩くとアップルパイを分けてやらないぞ!」

「わかった! わかったから! 手を離して!」

 笑いながら降参する彼をしっかり抱きしめ、そのままの姿勢で耳にキスをする。ここも彼のウィーク・ポイント。案の定、功を奏し、ポールは身じろぎひとつしなくなった。

 焼きたてのアップルパイと香り高い紅茶。昨日の喧嘩は遥か彼方へ。これがおれの“甘い”復讐だというのは、言うまでもない。




「ポール、おれの……あ、ごめん」

 今おれが言った言葉の状況を説明すると、『今週のニューズ・ウィークを探していて、それが見当たらないので彼の部屋を訪ねたところ、ポールは電話中だったので、失礼を詫びた』ということになる。事態を把握していないと、さっぱり意味を成さない言葉もあるものだ。

『今、電話中だから後でね』と、無言のジェスチャーをするポール。おれもつられて『わかった、邪魔してごめん』と、身振り手振り。こっちは言葉を発しても別にいいのだが。

 何気なくテレビを点けると、観ようと思っていてずっと見逃していた映画が、ちょうど始まったところだった。急いで冷蔵庫からビールを取り出し、プレッツェルの袋を開ける。ソファに滑り込んだところでタイトルロールが終わり、物語がスタート。我ながら素晴らしいタイミング。この間のアップルパイの焼き上がり時間と言い、ここ最近のおれはなかなか間がいいと思う。(例の留守録が再生されたタイミングについてはノーコメント)

 映画を見終わり、何気なく電話機に目をやると、通話中のランプが点灯していた。ポールが子機を使っているのは知っているが、映画を見る前からだから、少なくとも二時間は経っている計算になる。彼はおれよりも長電話だが、二時間超というのは珍しい。

 ビールの空き缶を片付けていると、ポールが部屋から出てきた。

「さっきはごめんね。何だったの?」

「たいしたことじゃないよ。もしかしてあれからずっと電話を?」

「そうだよ。あ、電話使いたかった?」

「いや、そうじゃないけど……ずいぶん長電話だったな。誰としゃべってたんだ?」

「キャンディが引っ越すっていうから、その相談に乗ってたんだ。どこの引っ越し会社がいいか悩んでるみたい」

「キャンディって?」

「ぼくの顧客。先日一緒にショッピングに行ったうちのひとりだよ。彼女、引っ越し先のリビングに絵を飾りたいって言うんだ。きみの会社の展示会に連れていっても?」

「ああ、それは願ってもないな。ちょうど今週末にソーホーで即売会がある。おれも顔を出すから、そのときに来てくれればサービスできると思うよ」

「ありがと。きっとよろこぶよ」

「それでさ、きみの部屋におれの……」“ニューズ・ウィークが”と言いかけたところで電話が鳴った。素早く受話器を取るポール。

「もしもし? あ、ジョー……ううん、大丈夫だよ。元気? そうか……うん……」

 電話の相手にあいづちをしつつ、ポールは目でおれに合図する。『ごめん、後でね』

 おれもそれに応え、『いや、大丈夫だよ。ごゆっくり』と、目配せをする。きっと今夜はニューズ・ウィークを読まずに寝ろってことなんだろう。

 ところで、ここでポールに電話をかけてきた“ジョー”は、“ジョセフィーン”というのが正式名称であることが後に判明した。我が家にはめったに訪れることのない異性の影。それがここ数日で連続して現れたわけだが、だからといって何がどうだというわけではない。もし女性に惚れられたとしても、ポールは単に迷惑するだけ。ここでヤキモキするのは、ある意味、彼に対して失礼なことでもあるだろう。『それって心配じゃないわけ?』と問うのは、おれの母親くらいのもの。気を煩わすようなことは何もない。(ところで母の勘はいつもすごく当たるんだ。悪いことに、この時点でおれはそのことをすっかり忘れていた)




〈NO ART, NO LIFE〉これはうちの会社のスローガンだが、おれ自身、この言葉には大いに共感するところがある。“芸術”と聞くと、人によっては「堅苦しい」とか「格好つけてる」とか、そんな理由で敬遠する向きもあるが、それはおそらく芸術とは何の関連もない、何かしらのイメージによって培われた先入観だ。スノッブな芸術家くずれや、むやみやたらに難しい美術論によって、アートがアレルゲンになってしまうのは、とてももったいないこと。おれが関わっている絵画芸術に関して言えば、それは特に難しくもなければ、スノッブなものでもない。ただ単に、すてきで、きれいで、楽しい気持ちになる何かに過ぎない。アートセラピーの例を持ち出すまでもなく、芸術は人の心に深く影響を及ぼすもの。気持ちを安らかにしてくれたり、場合によってはエネルギッシュにもなり得る。絵画は投資の対象としても扱われるが、大切にされすぎて倉庫で埃をかぶっているよりは、やはり鑑賞者に愛されてこそ価値がある。もしも、お宅の壁に空いたスペースがあるのなら、ぜひとも絵を飾って欲しい。気に入りの一枚を見つけ出し、音楽をかけるように気軽に。そうすれば“芸術”と言われているものが、ただ単に、すてきで、きれいで、楽しい気持ちになる何かだということがわかるはずだ。

 今週から始まった絵画の展示会には、人生に新たな彩りを迎えようとする人々が多く来場している。熱心に展示物を鑑賞する彼らに聞かれる都度、おれは作品の市場価値や、バックグラウンドを説明して回る。ポールが友人を伴って訪れたのは、人もまばらになった夕方過ぎのこと。人の空く時間帯をおれがあらかじめ教えておいたのだ。

「素敵な作品がいっぱいだ」感激したようにポールは言った。「久しぶりに見るとやっぱりいいね。絵にふれる機会なんてめったにないから」

「よかったら一枚どう? きみの部屋の南側の壁、ちょうどいいスペースがある」

「セールスする相手を間違ってるよ。今日のお客はぼくじゃなくてこちら」そう言って彼が紹介してくれたのは、透けるようなブロンドの持ち主だ。ふわっと空気を含ませたカーリーヘアで、オーガンジーのワンピースはストロベリーピンク。まさしくキャンディという名にふさわしい、わた飴みたいな女の子がそこにいた。

「あなたがポールの彼氏なのね。はじめまして」笑顔で右手を差し出すキャンディ。おれは手を取り、「こちらこそ」と、微笑みを返す。

「今日はどういった絵をお探しですか?」

「ええと……」考えるような仕草をする彼女に、ポールは「まずはいろいろ見せてもらおう」と提案した。「全部見て、どれがいいかゆっくり決めるといいよ」

「うん、それもそうね」

 彼はうまくキャンディをエスコートし、おれに向かって『またあとで』とウインクをして見せた。

 絵の前に立って話し合う彼らは、一見してお似合いのカップルという感じに見える。今日もポールは白いソフト帽をかぶっていて、やっぱり少しモード系のいでたちをしていた。女性と出かけるときはファッションの方向性を変えるんだろうか。それは彼にしては珍しいというか、ずいぶん意外なことに思える。

 スタッフに閉場の指示をしていたところ、ふいに「お魚の絵は?」と背後から声をかけられた。振り向くとそこにはキャンディがいた。もう会場をひとまわりしてきたんだろうか。それにしてはずいぶん早過ぎる。

「ねえ、お魚の絵はないのかしら?」

 どうやらこれはおれに向けられた質問らしいが、彼女は答える隙を与えず、さらに説明を続けた。

「あたし、お魚の絵が欲しいの。森とか花とかよりもエンゼルフィッシュみたいなのを飾りたいの。ねえ、そういう絵はないの?」

「そう……ですね。あいにくですが、本日の展示には」

「そうなんだ。がっかり」キャンディは唇を尖らせた。

 ポールがやってきて「どうだった?」と彼女に聞いた。

「お魚はないんだって」

「そうか、残念だね」

 おれたちのやり取りを聞いていたスタッフが、「図録からお選びいただくのはいかがでしょうか?」と口を挟んだ。「別のアーティストの作品でよろしければ魚のモチーフはいくつかございます。よろしければこちらで図録をご覧になってみてはいかがでしょう?」

「図録じゃ、よくわからないじゃない」とキャンディ。「やっぱり直に作品を見ないと」

「そうですね」おれは笑顔で彼女に同意した。「やはり実物と図録では差がありますから。ですが作品の雰囲気はいくらかなりともおわかりに……」

「魚の絵がほしかったのに」キャンディは最初と同じ台詞を、舌っ足らずの喋り方で繰り返した。

 ポールはそんな彼女の肩に手を起き、「とりあえず図録を確認したら?」と優しく言う。「素敵な魚の絵があるかもしれないし。それで気に入ったら、後日、本物を見せてもらえばいい」

 キャンディはオーバーにため息をつき、「ポールがそう言うんなら、見てみるわ」と同意した。

「図録はどこ?」

「こちらでございます」

 若いスタッフはテーブルの方へ彼女を誘導し、彼女に付き添うポールは、おれを振り向いて『ごめん』と、声を出さずに口を動かして見せた。結局、その日はキャンディの欲しい『魚』は見つからず、また後日に彼女の家に別のカタログを送ることで話がついた。

「欲しいモチーフが決まっていたなら、始めからそう言ってくれればよかったのに」

 これはポールの意見。我が家のソファに腰を下ろし、ビールの缶をプシュッと開ける。「キャンディはちょっと我が侭なところがあるんだ。きみを煩わせて何だか悪かったみたい」

「別にいいさ」おれもまたビールを開ける。「それにああいう客は珍しくない。美術館でもないところに絵画を見に来るなんてのは、半数が冷やかしだ」

「そうなんだ。大変だね」

「大変なのはきみの方だろ」

「ぼく?」

「キャンディと一日行動を共にするのは楽なことじゃないと思うけど?」

「ああ……まあね、でもそれほどでもないよ。彼女、あれで可愛いところもあるし」

「可愛い?」おれがぎょっとして聞き返すと、ポールは「うん」と笑顔を見せた。

「そうか……可愛い…か」

「どうしたのディーン? 彼女、可愛いと思わない?」

「いや、思わないことはないが……」

 そうだ、思わないことはない。むしろ同意できる。キャンディは可愛い女の子だ。ティーン雑誌の表紙に出てくるような、キラキラ愛らしいキャラクター。ただ、おれが彼女を可愛いと思うのは別段おかしくはないが、ポールも同じように“可愛いと思う”ってことに意外性を感じるんだ。見た目はキュートで頭はカラっぽ。キャンディのような子は、ポールがもっとも苦手とするタイプなはず。ああいう手合いとずっと一緒にいることが、彼にとって苦痛にならないなんて珍しいことだ。よほど彼女は大事な顧客なんだろうか。それともポールがついに父性に目覚めたとか? もしおれがキャンディみたいな子とデートしたら、“おれの彼氏”は間違いなく激怒するだろうに……。




 最悪なことは、ある日突然に訪れる。水面下では着々と進行し、そっと背後から忍びよっていたとしても、それが発覚することについては、たいがい何の前触れもない。たとえばある朝、小さな羽虫を見つけたことをきっかけに、自宅がシロアリに占拠されていたことを知る不幸。高校の同窓会に出席したところ、かつて憧れていた女子生徒が、見る影もなく太っていたとか、自分の後頭部に何気なく手をあてたら、そこに円形脱毛症を発見するなどは、さほど重大ではないにしろ、やはり不幸のひとつに数えられる。ペットのハムスターが天に召されたり、恋人の浮気が発覚したりすることは、ダメージの大きい不幸と言えるだろう。

 ここで述べたことが、未だおれの身の上に起きていないことは幸いだ(そもそもシロアリに食われるような持ち家はなく、ハムスターは飼っていない)。

 気の毒にも不幸の憂き目にあったのは、同僚のミッチ。さきほどの一例の最後にあげた出来事が、彼の人生を直撃した。ミッチは妻に浮気をされたのだ。

「何て言うか、それは……こういうときには何て言ったらいいのか……」

 うまく言葉を探せないでいるおれに、彼は「“お気の毒さま”でいいと思うよ?」と言って、白い歯を見せて笑った。

 会社近くのデリに昼飯に出たところ、パストラミのサンドイッチを選んでいるミッチと偶然会った。「先週は二日休んでたみたいだけど、どうしたの?」と聞くと、彼は「子供が風邪で」と答える。

 “子供が風邪”。ははあ、よくある口実だよな、とおれは思ったが、続く言葉でそれが真実であることを知らされた。

「女房が出てってさ。誰も面倒を見てくれる人がいないから」

 そこで『お気の毒さま』で済ませられる奴がこの地球上に果たしているだろうか。(いや、地球上ってのは大げさか。少なく見積もって、“このデリの中には”くらいにしておこう)。

「ねえねえ、それってどういうわけで?」と、臆面もなく聞けるのはローマンくらいのもの。おれはこういう話題にはセンシティヴだ。そういうわけで会話の接ぎ穂に困っていると、彼は「うちの奥さんさ、ずっと浮気してたんだよ」と、自分のことを語り始めた。

 アフリカン・アメリカンのミッチはハンサムでとても背が高い。頭も切れるし、ジョークも面白く、営業部では一番の男だとおれは思う。そんな男の妻でいることに、何の不服があるだろう? いつだったか、彼が奥さんのために花を贈っていた話を耳にしたことがある。誰かが『ミッチは愛妻家だ』とも言っていた。いくら離婚率が高いマンハッタンでも、彼のところにだけはそんなことは起こらないと、誰もがふんでいたのだが。おれがそう言うと、彼は「おれ自身もまだびっくりしてるよ」と言った。「女房のマリアとは八年も連れ添ってる。上の子供が小学校にあがった今になって、まさかこんなことになるとは思わなかったから」

「浮気に気づいたのは最近の話?」

「露見したのは先々週。でもまあね、それ以前から、おかしいところはあったんだけど」そう言って、ミッチはコーヒーにポーション・ミルクを入れた。

「おかしいってどんな?」

「行動が不審って言うか。でもそういうのは全部、後になってからの話なんだけどな。浮気されているときには、少しもおかしいとは思わなかった」

 おれたちは何とはなしに同じテーブルにつき、何とはなしに会話を続けている。テーマは八年目の浮気。サンドイッチが喉に詰まりそうな内容だ。

「聞いていいかな……浮気相手ってどんな奴?」

「彼女の友達さ」サンドイッチにかぶりつくミッチ。「おれも知ってる奴」

「うわっ、それは最悪だな」

「マリアの昔からの男友達なんだ。こっちはそれで安心…というか、油断してたんだな。“ああ、あいつと出かけるんなら大丈夫だろ”って。女房もそこを隠れ蓑にしてた。平気でおれにこう言うんだ。“ダーリン、今日は友達とでかけてくるわね”」

「信じられない。図々しい浮気もあったもんだな」

「まあ、最初っから浮気をしていたわけではなかったんだけどね。始めは本当にただの友達で、いつしか恋に発展したらしい」

「それで奥さんは家出を?」

「おれと喧嘩して追ん出てからは男の家にいる。次に会うのは裁判所だろうな」

 なんてヘビーな話なんだろう。おかげでさっきからサンドイッチの味がちっともわからない。(ところで隣の席のおばさんたちは、明らかにこの話に興味津々。しっかりと耳をそば立てているようだ)。

「ミッチ、あんたみたいな男が浮気されるなんて、とても信じられないよ。浮気相手に選ばれたってなら理解できるけど。相手の男はどれだけハンサムなんだ?」

「それがさ、全然そうじゃない。髪は薄いし、体型はメタボだ」

「じゃあ金持ち?」

「HYUNDAIの年度落ちモデルに乗ってる」(※HYUNDAI=自動車メーカー。HONDAにアラズ)

「じゃあ何がよかったんだろ?」

「知らん。おれに聞くな」ミッチは紙ナプキンで口元を拭った。「とにかく……不幸はある日突然、降りかかってくるもんだよ。彼女の浮気を知る前日まで、おれは普通に幸せだと思ってたんだ」トレイを持って立ち上がる彼に、おれは最後の質問をした。

「なあ、何でまた浮気が発覚したんだ?」

「コンドームさ」

「コンドーム……」

「彼女のバッグから出てきた。おれは三年前にパイプカットをしてるんだ。これ以上ない証拠品だろ?」

「確かに」おれは納得して頷いた。(ついでに隣のおばさんたちも)。

 ひとつのゴム製品が、彼の幸福を打ち壊すきっかけとなった。そう、彼は幸福だったのだ。夫の留守中、妻が何をしているか知らずにいれば、彼の幸せな日々はずっと続いたに違いない。真実はときに苦いもの。しかし本当のことを知らないままでいることがいいことかといえば、それはまた別だ。偽りの幸福が苦い真実よりマシだとは、おれには思えない。

『人生の真実は、美味で、恐ろしく、魅力的で、奇怪、甘くて、苦い、そしてそれがすべてである』そう記したのはアナトール・フランス。彼はまた『賢く考えていながら、愚かに行動してしまうのが、人間の性である』とも述べている。愚かな行動を余儀なくされる人の生は、すべての苦痛と歓喜を内包する。人生において“どちらか一方だけ”というのはあり得ないことだ。とは言え、痛みはなるべく少ないことが望ましい。シロアリ被害や恋人の浮気。円形脱毛症にハムスターとの悲しい別れ……。人生はときに何と無慈悲であることか! おれは五歳のときに亀のスパイクを亡くして以来、ペットと名のつくものは飼ったことがない。寿命が長いと聞いていた亀ですら、おれより早死にだったのだから、ハムスターなんてもっての他。ふわふわ丸まっている小動物が、ある朝冷たくなっていたりしたら、きっとおれはしばらく立ち直れないだろう。スパイクが死んだときは、一週間も幼稚園を休んだが、今の会社ではそうはいかない。『ペットは家族の一員』と言いながらも、亀の忌引休暇は認められないのが現状。「ハムちゃんが死んで悲しいから仕事を休む」などと申し出た日には、悪くてクビ。良くて誰からも相手にされなくなるのがオチだ。




 おれの休みは土日祝(休日出勤を除く)。サービス業であるポールの休みはランダムで、基本的には平日が多い。

「明日、ぼくは半日休みなんだけど」と、彼が言ったのは日曜日の夜のことだ。「それでね、友達と出かける約束をしたんだ。遅くなると思うから夕食はいらないよ」

 おれは歯ブラシにコルゲートを絞り出したところ。それを口に入れる前に「またキャンディか?」と確認をする。

「ううん、明日はホリーと。彼女、ニュージャージーに住んでて、めったにこっちに来ないから」

 “ホリー”か。キャンディよりは知能のありそうな名前だ。

「そうか。で? ホリーはどんな女なんだ? 独身? 美人?」

 ポールはくすりと笑い、「やだな、ディーン。彼女のことが気にかかるの?」聞いてきた。

「まさか……」おれは歯を磨きながら、言葉を続ける。「ただ、相手はきみのことを知ってるのかなと思って。つまり……きみがゲイだってことを。そうじゃなかったら何か……ホリーに期待を持たせることになるかもしれない」

「ああ、なんだ、そんなこと?」バスルームの鏡越しにポールが微笑む。「もちろん彼女はぼくのことを知ってるよ、それに彼女は既婚者だしね。でも……」

「でも?」

「旦那さんとはあまりうまくいってないんだ。それで今日はぼくに相談がてら、買い物に付き合って欲しいって」

「そうか」

「安心した?」

「安心って……別におれは……」口を濯いで、返事を濁す。

 ポールは明るく「そうだよね」と微笑んだ。「ぼくはゲイだし、女性と出かけたところでどうにかなるわけないもの」言って、おれの頬にキスをし、「それじゃあ、おやすみ」と部屋に戻って行く。

 デンタルフロスが終わったところで、ホリーが美人かどうか聞きそびれたことに気がついた。まあ、いいか。美人だとても別に問題はない(はずだ)。それにしても、ここ最近のポールのモテっぷりはどうしたことか。出かける相手はすべて女性だし、長電話の相手もしかり。以前はこんなことはなかった。それはちょうど……彼があの白いソフト帽をかぶり始めたあたりから始まったと思う。

 恋人の欲目を差し引いて見ても、ポールはとても魅力的だ。おれとはまた違ったタイプのハンサムで、言ってみればボーイッシュタイプ。どこか少年っぽさが残っていて、決して声を荒げたりしないような印象がある(実際はそうでもないが)。“キュート”という形容詞が無礼にならない大人の男。例をあげれば、それは俳優のオーランド・ブルームとか、ミュージシャンのBECKとか。世の女の皆が皆、胸板の厚いセクシータイプを好むわけじゃない。デミ・ムーアだって男臭いアクションヒーローと別れて、弟みたいなアシュトン・カッチャーと一緒になったわけで、需要といったらたくさんある。

 物腰は穏やかで、言葉遣いは柔らかい。服のセンスはよく、いい香りを身にまとう。スポーツの話題は切り出さず、恋愛についての会話を楽しむ。セックスに関連する話はしても、相手にギラついた目を向けることはなく、細かなことに気が回り、いついかなるときも大声を張り上げず、ときには感情のおもむくまま、涙を流すことを恐れない・・・。つまるところ、現代女性の好む男性はゲイの男。同性愛者である彼らは、幸いにも女に夢中になることはないが、もし万が一“そっち”に興味を持つようなことがあれば、普通の男どもには、まず勝ち目はないだろう。

 ああ、それにしても。おれのこの気持ちはなんなんだ? 何かイライラして落ち着きがないし、今から既に、明日のポールのことが気にかかる。それはホリーとかいう女のことも含めてだ。彼らは一緒にどこに行くんだろう? カフェで向かい合わせに座ったりしたら(隣に座るかもしれない)、いったいどんな会話を楽しむ? 歯を磨いたばかりだというのに、猛烈にチョコレートが食べたくなってきた。こんな深夜にチョコレートだって? ローマンが聞いたら目をむくだろうな。

 おれは大人しくベッドに入った。チョコもポールも頭から追い出す。今日はもう寝ちまおう。『もし嫌なことがあったとしても、眠ってしまえば新しい日よ』。子供の頃、ママがよくそう言ってたっけ。眠れ、眠れ、安心して眠れ。眠ってしまえば新しい日……明日はポールとホリーのデートの日だ。ああ、嫌な気分だ。まったく、おれはどうしちまったんだろう。本当にもういいって。寝ちまえ。




「ただいま」という挨拶に応酬するのは、普通「おかえり」という言葉だが、おれが言ったのは「そのジャケットは?」という疑問文だった。デートから帰宅したポールが身につけている白いジャケット。それはおれが初めて目にするものだったからだ。

「あ、これ? 買ったんだ」と、ポール。「せっかくの服なのに、途中で雨が降り出してまいったよ。雨はそんなに長い時間じゃなかったけど……ああ、靴が汚れちゃったな」そう言って、レザーのスポーツシューズを残念そうに見下ろす。

「買ったって? その上着を今日?」

「そう、ホリーが見立ててくれてね。彼女、すごくセンスがいい」

 彼の頭には、またしてもあのソフト帽。それは今着ているジャケットと、とてもうまくマッチングしている。まるでファッション雑誌の『街で見かけたエレガンテ』の特集に出てきそうな雰囲気。ちなみにおれは着古したスウエットスーツの上下を着用中。気心の知れた恋人にしか見せられない格好だ。

「どう? 似合うかな?」ポールはジャケットの襟をササッと撫でて言った。

「ああ、すごく……よく似合うよ」

 確かに、そのジャケットはとてもよく彼に似合っていた。(確かに、ホリーとやらはセンスがいい)。似合ってはいたが、これは“ポール”という感じではない。襟の周りにはぐるっとワインレッドのパイピング。左のポケットには同色でジグザグに刺繍が入れてある。ママが見たら「ミシンがけを失敗したの?」とでも言いそうなデザイン。こういう“モード系”は彼らしくない。それにこの靴。いつもはキャンバス地のデッキシューズを愛用しているのに、今日に限ってレザーのスポーツシューズ(しかも白だ)を履いている。ポールは靴の汚れに神経質なほうじゃない。運動靴なんだから汚れてもいいってばかりに、気にせず公園を歩き回るような男なのに。なんて言うかこれは……この格好はまるで……“おれみたい”じゃないか!

 衝撃の事実に呆然としていると、ポールは「来週またホリーと会う約束をしたよ」と、予定をさらり、口にした。「彼女の家に招かれたんだ」

「ちょっ……ちょっと待てよ。なんだって? 彼女の家に? 旦那とうまくいってない女の家に遊びにいくってのか?」

「やだなあ、変な言い方して」軽く肩をすくめるポール。「別にふたりきりじゃないよ。小さな子供がいる。彼女、娘の髪を切りに行く暇もないって言うから、ぼくがやってあげようかって話になっただけ」

「それにしたって……」

 なぜかここで、おれの脳裏にミッチの顔が浮かんだ。それは『不幸はある日突然、降りかかってくるもんだよ』と教訓を告げた男の顔だ。

 おれが黙りこくると、ポールは「どうしたの?」笑顔で聞いてきた。

 本当、どうしたんだろう。おれは何でうまくしゃべれないんだろう。これは昨晩と同じ気持ち。イライラし、落ち着きが奪われ、ホリーって女がやたら気にかかる。

「ポール……おれは何て言うか……きみとホリーが一緒にいることが……」

「心配?」

「ああ、そうだ」

「どうしてそんなこと気にするの? ぼくはゲイだよ? おかしなことになんて、なりようもない。きみとは違ってね」

 彼は笑顔でそう言った。しかしその目は───少しも笑っていなかった。

“きみとは違って”。その台詞でようやくおれは理解した。これは復讐だ。彼はおれに一矢報いろうと、こんなことをしているんだ。

 そしてそれがわかると同時に、おれは自分の感情の正体をも理解した。これは嫉妬だ。おれはホリーに嫉妬してる。なんてことだ。何から何まで、なんてことだ。

「どうしたの?」と、ふたたび問うポール。やっぱりだ、やっぱり目は笑ってない。

「いや……なんでも……ない」おれは調子の悪いロボットのように、切れ切れに返答。ポールは「じゃあ、シャワーを浴びてくるね」と言って、バスルームへと消えた。

 ポールはああ見えて、一度怒ると止まらなくなるところがある。それはわかっていたはずじゃないか。一方、おれは感情を溜め込む方。今も何も言えなかった。“なんでもない”なんて嘘だ。おれは嫉妬してる。そうか、これが嫉妬か。世間でよく言われている通り、なんて不快なものなんだ。それにしても……これはいったいどうしたらいいんだろう? ポールは浮気をしているわけではない。そこに妙な言いがかりをつけるわけにもいかないし、ましてや『ホリーと会うな』というわけにもいかない。おれが広告代理店のデザイナーとディナーに行った件について、ポールはおれを罵倒し倒したが、こっちはあいにく彼のように感情的になることはできない。基本的にそういう性格じゃないんだ。

 ミッチは妻を訴えることができる。そこにはっきりとした被害があるからだ。おれの身の上に起きたことは、ミッチと比べれば何てことはない。不幸と言うには生ぬるく、幸福と言うには今一歩届かず。嫉妬する気持ちは最悪だ。こんなに苦しいものなら、民事裁判に“精神的苦痛”として提出してみようか? しかし無論のこと、それは認められることはない。弁護人から「チベットの寺にでも行ったらどうですか?」というアドバイスを受けたりして。うん、それもいいな。醜い感情から解脱して、高次の意識へとひとっ飛び。座禅と薬草の相乗効果で、嫉妬心からおサラバだ。(ああ、もちろん冗談だ! 皮肉だよ! 誰が寺になんか行くもんか!)




 結局、翌日になってもモヤモヤした気持ちは晴れることなく、おれは通常通り仕事に行った。ミッチはまた休んでいる。きっと家のことが大変なんだろう。

 午前中からやけに疲れを感じ、昼食にはまだ早いが、エスプレッソを買いに出ることにする。職場近くのコーヒーショップは、おれが毎日のように利用している場所だ。

 シャボン玉を飛ばすピエロの大道芸の横を通りすぎたところで、おれはいつもとは違うものを目にしたことに気づく。ピエロのことじゃない。ポールだ。今日は午後から出勤のはずの彼が、こぢんまりとしたデリカフェでくつろいでいる。「やあ、ポール。こんなところでどうしたんだ?」と、おれが声をかけなかったのは、彼が女といたからだ。通りに面したオープンテラスで仲良くデート。お相手は先日のキャンディだ。いくら女に興味がないからってこれはないだろ? このカフェはポールの職場とは近くなく、おれの会社の目と鼻の先。彼が意図的にここを選んだことは想像に難くない。人の目につきやすい場所。おれの目につきやすい場所を。

 嫉妬を通り越し、腹立ちすら覚え、彼らのテーブルにつかつかと歩み寄る。談笑するポールは、おれの存在に気づいていない。

「この……浮気者め!」

 そう怒鳴ったのは、驚いたことにおれじゃなかった。声の主は見知らぬ男。がっちりした体格と、ほぼスキンヘッドのショートカット。彼はポールとキャンディのテーブルに進み、二人のことをためつすがめつ眺め、さきほどの怒鳴り声などなかったことのように、「キャンディス」と、柔らかく言葉を発した。

「おまえ、こんなところで何してる?」

 あ、それはおれの台詞だ。おれがポールに言おうと思ったやつだ。

「昼間から、こんな人目につくところでデートとは。恐れ入ったぜ」

 これもおれの台詞。同じことをおれは思ってた。

「このクソアマ」

 これは違うな、さすがに。たとえ怒り狂っていたとしても、おれはあからさまな罵倒の言葉は口にしないんだ。それにしてもキャンディ(キャンディスか)に、ネアンデルタール人の彼氏がいたとは驚きだ。男は太い腕をこれみよがしに組み、「てめえ、ここ数日どうもおかしいと思ったら」と、彼女に目を細めた。

「まさか浮気してやがったとはな」

 その言葉にキャンディはきっと目を吊り上げ、「なに言ってんの、浮気なんかしてないわよ」と、言い返す。

「そうかい? じゃこいつは誰だ? おまえのお父さんか?」

「ポールは美容師よ。わたしの髪をいつもやってくれてるのよ」

「ほう、そうか。じゃあここは美容室か? 見たところシャンプー台はどこにもないようだが…?」言って、男はぐるりと周囲を見回した。

「ちょっと、落ち着いてよ。わたしと彼とはここで一緒にお茶してるだけじゃない」

「だから何だ? ここではお茶してるだけでも、夜になるとそれだけじゃ済まないんだろ?……この尻軽女が!」吐き捨てるように男が怒鳴ると、キャンディは身体をびくっとさせて黙り込んだ。

「おい、てめえ」男はテーブルに片手をついた。ポールにぐっと顔を近づけ、「おれの女が世話になったな?」と、古い西部劇のような台詞をつぶやく。

「ぼくは別に何もしてない」とポール。「きみがどう誤解しているのか知らないけど……」

「誤解だと? おれが誤解してるって? そーかよ! おまえらはおれのことを馬鹿だって思ってるんだな? 間抜けな彼氏を出し抜いてやったってそう思ってるんだろう?! コケにするのもいい加減にしろよ!」男が大声を張り上げると、店内に緊張が走った。若いウエイターは男を見つめ、固まったまま動こうとはしない。

 これが赤の他人、まるっきり知らない奴らの痴話喧嘩であったなら、おれは後も見ずに通り過ぎたことだろう。だが今はそうはいかない。ポールはおれの恋人だ。彼の窮地を見過ごして去るなど、絶対にできるわけがない。しかしここは……いったいどうやって切り出したらいいんだろう?

「あの…ちょっと……」おれは軽く男の肩を叩いた。筋肉の盛り上がった、素晴らしい肩だ。

「ああ? なんだテメーは?」男はおれを睨みつける。

「おれは……」と言いかけ、一瞬ポールの方を見る。彼は目を丸くして、“なんでこんなところにいるの?”という顔をしていた。

「おれは……そこにいる彼のボーイフレンドなんだ。つまり、ええと、あんたが文句をつけているその男はおれの彼氏で、おれたちはゲイなんだ。だから、あんたの女が浮気してるってことはあり得ない」

「はあ? 何言ってやがる?」唇を曲げて聞き返す男。どうやらこいつはおれの言葉を理解できなかったらしい。しかし無理もない。女の浮気現場を突き止めたと思ったら、いきなり関係ない奴が現れ、ゲイだと名乗ったあげく、浮気相手の彼氏だと告白。そんなことを突然言われて『なーんだ、そうだったのか』と膝を叩く人間など、そう多くはいないだろう。

「引っ込んでろ」男はそっけなく言い、おれの肩を突き飛ばすようにして押した。「おれはこいつらに話がある。とくにこの男前とな」

 男前ならここにもいるぜ。こっちに鞍替えするってのはどうだ? ……とかいうノリは、この男には通用しないだろう。彼から受ける印象は“単細胞”。よく言えば“素直でピュア”って感じか。その“良い印象”を信頼し、おれはしつこく男に訴えかけることに決めた。

「あのさ、あんたの彼女は浮気してないよ。少なくともその男とは」そう言うと、雄牛はこちらを振り返り、“しつこい野郎だ”と言いたげに、上から下までおれを睨んだ。

「あんたが疑ってるのは、おれの彼氏なんだ。そこまではいいか? わかってくれてるか? そいつはゲイなんだ。つまりおれも。だからおれの彼氏はその子と浮気なんかしてない。だからあんたも……あんたの彼女を信じてやれ」

「このあばずれを信頼しろってか? はっ! できるもんか!」

 公衆の面前で“あばずれ”呼ばわりされたキャンディは、ぎゅっと唇を噛み締めた。何か言いたそうだが、発言する気配はない。

「なあ、あんたが信じようと信じまいと、真実はひとつなんだ。ポールは彼女の浮気相手じゃない。何度も言うように彼はおれの……」

「うるせえ! 横から出てきてグダグダ抜かすんじゃねぇ!」

 “あっ、ヤバイ”と思ったときにはもう手遅れ。男の拳がおれの顔面にモロに当たった。ガシャンと何かが割れる音と、店内の女性客のきゃーっという悲鳴を耳にする。おれが倒れたのは悪いことにテーブルの上だった。床に背はつかなかったものの、食器類すべてをなぎ倒したことは、事態のより悲劇的な演出となる。顔をおさえてながら立ち上がると、手のひらにべっとり血が付いた。そういえばパンチが入った瞬間、軟骨の折れるような“ぺきっ”という音を聞いたように思う。おれは鼻から盛大に血を流しつつ(それにしてもどうして鼻血ってこんなにいっぱい出るんだろうな?)、暴力犯罪を犯した相手と対峙した。彼は“思いのほか大ごとになってしまった”という表情で辺りを見回したが、すぐに威勢のよさを取り戻し「何だよ、やろうってのか?」と凄んでみせる。

 原始の息吹を感じさせるこの男に勝てる自信はこれっぽっちもないが、せめて一発ぐらいは殴り返したい。目には目を、歯には歯を。クリスチャンであっても、ときにはハムラビ法典を引用したい気分のときもあるんだぜ。

 おれが野蛮な気持ちになってきたあたりで、カフェの従業員がタオルを差し出した。

「お客様…。だ、大丈夫ですか?」

 無言でそれを受け取り、顔にあてる。赤く染まった白いタオルを見つめていると、従業員に遅れをとり、ポールがおれに声をかけた。

「ディーン……ああ、なんてことに……」

「大丈夫だ。鼻の血管が切れただけだ。心配しなくていい」

 すると男は「そうか、大丈夫か。それはよかった」と尊大に言い、「じゃあ行くぞ」とキャンディの腕を掴んでひっぱった。

 大丈夫なもんか、男前の顔に色をつけやがって。もし鼻の骨にヒビでも入ってたらどうしてくれるんだ? おまえを“美形破損罪”で訴えて、慰謝料をたんまり取ってやるからな!……というのは、ほとんど涙目になっているポールを目の前にして言うことじゃない。何かカッコいい決め台詞を、奴に叩き付けてやりたかったが、鼻が痛くて考えがまとまらない。暴力男は女の腕をぐいぐいと引っぱり、そそくさと店から出て行った。(きっと警察を呼ばれることを懸念したのだろう)

「救急車を呼びますか?」とカフェの従業員。

「いや、そんな大げさな。ただの鼻血だ。騒がせて済まなかった」見ると足下には割れたグラスとコーヒーカップが散乱している。

「グラスを割ってしまったな……弁償を?」そうおれが申し出ると、従業員は目をしばしばさせ、「いえ、あの……お客様はむしろ被害者じゃないかと……」と、小声でささやいた。

「あ、そうか……」言われてみればそうだ。おれの胸のあたりは今や血まみれだ。シルク素材はシミになりやすい。これはクリーニングで落ちるだろうか。

 ポールが心配そうに、おれの頬を撫でた。「一応、病院に行ったほうがいいよ」

「ああ、でも救急車は嫌だな。すまない、タクシーを呼んでもらえるか?」

「わかりました」親切なスタッフは厳しい顔で頷いた。




 レントゲンを撮った結果、骨には何も異常はなし。鼻血もすぐに止まったが、心配なのはシャツの汚れだ。付着した血液は、すっかり乾いてゴワゴワになっている。若い女の看護師が「喧嘩でもなさった?」と聞いてきたので、「悪漢に襲われている恋人を助けようとして傷を負った」と正直に答えた。彼女は羨望のまなざしをおれに向け、「勇気があるのね」と褒めてくれた。まったく、これぐらいの賞賛がなきゃ、とても暴力沙汰なんてやってられない。ハンサムを殴った代償は高いんだぞ。それとこのシャツ。あの男が身につけていた全身の衣類の総額よりも、遥かに値が張るに決まってる。

 不幸はある日突然に。ミッチの言ったことは正しかった。今朝の時点では『昼過ぎには殴られて鼻血を吹いているだろうな』なんて、少しも予想だにしなかったんだから。

 病院のロビーで会計を待っていると、となりに座っていたポールが、「キャンディに彼氏がいるなんて知らなかったよ」とつぶやいた。「こんなことになるなんて思ってもみなかった……」

 そりゃそうだ。こんな展開、誰だって思ってもみない。テレビに出てくる超能力者だって、この筋書きは言い当てることはできないだろう。

「あの店にするんじゃなかった」と、ポール。

「あの店?」

「さっきのカフェ。あそこはキャンディの家のすぐそばなんだ。ボーイフレンドが見つけるにはあまりにも容易い場所だよ。でもキャンディはあそこがいいって言うから。ぼくはちょっと気になったんだよ。あんまりにもきみの会社にも近いし。もちろんやましいことがあるわけじゃないよ。でもきみが一生懸命仕事してるそばでさ。なんか嫌な気持ちだって思ったんだ」

 ポールはわざとあの店を選んだのではなかった。おれに見せつけてやろうなどとは、これっぽっちも考えていなかったのだ。

 うつむき、弱々しく言うポール。「きっとバチが当たったんだ。きみに意地悪をしたから」

 バチは当たった。おれの顔面にクリーンヒットだ。

「本当だったら、ぼくが殴られるはずだった。なのにこんな……」

 しょんぼりする彼に、おれは今こそ言うべきカッコいい決め台詞を放った。

「きみじゃなくてよかったよ……」そして彼の側頭部にキスをする。ポールはぽろりと涙をこぼし、「ごめん」と小さく言った。

「きみのせいじゃない」

「いいや、ぼくのせいだ。ぼくがきみに意地悪したからだ」

「意地悪?」

「この一週間、ぼくはきみに意図した意地悪をずっとしてた。きみは気づいてなかったの?」

 ああ、そのことか。いいや、気がついてたよ。てゆうか、昨日だけどな。気づいたのは。

「女の子とデートして“他意はない”だなんて、それがどんなにひどいことかわかってほしかったんだ。きみには口で言ってきかせてもわからないし、だからぼくも手段を講じるほかなかった。でもまさかこんなことになるなんて……」

 “でもまさか”とポールは言った。“でもまさか”。おれだってそう思う。おれにとってはちょっとした女性とのデート。夕食を一緒にすることくらい何も大したことじゃないと思っていた。でもまさか、それがポールにとってこんなにも大ごとだったとは。いや……彼はそう言ってたじゃないか。あんなにも怒り狂ってた。おれはそれでもわかってなかった。自分にはやましいところは何もない。それゆえポールの怒りが理解できなかった。しかしこれは“やましい”“やましくない”の問題じゃない。彼は怒って、傷ついていた。そのことを無視した結果がこれだ。彼を意地悪な悪魔に変えたのはおれだったんだ。

 ポールは深く息をはいた。両手で顔を覆って、しばらくし、手を膝に下ろす。そしてそれからまた話し出した。

「きみはあのとき、キャンディの彼氏に“彼女を信じてやれ”って言っただろ? ぼくはそれを聞いて胸が苦しくなった。だってぼくはきみのことを信じられなかったから。きみが浮気をしてるって思って、それでこんな復讐をしたんだ。あの日、きみから何度も“浮気してない”って言われても、少しも信じられなくって……」と、頭を垂れて左右にふる。「それってキャンディの彼氏と同じだ。少しも自分の恋人のことを信じてない。聞く耳も持たずに、有無を言わせず決めつけて……。“おれの彼氏はその子と浮気なんかしてない”、きみはそう言ったよね。それでぼくはこう思った。“ディーンは少しもヤキモチを妬いていない、彼はぼくのことを信じてるんだ”って……」

 ヤキモチは妬いた。初めてのことだ。あんなに苦しいことは二度と御免だ。

「きみみたいにピュアで単純な人間に、ぼくの意地悪が通用するわけなかったんだ。結果的には大失敗。ヤキモチを妬かせるどころか、きみに傷まで負わせてしまったし」

 “ピュアで単純な人間”。それは何だろう。あまり素敵な印象じゃなくないか? 変換すると“単細胞のマヌケ”とも言えなくもない。“受ける印象は単細胞。よく言えば素直でピュアって感じ”、それはおれがキャンディの彼氏に思ったことだ。なんだ、おれたち案外、共通点があったんじゃないか。

「ごめんなさい」ポールは詫びを口にした。

 彼はこう見えて、一度怒ると止まらなくなるところがある。怒りに火がつくのはあっという間。そのかわり許すのも一瞬だ。そしておれは感情を溜め込むタイプ。ポールのように怒鳴り散らしたり、懺悔したりして吐き出すことはほとんどないため、彼のやり方にはずいぶん面食らうところもある。そしてポールもまた“溜め込むディーン”ってものに、手を焼いているんだろう。

 不意に彼が、おれの頭に帽子をのせた。例の白いソフト帽だ。

「この帽子、やっぱりきみの方が似合うな」言って微かに目を細める。「本当はきみにあげようと思って買ってあったんだよ。でも結局……」ポールはふうっとため息をついた。「ケチがついた。もっと早くにプレゼントしておけばよかった。タイミングを見計らっているうち、こんなことに」

 確かに。今これを貰っても、おれは素直には喜べないだろう。帽子を見るたび、今日の鼻血の味を思い出してしまいそうだ。

 おれは帽子を脱いで膝に置き、「何にせよこれは凄いアイテムだぜ」と明るく言った。「こいつをかぶった途端、きみの回りに女が群がってきた。いったいどんな魔力なんだろうな? 博物館に寄贈した方がいいかも」

「ぼくはきみの真似をしただけだよ」ポールは笑って肩をすくめた。笑顔だ。なんだかずいぶん久しぶりに見た気がする。

「ぼくはこの帽子をかぶって、ちょっときみの真似をしただけなのに。あんなにモテるなんて自分でもビックリ。なんだか有名人になったみたいな気分だった。ぼくがストレートだったら幸福だと思ったろうな」

「きみがストレートでなくてよかったよ」

「きみの強敵になったろうから?」

「そうじゃない。もしストレートだったら、きみはおれの……恋人ではありえなかったわけだから」おれはそっとポールの手を取った。「だってそうだろ? おれは元々ストレートで、その上もし、きみまでストレートだったら……」

「ああ、ディーン……」

「今のおれの幸福はあり得ないんだ」

 ポールは一瞬、目を見開き、そしてふあっと柔らかく細めて見せた。それから心底、幸福そうな笑みを浮かべ、「ぼくは今ほど自分がゲイでよかったと思ったことはないよ」と言い、おれの身体を思い切り抱きしめた。おれたちは数日ぶりに互いの愛情を感じ、ここが病院の待合室であることも忘れてキスをした。もちろんそんなに激しくじゃない。それは帰ってからのお楽しみだ。




 その夜は数日ぶりに彼とベッドを共にした。鼻をかばいつつするセックスはいくらか困難を極めたが、ポールは有能な看護士のようにおれを扱い、“まだこんな方法があったのか!”と思えるような、いろいろな技を披露してみせた。

「ああ、ポール……また鼻血が出そうだ」

「本当? 痛む?」

「いや、そうじゃない……別の意味でさ」

 彼は艶やかな笑みを浮かべ、「もっといっぱい興奮して…」と、おれのモノを口に咥え込んだ。

 情熱的な愛の一夜───その数日後に、おれたちはこんな会話を繰り広げる。

「“見た”んじゃない! “見えた”んだ!」おれはポールに向かって両手を広げ、言葉の違いを強調した。「偶然目に入っただけだ。そもそもあんなに短いスカートをはいて、生足を出して歩いてりゃ、そりゃ誰だって見るだろ!?」

「“誰だって”?! それはいったい誰を指してそういうわけ?!」ポールは腰に両手を置いた。それはおっかない女教師のようなポーズだ。「少なくともぼくは女性に見とれてぽけっとするようなことはないよ」

「そりゃそうだろ! きみはゲイなんだから!」

「きみだってゲイだ!」

「ああ、そうさ! だから女の足に目を留めたくらいでギャンギャン言うな!」

「子供っぽい屁理屈! 聞きたくもない!」

「子供っぽいのはそっちだろ!」

「どうせぼくは子供っぽいよ! でもさっきまでは理性的にしゃべってたつもりだけどね! 子供っぽいってのはこういうことさ! 馬鹿! スケベ! ハゲ!」

「な……! 誰がハゲだって?!」

「きみの未来を罵倒したんだ」

「このっ……! 可愛くない!」

「可愛くなくて申し訳ない。きみにとっての可愛いって、パリス・ヒルトンみたいなヤツだろ? まったくゾッとするよ!」

「おれの好みを決めつけるな! くそ! もう出てく!」

「出てけ!」

「きみがもっとも聞きたくないと思う台詞を口にする前に出てくんだ! 有り難く思えよ!」

「なんてマッチョなんだ! ああどうぞ早く出て行ってくれ! きみがいなきゃ今みたいな台詞も聞かずに済む!」

「後で泣くな!」

「泣くもんか!」

 ───その数時間後、おれたちはベッドでこんな会話を繰り広げる。

「ハゲとか言ってごめんね」

「いいさ、気にしてない。おれこそあんなひどいことを……本当に悪かったよ」

「ね、ディーン、もっとこっちに来て……」

「ポール……」

「ディーン……」

 夫婦喧嘩は犬も食わない。自分たちがあきれたカップルだってのは、ようくわかってる。

 嫉妬や誤解、意地の張り合い。恋人同士の間では、“なにもかも納得がいく”ということの方が珍しい。小さな喧嘩、そして和解。それは誰にでもある小さなやり取りだ。もし万が一、いがみあいが続き過ぎて、本当にどうしようもないところまで来てしまったら。最終的におれたちに残されているのは、納得することでも、理解することでもなく、ただお互いを許すということ。腹が立とうとも、認められなくとも、ただ手放して先に進む。壊してしまうのはとても簡単。愛し続けることは難しい。考えすぎの頭を停止し、素直になって───。

 今後、女性とふたりきりで会うときは、あらかじめ誤解のないよう、ポールに報告する。それはアップルパイを焼くより、ずっと手間のかからないことだ。問題は“デート”ではなく、相手の気持ちを無視すること。思いやりの配慮がありさえすれば、無駄な混乱は避けられる。最悪なのは“喧嘩すること”ではなく、“許さないこと”。愚かに行動してしまうのが、人間の性であるとすれば、間違いはどうしたって避けられない。認め、許し、おれたちは一緒に先へと進む。共に歩む者がいれば、きっと幾多の苦難も乗り越えることができるだろう。愛することは人を強くする。おれはひとりでいた頃よりも強くなった。それはポールを得たことで。きっと今ならハムスターも飼えるだろう。ふわふわ丸い小動物が、ある朝冷たくなっていたとしても……。いや、やっぱりそれはまだ無理だ。考えただけで涙が出てきた。



END

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