第12話:愛の残り火(Like It Or Not)
おれとポールは愛し合っている。だからおれたちは〈愛し合う人々〉だ。
いきなりノロケかよ、とブラウザを閉じるのは待ってほしい。この名称はおれが考えたものではなく、友達の写真家、ゲイリーが持ってきた企画のタイトルだ。
「ゲイリーがぼくたちの写真を撮りたがってるんだ」と、ポールが言ったとき、おれは反射的に顔をしかめてしまった。
「なに? 嫌なの?」こちらが言葉を発する前に、おれの心を読む恋人。ときには楽だが、ときには困る。
「嫌って言うか……」
「なに?」
「ゲイリーの写真ってあれだろ。前に個展で見た……」
以前、ポールと観に行ったゲイリーの写真展。そこに展示してあったのは、かたつむりを舌の上にのせた女性。サラダボウルを胸にぶちまけたフランス貴族。カラフルなサテン布の海に、裸で寝そべる老人。彼の写真は独特の芸術性にあふれている。
「かたつむりと共演するのは御免だ」おれがそう言うと、ポールは「今回はそういうんじゃないって!」と笑った。「これは書店のキャンペーン企画でね。〈愛し合う人々〉というタイトルで、いろんな人のポートレートを撮るそうなんだ。本屋さんに飾るようなやつだから、もちろん裸とかじゃないよ。店頭に展示されるのは一ヶ月ほどで、モデル料とか払えるわけじゃないんだけど、協力してもらえたらって」
「店に飾るのか……どこの本屋?」
「5番街とマディソンの間。グランドセントラルの近くの」
「イーモンズのとなりか」
「そう、そこ。どうかな? ぼくは引き受けてもいいって思うんだけど?」
「ああ……まあ、いいよ」
あまり気乗りのしない返事をしたその翌週、さっそくゲイリーが助手を伴って我が家にやってきた。セントラルパークに連れ出され、ものの数分で撮影は終了。おれとポールは裸になることもなく、ただ並んで立っていただけ。パスポートの写真だってもっと時間がかかってる。
おれたちの他にどんなカップルの写真を撮ったのかを聞くと、ゲイリーは「別に恋人同士だけってわけじゃないんだ」と答えた。「孫とおじいちゃん、双子の姉妹、ジャズバンドのメンバー同士。組み合わせはどうでも、そこに愛があればいいという企画だからね」
「じゃあ、ぼくたちは“ゲイのカップル代表”ってわけ?」と、ポール。
「その通り。最近うまくいっていて、別れる兆しのない、魅力的なゲイカップルの代表だ」ジェラルミンのケースにカメラを仕舞うゲイリー。「展示は来週。始まったら連絡するよ。お楽しみに」そう言って片目をつぶってみせる。
ポールは頬を紅潮させ、「なんだかドキドキするね」と、胸のあたりをこすった。
確かに。これはちょっとドキドキものだ。しかしおれの“ドキドキ”は、ポールのとは若干ちがう。写真が展示される書店に隣接するグリルバーは、うちの会社の人間もよく利用してる店。後日ゲイリーが送ってくれた写真のコピーには、“おれの顔”が“おれとわかる”ほど、ハッキリと写っていて、職場の仲間や学生時代の友人がこれを見たらと思うと、おれは正直、気が気じゃなかった。
おれとポールは〈愛し合う人々〉。しかしそのことを全世界に宣伝したいとは思わない。なぜなら、この世の中にはたくさんの偏見がはびこっているからだ。こういうことを言うとまた『ディーンはゲイであることを恥じてる』とか、『ポールのことを本当に愛してない』とか、果ては『この差別主義者っ!(ボイスイメージ byローマン)』とかいう話に発展する可能性があることはわかってる。団結力の強いゲイ連に攻撃されないためにも、「この写真に誰も気がつきませんように」という小さな願いは、心の奥に留めておくのがベストだろう。
しかし結論から言うと、おれのそうした心配はまったくの杞憂に終わった。同僚から「となりに写ってるのは誰だ?」と聞かれることも、「写真を見たわ。あなたって素敵」と、ナタリー・ポートマンから電話がかかってくることもなく、展示期間は無事終了。ただ一件だけ「あの写真はきみだろ?」と連絡をしてきた人物がいた。それはおれの知り合いではなく"彼"の友人だ。
「ほんとにびっくりしたよ。こっちに引っ越してきて、まさか知り合いがいるとは思ってもみなかったから」
ショーン・ウェラーはポールの高校の同級生。たまたま入った本屋で、懐かしい友達の顔を見つけたショーンは、八方手を尽くしてポールの連絡先を突き止めたのだと言う。
「今は美容師をしてるんだって? やっぱりきみはそっちの道に進んだんだね」
今夜は再会を祝しての酒盛りパーティ。ビールを片手にしたショーンは「部屋の感じもセンスがあるよね」と、ぐるり我が家の室内を見回す。
「リビングの半分はディーンのしつらえだよ。ぼくはあまりインテリアには興味ない」
「そうなんだ。素敵な彼氏だね。いったいどこで見つけたの?」
「ゲイの中では頭打ちだったからね。ストレートの畑から発掘したんだ」
「ほんとに? ストレート? よくそんなことが出来たもんだね」
「さすがだと言ってくれてもいいんだよ?」
「ゲイの中ではもう誰も相手にされなくなったんじゃなくて?」
「おい!」
軽口を叩いて笑い合う二人は、息のあったコンビという感じ。どちらもゲイであるという共通点が、ふたりをより親密にしているのは間違いないだろう。明るいブロンドのくせ毛と水色の目。彼は見た目もポールによく似ている。こうして並ぶとまるで兄弟のようだ。
「きみの方は彼氏は?」
「今はいない。別れたばかりなんだ。実はこっちに越してきたのも、それが関係してる」
聞けばこの引っ越しは、ボーイフレンドとの想い出がありすぎるボストンから脱出する目的だったとのこと。ショーンの元カレの名はケイン。オペラの演出の仕事をするため、ショーンと別れ、ウィーンにひとり旅立ってしまったのだという。
「結局、ぼくらは電話とメールでやりとりしただけ。直接会って別れ話をすることもできなかった。それって最悪な別れ方だと思わない?」
「どうして直接会えなかったの? きみたち付き合ってたんだろ」と、ポール。
「ウィーンに行くのに準備が忙しいからって」
「それにしたって……」
「そう。いくら準備があるって言っても、恋人との別れ話に時間が取れないなんてあり得ないよ。これはケインの言い分けなんだ。これから捨てようって相手に、わざわざ時間をとりたくないんだよ」言って、ショーンはチーズを口に放り込んだ。それを咀嚼しながら、「そういう男なんだ」と、結論づける。
「次はもっといい彼氏が見つかるよ」とポール。「新しい土地に来たんだもの」
「どうかな。たとえそうだとしても今はそんな気にはならない。愛してた人に心無い仕打ちをされて、すぐに立ち直れるほど、ぼくはタフじゃないから」
「せめてケインの気持ちが聞ければよかったよね」
「聞きたいような、聞きたくないような……ぼくのことがすっかり邪魔で顔も見たくないなんて、改めて恋人の口から確認するのはあんまり楽しいことじゃないよ」
「どうかな、そんなことないんじゃないか?」おれがそう切り出すと、ショーンはわずかに片方の眉をあげた。
「“すっかり邪魔で顔も見たくない”なんてさ。最近まで付き合ってた相手で、ひどい喧嘩をしたわけでもない。思うに彼は、きみを傷つけるのが嫌だったんじゃないかな。ケインは新しい仕事でウィーンに行くって話だったんだろ? その決意が恋人の涙で鈍るんじゃないか、とかさ」
「そりゃそうかもしれないけど」とポール。「でもやっぱりこれはひどい話だよ。たとえディーンの言った通りであっても、愛してた人にそんな仕打ちはないと思うな」
「男は弱い生き物なんだ」
「ぼくだって男だよ。ショーンもね」
「訂正。“弱い男もいる”」
「ケインやきみは“弱い男”ってわけ?」と、ショーン。
「ケインは知らないけど、おれはまあ、そうかもな」
「ふぅん……でもそうだね。きみはぼくのケインによく似てるよ。センスがあってハンサム。それについては自覚があって、それから自分が“弱い男”ってことも知ってる。だから平気で“男は弱い生き物なんだ”なんて平気で免罪符にしたりするんだ。自分勝手なことにね……もう一本ビールをもらってもいい? 冷蔵庫を空にしちゃうかな?」
ショーンの言葉におれは面くらった。いや、ビールじゃなくて、その前の部分。初対面なのにずいぶんズバリと言うんだな? まあでも、おれがケインをかばうような発言をしたので、彼は面白くなかったのかもしれない。とにかく酒の席の話だ。気にすることはない。
今日は木曜。おれは早めに就寝したが、明日が休みのポールと、現在求職中のショーンは、ずいぶん遅くまで起きていたようだ。出勤しようとすると、ポールが目をこすりながら起きてきた。
「もう行くの?」
「ああ、ショーンはどうした?」
「まだ寝てる」
「きみも寝てろよ。今日は休みだろ」
「うん、あのさ、今夜ショーンを連れてローマンたちと飲みに行くことにした」
「今朝方までしゃべってたのに? すごい気力だな」
「仕事はなんじくらいに終わりそう?」
「今日は夕方から会議なんだ。全部署から集まるやつで、いつも長引く。今夜は行けそうにないな」
「ん、わかった。ローマンたちにはそう伝えておく」
「ショーンをみんなから守ってやれよ」
玄関を出る前にキスをする。『きみの一日がいい日でありますように』と願いを込めて。小さなキスはお互いが相手にかける魔法。〈愛し合う人々〉は、ときに魔法使いの弟子にもなれるんだぜ?(そう、これがノロケだ)
ドライヤーで髪を乾かしている最中、電話が鳴った。“今日は暇だな”とか“誰かが電話してこないかな”というときには鳴らず、取り込んでいるときばかり呼び出されるのが電話というものだ。
濡れた頭のまま出ると、陽気な口ぶりで「ハーイ、ディーン」とくる。名乗らなくてもわかるキャラクター。もちろんローマンだ。
「どう、お元気? 昨夜は会えなくて残念だったわ」
「ああ、おれも」
「あらやだ、急に素直じゃない?」
「だって昨日はマウロの店で集まったんだろ? あそこのトリッパは最高にうまい」
「あたしじゃなくて牛の胃袋に会いたかったのね」
「もちろんきみにも会いたかったよ……と、これでいい?」
「もっと情熱的を込めて言ってくれれば完璧だったけど、まあいいわ。ポールいる?」
「いるよ。風呂に入ってる」
「じゃあちょっと聞いておいて欲しいんだけど。彼、昨日お店にサングラスを忘れていかなかったかしら?」
「夜なのにサングラス? ポールじゃないんじゃないか?」
「そう思うんだけど、一応聞いておこうと思って。だったらショーンかしら? あたし彼の連絡先、知らないのよね」
「ショーンもどうかな。うちに来た時点ではサングラスなんかかけてなかったと思うけど。きみが他のテーブルから間違えて持ってきたんじゃ?」
「失礼ね。そこまで酔ってないわよ」
「いい男が隣の席にいて、確信犯で持って帰ったとか」
「だったらこうして電話なんかするもんですか」
「それもそうだ。昨夜はどうだった? ショーンをいじめたりしなかったろうな?」
「そんなことしません。新しいお友達はいつでも大歓迎よ。人生を新たにやり直すのに、ここはぴったりな場所だもの」
「そうか、彼がここへ来たいきさつを?」
「ええ、聞いたわ。気の毒に。引っ越さなきゃならないほど落ち込んじゃったのね。でもポールに会えたことは福音だったと思うわ」
「お互いゲイ同士だしな」
「そうよ、ゲイは結託してナンボなの。マンハッタンは赦しと癒しに満ちた街。地方では差別されて孤独な同性愛者も、ここで温かく迎えられ、花開くことができるんだから」
「神がソドムとゴモラの町を潰したのは失敗だったってことか」
「ソドムとゴモラの町じゃないの。天使が住まう場所よ、ここは」
「ショーンはいくらか癒されたかな?」
「恋愛の傷のこと? さあ、どうかしら。彼は時間がかかるタイプだと思うわ」
「皆が皆、きみみたいに相手を取っかえ引っかえできるわけじゃないからな」
「あたしのことは放っといて頂戴。まあ、こういうのはゆっくりとね。時間が解決してくれるのを待つしかないのよ」
電話を切ったところでポールがバスルームから姿を現した。まったくいいタイミング。これも電話にまつわる不思議な法則のひとつだ。
髪を拭きながら「電話だったの?」と、ポール。
「ローマンだった。昨日サングラスを忘れなかったかって」
「ぼくじゃないな」
「だと思ったからそう言っておいた」
「ありがと。用件はそれだけだったの?」
「そうみたいだな。ショーンが落ち込んでて気の毒だって言ってたよ」
「そう、彼は本当にショックだったんだよね。ずっとケインの話をしてるし、ぼくらのこともすごく聞きたがってた」
「ぼくらのこと? いったい何を話したんだ?」
「気になる? 別に大したことじゃないよ。知り合ったきっかけとか、普段のこととか。他愛もない話」
「ああ、それはいいな。おれの経験から言えば、他愛もない話が一番癒される。落ち込んでるときに、カウンセラー気取りでああだこうだ言われると、ますます問題が巨大化するよ」
「“問題”って言うか、ショーンとケインはもう終わっちゃったわけだしね……。この件で問題解決することはできないとなると、やっぱり他愛もない話をするしかないんだよ。いずれにしろ時間が解決してくれるのを待つしかないね」
ポールはローマンと同じことを言った。
恋愛の傷は肉体の傷より、ときに治りが遅いもの。どんな名医でもお手上げの状態に、助けになるのはやっぱり友達の存在だとおれは思う。もしくは新しい恋を始めるとか。しかしそれは言うほど簡単なことじゃない。皆が皆、ローマンみたいだとは限らないし、おれみたいだとも限らないからだ。“おれみたい”ってどんな性質かって? それについて説明すれば、この世の中にたくさんある偏見や、団結力の強いゲイ連と敵対する可能性があるので、あえて口を閉じておくことにしよう。
ここはメトロポリタン美術館。芸術と関わるのがおれの職業だが、これは仕事ではなく、学術的な休日の過ごし方。
待ち合わせに現れたのはショーン。今日のデートの相手は彼だが、これは別に“新しい恋”というわけではなく、ただ単に一緒に絵を見て楽しむという健全な間柄。
「誘ってくれてありがとう」開口一番、礼を述べ、「でも本当にぼくでよかったの?」と、遠慮がちに付け加える。
「もちろん。こっちこそ急に誘って迷惑じゃなければよかったけど」
「ぼくは一日中暇してるから、ぜんぜん平気さ」
「ポールから聞いたんだけど、きみは高校では美術クラブに所属してたんだって? 専門は?」
「油彩をちょっとだけね。それで誘ってくれたの? なんだかポールに悪いみたい」
「たまには男同士ででかけるのもいい……っと、いつも男同士だったっけ」
おれがそう言うと、ショーンはあははと笑い転げた。差別すれすれのミステイク発言だが、彼はそんなこと気にもしていないようだ。
“ポールに悪い”とショーンは言ったが、このデートはそもそもポールが企画したものだ。取引先からもらった美術展のチケットをポールに渡したところ、彼は「ぼくの休みと合わないな」と言った。
「そうか、残念。めったに来ない絵画だからぜひ見せたかったけど」
「ねえ、もしよかったらショーンを誘ってあげてくれないかな?」
「ショーンを?」
「彼は美術クラブに入ってたから、絵画には興味があると思うんだ」
「じゃあ、このチケットやるよ。きみと二人で平日の都合のいい日に行ってくればいい」
「それもいいけど……ショーンはぼくとだけでなく、いろいろな人と出かけたりするのがいいんじゃないかと思うんだ。あれからマウロの店にはときどき顔を出してるみたいだけど、昼間に出かける友達はまだいないみたい。せっかく新しい街に来たってのにそれはもったいないよ。人と一緒にいることで彼が癒されるんであれば……」ポールはここで言葉を切り「ぼくの言ってること、おせっかいだと思う?」と訊ねる。
「いや、そうは思わないな。言ってることはよくわかる。オーケー、そういうことならショーンを誘おう」
「ありがとう」
「きみは優しいな」おれは恋人の頭にキスをし、それからショーンにメールを送った。そういうわけで、これはポール公認のデート。浮気じゃないのでご安心を。
開期終了までの最後の日曜とあって、場内はそこそこ混んでいた。中国人旅行者の団体の背後からみる『茹でた隠元豆のある柔らかい構造』は、いつもに増してシュールに見える。
果てしない空間と不安定な構図。熱があるときに見る夢のようなダリの世界。果たしてこれらの作品群を、ショーンは“好ましい”と思っているだろうか?
「きみはダリは大丈夫?」
「大丈夫って?」
「嫌いじゃないかって意味。ダリは好き嫌いが分かれる作家だから」
「ああ、それなら“大丈夫”」
「きみは画家では誰が好き?」
「特に誰っていうのはいないかな。好きな絵はあるけど。眠っている女の人に、ライオンが覗き込んでるやつ……作家名は忘れた」
「ルソーだ。すぐそこのMOMA(ニューヨーク近代美術館)に置いてある。あの絵はおれも大好きだ」
「そういえばディーンは絵を売ってるんだよね? 本職の講義をぜひ聴きたいな」
「本職の講義? いいとも。“……お客様、こちらはシュールレアリスムの代表的な作家、サルヴァドール・ダリの作品です。お値段は900万ドルと多少張りますが、資産価値は充分にあると思います”」
おれの澄ました解説にショーンは笑い、「ぼくが聴きたいって言ったのは、セールストークじゃないよ」と、首を振る。「そういうんじゃなくて、絵画についての説明とか、ダリのこととか。きみは詳しいんだろ?」
「まあな。でも正直、そういうのにはあまり興味がないよ。いつ生まれたとか、誰と結婚したとか、どの作品がシュールレアリスムへの分岐点となったかとか。本物の絵画を目の前にして、目録やウィキペディアに書いてあるようなことを語りたいとは思わないね」
「ふうん……じゃ、こういうときは何を語るの?」
「おれが興味深いと思うのは、個人の解釈さ。専門家が言うようなことじゃなくて、自分はどう思うかってこと。独自の解釈ほど面白いものはない」
「だったら“きみの解釈”を聞かせてほしい。ダリの絵画はどう? 溶けた時計については? このパンフレットには『溶けるカマンベールチーズから、ダリはイメージを得たと言われている』って書いてあるけど?」
「ありそうな話だ。それが本当かは知りようがないけどな。うん……そうだな、おれは腕時計をコレクションしてるんだけどさ、コレクターの観点からすると、ダリの描く時計はカマンベールチーズだけじゃないんじゃないか、とも思えるんだ」
ショーンは無言でこちらを見つめている。おれは先を続けた。
「さっき見た『子供―女の記憶』には、懐中時計がいくつも描かれてただろ? コレクターとまでいかないけど、ダリは時計が好きだったんじゃないかな。少なくとも絵のモチーフにするくらいには。“溶けた時計”で有名な『記憶の固執』は1931年に描かれたもので、その同時期、時計業界では革命的な出来事が起きたんだ。腕時計が発明されたんだよ。それまで時計といえば懐中時計のことで、それはポケットから取り出しやすいようにすべて丸い形をしていたんだけど、腕時計にはそうした配慮は必要ないから、いろいろな形のものが発売された。四角だの三角だののデザインは、今でこそ珍しいものじゃないけど、当時の人にとっちゃ斬新だったはずさ。それまで誰もが“時計は丸だ”と思い込んでいたんだからね。天動説ほどじゃないけど、衝撃的だったと思うよ。そしてダリが溶けた時計、つまり“丸でない時計”のモチーフを使い始めたのも同じ時期……。おれはそのあたり、まったく無関係であるとは思ってない。絵の背景には、そのアーティストが生きた時代が、意識的にしろ、無意識的にしろ反映されているものなんだ」
「なるほど、創作の背後にはいろいろな要素が関係してるんだね」
「今おれが言った説はあくまで仮説だ。カマンベールチーズの説と同じで、本当のところはわからない。でもそうやって好き勝手に考えた方が面白いからな」
ディーン・ケリーは基本的におしゃべりな男ではない。しかし自分の好きなこと、興味があることに関しては別だ。ショーンはあいづちを打つのがうまく、この日のおれはずいぶん饒舌になった。きっとショーンは『ディーンってすごく話し好き』との印象を持ったことだろう。
オーストリア風のカフェに落ち着き、おれはローマンからの伝言を思い出した。
「そういえばきみ、こないだマウロの店に忘れ物をしなかったか?」
「忘れ物?」
「ローマンが誰かのサングラスを確保してるって言うからさ。でもきみじゃないよな?」
するとショーンは「ぼくのだ」と目を見開いた。「ずっと探してたんだ。もしかしたらきみの家に置いてきたかと思ったんだけど」
「ああ、そうだったのか……ごめん、ローマンには“たぶんショーンじゃない”って言ってしまった」
「ローマンが持ってるの?」
「すぐに言えばよかったな……ずっと探してたって?」
「気にしないで」
「来週はマウロの店でパーティがある。そのときに持ってきてもらうようローマンに言っておくよ」
「何のパーティ?」
「マウロの誕生日。主役自ら腕をふるっておもてなしするってさ」
「みんなパーティが好きだね?」
「きみもここにいれば好きになるさ。嫌も応もない。選択肢はたったひとつしかない、“参加して楽しむ”」
おれの言葉にショーンはにっこりした。やっぱり彼は人恋しいのかもしれない。新しい土地に来て、まだ職もなく、彼氏とは別れたばかり。ポールは自分の判断を“おせっかい”かと心配していたが、この笑顔を見るだに、今日ここに誘ったのは間違いじゃないと思えた。
ショーンはメランジェのカップを下ろし、「さて、これからどうしようか」と、あごの下で手を組んだ。
「そうだな……じゃあ本屋に寄るってのはどうだ? リゾーリに行ったことは?」
「ううん、まだ」
「美術書の品揃えがとにかくすごい。それと、同じフロアにあるレズビアン&ゲイのコーナーも充実してるって話だ。おれはよく知らないけど」
「いいね、行ってみよう」
微笑むショーン。その笑顔は本当にポールとよく似ていた。
夜には電話がかかってきた。出たのはポールだ。
「ショーン、今日はどうだった?…………そうか、よかった」
おれは冷蔵庫から炭酸水を取り出しながら、彼の会話を聞くともなく聞いている。
「そんなことないよ…………うん……ディーン?……ああ、そうだね。うん」
くすくす笑うポール。いったい何を話していることやら。
「ディーン」と、受話器を差し出す。「今日はありがとうって、ショーンから」
電話を代わると、彼は「今日は誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった」と、再度の感謝を口にした。
「おれも楽しかったよ。思い切りウンチクを述べることができて気分がよかった。もし一緒にいたのがポールだったら、彼は立ったまま眠ってただろうから」
ポールはおれの足を軽く踏んづけ、キッチンに消える。
「機会があればぜひまた誘って。しばらくは無職で暇をもてあましてるから」
「遊べるのは今のうちだもんな。じゃあ、またそのうちに。ポールに代わろうか?」
「いいよ、大丈夫」
「じゃあまた」
「うん、それじゃ」
電話を切ったところで、ポールが果物を手にキッチンから顔を出した。
「電話終わった?」
「ああ、代わったほうがよかったか?」
「ううん、それはいいけど。彼、何の用事だったの?」
「今日はありがとうってさ」
「それだけ?」
言われてみればそうだ。お礼を言うためだけに電話をかけてくるなんて、まるで母親の世代みたいに几帳面なことだ。
「わざわざ電話をくれるなんて、彼はずいぶん丁寧なんだな。……ところでその手にしてるオレンジは?」
「オレンジじゃないよ。タンジェリン(みかん)。食べる?」
それから二人でテレビを見ながら果物を食べ、寝る前に一回だけセックスをした。今週の休日はこんな感じ。明日からまた月曜日だ。
『隴(ろう)を得て、また蜀(しょく)を望む(Appetite grows with eating)』。
食べられるのは健康の証というが、それを諌める格言は多い。必要以上に欲しがるのは美徳ではなく悪徳であると、あまたの宗教が忠告しているが、このマンハッタンでは消費し、欲望を叶えることこそが“平均的な民である”との証にもなっている。レストランのガイドブックはコンスタントな売り上げをみせ、特殊な健康法を取り入れているのでないかぎり、民衆は大いに口腹を満たす。多分にもれず“平均的な民衆”のおれの欲求はシンプルだ。「今夜どうしてもトリッパが食べたい」という衝動に駆られ、就業後はマウロの店に直行。それは聖書にある言葉通り。額に汗し糧を得て、涙のうちにそれを食う。日々のささやかな願いを叶えることぞ、赦しと癒しの街の住人の幸福なり。
カウンター席を陣取り、「ここのトリッパが食べたくて、夢にまで見た」と言うと、オーナーシェフのマウロは「光栄の至りね」と、誇らしげに胸を張った。襟元から覗く胸毛と、黒々とした口ひげ。外見はかなり男っぽいが、心は誰より乙女チックなマウロ。その物腰はいつも柔らかい。
「ねえディーン、あなた絵とか興味あるのよね? もしよかったらこれ、もらってくれない? わたしはお店があるから行けないのよ」
差し出すそれは、メトロポリタン美術館のチケットだった。
「残念。先日もう観に行ったんだ。ショーンと一緒に」
「ショーン? ポールでなくて?」
「ポールもきみと同じ、“お店があるから行けない”ってさ。サービス業は大変だよな。そういえばショーンはときどきここに来てるって?」
「ええそう、たまに顔を見せてくれるわ」
「この間、サングラスを忘れていった奴がいたろ? あれは彼なんだ」
「あら、そうだったの。でもうちでは預かってないの。ローマンが持って帰ったのよ」
「それは知ってる。来週はきみの誕生日パーティだから、そのときに渡してもらうようにしようと思って」
「あら……」マウロは表情を曇らせた。
「なに?」
「いえね、今回のパーティは身内だけでこぢんまりとやろうと思ってるの。だからショーンは……」そのまま言葉をフェードアウトさせる。言いにくそうな様子を察し、「そういうことなら」とおれは答えた。「いいよ。今回は遠慮する」
「あら、ちがうのよ! あなたとポールは来てくれて構わないわ“身内”ってそういう意味だから。もしお嫌じゃなければ、だけど」
「もちろん嫌じゃないよ、身内扱いは“光栄の至り”だ。そうだな、たまには“こぢんまり”もいいよな。でないと“こぢんまり”って言葉の意味を忘れそうになる」
「そうなのよ。“地味”とか“落ち着き”とかもね。なんたってあたし、もうすぐ33歳だし?」
「成長に伴って語彙は増える。あとは何だろ?“貞節”とか?」
「それはあたしの辞書になくていいの」
「乱丁本だな」
「あなたはどうなの?」
「おれの辞書は完全版さ」
「“貞節”も?」
「もちろん」
「“浮気”はどう?」
「それはないな」
「ない単語があるんじゃ、完全版とは言えないわね」
「浮気と貞節は相反する要素だろ。同時には並び立たない。矛盾してるよ」
「完全版のディクショナリーを持てるのは“不完全な人間”だけよ。完璧な人は存在しない。それが人間の本来の姿だもの」
「少なくともおれたちは完璧とは言いがたいか」
「そう、完璧なのはこれよ」と、おれの前にトリッパの皿を置く。マウロの言う通り。それは完璧な味がした。
電話が鳴っている。日曜の午前中、ベッドの中でミノ虫のように丸まっているところに、電話が鳴り続けている。どうせセールスだ(ちがったらごめん)。出てやるもんか(ちがったら本当にごめん)。おれは車も不動産もいらないんだ。早いとこあきらめて、別なターゲットを狙ってくれ(オヤスミ!)。
呼び出し音はなかなか切れず、とうとう根負けして受話器を取る。
「もしもし……」寝起きで不機嫌な声のトーンに、相手は「ごめん、寝てた?」と謝罪する。セールスだったらそうは言わない。おれはあわてて「いや、寝てないよ」と嘘を言う。
「朝からごめん」
「いや、いいよ」って言うか、きみは誰?
「あ、ええと。ショーンだけど」
「ああ」そうか。
「あのさ、きみたちチーズ好き?」
チーズ? なんだろう。食の嗜好を訊ねるために、朝っぱらから電話をかけてきたのだろうか。
「好きだよ。おれは特に」
「よかった。今ね、ぼくの家にいっぱいチーズがあるんだ。オランダにいる友達がチーズをたくさん送ってきてくれて。ひとりじゃ消化しきれない量だから、少しばかりお裾分けをと思って」
「オランダのチーズ……ってことはエダム?」
「赤いワックスのね」
「わお、それは最高」寝ぼけ頭が吹き飛んだ。たたき起こされて不機嫌だったことも忘れ、「どこか外で待ち合わせようか?」と、申し出る。
「もし良かったらお宅におじゃましても?」
「今日はポールがいないんだ。仕事に出てる。彼がいなくてもいいんなら」
「うん、チーズを届けるだけだから」
「待ってるよ」
早起きは三文の徳。これからはちゃんと電話に出るとしよう。
「おれはチーズが大好物なんだ」
真っ赤なワックスがかかった、ずっしり重たい玉を受け取り、ヨダレを垂らさないように細心の注意を払う。
「ハードのなかではエダムが一番好きだ。その点ではヨーロッパに住んでもいいくらい。イタリアに行ったときは、買えるだけチーズを買ってトランクに詰め込んだんだ。シャツに匂いが移って大変なことになったけど、満足だったね」
「喜んでもらえてよかった」微笑むショーン。コカインの受け渡しでも、こうまでハッピーにはいかないだろう。
「ぼくのケインもチーズが好きだったんだ。オランダの友達はぼくらが別れたって知らないもんだから、それでこんなに送ってくれて……あ、もしかしてコーヒーを入れてくれようとしてる?」
「ああ」
「ごめん。せっかくだけど、ぼくはコーヒーは駄目なんだ」
「そうか。じゃ、なにか他のものを。ええと……何がいいかな。ハーブティはどう? 嫌いじゃない?」
「気にしないで、すぐにおいとまするから」
「もしかして忙しい? この後用事でも?」
「ううん、時間はあるよ」
「だったら座ってくれ。お茶を飲むくらい構わないだろ?」
ダイニングテーブルにむりやり着かせ、紅茶を淹れると、ショーンは“すぐにおいとまする”のを、すぐにあきらめた。
「こんなに大量のチーズは迷惑かなって思ったけど、パスタとかに使ってもらえればいいかなって。きみたちは二人だし、すぐ消費できるよね? それにポールが“ディーンは料理がじょうずだ”って言ってたから」
「料理は好きだね。じょうずかどうかはわからないけど。後片付けがヘタなのは間違いない」
「それも聞いた。ディーンは料理しながら片付けることができないから、後が大変だって言ってたよ」それから一拍おいて、「ケインもそうだった」と、つぶやく。
「彼も料理を?」
「うん、たまにね。やっぱり後片付けがだめで、もう大変。こっちが料理するときは彼が皿洗いの当番なんだけど、ぼくはキッチンを汚さないから、後片付けはずいぶん楽なんだ。いつも“フェアじゃないな”って思ってたよ」
この言いっぷり。まるでポールがしゃべってるみたいだ。彼らは一度DNA検査をした方がいいのかもしれない。
まな板とナイフ、スライサーをテーブルに揃え、さっそく頂き物にとりかかる。クリスマスプレゼントの包みを破る気持ちで、チーズのワックスをはがす。この瞬間がたまらない。
「あのさ、ちょっと聞いていい」と、ショーン。
「うん?」スライサーはピカピカ。戦闘体制は万全だ。
「こないだ“思い切りウンチクを述べることができて気分がよかった”って言ってたよね?」
「ああ」切り口にあてて、スライサーを引く。薄く削がれたチーズは黄金色の落ち葉のよう。
「ポールとは美術展に行ったりしないの?」
「そういうわけじゃないけど……」あのときはポールが“ショーンがしょげてるから”って気を利かせたんだ。「たまには行くよ。そうしょっちゅうじゃないけどな。彼もアートは嫌いじゃないし。でもおれのウンチクには退屈してるんじゃないかな」
「ぼくは楽しかったよ。さすがプロだって思った」
「ありがとう」ドライフルーツとチーズを皿に盛って出す。これは紅茶とよくあう組み合わせ。
「いつもポールとはどんなデートをしてるの?」
「そのときによっていろいろ。基本的におれとポールの趣味は違うんだ。おれが『家でテリー・ギリアムの映画を見よう』って言うときもあるし、彼が『有機栽培の市場に行こう』って言うときもある」
「市場なんて行くんだ?」
「興味ある? 今度ポールに教えてもらうといいよ」
「ディーンはそういうの興味あるの?」
「まあ、ないこともない。でもポールと付き合ってなかったら、まず行かなかったろうな。早起きして市場に行くのは何よりも楽しいってわけじゃないけど、彼が行きたがっているなら付き合いもするよ」
「うらやましい」言ってレーズンを口に放り込む。「ぼくのケインはそういうことはしてくれなかった。自分の好きなものに付き合わせはするけど、ぼくが好きなものに興味を持つことは少なかったよ」
「それはつまらないな」
「付き合ってるときは好きだったから分からなかったけど、今思えばつまらなかったね。彼はマイペース過ぎるところがあって、ぼくは人に合わせようとするタイプなもんだから、けっこう振り回されたと思う」
「そういうやつとは別れて正解なんじゃないか……っと、ごめん。言い過ぎた」
「いいよ」くすっと笑うショーン。最初に会ったときに突っかかってきた面影はどこにも見られない。
とりとめもなくおしゃべりをし、紅茶をおかわりする。どっかの奥さん連中みたいな休日の午前中。ショーンは相変わらず会話を引き出すのが上手で、またしてもおれは“おしゃべり男”になってしまった。
玄関を出る直前、ショーンは思い出したように「そういえばパーティはいつだっけ?」と訊いてきた。
「パーティ?」
「マウロの誕生日」
「ああ……それか」パーティは先週。それは先刻の通り、こぢんまりと行われたのだった。どうやらショーンには連絡が回っていなかったらしい。
もう終わってしまった旨を伝えると、彼は“えっ”という顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻して「じゃあ、仕方ないね」と穏やかに言った。
「声をかけ忘れることはよくあることだよね。ディーンは忘れっぽいってポールも言ってたし」
え? これはおれが彼に伝えるべき件だったのか?
「ええと……ごめん」
「気にしないで」
おれはてっきり彼が自分でマウロのところに連絡をしたものだと思っていた(店にたまに顔を出しているという話だったし)。そうでないとしてもポールか、もしくはローマン(彼はショーンのサングラスを預かっている)がいるわけだし。おれはこの件を“うっかり伝え忘れた”わけではないのだが……。しかしここはそういう話にしておくのが無難な気がする。誰だって“パーティに呼ばれなかった”というのは、どんな事情にせよあまり面白いものじゃない。
「ね……あのさ、ディーン……」
「ん?」
ショーンは唇を軽くきゅっと結び、おれではなく、床のあたりに視線を泳がせている。それはなんだか笑いをこらえているようにも見えた。
「なに? どうした?」
彼はぱっと顔を上げ、「ううん、なんでもない」と、すばやく答える。
「それじゃ、またね」
「ああ、じゃあまた。今日はわざわざありがとう」
キッチンにはチーズがゴロゴロ。今日は最高の日曜日だ。掃除機をかけるリズムも軽く、『今夜はラザニアなんかいいかもしれないな』と、夕食のメニューに思いを馳せる。
そういえばさっきのショーン。あの妙な“溜め”は何だったんだろう? もしかしてチーズの代金を請求しようと思ったとか? いや、そんなことはあり得ないか。
掃除の後はスーパーに買い物。オランダのチーズと合うワインを見繕う。こう見えておれは結構いい奥さんタイプかもしれない。料理の後片付けは下手だけど。
「なんだって!?」
おれがローマンに向かって声を張り上げているのは、そう珍しいことじゃない。彼はいつもおれにそうさせるし、いわゆるお決まりのワンシーンだ。しかしこの日の内容は、いつもに増して笑えない深刻なもの。ローマンが「妙な話を耳にしたんですけどね」と、オールドミスの教師のような面持ちで切り出したのは、本当に“妙な話”だった。
「あなたたち、もうすぐ別れるんじゃないかって、もっぱらの評判よ」
もっぱらの評判は、おれとポールの関係が暗礁に乗り上げているという情報。その内訳は、お互いに趣味が少しも合わず、希望するデートコースもバラバラ。相手に対しこまごまとしたストレスを感じていて、特にディーンの方が強い不満を抱えているのだとか。
「は! 根も葉もない噂だ。どうしてそうなるんだ?」
「どうしてかしらね」
「いったいどこからそんな話が?」
「どこかしらね……と、言いたいところだけど、それはほぼはっきりしてるの。どうやら震源地はショーンらしいわ」
「ショーン?」
「ポールに不満があるとか、別れたいとか、そういう話を彼にした記憶は?」
「あるわけない」
「ショーンがこの家に来たことは?」
「二度ほど来たかな」
「二人っきりだった日なんてある?」
「二週間ほど前だ。うちにチーズを持ってきてくれた」このことはもろちんポールも知っている。
「それね」キッと目を細め、核心的に言うローマン。「あなた、ポールが留守の間にショーンを招いたのね」
「“留守の間に招いた”って何だよ。おかしな言い方するな」
「あたしが耳にした噂はこうよ。“ポールがいない週末、ディーンはショーンを家に呼んだ。彼が帰ろうとするところを無理矢理引きとめて、彼と楽しく語らいの時間を持った”」ここで一呼吸おき、「根も葉もない噂?」と、身を乗り出す。
「なんだそれ? 誰が無理矢理引きとめようなんて……」
あれ? ちょっと待てよ。こないだのやりとりって、どんなだったっけ?
〈再現フィルム〉
ショーン「気にしないで、すぐにおいとまするから」
おれ「もしかして忙しい? この後用事でも?」
ショーン「ううん、時間はあるよ」
おれ「だったら座ってくれ。お茶を飲むくらい構わないだろ?」
ショーン「せっかくだけど、ぼくはコーヒーは駄目なんだ」
おれ「そうか。じゃ、なにか他のものを。ええと……何がいいかな。ハーブティはどう? 嫌いじゃない?」
……引き止めてるだろ。しかもコーヒーを遠慮してるところに、代替案まで出して。
「まあ……“座ってけば”くらいは言ったかもな」
「それから?」
「それからって?」
「他にどんなことを?」
「おい、いったい何だよこれは? おれを尋問しようってのか?」
「ディーン、落ち着いて」そう言って、おれの背に手を添えたのはポールだ。「誰もきみを尋問しようなんて思ってない」
ローマンがしゃべり出してからずっと沈黙を守っていたポール。ショーンの友人である彼がこんなにも落ち着いているっていうのに、おれが動揺してどうする。
「ごめん……ええと何の話だっけ?」と、ローマンを見る。
「尋問の途中よ」
「やっぱり尋問じゃないか!」
ポールはソファの上で身体を折り曲げ、笑いだした。この笑顔を見れば、おれたちの関係は暗礁になど乗り上げていないことがよくわかる。おれは恋人の手を取り、自分の膝の上にそっと乗せた。
「あの日はショーンからもらったチーズを切って、それからいろいろ話をした。ポールとおれの関係についても、聞かれたから答えたよ」
「二人っきりで?」再確認するローマン。
「“っきり”って何だよ。普通に“二人”だった」
「まあ、ヤバい」
男同士が二人で部屋にいて何がヤバいってんだ?……いや、おれたちはゲイなんだっけ。あまりに自覚が薄いので、ときどきそのことを忘れそうになる。
「なあ、ショーンはわざわざうちにチーズを届けに来てくれたんだぜ? 部屋に上げるのが普通だろ? 玄関先で“じゃあな”って言えばよかったってのか?」
「彼とはどんなを話したの?」
「たいしたことじゃない、ポールとどこにデートに行くかとか……って言うか、そんなのいちいち覚えてるもんか。きみはおれがポールの悪口をショーンに言ったと思ってるのか? おれがそんなことをする奴だと?」
「そんなこと信じてないよ」穏やかに遮るポール。「きみは容易く人に愚痴をこぼすようなことはしないからね。疑ったりなんかぼくはしてない。安心して」
「まあ、そうね。ディーンはそういうことはしないわね。プライドが高くて警戒心が強い男は、おいそれと他人に愚痴をこぼしたりしないもの」
うなずき合う判事と陪審員。差し出された証拠は『ディーンは容易く人に愚痴こぼさない』。理由は、『ディーンはプライドが高く、他人に対する警戒心が強いから』。審議は不満だが、判決には正義がまかり通った。
「それで? あなた方が服を脱ぎあったのは何時ごろのことかしら?」
「脱ぐか!」
「ローマン。ディーンがそんなことするわけないだろ」
「ええ、そうよね。面白いからつい」
「おれは少しも面白くない」
「でもほんと、いったいどうしてそういう話になっちゃったんだろうね」とポール。
「こっちが聞きたいよ」
ローマンはちょっと考え込むような仕草をした後、「こうなったから言うんだけど……」と切り出した。「あの子、ちょっと煙たがられてるのよね」
「ショーンが? 誰に?」
「彼がマウロのお店にちょくちょく顔を出してたってのは知ってるかしら? あそこは“ガールズ”たちの溜まり場でもあるでしょ。ショーンの話には彼女たち、誰もが同情してたんけど、彼はいつ来ても同じ話題を繰り返すんですって。それがあんまりしつこいもんで、しまいにはみんなヘキエキ。それで誰かがとうとうこう言ったそうよ“もう終わったことなんだからいいじゃないの、いつまでもグチグチ言うもんじゃないわ”って。するとショーンは“きみには人の気持ちがわからないんだ”と怒り始めたそうなの」
そういえば彼は以前にも怒ったことがあった。初対面の日、おれがケインをかばうような発言をしたときだ。
「それでみんな白けちゃって。その場は何となくお開きになったって話だけど、マウロはいい迷惑だったわよね。あそこは自宅じゃなくてお店だもの。他のお客さまもいるわけだし」
ショーンがパーティに呼ばれなかった理由がこれでわかった。マウロはしばらくの間、みんなからショーンを遠ざけておきたいと思ったのだ。
「失恋については時間が解決してくれるでしょう。けど、せっかくできた新しい人間関係をややこしくしちゃうのは、どうかと思うわね」
「じゃ、彼にそう助言してやれよ。きみはそういうのプロだろ?」
「らくだに水を飲ませることはできない」
「なんだって?」
「らくだを水辺に連れていくことはできても、水を飲ませるのは無理って格言よ。頭を下げて水に口をつけるのは、らくだ自身がやることで、らくだの飼い主はそれを強要することはできないの」
「要するに放っておけってことか?」
「あたしはこの件に関しちゃ部外者なのよ。ややこしくなった人間関係があるんなら、当事者同士で話し合えばいいでしょ。“そういうのプロだろ?”なんて、なんでもかんでもカウンセラーに丸投げしようなんて思うんじゃないわよ」
「別に丸投げするつもりはない」
「あらそ? じゃあショーンと直接話し合うのね?“ヘンな噂を流布しないでください”って」
「話し合うさ。そういう言い方はしないけど。そのときはきみもいてくれよ」
「なんであたしが? 部外者だって言ったじゃないの」
「ショーンのサングラスを預かってるんだろ? それを渡すいい機会さ。それに“ゲイ同士は助け合う”って話。なあローマン、ここは何の街だっけ?」
「あら……。まあ、知恵の回ること。いいわ、ショーンと話をするときにはいてあげる。でもいるだけよ。あなた方、極力自分たちで解決なさいよ」
「ああ、もちろんそうするよ。ありがとう」
ローマンが帰ったあと、おれはポールに「信じてくれてありがとう」と言った。「きみはさっき彼に“ディーンがそんなことするわけない”って言ってくれたよな? あれは嬉しかった。おれに対する信頼を感じたよ」向かい合って立ち、彼の両手をとって優しく引き寄せる。
「疑う余地なんかないよ」と、ポール。
「本当に?」
「もちろん」
その顔に浮かんでいるのは天使の微笑み。ああ、やっぱりきみは最高の恋人だ。おれたちは信頼しあってる。暗礁なんてどこにも見つけることはできないじゃないか。
こみ上げる感情にまかせ、おれは彼を包むように抱きしめる。
「ポール、愛してる……」
「ぼくも愛してるよ……」そっとおれの耳元にささやく恋人。続け「ショーンが女の子だったら話は違ってくるけどね」と付け加え、すばやくパッと身を離す。
「それじゃ、ショーンに連絡して話し合いの日取りを決めておいて。今の状況だと、ぼくよりきみが呼び出したほうが、彼には効果的みたいだからね。よろしく」それだけ言って、最高の恋人は自室に消えた。
『ディーンは浮気をしたりしない信頼に値する男』。その理由は『ショーンは女の子じゃないから』。
…………まあ、とにかく。ポールにいらぬ誤解を与えるには至らなかったんだ。安心していい。
さて、ショーンに電話しないと。これがまた気が重い作業なんだが……。
全員の都合がついたのは金曜の夜。ショーンとローマンには、うちに来てもらうことにした。ポールとおれがうまくいってることをわかってもらうには、ふたりでいるところを見てもらうのが一番いいだろうという結論からだ。
「今日はお招きありがとう。これ、よかったら」ショーンはおれに細長い紙袋を差し出した。中身はワインだ。
「ああ、ありがとう……でも気を使わなくてもよかったのに」なんたって今日は愉快なパーティじゃないんだから。
「ポール、ショーンからワインをもらったぜ」そう呼びかけると、彼はキッチンから姿を現した。
「やあ、ショーン。元気だった?」
「うん、まあまあ」
「ワインを頂いたって?」ポールはおれから紙袋をひったくった。「オーストリア産の赤。カベルネ・ソーヴィニヨン」
「好みに合うといいけど」
「うん、大丈夫だよ、ぼくはね。ディーンはフルボディは苦手だけど」
「え……そうなんだ」
「でもぼくは好きだから嬉しいな。デキャンタリングすれば彼も飲めるよ……っと、失礼」ポールはポケットから携帯を取り出した。液晶を見つめ、「ローマンからメールだ」とつぶやく。「仕事が長引いて、一時間ばかり遅れるって。じゃ、先に始めてようか」
キッチンで紅茶の支度をしているとポールがやってきた。「すぐ本題に入るんだよね?」と、リビングにいるショーン聞こえないよう、小声でささやく。
フォートナム&メイソンの缶を開けながら、「ローマンが来てからでいいだろ」と、おれは答える。
「彼が来るのは一時間後だよ? その間なにを話すっての?」
「なんでもいいだろ」目でケトルのお湯を確認する。まだ沸いてない。
「なんでもって何?」
「だからなんでも」
「本当に話する気あるの? なんでショーンがあんな噂流したかって、聞くんだよね?」
「聞くさ。でもこれは尋問じゃない」
「そんなのわかってるよ。でも本題があるのに、それ以外の話をして待つだなんて。何だか白々しいし、失礼な感じがするよ」
「それを言ったらきみもだ」
「ぼく?」
「“ディーンはフルボディは苦手”。プレゼントをもらったそばからあんなこと言うことないだろ。ちょっと感じ悪かったぜ?」
「別に本当のことを言ったまでだよ。そんなことより……」
「ちょっと待てよ。“そんなことより”って何だ? きみはおれの落ち度を指摘するときは饒舌だけど、自分のこととなると、すぐに話題を変えようとするよな」
「今日のテーマから逸れようとしてるのはきみの方だ!」
「逸れてないだろ! おれはローマンが来てから……!」
「あの……」キッチンとダイニングを結ぶ小窓から、ショーンが顔を出す。「もしかして何か大変なことになってる?」
「いや、おれたちは別に何も……」
「うん、ちょっと喧嘩しちゃったんだ」おれの言い訳をポールが遮った。「でももう大丈夫だから、心配しないで」そう言って、おれにぴたっと身体を寄せる。
「ならいいけど……」
「こっちは気にしないで、座ってて」
ショーンが引っ込むと、ポールは「そういう言い方しちゃ駄目だよ」と、おれに向き直る。「“おれたちは別に何も”なんて言うと、よけい“あれ? 何か隠してるな”って風になるんだから」
確かにポールの言う通りだ。おれたちは喧嘩もするけど仲がいい。いつもと変わらず自然でいれば、おのずとショーンもおれたちに問題がないことを知るだろう。
「隠したり取り繕ったりするのはかえって不自然ってことか」
「そういうこと。お湯が沸いてるよ」
「おっと」おれはレンジのスイッチを切った。
「……で、そういういきさつがあって、ディーンは最終的にぼくを恋人に選んでくれたんだ。だからあのときはもうすごく嬉しくって……ディーン、聞いてる?」
「あ、うん」
「ディーンから告白された瞬間は、自分が世界一幸せだってぼくは思ったんだ」
うっとりと言うポールに、「よくわかるよ」とショーンが頷く。
「最初は誰でもそう思うんだよね。ぼくとケインもそうだった。でも三年経ったら変わったけど」
「ぼくとディーンは今のところ、最初の勢いを保ち続けてるよ。そうだよね? ディーン?」
「あ、うん」
「ディーンはぼくのケインと違って優しいから。いろいろ我慢したり、ストレスを溜めないように気をつけないといけないね」
「ぼくはそういうのすぐ気がつくよ。パートナーの様子には気を配ってる」
「もちろんポールはそうだよね。でもぼくが言ったのは“ディーンに対して”だから。いくらパートナーが気を配ってくれてても、ストレスを溜めないようにって。ね、ディーン?」
「あ、うん」
「そういえば、こないだ一緒に美術館に行ったとき、ダリの時計がどうして溶けてるかを説明してくれたじゃない? その話、ポールは聞いたことある?」
「いいや」
「すごく興味深い話だよ」
「そうなの? ディーン?」
「あ、いや、それほど面白いってわけじゃ……」
「謙遜することないよ。ぼくはすごく面白かった。元美術部同士、気が合うのかもね。もしポールだったら立ったまま寝てるかもだけど」
「ぼくは美術部じゃないけど、ディーンの話は面白いと思うよ。彼はぼくをいつも笑わせてくれるんだ。例えばこの間、ユニオンスクエアのファーマーズマーケットに行ったとき……」
「ディーンは早起きして市場に行くの、あんまり好きじゃないんだよね?」
「あ、いや、それは……」
「この間そう言ってたでしょ? 忘れたの?」
「ディーンは低血圧で朝に弱いからね。でもぼくがバナナミルクシェイクを作ってあげると目が覚めて、朝市にも付き合ってくれるんだ。彼はいつもぼくのワガママを聞いてくれる。本当に優しい恋人だよ」
なんなんだこの会話は。さっきから少しも口を挟むことのできない空気。一見なごやかなようでいて、何かが激しくとげとげしい。
「ディーン、どうしたの? 今日はやけに無口だね」ポールがおれの顔を覗き込む。
「ほんと、この間、一緒に出かけたときは、あんなにたくさんしゃべってたのに。どうしたの?」ショーンもソファから身を乗り出した。息が苦しい。室内の二酸化炭素濃度が濃くなったようだ。
「何か……具合悪くなってきた……」
「ほんとに?」
「大丈夫?」
ふたりは一斉におれににじり寄った。すると不思議なことに、室内のCO2がさらに高まる。どんな化学反応だ、これは。
「何だったら、ぼくに寄りかかってていいよ」と、ポール。
「こっちのソファを空けようか?」と、ショーン。
ご親切にどうも。しかし頼むからおれのことは放っておいてくれないか?(いや、無理だよな)
「ディーンは言うべきことを言ってないから、それが気になって具合が悪いんじゃないのかな」と、ポール。「そろそろ本題に入ったらどうだろう?」
「本題?」と、ショーンが首をかしげる。
「ショーンに言うことがあるんだよね?」
「そういえば電話で言ってたね。話って何?」
くそ、ポールのやつ。おれはローマンを待ってるって言ってるのに。でもこうなったら仕方ない。始めるしかないようだ。
おれはまず、自分が耳にした噂のことをショーンに話した。その出所がどこかはわからないが、きみじゃないかという“噂”も耳にしたと。誰が言い始めたとかではなく、こうした話は尾ひれがつきやすいから、どこかで情報がおかしくなったのかもしれない。誤解の原因となるようなことをおれが口走ったのだとしたら、それに関しては申し訳ないと思う。でもとにかくおれとポールの別れ話は根も葉もないことで、見ての通り、おれたちはうまくいっている。だからきみもこの噂を耳にしたら、それは決して信じないでほしい。おれたちは趣味もセンスも違うけど、そうした違いについてはとても興味深いと思ってる。自分の知らない世界を知ることができるし、いつも新しい発見があるからだ。ときどきは喧嘩もするけど、それは相手に甘えているからだし、そもそも信頼関係がなければ、思ったことを言い合うこともできないだろう。たとえおれたちが怒鳴りあっていたとしても、それは本当のところあまり深刻な話じゃない。どんなときでも、おれはポールを愛しているんだ。
……といったようなことを、たどたどしいながらも、できるだけ簡潔に明確に。
すべてを言い終えたときには、二酸化炭素中毒は治まり、心は一気に軽くなり……とは、どういうわけかいかなかった。部屋の空気はますます重く、ショーンとポールは黙りこくっている。ああ、これだからローマンの到着を待ちたかったんだ。あの能天気がいてくれれば、多少はこの部屋の湿度も晴れたはず。一時間遅れると言ったローマンは、もう二時間近くも遅刻している。いったいあいつは今どこに……と、思ったところに登場するのも、これまたある種の法則だ。
「ハーイ、こんばんわ♪ 遅くなってごめんなさ〜い……って、あら、何かしらこの空気」
ゴーイング・マイ・ウェイのローマンですらも感じる空気。それは灰色で、じめっとしている。例えるなら濡れた雑巾といったところか。
「ディーン?」ローマンがおれを名指しした。「ちょっとこちらへ……よろしいかしら?」人差し指を鍵形に曲げ、ちょいちょいと招き寄せる。まったく、どうしてどいつもこいつも“ディーン?”なんだ? たまには違う名前も呼んでみろってんだ。
ローマンに付き添い、廊下に出る。
「もうパーティはすっかり終わっちゃったの?」
「いや、まだ最中だ」
「タイムテーブルは?」
「おれが言うべきことを言ったところまで」
「ショーンは何て?」
「無言だ」
「ポールは?」
「それも無言」
「まあ……それは厳しい状況ね。それじゃあたしはこれで」
「おい! いてくれるんじゃないのかよ!? きみは今来たばかりだろ!?」
「だってものすごーく、空気が重たいんですもの。こんなのお肌によくないわ」
「何がお肌だ! おれはきみを待ってたんだぞ!?」
「シュラバからサラバ」
「うらぎりもの!」
おれが怒鳴ったところでショーンが、その後からポールが姿を現した。ショーンはおれとローマンに目もくれず通り過ぎる。ポールが小声で「ショーンはもう帰るって」と補足した。
「ショーン、ちょっと待ってくれ、おれは……」
「もういい」にべもなくショーン。彼の横顔は完璧なまでに怒っている。
「いや、よくないよ。きみをこのまま帰すわけにはいかない」
おれは彼の腕をつかんだ。てっきり振り払われるかと思ったが、意外なことにショーンは大人しく立ち止まった。
「おれたちの間に誤解が生じてるなら、それを放っておくわけにはいかないだろ。あんまり気分のいい話じゃないと思うけど、これからのためにも……」
「何が“これから”なの?」ショーンは正面からおれを見据えて言った。「“これから”って何? 誰と誰の“これから”について話すわけ?」
「それは……」
「マウロのパーティにぼくを呼ばなかったのはそういうわけだったんだね」
パーティ? 何の話だ?
おれが虚を突かれていると、ショーンは堰を切ったように話しだした。
「ぼくが邪魔ならそう言えばいい。こんなお膳立てなんかすることない。わざわざローマンまで呼んでこんなことを」
「そうじゃない、彼に来てもらったのは……」
「この期に及んで、ポールとはうまくいってるとか。だったらどうしてぼくに気のあるそぶりなんかしたりするわけ? そういうの、ぼくにはまったく理解できないよ」
気のあるそぶり? いつ誰がそんなことを?
「こんなことになってポールが気の毒だとは思わないの?」
何に対してポールが気の毒だって? おれはどこかで重要な単語を聞き漏らしたのか?
「きみが引き起こした結果を見ればいい。あきれてものも言えないよ」
いや、言ってるだろ。
「きみたちは今はうまくいってるかもしれない。でも今から数年後はどうなってるかわかったもんじゃないよ。ディーンはマイペースで、ポールはいずれそれに耐えられなくなる。ぼくとケインがそうだったように」
おい、なんでここにケインとやらが出てくるんだ?
「その期間、ずっと我慢し続けるのはポールだけじゃない。ぼくやローマン、周りの人たちだって振り回されるんだ」
ちょっ……ちょっと待て……。
「それを“自分は弱い男なんだ”で片付けられたらたまったもんじゃない。きみもケインと同じ、わがままなんだ」
ええい……くそ……!!!
「ショーン! きみは振られたんだ!」
ポールが手の平で目を覆うのが視界の端で確認できたが、すべては手遅れだった。おれの言葉にショーンの顔色は白くなり、それから赤くなって、そのまま玄関から飛び出して行った。
反射的に後を追おうとしたおれを制し「ぼくが行くよ」と、ポールが言う。「ショーンはぼくの友達だ」
ポールが出て行くと、残されたのはおれとローマン。妙に我が家が広く感じられるのは気のせいだろうか。
「みごと自殺に追い込んだわね」
「嫌なこと言うなよ!」
「冗談よ。ポールがいるんだからそんなことにはならない。ま、むしろよく言ってくれたわよ。これであの子も目が覚めるでしょ。ちょっと荒っぽかったけど、別れた彼氏の呪縛から解き放たれるかもしれないわ」
「解き放たれなかったら?」
「自殺ね」
「…………やめてくれ」
「ねえ、あなた。ちょっと、これをごらんなさい」ローマンはバッグからサングラスを取り出した。
「何だ?」
「こないだショーンが忘れたやつよ。このデザイン、どう見たって彼に似合わないと思わない?」
「好みは人それぞれだろ」
「そうじゃなくて。これはショーンのじゃない。ショーンの元カレの持ち物なのよ」
そのサングラスはワイヤーフレームで、レンズは薄いブルー。確かにショーンには不似合いで、会ったことはないが、別れた恋人のそれだという方がしっくりくる。
「いい? あの子は別れた男のアイテムを大事に持ち歩いてんのよ。それは“振られた”って事実をうまく認識できていないから。みんなの慰めが耳に入らないのはそのせいよ。ショーンの中には未だにケインとやらが居座ってる。本当のところ“早く忘れちゃいなさい”なんて、あの子は誰にも言われたくないのよ」
「愛してたんだろ。無理もない」
「そう、そこまではよくある話で無理もない。だから最初に言ったでしょ“時間が解決してくれるのを待つしかない”って。でもそうすんなりとはいかなくなった。あんたの存在によってね」
「ええ? きみまでそんなことを言うってのか? おれがいったい何をしたって言うんだよ?」
「別に何も。ただそこにいたのよ。……ねえ、ちょっと確認したいんだけど、あなたこの展開をどういう風に見てるわけ? ショーンの気持ちは把握してるんでしょ?」
「ああ、彼は……こう思ったんだろ。『ポールとうまくいっていないディーンは、自分を次の恋人候補に考えてる』って。デートに誘ったり、家に引きとめようとしたり。さぞ迷惑だったはずさ。噂になるほど、おれの愚痴を他人にこぼしてたし、さっきだってめちゃくちゃにおれを罵倒して」
「おヴァカッ!」ローマンがいきなり声を張り上げた。「あんたったら……あんたったら、どんだけ馬鹿なの!? 鈍感もここまでくると犯罪よ!?」
「なんだよ!? おれの何が鈍感だって言うんだ!?」
ローマンは深々とため息をついて、天を仰ぎ、それからおれの目をしっかりと見据えた。「それじゃあね、気の毒なお馬鹿ちゃん。あなたにわかるように説明してあげましょう。“おれが何したって言うんだ”って言ったわよね? あなたがしたことは、ショーンをデートに誘って、二人きりのときに家にあげたのよ」
「それの何がいけないんだ?」
「いけないなんて言ってません。ただ“そういうことをした”って言ってるだけ。そこまではオーケー?」
「ああ」
「じゃあ、ここからショーンの視点で見てみましょう。恋人に振られ、傷心してやってきたニューヨーク。懐かしい友達に再会して、ついでにその隣にはケインとよく似たタイプのハンサムがいた。友達の彼氏とはわかっているけど、彼は妙に自分に優しくしてくれる。デートはとても楽しくって、気持ちはウキウキ。でもそれはいけないことだとわかっているから、チーズを置いてとっとと帰ろうとしたのに、強引に引き止められて、またしても楽しい時間を過ごしてしまった。その後は会わずとも日に日に思いは募り……。恋人に去られて行き場を失ったショーンの気持ちは完全にあんたに注がれたというわけ。“恋はいつでも突然に”ってね。あんたはショーンにすっかり惚れられてるのよ」
「おれが?」
「ああ、もうその馬鹿ヅラ! ほんとイライラする!」
「だって思い当たるフシがないからな。二人で出かけたのは一度っきりだし、以後誘われたこともない。せいぜい時々メールをもらうくらいでさ。彼はおれに対してそんなそぶりはチラとも見せてないよ」
「もしそうならあんたが例の如くニブかっただけでしょ。ああいう子にとっちゃ、メールのひとつだってドキドキワクワクって話なんだから」
「それにさっきの様子、見たろ。さんざんボロクソに言われた。あれでおれに恋してるって?」
「断言してもいいわ。し・て・ま・す!」
ローマンは語気を強めてハッキリと言った。これ以上異論を挟んだら殺すわよという迫力を込めて。
「あのね。ショーンは好きな子を悪く言うタイプなのよ。ケインのことだってずっとボロクソでしょ? 自分を振った相手に対して“まだ大好き”なんて認めるのはシャクなものよ。でも好きな人のことはやっぱり話題に出したい。そうすると何を言ったらいい?」
「悪口……ってことなのか?」
「そういう場合もあるかもね。彼をここに呼び出すのにあなた何て言った?“ポールとローマンを交えて話がある”そんなところよね? ショーンはそりゃあドキドキしたでしょうよ。“ディーンはポールを振って自分を選んでくれるかもしれない”って。さっきあんたがショーンにしたことは“期待に胸をふくらませた彼を思いっきり振ってやった”ってことなのよ」
「それが本当だとすると」
「だとすると?」
「おれはショーンに相当ひどいことをしたんじゃないのか?」
「あらまぁ、よくわかりまちたね。おりこうさん」ローマンは人差し指でおれの頬をつん、とつついた。
「ちきしょう、これは困ったことになったな……」
「最初から“困ったこと”よ、これは」
「おれはどうしたらいい?」
「そんなの知らないわよ」
「そんなこと言わないで助けてくれよ。なあ? ゲイは助け合うんだろ? ここは天使の街だって言ってたじゃないか。ローマン、おれの大天使。最高に慈愛深いガブリエル様」
「こういうときだけ調子がいいんだから」
「おれはともかくショーンを見捨てるのか? 地方では孤独だった同性愛者も、ここで温かく迎えられ花開く。そう言ったよな? 今のままじゃ、彼はどこへ行っても気の毒なままだ」
おれの懸命な説得に(今日ばかりは本当に懸命だ!)、ローマンは「仕方ないわね」と、鼻の穴から息をふき出した。
「いいわ、今回はだけは助けてあげましょう」
「恩に着るよ」
「これで貸しひとつよ」
「…………わかったよ」
“ショーンが女の子だったら話は違ってくる”と、ポールは言った。
そうだ。もし彼が女の子なら、この件はもっとマシな展開になっていただろう。おれはここまでニブくはなく、むしろショーン本人が意識するより早く、相手からのいろいろなサインに気付けたはずだ。今回おれがこうも鈍感だったのは、ショーンが男だからに他ならない。おれにとっちゃ、彼とは“男同士”という括り以外の何者でもなく、それはつまり“おれの恋愛対象外”ということだ。揃って美術館に行こうが、部屋で二人きりになろうが、相手が男である以上、おれの心拍数は平常値のまま。肌が見えてもドキリとすることはないし、髪に触れようとか、肩を抱こうとかいう考えもまったく起きない。だって彼は男なんだ。差別するつもりはないが、それが真実。おれは男に感じる趣味はこれっぽっちも持ち合わせていない。ポール以外の男には。
日を改めて話し合いの場を持つことにショーンが承諾してくれたのは、ローマンの取り成しによるものだ。今回はすべて彼がセッティングをしてくれて、場所もローマンの部屋でということになった。
おれはまず先日の暴言についてショーンに謝った。いろいろ紛らわしいことになった経緯についても謝罪すると、彼は「それはいいよ」と恥かしそうに答えた。
「謝らなきゃいけないのはぼくの方だよ。きみには本当にひどいことを言ったし……勝手にいろいろ思い込んでみっともないところを見せた。きみたちに許してもらえればいいんだけど」
「許すかって?」と、ポール。「許さないつもりなら今日、こうして集まったりなんかしてないよ。ねえ、この間はぼくもムキになって、きみに意地悪なことを言ったよね。あればぼくもみっともなかったと思う。あの日はみんなが子供っぽかった。どうかしてたんだ」
ショーンはこくんと頷いて同意を示し、それから「ケインともこうやって普通に話ができればよかったのに」と、つぶやいた。
「あのさ、おれはそのケインって奴の気持ちがわかるような気がするんだ。まあ、会ったことないから、ほんとに“気がする”ってだけだけど。おれの話、聞いてもらっていいかな?」
ショーンは再びこくんと頷いた。
「もしかしたらケインは怖かったんじゃないかな。こうやってきみと向かい合うのが。別れ話をすることできみが傷つくことはわかっていたはずだし、そうして自分のしたことの結果を見るのを、彼はどうしても受け入れられなかったのかもしれない。こないだきみに怒鳴られて、おれは正直そうとうビビったよ。なんたってすごい迫力だったからな。ケインはもしかしたら、ああなることを予測してたんじゃないだろうか」
「どうだろ」ショーンはため息をついた。「そうなのかな。ぼくにはよくわからないよ」その言葉は投げやりで、“もうどうでもいいんだ”と言いたげだった。それでも彼は“ケインとも普通に話ができればよかったのに”とも言ってみたりもするわけで、その矛盾こそが気持ちの混乱をよく現しているように思える。
ローマンが口を開いた。「あなた、ケインのどんなところが好きだったわけ?」
「それは……今さらそんな話しても……」
「あら、別にいいじゃない。減るもんじゃなし、聞かせて頂戴よ。彼ってとってもハンサムだったのよね?」
「ん……」
「有名人で言うと誰に似てる?」
「そういうのはあまり……ただ、彼と歩いてると、よく女の子が振り返った。ぼくはそれが気分良かったよ」
「ああ、それならわかる」同意したのはポールだ。「“ぼくと一緒にいる人、かっこいいでしょ? でも彼はゲイだし、ぼくの彼氏なんだよね。女の子たち、お気の毒さま”って気分」
「うん、そんな感じだ」ショーンはくすっと笑った。
あの日、飛びだしたショーンを追ったのはポールだった。彼らは彼らなりの方法で、いつの間にか仲直りをしていた。目配せして微笑み合う彼らは、やっぱり兄弟のようによく似ていると思う。
「じゃあ、あなた方はメンクイ同士ってわけね」とローマン。「顔の他にパートナーのどういうところが素敵だって思うの?」
「あとは……身体も素敵」そうショーンが答えると、ポールは手を挙げ、「ぼくも同感」と頷く。
「シャワーを浴びたあとは、すごくセクシー」
「それも同感」
「セックスも最高」
「同感」
「ちょっと待てよ。聞いてりゃ何だ? おれとケインはポルノ男優か? 内面的なことでもっと何かあってもいいんじゃないのか? 優しいとか、男気があるとか。ハートの部分でさ」
不服を申し立てると、二人は顔を見合わせ、ケラケラと声を立てて笑いだした。まったく小憎らしい兄弟どもめ!
「ねえ、ショーン」ローマンが、そっと話しだす。「あなたはずいぶん忘れちゃったかもしれないけど、“ケインとショーン”には確かにいい時期もあったのよ。女の子が振り返えるほどのハンサム。誰よりセクシーに映る恋人。ふたりでいるだけですべてが輝いて見えて、馬鹿みたいにいつまでも相手の目を覗き込んでいたいような瞬間がね」
彼の言葉はとても優しく、おれに言われたことではなかったが、なんだか胸が締め付けられる感じがした。世界中の恋人たちが体験する美しい瞬間。人を愛したことがある者ならば、誰もが今の言葉に共感することだろう。
「さて、そぉゆうわけで!」ローマンはいきなり声のトーンを明るくした。「ここにいるのは実はディーンではありません」
なに?
「これはディーンのように見えるけど、実はケインなの。あなたを捨てた憎い男。そいつが目の前にいるってわけ。しかもこのケイン、非暴力を提唱するガンジー主義に傾倒してるの。だからあなたが何を言っても、何をやっても、ただ黙って受け入れてくれる。おわかり、ショーン? いまこそチャンスよ。グチグチ小出しにしてないで、ここでキッチリ相手にすべてブチまけてごらんなさい」
な、なにを言い出すんだこいつは!? すべてブチまけろだって!? ローマンは先日の彼のキレっぷりを見てたはずだ。あれを知っててこんなことを言うってのか?! せっかく少しなごやかなムードになってきたってのに! おれがショーンに刺されたらどうしてくれる!? そうでなくてもまたこないだみたいに罵詈雑言を………あれ?
気がつくと、ショーンは不安げな顔でおれのことを見つめていた。言葉は何も発する気配はなく、なんだか捨てられた子犬のような雰囲気で。先日の勢いはいったいどこに消えたのか。おれもまた言葉を失い、ただショーンの顔を見る。
「さあ、どうぞ。言ってごらんなさい」ローマンがショーンを焚きつける。「言いたいことがあるんでしょう? こんなチャンス、もう二度とないわよ」
そう言われたものの、ショーンは何も言おうとはしない。考えてみれば無理もない。ここにいるのがケインだなんて、そう簡単に思い込めるわけはないし、友達も同席する状況で“元カレに言いたいことを言え”というのは、かなり酷なシチュエーションだ。ショーンの顔には戸惑いが浮かんでいて、おれは“無理しなくていい”と彼に言おうと思った。“今言えないのなら、何も無理矢理言うことはないんだ”と。しかし口から出たのはそれではなく「いいよ」という言葉だった。
「いいよ……ショーン。おれはここにいる。きみの話を聞かせてくれないか」
おれがそう言うと、彼は唇をぎゅっと固く引き結んだ。まるで怒っているいるような表情。だがそれは見た通りのものではないだろう。やがてハアと息を吐き出し、同時に目から涙がこぼれ落ちる。
「いろいろ言おうと思ったのにな……」ショーンはぽつりとそうつぶやき、あとは静かに涙を流すきりだった。
おれはポールを見た。彼はこくんと頷いてみせた。そこでおれは自分の成すべきことをした。ショーンをそっと抱きしめ、恋人がするように優しくゆさぶる。
ショーンは“言いたいこと”など持ってはいなかった。ただ子供のように泣きたかっただけなのだ。言葉ではなく、涙で気持ちを表現し、起きたすべてを過去のものとして。
マンハッタンは赦しと癒しに満ちた街。舞い降りた天使はおれたちの心に。たとえ羽音が聞こえなくとも、今夜その存在が信じられるだろう。
ボストンに戻るとショーンから報告があったのはその数日後。かつて取り引きのあった会社からぜひにという仕事を依頼され、マンハッタンに住み続けるのは難しくなったとのことだった。
「ボストンに仕事があるのはわかってたんだ」と、ショーン。「わかってたけど戻るのはどうしても嫌だった。あの街にはケインとの思い出が多すぎたから。でももう大丈夫な気がするんだよ。たぶんね」
「もし大丈夫じゃなかったら、いつでもマンハッタンに遊びにおいでよ」ポールは友達の腕を軽くつかんだ。「いつでも待ってる」
「ありがとう」二人は抱き合い、お互いの肩を叩き合う。
ショーンはおれとポールを交互に見て「本当は最初からわかってたんだ」と言った。「本屋に飾ってあった写真。あれを見た瞬間から、きみたちが〈愛し合う人々〉だってことはわかってた。ポールとディーンは理想の恋人同志だ。ぼくもいつかそういう関係を持ちたいと思う」
空港のアナウンスが、ボストン行きのエアバスの搭乗を促す。
「向こうに着いたら電話して」と、ポール。
「いいよ、じゃあディーンの携帯の方に」ショーンがそう言うと、ポールは「早く行っちまえ」と、笑いながら友達を追い立てた。兄弟のようによく似ているふたり。ボストンまではそう遠くはなく、並んで笑いあう姿を再び目にするのも、そう遠い日のことではないだろう。
「おれたちが人から“理想の恋人同志”って言われるとはな。しょっちゅう喧嘩ばかりしてるってのに」
「“たとえ怒鳴りあっていたとしても、それは本当のところあまり深刻な話じゃない。どんなときでも、おれはポールを愛している”でしょ?」
マンハッタンへ戻るタクシーの後部座席で、ポールはおれの言葉の一字一句を違わずにリピートした。
「あのときぼくはすごく嬉しかったよ。ああやって気持ちを明確に人に伝えてくれて。きみがぼくのことをどう思ってるか、あんなにはっきり聞いたのは初めてのことだから」
「いつも“愛してる”って言ってるのにか?」
「うん、それでもね。ぼくはときどき不安になるんだ。きみに愛されてるってことを、ときどき言葉で確認したくなる。甘えてるなって思うんだけど」
「甘えろよ。おれたちは恋人同士だ」
「うん……」
ポールはそっとおれの手を握った。子供がするようにポンポンとリズミカルに手を揺すり、少し照れたような表情を浮かべて。
「ね、きみにとっての“理想の恋人同士”なんている?」
「おれの理想か……。きみは? いるのか?」
「うーん、どうかな。考えたことなかったかも。英国王室だって離婚するご時世だし、そういうのちょっと難しいな」
「理想とまではいわなくても、好感を持てるカップルくらいいるんじゃないか?」
「そうだね。画家のシャガールとベラなんか素敵だと思うけど。最近で言えばオジー・オズボーンとシャロンかな」
「アダムスのお化け一家か」
「あの夫婦は素敵だよ。きみはどんなカップルに好感を?」
「おれには子供のときから憧れる恋人同士がいるんだ」
「へぇ、子供のときから? それ誰?」
「その前に……笑わないと誓え」
「笑わないよ」ポールの目が三日月型になった。こういうとき彼は決まって爆笑するんだ。まあ、笑われてもいいか。タクシーの運転手に聞こえないよう、小声でおれはその名を明かす。
「ミッキーとミニー」
「それってディズニーの……だよね?」
「もちろんそうさ。他に誰かいるか?」
「いや、思い付かないけど。まさか漫画とは思わなかったから」
「ミッキーってヤツはなかなか素敵なヤツなんだぜ。男がフェミニストであることは、今どき驚くに値しないけど、あいつは1950年代あたりからもうそうなんだ。恋人の買い物につきあって荷物を持ったり、料理を作ったり。甥っ子の面倒もよくみるし、趣味もたくさんあって充実した暮らしをしてる。ディズニーの漫画やアニメを見て子供心に思ったよ。“おれもこういう風になりたい”って」
「言われてみれば、なるほどって感じだね。きみは料理もするし、甥や姪の面倒もよく見る。それにあのミニー・マウス。小さくてお色気たっぷり。きみが惹かれるタイプだ」
「いつもパンツがはみ出てるけどな」
「水玉のスカートも可愛いし」
「おれのミニーマウスはきみだ」
「水玉のスカートを履いてほしい?」
「そういう意味じゃない」
「うん、そういう意味じゃないよね」
ポールはくすくすと笑っている。
「笑わないと誓っただろ」
「これは違うよ」
「何が違うんだ」
「きみの理想を笑ったんじゃない。さっきのやりとりが可笑しくて」
「言いわけがうまいな」
「言いわけじゃないよ。もしぼくが言いわけをするんだったら、もっと……」
「もういい。黙れ。これ以上何も言わせないぞ」
言いわけをする可愛い唇をキスでふさぐ。タクシーの運転手は見て見ぬふり。おれたちのポートレートは〈愛し合う人々〉。馬鹿みたいにいつまでも相手の目を覗き込んで、世界のどこにいても幸せで。トリッパやチーズにせまる勢いで、このキスはほぼ完璧。おれたちは〈愛し合う人々〉だ。
End.
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