第11話:父の面影(Beautiful Stranger)

「っ嫌あぁぁぁぁぁ───っっっ!!!!!」

 キッチンに響き渡る悲鳴。凄惨な殺人を目撃したかのように両手で顔を覆い、首を左右に振っているのはローマンだ。指の間から現場をしっかりと見据え、それからキッと正面を向いて、おれに怒鳴る。

「ディーン! あんた何やってんの!? コレステロール自殺でもするつもりっ?!」

 凶器のナイフを奪うが如く、おれの手からをスプレーホイップをもぎ取る。額には血管が浮き上がり、それは恐ろしい形相だ。(※スプレーホイップ=スプレー式のホイップクリーム)

 マグカップにこんもり浮き上がったクリーム。お手軽ウインナーコーヒーに口をつけておれは言う。

「コーヒーに入れるとうまい」

「動脈流が! 体脂肪が! あんた健康に気をつけてないでしょ!」

「ジムに通ってるよ」

「お馬鹿っ! 外見のことじゃないの! 内側! 内臓の健康のことよ!」

 自分は健康そのものだと反論しようとすると、ポールが後の言葉を引きついだ。

「ディーンの好きな食べ物って言ったら、身体に悪そうなものばっかりだよ。“エルビス・プレスリー・スペシャル”とか作るし」

「なにそれ?」

「サンドイッチ」と、おれは補足。「カリカリに焼いたベーコン、目玉焼き、チーズ、バナナスライスをピーナッツバターを塗ったバタートーストではさむ」

「おえっ! 聞いただけでコレステロール値が上がったわ。よくそれで太らないわね」

「そりゃ、おれは鍛えてるから」スプレーホイップを取り返し、涼しい顔でそう言うと「ディーンは太らない体質なんだよ」と、ポールが横やりを入れてくる。

「全然ってわけじゃもちろんないけど。ぼくよりはね。太らないことがわかってるからこそ、平気で身体にエルビス・スペシャルを詰め込めるのさ。本当に気をつけてるのはぼくの方。ぼくは太る体質だからね。深夜にディーンからバターをたっぷりかけたポップコーンを勧められたりすると、ありがたさのあまり、絞め殺したい衝動に駆られることがあるよ」

 いたずらっぽく微笑み、こちらを横目で見るポール。愛らしい笑顔にほだされ、おれは“恋人殺人衝動の告白”をたやすく水に流してしまう。

「夜中に油たっぷりのスナックを? 節制してるパートナーにあんまりの仕打ちね。エデンの園でリンゴを勧めるより罪深いわ」

 恋人の殺人予告を許したおれに、罪深さを追求するローマン。アッラーのような厳しさに、おれは人の弱さを説くブッダの如く反論する。

「いつも節制してろってのはつらい。たまには悪徳に溺れるのも悪くないだろ」

「“たまには”ってのが危ないんじゃない。“注意一生、デブ一瞬”よ」

 ローマンは妙な標語をひねり出した。お互い自分の主張は曲げないたちだから、会話はいつまでもキャッチボールできる。

「おれは太らないよ」

「“おれは太らないよ”。そう言って三十代に入った途端、気の毒な姿形になったハンサムをわたしは何人も見てきたわ。それはそれは恐ろしいのよ〜。そのスピードたるや、シンデレラの魔法が解けるよりも早いんだから」

 恐怖を語るその表情。それは白雪姫に出てくる魔法使いによく似ている。

「太るかどうかは別として」と、カフェポッドのフィルターを交換しながらポール。「健康に気をつけるのは大事なことだと思うな。ディーンはタバコも吸うし、身体に気を遣ってるとは言い難い暮らしをしてるからね」

「健康、健康、健康……昨今のヘルシーブームにはうんざりだ。現代アメリカはおれにとって生きづらいよ。いっそイタリアにでも移住するか」

「パスタとティラミス。それでもってあんたはイタリアの平均的中年男性のスタイル……つまり、おデブのハゲちゃびんになるわけね。ポール、あんたの彼氏は終わったわ」

「野菜とビタミン剤だけで生きていくなら終わったほうがマシ」

「そんなこと言っていられるのも今のうちよ。頭皮の毛穴に油が詰まってからじゃ遅いんだから。遺伝子の点から見ても男性は誰しも頭髪の心配をせざるを得ないのよ」

「だからゲイになって女性ホルモンを養ってるとか?」

「にくらしいこと言えるのも今のうち。遺伝子的にあんたはどうなの? あんたのパパに毛は残ってる? おじいさんは?」

「さあな、おれの親父はおれが生まれたのとほぼ同時に死んだ。じいさんってのも見たことがない」

「あら……ごめん」

「いいんだ」

 美容と健康の話題はいつものことだが、家族の話題が出るのは珍しい。おれの父親が死んだのは、もうずいぶん前のこと。父の死について語るのは、自分にとって慣れたことだ。

『ディーンのおとうさんは?』

 この質問の答えは簡単。

『ぼくのパパは死んだ。ぼくが生まれたばかりの頃に』

 そう言うと、会話の相手はたいがい今のローマンと同じ反応をする。『嫌な話を振ってごめんなさい』と。おれにとってはそう大した話ではないのだが、相手は恐縮してしまう。そうするとむしろこっちが申し訳ない気持ちになって来もするわけで、そういう理由から、おれは父親の話をするのが昔からあまり好きではなかった。

 この話題はローマンがおれに「ごめん」と言ったところで終わったが、その晩、ポールは「お父さんのこと、覚えてる?」と、改めて“おとうさん関係”のことを振ってきた。彼とこの話をするのは初めてのことだ。

 ベッドに横になったまま「覚えてないな」と、おれは答える。特に悲しみは含まれていないコメントだが、ポールは「残念だね」と、つぶやいた。

「お父さんの顔は? 写真か何か残ってないの?」

「写真は紛失したらしい。引っ越しのときに」

「紛失? そんな大切なものを?」

「ああ……言われてみればヘンな話だな。でもまあ、とにかくおれは親父の顔を見たことはない」

「そうなんだ……」

「ハゲじゃないといいが」おれがそう言うと、ポールは笑った。

「やっぱりローマンが言ったこと、気にしてるね?」

「ローマンが言ったからじゃない。そもそもハゲの心配しない男なんていないだろ」

「きみはハゲても素敵だと思うな」

「なんだそれ? 褒めてるのか? 自分はどうなんだ? 最近このへんがヤバいんじゃないのか?」言ってポールの額、髪の生え際を親指でこする。

「やめろ! ここが薄いのは昔っからなんだ!」

「ポール、きみこそハゲてもかわいい。おれの愛すべきハゲちゃびん……」

「誰がハゲちゃびんだよ。髪の色が濃いきみのほうがハゲたら絶対に目立つんだからね。ぼくは美容師だから毛穴の手入れは怠らないんだし」

「美容師でもハゲるときはハゲる」

「ぼくは違う」

「ダーリン、ハゲるときは一緒だ……」

「やめろ! ディーン・ケリー! それ以上その単語を言うな!」ポールは怒鳴りつつも、けたけたと笑っている。

「病めるときも、健やかなるときも……たとえハゲたとしても、おれはきみを愛し続ける」

「もう……! しつこい……ディーン……!」

 目に涙を浮かべて笑うポール。今夜、おれたちのベッドは笑いに満ちあふれ、死んだ父親の話題は長くは続かなかった。




 十二月の郵便局は、他の月のそれよりも混んでいる。幾枚もの封筒を持った人々が窓口に並んでいるのは、メイシーズのツリーを見て『自分には家族がいる!』と、唐突に思い出すからだ。

 他聞にもれず、おれもそのうちのひとりで、身内や上司、友人らに出すクリスマスカードに、カラフルな切手を貼りまくっている真っ最中。コミュニケーションのデジタル化が進む昨今だが、我々アメリカ人はこの手間のかかるシーズングリーティングに未だ愛着を感じているらしい。バーンズ&ノーブルのカード売り場がこの時期拡張するのを見るにつけ、たとえタワーレコードが倒産しようとも、この古き良き習慣だけは決して廃れ得ぬことが理解できるというものだ。

 宛名に間違いはなかっただろうか、と確認しているところに「あら、ちょっとディーンじゃない!」と、声がかかる。

「久しぶりねぇ。元気だった?」そう言っておれを見上げる女性は、赤毛で小柄。おれの母と同じ遺伝子を持つ人だとは、外見からも納得できる。

「こんなところで何してんの? お仕事は? あらやだ、あなたまた背が伸びたんじゃないかしら?」

「もう伸びませんよ。伯母さんが縮んだんじゃ?」

「嫌ぁね、まだそんな年じゃありませんわよ。今の若い人はすぐに人を年寄り扱いするんだから。あなたお母さんとは連絡とってるの?」

「ええ、たまに」

「マメに電話してあげなさい。あっちはひとり暮らしで寂しいんだから」

 会うなり説教を始めるのは母の妹、おれの叔母のエドナ・フラハティ。内面の酷似も、母と遺伝子を共有する確かな証拠だ。

「あらっ、それは何? クリスマスカード? 伯母さんの分はあるのかしら?」

「もちろん。出さなかった年なんてないでしょ?」

「そうよねぇ、あんたは本当にいい子。うちのビリー・ジョーなんか数年前からインターネットのメールしかよこさなくなっちゃって……。両親が生きてるうちに親孝行はするもんだって、昔の人は言ったもんだけど」

 おしゃべりにかけては右に出る者がいないと思われるこの叔母は、レノックスヒルでアンティークショップを経営している。かつて母も一緒に働いていたその店は、その地区のリッチなマダムのトークサロンとして成り立っており、子供の頃、ときどき店を訪れたおれは『しゃべるだけでお金になるってすごい』と叔母の(そして母の)仕事ぶりに、心から感心したものだった。

「そういえばディーン、あなたのお父さん、こないだテレビに出てたわよ。アラスカだって。びっくりじゃない? あんな勝手して出て行ったのに、よくテレビなんか出られるわよねぇ。まあ、何にしてもあんたもアイリーンもいい子に育ったわ。たとえ片親でもキチッとした教育を受ければ子供ってのはすくすく……」

「え、ちょっと待ってよ、伯母さん。おれの父がテレビに?」

「そうよぉ、何だったかしら? ベニーが見てる釣り番組の後だから……ディスカバリー・チャンネルよ、きっと。アラスカの風物が何とかって」

「伯母さん、それは……」

「あら、ちょっとその封筒見せて。まー、きれいな切手! それはここで買ったの?」

「あ……うん、その窓口で」

「伯母さんもそれと同じのにするわ。あんたのお母さんには同じ切手が行くことになっちゃうけど、別にいいわよね? ああ、早く並ばないと日が暮れちゃう! じゃ、またね! お母さんに電話するのよ!」会話の最後を説教で閉め、叔母は列の最後についた。

 彼女がフル回転であることは今に始まったことじゃないが……さっきのは何だ? おれの父親がテレビに? エドナ叔母さん、母より五歳も若いってのに、早くも記憶障害の気があるのだろうか。

 親父は死んだ。エルビスも死んだ。「ときどき見かけることがあるよ」っていうのは、どんな理由にせよ、あまりいい話じゃないように思えるのだが……。




 その日、おれは母親にではなく、姉のアイリーンに電話をかけた。叔母の状態について相談するのは、母にはやりにくいと思ったからだ。

 郵便局での顛末を話して聞かせると、姉はとても驚いた様子だった。しかしそれは叔母の奇言についてではなく、おれのことについて。

「あんた、なに言ってるの? わたしたちの父親は生きてるわよ?」

 おれはその言葉の意味がまったく飲み込めなかった。周囲の人の言葉が、ある日突然、理解不能になる。そんなトワイライト・ゾーンに迷い込んだかのように、おれは姉の言っている内容が理解できない。何度か繰り返し確認し、それが言葉通りの意味、『わたしたちの父親は生きてる』というものであることを知ったときの驚きたるや、トワイライト・ゾーンの住人の比ではない。しかも彼女はずっと以前からそのことを知っていたと言う。

「信じられない。あんたまだ“父親死亡説”を信じてたのね?」

「“まだ”って何だよ! “まだ”って! おれは初耳だよ! どうしてこんな大事なことを!?」

「てっきりあんたも知ってるとばかり思ってたもの。エドナ伯母さんもそのつもりで話してたんでしょ? アルツハイマーじゃなくて良かったわね」

「……それよりもっと重要な話だろ、これは」

「あら、アルツハイマーは重要な社会問題よ」

「ああそうだな。でも今は社会問題の話はいいよ。親父に会ったのか?」

「いいえ。どこに住んでるか知らないもの」

「アラスカだそうだ」

「あらそ」

「あらそ……って、それだけかよ」

「別に興味ないから」

「興味ないって? 父親だぞ? ずいぶん素っ気ない言い方するんだな」

「素っ気なく出てったのはあっちの方だわ。それにわたし、あまりパパのことは憶えてないのよね」

「おれが生まれるまでは一緒に暮らしてたんだろ? 10歳くらいになってれば、少しは記憶しててもいいんじゃないのか?」

「だってパパは家にいなかったもの。一年のほとんどは海の上だったんだから」

 そういえば聞いた事がある。父は船乗りだった。豪華客船のレストランで働いていたのだと、以前叔母が言っていた。

「だから、一緒に暮らしたと言っても、そんなには憶えてないの。たまにパパが帰ってくると嬉しく思ったけど、それも小さい頃だけね。7つくらいになると“たまに来る父親”ってものに違和感を覚えるようになったから。まるで親戚のおじさんを迎えるような気持ちよ。今にして思えば、パパにとってもあそこは“我が家”って感じはしなくなっていったんでしょうね。そういうところにはだんだん帰りづらくなっていったのかもしれないわ」

 淡々と分析するアイリーン。それはおれが“死んだ父”の話をするときと同じ。特に悲しみは含まれていないコメントだ。

「でも子供の頃には寂しく思ったこともあるわ」と、思い出したようにアイリーン。「他の子はいつも父親と一緒にいるのに、どうしてうちのパパはたまにしか帰ってこないのかしらって」

 それはおれも考えた。寂しくも思った。しかし“どうして”とは考えなかった。親父は死んだと聞かされていたからだ。

「クリスマスなのにどうしてパパが帰ってこないのか、一度だけママに質問したことがあるの。そしたらママは『パパはサンタクロースだから、この時期は忙しいの』って」

「それ……信じたのか?」

「仕方ないでしょ、まだみっつだったんだもの。真実を知るまでは誇らしかったわ」

「いったい幾つで真実を知ったことやら」

「何よ。あんたもあんたじゃない。この件、おかしいと思わなかったの? わたしたちパパのお墓にだって行ったことなかったじゃないの」

「灰にして海に撒いたってママが。だからフロリダの海を見たら、パパはそこにいるって」

「それ、信じたのね」

 しばしの沈黙。おれたち姉弟の会話は、ときに互いの揚げ足を取り合うことで成り立っている場合がある。

「ええと……じゃあ、なんだ。親父がまだ生きてるなら、ママは“ケリー未亡人”じゃないってことになるよな? なのにまだ親父の名字を名乗ってるって? 一体それはどういうことなんだ?」

 その疑問に対するママの答えはこうだった。

「だって離婚してないもの」

 電話口で“ケリー未亡人(じゃない人)”は、しれっとそう言った。

「離婚してないだって? なんだそれ? どんな話だよ?」

「そのうち戻って来るだろうって思ったのよ」とママ。まるでペットか何かが逃げた話をしているかのように言う。

「でも帰ってこなかったんだろ? どうして離婚手続きをしてないの?」

「ずっと後になって聖マルコだかヨハネだかって町にいるらしいってのを耳にしたけど、その当時は何の手かがりもなかったから。あの人を探し出して裁判することを思うと気が遠くなったわ。弁護士を雇うには最低でも二千ドルはかかるし、無料の弁護士に頼むと手間がかかって大変でしょ? それに裁判費用だってバカバカしいほどの値段。離婚相談所だって45分で60ドルも取るのよ。そんな時間とお金が二人の子供を抱えた女性にあると思う?」

「ったく……こんなひどい話聞いたことない。うちの家族の神経を疑うよ。おれはこないだまでずっと、親父は死んだって信じてたんだ」

「生きてるって言わなかったかしら?」

「聞いてないよ!」

「あら……」

「“あら”じゃ済まないだろ! こういうことは!」

「大きな声ださないで! はいはい、たしかにママが悪うございましたとも! じゃあ、ここで真実を教えましょうか。あんたのパパはね、わたしたちみーんなを捨てて、突然出て行ったのよ!」

 そこからの話はすべて初耳だった。まず始まったのは、パパとママの出会いの場面から。

「わたしは高校を出たばかりで、客船のレストランでウエイトレスのアルバイトをしてたの。お金持ちが周遊するような豪華な船よ。あんたのパパ、エドセルはわたしより二つ年上で、そこのウエイター。背が高くて髪が黒くて……誰よりハンサムだったから、一緒にバイトしてた女の子たちは、みんな彼に夢中になってたわ」

「女ったらしだったわけ?」

「それが全然そうじゃないの。むしろ女性にはオクテな方。でもそこがまた女の子の気を惹いたのよね」

「ママも?」

「わたしは違うわ」失礼な、と言わんばかりの口調で否定する。「わたしはみんなみたいにキャーキャー言ったりはしない。そういう性格じゃないもの」

「それでよく恋愛に発展したね」

「あの人がわたしの気を惹いたのよ」

「へえ、どうやって?」

「お客が引けたあと、わたしと彼は一緒にレストランの後片付けをしてたの。そこで彼は、わたしだけにある特技を見せてくれてね。フロアにはテーブルがいっぱいあるでしょ。そこには汚れた食器がいっぱい乗ってるわけ。で、わたしたちがそれを片付けるより早く、リネン係がテーブルクロスを回収しに来るもんだから、エドセルはクロスの端っこをつかんで……パッ!とそれを引っ張る。すると彼の手には汚れたクロスがあって、テーブルの上には、食器が少しも倒れないで残っているってわけ。それが本当に素敵でねぇ……」

「……それだけ?」

「それだけって何よ」

「特技っていうから、何か楽器でもプレイしたのかと。そんなことがきっかけで結婚を決めたってわけ?」

「昔の恋愛なんてみんなそんなものよ」

 船上で会ったチャーミングなウエイター。些細な特技と絶妙なシチュエーション。恋に落ちるのは簡単だが、その後の人生を共に長く続けるには、テーブルクロスのパフォーマンスだけでは保たなかったというわけだ。

「エドセルはねぇ、あんたにそっくり。ハンサムで優しくて。でもちょっと臆病なところがあった。人生に対してね」

 人生に対して臆病でない男をおれは知らない。ママは強い女だ。理解できないのも無理はない。

「わたしが二人目の子供を妊娠したとき、彼は将来のことをとても心配していたわ。主にお金のことをね。その頃には船の厨房でコックのようなこともしてたけど、だからといって自分の店が持てるメドがあるってわけでもないし。まあ結局のところ、彼は思い詰めちゃったんだと思うのよ」

「それで家出を?」

「そんなに心配しないでも何とかなるって、わたしは言ったんだけどね。彼がいなくなってから、わたしは西海岸のおじいちゃんの家を売って、エドナを頼りにニューヨークへ引っ越したの。二十年以上住んだけど、結局マンハッタンの気候は好きになれなかったわね。寒いところなんて大嫌い。マイアミに来てからは神経痛も治ったのよ」

「いきなり出て行くなんて、エドセルはよっぽど何かつらいことでもあったのかな?」

「いったいどうしちゃったのディーン。あなた今まで父親のことなんか、気にもとめたことなかったじゃないの」

「そりゃ、死んでるって信じてたからだよ!」

「生きてたらどうだっての? 今さらパパとキャッチボールでもしようっての?」

「ママ、おれにとっては一大事だ。茶化さないで聞いてくれ。おれの父親は生きてる。この同じ空の下で元気に暮らしてるんだ」

「だから何?」

「おれ、エドセルに会いに行くよ」

「……好きになさい」

 電話は切れた。




 ママがエドセルの話をしたがっていないことは知っていた。だからこそおれとアイリーンはそういうことを聞かないでこれまでやってきた。ママを悲しませたくなかったからだ。そのせいでおれは今まで父親のことを何も知らず、またそのことに疑問を持たずにもやってきた。考えてみればあきれた話だ。たとえ死んでたとしても、自分の父親のこと。生死に関わらず、そのことは知っておくべきだし、興味をもってしかるべき話なんだ。こんな間抜けな話、うちの家族ならではとしか言いようがない。コメディにほど近いこの事実を多少おもしろめかしてポールに聞かせたが、彼は少しも笑いはしなかった。

「おれのママ、見たろ。おれとアイリーンは親父に似てるらしい」

「じゃあハンサムだ」言いながらコーヒーを差し出すポール。

「かつてはそうだったらしいが、今はどうかな。もうずいぶん年だろうし」

 おれはコーヒーに砂糖をふたつ入れる。

「おれのさっきの話、どう思った?」

「どうって? きみにとってはどうなの?」

「あまり……いい話じゃないな。自分のなかに悪い種子が宿ってるってのは」

「悪い種子?」

「おれの親父は妻と一人娘と、生まれてすぐの息子を捨てるようなヤツだったんだ。おれの容姿は親父に似ている。だったらその精神はどうなんだ?」

「きみはそれを確認しに行くんだね」ポールはおれの目を見て、静かに言う。「今きみは自分の存在に不安を抱いている。それは内的なことだけじゃなくって、遺伝子レベルでの話だ。一度でも父親の顔を見たら何か納得がいくことがあるかもしれないよ」

「ごく近い遺伝子を持つ者同士、対面を果たすことで何か奇跡が起こるとか?」

「ほら。いつもそうやって冗談にしちゃうんだから。悪い癖だよ」

「そうだな、ごめん。おれのママもすぐこれをやるんだ。今日も電話で真剣な話をしてるのに、茶化されて腹を立てたばかりだってのに。わかってるはずなのに、つい同じことを」

「それが親子さ。“ごく近い遺伝子を持つ者同士”。きみは母親のことはよく知ってる。でも父親は? 別にこれから親子関係を取り戻せっていうんじゃなくてさ、ただどういう人かってことを知っておくことは、今のきみにとって大事なことじゃないかと思うんだ」

 おれは黙ってコーヒーに口をつけた。砂糖を多めに入れたそれは甘い。ママもアイリーンもコーヒーはブラックと決めている。家族の中でケーキやチョコレートの類を愛しているのはおれだけだ。エドセルはコーヒーにスプレーホイップを入れるタイプの男だろうか? それは会ってみなければわからない。




 繁忙期に休暇をとるのは、イベント業であるおれの会社では稀なこと。その“稀”を実行し、有休と合わせ、クリスマス休暇を早めに取ったことは、入社以来の大冒険だ。理由を聞かれ、死んだと思われていた父親に会いに行くと正直に述べたところ、部署の誰もが「それなら」と協力的な姿勢を見せてくれた。鬼軍曹シーラまで「気をつけてね」という人間らしいコメントをくれたほど。こんなにスムーズにいくとわかっていたら、このネタ、ポールとバハマにでも行くときにでも使えばよかったか。

 十二月のアラスカ。それはきっと北極と同じくらい快適なはず。デパートの登山用品コーナーで、犬ぞり隊が使用していたという謳い文句のついた手袋を買い、クローゼットの奥からノースフェイスのアンダーウェアと、パタゴニアの防水ジャケットを引っ張り出す。ポールに「アラスカで何か欲しいものは?」と聞いたところ、彼は「きみが無事に戻ってくることが一番のおみやげになる」と、申し出た。革のボストンバッグにはスニッカーズのチョコレートバー。備えあれば憂いなし。

 “聖マルコだかヨハネだかって町”とママが言っていたのは、アラスカ州“セント・ピーターズタウン”のことだった。エドセル・ケリーはここにいる。叔母が言うには、彼はテレビの取材に応えていたとのこと。この町で店を経営しているという話だった。

 アンカレッジ空港から小型機で三十分。バス停のような離着陸場から、町に出るためにタクシーを呼ぶ。閑散とした待合室にひとりでいると、ここが“北の果て”どころか“世界の果て”であることが、ゆっくりと理解できるようになっていった。

 ようやく来たタクシーの運転手はラビのような長いあごひげを持っていた。ここはマンハッタンではない。彼のそれはユダヤとは何の関係もない、ただのファッションなのだろう。

 何の会話もないまま、タクシーはセント・ピーターズタウンの中心地に到着。降り際、料金を払うと、運転手は「おっと、兄さん」と、おれを呼びとめる。「これじゃどうにも足りないな」

「足りない?」

「アラスカ州のチップは30パーセントだ。まさかそれを知らないわけじゃあるまい?」

 ……なに言ってるんだ? そんな話は聞いたこともないし、ガイドブックにだって書いてない。そんなわけはないだろとおれが反論すると、彼はニヤリと笑って「冗談だ」と、つぶやいた。

 降り立ったのは、五つの道が交差する大通り。スーパーマーケットとCDショップ。インターネットカフェが立ち並ぶことから、ここが町のメインストリートであることがわかる。三階建て以上の建造物は見あたらず、空はやたらに広い。歩道には雪が多く残り、おれはブーツのアッパーの折り返しを伸ばして、一番上のホールで靴ひもを結ぶ。はじめてそれらしい場所の土を踏んだアウトドア・ブーツ。LLビーンの面目躍如だ。

 交差点の角には『石切り場』という名前のバーレストランが建っている。古ぼけた看板とがっちりしたレンガ造りから推するに、ここは老舗の店なのだろう。情報収集はまず酒場から。探偵や刑事が守っている鉄則に則って、おれは店のドアを押す。

 昼食時とあって店内はそこそこ混んでいた。製材していない大きな柱と、タバコのヤニで煤けた梁。テーブルにはギンガムチェックのクロスがかかり、メカジキの剥製とムースのトロフィーが壁を飾っている。人々の話し声の合間に聞こえるのは、ラジオから流れるオールドブルース。テーマパークを思わせるセッティングに、店内客までがオーディオアニマトロニクスに見えてくる。(※オーディオアニマトロニクス=ディズニーランドなどで使用されるロボットの名称)

 バーカウンターの向こうから、白髪の店員がおれを見て“おや?”というような表情をした。こういう反応は以前も体験したことがある。仕事で行った先のテキサスで、地元のバーに入ったときのことだ。店内客の顔がいっせいにこちらを向いた。その熱いまなざしは、おれを見てこう言っていた。───“よそもの”。

 カウボーイハット率のやたら高いその店で、スーツを着用していたのはおれひとり。ここではネルシャツのパーセンテージが高く、ゴアテックスに身を包んでいるのはおれだけのようだ。

 カウンター席の隅に座ると「何にするね?」と、さきほどおれを見た男が注文伺いをする。店のロゴが入ったエプロンを着けた彼は、おそらくこの店のオーナーなのだろう。

「カフェラテを」

「“カフェラテ”。悪いがここはスターバックスじゃない。ミルク入りコーヒーでいいかね?」

「ああ……ええ、それでお願いします」

 多少の居心地の悪さを感じながら、手持ち無沙汰に携帯を取り出して眺める。どうやら電波は来てるようだ。こいつを氷河に落としさえしなければ、最低限、身の安全は保障されるだろう。

「あれ? エドセル。なんだ昼間っから。店はいいのか?」

 すぐ耳元で呼びかけられ、おれは驚き振り返る。間近には見慣れぬ男の顔。痛んだリンゴのように日に焼け、前歯が一本欠けている。

『どちらさまですか』とおれが聞く前に、バーのオーナーが口を挟んだ。

「ボブ、よく見ろ。エドセルじゃない」

「へっ? あれ、ほんとだ……ごめん兄さん。人違いだ」

 ボブと呼ばれた男は、奥のテーブルにふらふらと歩いていった。

 オーナーはにこりともせず「失礼したね」とコーヒーを出す。「あんた、この町に住んでいる男とよく似ているんだよ。おれも最初は間違えそうになった。あんたがその戸口に立ったときにね」

 そうか、さっきの反応は“よそものだから”ってだけじゃない。おれはエドセルに間違えられてる。町中聞き込みをするまでもない。おれ自身が指名手配のポスターに同じ。こいつは思ったより話が早く進みそうだ。

「どちらからいらした?」と、オーナー。岩のようにこわもてだが、目の奥は優しげだ。

「ニューヨークです」

「それはずいぶん遠くからきたね。どこに泊まってる?」

「いえまだ。さっき着いたばかりなので。実は宿を探してるんです。タクシーで訊ねるつもりだったんだけど、聞きそびれてしまって。ここにはホテルがないと空港で聞いたんですが?」

「このへんだと民宿かコンドミニアムになるな。どのくらい滞在する予定だ?」

「五日ほど」

「それなら民宿のほうが楽だろう。あそこにいるバーバラ=アンがここいらの物件を取り扱ってる。彼女に聞けばどこか手ごろな宿を手配をしてくれるはずだ」

 オーナーが指す方を見ると、窓に近い席に女性がひとりで食事をしていた。赤毛を三つ編みにした彼女は、ミュージカル〈アニーよ銃をとれ〉みたいな雰囲気。これであと20ポンド痩せていたら、ブロードウェイの舞台にも立てるだろう。

「お食事中すみません」

「なんだい?」女性は顔を上げた。

「このあたりで宿を探しているんです。今さっき、ここのオーナーがあなたを紹介してくれたので」

「ああ、そういうことなら、あたしで間違いないよ。でもちょっと待ってもらえるかい? このジャガイモを大急ぎで胃袋に仕舞っちまうからさ」そう言って、マッシュポテトとフレンチフライを猛然と口に詰め込み始める。

「お気になさらず、ごゆっくり」

 彼女が着ているのはカラシ色のネルシャツだ。店内パーセンテージのほぼ八割を占めるフランネルのシャツ。おれも帰るまでに一着買ったほうがいいかもしれない。

 ジュークボックスの隣の席では、オーディオアニマトロニクスたちが鹿狩りの話をしている。そのうちのひとりは、おれをエドセルと間違えた男だ。おれの視線に気づいたか、彼はこちらに手をあげた。

「よーぅ、兄さん。さっきは悪かったな。ちょっとした勘違いだ」

 彼が野球帽を持ち上げ、軽く会釈すると、同じテーブルの男たちが、おれを見て口々に感想を述べた。

「あれっ、ほんとだ似てるな」

「双子か?」

「馬鹿、年が違いすぎるだろ」

 中のひとりが怒鳴るように声を張り上げる。

「兄さん! あんたどっから来たんだ?」

 おれは怒鳴らなくていいよう、彼らの傍に近づいて答える。

「ニューヨークです」

「遠いな」

「エドセルはどこの出身だって言ってたっけ?」

「西海岸だろ」

「そうか」

 野球帽の男(たしかさっきボブと呼ばれていた)はビールに口をつけ、「大陸の右と左にしか男前は繁殖しないって説、知ってるか?」と言った。

「聞いたことねぇな」と、口ヒゲの男。「美女はどうなんだ?」

「いい女はテキサス産だ」

「どうして」

「昔からそうと決まってるからさ」

「少なくともアラスカじゃねえな。ここにはブスしかいねぇ」

「ダン、おまえそんなこと言って、もし女房に聞かれたら殺されるぞ」

 ダンと呼ばれた男は「知ったことか」と、ジョッキを飲み干した。

「見ろよ兄さん」と、ボブが言う。「こいつは八年前、トラクターの下敷きになってな。以来、あっちがてんでダメなのよ」言われて見ると、ダンは車椅子に乗っていた。すぐに気がつかなかったのは、車椅子の装備がずいぶんと質素だったからだ。

「だからこいつのブスの女房はいつもカッカしてる。兄さんみたいな男前ときた日にゃ、見ただけで大変なことになるぞ。発情期のヘラジカみたいにな」

 こういう会話は西部劇だけのものかと思ったが、よもや現実に耳にすることができるとは。ローマン風に言えば『おげれつ!』ってとこか。人の妻のことを“ブス”だとか、“発情期のヘラジカ”などと評するなんて。無遠慮で赤裸裸な会話に目眩がしそうだ。

「しっかし、よく似てるよ」と、ダン。「地球上には自分と同じ顔のヤツが三人いるっていうけど、ありゃほんとだな」

「ああ、本当に面白いもんだ」

「ってことは、おれたちと同じ顔のヤツも、それぞれあとふたりはいるってことか」

「おまえの場合はおまえひとりっきりだろ」

「なんで」

「あとのふたりは鏡見て自殺だ」

 どっと巻き起こる笑いの隙を見て、おれはエドセルのことを訊いた。直接的なことは言わず、「おれと似ている人ってどんなですか?」と、あくまで自然な風にして。

 ダンはげっぷをひとつし、「そいつなら“二つ峰通り”に面したみやげ物屋にいる」と言った。

「一度会ってみるといい。本当にそっくりだから」

 おれは頷く。「ええ、そうします」




 バーバラ=アンが紹介してくれた民宿は、メインストリートから徒歩10分の好立地だった。外壁は丸太、煙突はレンガ。エプロンをつけたハニーベアでも住んでそうな佇まいを見せるその宿のオーナーは、エリスというブロンドの独身女性だ。『ここにはブスしかいねぇ』というダンの説を覆す美人で、四歳になる息子ジェイクと、赤ん坊のメアリーの三人で暮らしている。

 この時期子供のいる家のほとんどがそうであるように、リビングルームはクリスマスの飾り付けでいっぱいになっている。LEDライトのトナカイ、スパイダーマンのスノードーム。なかでも立派なのはクリスマスツリーだ。堂々とした生の樅の木。マンハッタンでは50ドルは下らないであろう代物だ。

「自分の家みたいにくつろいでね。嫌いな食べ物があったら言ってちょうだい」

 エリスもまたフランネルを着用。ニューヨークでチェックのネルシャツを着ている女性といえば、ダイク(レズの男役)が相場だが、二人も子供がいる時点で、その可能性は薄くなった。

 ツリーの横にあるベビーベッドにはメアリーが眠っている。可愛らしい寝顔を覗き込んでいると、おれのズボンを引っ張る手に気づいた。見ると、エリスと同じ目をした少年がおれを見上げていた。

「こんにちは、ぼくジェイク」

「やあ、ジェイク」

「あなたは?」

「ディーンだよ」

「ねえ、ディーン、“じょせつしゃ”ってしってる?」

「知ってるよ。除雪車だろ?」

「ぼくのパパは“じょせつしゃ”にひかれて死んだの」

 すごい死に方。こういう場合なんて言ったらいいのか。おれが正しい答えを見つけ出す前に、「どこから来たの?」と、ジェイクは話題を変えてくれた。

「ニューヨークのマンハッタン島ってところから」

「ひとりで来たの? ディーンのパパとママは?」

「ひとりだよ。ママはフロリダで、姉さんは同じマンハッタンにいる。パパは死んだ」

「それってぼくと一緒みたいじゃない?」ジェイクは乳歯を見せてにやりと笑った。

「そうだね」

「ぼく、マンハッタンしってるよ」

「そう?」

「スパイダーマンの街だよね」

「そうだ」

「スパイダーマンの漫画持ってるよ。見たい?」

「ありがとう、でも今はいいよ。なあジェイク、おれ着いたばかりで疲れてるんだ。ちょっとひとりにしてもらってもいいかな?」

「わかった」

 案内された二階の客室は、天井から壁から、ポピーの花がデザインされたカラフルな部屋だった。エリスの旦那さんは、ヒッピーだったのかもしれない。

 荷解きをするより先にベッドに倒れる。除雪車にひかれたり、トラクターの下敷きになるのが日常茶飯事のこの町で、エドセル・ケリーはどんな風に暮らしているのだろう。

『パパは死んだ』うっかりジェイクにそう言ってしまったが、それは古い情報だ。

 パパは死んだ───すっかり口に馴染んだその台詞。今になって変えろというのは、そう容易なことじゃない。

『パパは生きてる。アラスカでみやげ物屋を営んでいる』。

 この新情報。父親の顔を見れば、簡単に上書きされるものだろうか……。




 外はまだ暗いが、時計は午前9時を回っている。この季節は10時くらいまでは明るくならないのだとエリスが教えてくれた。

 彼女が朝食にサーブしてくれたのは、マシュマロ入りのフルーツサラダ。メープルシロップをたっぷりかけたパンケーキと、油で光るカリカリベーコン。コーヒーはマグカップにたっぷり。もちろんミルクも好きなだけ入れていい。これぞ伝統的なアメリカの食事。この町で“エルビス・プレスリー・スペシャル”を作ったとしても、誰からも非難を浴びることはないに違いない。しかし毎朝これでは、ニューヨークに戻るまでに体重が恐ろしいことになりそうだが。

 天気はどんよりしていて、今にも空から何かが落ちてきそうな雰囲気だ。おれが持ってきたガイドブックには、晴天の下でボート釣りをする男の写真が表紙に採用されている。きっとこれはごく限られた期間のみ適用される情報なのだろう。

 “二つ峰通り”はメインストリートから伸び、エドセルの店は昨日のレストランバーから、5分ほどのところにあった。民宿が徒歩10分で好立地だと思ったが、この辺りはどこを散策するにしても、そんなに歩く距離はないらしい。徒歩で回れるほど近くか、もしくは車で数十マイルの距離か。二者択一でその中間がないのがこの町の特徴なようだ。

 店頭に吊るされた木彫りのカラス。入り口の両脇にはトーテムポール。店の名前は『トゥトゥイック』とあり、その下に“イヌイット・ワーク・オブ・アート”と表記がある。外観は典型的な地方のみやげ物屋といった風情。ドアを開けるとカウベルがカランと音を立てた。

 入ってすぐ右手側、キャッシャーに立っている男を見て、おれははっと息をのんだ。人を見て息をのむことなんてあるかと思っていたが、今あった。それは“とてつもない美人を見て”とか、“一瞬で恋に落ちた”とかの「はっ」とは違う。「なんだこれ!?」という「はっ」だ。

 インディアンの太鼓や、なめし皮のジャケットに囲まれた店主。見ただけでわかった。彼だ。彼がおれの父親。正直、こんなに似ているとは思ってもみなかった。モーションキャプチャーでおれの画像を取り込み、一気に老けさせたような。そんな顔をしている。

「やあ」と彼が言うので、おれは「どうも」と返した。生き別れになっていた親子の対面。交わした第一声は「やあ」と「どうも」。現実なんてこんなもの。リアリティ番組〈あの人を探して〉じゃあるまいし、いきなり抱き合って涙するといったドラマは、テレビの中にしか望めないものだ。

 店主を気にしつつ、見るともなしに店内を歩く。フルートや太鼓。インディアンジュエリー。手織りの布を使ったこまごまとした民芸品の数々。売り物なのかそうじゃないのか、奥には巨大なカヌーまで置いてある。シンボルをかたどったTシャツやマウスパットの類はいっさい見あたらない。ファーストネーションズ(先住民)ショップはマンハッタンにも多くあるが、ここはソーホーで見るようなそれとは違い、素朴な温かみにあふれた雰囲気だ。

「何かお探しですか?」

 トゥトゥイックの店主はおれにそう声をかけた。親子の対面、第二声は“何かお探しですか?”。まあ、抱き合って泣くよりはマシな展開だ。

「特に何というわけでは……」と、おれは曖昧な返事。“あんたの顔を見にきたんだ”とはとても言えず、無難な真実を彼に告げる。

「石切り場でこの店のことを聞いて、それで来たんです(嘘じゃないだろ?)」

「石切り場。ボブたちかな? 車椅子の男がいなかったか?」

「ええ、その人たちです」

「そうか、彼らハンティングの話をしてただろ?」

 そうですとおれが答えると、エドセルはやっぱりという顔をし、「いつもその話さ」と、穏やかに微笑んだ。笑った顔はなかなか魅力的だ。黒い髪は肩まであり、長めの前髪は額に垂れ、表情に陰影をつくっている。白髪はなく(染めているのかもしれない)、ハゲてもいない(ハレルヤ!)、着ているものはブルーのダンガリーシャツとジーンズ。服はダサいが、それを差し引いても悪くはない。ハンサムと言っても差し支えはないだろう(そう、おれに似て)。

「ネイティヴ・アートに関心が?」と、彼が聞く。

 内心ドキドキしつつ、おれは答える。

「ええ、まあ何となく……自分は芸術品を扱う商売をしているもので」

 エドセルは穏やかに微笑んでいる。わずかな沈黙。おれは何か、言うべき言葉を捜して考える。

「ええと……あの、この店の名前、“トゥトゥイック”ってのはどういう意味ですか?」

「意味はない」と、エドセル。

「ない?」

「ああ」

「これはイヌイット語ではないんですか?」

「ああ、違う。……おや、イブリン」

 おれの肩越しに視線をやるエドセル。つられて振り返ると、戸口にはイヌイットの老女が杖をついて立っていた。

「靴下が編めたよ」と、スーパーのビニール袋を差し出す老女。「孫の誕生日にお金がいる。ゲームのソフトが欲しいんだと」

「ああ、イブリン。ここまで歩いてきたのかい? 電話をくれれば家まで取りに行ったのに」

「たまには歩いた方がいいと医者からも言われてるんだよ」

 イブリンのモカシンは雪解け水で濡れている。エドセルは彼女をストーブの近くへ招きよせた。ふたりはそのまま話し込んでしまい、おれは買うものも見つけられず、ただ黙って店を出た。




 そもそも自分は“アウトドアライフ”に憧れるタチではない。〈バックパッカー〉も〈アウトサイド〉もこれまで読んだことはなく(※バックパッカー/アウトサイド=アウトドア専門誌)、鹿狩りの話が先物取り引きの話より偉大だとも思わない。たまにはバカンスで自然を目撃するのも悪くはないが、一週間もしないうち、マンハッタンが恋しくなるという、根っからの都会っ子だ。だとすると、ここを永住の地と選んだエドセルは、おれとは違う性質を持っているのかもしれない。そもそもなぜアラスカだったのか? 家出するならもっと別の、たとえば南の島とか、そういうところに移住したいとは思わなかったのだろうか? 聞きたいことはいくらでもある。しかしそれが実行できるかとなると……そう簡単にはいかないだろう。『やあ、こんにちは。あなたとお知り合いになりたいのですが?』なんて。そんなのあまりにも不審すぎる。うかつに好意的にすると、ゲイのナンパだと思われかねない(ゲイだけど)。

 どうやって彼とお近づきになろうかと思案しつつ、石切り場のカウンターで魚のフライをつまんでいると、おれの隣に男が座った。

「やあ、さっきは失礼した」黒いテンガロンハットを脱ぎ、エドセルが会釈する。「いつの間にかいなくなってたから。せっかく店に来てくれたのに、申し訳ないことしたね」

「いいんです」そもそも“いつの間にかいなくなってた”のは、そっちの方なわけだし。

「おれはエドセル・ケリー」

「ディーンです」名字は言わない。ファーストネームしか名乗らないことについて、彼は特に思うところはないようだ。

「外の人だね?」と、エドセル。どうやら彼は“ここの人”ということらしい。

「どこから来たの?」

「ニューヨークのマンハッタンから」

「遠いな」

 ここからすればどこでも遠いよ。

 エドセルはムースバーガーセットをオーダーした。おれは隣の男前を横目で見つつ、“今がお近づきになるチャンス”と考えていた。いつマスターが『顔が似てるな』と言い出すかヒヤヒヤしていたが、彼は黙ってコップを磨いていて、おれたちの会話には興味がないようだった。

「マンハッタンからアラスカまでどのくらいかかる?」

「ほぼ半日ほどです。あとはセスナ機とタクシーで」

「タクシーでここまでだと、けっこうとられたろう? バスはなかったのか?」

「バスは二時間待ちとありましたから」

「それならまだ早いほうだ」

「移動費がかかるのは承知の上です。ああ、そういえば空港からここまで来るとき、タクシーの運転手に『アラスカ州のチップは30パーセント』と言われましたね」

「仲間になれば温かだが、外から来た人には厳しい。ここにそういう側面があるのは確かだな」

「あなたも“外から来た人”だと聞きましたが……」

「そうか、ボビーはいろいろ話したんだな?」

 おれがその情報を仕入れたのはボビーたちからではないんだが……。情報源については黙っておくことにする。おれは名乗りをあげるためにここに来たのではない。

「おれはカリフォルニアの出身だ」言ってムースバーガーにかぶりつくエドセル。

『それはそういう名前ってだけで、本当は“ビーフバーガー”なんですよね?』と聞きたいのをこらえつつ、おれは別の質問を考える。今はハンバーガーよりもっと重要なことを聞き出す絶好の機会だ。

「カリフォルニアからアラスカ……ずいぶん温度差があるところから来たんですね?」

「ああ、ここに来て最初の年は大変だったよ。アラスカがどれだけ寒いかって、おれはちっとも知らなかったんだ」

 着の身着のまま、ろくな装備も計画性もなく移住したら、最初の年はそんなもんだろう。

「でもここに住むことに決めたんですね? 寒さにも負けず?」

「実際負けそうだったが、戻るあてもないしね」

 おい、あるだろうが。

「それに店を買ったから」

「あの店を?」

「おれがこの町に来たとき、ちょうど売りに出ていたんだ。オーナーが亡くなったばかりでね。それは『マシューズ』という釣り具屋だった。しかしおれには釣りの知識はないし、訪れる客のほとんどは、オーナーとの会話を楽しみにくる常連ばかりだった。知り合いもいないこの町で釣り具屋をやっていくのは困難だとおれは思い、そこで別の商売に切り替えることにしたんだよ」

「それがネイティヴ・アート……」

「そうだ」

「以前からそうしたものに興味があったんですか?」

「いや、全然」

 エドセルはコーヒーに砂糖をふたつ入れた。

「ここに来てから、おれは初めてイヌイットの文化に触れたんだ。それは衝撃的だったよ。“こんな素敵なもの、どうして今まで知らなかったんだろう!”とね。彼らの芸術はとてもすばらしい。しかし当時それらの技術は、今ほど一般に認められているものでもなかった。ケヴィン・コスナーが〈ダンス・ウィズ・ウルブズ〉を撮る以前だからね。おれはイヌイットのコミュニティを回り、ネイティヴ・アートを紹介することに承諾を得たんだ」

 ウエイトレスがコーヒーを注ぎ足した。おれはそこに砂糖をふたつ入れる。

「一口にイヌイットと言っても、部族は細かく区別されている。それまで彼らは独自のルートで芸術品をさばいていたが、おれはそれをひとつにまとめることにした。そのことで部族間には小競り合いもあったようだが、おれはそんなことちっとも知らなかったものだから。都会から来た無知な白人の強みだな。店の名前、トゥトゥイックには意味がないと言ったろう? 最初おれは“なんとかクリーク”とか、英語の名前をつけようとした。するとある部族の長が来て、『英語の名前などとんでもない!』と言う。そこでおれはイヌイット語の中から選ぼうとしたんだが、彼らの言葉っていうのは、部族ごとに何種類もあるんだ。各部族、皆が自分のところの言語を店の名前にしたがったもんだから、さっぱり収集がつかなくなってね。『だったらどこの言語でもない名前にしてやろう!』そう思って、“トゥトゥイック”という意味のない音を選んで名付けたんだ」

 素敵なエピソードだ。ディスカバリー・チャンネルが好きそうな、いい話だ。

「この件は実に象徴的なものだ。うちの店で作品を売ることを通して、各部族は互いのことを認め合うようになったんだ。諍うことは商売の不利益にしかならないと、彼らは悟ったのさ」

「それはいいことをしましたね」

「結果的にはね。ただ商売についてはここまでだ。これ以上のことはおれも彼らも望んではいない」

「これ以上のこと?」

「商品をシアーズのカタログに載せるとかそういうことはな……。チャールズ、勘定を頼む」

 エドセルはカウンターに金を置いた。

「それじゃあ、ディーン。気が向いたらまた店に寄ってくれ」

「ええ、行きます。かならず」

 彼が出て行って、おれはコーヒーに口をつけ、それからタバコに火をつける。『吸ってもいいか』と聞くまでもないのは、店内の喫煙率を見ればわかる。おれは基本的に食事のときはタバコは吸わないと決めている。決めているが、今日はなんとなく吸いたくなった。理由はわからない。別に掘り下げたいとも思わない。




 宿に戻る途中、ムースが通りを歩いているのを目撃する。これがニューヨークであれば、即、病院に駆け込むところだが、ここはアラスカ。ブルウィンクルがぶらぶらほっつき歩いていても不思議のないオーロラの国だ。(※ブルウィンクル=60年代のテレビアニメ〈ロッキー&ブルウィンクル〉に登場するヘラジカ/ムースのキャラクター)

 グレイビーソースがたっぷりかかったステーキとマッシュポテト。蛎のシチューとクラッカーの夕食を食べ終わると、それを待っていたかのようにジェイクがやって来て、おれに一冊の漫画雑誌を差し出した。

「スパイダーマン。貸してあげる」

 コーヒーを運んできたエリスが息子に言う。

「ジェイク、彼は大人なのよ。漫画なんて」

「貸すって言ったんだもん」

「ごめんなさいね。この子ったら」

「構いませんよ。ありがとう、ジェイク」

 ジェイクの瞳は自慢げに輝いている。民宿の息子である彼は、母親と同じくゲストをもてなすことを自身の喜びとしているらしい。

「スパイダーマンはパパもママもいないんだよ」

「ああ、そうだったな」

「でもヒーローなんだよ」

「ああ」

「だからぼくも、ちっとも平気なんだよ」

 どうやらジェイクは相当なタフガイみたいだ。人に優しくできる心と、自分をアピールする積極性。将来ヒーロー足り得る素質を充分に備えている。

 おれはスパイダーマンを伴いベッドイン。眠りつくまでに読み終えるにはちょうどいい厚さだ。

 スパイダーマンこと、ピーター・パーカーのアイデンティティは、スーパーヒーローであると同時に、ごく一般的な普通の男でもあるということ。おれもごく一般的な普通の男だ。じゃあもうひとつはなんだろう?

 ページをめくりながらそんなことを考えるうち、意識は速やかに眠りへと移行。最後まで読み終えることはできなかった。




 翌日は約束通り、トゥトゥイックを訪問した。ストーブの前で、ネイティヴ・アートについて思いつく限りの質問をエドセルにしていると、彼はふいに「そろそろ正体を明かしてもいいんじゃないかな?」と、おれに言ってきた。

「正体って……それはどういう意味です?」内心の動揺を隠しつつ聞き返す。

「きみはただの観光客じゃない。そうだろう?」

 見つめるその瞳はブルーグレー。おれの目とまったく同じ色をしている。沈黙に気圧されそうになるが、こちらからカードを開くわけにはいかない。まだ証拠があがったわけではない。おれも黙ったまま、ただ彼の顔を見つめ返す。

「ディーン、きみはいったいどこから派遣されてきたんだ?」

「はっ?」

「前にも何度か、きみのような男がここに来たよ。おれはその都度、彼らが提案する契約を断ってきた。昨日も言ったように、事業を拡大するつもりはない。ここのネイティヴ・アートはデパートの特設売り場や、カタログショッピングとは無縁のものなんだ」

 ああ、そういうことか。どうやらおれは“先住民の伝統を食い物にする白人の侵略者”だと思われているらしい。

「それはあなたの思い違いですよ」ほっとしたのも手伝って、おれは微笑んで彼に言う。「確かにぼくは美術品を扱う仕事をしています。ですがここに来たのは仕事のためじゃありません。ただのバケーションです」

 “本当に?”という顔で、片眉を上げるエドセル。

「本当ですよ。なんならぼくの会社に電話をかけてくれてもいい。休暇をとっていることを証明してくれるはずです」

 エドセルは目を細め「じゃあ、どうしてここに?」と、おれの目的を具体的に尋ねる。

「それは……アラスカを観てみたくって」

「この時期、どうしてここを選んだんだ? 人口が849人の町。フェアバンクスでもなく、チェナ温泉でもなく?」

 彼は追求を緩めない。“ただの休暇”と言う方が不自然だった。いっそクレート&バレルから視察に来たということにしておけばよかったかも。(※クレート&バレル=カタログ通販会社)

 疑わしげにおれを見るエドセル。居心地の悪さに耐え切れず「もうずっとまえのことなんですけど……」と、おれはぽそぽそ話し出す。

「ある人がこの町に住み着いたんです。その人はぼくを捨てた人で……ぼくは……ぼくを捨ててまでして住みたかったところって、どんなだったのか……とても興味があったんです」

 そう告白すると、彼は表情を暗くした。

 とうとう言ってしまった。こんなことを告白するために来たんじゃないのに。彼に迷惑をかけるとかそういうつもりはなかった。ただ顔を見て、自分のアイデンティティを確立したかっただけ。それだけが目的だったのに。

 沈鬱な面持ちで、何度かまばたきをするエドセル。

「そうか……きみは……」

「ええ」

「それで? もう会えたのか、彼女には」

「彼女?」

「きみを捨てた」

 ……そうきたか。鈍いところもおれとよく似ている。まあ、今までの話でそう思うのも無理はない。

「ええと、会えたというか……会えないというか……」

 言葉を濁すと、彼は意味深に微笑み「トーテムポールを見るか?」と話題を変えてくれた。

 店の裏手に回ると、そこにはガレージサイズの丸太小屋が建っていた。がらんとした室内には家具らしいものはない。薪ストーブがひとつと工具棚。ノミや木槌、電動ドリルやチェーンソーなど、どれも古びて使い込まれたもののようだ。小屋の中央には皮を剥がれた丸太が、台座の上に横たわっている。高さ10フィートほどのそれは、製作途中のトーテムポールのように見えた。

「ここをアトリエに提供しているんですか?」

「いや、ここはおれの作業場だ」丸太に手をついてエドセル。「数年前から自分でもやってる。彼らの芸術にはほど遠いが、まあ、見よう見まねだな」

 丸太には何種類かの動物らしき姿が荒く彫り込まれている。それは鳥のようにも人間のようにも見える不思議な生き物だった。

「トーテムポールはクラン(氏族)によってデザインが変わってくるんだ。当然おれにはクランなんてないから、好き勝手に作ってるよ」

「以前から彫刻に興味を?」

「とんでもない。ここに来てからだ。おれはノミを持つのも初めてだった。ここに住む以前は料理人をしてたんだ」

 ああ、それなら前に聞いたよ。あんたからじゃなかったけど。

「ここに来てからというもの、新しいことの連続。苦労の連続だった。大変なことも多かったが、ここの人たちがおれを助けてくれた。今では町のみんなが親戚のようなものさ」

 遠い昔を懐かしむような顔をする彼。いいエピソードかもしれないが、おれにしてみりゃ何だか白ける話だ。なんと言ってもこっちはエドセルの所業を知っている。“町のみんなが親戚”と言われても、彼がそれ以前にしたことを思えば素直に感激しかねるのも無理はない。

 作業場を出ようとしたところで、背後から声がかかる。

「気をつけて。そこは凍ってる」

「え? どこですって……うわっ!」

 LLビーンが広告する『優れたグリップ力で滑りにくい』のコピーも虚しく、どこが凍っているかを身をもって知ったおれは、バランスを崩して倒れそうになる。したたか尻もちをつかずに済んだのは、背後にエドセルが立っていたからだ。

 おれの身体を支え「大丈夫か?」と彼が聞く。おれが頷くと「注意した途端これだ。危ないな」と言って笑った。それはおれの顔のすぐそばで。

「コンクリートの部分はところどころアイスバーンになってる。歩くときは土のあるところを選んだ方がいい」

 そうアドバイスするエドセルも、ここに来たばかりの頃には滑って転んでばかりいたのだろう。おれの身長は6と20フィート。支えられたときの目線からすると、彼との身長差はほとんどないようだ。

 すっ転んで頭を割るところから九死に一生を得たおれに、命の恩人は「よかったら今夜、うちで食事でもどうだ?」と、気さくに笑う。

「何か食べられるものを作るよ」

「ムースバーガー?」

「もしそれがいいなら」

「いえ……せっかくですけど。民宿のオーナーが食事を作って待っていますから」

「そうか」

 彼はちょっと残念そうな顔をした。こういうとき『別に構わないじゃないか』と押したりしないのは、おれとよく似た優男(やさおとこ)ぶりだ。

 エドセルは小屋に南京錠をかけながら「イヌイットのアートに興味があるなら、明日もここに来るといい」と言った。「午後三時から、イヌイットの伝統文化と芸術についてのレクチャーをやるから」

「あなたが?」

「小学生のためのワークショップだが、トーテムポールの作り方についても説明するし、実際に木をけずったりもする。天気が悪かったら中止だが」

「天気が良くて時間があれば、考えてみます」

 そう答え、おれは店を後にした。

 帰り道、土のあるところを選んで歩きながら考える。うちの家族で絵を描くのはおれだけ。ママもアイリーンもアーティスティックなことには関心がない。キッチンに立つのが好きなのも、家族の中ではおれひとり。ママもアイリーンも料理を不得手としている。アートが好きな優男のエドセル。滑って倒れる6.20フィートの男を支えてもビクともしなかった。アラスカで薪を割ったり、トーテムポールを削ったりするうち、しっかりとした筋肉がついたのだろう。

 ムースが通りをぶらついているような、見知らぬ土地にたったひとり。裸一貫で商売を始め、今では町に溶け込んでいる。まったく大したもんだ。男として尊敬できる偉業だ。ディスカバリー・チャンネルの取材にエドセルは何と答えたのか。テロップに妻と子を捨てて出家した旨を表記すりゃ、より高い視聴率が見込めただろうに。




「今日はどこを観光したんですか?」

 豆の煮込みを皿に盛りながら、美人のエリスがおれに聞く。

「観光というか……そのあたりをぶらぶらしてただけですよ」

「ぶらぶら?」エリスはくすっと笑った。「わざわざニューヨークから来たのに、ただぶらぶら散歩を?」

「ええ、そう。メインストリートにいるムースみたいにね。あとはトゥトゥイックでトーテムポールを見せてもらったくらいかな。作りかけのやつを」

「エドセルの店ね」

 エリスも彼を知っていた。“町のみんなが親戚”なんだから当たり前か。

「あなたと彼ってよく似ているわ。そう思わない?」

 エリスもおれたちを似ていると言う。その事実に気づかないのはエドセルだけだ。

「思いますね」と、おれは頷く。「最初見たときは鏡かと思ったくらい。“やばい、ツンドラの気候でこんなに老けちゃったのかな?”って」

 おれの言葉にエリスは笑い、トングで掴んだとうもろこしパンを、スープの中に落としそうになった。

「あなたっておもしろいこと言うのね」とエリス。「そういうところもエドセルと似てるわ。彼も見た目はとっつきにくいけど、話すとけっこうおしゃべりで。いったん打ち解けるとすごく感じがいいの。独身だなんてもったいないと思うわ」

 ママの説では、かつてエドセルは女の子に人気があったのだとか。エリスの意見を聞くだに、その記憶は間違いではないようだ。

「あなたもね、エリス」

「わたし?」

「“独身でもったいない”」

「あら、わたしはボーイフレンドがいるもの」ぴしゃりとエリス。おれのナンパまがいの言葉を警戒したのかもしれない。要反省。

「エドセルは彼女もいなければ、結婚もしてないのよ。ここに来てからずっとそうだって話。噂によるとカリフォルニアに残してきたご家族がいるんだとか……。でもそんなことあり得ないわね。彼はもう長いことここに留まっているんですもの」

 あり得ないことがあるのが、この世の中だ。たとえば死んだと聞かされた父親が、ひょっこりアラスカで生きているとか。ムースが通りを散歩しているのだって、おれにとっては“あり得ないこと”だが、ここの人には日常茶飯事。今となってはエルビスに遭遇したって驚きはしないだろう。

「エドセルは……なんて言うのかしら、町のちょっとした人気者ね。よく父が言ってたわ。『外からやってきた奴は大抵数年で音を上げるが、あいつは大した奴だ』って……。そうそう、いつだったかテレビが取材に来たのよ。彼だけを取り上げる番組じゃなかったけど、でもずいぶんインタビューに答えていたわ。ああいうところできちんと受け答えができるのは、元が都会の人だからかしら? みんなと同じ服を着てても、エドセルはどこか洗練された感じがするのよね……あら、もしかしてパンが固かった?」

 おれを見てエリス。言われて我に返り、「いいえ、そんなことは」と、食事を再開させる。

「どれも最高においしいです。ええと……コーヒーにミルクをもらえるかな?」

「ええ、もちろん。いくらでもどうぞ」

 真っ黒なコーヒーに注がれる白い液体。それは表面に円をえがき、くるくると回り続けている。しばらくするとそれは完全に混ざり合い、ミルクコーヒーの色に落ち着いた。

 おれはマンハッタン以外の場所に住んだことはない。仮にこの地に落ち着いたとして、“町のみんなが親戚”と言えるまでに要する時間はどれほどのものか。くるくると回り続け、その結果混和するまでにはどれくらいかかる? ひとつところに馴じんで溶け込むのは、そう簡単なことではない。それが保守的な地域であれば尚のことだ。

 エドセルがここへ来てから、二十八年もの時が流れた。異邦人が町の人気者になるまでのヒストリーは、聞けば感激する類のものだろうし、ディスカバリー・チャンネルが取材するまでもなく、素敵な話だと理解できる。しかしそのドラマティックな歴史の裏には、まったく別なエピソードも存在するのだ。たとえば二十数年前のクリスマスイブ。この時期がかき入れ時となるマンハッタンのアンティークショップでは、ミリアム・ケリーが閉店時間を延長して働いていて、彼女の娘、アイリーン・ケリーは「クリスマスキャンディが食べたい」と駄々をこねる弟の面倒をみながら、母親が帰宅するのを待っていた。それはちっぽけな話で、視聴者のハートをつかむようなネタではない。歴史の裏にはいつもこうした“ちっぽけな話”があり、たいがいの場合それは穏便に無視される。だからといって、おれは別に町のヒーローを貶めようというのではない。ブッダが悟りを開くには、妻と子を置き去りにする必要があったのだろうし、妻子持ちのジョン・F・ケネディがブロンドの映画女優と何をしてたかなどは、彼らの美しかるべき功績にはどうでもいいことだ。

 おれはこの町に何をしに来たのか。当初の目的はたしか、自分のアイデンティティがどうとかいう話だったはず。ディーンの父親は町の人気者。ハゲてもないし、太ってもいない。遺伝的要因を巡る旅というのであれば、この結果は文句のつけようがないほどだ。

 おれはわざわざここに来た。十二月のアラスカ。フェアバンクスでもなく、チェナ温泉でもなく、人口849人の町に。

 有給休暇は明後日まで。あと二日で何ができる? そもそもおれは何がしたくてここに来たんだっけ……。




 天気は晴天。加えておれには時間があったので、エドセルの作業場に向かわない理由は何ひとつ見つからなかった。

 トゥトゥイックの作業小屋の中には完成されたトーテムポールが置いてある。それは6フィートほどで小ぶりだが、堂々として立派な作品だ。これを見本にして、子供たちにレクチャーするのだとエドセルは説明してくれた。

 薪ストーブに火を入れ、その上に鉄のヤカンを乗せる。たったひとつの暖房器具だが、小屋のなかはたちまち暖かくなった。

「木は断熱性の高い素材だからね。皆が思っている以上に、丸太小屋は快適なものなんだよ」そう言いながら、彼は握りこぶしで窓を拭いた。「そら、来たぞ」その言葉に窓を覗くと、十数人の子供たちが、大人に引率されてやって来るのが見えた。年は10歳くらい。皆それぞれエドセルに挨拶をして小屋に入ってくる。

「さあ、みんな座って!」引率の女性が声を張り上げると、子供たちは次々ラグの上に腰を降ろした。

「ガムは口から出して。ジョニーとアダムは離れて座りなさい」

 指示しているのは、エリスの宿を紹介してくれたバーバラ=アンだ。おれに気付くと「あれ、あんたは確か……」と、記憶の糸をたぐる表情をする。

 まずい。彼女はおれの名字を知っている。民宿を手配してもらう際、身分証としてクレジットカードを提出したのだ。

 おれは彼女に近寄り、「ディーンです」とファーストネームを名乗った。それから続け、「バーバラ=アン、あなたは小学校の教師なのですか?」と素早く質問。おれ自身の情報から、話題を遠ざけたい一心でのことだ。

「いいや、わたしはボランティアさ。学校の野外授業の一環でね。ときどき子供たちを引率してるんだよ」

 子供たちが落ち着きを見せ始めたあたりで、エドセルの講義が始まった。どうやらこの野外授業は今日がはじめてというわけではないらしい。エドセルは皆の名前を覚えていたし、子供たちがとてもリラックスしていることからもそれがわかる。質疑応答の合間には、冗談や笑いが飛び出すなど、ずいぶんくだけた雰囲気だ。こういう授業ならきっと勉強も頭に入ることだろう。

 バーバラ=アンは小屋の隅でタバコを吸い始めた。おれも彼女のとなりでタバコに火をつける。子供がいる部屋で喫煙していいとは、まるで百年前にタイムスリップしたかのようだ。

「あんたもトーテムポールに興味があるのかい?」と、バーバラ=アンが聞く。おれは自分の職業を告げ、芸術作品全般に興味があると答えた。

「あなたは子供の教育に興味が?」

「興味ってほどじゃないけど」と、煙を鼻から吐き出す。「子供は好きだよ。なんたって可愛いじゃないか。ほら、あそこに座っている赤毛の子。彼女は絵を描くことが好きでね、このアートの授業をすごく楽しみにしているんだよ。あっちのブルーのセーター、ジョニーは多動症の気があるけど、こういうところでなら多少は落ち着いて座ってられる。教室よりここの方が好きだと彼は言ってたよ。そういうことを知るとね、ボランティアでもいいから何かもっと子供のためにやってやろうって気になるもんだよ」

「エドセルもボランティアなんですね?」

「ああ、そうさ。この授業はあたしがエドセルに提案したんだ。子供たちのためになることを教えてほしいと頼んだところ、彼はそのアイディアにすごく興味を示してくれた。イヌイットの伝統を若い世代に伝えたいのだと、まるで自分がイヌイットであるかのようにそう言うんだよ。エドセルが部族間の争いを鎮めた話を聞いたかい?」

 おれは黙って頷いた。

「あれは町の語り草さ。どんなチーフでもできなかったことを、彼はたったひとりでやってのけた。店を開き、“よそ者”という偏見にも負けず、町になじんで。今では市長からの信頼も厚い。子供たちにはあの通り慕われているし……ああいう人はなかなかいるもんじゃないね。彼はこの町の名士だよ」

 誇らしげなバーバラ=アンの解説を聞きながら、おれはビーチ・ボーイズのヒット曲を思い出している。

『♪バーバーバー、バーバーラー・アン....おれをロックでロールさせるきみ....』

 脳内でジュークボックスを再生しつつ、煙をふかすおれに「あんたは彼の身内なのかい?」と、彼女が聞く。

「……どうしてそう思うんです?」

 おれは質問を返すことにより、明確な答えをさけた。

「だって顔が似てるじゃないか。それに都会からこの町にわざわざ来たって言うから。ここは観光地じゃない。親戚でも住んでなきゃ、こんなところには誰も来ないよ」

 そんなに難しい推理じゃないとでも言うように彼女は笑った。おれとエドセルの名字が同じであることには気付いていないようだ。

 ───だって顔が似てるじゃないか───

 バーバラ=アンだけじゃない。エリスも石切り場の客も、おれとエドセルの類似を指摘した。だがしかし、当のエドセルはそのことに無意識だ。おれの顔を見ても、年の頃を聞いても、何もピンとこないらしい。彼の鈍感は筋金入りで、正体を隠したいおれは、その鈍さに助けられているとも言える。

 子供たちはノミと木槌を手にし、丸太を少しずつ削り始めた。おしゃべりばかりしている子もいるし、とても真剣に木と向き合っている子もいる。エドセルはひとりひとりに声をかけ、道具の持ち方を指導したり、うまくできたことを褒めたりしている。

 バーバラ=アンは再度つぶやく。

「彼はこの町の名士だね」

 おれは黙って、二本目のタバコに火をつけた。




「明日帰るんだって?」

 子供たちが帰ったあと、エドセルはおれにそう聞いてきた。

 そうですと答えると、彼は「あっという間だな」と言って微笑み、「もしよければ夕食の後、バーに来ないか? 石切り場で酒を奢るよ」と、申し出た。

 おれはストーブの傍らに干しておいた手袋をチェックする。それはすっかり乾いていた。

「ずいぶん優しいんですね」手袋をはめながら彼に言う。「あなたは最初っからぼくに親切にしてくれる。それってどうしてですか?」

「さあ、どうしてかな?」エドセルは小首を傾げた。「おれもよそ者だからかもしれない」

 なに言ってるんだ、町の名士が。

 おれは鼻で笑った。「あなたはよそ者じゃないでしょう」

「まあ、今となってはそうだが……」ストーブの空気窓を、火かき棒で閉めるエドセル。

「皆、あなたのことを褒めてますよ。よそ者どころか、町の名士で人気者だとか」

「とんでもない。誰がそんなことを言ってるんだ?」彼は笑った。

「謙遜することないじゃないですか。あなたは親切で町の名士。それは間違いない事実です。こんな見ず知らずの観光客にも優しくしてくれるんだから」

「別になにもしてない。ただ少し話をしただけで」

「“ただ少し話をしただけ”。あなたにとって、この程度の親切は大したことじゃないのかな? こっちはいたく感激したけど……。今日のボランティア活動にしてもそうだ。あなたの子供たちに対する接し方といったら……ほんとに素晴らしい」

「それを言ったらバーバラ=アンの功績だ。彼女はずっと子供たちに奉仕活動をしている。おれにこの課外授業を任せてくれたのは彼女だからね。……で、どうする? 今夜は石切り場に?」

「あなたは町の人気者……そうさ。でもここに来るまで、おれは覚悟してたんだ。あんたが悪人だと……」

「ディーン?」

「どんな最低の野郎なのか見届けようと……おれは覚悟ができていた。なのに……フタをあけてみれば、あんたは町の名士とやらになってる。新しい土地にとけこみ、みんなに慕われ、ひとつのことを成し遂げた立派な男……畜生、こんなのってあるか……」

「ディーン、きみは……」

「ここに来る以前の過去なんてどうでもいいんだろう? テーブルクロスを引っ張って気を引いた女の子のことなんか、あんたにとってはもうどうでもいいことなんだ。この町の人気者。かわいい盛りの娘と、生まれたばかりの息子を捨てて出て行っただけの価値はあるんだろうよ。くそっ、なにが名士だ……くそったれ……子供を捨てたくせに……なにが……」

 エドセルは目を丸くしておれを見つめている。小屋の中に静寂が訪れ、ようやくおれは我に返った。自分が何を口走ったのかを理解すると同時に、ここにいるべきじゃないという感情が沸き上がってくる。おれはその気持ちのまま、表へ飛び出した。土の地面を選ぶ暇もなく、ただひたすらに走り続け、大通りの交差点に出たところで息が切れた。エドセルはおれを追ってこなかった。




 ───最悪だ。たいがいの馬鹿なことをやってきた自信はあるが、これはその上位、ことによったらトップワンに輝くかもしれない大失敗。愚かさを煮詰めて型で抜いたかのようなパーフェクトな失態だ。

 エドセルがおれたちを捨てて出て行ったのは事実だ。それによってママが苦労したことも本当のこと。法的に見れば、おれには確かに怒る権利はあるだろう。しかし、だとしても、ああした形で彼に悪態をつくべきじゃなかった。あんなひどいことを一気に面と向かって言うなんて、自分でも自分が信じられない。息子が父親に文句を言う場面というのは、テレビドラマでよく見かけるが、おれの場合はそれとは違う。エドセルとおれは初対面だ。いくら血のつながりがあるといっても、これまでのことを思えば、アカの他人も同然。罵倒するならするで、もっと時間をかけるとか。少なくともあと半年後くらいに予定を伸ばすとか、配慮があってしかるべきだ。

 あのときのエドセルの顔。呆然というか、唖然というか、とても口では言い表せないような表情をしていた。おれとよく似た顔のエドセル。今後おれは鏡を見るたび、良心の呵責に苛まれるのか。

 宿のベッドに横たわり、咲き乱れるポピーをぼんやりと見つめる。室内を暖めるボイラーの音がやけに耳につき、考えは一向にまとまらない。トントンとドアをノックする音。おれは横になったまま、返事をする。

「ディーン、入っていい?」

 それはジェイクの声だった。ドアを開けると彼は「これも貸してあげる」と、漫画雑誌を数冊を差し出した。

「スパイダーマンは? おもしろかった?」

「ああ、ごめん。まだ途中なんだ」

「これもかっこいいよ。シルバー・サーファーとキャプテン・アメリカ」

「懐かしいな、シルバー・サーファーはおれも好きだ」

「一緒に読もうよ」

「うーん、今はどうかな……」

「だめ?」

「ちょっとひとりでいたい」

「いつもひとりでいたいんだね?」

 ジェイクのコメントは素直なもので、おれは思わず笑ってしまった。それはおれの性質を的確に言い表している。何か落ち込むようなことがあった場合、おれはすぐひとりになりたがる。ひとりで公園に行ったり、部屋に籠ったり。調子のいいときは人と居ることができるが、そうでないときは今みたいに“ちょっとひとりでいたい”と言って、自分のテリトリーを守ろうとするのだ。

「ディーン、元気ないね。おなか痛いの?」

「おなかは平気だ。強いて言えば心臓(ハート)が痛い」

「ハート?」

「そうだ」

「なんで? 誰かに意地悪されたの?」

 意地悪はおれだ。エドセルにひどいことを言ってしまった。

「ほいくえんにも意地悪な子いるよ。でもぼくは気にしないんだ」

 おれが黙っていると、ジェイクは「ひとりでいたい…?」と聞いてきた。それは気を遣った言い方で、おれはあわてて「いや、いいよ」と言う。「ここにいてくれて構わない」そう言うと、ジェイクはにっこり笑った。

 ったく。おれは何なんだ。子供相手に“テリトリーを守る”でもないだろう。

 おれたちはベッドのキルトに並んで腰をおろした。スニッカーズのチョコバーを半分ずつシェアし、一冊の漫画をふたりで読む。てっきり『漫画を読んで』と言われるものと思っていたが、ジェイクは登場人物の台詞をほとんど暗記していて、おれが読んで聞かせてやるべきところは一カ所もなかった。

 一冊読み終わり、「ハートはよくなった?」と、ジェイク。

「ああ、おかげでずいぶん楽になったよ」

「意地悪とかされても、漫画を読むとよくなるよ」

「いや……別に意地悪されたわけじゃないんだ。むしろ悪いのはおれの方でさ。相手に“ごめんね”って言えなくって落ち込んでる」

「ケンカしたんだね? 誰と?」

「それは……」

 おれはこれまでの顛末をジェイクに話して聞かせた。おれのパパが生きていたこと。それを知ってここに会いに来たこと。うまく会えたものの最終的に意地悪を言ってしまったことなどを、なるべく分かり易い言葉で説明する。

 ジェイクは納得したように頷き、「それって“プロフェッサーX”だね」と言う。

「なんだって?」

「Xメンに出てくる教授の名前だよ。Xメンのお父さんみたいな人」

「プロフェッサーX……。ああ、覚えてるよ。頭がつるつるで車椅子のテレパスだ」

「Xメンのプロフェッサー教授は戦って死んだんだけど、ほんとうは死んでなかったんだ。でもXメンのみんなは死んだと思い込まされてたんだ」

「思い込まされてたって、誰に?」

「プロフェッサーX」

「本人にか」

「そう」

「それで? 生きてるのがわかって、Xメンのみんなはどうしたんだ?」

「喜んだよ」

「それから?」

「それからまたみんなで活躍するの」

「それだけ?」

「うん」

「そうか……でもXメンのみんなは腹が立たなかったのかな」

「どうして?」

「だってみんなは騙されてたんだろ。教授が死んだものだと思わされてた」

 ジェイクはキョトンとしている。おれの言葉の意味がわからなかったのかもしれない。

「だからその……騙されてたって気付いたら、頭にきたりするだろ?」

「プロフェッサーXは、Xメンの仲間なんだ」

「ああ、そうだ。でも……」

「死んだと思った仲間が生きてたら、ふつう嬉しいんじゃないの?」

 死んだと聞かされていた男が生きていた。それが喜ばしいことだとは、四歳の子供でも理解できる。生きてるのがわかって、ふたたびみんなで大活躍。しかしおれに関してはそうはならなかった。おれはXメンじゃない。心がせまいんだ。

「ディーンのパパが生きててよかったね。ぼくのパパは“じょせつしゃ”にひかれて死んだんだよ」

 淡々と言うジェイク。ほんとに彼はタフガイだ。事実を受け入れ、その運命に不服を述べるでもなく、あまつさえおれを励ましている。

 バットマンの両親はジョーカーに殺され、スパイダーマンは父親代わりのベン叔父さんを失った。スーパーマンに至っては惑星の遺児だ。ヒーローは常に苦難に打ち勝つが、それは“ヒーローだから”というわけではない。苦難がそこにあり、それに打ち勝つことによって、彼らはヒーローたり得る力を持つ。スパイダーマンこと、ピーター・パーカーは最初はヒーローではなかった。私欲のためにパワーを使い、『自分とは関係のないことだ』と、強盗を見逃すような奴だった。しかしその後、生き方を変え、あとは誰もが知ってる通りの大活躍。〈あなたの親愛なる隣人〉は、今日もマンハッタンの空を忙しく飛び回っている。

「ジェイク? どこなの?」

 階下からエリスの声がした。おれはジェイクの口の周りを拭いてやり、夕食前にスニッカーズを平らげた証拠を隠滅する。

「話を聞いてくれてありがとう」と感謝を述べると、ジェイクは「いつでも呼んで」と、クールに言った。

 スーパーヒーローは市民の味方。それが善き市民であれば、彼らはいつでもかけつけてくれるに違いない。




 今日の石切り場のBGMは懐メロだ。ナット・キング・コールが〈夢見る頃を過ぎても〉を歌っている。

『♪夢見る頃を過ぎても、きみのことは忘れない。夢見る頃を過ぎても、きみはぼくの心のなかにいる。だからキスしておくれ、そして別れよう。夢見る頃を過ぎても、きみのことは忘れない……』

 スウィンギーなナットコールのリズム。おれが知っているのはリンダ・ロンシュタットのカヴァーバージョンだが、今かかっているのも悪くない。“ビロード・ ヴォイス”と謳われた、素晴らしいキングの声に耳を傾けつつ、おれはコーヒーに砂糖を入れる。足元にはボストンバッグ。あと数時間もしないうち、おれはこいつを担いで飛行場へ向かわなくてはならない。

 エドセルの店はここから歩いて5分。謝りに行くなら今しかない。わかっちゃいるが、おれはまだここに座り、オールドスタンダードを聴いている。こういうとき尻が重いのがおれの悪いところだ。わかっちゃいるが、それでもやっぱり動けないでここにいる。

 次にかかったナンバーは〈ゆりかごの猫〉。ハリー・チェイピンの曲とラジオのDJは紹介したが、おれが知ってるのはアグリー・キッド・ジョーのバージョンだ。ここにきてオリジナル版を初めて耳にした。このままいたら懐メロ博士になれそうだが、おれに残された時間はそう長くない。

 昨日、自分がエドセルに言った台詞を思い返す。一字一句覚えているわけではないが、正体を明かした記憶はない。親子である確たる証拠になるようなことは言わなかったはずで、もしかしたらエドセルはおれが何を言っていたか、わからなかったかもしれない。気の触れたニューヨーカーが、わけのわからないことをベラベラと───。あのときの彼の表情は、そういった意味をもって唖然としていたのかもしれない。しかし、そうだとしても昨日の非礼については謝った方がいい。なんといってもこのまま帰るのは後味が悪い。

 考えても仕方のないことを考えていると、誰かがおれの肩を叩いた。

「やあ、ニューヨーカーさん」

 立っていたのは野球帽の男。五日前、おれをエドセルと間違えたボブだ。先日見かけたのとは、別の友人を連れている。

「もう帰るのか?」と、おれの装備を見てボブ。

「ええ、今夜の飛行機で」

「そうか、この町はどうだった?」

「美しいですね」

「退屈なところだと思ったろう?」

「それは……退屈するほどの滞在期間ではなかったですからね」

「だったら今度またゆっくり来るといい。夏がいいぞ。釣りとかゴルフとか。みんな夏をめがけてやってくるんだ。その季節ならもっと楽しめただろう。兄さん、ちょっと間が悪かったな」

 確かにそうだ。今はアラスカの観光シーズンとは言い難い。空はどんより、悪くて吹雪。死んだはずの父親と対面し、そのうえ気まずい想い出ができた。“今度またゆっくり”というのは二度とないだろう。おれは間が悪かった。ここに来るべきじゃなかったんだ。

 殊勝に反省していると、「よう、エドセル。昼飯か?」と、ボブが言った。

 “エドセル”というのが、別な誰かのことであればいいと思いながら、おれは顔をあげ、店の入口に視線を向けた。そこには黒いカウボーイハットの“エドセル”。昨日おれが罵倒した相手と同じ顔だ。

 彼は席にもつかず、ただじっとおれを見つめている。おれも彼に言うべき言葉はない。あるのかもしれないが、喉から何もせり出てくる気配はなかった。

 おれたちの無言に構わず、ボブは陽気に声を張り上げる。

「あっ、そうだ! ほらほら! そっくりさん登場! なっ、見ろよジョージ。おれが言った通り。このふたり双子みたいだろう?」

「ほんとだ。ずいぶん似てるな」

「“他人の空似”ってやつだよ。世の中には不思議なこともあるもんだよなぁ」ボブは腕組みをし、感慨深げに頷いた。

「馬鹿が」と、カウンターの向こうからマスター。「こんなに似てる他人がいるか」。グラスを磨きながらぼそりとつぶやく。

「そいつはどういう意味だ?」とジョージが訊いた。マスターは黙ってグラスを磨き、ほんの一瞬、ジロリとおれを睨みつける。

 エドセルはテーブル席の方へと歩いていった。どうやらカウンター席に用はないらしい。

 彼が辿りついた先、そこには年配の夫婦が席についていた。

「このテーブル、もう食事は済んだかな?」そうエドセルが聞くと、「あら、ええ。どうぞ、座って」と、女性が答えた。「わたしたちはもう行くから」と、腰を浮かしかかると、エドセルは片手を上げ、それを制止。そのまま無言でテーブルクロスの端をつかむと、一気にそれを引っ張った。すべては一瞬のことだった。テーブルは琥珀色のニスを塗った顔を現し、その上には汚れた食器が乗っている。ギンガムチェックのテーブルクロスだけがエドセルの手にあり、彼はそれを持っておれの方を向いた。

 自分のテーブルに何が起きたのかを理解した女性は「すごいわ!」と手を叩き始めた。それを塩に他の客たちも歓声を上げる。

「何だ今のは!? 一体どうやった、エドセル!」

「やるじゃねぇか!」

「そんな特技があったとはな!」

「もう一度こっちでもやってみせろよ!」

 エドセルは歓声に応えることなく、黙ってこちらを見つめている。

 そのとき、ひとりのイヌイットの若者が店に入ってきてこう言った。

「わあ、これは何ですか? 今日はパーティとか?」

 目をぱちくりさせて店内を見、それからマスターに「ディーン・ケリーさんはここに?」と、訊く。

「きみは?」と、マスター。

「おれはタクシーの運転手です。ここから空港まで、ディーン・ケリーさんを送り届ける手配になっているもんで。1時にこの店に迎えに来てくれとのことでしたが……」

「ディーン・ケリーなら彼だ」おれを指差すマスター。

 おれはボストンバッグを肩にかけ、コーヒーの代金をカウンターに置いた。マスターはそれを見もせず、「次は夏に来るといい」と、ぶっきらぼうに言う。

「アラスカはスポーツフィッシングのメッカだ。ニューヨークじゃサーモンを釣る機会などないだろう?」

「ええ、でもどうかな……おれ、釣りはしないんです」

「あそこにいるエドセルに教えてもらえばいい。彼は釣りの名人だ」

 両手を身体の横にたらし、テーブルクロスを片手に持ったままのエドセル。おれと同じ身長であるにも関わらず、それは何だか小さく見えた。

 おれはエドセルに視線を向けたまま、「どうかな……」と、マスターに再度答える。

「荷物はこれだけですか?」と、イヌイットの若者。おれは「そうだ」と言って、ボストンバッグを運ぶ彼の後についていく。

 外に出ると、空は曇り。湿った雲が青空をすっかり覆い隠していた。

「下が凍ってます。滑らないように気をつけて」

 運転手がおれにそうアドバイスする。

 おれはコンクリートをさけて歩く。ここで学んだ生活の知恵だ。




 休暇から戻り、母に電話をかける。エドセルに会ってきたことを告げると、ママは「あの人どんなだった? ハゲてなかった?」と、元夫の頭髪状況を訊いてきた。

 ハゲても太ってもなかったとおれが言うと、短く「そっ」とだけ発し、それから「こないだの電話だけど」と、切り出す。「あのときは感情的になって、あなたに嫌な言い方をしちゃったわよね」

 “嫌な言い方をしてごめんなさい”とは言わない。謝り下手なのはおれも同じだ。

「あのときのあなたったら、やたら彼のことを気にかけるんですもの。わたし、それを聞いてとても腹が立ってしまったの」

「腹が立った? どうして?」

「だって……あなたを育てたのはわたしなのよ。わたしひとりっきりで育てた。すごく生活が苦しいときもあったわ。それでもわたしは頑張った。命にかえてもいいほど、あなたたちを愛しているんだもの。それなのに、父親が生きているって知ったとたん、あなたったら“会いたい”だなんて……」

 ママは受話器越しにため息をついた。

「どれだけ苦労してわたしがあんたたちを育てたか……。あんたを生んだときもわたしはひとりだった。ひとりで病院に電話して、ひとりで痛みに耐えた。着替えを入れたカバンも自分で運んだの。陣痛が始まっていたっていうのにね。破水したあとに自分で同意書にサインして、分娩室まで歩いて……そしてあんたが生まれた……」

 もう一度ため息を、今度はもっとゆっくりとつく。こんな話は初めて聞いた。おれの母親はいつもしっかりしていたし、決して人に弱みを見せたりはしない。いつもキツイ冗談を言っては、楽しそうに笑っていた。それがミリアム・ケリーという人だ。

「あのときわたしはこう思ったの。『あの人はあんたを捨てたのよ? なにが今さら“父親”よ! ママだけじゃ不十分だっていうの?!』……わたしはパパに嫉妬したんだわ。息子をとられそうな気持ちになったのよ。馬鹿みたいだわね」

 馬鹿みたいだとは思わない。むしろママの言っていることはよく理解できる。それはおれがあの町で感じたのと、まったく同じ感情だったから。

 エドセルは皆に愛情深く接していたが、おれにはそれが面白くなかった。おれは町の人たちに嫉妬したのだ。おれのかわりに彼からの愛情を受け取っている人たちに。

 ママは鼻をすすり、「で? あの人、本当にハゲてなかったって?」と、声のトーンを明るくした。

「ハゲどころか、けっこうなハンサムだったね。おれに似て。あっちでうまくやってたよ。ガールフレンドはいないみたい」

「そんなこと聞いてないわよ」

「そうか、ごめん」

 ママは女性で、エドセルのことを忘れたわけではない。おれもまた“父親”のことは忘れたことがなかった。会ったことはなかったが、自分が細胞分裂によって生じたのでないことはわかっている。

 スパイダーマンのアイデンティティは“スパイダーマン”であること。それと同時に“普通の男”でもあるのが最大の特徴。おれも“普通の男”で、もうひとつのアイデンティティは“ディーン・ケリー”であるということ。死んでいようと、離婚していようと、おれという人間が、ミリアムとエドセルの愛の副産物であることには変わりない。愛が色あせても記憶は残る。ましてや“存在”を消すことは不可能だ。おれはここにいて、エドセルはアラスカにいる。死んだと思った人が生きていた。それが喜びであることは間違いない。




「誰もが憧れる温暖なマイアミに住んでるってのに、何が悲しくて十二月のアラスカに行かなきゃならないのかしら」

 ママはブツブツと文句を言いながら、ルイ・ヴィトンの旅行バッグをバゲッジに預けた。

 離婚にはお金と時間がかかるとママは思い込んでいたようだが、現在はもっと安く、簡単にそれはできる。「インターネットで必要書類をそろえてあげようか」とおれが言うと、「まだいいわ」とママは答えた。

「先に言っておくけど、十二月のアラスカには何も期待しない方がいいよ。オンシーズンは夏だってさ。その頃になれば釣りとかゴルフとかできるらしい」

「わたしは釣りもゴルフも好きじゃないわ」

「おれはやってみようかな。いままでいろんなスポーツをしたけど、釣りとゴルフはまだだから」

「好きになさい」そう言ってアンカレッジ行きの飛行機に乗り込む。

 釣りとゴルフは大人の男にふさわしい趣味だ。アラスカのシーズンは夏に決まっている。あと半年もすればまた休みがとれるだろう。

 北へ向かうボーイングを見送りながら、おれは次の休暇のことを考えていた。


End.

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