第10話:スーパーモデル体験!?(Vogue)

「誰か有名な日本人の名前を挙げろ」と言われたら、みんなは誰を思い浮かべる?

 レノンの未亡人、ヨーコ・オノ。マリナーズの外野手、イチロー。ドラマ『ヒーローズ』のマシ・オカ。トライベッカにあるレストランのオーナー、ノブ(フルネームは知らない)。これに加え、おれは服飾デザイナーの名前も何人か挙げることができる。

 日本人がデザインするアートは独特の雰囲気があり、その発想の特異性と芸術性は、おれのクローゼットにまで及ぶほど。アメリカ人には思いつかないフォルムと繊細な色合い。今着ているジャケットはショウ・タニタの作品で、これはソーホーで買ったもの。ついさきほど、通りの向こうに彼のショップを発見し「こんなところにも店舗があるんだな」と思ったのだが、よく考えればそれは当たり前。ここは日本で、ショウジ・タニタは日本人なのだから。




 ここは東京のショッピングストリート。ファッション・クレイジーが集う街であることは、立ち並ぶブランドショップを見れば一目瞭然。おなじみのロゴがずらりと揃い、異国にいるということを感じさせない佇まい。GAPとスタバとマクドナルド。歩いて家まで帰れそうだ。

 こんな風にのんびり街を散策しているのは、昨日でおれの仕事が終わったから。一日だけの現地休暇、明日は帰国の運びとなるこの日、ボーイフレンドのポールは仕事に従事している。彼が日本に招かれたのは、おれの好きな日本人デザイナーのひとり、ショウ・タニタから仕事を依頼されたため。かつて日本に住んでいたポールは、何度か彼の仕事を引き受けたという。本日行われるファッションショーで、ヘアメイクを担当するポール。その肩書きは“エグゼクティブ・ヘアメークアップアーティスト”。素晴らしい響きに、おれが感嘆すると、ポールは「そんなの適当につけただけだよ」と言う。

「タニタさんが面白がってつけてるだけ。“エグゼクティブ・アシスタント”とか“スーパー・フィッター”とか。彼はそういう人なんだ」

 ポールはそう謙遜するが、肩書きは肩書き。うちの社内でも“営業課のレーザービーム”とか“企画部のパトリオットミサイル”とかがいるが、そういうのとはワケがちがう。肩書きはアダ名以上に意味のあるもので、“市長”ってタスキと同じくらいクールな威力を放っている。

「もし興味があったら」と、ポールがくれたファッションショーの招待状。ショー自体に興味はないが、恋人が手がける仕事であれば見てみたい。こんな機会でもなきゃ、足を運ぶこともないイベントに違いない。

 大通りの裏手、小さいながらも個性的なショップが立ち並んでいるこのエリアは、マンハッタンに置き換えるとノリータ地区といった雰囲気だ。しばらく辺りを散策し(誓って迷っていたわけじゃないぜ。“散策”だ。)ようやく発見したのは、タイル張りのこじんまりした建物。ここで間違いないだろうかと、地図を確認していると、突然「ちょっと!」という声が辺りに響き渡った。

 反射的に声のした方──頭上を見上げると、テラスから身を乗り出すようにして、ひとりの男性がこちらを見ていた。

「ちょっと! 何してんの! 早く楽屋に来なさい!」

 え? これはおれに叫ばれてる言葉なんだろうか? 辺りに人は居ず、該当する人物は他に見あたらないが……?

「なにポケーっとしてんの! あなたよ! あなた!」

 決定。彼はおれに話しかけてる。英語で話しかけられている時点で、おれへの呼びかけと理解してもよかった。でもどうして? 明らかに彼は知り合いじゃないんだが。

「いそいで! ショーの開始まで間もないんだから!」

 よくわからないが急がなくてはならないらしい。おれは建物に飛び込み、勘を頼りに楽屋を見つけ出す。

 モデルとスタッフでごったがえしていたが、すぐにポールを見つけることができた。

「あれっ、ディーン? 何でここに?」

 おれを見、不思議そうな顔をするポール。知り合いじゃない奴に『早く来なさい』と言われ、知り合いからは『何でここに?』と訊ねられる。おれの作法に何か間違いがあったのだろうか。

「よくここに入れたね? しかもこんなに早く来るなんて」

「早く来なさいって言われたからな。さっき」

「さっき? 誰に?」

「さあ、誰かな。知らない人だ。シマのシャツを着たヒゲの……」と、説明しかけたところで、その人物が登場した。

「ああ、やっと来たのね。待ってたわ」

 シマのシャツを着たヒゲの男。東洋人だが英語は上手い。そしてどうやら、おれを待っていたらしい。

「すぐにフィッターに調整してもらって頂戴。あそこにいる彼がそうだから」

 ぽんぽんとおれの肩を叩く彼。どこかで見たような顔だが、やっぱりおれの知人ではない。

 去りかけた彼を、ポールが慌て引き止める。

「あの、タニタさん。彼は違うんです」

「ちがう?」タニタさんと呼ばれた男は振り向いた。

「彼はモデルじゃなくて、ぼくのボーイフレンドなんです。今日は一般客で来てるだけで」

 タニタさん。そうか、これが“ショウ・タニタ”。服は持ってるが、デザイナーの顔までは覚えていなかった。

 タニタさんは両手で頬を押さえ「まー!」と、すっとんきょうな声を出す。

「あらあら、やだわ。あたしったら、てっきり……すごい勘違い!」

 ゲイの仕草は万国共通。人種や言語が何であれ、仕草によって誰が“そう”で誰が“そうじゃないか”の見分けはつく。

「それじゃあ、まだ本物のモデルは来てないってわけね。せっかく事態が進展したかと思ったのに」そう言い捨てて、彼はブランド服と裸同然のモデル(男だ。残念)の間に消えていった。

「……なんだったんだ? 今のは?」

「きみはモデルと間違えられたんだよ。来るはずのモデル。どういうわけか時間になっても現れなくってね。それでちょっと現場が混乱してる。ごめんね、気にしないで」

「時間になっても現れない? どうして?」

「わからない。連絡がないんだ」

「事故かな?」

「そうじゃないといいけど」

「おれ、何か手伝おうか?」

「ありがと。でも大丈夫。まだ始まらないから、どこかでお茶でもしてきたら? このあたり、いいカフェがいっぱいあるし」

 涼しい顔で周辺情報を述べるポール。おれが大変なときに助けの手を差し伸べてくれた彼に対し、何かしてやりたいという気持ちを持つのは当然のこと。しかし彼は少しもパニックに陥っておらず、またおれの助けも必要としていない。なんだかそれって残念だ。おれだってパートナーの役に立ちたいし、ここで恋人の窮地を救えば、ドラマ的には完璧な流れ。『ああ、ディーン。きみってほんとに頼りになる(はぁと)』……なんて、馬鹿な冗談を言ってる場合じゃない。ポールが困り果てていないのはもちろんいいことだ。

 このままここにいて楽屋裏を眺めていたい気もしたが、それはやっぱり邪魔というものだろう。開演までにはまだ時間がある。ポールが勧める通り、どこかカフェで一服してきたほうがよさそうだ。

 楽屋を出ようとしたとき、「ちょっと待って」とポールが声をかけてきた。何だ? キスの忘れ物か?

 おれが“忘れ物”を頬に着地させることをしなかったのは、ポールがタニタさんを伴っていたから。

「さっきは怒鳴りつけてごめんなさい」とタニタ氏。「こっちも緊急事態だったもんだから」

「いえ、お気になさらず」モデルと間違えられるのは日常茶飯事ですから。

「それでねぇ、わたし考えたの。頼みがあるの。このままモデルが来なかったら、あなた、代わりを務めてくれないかしら?」

 意味を把握しきれず、きょとんとしていると、彼は続けて言った。

「だからね、ショーに出て欲しいの。モデルとして」

「誰が?」

「あなた」

「無理です」

「簡単よ」

「いえ、簡単とかいう話でなく」

「お願い。わたしたち本当に困っているの。人助けと思って」

 神に祈りをささげるかのように、両手を胸の前で組む。これが10才の美少女であれば、ほだされたかもしれないが、彼のビジュアルがおれに冷静さを失わせることをさせなかった。

「他のことでよければ何かお手伝いしましょう」

「他のことは足りてるわ」

 どっちもかなり頑固だ。おれ陣営のポールはと見ると、ただ黙って話を聞いているだけ。

「最初にあなたを見たとき、モデルと間違えたのは、あなたがあまりにも服のイメージと合っていたからなの。まさにわたしが指定した人物がそこにいた。これはそういうことなのよ」

 そういうことって、どういうことだ。

「モデルが不在で窮地に陥ったわたしたちを助けるために、あなたはカミサマから派遣されたのね。まさに救世主! あなたは天使よ、ディーン!」

 どんなに持ち上げられたところで、嫌なものは嫌だ。

「ステージの中央まで歩いて行って、それで戻ってくるだけ。大丈夫。簡単よ。ね、ありがとう」

 “ありがとう”って何だ。こっちは引き受けると言ってない。

「まってくれ! そんなの困る!」と叫んだときに、彼は居ず。おれはポールに訴える。「冗談じゃない。困るよ。ポール、彼になんとか言ってくれ」

「心配することないよ」とポール。てっきりタニタさんに提訴してくれるのかと思いきや、「これは小規模なキャットショーだから」と続けて言う。「別にテレビ局が来てるわけでもないし、スタッフはみんな優秀だもの。大丈夫、そんなに心配しないで」

「ポール、きみは……もしかしておれの味方じゃないのか?」

「ごめんねディーン、ぼくは仕事で来ているんだ。なにがベストか考えた場合、彼の指示が正しいと思う」

 困ったように微笑む恋人。これで唯一の援軍を失った。

「これはローマンの面白パーティじゃない。ステージに立つなんて絶対に無理だ」

「きみはイザとなったら度胸ある方だと思うな」

「本物のモデルは何してるんだ? テロにでも巻き込まれてるっていうのか?」

「ね、ディーン。どうしても嫌だっていうなら無理強いはしないよ。でも考えてみて。これってそんなに難しいことじゃないよ」

 “これってそんなに難しいことじゃない”。難しいことじゃないのにパニックに陥って喚いている男。ポールの窮地を救うでもなく、ただ自分の保身を考えている。無理強いはしないとまで気を遣われ、「じゃ、おれは外のカフェにいるから」……なんて言えるわけがない!

「本当に難しいことじゃない?」

「難しいことだったらきみに頼まないよ」

 ポールの表情はいつも通り。“難しいことを頼んでいる”という感じには見えない。ここまで彼が言うんだ。だったらおれはやれるだろう。ポールは信頼に足る男。それは今までの経験からわかっていることだ。

「オーケーわかった、やるよ。でもほら、あれは何て言ったっけ……キャットウォーク? 特別な歩き方とかあるんだろう?」

「最近はおおげさな歩き方はあまりしないね。ただ無愛想に歩くのが主流になってきてる。きみ、得意だろ?」

「得意って……からかうなよ……」

「ごめん。ちょっとはリラックスするかと思って。あ、オリヴァー」ポールは背の高い男に声をかけた。

「オリヴァー、彼にランウェイでの立ち振る舞いを教えてあげてくれるかな」

 立ち振る舞い? そらみろ、やっぱりなんかあるんじゃないか。まったく何の因果でこんなことに。確かにさっきは『何か手伝おうか?』と言ったが、それは簡単な開場準備とか、もしくはジャマにならないようひっそりしてるとか。そういう形で役に立ちたかった。

 オリヴァーに連れ出され、ステージの袖に立つ。自己紹介をしようとしたところ、「きみは臨時のモデルでディーン。さっき聞いたよ」と、こちらを見ずにクールにつぶやいた。氷の彫刻のような面差しのオリヴァー。彼こそがモデルだ。仏頂面がよく似合ってる。

「いや、おれはプロのモデルじゃないんだ。それどころかまったくのシロウトで」

「うん、それも聞いた」声音はぶっきらぼう。笑顔はゼロ。スマイルを必要としない職業により、顔の筋肉が活動を停止したのかもしれない。

「ただステージを歩くだけじゃ駄目なんだな?」

「別に難しくはないよ。ちょっとしたコツみたいのがあるだけだから」

 その歩き方はダンスと似ていた。イチ、ニ、サンで160度ターン。テンポは2ビート。肩甲骨は内側によせる。確かに難しくはないが、問題はステージでこれができるかということだ。

 最後にオリヴァーは「ランウェイでは絶対に笑わないこと」と、彼が日常でも守っているであろうポイントを伝授してくれた。

 客の前でスマイルを浮かべない。おれの職業とは真逆のルール。しかし今の自分には簡単なことだ。恐れと緊張で、表情筋のすべてが死んだ。

 身内が死にでもしたような表情のおれに、タニタさんが明るく声をかける。

「ねぇ、ディーン。ステージに立つのは素敵な体験よ。そんなにナーバスにならないで、エンジョイしてくれると嬉しいわ」

『エンジョイして』。この台詞、まるでローマンそっくりだ。くすりと思い出し笑いをするおれに、「ほら、笑った方がずっと素敵。ね、楽しんでちょうだい」と、嬉しそうに言う。

「笑ったらいけないんじゃ?」

「まあ、そうね。舞台の上でエヘラエヘラされるのは困るわね。だからといって心の中まで無表情でいるってのはつまらないじゃない? せっかく素敵なお洋服を着てるんですもの。あらやだ、これって自画自賛かしら?」

 ひとりでしゃべって、くるくると表情を変える。本当に彼はユニークだ。サムライの国にも“ローマン”はいた。どうやらこの国は独自の進化を遂げているらしい。

「今日のあなたは、あたしの“スペシャル・ゲストモデル”ってことで。ねえ、なんだか楽しくなってきたわ」

 彼の言葉に、“ほらね”という顔で、おれを見るポール。いや、これは普通にアダ名だろ。“エグゼクティブ・メイクアップアーティスト”ってのとは違うと思う。

「それじゃ、あたしはお客さまのお相手をしてくるから。ポールは彼氏をキレイにしてあげて頂戴ね」

 タニタさんは手をひらひら振って去っていった。もし彼がニューヨークに来ることがあれば、ぜひローマンと引き合わせたい。バットマン対スーパーマンに匹敵する好カードだ。

 ポールはおれを椅子に座らせ、首まわりにケープを巻いた。ハサミを手に「少しだけ髪を切ってもいいかな?」と聞く。

「ああ、構わない。ちょっとでも見栄えがするよう工夫してくれるのは大歓迎さ。なんたってプロのモデル集団に混ざって、肩身が狭いんだから」

「きみは他のモデルとくらべても見劣りしないよ。それになんたって“スペシャル・ゲストモデル”なんだしね。自信を持っていいと思うな」

「それは恋人の欲目だ」

「ぼくは仕事で来てるって言ったろ? これはプロの意見だよ。信じて」

 どうやら本気でそう言ってくれているらしい。プロの目か恋人の欲目かはわからないが、少なくとも彼はおれを『他のモデルとくらべても見劣りしない』と思っている。それならば、そのように振る舞うまでだ。

『ああ、ディーン。きみってほんとに頼りになる(はぁと)』というのは既に却下。じゃあこういうのはどうだ?→『ああ、ディーン。きみってほんとにカッコイイ…(はぁと)』

 ライトを浴び、さっそうとランウェイを進む、スペシャル・ゲストモデル。ショーが終われば、待っているのは、瞳に星を浮かべたエグゼクティブ・メイクアップアーティスト。

「やあ、ポール。おれはどうだった?」

「エクセレント! 完璧だ! ああ、きみがぼくの彼氏であるなんて信じられない。とても誇らしい気分だよ……」(暗転)

 よし、これだ。さっきはつい取り乱してしまったが、この局面をうまく乗り切ることができれば、おれはポールの助けになるばかりか、ちょっとカッコイイところも見せてやれる。おれがイメージしていた展開通りとは言えないが、パートナーの助けになれるという点では同じこと。ポールはおれの窮地を救い、おれもまたしかり。日本の想い出は完璧な形で幕を閉じるというわけだ。

 服を着せられ、サイズを直され、またそれを脱がされ、ふたたび着せられしているうち、段々その気になってきた。おれは他のモデルとくらべても見劣りしない? おれは世界的に有名なデザイナーから、直々に指名されるほど素敵? 窮地に遣わされた救世主? そうかもしれない。きっとそうだ。そう思おう。でないとこの局面を乗り切れる自信が生まれてこないからな!




 天は自ら助くる者を助く。これが何らかの運命だとしても、やはり努力は怠るべきではない。

 ステージ脇でターンのおさらいをしていると、二人の男性が会話しながらやってきた。ひとりは青年、もうひとりは中年。地道な努力を見られることを好まないタイプのおれは、なんとなく幕の陰に身を隠す。

「それはさっきも聞きました」と青年。

「だからロビンスさん、あなたからタニタさんに話してほしいんです」

 長身の彼はモデルのようだが、さっきの楽屋では見なかった顔だ。

「タニタさんは来客中だ。話などできない」

 ロビンスと呼ばれた男は、太り気味の体型に熊ヒゲを生やしていた。容姿から判断するに、彼はモデルではないだろう。

「そもそも代役の件はタニタさんが決めたことだ。きみには残念だが、今回は無理だ」熊ヒゲがそう言うと、モデルは「ぼくは大丈夫です」とキッパリ答える。

「誰よりも立派に努めてみせます。さっき痛み止めを飲んだら楽になりましたから。お願いです。ショーに出させてください」

 なるほど。会話の内容から察するに、彼は例の“来るはずだったモデル”。なんとかギリギリ間に合ったというわけか。せっかくヤル気になったところで残念な気もするが、やっぱりこれがベストな形。彼はショーに出ることを切望してるし、おれはそうじゃないんだから。

「お願いします」と、モデル。

「もう服のサイズも変えた後だ」と、ロビンス。

「サイズぐらい何とかなりませんか?」と、おれ。もちろん彼らに聞こえないように、こっそりとつぶやく。

 ロビンスは厳しい顔で「きみはすぐにでも病院に行くべきだ」と言った。

「もう平気です。痛み止めを……」

「痛みの問題じゃない。衆人環視のなか、一万ワットのサンガン*で照らされるんだ。もしランウェイで倒れでもしたらどうする?」(*SUNGUN=照明器具)

 一万ワットのサンガン? 衆人環視のなかで、そんなのに撃たれるってのか? なんだか怖くなってきた。

「ぼくはプロです。舞台で倒れたりなんかしません」

「すでに代役を決めてある」

「ええ、それは聞きました。なんでもシロウトだとか。そんなの無理に決まってます」

 おい、そのシロウトはここにいるぞ。確かにおれは急場の代役だが、おまえの穴を埋めてやろうと頑張ってたんじゃないか。『無理に決まってます』など一括されるのはあんまり愉快なことじゃない。

「そうまで言うなら」と、ロビンス。「タニタさんには一応、話を通しておく。ただ期待しない方がいい。きみであろうとわたしであろうと、交渉するのは難しいよ。彼は一度こうと決めたら、決定を覆すことはめったにないから」

 ロビンスよ、交渉の幸運を祈る。ああ、これで肩の荷が降りた。外にタバコでも吸いに行こうかとしたところで、異変に気付いた。ロビンスが去った後、ひとり残された若者。彼はしゃがみ込んでじっとしている。なんだ? まさかメソメソ泣いているってわけじゃないだろうな?

 そっと背後から近づくと、低いうめき声が聞こえた。彼は丸まって、両手で腹を押さえている。なんだこれは。痛み止めを飲んだんじゃなかったのか?

「あの、きみ……大丈夫か?」

 声をかけると、若者はぱっと振り向いた。誰もいないと思っていたところに呼びかけられ、驚きに目を見開いている。

「びっくりさせてごめん。何か……気分でも悪いのかと思って」

「別に」彼は短く言って立ち上がる。その身長はおれとほぼ同じ。黒髪で長身。あごにわずかなヒゲがあり、近づき難い面がまえをしている。タニタさんが間違えたのも頷けなくはないが、明らかに異なっているのは年齢だ。彼はおれより五つ以上は若いだろう。

「きみは誰?」と若者。いちいち物言いがそっけない。オリヴァーも必要最低限の単語しか使用しなかったし、これは業界のマナーなのか。このままではモデルという職種に先入観を抱きそうだ。

「おれはディーン。きみの代理で仕事を頼まれたんだ」

「そうか、きみが……」

 “きみがドシロウトのディーンか”。彼は続く言葉を飲み込んだ。そして自分の名前は名乗らない。

「きみには悪いけど、今日の舞台に立つのは予定通りぼくだ。悪く思わないでくれ」

 悪くなんて思うわけがない。それどころか間に合ってよかったと思ってる。よかったが……気になるのは、なぜ今、彼が脂汗をかいているかってことだ。

「タニタさんがきみを起用したのは、きみが単にここに居合わせただけだからだよ。彼はそういう冗談が好きなんだ」

 厳しい目つきでおれを見る。その顔色はグリーン。呼吸は浅く短い。そしてさっきまで床にうずくまってうめいていた。これらを総合するだに……彼はひどく病気だ。医者じゃなくともわかる。ステージになど立てるわけがない。

「きみは……やっぱり病院に行くべきだろ?」

「ぼくが最初にこの仕事をひきうけたんだ。ぼくはプロだ。最後までやり遂げる義務がある」

「いや、そういう話じゃなくて……」

「これはぼくの仕事だ。ぼくがどんなに努力してここまできたか。たまたま運良く居合わせたきみにわかるわけがない」

 もちろんそんなことわかるわけはない。彼の言う通りだ。しかしまったく別のことでおれにもわかることがある。“客を相手にするイベント”について、おれは彼よりも知っていることがあるのだ。

「きみ、名前は?」

「ニール……」

 誰かれ構わず名前を教えちゃいけないというルールに乗っ取ってでもいるのか、彼は渋々といった感じでファーストネームを自白した。

「ニール、きみの体調は最悪だ。そうだろう?」

 睨むようにおれを見るニール。いや、“ように”じゃないな。おれはニールに睨まれている。

「きみは病院に行くべきだ」

「仕事が終わったら行くよ。ダンサーもオリンピック選手も、体調不良くらい構ってない。もちろんモデルもだ。こんなこと言ってもきみにはわからないだろうけど」

「きみがステージで倒れでもしたら、みんなに迷惑がかかるんだ」

「倒れたりなんか。死んでもするもんか」

「死んだら倒れる。だいたいの場合」

「はぁ? 何が言いたいの?」

「たとえきみがプロフェッショナルであっても、死んだら倒れるってことさ。フランク・シナトラだって、舞台で死んだら間違いなく倒れる。“倒れること”ってのは、きみのコントロール下にあるものじゃない」

 おれはニールに一歩つめ寄った。彼が後ろに退かないので、おれたちの間には距離がなくなった。

「おれはモデルじゃない」

「わかってるよ」

「仕事では接客業をしてる。そこで第一に考えるのは、自分のことじゃないんだ。まず客のことを考え、次に企画全体のことを考える。自分がどうしたいかってのは、いちばん後だ。きみがやろうとしていることは、確実な結果を上げられるものか? そうじゃないだろ。“リスクを犯してでも”という考えもあるが、それはきみが決めることじゃない。ニール、きみのしていることはプロとしての頑張りじゃないよ。ただのエゴだ」

 ニールは黙っている。黙って汗をかいている。

「具合が悪いなら、しばらくそこに座って休んでいろ。そして少し落ち着いたら病院に行って検査を受けるんだ。きみはまだ若い。自分のキャリアについて考えるのはその後でも遅くないはずだ」

 ニールは黙っている。おれも黙っている。互いの間に沈黙が流れた。当然反論してくるだろうと思ったが、予想に反し、彼は口を閉じたままだった。初対面の人間に説教され、面食らっているのかもしれない。それにしても英語が通じる相手で本当によかった。(ところでこの仕事、日本人はどこにいるんだろう?)




「あらっ、どーしたの? 何か顔が変わったみたい」

 おれの変化に真っ先に気付いたのはタニタさんだった。さすがは世界のアーティスト。仕草はゲイだが、サムライより聡い。

「ちょっとスイッチが入ったんです」

「さっきまではオフだったってわけね」

「今なら何でも着こなせる気がするな。ヒラヒラでもスケスケでも、どんと来いって感じで」

「意欲のあるところで悪いんだけどスケスケじゃないの、ごめんなさい。でもその意気でね。顔はクールに、心はホットに、よ」

 おれの顔がクールなのは役割に真剣だから。心がホットなのは信念に燃えているから。あれだけのタンカを切った後だ。今や完全に気合が入った。

 おれだってニールに同情する気持ちがないわけじゃない。こんな見ず知らずの男に、仕事を横取りされるんだ。彼が誇りを持ってやっている仕事。どうしても立ちたいと思っている舞台の代役だ。

 これはもう“やりたい”とか“やりたくない”とかいうレベルの話じゃない。ポールにいい格好を見せるとか、おれがみっともなくないようにとか、そんなことはどうでもいい。さっき自分で言ったじゃないか。エゴは二の次。今できるベストを考え、それを実行する。ショーを見にきている客は、モデルの中にシロウトが混ざっているなど知る由もない。急場をしのぐ代役だとか、初舞台にビビってアタフタしてるとか。そんな裏の事情など、何の言い訳にもなりゃしない。これはニールのためでもなく、ポールのためでもなく、タニタさんのためでもなく、ましてやおれ自身のためでもない。素晴らしい舞台を期待して、ここに来ている人々のために───。今宵、おれは生まれて初めて、一万ワットのサンガンに照らされた。





 長く続く拍手に応え、舞台ではモデルたちとデザイナーが客席に向かっておじぎをしている。おれはそこには混ざっておらず、楽屋のパイプ椅子にくずれ落ち、死んだ魚のようにぐったりとなっていた。

「おれ……変じゃなかったか?」

 そっと肩に置かれた手に、目も開けず、そう訪ねる。

「大丈夫だよ」と、優しい手の持ち主。それはもちろんおれの恋人。

「本当にそう思うか?」

「もちろん。今日初めてモデルになったとはとても思えないくらい」

「そう見えたか? 本当に?」

「自分ではどう感じるの?」

「感じるも何も、さっぱり覚えてない。数分前のことだってのに。健忘症かな?」

 ポールはくすくすと笑い「素敵だったよ」と、おれの肩をそっとさする。

「本当、最高。エクセレント。きみがぼくの彼氏であるなんて信じられないくらい。とても誇らしい気分だな」

 …………嘘くさい。彼の台詞はおれが予測した通りだが、何かどこかが想像と違っている。

「ねえ、ディーン。きみってほんとに頼りになるな」

 運動会でビリの子を励ますような口調。

「きみはぼくたちの窮地を助けてくれた。なんたってスペシャル・ゲストモデルだしね。ぼくにとってもきみと一緒に仕事ができたこと、日本でのいい想い出になったよ」

 わかった。おれが悪かった。だからもうやめてくれ。はっきり言っていたたまれない。ポール、きみも早く健忘症になってくれ。

「後でビデオをもらえるって」

「何が?」

「このショーの。帰ったらローマンに見せてあげたいな。彼はタニタブランドのファンだからね……あれ? ディーン? どうしたの?」

 かすかに残っていた生彩が、今、完璧に失われた。初のモデル体験は完全燃焼。完全燃焼の後は、ただ灰になるのみ。灰は灰に、塵は塵に。“スペシャル・ゲストモデル”の銘は消失せり。スーパー・モデルでない普通のおれであることに、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。




 ニューヨークに戻ってすぐ、タニタさんからメールが届いた。それによると、あのとき脂汗を流していたモデル、ニールは急性盲腸炎だったとのこと。

「しかも破裂寸前だったって。あのままいたら大変なことになってたね」

 ポールが見せてくれたメールには、ニールがタニタさんに伝えたという言葉───『キャリアのことは身体が治ってから考えることにします』と、書かれていた。

 モデルの報酬がおれの口座に振り込まれ、その金額を見て思わず仰天。とっさに転職を考えるほどの数字がそこにはあった。おれはニールからこれだけのものを奪ったのか。そりゃあ、倒れる危険性を犯してでも舞台に立ちたいと思うはず。なんだか今になって、悪いことをしたような気になってきた。

 その懸念を口にすると、ポールは「悪いことだなんてとんでもない」と、優しくフォローする。

「きみは何ひとつ間違ったことはしてないよ。ほんとにあれは素敵だったな……」

「ああ、それを言うのはやめてくれ。恥ずかしくて思い出したくもない」

「そっちじゃなくって」ポールは笑った。「きみがニールに言ったこと。立派だったよ。ほんとに素敵だと思った」

「……え? どうしてそれを?」

 するとポールは肩をすくめ、「見たんだ」と言う。「びっくりしたよ。きみを呼びに行ったら誰かと喧嘩してるんだもの」

「別に喧嘩してたわけじゃない」

「あ、そうか。ごめん。じゃ、あれは何? 話し合い?」

「話し合いっていうか……おれが一方的に彼に説教しただけだ。今になって考えると、あれはあまりにも図々しかったな。おれはあそこの関係者でもなんでもないわけだし。まるで自分の部下に言うみたいにして、ニールを諭してしまった」

「でも結果的に丸くおさまった。でしょ?」

「まあな」

「きみの言ったことが正しいってわかったから、彼は反論できなかったんだよ」

 結果的には丸くおさまった。結果よければすべてよし。そこに辿り着くまでに、いかなる苦難を受けようとも。たとえばそれは、一万ワットのスポットライトを浴びること。たとえばそれは、口論の末に恋人からの理解を得ること。

 おれが最初に空想したのは『ああ、ディーン。きみってほんとに頼りになる(はぁと)』というイメージで、その次が『ああ、ディーン。きみってほんとにカッコイイ…(はぁと)』。どちらも想像通りにはいかず、むしろあのショーのことは、早くポールの記憶から抹消したいとすら思う始末。

 おれの人生はいつも思うようにいったためしがなく、それでもどういうわけか、“結果的には”うまくいっている。

 誰もが認める女好きのディーン。それがどういうわけか男友達と暮らすようになり、あまつさえ彼を恋人に選択。かつておれが想像していた未来は、今ここにあるものと同じであるとは言い難く、それでもおれはこの状態を愛していて、“想像を絶する”この結果には満足している。

「今回の旅行はぼくにとってすごくいい想い出になったよ。きみにとってもそうだといいけど……」

 おれの髪を撫でる優しいタッチ。彼の手をとり、それにキスする。「もちろんおれも同じさ」と言って。

「いろいろなことがいい想い出になった。舞台の上でのことは覚えてないけどな」

「だからショーのビデオを見ようって言ってるのに」

「嫌だ。それだけは絶対に嫌だ」

「だって覚えてないって言うから」

「きみも忘れるんだ。いいか、おれが10カウントする間に、きみはショーのことも、そのビデオの存在も忘れる……じゅう、きゅう、はち、なな……」

 4まで数えたところで、ポールはおれの唇をふさいだ。それは彼自身の唇を用いて。なにより有効な手段に、おれは抵抗を放棄する。

 我が家のキャビネットにはキャットショーの録画DVDがある。未だ一度も上映されず、おそらくこれからも封印されたままの想い出。いつかおれたちが年をとって、過去のことが恥ずかしくないくらい健忘症が進行した頃に、それは封切られる予定だ。

 結果よければすべてよし。むしろこれ以上うまくいっている結果なんて、今のおれには想像もつかない。



End.

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