第9話:ようこそサムライの国へ(Take a Bow)

 休日の朝は遅い。夢から醒めても急いで起きる必要はなく、目を閉じたまま、ゆったりとベッドの中でまどろむ幸福。すぐ隣に人の体温を感じる。それは温かく、とても優しい。

 手を伸ばし、滑らかな皮膚に触れると「目が覚めた?」と、耳元で囁かれる。その声におれは目を開ける。目の前には見慣れた顔があった。その顔はおれを見つめ、「昨夜はとても素敵だった……」と、うっとりつぶやく。

 ベッドの中で太腿を擦り寄せてきたのは、おれのボーイフレンドではない。彼はおれの“男友達”。性的なことは一切なしの清い間柄。

 今朝が休日だということは、ぼんやりした頭でも理解できていた。そして目の前の相手が誰であるかも。しかしこの状況だけはわからない。おれは、ここで、このベッドの中で、どうしてこの男と一緒に横たわっているのか!?

 目の前の男の名は『ローマン』で始まり、『ディスティニー』で終わる。意識はクリアだ。彼の名前のスペルだって綴れるほどにハッキリしてる。しかしこの状況については、これっぽっちも理解できない。

 寝転がったまま、馬鹿みたいに顔を見続けるおれに、ローマンは優しく微笑みかける。

「なあにダーリン、おはようのキスもしてくれないつもり?」

 ダーリンって誰だ、おれか、まさかそんな、まさかそんな。おれたちはもしや……。

「そんなに固まっちゃって、どうしたの? ははん……あなた疲れてるのね? 無理もないわ、昨日は激しかったから……ところでおしりは大丈夫?」

「おし……!」

 この直後、おれの喉からほとばしった叫びを文字列で表現するのは不可能だ。強いて言えば『悲劇のデンマーク王子が、亡き王と対面したときのそれと近い』と、形容することができるかもしれない。

 絶叫と共にベッドから転がり落ちる。シーツはつるつるしていて、おれを吐き出すのは容易かった。着地したのは絨毯の上。シルクのシーツとペルシャ絨毯。どちらもおれの持ち物ではない。最悪なのはそのことではなく、自分が裸でいるってこと。

 ゆっくりとベッドから降りてくるローマン。彼もまた裸だ。裸でいることは罪ではない。もしそれが罪であるというのなら、神は人間に服を着せた状態で創造したはずだ。罪は裸ではなく、それとは別なところに存在する。

「どうしたのダーリン」

 ローマンは目の前でしゃがみ込んだ。

「こんなに震えて……」

 ゆっくりとおれににじり寄る。これは“罪”だ。

「かわいい人……」

 “罪”が口を利いている。子羊よりも無防備な状態のおれに、“罪”はそっと腕を伸ばす。その繊細な手ときたら、まるで『受胎告知』のガブリエルのよう。ああ、神よ。なぜにあなたはおれをお見捨てになったのですか。

 哀れなるかな子羊に対峙する“罪”。おもむろにおれの頬をぺちっと叩き「冗談よ」と立ち上がる。

「冗談……?」

「あったりまえ。友達の彼氏、取りゃしないわよ」

 ───ハレルヤ! おれにはまだ神の加護があった! 悪魔にこの身を売ったわけではなかったのだ!

 ベッドに腰を降ろすローマン。おれも後に続き、シーツを引っ張って下半身を隠す。

「冗談だって? あまりにもひどい。最悪だぞ」

「なに今頃クールぶってんの。さっきまで涙目になってたくせに」

「涙目にもなるさ。まったく……冗談でよかったよ。冗談じゃなかったら、冗談じゃない」

「このアタシとベッドを共にしてそんなこと言う奴、初めてお目にかかったわ」

「だとしたらみんな真実を口にする勇気がないんだな……なあ、なんだっておれたち一緒のベッドに寝てたんだ?」

 おれにとっては当然の疑問に、彼はあきれた表情をつくってみせる。

「なに言ってんの。あんたが押し掛けてきたんじゃない。こっちは呼んでもいないってのに。『家に帰りたくない〜』とか何とか、べろんべろんに酔っぱらって」

「どうして裸なんだ?」

「勝手に脱ぎ散らかして、わたしのベッドに入ったのはあなたよ。それでわたしが床に寝るって話もないでしょうから、こっちも遠慮なくさせてもらったわ」

「おれの服は?」

「ぜんぶ洗濯に出したわ。タバコとお酒でひどい匂いだったもの」

「なにか着るものを貸してくれないか?」

「さあどうしようかしら。罰として今日はずっとそのままってのも一興よね」

「……下着も脱いだって?」

「それだけはわたしが脱がしたわ、せっかくだから」

「何が“せっかくだから”なんだ!?」

「あらまあ〜、目が覚めたらうるさいこと。寝てる間はとっても愛らしかったってのに。愛らしいと言えば、そう、あなたったら、とっても素敵なモノをお持ちなのね? 特に朝が見物だったわ。思わず誘惑されかかったけど、強姦するのも可哀想だし……。せめて写真を撮るべきだったかしら? みんなに見せたらきっと大喜び……今からでも遅くないわね」

 ローマンはきらり、目を光らせた。その威力たるや、ギリシャ神話にある、髪の毛が蛇とかいう女を思い起こさせる。

「……わかった。ごめん、おれが悪かった。そうだよな、泊めてくれて本当に助かったよ」

「わかればいいのよ」言って、髪をかきあげる。朝の光を受けて輝くダークブロンド。寝起きだというのに彼は完璧に美しい。だからといって、それとベッドを共にしたいかというのはまた別の問題だが。

「ねぇ、あなた。ここに来たことも覚えてないわけ? 全然? それってちょっとヤバいわよ」

「いや……全然ってことはないけど……」

 昨夜のことはうっすらと覚えてる。この部屋に来る前までのことは何となく思い出せるし、それより数時間前のことはもう少し明確に記憶している。さらに前の出来事については、映像で回想シーンができるほどだ。

 それは遡って一ヶ月ほど前。61丁目に洒落たレストランがオープンしたことが、この事件のそもそもの発端だ。普段のディナーにはちょっと高級な店で、ポールは「なにか特別なときに入ろうよ」と提案した。

 “なにか特別なとき”。それは漠然としたもので、いつになるかはわからない。それでもポールは、その未来の予定を楽しみにしているように見えた。少なくともおれよりは“なにか特別なとき”について意識が高く、ときどきその店の話題を口にしたりしていたことをおれは覚えている。

 あるとき、おれの会社の同僚が退職することになり、グッドラック・パーティを開くことになった。選ばれた会場は61丁目のレストラン。都合おれだけが先に足を踏み入れることになってしまったわけだが、ポールは「そういう理由なら仕方ないね」と、許してくれた。

 そうは言っても、わずかばかりのショックを隠しきれない彼。軽く落ち込む彼を見て、おれもまた軽く落ち込む。こうなったら“特別なとき”なんざ待ってはいられない。次の給料日を“特別なとき”とし、一緒に食事に行こうと誘ってみた。もちろん彼は大喜び。一緒に暮らし、毎日顔を見合わせていても、デートとなれば嬉しいものだ。花束こそ買い込みはしないが、これはやっぱり特別な日。ボスの不機嫌も何のその。オフィスで鼻歌が出そうになるのを堪え、忍耐強く夜を待つ。ところがそんな日に限って、かつて世話になった上司が大切な客を伴ってオフィスに現れるというサプライズに見舞われるのが、おれの人生。しかも「待ち合せ時間が迫ってるけど、急げばぎりぎり間に合うだろうな」ってタイミングで、だ。

 話し好きの上司がおれを解放してくれたのは、約束の時間を一時間近くも過ぎた後。待ち合せ場所に到着し、謝り倒すおれに、ポールは「今日は何の日かわかってるよね?」と、念を押して訊ねた。

「ああ、もちろん。レストランで食事を……」

「そうじゃなくって、“今日って日の意味”だよ。今日はきみが“前回はごめんね”って意味を込めてセッティングした日だろ?」

「ああ……」

「これじゃ“ごめんね”の意味がない」

「ごめん」

「口ばっかりだ」ポールは頭を振って、ため息をついた。

 おれはもう一度“ごめん”と口にしかけるが、すんでのところで思いとどまる。『口ばっかり』で『“ごめんね”の意味がない』と、ほんの数秒前に叱咤されたことを思い出したからだ。

 レストランに向かう道すがら、ポールはずっとぶつぶつ文句を言っていた。その様子を見、おれは「そんなに文句があるなら、今日の食事は延期にしようか」と、提案したところ…………ポールはキレた。

「延期?! なんだよそれは!」

 怒鳴る彼に対し、冷静なおれの弁は以下の通り。

「だって……そんなに不満がある相手と一緒に食事しても楽しくないだろ? だったらもっと、お互い機嫌のいいときにした方が建設的だと思わないか?」

「なにが“建設的”だよ! 別に何も建設したくない! まったくきみって本当に何もわかってないんだな!」

 良きにつけ悪しきにつけ、ポールが興奮するのは珍しい。すっかり臍を曲げたパートナーと素敵なデートをするのはもう無理だ。おれはつとめて穏やかに「もういい、よそう」と言った。「お互い頭を冷やしてから帰った方がよさそうだ」

「“お互い頭を冷やしてから”? なに勝手に決めてんの?」

「じゃ、これから食事に行くか? もしそれがきみの望みならそうしてもいい」

「自分に非があるくせに偉そうに言うなよ!」

「おれは謝ったじゃないか!」

「謝ってない! きみは謝罪の意味を全然わかってない!」

 そういうわけでデートは決裂。ポールは帰宅し、おれはレストランにキャンセル料を払いに行った。それからなじみのバーに寄ると、そこにはローマンが居た。さきほどの件について、彼といろいろな話をしているうちに、うっかり深酒をしてしまい(得てしてこういうときは、やたらと酒が進むもんだ)、今朝になって気がついてみれば、素っ裸でシルクのシーツにくるまっているというわけ。

「あんたたち、そんなんで旅行は大丈夫なの?」と、怪訝にローマン。

 そう、おれとポールは来週に旅行を控えている。どちらも仕事での出張だが、それが運良く同じ場所という幸運に恵まれた為(まあ多少の策動はあったが)、現地休暇を組み込んでの海外旅行デートと相成ったのだ。

「大丈夫だよ」とおれは答える。

「旅行ってね、お互いのエゴがわかりやすく突出するイベントなのよ」

「おれとポールは一緒に暮らしてるんだぜ。いまさら旅行くらいで、別に。……おれのタバコは?」

「わたしの部屋は全室禁煙よ。……友達もいない外国でふたりっきり。そこで喧嘩したらもう逃げ場はないでしょ」

「ベランダで吸うよ。タバコをどこにやった?」

「あなたにとっては知らない国でも、ポールにとっては懐かしい日本よね。住んでたのはどのくらいの期間だったかしら? きっとボーイフレンドもいたでしょうに……」

「おい、さっきから何が言いたいんだ?」

「“お気をつけあそばせ”って言ってるの」

「何を?」

「あなたたち、そろそろ“ゾーン”に入りかかってる」

「“ゾーン”?」

「そっ、どの恋人たちにも一度は訪れる危機。“ラブラブカップルがハマる危険なゾーン”ってね」

「馬鹿馬鹿しい。昨日はたまたま喧嘩しただけ。それだけだ。いつもはうまくいってる。バターやチョコレートをおれたちの近くに置いておけないくらいにな。状態を局部的に見て結論づけるのはやめてくれ。なあ、おれのタバコを……」

「あんたのタバコなんか知らないわよ。昨日のうちに全部吸ってしまったんじゃなくって? タバコよりも大事な話してるのわからない?」

「ニコチン切れだ。煙がないと大事な話も頭に入らない。服を貸してくれよ。タバコを買いに行く」

「ニコチンパッチでも股間に貼って行ったらどう?」

「残念だけど、おれのが隠れるサイズはまだ発売されてないんだ」

 ローマンは鼻っ面にシワをよせ、“いーっ”という表情を作って返す。

「わかったわよ、ニコチン中毒。とっとと“癌作り棒”を買ってらっしゃい。その間に朝ゴハン作っとくから、寄り道しないで戻ってくんのよ」

 Tシャツとパーカーを貸してもらい(彼のワードローブに“Tシャツとパーカー”なんてものがあったとは驚きだ)すっかり陽の昇った街に出る。ここはセントラルパークの南。これから公園に向かう人たちとすれ違う。家族連れや恋人同士。休日に行き交う人々はカジュアルな格好で(今のおれほどではないが)どこかのんびりした印象だ。

 この光景、おれにも身に覚えがある。ポールと一緒に楽しむ休日。朝市に買い物に出たり、無料で開催される野外コンサートに立ち寄ったり。『おれたちは世界一うまくいってるカップル。他のやつらはお気の毒さま』……なんて。そんな余裕をカマし始めた途端、足下をすくわれるのがこれまでのパターンだ。

 ローマンの言わんとすること、実のところはわからなくもない。付き合いが長くなってくると、相手の気持ちよりも、自分のエゴの方が大事になってくる。それを“ゾーン”と呼ぶかはともかくとして、そういうエゴはこれまでの恋愛関係で経験済みだ。

 もしこれがローマンの言うものだとしたら、おれとポールはこの局面を乗り切らなくてはならない。恋人同士に与えられた第一の試練。それを乗り越えた後には、さらなる強固な関係性が出来上がっているはずで、おれとポールはもちろんその試験にパスできる。

 この関係は揺るぎないもの。喧嘩こそすれ、壊れる理由など見つからない。確かに昨日はちょっとひどかったが、それでもおれたちは許し合い、新しい今日を作ることができるんだ。





 雑誌をめくり、ヘッドフォンで音楽を聞く。それからアクション映画を一本、シンプソンズを二本鑑賞。合間に寝たり起きたりし、出された食事をブロイラーのように胃に叩き込む。ジョン・F・ケネディー国際空港から十二時間。そうこうするうち、おれとポールは無事、極東の地に辿り着いた。彼にとっては懐かしく、おれにとっては初めての日本。かつてこの国で働いていたことがあるポールは「すみません、本日宿を予約している者ですけど」ですらも日本語で言えるが、おれはといえば日本語どころか、この国についても無知蒙昧。そもそも日本どころか、アジアの地を踏むのも初めてという異邦人っぷりだ。

 ホテルのカフェでコーヒーを飲みつつ、おれは日本語についてポールに質問する。

「この国では“コーヒー”は何て言うんだ?」

「“コーヒー”」

「そうか、じゃ“スプーン”は?」

「“スプーン”」

 思ったより言葉は簡単みたいだ。それにつけても、頼れるパートナーがいて本当によかった。この国で誰かが『伏せろ!』と叫んでも、おれには意味がわからない。そのときはきっとポールが通訳してくれることだろう。

 ひとやすみの後は街に繰り出す。交通量と人の往来は都市部ならでは。サムライとゴジラがいないことは先刻承知だが、道行く人々が皆、東洋人であることには不思議な感覚を覚えないでもない。うちの近所でのアジア人の比率は、ざっと見たところ、10パーセント以下。マンハッタンは移民の街で、明確な“外国人”というものは存在しないが、この国は違う。英国の侵略を逃れ、数世紀にわたって独立を守っている東アジアの島国(これは機内で読んだガイドブックで得た知識)。よってアジア人の比率は、ざっと見、100パーセント。ここは異国でおれは異教徒。地下鉄に乗っているだけで、人々の視線がそこはかとなく痛い(ような気がする)。

 こっそりポールにそれを訴えると「きみがハンサムだから見とれてるのさ」と、気休めを言う。

「適当なこと言うなよ」

「ほんとさ。この国でぼくたちみたいなのは人気がある」

「外国人が?」

「主に白人がね」

「そういうものかな。〈ラストサムライ〉ではそうじゃなかったと思うけど」

「流行は変わったんだね」と、涼しい顔でポール。

「“人気がある”って、それは実体験に基づくデータなのか? きみは相当モテたんだろうな?」

「まあね」

「男性から? 女性から?」

「どっちもさ」

「日本人のボーイフレンドが?」

「友達はたくさんできたよ。そう、これからその友達のところに行こうと思って。コスメティックショップに勤めてるんだ」

「きみの元カレに会うのは初めてだな」

「もう、違うってば。ほんとにただの友達。その店で買い物がしたいから。ローマンからあぶらとりがみを頼まれてる」

「あぶらとりがみ?」

「顔の油を取るペーパーだよ」

「顔の油……それって何か楽しいのか?」

「楽しいかどうかはわからないけど」と、軽く笑う。「とにかくそれがローマンの希望なんだ」

 その店は、ルイ・ヴィトンとMoMAショップの先にあった。東京のファッションストリートはニューヨークの五番街とさして変わらず。さすがGDPがアメリカに次いで二位だけのことはある(これもガイドブックで読んだ。なかなか勉強熱心だろ?)。

 ポールは顔の油を取るペーパーを買い、おれは眉カットバサミとアイブロウペンシルをセットで購入。記念すべき日本での初ショッピング。ポールの“ほんとにただの友達”は、それを丁寧に削ってくれた。

 店を出たところで「夕食はどうしようか?」とポール。「ここから二駅のところに、ちょっと高いけどおいしい寿司の店があるんだけど」

「寿司か……」

「大好きでしょ?」

「ああ、そうだけど……。なあ、おれホテルに戻っていいかな?」

「どうしたの? 具合でも?」

「どうも時差ボケがひどい。さっきからやたら眠いし、軽く頭痛がする」

「十時間以上のフライトだもんね。いいよ、ぼくは友達と何か食べてくるから」

「ごめん。せめてホテルが一緒ならよかったんだけどな」

「気にしないで。きみは明日から仕事なんだし」

 そう、東京に来たのは、残念ながらショッピングやグルメの為じゃない。仕事だ。

 おれが勤めているのは絵画販売のベンチャー企業。担当するのはアーティストとの契約、及び展示会の運営業務だ。今回契約したアーティストは、これまでどことも版画印刷の契約を結んではいなかった。作品の複製を渋る作家を長い期間かけて口説き落とし(複製版画を好む画家はそもそも少ないが)、我がユニバーサル・アート社が初めてその権利を勝ち取ったことは、業界でも話題になったほど。先方が提示してきた条件の中には『最初の展示会は日本で』というものが含まれていた。海外での流通は基本的に行ってはいないが、これは特例。ホームタウンで顧客を招いての“おひろめ会”は、作家にとっても、こちらにとっても意味のあることで、それはいわば“社交界デビュー”のようなもの。そんな顛末で、おれはいつもに増して、この仕事に懸命に取り組んでいるというわけ(解説オワリ!)。

 ホテルに戻り、ベッドに寝転ぶ。ルームサービスのメニューから、カフェインレスのコーヒーとペストリーを頼む。どちらも阿呆みたいな値段だったが、構わない。会社の経費で落ちるのでなければ、外のコンビニエンスストアで買うところだが。

 ポールと一緒の初めての海外旅行。浮かれる気持ちもあるが、これは出張だ。ボスのシーラからも「しっかりやれ。でないと殺す」とのメッセージを貰っている(正確な語彙は違うが、意味を要約するとそうなる)。この五日間の滞在のうち、八割が仕事の時間で、今日と最終日だけが現地休暇。ちなみにポールはおれと逆。三割が仕事であとは休暇だ。彼もまたイベントの仕事で、日本人ファッションデザイナーのキャット・ウォークショーに、エグゼクティブ・ヘアメイクとして招かれている。“エグゼクティブ”のラベルが示す通り、彼はその技術により“招かれている”という立場にあり、一方おれは“呼びつけられている”といった様相。この仕事で得る報酬も、こちらは通常の給料に組み込まれているが、ポールは個人契約により臨時収入のようなもの。おれたちの実働を時給に計算すると、非常に悲しい結果が出ると思われるので、それはやめておくことにしよう。

 身分に格差はあっても愛は変わらず。むしろそのことは誇らしいとすら思える。立派な仕事を持つのは、男として素晴らしいことだからだ。しかしこれが“女性の恋人”だとしたら? 自分より稼いでいるパートナーで誇らしいと、単純に思えただろうか?

 かつて付き合っていたガールフレンドの年収が、おれの倍以上だと知ったときは“今後、誕生日プレゼントに何を贈ったらいいのか”と、真剣に悩んだことがある。馬鹿らしいとわかってはいるが、おれはそういうことを気にせずにはいられない性質だ。

 ここで断っておくが、おれは性差別主義者ではないし、男尊女卑でもない。“女性は家庭で夫の帰りを待つのみ”という、50年代のスローガンを掲げようとは思わないが……そんな“50年代的女性”を好ましく思う感情があるのは事実として認めよう。母親や姉、上司に至るまで、“頼れる強い女”に囲まれているおれは、心のどこかで“女性的な女性”というものを求めている。それは“可憐”であったり、“はかなげ(死語か?)”であったり、思わず手を差し伸べたくなるような女の子。そんなものを愛おしむ細胞が、おれの中には確かに存在している。……とは言え、これまで実際付き合ったのは、どれもそういうタイプではなく、仕事を持ってバリバリやっている、三インチのヒールを履いた女性ばかり。これは“はかなげ”な女性が、アメリカのマンハッタン地区で絶滅したことを示す貴重なデータと言えるだろう。





 翌日、無理矢理に時差ボケを調整し、アーティストの事務所に出向く。電話でやり取りしてはいたが、顔を見るのはこれが初めて。画家は想像よりずっと若々しく、緊張感漂うその作品と比較して、ずいぶんとくだけた感じに見えた。

 最終的な書類をいくつか確認し合い、「ではよろしく」と握手をする。これが一番重要で、それさえ済めばすべて終わったようなもの。契約は取り交わした後だし、イベントの下準備も終わっている。明日は会場と展示物をチェックする仕事があるが、よっぽどの不備がないかぎり、それは単に“スタッフに威厳を示す”くらいの意味合いしか備えていない。

 大してやる事もないのに、どうして日本まで来たのかと疑問に思うだろうが、この場合重要とされるのは“礼節”というやつだ。わざわざ海外からやってきて握手をする。成果のない首脳会談とは違い、それは暖かみがあって心のこもった行為であり、契約画家との今後の関係性をスムーズにしてくれる。

 画家の事務所は通訳を用意していたが、実際それはほとんど必要なかった。彼はおれと英語で会話ができたのだ。お世辞にも上手とは言えないレベルだが、直接意志を伝えようとする姿勢には好感が持てる。この程度の語学力であれば、通訳してもらう方が楽に決まっているが、おそらくこれも彼が表明する礼節の一部なのだろう。

 会話の最後、彼は「これからすぐにアトリエに戻らなければならない」と予定を述べた。

「一緒に昼食でもと思ってたんですが……申し訳ないです」言って、頭を下げる画家。心底申し訳なさそうに詫びを口にするアーティストを久しぶりに見たような気がする。

 彼が部屋を出た後、アシスタントの女性がおれに頭を下げた。こちらもつられ、意味もわからぬままにお辞儀をする。

「お時間が取れなくて申し訳ありません」と彼女。この“申し訳ありません”も、どうやら本物のようだ。

「いえ、どうかお気になさらず。お忙しいことは存じ上げていますから」

「実のところ仕事が遅れておりまして、彼は昨日からずっとアトリエに」

「昨日からずっと?」

「眠っていないんです。一睡も」

 ……驚いた。それならそうと言ってくれれば、こちらも多少予定を動かすことは出来たのに。言われてみれば確かに、顔に疲れが出ていたと思うが、そんな素振りはチラとも見せなかった。

 忙しい制作の合間、髪を整え、絵の具の付着してない服に着替え、尚かつにこやかに対応する。ニューヨークでは、延々待たせた上に「やっぱり今日はなかったことに」などと言ってくるアーティストも少なくはない。制作に追われていると言えば何でも許されると思っている北米の作家とは違い、礼節を重んじる日本人。やれ締め切りがある、忙しい、寝てない。そんな言い訳は彼にはないのだ。なんてクール。サムライ精神ここに健在なり。

 それにこのアシスタントの女性。これこそまさにマンハッタンで絶滅した種族ではないだろうか。丁寧で親切。声音は穏やかで、おまけに美しい髪をしている。当初はあまりの口のきかなさに具合でも悪いのかと思ったが、これは出しゃばってよけいなおしゃべりをしないという彼女の流儀なのだと、最後の会話によって理解した。古い漫画のヒーローたちがどうして日本妻を娶りたがるのか、今日その謎が解けた気がする。

 こうした相手と仕事をするには、こちらも同じ丁寧さを持つ必要があるわけで、少なくとも彼らの前では、おれも“武士道”に乗っ取った態度でいようと決意(それがどういうものか、未だよくわかっていないが)。

 紳士と淑女。絶滅種はここにいた。トリケラトプスと同じ末路を辿らないといいが。

 明後日は絵画の展示会。ゲストを招いてお披露目をし、多忙な弊社代表に代わって挨拶をすれば、それで仕事はすべて終わり。後はポールと現地休暇を楽しむのみだ。この浮かれ加減は“武士道”っぽくはないって? それはまあ仕方ない。おれは眉の形を気にするヤンキードゥドゥルで、サムライの地に立つのは初めてのことなのだから。





 事務所を出て、スターバックスに入る。オーダーしたのは、シナモンロールとカプチーノ。欧米化こそが文明とは言わないが、普段の暮らしを保てるのは有り難い。日本語でも“カプチーノ”は“カプチーノ”。注文に戸惑うこともない(“カプチーノ”が英語でないのはご承知の通り!)。

 周囲に散らばる日本語のリズムに耳を傾けつつ、遅い昼食。店を出た後はポールに電話をかける。極東にあっても電波は健在。見知らぬ土地でもいつも通りだ。ローマンは『友達もいない外国』などと言っていたが、異邦人であってもコーヒーは頼める。誰かが『伏せろ!』とさえ叫ばなければ、当面なにも問題はないというわけだ。

 電話に出たポールは、友達と一緒に観光をしている最中だった。おれは手短に状況と予定を説明。事務所のスタッフに夕食に誘われたことと、もしよかったら一緒に来てほしいとの旨を、できるだけ簡潔に。

「ぼくも一緒にって? どうして?」と、ポール。

「友達と来てるって言ったら“じゃあ、ご一緒に”ってさ。それにきみが一緒の方がおれは助かる」

「どういうこと?」

「これは仕事じゃないんだ。ただの付き合いってやつで。だから通訳はつかない」

「相手の方、英語は?」

「見たところ全然。さっきまでは通訳がいたから何とか会話できたけど」

「ぼくの日本語はそんなに上手じゃないよ」

「いいんだ。ただ親睦を兼ねて呑むだけだから」

「わかった、“接待”ってやつだね。ここではそういうの、とても大事だからね」

「ああ、だから公式でないにしろ、やっぱり言葉は通じた方がいい。駄目かな? もしかしてもう何か別の予定を入れてあるとか?」

「予定なんてないよ、何も」ポールはぶっきらぼうに言い、わずかに沈黙。それからややあって「うん、わかった。いいよ」と、了解の旨を返答してきた。

「よかった。じゃあ後で」

「うん」





『接待』という言葉は、英語にはない単語だとポールは言う。その意味は『友人同士でない関係性(主に企業間)において、ある一方が、ゲストを飲食店に連れ出し、もてなすこと』を指すのだそう。

 おれにとっては初の接待。もてなす側は若い女性スタッフが二名で、連れ出されたのは焼肉料理店。これがスタンダードな接待の形かはわからないが、落ち着きのある和室は気に入ったし、神戸牛は寿司と同じくらい好きな日本料理だ。

 おれはポールを紹介し、ポールはおれに二人の名前を紹介する。スワロフスキーのペンダントを着けている方が“オオタさん”で、フランクミュラーの腕時計をしている方が“ヤシダさん”。彼女たち、お互いを名字で呼び合っているところを見ると、名前で呼ぶのはタブーなのかもしれない。こちらは「ディーンと呼んでくれて結構です」と、言ってみたものの、相手は何かやりにくそうだ。結局のところ“ディーンさん”という敬称付きでおさまりを見せることとなる。変。

 肉を焼き、ビールの栓を抜いて、乾杯をする。「海外から視察に来るっていうから、わたしたちみんな緊張してたんだけど、感じのいい人で安心しました」とは、彼女たちの第一声。もちろんポールの翻訳を通しての会話だ。

「こちらこそ。素晴らしいスタッフと一緒に仕事ができて嬉しく思っています」

 “感じのいい人”による、“感じのいいコメント”。あまり気さくとは言えないが、とりあえずこの場は仕事の範疇。呑み過ぎてフレンドリーになりすぎないよう、気をつけなければ。

 とっぴょうしもなく美味い肉を夢中で口に運んでいると、彼女たちがケラケラと笑い出す。何が可笑しいのかとポールに聞くと、彼は苦笑してこう答えた。

「彼女たち、きみの名前が“ジェームス・ディーンのディーンなのか”って、話してたんだけど、ジェームス・ディーンのそれは名字だってことに気がついて、それで笑ってるんだよ」

 なんだそれ? どこがおかしいのか、さっぱり掴めない。アメリカ人とは笑いのセンスが違うのかもしれない。

「ジーン・ケリーを知ってる? それと一文字違いだよ、おれの名前は」

「ふたりとも知らないって」

「ふぅん……日本では有名じゃないのかな」

「あのね、きみのこと“カッコイイ”ってさ」

「カッコイイ?」

「クールって意味の日本語だよ」

「カッコイイ。へえ、いいな。カッコイイ!」

 おれがそう言うと、女の子たちは笑い転げた。なんだこれは。笑うところなのか。

「ポール、“キュート”はなんて言うんだ?」

「カワイイ」

「きみたちはとても“カワイイ”」

 女の子たちは奇声を上げた。意味が通じたらしい。

「きみのこと“キアヌ・リーヴスみたい”ってさ」

 キアヌ・リーヴス? そいつは光栄だが、彼と共通しているのは髪の色と人種くらいのもので、少しも似ているところはないと思うのだが……。

「キーラ・ナイトレイの彼氏にも似てるって」

 どこがだ! そもそもキアヌ・リーヴスとルパート・フレンドが似てないじゃないか! この二人の俳優から、おれの容姿を想像するのはかなり無理がある。どんな優れたプロファイラーでも不可能だ。

 勘違いも甚だしい“カワイイ”彼女たち。二人は本当におれと同世代なのだろうか。はしゃぐ姿はティーンエイジャーのように見えなくもない。これと似たものに、ローマンの仲間たちがいる。意味もなく笑い転げ、人生が楽しくて仕方ないといった輩だ。

「気に入った?」ホテルに戻り、ポールはおれにそう聞いてきた。「きみの顔に“気に入った”って書いてあるよ」

「まあな」ジャケットをハンガーにかけながら、おれは応じる。「ちょっと子供っぽいけど、ああいうのもアリだろ。なにを言ってもウケる。ずっと笑ってるし、楽しそうだ」

 するとポールは微妙な表情をし、「前から思ってたけど……」と、“前から思ってたこと”を切り出した。

「きみって女性の趣味が幅広いよね」

「幅広い?」

「うん……って言うか……ときどき、あんまり趣味がよくないみたい」

「そりゃあ、おれときみとで趣味が違うのは当たり前じゃないか?」

「ぼくだって素敵だと思うような女性はいるよ。性的には惹かれないけどさ」

「きみの素敵って、ビョークとかだろ? いや、よそう、きみと女性のことで議論したくないからな」

「うん、それはぼくも同意見。喧嘩に発展する前にやめとかないと」

「なあポール、わかってると思うけど……」

「うん?」

「おれが愛してるのはきみだぜ?」

 ポールはくすっと笑って「わかってるよ」と、言った。





 ───喧嘩に発展する前にやめとかないと───

 提案も虚しく、結局その夜は喧嘩となった。議題はおれの“幅広い女性の趣味”について。

「だいたいきみは失礼なんだよ!」

 そう怒鳴っているのはポール。“ディーンがどうあるべきか”について、語らせたら右に出る者はいない、その道のエキスパートだ。

「いったいおれの何が失礼だって言うんだ?!」

 そう質問するのはおれ。自分のことなのに、人に伺いを立てなければいけない、気の毒な男。

「きみはあの席に、ぼくを恋人として同席させたんじゃない。通訳としてだ。それってあんまり失礼だ」

「通訳じゃない。ちゃんと友達って紹介したろ。それに相手だって“お友達もご一緒に”って、ハナっからそう言ってたんだ。誰も通訳だなんて思ってないよ」

「“お友達”じゃない。“ボーイフレンド”だ」

「いきなりそんなこと言えるか!」

「ぼくは言える」

「きみの業界とはわけが違う。お固い日本の企業がいきなりゲイをカムアウトされて受け入れると思うか?」

「あれは仕事じゃないんだろ? ただ親睦を兼ねて呑むだけだって」

「そうであっても……」

「きみの“業界”とやらは、とてつもないタテマエ主義だ。親しげにしてても、最終的なところでは心を許さない。“ただの親睦”なんて嘘っぱちさ。そもそもきみだって」

「おれ?」

「ただの親睦が聞いてあきれる。結局はあの二人が可愛い女の子だからだ。だからぼくのことも紹介できなかった」

「ちょっと待てよ。どうしていつもそう結論するんだ? もしおれに下心があるんであれば、きみを同席させるわけがないじゃないか。“今夜はミーティングだ”とか何とか言って、こっそり出かけるように算段するよ」

「そんなことを算段するわけ?」

「たとえば、だ! 例えばの話! そんなことするわけないだろ!」

 ポールはむすっとして「どうしてぼくたちの間に他の人間を入れたがるんだ」と、腕組みをする。「以前ファイア島に行ったときもそうだった。あのときも女の子が二人……これって何かの偶然かな?」

「昔の話を蒸し返すなよ。あれはおれが悪かった。今回は仕事も絡んでる。たまたま担当者が女の子だったってだけだ。これが男性二人だとしても、おれは一緒にバーベキューを食いに行ったと思うよ」

「女の子がどうとかいう話じゃない。きみはぼくと二人っきりで旅行するのが気詰まりなの? だからあんなセッティングにぼくを参加させるわけ?」

「あの接待が不満だったのか? だったらその場でそう言えよ」

「言えるわけないだろ! そもそもぼくが楽しんでないってこと、気がついてなかったわけ?」

「それは……!」

 反論が出てこない。そう、おれは気がついていなかった。ポールが楽しんでないということに、少しも気付いていなかったのだ。

「あんな風船アタマの子たちといて楽しいわけがない。だいたい最近のきみはぼくに冷たいよ。ずっと一緒にいて飽きがきた? 他の人といる方が楽しい? このところ帰りが遅かったり、友達と出かけることが多いのはそういうわけ?」

「ポール、そうじゃないよ……。ただ……何ていうか、ときには他の友達とも会って呑んだりしたい。それだけさ。他の意味なんて何もない。他の奴らに嫉妬なんて角ちがいもいいとこだ。それに……今だって、おれはきみにいちばん時間を割いてる。それでもまだ足りないって言うのか?」

「へぇぇ!? そりゃどうも! きみの貴重な時間をぼくのためにありがとう!」

「なんでそんな言い方するんだ!? いちいち言葉尻をとるなよ!」

「悪かったね、細かくて」

「これじゃ話にならない!」

「そっちこそ!」

 怒りで頬を紅潮させるポール。彼と真っ向から対峙したその時、おれの脳裏にあるひとつの単語が浮かび上がってきた。

 ─── ゾーン ───

 そうだ。やばい。このままではまっしぐら、突入だ。おれは理性的であらねばならない。相手がそれを失っているなら、なおのこと。一緒に愚かになるのは馬鹿げてる。落ち着いて話せばゾーンは回避できる。

「ごめん……」おれは詫びを口にする。

「何が“ごめん”?」と聞き返す。彼は謝罪のポイントを確かめようとしている。

「その……怒鳴ってごめん」

「そっちか」にべもなくポール。

 この…っ! なんて可愛げのない!!! ……いや、駄目だ。駄目。ここで怒るんじゃない。ポールはただ拗ねているだけ。おれからの優しさを求めているだけなんだ。だったらここはおれが譲歩して与えてやるべきで……たぶんこういうのが“武士道”とか言うんだろう(ちがう?)。

 おれが無言でいると「いいよ、ぼくも怒鳴ったことは悪かった」と、彼もテンションを下げた。

 そらな、落ち着いて話せば普通なんだ。おれたちは猿じゃない。自分の感情を自制することが出来るんだから。

 ポールは顔を上げ、「でもさ」と切り出す。「せっかく日本にいるのに、二人きりで食事も出来ないなんてひどすぎると思わない?」

 かすかに瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。この顔に強く出られるはずもなく、おれはサムライらしく、何か新しい提案をしなければならない。

「わかった。じゃ明日だ。あした一緒に寿司を食おう。もちろん二人っきりでさ」

「明日の夜は、ぼくの仕事のミーティングがある」

「それは何時から?」

「八時」

「だったらその前にしよう。おれの仕事は夕方前には終わる。どこかで外で待ち合わせて」

「外で待ち合わせ? 土地カンもないのに難しくない?」

「何がなんでも辿り着くよ。大丈夫、おれの心の羅針盤は北を指さないから」

 欲する物の方角を指すという、海賊の羅針盤を示唆するおれの言葉に、ポールはようやく微笑みを見せてくれた。

 よかった。これで一件落着。そう思うおれは、いつもに増して能天気だった。これも時差ボケの一種なのかもしれない。





 会場に着くまでに、携帯電話が一度鳴った。電話に出たが、電波の調子が悪いらしく何も聞こえず、ほどなくして通信は切れる。表示されている番号に心当たりはない。どうせまたかけてくるだろうと思い、携帯をポケットに仕舞う。

 地下鉄を乗り継ぐ途中、駅の構内で可愛らしいフラワーショップを目にする。店頭に並ぶ鮮やかな南国の花々、パステルカラーのコスモス、陶器のようなカラー。

 今夜は久しぶりのデートだ。花を買うってのは悪くないアイディアかもしれない。これまで何度もキャンセルしてきたお詫びも込めて、食事の邪魔にならないような、芳香の強くない花を買おう。

 恋人にブーケを贈るのは久しぶりだ。花とディナー。人はパンのみに生きるにあらず。やはり人生はこうでなくっちゃいけない。





 携帯をマナーモードにしたまま展示会場へ入ると、広々としたホール内には、あわただしく行き交う運営スタッフの姿。展示会の準備は“壁に絵をかければ終了”というレベルではなく、もうちょっと込み入った内容だ。ここは美術館ではないため、絵画を飾るための設備はない。展示物は“美術品”ではあるが、これらは“商品”でもあり、そのため展示会にはある程度ショウアップされた設えが要求されることとなる。

 ビロードの垂れ幕。キャンドルを模したライト。床には真っ白な小石や流木が置かれ、無機質な空間を有機的なものへと変えている。しかし空間芸術がいかに美しかろうと、それらはすべて絵画を引き立てる小道具に過ぎない。素晴らしい絵画の数々。これを得るために、どれだけの苦労を重ねたことか。

 入り口から順を追って展開される作品。メインフロア突き当たりには、一番の目玉である『鶴のシリーズ』が飾られている。五枚の連作から成る絵は、壁面に添わせることなく、宙づりとなり、それは広い空間を生かした演出だ。足元はリノリウムの床がむき出しになったままだが、ここにはちいさな白い折り鶴が、神社の玉石よろしくぎっしり敷き詰められる予定になっている。

 公開は明日。うるさい記者や評論家たちも、これを見れば多少人間らしい心を取り戻すだろうか。

 絵画を前に感慨深く夢想するおれのところに、ひとりの若者がやってきた。Tシャツに軍手という出で立ちの彼は「ちょっとトラブルが発生しました」と、あまり上手ではない英語でおれに告げた。

「トラブル? いったいどんな?」

「ノベルティが届いてないんです」

 “ノベルティ”とは、無料で配布する販促物のこと。記念品のようなささやかなプレゼントで、そう大したものではないが、これを目当てにしてやってくる客も少なくはない。今回配布するのは、オリジナルのケースに入った箸。生産は東南アジアで行い、今朝までに会場に届く手はずになっていたものだ。

「届いてないって、どうしてだ? 制作会社には連絡を?」

「さきほど電話したところ、担当者が席を外しているとのことで」

「それはいつわかったんだ?」

「ですから、さきほど……」

「どうして昨日までに確認してなかったんだ? 搬入は昨日だったんだろ?」

「ええ、搬入は昨日でした。数日前に段ボールが届いていたので、スタッフはそれがノベルティだと思ったそうです。でもさっき開けてみたら、中に入っていたのはエアキャップとゴミだけだったんです」

「エアキャップとゴミだって? なんだそれは?」

 荷物が届いたら、すぐに中を開けて確認するのは常識だ。しかしここのスタッフは展示会に慣れていない。搬入は前日。機材やノベルティを置くためだけに会場を借りるわけにはいかず、それはどこのイベントでも当たり前だ。

「それと鶴も」と、若者は付け加える。

「鶴が何だって?」

「鶴も届いていません。折り紙の鶴です。床に撒く」

「会場装飾の鶴か? なんだって鶴まで……」言いかけ、おれは思い出す。ノベルティも鶴も、同じ業者に頼んであったのだと。

「とにかく……あっちの不手際なのは間違いないんだ。再手配する間、きみは会場の設置を先に」

「わかりました」

 彼は笑いたいのか泣きたいのかわからない表情でうなずいた。





 展示会を明日に控え、届いたのは段ボールいっぱいの不燃ゴミ。これまで何度も展示会に関わってきているが、こんなミスは聞いたことがない。すぐにニューヨークに連絡をしたが、会社の電話は留守録モードになっていた。アメリカの現在時刻は22時。残業撲滅運動なんてクソくらえだ。

 これが業者の配送ミスであることは明らかだが、それを認めてもらった上で再発送したところで、オープニングには到底間に合わない。今回のミスで浮かび上がってくるのは、オフショアだ。アメリカでの展示会では、いつも決まった業者にノベルティ手配を頼むのだが、今回はそうはしなかった。その理由はコストにある。アメリカから品物を発送すると無駄に送料がかかり、また日本で制作するのも人件費の面で折り合いがつかない。そこで制作費、労働費ともに安い、東南アジアに白羽の矢が立った。手間のかかる装飾を現地で作成し、またノベルティの制作も任せるというのがその内容。オフショアを提案したのはおれだ。いいアイディアだと思ったんだ。(作者注 : オフショアとは低コストでの開発が可能な地域に業務委託すること。このケースで言うと厳密にはオフショアの本来意味するところではありませんが、広く使われている意味での解釈ということでご了承下さい)

 リスクを承知でコストを安くあげようとしたのは目的があってのこと。そのぶん浮いた経費を会場の装飾費に回そうとおれは提案したのだ。この件に関して確認を怠った記憶はない。だがそれでも───これは落ち度だ。責任の所在というものが問われれば、間違いなくおれの名前が出る。企画をなかば強引に通したことや、よく知りもしない業者に仕事を依頼したことなどが浮かび上がってくる。これは不幸な事故だが、仕事においては『不幸な事故でした』では済まされない。

 とにかく、これから忙しくなるのは目に見えてる。その前に連絡をとっておかなければいけない。おれはロビーの隅に行って、ポールに電話をかけた。





「今夜のディナー、一緒に過ごせなくなった」

 まず真っ先にそう告げると、ポールは「えっ?」と短く、驚きの音を発した。

「仕事でアクシデントがあって、どうしても抜けられない状況になったんだ」

 ポールは黙っている。言葉を失っている。携帯からは、ため息のひとつも聞こえてこない。

『おれのミスで……』と、言いかけてやめる。話せば長くなるし、言い訳や弁解は今ここで必要とされていることじゃない。

「本当にすまない」

 詫びると、ポールは「わかった」とだけ言って電話を切った。

 “本当にすまない”。これは今日最初の“本当にすまない”。おれはこれから、幾人もの人に同じ言葉を発することになるだろう。言い訳や弁解は必要ない。サムライは黙って責任を果たすのみだ。





 業者に連絡がついてみると、それは思った通り、単純な発送のミスだった。むこうの説明によると、品物の箱とゴミの入った箱とを間違えて送ってしまったのだとか。商品到着は明後日の予定。それまでの来場者には引換券を渡して、後日ノベルティを郵送することで決着がついた。

 問題は会場の飾り付けだ。床一面を埋め尽くす折り鶴。会場の装飾は商品や展示物などとは違って、どうしても必要なアイテムというわけではない。しかし今回メインとなる絵画は『鶴のシリーズ』。広告にもダイレクトメールにも、そのイメージは大きくフィーチャーされ、会場イメージのCG画像には、床に小さな鶴が着地している様子を紹介している。折り鶴を予定していた位置には、布と小石を敷いたが、やはりそれだけでは格好がつかない。“床を埋め尽くすほどの”は無理に決まっているが、いくらかでもそれらしいものを置かなければ。

 さきほどのTシャツに軍手の彼を見つけ、声をかける。

「人員を何名か手配できるかな? これからすぐに」

「すぐにですか? たぶん……大丈夫と思いますけど。英語ができる人となると難しいかもしれません」

「英語はできなくていい。それよりできるだけ手先が器用な人が望ましいんだが……ところで、きみは鶴を折れる?」

「折り紙のですか? ええ、たぶん……」

 開場までは20時間足らず。逡巡してる暇はない。彼の芸術。それに対する誠意。今ここでできる限りのことを。開場までは20時間足らずもある。カミカゼが吹くより早く、おれは行動を開始する。





 朝食を摂ってから10時間以上経過。あれから胃に入れたものといえば、コーヒーを一杯、ガムを一枚。不思議と腹は減らない。食べたいとも思わない。眠くもなく、腹も減らず、ただひたすらに作業を続ける。

 オープンを明日に控えた展示場はシンと静まりかえっていて、ライトアップされていない絵画や室内装飾が不気味な陰を作っている。何が動きだしてもおかしくないナイトミュージアムで、おれがしているのは極めて複雑かつ、ごく単純な作業。紙で鶴を折るというのは生まれて初めての経験だが、この数時間で驚くほど腕を上げることができた。

 サンドイッチでも買いに行こうかと思って時計を見ると、8時を5分すぎたところだった。そういえば“8時を過ぎたら、入口はオートロックになります”と、ここのスタッフは言っていたっけ。いま外に出たらもう中には入れない。サムライだったらこんなときどうする? サンドイッチとコーヒーよりも、断食を選ぶに違いない。

 折り紙の腕は上がったが、出来た量はといえば、この労力に対してスズメの涙ほど。人材派遣から人を雇い、半日がかりで鶴を折らせたが、当初イメージしていたほどの数には未だほど遠い。

 設営作業は終了し、スタッフはすべて撤収した。おれもキリのいいところで出るつもりだったが、“キリのいいところ”は未だ見つからず、なんとなく帰りそびれてここにいる。

 今回のミスについて、画家は穏便な反応をみせてくれた。「それは大変でしたね」と言い「何かお手伝いできることはありますか」とまで言ってくれた。そこで「じゃあ、鶴を」と頼めるはずもなく、親切心には礼を述べるのみに留める。手伝いを申し出た彼も、よもやおれがここに居残って鶴を折り続けているとは思うまい。もしこの事態を知ったら、画家は何と考えるだろう。わざわざアメリカから鶴を折りにきた男。どうみてもアホの殿堂入りだ。

 そうは言っても、今回の件は別に致命的失敗というわけじゃない。アクシデントは起きるときに起きる。仕事をする上でそれは誰もが心得ていることだ。しかし今日ばかりはタイミングが悪すぎた。スタートから不安要素が生じるのはいいことではなく、ましてやこの契約は、相手が渋るのを説き伏せてようやく叶ったようなもの。作家は事情を考慮してくれているが、会社は「それは大変でしたね」以上のことを考えているはずだ。事件の発生が書面で契約を交わした後でよかったと思う。トラブルがもっと早い段階にあったとしたら、事務所側は『御社との契約については再考させて頂きます』と申し出てきたかもしれないのだから。

 オフショアにはリスクはつきもの。それがわかっていながら、押し進めたのは……今だから認めるが、多少の意地もあってのことだった。

 当初、企画に予算が合わないと会場運営課が訴えてきたとき、おれは削減できる経費を考えた。見直したのはノベルティ。それについて運営課のリーダーは、怪訝な顔でこう言ってきた。

「客への贈り物を安くあげて、内装をきらびやかにする方に予算を回すのはどうかと思うけどね」

 彼は勤続20年。この道のベテランとして、他部署の若造の意見を必要としていないというのは、その態度によく現れている。

「安くあげるのは運送費などの部分です。ゲストに安物を提供するという意味ではありません」

「そもそも、このメーカーは何だ?」おれの答えを無視し、彼はさらに質問を続ける。「今まで一度も取り引きしたことのないところのようだが?」

「現地では実績のある会社だということです。電話で話した感じでは特に問題はないようでした」

「まあ、どうかな。事故でも起きなきゃいいが……ところで、きみはいい時計をしてるな。ロレックスか? それは?」

 この最後のところは、“内装をきらびやかにする方に予算を回す”にかけた、軽い嫌味といったところ(ちなみにその時はめていたのはロレックスじゃなくて、チュードル。わざわざ訂正するのもばからしい)。

 彼には彼の考えがあるのは百も承知だが、この企画に関してはおれに決定権がある。だからそうした。問題があるとも思えなかった。ただ彼の言葉に対し、いくらかムキになってもいただろうことは事実だ。そのことが直接このアクシデントに繋がったとわけではないし、今ここで鶴を折っているのは、負けず嫌いの性格が災いしたからと考えるのはナンセンスなこと。しかし別な側面においてはどうだ? 

 この展示会はいつもとは違う。社内の誰もが大きな仕事だと理解するこの契約に、おれの足は地面から浮き上がっていなかったか? 恋人を連れての出張。こんな状態で仕事から注意が逸れてなかったとは言い切れない。そしてまた、おれはポールに対しても意識が散漫になっていたのだろう。

 昨夜のやりとりを思い出す。

 ───あの接待が不満だったのか? だったらその場でそう言えよ───

 ───言えるわけないだろ! そもそもぼくが楽しんでないってこと、気がついてなかったわけ?───

“仕事だから”と自分に言い聞かせ、それを無意識のうち、ポールにも強いていた。行きたくないと彼が思っている接待に連れて行き、相手がどんな気持ちでいるかということにまったく無頓着だったおれ。

 仕事と恋人。二兎を追う者は一兎も獲ず。両方、中途半端な状態であたれば、どちらも取り逃がすことは当然のことだ。

 今すぐホテルに戻って、ポールに謝った方がいいのかもしれない。そもそも誰も、『今ここで、ひとりで鶴を折り続けろ』などとは言っていないのだし。今のおれは、またしても意地になっているだけなのか。何が正しいかなんて、正直おれにはわからない。ここが“ゾーン”なのかどうかも。

 ポールは今頃何をしているだろう。友達とディナーに行っただろうか。『喧嘩したらもう逃げ場はないでしょ』と、ローマンは言っていたが、逃げ場がないのはおれだけだ。おれには知らない国でも、彼にとっては懐かしい街。住んでいたのはどのくらいの期間だったっけ? きっとボーイフレンドも……いたに決まってる。

『この国でぼくたちみたいなのは人気がある』

『ラブラブカップルがハマる危険なゾーンにお気をつけあそばせ』

「くそ! うるさい! 黙れ!」

 自分の脳内に怒鳴りつけるのは虚しいばかりか、若干の異常性も認められる。誰もいない部屋で紙を折り続けるのは、健全な若者の精神に悪影響を及ぼすに違いない。

 テーブルに並んだ小さな鶴たち。今日はじめて折り紙をした者の手によるものとは到底思えない出来栄えだ。この不祥事により「もう帰ってこなくていい」と会社から通達されたら、おれはこの国で、折り鶴マイスターとして生計を立てることにしよう。果たしてそういう職種があるだろうかと思いを巡らせていると、携帯が鳴った。

 メールだ。送信者はポール。見るのが怖い。ただでさえ弱っているところに不幸のメールを開けた日には、おれの繊細な心臓が持つかどうか。祈る気持ちでメッセージを開く。


件名 : 合い言葉

本文 : メリー・クリスマス


 ……え? なんだこれは? 

 ポールからでなきゃ、スパムだとでも思うような不思議な文面。間違えて過去のメッセージを送ってしまったとか? それにしたって短すぎる。それともこれには深い意味があったりするんだろうか。アナグラムにすると『おまえを殺す』になるとか、そういう手の込んだ謎かけかもしれない。

 メリー・クリスマス……メリー・クリスマス……ふた月も早いメリー・クリスマス……。駄目だ。おれの脳細胞は灰色じゃない。早々に謎解きをあきらめ、作業に戻る。

 無心で鶴を折り続けていると、聞き慣れない電子音のメロディが鳴った。周囲を見回すと、ドアの横にあるインターフォンのランプが点滅している。ここにはおれしかいない。出ないわけにはいかないだろう。

 受話器を取ると、小さなモニターに見知らぬ男の顔が写った。男は何やら日本語で言ったが、おれは言葉がわからない。ゆいいつ明るい言語である英語で“日本語のわかる奴はここにはいない”の旨を伝えると、相手はぱっと笑顔になり、「ディーン?」と言った。

 おれの名前に似た単語が日本語に存在するのだろうかと思う間もなく、見知らぬ男は「メリー・クリスマス!」と挨拶する。

「ハロー、ディーン、メリー・クリスマス」

 こんな時期にクリスマスの挨拶をする馬鹿はいない。そうか、これが“合い言葉”か。

「きみは誰?」

「おれはポールの友達で、ヒロっていいます。仲間も一緒なんだけど」

 ブロークンだが、ちゃんとした英語だ。どこかニューヨーク訛りがあるようにも聞こえる。

「手伝いに来たんだよ。遅くなってごめん。中に入ってもいい?」

「手伝いって?」

「鶴を折りに」

 ……なんだって? ポールの友達だと云うことは、メールの合い言葉でわかった。しかしおれはポールに“鶴を折って残業”とは、ひとことも言ってない。一体これはどういうことだろう?

 おれが返答に困っていると、彼は何かを察したか「怪しい者じゃないよ」と付け加えた。「覚えてないと思うけど、あなたとおれ、二日前に会ってるんだよね。うちのショップで。アキオ、覚えてる?」

 アキオはポールの友達。おれの眉ブラシを削ってくれた彼の名前だ。

「おれもあそこのスタッフなんだ。あのとき店にいたんだよ。ねえ、入ってもいいかな? ここの警備員、おれたちのこと不審者だと思ってるし」

 ここまで聞けば入れても差し支えないだろう。ロックを解除しドアを開けると、入ってきたのは10代後半から20代前半とおぼしき男性が5名。彼らの格好を目にした瞬間、おれはぎょっとし、自分の判断が誤りだったんじゃないかとすら思ってしまった。

 髪をベリーショートに刈ったヒロ。これはまだ普通の範疇。しかしヒロの仲間というのは、なかなかどうして振るっている。ニットのキャップからはみ出たドレッドの金髪。耳たぶに開けられた大きな穴。鼻の脇にピアス。手の甲のタトゥー……。皆きらびやかでセンスはいいが、とても深夜に招き入れていい一団には見えなかった。

 ヒロは自分の胸を指し、改めて自己紹介をする。

「おれはヒロ。おれたちはポールの日本の友達……つまりゲイ友達ね。彼からあなたの話を聞いて、だったら手伝ってやろうってことになって、ここに来たんだ」

「そうか、ありがとう。ポールは?」

「彼は仕事のミーティングだって。ね、おれの英語ってわかる?」

「ああ、問題ないよ」

「ちなみにこの中で英語できるのはおれだけだから。なんか指示するときはまずおれに言って。で? 何をどう手伝ったらいい?」

「ちょっと……その前に。どうして鶴の話を? おれはポールにそのことを伝えた記憶はないんだが」

「そうなの? でも彼は知ってたよ」

 本当に不思議だ。愛の力でテレパシーが発達したのか。それともおれは無意識のうちに彼に電話し、無意識でもって、彼に泣き言を伝えたのだろうか。長時間の折り鶴作業は、夢遊病を誘発するとか? 馬鹿馬鹿しい考えだが、必ずしもあり得ないとは言い切れない。

「鶴を折るんだろ? これがそう?」机の上の折り紙を見るヒロ。他のメンバーは、手持ち無沙汰に突っ立っている。

 この天使たちを派遣したのは神ならぬポール。おれの窮地をどうして知り得たかについては疑問が残るが……メリー・クリスマスの合い言葉もあることだし、そう心配することもないだろう。それに今、困っているのは事実だし、本音を言えばどんな手も借りたい。信頼に値するおれの恋人。ここはポールの判断を信じるより他にない。





『クリスマスの妖精たちは、楽しんでプレゼント作ります』

 そんな一節を思い出したのは、ヒロたちの作業っぷりを見てのこと。10分で何羽の鶴を折れるかと競いだしたり、工場のような流れ作業を導入したり。彼らにかかると単なる作業もゲームと化す。一見、不良のようにも見える格好をしているが、皆とても明るく無邪気な性格をしていて、一方でとても礼儀正しい面もあり、そのギャップには驚かされた。

 言葉こそわからないが、楽しそうな様子を見ていると、つられてこちらも笑ってしまうほど。和やかな空気に触れて初めて、今日一日いかに気持ちが張り詰めていたかがわかった気がする。

 ふいにオートロックのドアが開いた。現れたのはオオタさんとヤシダさん。先日の接待の二人組みだ。彼女たちは戸口で目を丸くしている。それは最初におれが彼らを見たのと同じ反応。おれはヒロを通訳に介し、会場がギャング団に占拠されたのでないことを説明すると、二人はすぐに納得してくれた。

 とんでもない状況になっていることを詫びると、ヤシダさんは「わたしたちも差し出がましいことをした」と、謝ってきた。何でも彼女、この件でポールに電話をしたのだと言う。なるほど。これで謎が解けた。鶴のことをポールに教えたのは彼女たち。サンタのお使いはここにもいたというわけだ。愛によってテレパシー能力が発達するより、ずっと素敵だ。

 二人は会社を退出後、この近くのレストランで食事をし、その後このビルの前を通ったら、まだ会場には明かりが点いている。居残っているスタッフの様子を見るため立ち寄ったのだという。

「彼女たち、手伝ってくれるって言ってるよ」と、通訳のヒロ。

「今からか? ありがたいけど、そういうわけにはいかないよ。もう夜も遅いし」

「明日休みなんだってさ」

「そうは言っても……」

「手伝ってもらおうよ。女の子の方が折り紙は上手だろうしさ」

 なかばヒロが決定する形で、二名の助っ人が参加する。ボーイズはすぐに彼女たちと打ち解け、鶴の折り方を指導し合っている。フレンドリーな彼らに、オオタさんとヤシダさんもまんざらではない様子だ。かわいらしい男の子たちと一緒に夜なべ。彼らがゲイだという事実は黙っておくとしよう。女性陣の作業効率に影響があるといけない。





 結局おれたちが撤収したのは朝の四時。女性たちには電車があるうちに帰ってもらったが、それ以外は徹夜の運びとなってしまった。まだ薄暗い通りに出、おれはタクシー代を彼らに渡そうとしたが、ヒロはそれを断った。「友達同士は助け合うもんじゃん?」と、笑って言い、ピースマークを作ってみせる。素敵な笑顔のヤング・サムライ。おれは彼のことが好きになった。

 ショウ・マスト・ゴー・オン。何事もなかったかのように幕は開く。いざ始まってしまえば、そこは幻想と創造の世界。誰がどれだけ苦労したとか、何がどれだけ欠けているかは、ダンボール箱に突っ込んでおく。睡眠時間が2時間足らずであることはおくびにも出さず、あくびをかみ殺して会場に立つ。“これが終わったら死ぬほど寝てやるぜ!”と思いつつ、眠気を覚ますため、意味もなくホールをうろついてみたり。

 そんな状態で自然と足が向いてしまうのは、やはり『鶴のシリーズ』の展示ブースだ。“折り鶴で足元を埋め尽くす”は無理だったが、ライトアップされれば、充分目を引く美しさを有している。少なくとも自分的には満足だ。これ以上うまくはやれっこない。

 夜は同会場にて関係者を招いてのレセプションが開かれた。壇上からは画家のスピーチ。彼は来場者すべてに感謝の意を述べた後「みなさん、ちょっとあの絵の下を見てくれますか?」と客の注意を促した。言われるままに注目するゲストたち。もちろんおれも。

「あそこにたくさんの小さな折り鶴があるでしょ。皆さんが目にしていらっしゃるそれは、非常に多くの労力をかけて作られたものなんです」それから「わたしも後から聞いたのですが」と前置いて、彼は昨夜の顛末を来場者に語って聞かせた。

「正直なことを申しますと……今回の契約について、当初わたしはあまり乗り気ではありませんでした。絵画を量産しようという提案に、どうしても快さを感じられなかったのです。しかし今回このアクシデントが起きたことにより、わたしは“自分たちが契約する会社がどんなところなのか”ということを知る機会に恵まれました。わたしがした契約は間違いではなかった。スタッフ皆の想いが込められた千羽鶴と共に、展示会をスタートできたことを感謝しています。そしてこれを皮切りに、ユニバーサル・アート社と一緒に仕事をしていけることを嬉しく思います」

 スピーチが終わると、会場内は拍手喝さい。その勢いでおれもステージにあげられ、彼と固く握手をする。絵になる場面に取材のフラッシュがたかれた。中にはこれを“よくできた演出”と思う者もいるかもしれない。しかしおれにはそうじゃないことがわかっていた。画家の目を見ればわかる。彼は本気でおれに感謝し、今ここで手を握っている。

 契約遂行のお約束ともいうべきシーン。それを形式にすることもできるし、本気にすることもできる。彼は本気で、おれもまた本気だ。そうじゃなきゃ朝まで鶴を折ったりできるわけもない。ひどいアクシデントだったが、彼からの言葉ですべてが報われた。不幸中の幸い。災い転じて福と成す。結果よければすべてよし。……なんて、そんな呑気なことが言えるのも、結果的に見て“結果がよかったから”に他ならない。これは“棚からボタモチ”というのとはワケが違う。災いは災い。それを福に転じるのは、自分自身の努力にかかっている。

 照明に照らされ、陰影を浮き上がらせる折り紙の鶴。壮大なテーマのタブロウとのコントラストは、思った通り素晴らしい。最初におれがイメージしたのは、小さな鶴だった。たくさんの鶴が雪のように舞い降りた様子を絵画の下に表現しようと、最初はそれだけを考えていた。ところが仕事が進行するにつれ、予算やら、意地やらが絡むこととなり、イメージの実現という目的はぼやけ、いつのまにかそれは“ただ遂行するべき任務”になり果ててしまった。最初の意図は、誰しも、いつも素晴らしい。疲労や都合、言い訳が発生しない間、それは純粋なままに保たれる。

 おれはいつからポールとのことを“果たすべき義務”と感じるようになったのだろう。恋人だから時間を割いてやらなくちゃ。花を買ってあげるべきだ。ディナーを一緒にするべきだ。彼に理解を示すべきだ。ゾーンとやらを避けるべきだ……。付き合い始めの頃はそんなこと考えもしなかった。一緒にいるのは楽しいから。花を買ってやりたかったし、好きなレストランには一緒に行きたかった。

 どんな好きなことでも、義務化すれば辛くなる。そして“義務化”にカテゴライズされたものは、絵画にしろ人間にしろ、生彩を失ってしまう。

 この数日、ポールがやたら怒りっぽかったのは、おれの気持ちの変化を感じとってのことだったに違いない。おれは彼自身を見ておらず、恋人に対して自分がどうであるかということばかりを気にしていた。画家の言葉じゃないが、おれもまた今回このアクシデントが起きたことにより、多くのことを知る機会に恵まれた。真実は何かといえば、それは苦くも甘くもない。ただ今は、最愛の恋人に早く会いたいという気持ちがここにあるだけだ。





 ホテルのベッドに並んで腰を下ろし、デジタルカメラのデータをポール見せる。

 彼は画像を見、「すごくきれい」と感嘆の声をあげた。「でもほんと、これだけの鶴を作るのは大変だったね?」

「おかげで手に職がついたよ。今じゃ折り紙のオーソリティだ。それに、きみが“メリー・クリスマス”を手配してくれただろ?」

「メッセージを理解してもらえてよかった。ぼくもミーティングがあったから、ちゃんときみに説明する時間がなかったんだけど」

「彼らが来てくれてとても助かったよ。いろいろな意味で」

「ヤシダさんたちが連絡をくれたからね。そうでなきゃ何がどうなってるか知らないままだったし、きっとぼくはきみに腹を立て続けるだけで終わったと思う。それって最悪だ」そう言って、ポールは少し肩をすくめてみせる。

 あずかり知らぬところで“それって最悪”をさけることができた。おれの窮地を救ってくれた女性たち。接待バンザイ。思わぬところに外交効果があった。

「ぼくは彼女たちのこと誤解してた」と、ポール。

「ふたりから連絡をもらって、ぼくは自分の発言を反省したよ。“風船アタマ”とか、ひどいことを言って。日本人の女の子をイメージで見て、それをひと括りにしていたから、そういう言葉が出てしまったんだね。少し住んでいたからって、ぼくはこの国のことをわかったつもりになっていたんだけど……でも実際は何もわかっていなかった。彼女たちがどんな人間なのかとか。心配してぼくに電話をくれたり、きみと一緒に鶴を折ってくれるような子たちだったってことなのに。それにきみのことも」

「おれのこと?」

「きみの仕事についてもひどいことを言ったね。謝るよ」

 何を言われたか、おれは覚えていなかった。“それって何だっけ”という顔をしているおれに、ポールは補足する。

「覚えてない?“きみの業界はタテマエ主義”」

「ああ」それか。

「たてまえを貫き続けるのもある種の誠意だって、ぼくもそれは接客業だからわかっていたはずなのにね。ああいうときのぼくは本当に駄目なんだ。かっとなると言葉を選ばなくなる。後になっていつも恥ずかしい思いをするんだ」

 言われてみれば、確かに彼にはそういう性質がある。いつも穏やかで、賢い選択をする男だとおれは思い込んでいたが……。

「ぼくはきみのこともわかったつもりでいて、それに腹を立ててた。理由を聞きもせず、“また約束を破られた!”って。何が起きているのかも知らず、相手の気持ちも聞かず、それで勝手に合点して、きみを悪役にして、自分を被害者にしてたんだ。実際はきみのこと、見てもいなかったっていうのに」

 それはおれも同じだ。おれが気付いたことと、まったく同じことを、ポールもまた別な場所で得ていたのか。

「きみの行動の些細なことで、怒ったり悲しんだり……この数週間、やたら感情が揺れたよ。すっかり“自分自身でいる”ってことを見失ってた。きみの行動にぼくは反応するだけで、自分から何かを発しようとはしなかった。しなかったくせに、きみのやり方に腹を立ててた。ただ座って文句を言ってるだけになってること、ぼくは気付いていなかったんだ」

 彼の言葉は明確でわかりやすかった。ここにたどり着くまで、ポールはどれだけつらい思いをしたのだろう。

「ぼくはまったく愚かになってしまっていた。それはどうしてかって……怖かったから」

「何が怖かったんだ?」おれは距離を詰め、彼の手に自分の手をそっと重ねた。

「きみがぼくから離れていくことが。ぼくは“理解ある人”の振りをしてた。“鬱陶しい、邪魔だ”。きみにそんな風に思われたくないから」

「まさか。おれはそんなこと……」

「きみがそう思ったかはこの場合関係ないんだよ」と、ポール。「きみが思うと思わざると関係なく、ぼくはそういう恐れを持ってた。その結果、ほんとうに“鬱陶しくて邪魔だ”と思えるキャラになっちゃってたよ。いつもきみを必要している子供みたいに」言って、ポールは“あきれた”とでもいうように、笑ってみせた。

 自分の愚かさを笑えるということは、それが既に過去のものとなっているから。ポールは愚かな自分を見つけ、それを許し、同時におれのことも許した。風変わりな天使の一団をおれに派遣したのがその証拠。合い言葉に『メリー・クリスマス』を選んだのがその証拠。

 あれは去年のクリスマス。『きみを許す』という言葉と共に、おれに贈られたメッセージ。おれたちの関係はそこから始まり、今に至る。メリー・クリスマスは、ただのグリーティングの挨拶じゃない。おれにとっては想い出深い、特別な意味のあるキーワードだ。

「なあポール、“メリー・クリスマス”は、日本語でどう言うんだ?」

「“メリー・クリスマス”」

「ほんとに?」

「だってクリスマスはヨーロッパの祝日だもの」

「ああ、なるほど」

「そんなの聞いてどうするの?」

「なに、日本語のボギャブラリーを増やそうと思っただけさ」

「他にはどんな日本語を?」

「“どーも”を覚えた。みんな言うだろ」

「かなりオールマイティな言葉だもんね。あとは?」

「“カッコイイ”」

 おれがそう言うと、ポールは笑い声を立てた。

「例文も作れるぜ。ポール、きみは“カッコイイ”」

「ディーン、きみは“カワイイ”」

「おい!」

「ごめんごめん、訂正、きみも“カッコイイ”」

 目を三日月形にしてくすくす笑うポール。ようやくおれたちは元通り。笑いとキスでベッドの上に倒れこむ。

 地球管制塔に告ぐ。おれとポールは無事『ゾーン』を脱出。見事に困難を乗り切った。未知の領域に突入した、勇気ある乗組員の偉業は称えられるべきもの。さらなる理解と新しい言語を得、今や日本は見知らぬ惑星などではなく、愛すべき人々が住む場所と変貌。室内気温は上昇中で、おれたちの周りにはバターもチョコレートも置いておけない。サムライにはほど遠いが、この場所、おれはとても気に入ってるんだ。


End.

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