第8話:ゲイ入門!(Secret)
「───どう思う?」
「……テロリスト」
「そうか……こっちは?」
「ドラッグの売人」
「これは?」
「禁酒法時代のギャング?」
「これ」
「ジョン・レノンのマニア」
「じゃ、こっちだ」
「テロリスト」
「またテロリストか……どうして悪者ばっかりなんだ?」
「きみが選ぶものはどうしてかカタギには見えないんだよね。ヒゲのせいってわけでもないんだろうけど……これはどう?」
以上の会話から、おれとポールが何をしているかを当てることができたら大したもの。
今おれたちがいるのは14丁目のアイウェアショップ。この夏、むりやり勝ち取った連休をビーチで過ごすべく、その準備に追われている真っ最中───。と、いうわけで設問の答えは→〈バケーション用のサングラスを物色しているところ〉。
ニューヨーク郊外のリゾート地、ファイア島。複数の友人同士で家賃をシェアしている別荘で、おれたちは初めて、ふたりきりの旅行を体験する。海まで五分、一番近いレストランは二十分。車の乗り入れすらも禁止されている環境の中、都会の垢を落としまくり、心身ともにリフレッシュできることを思えば、出発直前までの残業すらも何ら苦痛たり得ない(と、思いたい)。
とっかえひっかえサングラスを選ぶ。旅行の準備はとても楽しい。ひょっとしたら旅行そのものよりも楽しいんじゃないかって思えるほど、準備段階はエキサイティングだ。
「ほら、これはいいんじゃない? 鏡見てごらんよ」
「どれ」
ミラーに映るクールガイ。さすがは我が恋人。いい見立てだ。
「どう見える?」
「スーパーモデル」
「よし、これにしよう」
旅行の準備はとても楽しい。そう、準備段階まではとても……。
「ほんとあきれた。いったい何なの。どういうつもりでそんなことを」
「どういうつもりもない。別に悪気はなかったんだ」
「あってたまるもんですか。あなた、テンプテーション・アイランド*に流されたら即脱落するタイプでしょ」(*テンプテーション・アイランド=カップルが南の島に軟禁され、魅力的な異性から迫られても愛を貫けるかどうかを試すテレビ番組)
以上の会話から、おれとローマンが何をしゃべっているかを当てることができたら大したもの。ちなみに今おれたちがいるのは、ヴィレッジにある行きつけの飲み屋。
「“悪気はなかったんだ”なんて、言い訳としちゃ終わってるわ。人に詫びるならもうちょっと誠意あるコメントが望ましいんじゃなくて?」
正論ぶちかますローマン。さきほどの設問の答えはこうだ→〈バケーション中のディーンの失敗について告白、及び説教を食らっているところ〉
ファイア島での素朴な生活。地元のマーケットで新鮮な野菜を買い、持ち込んだワインの栓を抜く。となりのコテージには、同じくマンハッタンからの女性が二名。海に太陽が落ち始めた頃、生け垣の向こうから、彼女たちがおれに声をかけてきた。
「今夜のディナーを一緒にいかが?」
おれは答える。「ああ、いいね」
その夜、おれとポールは女の子たちと和やかにディナーを……過ごしたりはせず、ただひたすらに言い合いをしていた。楽しかるべきバカンス。初めてのふたりきりの旅行。それは喧嘩に彩られ、ちょっとやそっとでは忘れられないであろう、ちっとも素敵ではない想い出となってしまった。
「ポールはふたりっきりでゆっくりしたかったのよ。誰にもじゃまされずにね」ローマンはつんと鼻を上に向け、カクテルを口にする。
「彼女たち、バーベキュー用の肉があまって困ってるって言ったんだ。男の人に手伝ってもらわないと食べきれないって」
「馬鹿ね。そんなのボーイハントの見え透いた手口よ。その子たち、バーベキューと一緒にあんたたちのお肉も食べちゃおうって魂胆だったに決まってるわ」
「下品なこと言うなよ!」
「可愛かったんでしょ」
「なに?」
「その娘さんたち。美人だったんでしょ」
「ああ、まぁ……」
“ああ、まぁ”というのは控え目な表現かもしれない。彼女たちは金髪で、肌は陽に焼け小麦色。体格は小柄だが、胸は大きい。浜辺の一軒家で自炊するのが向いている感じではなく〈シンプルライフ〉の企画でここに押し込められたような、そんな“娘さんたち”だった。
「もし美人じゃなかったら、そこまでの喧嘩には発展しなかったでしょうね」と、ローマン。
「彼女たちが美人だからポールがヤキモチ焼いたってのか? もしブスだったらなごやかに終わってた?」
「そうじゃないの。そもそもの発端はあんたなんだから。もしその子たちがブスだったら、あんたはなびかなかったでしょ? 美人だからあんたは誘いを受けた。ポールは恋人の下心に反応して腹を立てた……そういうことよ」
“まったくその通りだ”とは言い難いが、“まったくピント外れだ”とも言えない意見。ノーコメントになるおれに、ローマンは哀れっぽい、芝居がかった声を出す。
「ポールが可哀想。こんな馬鹿でスケベなストレートの男に惚れたばっかりに……」
「ああ、そうだろうよ。悪いのはいつもおれだ」
「あら、この人ったら。スネて開きなおっちゃったわ」
「確かにおれが悪かったよ。でも自己弁護させてもらえば、おれだって……自分が普通のゲイだったらこんなことになったり、ましてやこんな風に悩んだりなんてしないよ」
「どういうこと?」
「ビーチに行っても、おれは女の子にしか感じない。でもおれはポールが好きで、彼とつきあってる。ゲイじゃないのに男とつきあって、セックスまでしてるんだ」
「そうね、あんたはゲイじゃないわね。あたしを見てもなにも感じないんだもの。あなた病気よ」
「きみを見て感じるようになったら、そのときこそ病院に行くよ」
「減らず口に突っ込むわよ」
「突っ込む? なにを?……あ、いや、言わなくていい」
「あんたの審美眼はどうかしてるのね」
「おれだって、きみがハンサムだってのは認めてるよ。知らずに見たら憧れすら抱くかも。けどそれもきみが口を開くまでのことだ。きみのしゃべり方ときたら、すっとんきょうなゲイそのものだからな」
「あらそ、黙っていればいいわけ?……こんな感じ?」
言ってスツールの上でこれみよがしに足を組み替える。カウンターに肘をつき、手で顎を支え、その視線は遥か遠い彼方へ。形のいい鼻、深みのあるヘイゼルの瞳。絹糸のようなダークブロンドと、キャラメル色に磨かれた肌。ミケランジェロが創造したと言っても差し支えないような美の傑作がそこにいた。
「ああぁ! 馬鹿くさい!」バーテンダーがびくっとするほどの大声を出し、居住まいを戻すローマン。
「とってもやってられないわ! 意味もなく不機嫌そうにしているなんて真っ平!」
そう、これがいつもの彼。巨匠も魂を入れ忘れたというわけだ。
「30秒も黙ってられたのは新記録じゃないのか?」
「そんな記録、別に伸ばしとうございません。あたしのおしゃべりもあたしの一部よ。仏頂面のモデルみたいにはしていたくない。自分を隠してまでして他人に気に入られようなんて思わないわ。いつも自分自身でいて、人生を楽しむのがローマン・ディスティニーのモットーなんだから」
「“いつも自分自身”。そのアイデンティティがおれにはもうよくわからないよ。ポール以外の男に性的に感じることはないし、こういうのはなんて言うんだろう?」
「バイセクシャルでいいんじゃないの?」
「ちがうだろ? おれは男と寝たいなんて思わない。きみは自分自身でいることに躊躇はないよな? ゲイであるというアイデンティティにおさまってることに疑問もない」
「ええ、そうね」
「“あるひとつの性別のみを愛す種族”って点において、ゲイはストレートと同じ立場にあるんだよ。でもおれはどうだ? そのどちらでもない。かつては完全なストレートと言えたけど、今はかなり微妙な立場に置かれていて、その状態がおれにはどうも中途半端な感じなんだ」
「なにが問題なの? あなたたちうまくいってるじゃないの」
「ポールとのことじゃない。おれ自身のことさ。自分が何者かわからないことには、どうにも落ち着かない」
「どうもあなたの悩みは具体的じゃないわね。何が問題で一体どうしたいって言うの?」
「それがわからないのが問題だ」
「そういう人が多いからニューヨークの精神分析医はベンツを持てるってわけなのよね。悩むのもいいけど、“掘るべき穴”と“掘らずともよい穴”の区別はつけておかないと……あら失礼、メールが……」と、点灯する携帯を取り出し、それを開く。
「やぁん、ショーンからよ!『明日の夜はヒマか?』ですって! 明日はアレックスの舞台を観に行かなきゃならないのに! 一年は365日もあるのに、なんだって重なるのかしら! どうしよっ! 悩むわ!」
「…………悩めよ」
所詮この男にはおれの気持ちなんてわからない。そもそも彼はゲイであり、おれの恋人もそれに同じ。おれに共感できる者がいるとしたら、それは『ゲイの恋人を持つストレート』なわけだが、そんなヤツがそうそういるとは思えない。
ぽちぽちと返信を打つローマン。携帯をぱたんと閉じて、再度おれに向き直る。
「解決方法はひとつだけ……ゲイにおなりっ!」
「無茶ゆーな!」
「何が無茶よ。そもそもあんたポールの“彼氏”じゃないの。女なんかスッパリあきらめて、ちゃんとしたゲイになれば、ポールも安心、あんたも苦しむことはない。世界中の女たちにも平和きわまりない状態が訪れる。どう? それがベストな解決方法じゃなくって?」
そうかもしれない。この苦しみの原因は、おれが『自分はストレートだ』というアイデンティティを持っているからだ。しかし『おなり』と言われて、そう簡単になれるものではないがゲイの道だ。
おれがそう訴えると、ローマンはうなずき同意した。
「そぉね、このあたしにもなびかないんだもの……これはちょっと難しいかもねぇ」
「“残念ですが、手のほどこしようがありません”、そういうことか?」
「どうかしら……」と、考え込み「ん! いいこと思いついた」と、目を見開く。
ローマンの“いいこと”とは、たいてい妙なことだというのは、この付き合いのうち嫌というほどわかっていたつもりだったのだが、自己のゆらぎに苦悩するおれの判断能力は、このとき著しく低下していた。
「あなたにある男性を紹介してあげましょう。その人に会って話を聞いてごらんなさい。きっと何か得ることがあるはずだから」
「なんだそれ? カウンセラーか?」
「そうじゃないわ。ただの素敵な大人の人。とっても素敵なゲイの男性。彼のことを“ゲイのなかのゲイ”って表現する人もいるほどよ」
「ゲイのなかのゲイだって?……ああ神様」
ポリスハットにレザーのショートパンツ、黒々とした口ひげを蓄えた大人の男。もしくは海兵隊の格好をした、ぴったりとした半ズボンの……。
「ちょっと……なんか違うの想像してるでしょ! あたしのセンスはそんなんじゃありませんからね!」おれの頭のなかを覗きでもしたかのようにシャウトする。
「ゲイの中のゲイに手ほどきしてもらえってのか? 正しいゲイになるために?」
「魅力的な人間に成長するのにゲイもストレートも関係ないわよ。ねぇ、あなたのまわりに魅力的な大人の男性っている?」
「いるさ。おれだ」
ローマンは“冗談やめて”と言うように、顔の前で手を振った。
「そうじゃなくって、もっと年上の、手本になるような大人の男のことよ。どう? いないでしょ?」
たしかに。そういう男性はおれの周囲に存在しない。そもそも“男性”自体の存在が希薄なのだ。おれの父親はおれが生まれてすぐに他界している。母親と姉に可愛がられて育ち、成長後は女性が七割を占めるオフィスに働き、そこでは女の上司に“可愛がられてる”。おれの人生は女にまみれてる。こないだまではありがたいことだったが。
「現代のアメリカには若者の手本となる大人ってものがいないのよね」と、ローマン。「ネイティヴ・アメリカンの社会や古代中国には必ず先達というものがいて、その生き方を見せることによって、若者が社会のなかで育っていく環境にあった。でも今、この国でそういう人を見つけるのはとても困難なことになってしまったと思うの。ヒーローやヒロインは架空の物語のなかだけに生きている。それってあまり幸福なこととは言えないわ」
その意見は確かに一理ある。おれが素直に同意すると、ローマンは「どう? “すっとんきょうなオカマ”もたまにはいいこと言うでしょ?」と、唇の端をくいと上げた。
「“オカマ”なんて言わないよ」おれは苦笑し、カクテルのチェリーをつまみ上げ、彼のグラスに落とす。ローマンは満足そうに微笑み(それは本当に美しかった)言葉を続ける。
「みんなすぐ“ゲイだストレートだ”って大騒ぎしたがるわよね? そういう観念と未知のものに対する怖れが自分自身の世界を狭めてしまっている……ねぇ、そう思わない?」
“みんな”という柔らかい言い方を彼はしてくれたが、“ゲイだストレートだ”って大騒ぎしてるのはおれのことに他ならない。おれはつまらないことにこだわって、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる、固定観念でいっぱいのストレートってことなんだろうか。
「それで? 世界を広げれば“パーフェクトなゲイライフ”が手に入るってのか?」
指摘された恥ずかしさも手伝ってスノッブに言い放つおれに、ローマンは忍耐強い態度を続けてくれる。
「何度も言わせないで。ゲイとかストレートとかは関係ないのよ。ただ単に“素敵な大人の友人をあなたに紹介しようか”って言ってるのに。まあ、嫌だっていうなら無理強いはしないわ」彼はここで言葉を切り、「どうする?」と、おれの顔を見つめて言った。
どうするかって? 答えはもう決まっている。
社会的に成功している地位にあって、カミングアウトしている大人の男。ミュージシャンやアーティストにはそれも少なくないが、一般企業の中で同性愛者を宣言するのは、かなり勇気のいることだ。サンフランシスコのベイエリアや、このマンハッタンにおいて、社内にゲイを探すのはそう難しいことではないが、上場企業の会長クラスとなると、そうした人間をおれは知らない。政治家にもゲイはいる。しかし高い地位に就任できるかと言えば、それは女性が大統領になるのと等しく困難なことだろう。
これから会う男はゲイというアイデンティティに生き、この男性社会でひとかどの地位を築きあげた大人物。そのこと自体は素晴らしいと思うが、おれ自身“手本になるような大人の男”を求めているわけではないし、ましてや“とっても素敵なゲイの男性”にワクワクする資質も持ち合わせてはいない。この話に乗ったのはただ単にちょっとした好奇心から。“ゲイの中のゲイ”ってのがどんなものか興味もあったし、“ゲイの中のゲイ”には、いくつか聞いてみたいこともある。
相手が指定してきた待ち合わせ場所はワシントン・スクエア近くのバー。そう広くはない店内。カウンターと小さな丸テーブル。ほどよい音量で流れるジャズは、たったひとりだけいるバーマンの趣味なのだろう。無駄な装飾はいっさいなく、飴色になった柱や椅子が静かに存在を主張する。しつらえのすべてがヴィンテージとなった(バーマンもだ)この店が、観光客のたまり場となることから救われているのは奇跡に近いことのように思える。古き良きアメリカ。愛すべきオールド・カントリー。こういうのが“ゲイの中のゲイ”の趣味なのだろうか。だったらおれでも共感できそう。少なくとも、ここからレザーのショートパンツ男は連想しにくいというものだ(ほっ)。
カウンター席のすみっこに腰を落ち着け、まだ見ぬ男を待ち続ける。このセッティングはローマンを通して行われ、おれは相手の顔も声も、メールアドレスさえ知りはしない。指定された待ち合わせ時刻はとうに過ぎ、腕時計のルーレットでひとり遊びをして時間をつぶすが、ほどなくしてそれも飽きる。時間が経つにつれ、落ち着かなくなってきた。入り口の扉が開くたび、緊張の度合いが増しているような気がする。なんたって男とのブラインド・デートは初めてだし、しかもそれが“ゲイの中のゲイ”ときた日には……。こうしてスツールから入口を眺めていると、入ってくる客の全員がゲイに見えてくる。もしかしてここは“そういう店”なのか? だから観光客も寄り着かない?……ああ、それは考え過ぎってもんだ。こういうのがおれの悪い癖。ルーレットでもやって頭を空っぽにしておこう。いずれ相手はやってくるんだから。
無心に腕時計と勝負を続け、架空の相手と八勝五敗になったあたりで、「ディーン?」と声をかけられる。おれがそうだと答えると、「待たせてすまない」と、詫びを口にする。遅れて現れたのは五十がらみの長身。待たされた腹立ちもあり、おれはそっけなく「お仕事がお忙しいんですか」と、訊ねる。
「いや、仕事じゃない。ジムで泳いでいたら、うっかり時間を忘れてしまって。本当に申し訳ない」
“プールで時を忘れる、大人の男”─── 〈エスクワイヤ〉のようなコピーが浮かぶ。
名乗った男はハリー・フランドル。“フランダース”ではなく、“フランドル”というあたり、ルーツに高貴さが感じられる。おれが「フランドル」と呼びかけると、「ハリー」と訂正を入れるのは、これが会社の付き合いではないことを意味している。
ハリー・フランドルはグレンリベットをオーダーした。「数字の大きい方で」と、付け加えると、マスターは「かしこまりました」と、唇の端を微かに上げて見せる。
“数字の大きい方”、それは殺しの暗号───。いや、そんなわけはない。となりに座っているのは007の登場人物じゃないんだから。それどころか、何と言うか……“ゲイの中のゲイ”はずいぶん普通に見えるじゃないか。面食いのローマンがあんなにも褒めあげるんだから、さぞかし美男子だろうと思っていたのに、アテが外れた。てっきりジョージ・クルーニーのような男がやってくるかと想像していたのだが。
この店の常連とおぼしき彼がマスターと親しげに話す間、おれは彼を観察する。しっかりした目鼻立ちはイタリアン・アメリカンを思い起こさせるが、名字がフランス風なのでイタリア移民ではないだろう。アンティークブラウンのスーツ、タイはしていない。よく見るとジャケットとパンツは別モノだ。この着こなしからすると、ジムの更衣室でうっかり他人のジャケットを着てきてしまった、というわけではないだろう。同系色の上下を別にするのは一歩まちがえるととんでもないことになるが、彼は上手にこのハズシ技をやってのけている。どうやらかなりの洒落者らしい。品のいいスーツでも隠しきれない肩の筋肉。これは水泳のたまものか。バタフライのあとにデートの予定を入れるなんて、この年齢にしちゃ大したもの。おれは28だが、そんな気力はとてもない。
ハンフリー・ボガードに酒を作ってきたようなマスターが、静かにグラスを滑らせる。ハリーは「新しい出会いに」と、軽くグラスを持ち上げた。嫌らしくかちんとぶつけるなんてことはしない。袖からチラリと見えた腕時計はトゥールビヨンのブレゲ。さすが実業家。おれとはまるっきりケタが違う。こっちもかなり頑張ってきたつもりだが、張り合うだけ無駄。おれのは高級品、彼のは芸術品だ。
おれが酒を口にするのを見て、「気に入るといいが」と、ハリー。おれは頷き、「おいしいです」と、コメント。こういうときにウンチクをひけらかす輩を軽蔑してはいたものの、あまりにも無知というのも些か恥ずかしい。おれは酒にあまり強くなく、その知識も同じ。数字の大きいグレンリベット。たしかに旨いが、これは一杯が限度だろう。
「おれにはちょっと強いみたいだ。水で割ってもいいですか」
「もちろん」
「“分別のあるものはウィスキーをストレートで飲む”と言いますけどね」定説を唱えるおれに、「その説はわたしに言わせれば、何の根拠もないことですよ」と、マスターが口を挟む。ハリーは「ここの水は良質な天然水だ」と教えてくれる。「アルコールにあまり強くないのであれば、割ることによってもっとおいしく飲めるよ」
優しい笑顔で「リベットにはジョージーかな」と言うハリーに、マスターが口ひげを動かした。
「チェイサーでしたらマザーウォーターと同じでもいいかもしれませんがね。こちらの方が飲まれるのであれば、軟水の方がよろしいかと……」
「ああ、わかった、わかった。好きにしてくれ」手を振り、笑うハリー。マスターも微かに微笑みを見せる。何のことやら、おれはさっぱりわからない。わからないが、なにかかっこいい。これはもう相手にまかせたほうがよさそうだ。
水を足され、薄まったアンバーに口をつける。それはハリーの言った通り。ちょっと薄めただけで、喉ごしがよくなったばかりか、香りもわかりやすくなった。豊かな芳香に心が休まる。緊張を解くには酒の力を借りるのがベストというのは、定説中の定説だ。
互いの職業を軽く紹介し合ったところで、おれは彼に“いったいどうやって成功をおさめたのか”という趣旨のことを質問した。
「わたしは運がよかっただけだ」ハリーはそう言って酒を口に含んだ。答えは簡潔。あまりにも短い。“運がよかっただけ”なんて、もちろんそんなことあるわけがない。こいつはずいぶんと謙虚なコメントだ。ちょっと格好悪いまでに謙遜してくれるじゃないか。
「なんだかビジネスウィーク誌みたいな質問だね」と、ハリー。“みたいな”と言うからには、その筋から質問を受けたことがあるのかも。
「そんなことがきみの聞きたいこと?」と、眉を上げる。
ああ、そうだ。そうじゃなかった。ここにはビジネスのノウハウを聞きにきたんじゃない。おれにはもっと切実な問題があって、その助けになるかもって話で、今日はここにいるんだった。
「あの……ちょっと立ち入った質問をしてもいいですか?」
「立ち入った質問──なにかな?」
「あなたはいつからゲイなんですか?」
突然の質問に、ハリーは目を見開く。それからグラスを見つめ、ぽつりと「十五年前だ」と、静かに答える。
十五年───。それは思ったより最近だ。彼はぱっと見、五十は過ぎてるから、そうすると三十代後半に入ってからゲイになったという計算になる。
「それ以前はストレートだったんだよ。だが妻をお産で亡くしてね。わたしがゲイになったのはそれからだ」
「えっ? それは……今まで奥さんを愛していたのに? そんなふうにいきなりゲイになれるものなんですか?」
「うん、そう。妻を亡くしたのはそれで三度目だから」
「三度目?」
そう聞きかえすと、カウンターの向こうから突然、怒声が飛んで来た。
「この意地悪のくそジジイ! 坊やが目を丸くしているじゃないか!」
おれは目を丸くした。物静かなハンフリー・ボガードのバーマンが、不似合いな言葉でハリーを怒鳴ったので、びっくりしたのだ。
マスターに注意をひかれたため、言葉の意味がすぐには飲み込めない。ハリーは笑いをかみ殺している。その表情が目に入ったところで、自分がからかわれたことに、おれはようやく気がついた。
「ハリー、ひどいですよ。そんな冗談を言うなんて」
「いやいや、すまない。だがきみも失礼だぞ。“いつからゲイか”など、初対面の人間に聞くべき質問ではないと思うが?」
言われてみればその通り。ここは酒の力を借りすぎたかも。おれが謝罪すると、彼はにっこりと笑い、「ではちゃんと答えよう」と、背筋を伸ばした。
「わたしのゲイは生まれつきだ。妻を持ったことなど一度もないよ。これで満足かね?」
わたしのゲイは生まれつき───。生まれつきダンスが上手、生まれつき絵が上手。生まれつきハンサム、生まれつきゲイ。これはどうしようもないことなのだろうか。なんだかストレートであることがハンディキャップのように思えてきた。
「途中からゲイになるのはまれなんでしょうかね?」
「わたしの知る限りでは少ないね。女性と結婚した後にゲイに目覚めた、なんて話も聞くが、それは単に自己認識する前に女性と結婚したに過ぎないとわたしは思う。自分がゲイだと自覚するのは必ずしも思春期だとは限らない。中年にさしかかってから、ようやく己を発見する者もいるんだ。それが早いか遅いかの違いだけでね。根っからストレートだったものが、途中からゲイになるとは考えにくいよ」
がっかり? ばんざい? おれはどういうリアクションをとればいいのか。黙ってグラスを見つめていると、カウンターの上にあるおれの手に、ハリーがそっと触れてきた。
きた───。おれはそう思い、身を硬くする。落ち着け。服をむしりとられたんじゃないんだ。手を触られたくらいでビクビクするなって。
「“カエサルのものはカエサルへ”」と、ハリー。おれの指輪に指先で触れ、「このコインは1シェケルだ」と言った。
「シェケル?」
「シェケルはローマ時代の通過単位だ。銘はジュリアス・シーザー。聖書によく登場する貨幣だよ。“カサエルのものはカサエルへ”───キリストの有名な台詞はこの貨幣だ。ジーザスはそう言って、税金を払うことに同意したんだ」
「1シェケル……そこまで注意して見ていなかったな。アンティークのコインを加工したものだとは知っていたけど」
「実業家は金にめざといんだよ」
教養を冗談めかすハリー。うんちくを垂れても少しも嫌味ではない。ひとつのアクセサリーからこんな教養が飛び出すとは大したものだ。ローマンだったら『あら、どこのブランド?』とか言うところだけど。
「紀元一世紀頃には、これ一枚で百ドルくらいの価値はあったはずだ。今から二千年も前、これはキリストの手のなかにあったかもしれないコインだよ。それが今きみの指にはまってる。これまでどこをどう旅してきたのか……実にロマンがあるじゃないか」
男のロマン。ロマンティック。おれはもしかして口説かれているんだろうか。
「きみのきれいな指によく似合ってる」
そう言ってハリーはおれの手から、さっと手を引いた。決定。おれは口説かれている。それにしてもなんてうまい口説き方だろう。手に触るにしてもこれなら自然だし、聖書についての話題と一緒なら、少しも嫌らしくならない。そしておれの手を褒めたところで、手をどけた。こっちが意識したところで手を引く。これは駆け引きだ。実業家の手腕おそるべし。ビジネスウィーク誌に載る男は、口説きのテクも財テクと同じぐらい得意なのだろう。
ウィスキーの杯を重ねるハリー。こっちは二杯目からカクテルに変更。柑橘系のさっぱりしたものをと考えていると、ハリーは“シャンパン・ア・ロランジェ”はどうかと、おれにオーダーしてくれた。聞き慣れない名前のそれは、出されてみれば何のことはない、“ミモザ”の別名だった。このカクテルは名前の通りシャンパンベースで、たった一杯のために一本のボトルを開ける、とても贅沢なものとして知られている。
景気のいい音をたて、抜かれたシャンパンの銘柄はドンペリニヨン。マスターがボトルを手に取った瞬間、血の気が引いたが、今日は頼もしい男がとなりに座っているのだからと自分に言い聞かせ、喉まで出かかった叫び声を押さえることに、からくも成功する。
おれがトイレに立っている間に支払いを済ませたのか、はたまた店のツケにしてあるのかは不明だが、とにかく会計に関しては、心配していたようなことにはならなかった。腕時計を置いてくることもなく、おれたちはスマートに店を出る。
裏通りは藍色に色を替え、『食べられません』の表示がされた生ゴミ入れも、今の時間は異臭を放つでもなく、大人しく沈黙している。
本物の大人しか入ることのできないバー。高価な時計と高級なカクテル。普段見ることの出来ない世界を垣間見れたのは確かに収穫だが、ローマンはいったいおれに何を体験させたかったというのだろう? 口ひげのポリスハット、半ズボンの海兵隊、男好きのジョージ・クルーニー……。今日の出会いはそんなものじゃなかった。“ゲイであっても思ったより普通”。それが今のところまでに得た真理で、ゲイの中のゲイとのデートは思ったよりもノーマルだ。
表通りに出る道を並んで歩いていると、「きみは始終わたしを値踏みしていたね」と、唐突にハリーが言ってきた。
「それでどうだね? わたしという男は合格なのかな?」
「合格……と、言われても……」
「不合格?」
「何について“合格”なのか」
「わたしと寝たいと思ってくれたかということだ」
息をのむ急展開。ローマ時代の貨幣について語りながら触れてきた男が、こんな直球を投げてくるとは。これは“メリハリ”というやつなんだろうか。
固まるおれに「どうした?」と訊く。
「いや、その……ずいぶんストレートに言うんですね」
「ゲイでも“ストレート”に言うよ」ハリーはニヤリ、微笑みを浮かべた。
藍色の帷が降りた裏通り。周囲に人気はない。いるのは野良猫くらいのもので、これがボギーなら、バーグマンにキスするシーンに相違ない。
ゲイの中のゲイとの間に沈黙が流れる。ローマンはおれのことをなんて言ってあったんだろう。まさか『この子を食っちゃっていいのよ』とか? ハリーはおれに恋人がいることを知らないんだろうか。いや、例え知っていたとしても、そんなのは関係ないとか……何にしてもこのままじゃマズイ。効果があるかどうかわからないが、とにかく真実を告げてみることにしよう。
「あの……ハリー。おれには…その……パートナーがいるんです」
「パートナーだって? 女性かね?」
保身を考え、わざわざ“パートナー”という性別を特定できない単語を選んだのに。しかしいまさらストレートの振りをすることもできない。
「……男性です」
「そうか。もし女性と言ったら許さないところだったが」
聞いておれは首をそびやかす。危ないところだった。
「だったらなぜわたしとデートを?」
怪訝そうに眉根を寄せる、ハリーの質問におれは答えられない。ほんと、なんでおれは彼とデートしてるんだ? 寝る気もないのになぜ?
「パートナーか……ではきみはうわついてないというわけだな?」
質問は続く。この答えはそう難しくはない。おれはうわついている。ビーチのレズビアンカップルに目をうばわれるほどだし。答えは簡単だが、この問いにも沈黙をもってして答えるしかない。
「だったら帰りたまえ、恋人が待つ愛の家へ、さあ」
追い払うように手を振って言うハリー。怒らせた。そりゃそうだ。逆の立場だったらおれだって腹が立つだろう。
「きみはわたしに対しても、きみのボーイフレンドに対しても、なによりきみ自身に───とても失礼なことをしたんだ」
もっともだ。最後の“おれ自身に”ってところの意味はよくわからないが、ハリーとポールに失礼なことだってのは、よく理解できる。
おれは素直に謝罪し、それに付け加え、“もっと話が通っているものと思い込んでいた”と、言い訳もした。誠意ある謝罪、解説と弁明。こういうのは取引先とよくやる会話だ。相手が納得し、情状酌量してくれるまでなんとしてでも食い下がる。こんな道っぱたでこんな展開になるとは思ってもみなかった。
おれの話を聞いたハリー、「きみは自分のアイデンティティに不安を覚えているというわけか」と、長い言い訳を集約して言った。
「ではひとつきみを安心させてやろう。きみはきみが心配しているような“オカマ野郎”などではないよ。きみはわたしが知っているゲイの子たちとは、あまりにもかけ離れた性格をしている。あてはめるとすれば……そうだな、きみはわたしの部下たちによく似ているよ。闘争心が強く、男らしいプライドに満ち満ちている」
ガツン。やられた、本当にその通りだ。ハリーが言ったのは、“ディーンを形容するすべて”ではないが、まったくの外れというわけではない。この数時間ばかりのおれは確かに、今しがた言われたような奴だった。おれはハリーのことを“ゲイである”というフィルターでもって、物見高に見ていた。それを観察するのに忙しく、彼自身の気持ちというものを推し量ろうとはしなかった。自分がなにをやっているのかも気づかず、失礼な質問を浴びせかけた。おれは見ていなかった。彼のことも、自分自身のことも。おれは失礼なことをした。彼に対しても、自分自身に対しても。
黙りこくるおれに、ハリーは頭を振ってつぶやく。
「何と言うか……今夜のことはショックだね。ありていに言って悲しいよ」
“悲しい”───こんな大人の男性が“悲しい”という単語を使ったことに、軽い驚きを覚える。なんだかこっちがショックだ。おれは彼を悲しませたのか。
「おれはてっきり……あなたを怒らせたものと」
「もちろん怒ってもいる」と、彼。「しかしそれだけじゃあない。人間の感情はもっと複雑……いや、もっと単純なものだ。“怒り”の先にはいったい何があると思う? それは“悲しみ”だ。“悲しみ”は“怒り”に姿を変え、“怒り”はさらに様々なものに形を変えることができる。“暴力”、“無視”、“怒ってない振り”というものあるだろうね。わたしはそのどれも採用しない。ただ感じるんだ“悲しみ”を」
ハリーの話を聞きながら、おれはここにいるそもそもの原因に思いを馳せていた。それはポールとの喧嘩について。ポールはビーチでおれに腹を立てた。それは彼が“悲しみ”を感じていたからだ。自分の存在や気持ちを軽んじられたようで、寂しかったに違いない。そうした感情を彼は“怒り”という形で表現し、おれに不愉快な態度をとってきた。おれはおれで、そのことに腹が立った。ポールと同じく、自分の存在や気持ちを軽んじられたように感じたからだ。人間の感情は単純なもの。おれとポール、喧嘩の理由は単にどちらも“悲しかった”というだけのこと。そして今また、おれは“感情を持った人間”の前に対峙している。それはおれに“悲しい”と言っているのだ。
「すみません……なんと言ったらいいか……、その、今夜はお時間をとらせてしまって、どうも……」
さっきまでちゃんと話せていたのに、しどろもどろになってしまうのは、彼が“悲しい”と言ったからだ。“謝罪”ならば仕事で慣れているが、“ごめんね”と言うのは難しい。年上の地位ある男性に、友達に言うみたいに“ごめんね”と言うのは。
「まったくだ、どう責任をとってくれるね?」言って腕を組むハリー。
「責任……」
「一発殴られるか、それともキスされるか。どちらか選びたまえ」
仕事の後にジムで何キロも泳いでいるような男に殴られたらどうなると思う? ここで潔く殴られてやるくらい、おれがマッチョな男だったらこんなことにはなっていない。キスかパンチか───。オーライ! へなちょこで結構! 痛い思いをして顔に痣ができるくらいなら、おれはヘラジカとだってキスしてやる!
決心を固め、キスをと申し出ようとしたその瞬間、ハリーは爆発したように笑い出した。
「そんな真剣な顔をしてくれるな。からかっただけだ。すまんな、坊や。いや失礼」
さも可笑しそうにハリー。からかわれるのは今日で二度目だ。どこまでが冗談でどこまでが本気なのか、彼といるとさっぱりわからない。
「てっきりおれをぶっとばしたいのかと」と、おれは肩をすくめる。
「さっき言っただろう。“暴力”に訴えることをわたしは選択しないと」
「せっかく覚悟をきめたのに」
「ほんとに?」ハリーは眉を上げた。
「いや、殴られるのは御免ですよ。でもキスなら……」
そう言いかけるや否や、おれの唇は彼の唇によって塞がれた。暖かい、豊かな唇。数時間前に会ったばかりの、ハリー・フランドルにおれはキスされてる。しかも思いっきり深く……───。
よし、正直に言おう。こんなに素晴らしいキスをされたのは生まれてはじめて。おれだって経験は少ないほうじゃない。『キスがじょうずなのね』と女の子たちから言われたことだって何度もある。だがこれはどうだ? 唇を奪われただけで、脊髄がメルトダウン。16才の女の子みたいにキスを受け、その感覚の途方もなさに、すべてを明け渡してもいいとさえ思ってしまう……───たしかにそう感じたことを認めよう。目を開ける、その瞬間までは。目の前の顔は確かに魅力的だが、キスの後、情熱をさらにかきたてられる種類のものではなかった。彼はハリー・フランドル。おれのボーイフレンドじゃない男だ。
ふーっとため息をつき「とても我慢できなかった」と、ハリー。
おれは頭をかき、「まいったな……」と、つぶやく。「あなたは紳士かと思ったけど」
「紳士? きみみたいな子を前にして、何もしないのが紳士だと言うのならば、紳士などクソクラエだ!」
ハリーは笑った。それはまるでサンタクロースみたいな大きな笑い。最高だ。彼はなんて素敵なんだろう。おれは素直にそう思った。ハリーに憧れを抱くことはできる。しかしボーイフレンドにしたいとは思わない。それはおれがゲイじゃないからとか、そういうことではない。おれはポールが好きなのだ。
人間の感情は単純なもの。その単純さを、おれは性的アイデンティティの問題にすり替えて、とても複雑化してしまった。掘り下げ果てた後に発見する、単純な感情。“嬉しい”“悲しい”“好き”“嫌い”。それはいったいどこからやってくるのか。なぜポールを愛せてハリーでは駄目なのか。どうしておれはポールを好きになったのか。そんなことおれにもわからない。これは頭で理解することじゃない。今すぐにポールに会いたい。会って抱きしめたいと強く感じるのは理屈じゃない。
他の男とデートをしたが、結果的におれはポールへの愛を再確認させられた。こうなることをローマンは予測していたんだろうか。それともそれはまったくの偶然で『この子を食っちゃっていいのよ』とかいう話だったとか? もちろん彼の弁は以下の通り。
「そうよ『食っちゃっていいのよ』って言ってあったんだけどね」言って、スツールの上で長い足を組み替える。ここはヴィレッジにある行きつけの飲み屋。バーテンダーはゲイの若者。店のしつらえはヴィンテージと無縁。大人の隠れ屋も悪くはないが、今のおれには敷居が高い。イームズの椅子とベネチアングラスのライト。現代モダンが安心空間だ。
「残念だわ。どんな一夜を過ごしたか聞きたかったけど」
悪魔が何か言っている。呪いの言葉を。聞くなディーン。もうなにも聞くな。彼の言うことなど何も従うべきじゃない。
「でもそうはならないだろうなって思ってはいたわ」
「そりゃそうさ、おれにはポールが」
「なに言ってんの。あんたはテンプテーション・アイランドの脱落組だって言ってるでしょ。そうじゃなくって、あたしが言ってるのはハリーの方」
「彼?」
「あの人、とても好みにうるさいのよ。そう簡単に男の子を食っちゃったりはしないわ。ハリーのキスはすっごく素敵って話だけど、実際に試した子はいないのよ。そういう伝説だけが残ってて、それだけ選り好みが激しいってわけ。このアタシですら、頬以外のところにチューを貰ったこともないんだから」
「へぇーぇぇ! そうなのか!」
「あらなによ、その“へぇーぇぇ!”は」
「ふふふン♪」
「なによ、その“ふふふン♪”は」
「彼のキスは噂通りだって断言するよ」
「え?……なにそれっ! うそっ! いや!……ほんとに?」
訝しげにおれを見るローマン。その瞳を勝ち誇ったように見返すおれ。ローマンが次に発した金切り声で、おれは自分の勝利を知った。
「なによっ! あんたゲイじゃないんでしょ! あたしと交替しなさいよ! 憎いっ! ポールにバラしてやるからっ!」
怒りに頬を紅潮させる彼を見るのは気分がいい。これでちょっとは溜飲が降りた。これは“闘争心が強く、男らしいプライドに満ちている”おれならではの爽快感。ハリーが言ったような性質をおれは確かに持っていて、その事実については積極的に認めたいと思う。
あの日、ハリーから学んだのは“素直さ”だ。彼は自分のゲイを認め、自分の感情を認めている。人生をややこしくすることもなく、ただ素直に己を見つめ、それを表現している。
そんな大人、ハリー・フランドルはおれにキスをしたいと思い、そしてそれを実行した。背骨が溶けるような口づけであっても、おれにはさほどの意味はない。おれにとって“意味ある唇”はただひとつ。ときに愛をささやき、ときに罵詈雑言をまくしたてるそれに、おれはキスをする。
おれはディーン・ケリー、28歳のアメリカ人男性。性癖については現在のところ未確認。ただひとつ言えるのは、おれはポールが大好きで、それについてはトイレットペーパー一枚ほどの異存も挟めないということ。
ゲイのポールはストレートのおれを愛し、ストレートのおれはゲイのポールを愛した。この一文についての矛盾点はいくらでもあげられるが、そうすることはあまり重要じゃない。おれの人生で重要なことは、ポールにキスをすること。文法の誤りを見つけ出すのは頭の外にうっちゃっておけばいい。それともうひとつ、おれの人生で重要なことは→〈ローマンの言うことに容易く従わないこと!〉。素敵なキスと引き換えに得た教訓を、油性のペンで心のノートに書き付ける。“素直さ”を学んだおれではあるが、こればっかりは警戒レベルをAにした方がいい。彼を信じたばっかりに、素敵なバーで高級な酒をごちそうになり、指輪を褒めてもらって、素晴らしいキスを受けてしまった。それのどこがいけないのかって、文章から誤りを見つけ出すのは些か面倒なことだ。この体験も心のノートにしまいこみ、おれはローマンに手を見せる。
「この指輪、何かわかるか? これは“1シェケル”って言って、ローマ時代のコインなんだ。つまりこれはキリストの手のなかにあったかもしれない貨幣で……どう? ロマンティックな話だと思わないか?」
今夜もまた裏通りは藍色に色を替える。落日は紀元一世紀よりも前から毎日繰り返され、それは当たり前だけどロマンティックな話だとおれは思う。恋人たちの営みもそれに同じ。今夜もまたおれはポールにキスをし、それは今となっては当たり前で、だけどすごくロマンティックな話だとおれは思うんだ。
End.
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