第7話:恋愛小説家(Bedtime Story)

 バスタブのふちに腰を降ろし、タバコに火をつける。ここが喫煙所というわけではないが、ひとりでいれば自然とそれに手が伸びるもの。なにもすることがなく、手持ち無沙汰なとき、タバコは唇のいいパートナーになってくれる。

 どうしてバスルームでタバコを吹かしているかって、それは“やむにやまれぬ気の毒な事情”によってのこと。「すてきな芸術作品なんだから」と、いうローマンに説得され、週末、自宅を提供したのが間違いのもとだ。彼の言う“すてきな芸術作品”は、おれにとってのそれじゃなかった。おれが思う芸術とは、絵画や音楽、せいぜい映画などであり、“ポルノ映画”は、そのカテゴリに入ってはいない。

 現在、我が家の居間で行われているのは、ブルーフィルムの上映会。52インチの大画面に映し出される男同士のセックスは、おれを風呂場まで追いつめる迫力に満ちていた。たとえそれが偉大な芸術家の手によるものだとしても、テーマが“男同士のセックス”である限り、それをまんじりと鑑賞するほどの忍耐力を、未だおれは持ち合わせてはいないのだ。

 トントンとドアを叩く音に続き、「どなたか“お手水”を使っていらっしゃる?」と、丁寧な呼びかけが響く。

「開いてるよ」と、引きこもり男。

「ここにいたのね」

 現れたのは、この企画の発案者、ローマン。たいがいのロクでもないことは、彼から発信されるというのが、最近のおれの認識だ。

「トイレに立って、ずいぶん時間がかかってるから、てっきりマスターベーションでもしてるのかと」

「するか! 吐き気がする!」

「んまっ! 差別的発言!」ゲイの守護神は金切り声を上げた。

「受けつけないものは受けつけない。生理的なことだ。仕方がないだろ」

「ろくすっぽ見もしないでなにがわかるの? あの主演男優のセクシーなこと……彼の魅力がわからない?」

「別に。あんなにペニスが長きゃ、歩くときに大変だろうなとは思うけど」

「センスないわね」

「なくて結構。しばらくバスルームいるから、終わったら呼んでくれ」

 ローマンを追い出し、空のバスタブに寝転ぶ。遠く聞こえるは、野郎どもの黄色い声。それは“すてきな芸術作品”を賛美する響き。おれの“ゲイジュツ性”は、彼らに及ばず。ディヴィッド・ホックニーがなぜ裸の男ばかりを描いているのかを知ったときは、少なからず複雑な気持ちになり、キース・ヘリングの“ポップな絵”が何を意味しているのかを知ったときには、気が遠くなったもんだった。友達とパーティを楽しめないのは残念だが、精神に負荷がかかるような映像を延々と見続けることは、おれにとって拷問に等しい。

 もういっぽん、タバコに火をつけようとしたところで、ドアの向こうに笑い声が響いた。ドラッグ抜きのドラッグ・パーティ。あっちの世界はなんて楽しそう。理解できることと理解できないことがこの世にはあって、極力多くのことを理解できた方が豊かな人生はだろうとは思うのだが、そうであっても『ぼくもゲイ映画を楽しめたらなぁ!』とは思わない。芸術とはただの嗜好品。ルーブルに保管されていようと、道っぱたに並べられていようと、モノの価値は見る者の趣味によって決められる。奇声と嬌声、拍手喝采。あっちの世界におれがいないのは、彼らが好むものとおれの好むものが違っているって話なだけ。ロバみたいなペニスを持つ男のセクシーさがわかるようになったなら、きっとローマンはおれに何らかの勲章をくれることだろう。



 バスルームに置きっぱなしにされ、ページが波打っているジャック・ケルアックの〈路上〉。何度手にしても未だ読み終えたことのない、ビートニクの名作を読みながら煙を吹かす。吸い終わったところで「終わったよ」と、ポールが顔を出した。

「寝心地は?」

「背中が痛い」

「やっぱりバスタブはお湯を張って使うのが正しいね……。そもそもなんでこんなところに? 自分の部屋に行けばいいのに」

「あそこじゃ音が聞こえすぎる。おれの部屋のすぐ向こうにテレビがあるだろ。みんなは?」

「もう帰ったよ。ディーンによろしくって」

「怖いDVDは?」

「大丈夫、みんな持って帰った」手を掴み、引っ張り上げてくれるポール。バスタブからの奇跡の生還だ。

 散らかり放題のリビングルームはまるで爆撃の後のよう。後片付けをしながら、おれはポールに質問する。

「きみはどう? さっきのフィルム。面白いと思うか?」

「まあね」

「ああいうのを観て興奮する?」

「まあね」

「おれはとても無理だ」

「そりゃあ、きみは元々ゲイじゃないもの」テーブルに散らばったピスタチオの殻を拾い集めながらポール。

「そうじゃない。おれはポルノってやつが駄目なんだ。ゲイのフィルムだからじゃない。男女のであってもそうだ。気持ち悪くてとても観ていられない」

「へえ……意外だな」

「ガキの頃はみんなこういうの観るだろ? おれも友達から借りたりしたけど、どれもちっとも好きになれなかった。イタリアのポルノを観たときなんか本気で吐いたよ」

「かわいそうに」

「セックスは見るもんじゃない、やるもんだ。そう思わないか?」忙しく働くポールの手を引き寄せる。「明日は久しぶりに一緒の休日だ……。いくらでも夜更かしできる」

「後片付けは?」

「そんなもの明日でいい」彼の首筋に顔を埋め、そこにキスをする。

「フィルムを見ても興奮しないって言ったのに」

「おれが興奮するのはフィルムじゃない。きみさ」

「やっぱり後片付けは明日でいいかな……」

 家事に几帳面なポールも、今夜は手抜きに同意した。ピスタチオの殻を拾うより、優先させたいことはいくらでもある。フィルムより素敵な生身の身体。それが恋人のものならば、優先順位は一番に決まってる。



「先日は失礼したわね。まさかポルノ嫌いとは知らなかったものだから」

 にっこり微笑み、現われるローマン。おれは彼に一言も“ポルノ嫌い”を宣告してはいない。ポールに告げたことがこっちへ流れることは、この付き合いの中ではやむなしということを、おれは何となく理解しはじめている。

「おわびに今日はいいものを持ってきたわよ」と、ピンク色の紙袋を差し出す。

「マーティンズのチョコレート」

「惜しいけど違うわ。とってもスウィートだけど、食べ物じゃないの。〈デスペラード〉と〈トロイ〉と〈リプリー〉、どれがいい?」

「なんだそれ?」手渡されたチョコレート専門店の紙袋。そこには三本のDVDが入っている。

「映画よ。セクシーな映画。このあいだのは趣味じゃないんでしょ? あなたでも興奮できるようなものをチョイスしてみたのよ」

「ありがたいけど、鎧や殺し屋に欲情する趣味はない」

「〈ロード・オブ・ザ・リング〉ってのもあるけど」

「ホビットにも同じくだ」

「なぁに、せっかく人がいろいろ考えて持ってきたってのに……そういえばあんたのDVDのコレクションって、あの英国のヘンちくりんなお笑い番組とかだものね。まさかああいうのに興奮するとか?」

「誰がだ! そもそも何で“興奮”とかそういう話になる? ロード・オブ・ザ・リングも、デスペラードも、それを鑑賞するときはそういうこといちいち考えないだろ?」

「あたしは考えるわ」

「……………わかった、そうだよな。きみには普通の常識が通用しないんだった。真に受けて議論しようとしたおれが馬鹿だったよ」

「あら、じゃあ“普通の常識”とやらを、とっくり聞かせてもらおうじゃないの? “普通のあなた”は何なら興奮するわけ?」

 ローマンの質問はふるっていた。こういうことを常に考えて生きているわけではないおれにとって、それはずいぶん難問に近い。それからポールも加えて三人で話し合い、“普通のおれ”がようやく見つけたのは“植物”という単語だった。

「植物? あなた植物に興奮するっての?」変態でも見るような顔をするローマン。彼にそんな目で見られるとは、心外もいいとこだ。

「直接それにってわけじゃない。なんていうか……茎のカーブとか、花弁とか…香り……それってセクシーだなって……うまく説明できないけど」

 しどろもどろでコーヒーカップに話しかけるおれに、ポールが助け船を出す。

「うん、何かそれってわかる気がする。南国の花なんて色気があるよね」

「あたしは花よりバンデラスだけど。でもまあ、センスは悪くないわね。じゃあ、その延長線上で考えてみましょうよ」

「延長線上?」

「そっ、セクシーだと思える事柄から、さらに範囲を広げていくの。あなたは植物を見て、そこからエロティシズムを感じるのよね? 花のどこがセクシーだと?」

「それは……なんか不思議な色してるだろ、グラデーションがかってて。植物は繊細だし、とても神秘的だと思えるよ……こういう話でいいのか?」

「ええ、続けて」

「茎のカーブは優雅だ。よく見るとウブ毛が生えてたりして」

「それで? そこからどんな人がイメージできる?」

「美しい女性の脚ライン……」

「なんでそうなるのよッ!」

「しかたないだろ!」

 真性ゲイと、ほぼストレートの新米ゲイ。会話が平行線なのは予想の範囲内だ。

「とにかく……おれは他人がセックスしてるとこ見ても興奮しない。それを不幸だと思ったことは一度もないよ」

「ポルノじゃなくて、奇麗な映画のベッドシーンとかも駄目なの?」と、ポール。

「いい映画なら感じられる……けどそれも数分だ。ポルノみたいに気持ち悪いとかは思わないけど、やっぱりああやって画面に切り取られたものを眺めるってのは奇妙な感じがするよ」

「でもマスターベーションはするでしょ」きらり、ローマンの目が輝く。「どう? しないとは言わせないわよ。ポルノが駄目ならどうやってするの? イマジネーション?」

 艶やかな微笑で、詰め寄る美形。セックスの話をしているときの彼は、どうしてこんなに輝きに満ちているのだろう(あまり認めたくない上に、ものすごく嫌な感じだが)。

「イマジネーションとかもあるけど……何かな……セクシーな小説とか……」

「ポルノ小説?」

「ポルノじゃない。普通のでもセクシーな描写ってあるだろ。そういうのだったら興奮するかもな」

「んま、聞いた? ポール、あんたの彼氏は文学青年よ。紙とインクでオナニーができる」

「茶化すな」

 ポールは身を乗り出し、「小説ってたとえばどんな?」と、質問する。

「これというのはすぐには思いつかないな。でも好きな作家は何人かいる。カポーティとか……」

「〈冷血〉でマスターベーション?」と、冷やかすローマン。

「それは無理だ。いくらなんでも」

「他には? セクシーな作家って言うと誰?」

「クライヴ・バーカーはホラーだけどセクシーだ。それにウォルト・ホイットマン。彼は小説じゃなくて詩だけど。もうずっと昔から大好きだ」

「あらちょっと待って……あなた、それって……」

「え?」

「みんなゲイよ!」

「なに!?」

 “ほんとか?!”という思いを込めてポールを見ると、彼は「そうか……言われてみれば……」と、納得したように頷いてみせた。

 ローマンはおれの肩に手を置き、「これでイアン・マッケランの映画のファンで、エルトン・ジョンの曲を聴いてたりしたら完璧ね」と、何らかの太鼓判を押した。

「ジョージ・マイケルのアルバムは?」

「それもアリよ」

「なんてこった……」

「あなた潜在的には完璧にゲイなのね。おそれいったわ」

 最終的な結論 →〈ディーン・ケリー=潜在的には完璧にゲイ〉

 こうした精神分析ってのは、たいがいロクな結果にならない。ジグムント・フロイトによれば男の八割はマザコンだし、カール・グスタフ・ユングでは集合無意識や共時性にまで及んで、問題の答えは宇宙にまで広がってゆく。さらにローマン・ディスティニーにかかると『すべて男ってのは、かなりの率でゲイの素質があるのよ』ってことになってしまうのだ。

「まあでも、小説で感じるってことは“性的視覚不能”ってわけじゃないのよね。さっきも言ったけど、そこからさらに範囲を広げていくといいわ」

「これ以上何も広げたくないよ。自己認識でショック死しそうだ」

「イマジネーションをもっと広くとっていくだけよ。想像を羽ばたかせるとも言うわね……ねぇ、あなた小説は好きなのよね? ちょうどいいわ。知人の出版社でね、“官能小説”の新人賞を募集しているの。ゲイ専門の書籍を扱う会社だから、投稿作品はもちろん“ゲイ文学”よ。セックスシーンがノルマに課せられている以外、内容は自由。大賞を獲った作品は、出版されることが約束されるわ。どう? 自己を掘り下げたり、イマジネーションを広げるにはもってこいでしょう? やってみない?」

「小説なんてこれまで書いたことないよ」

「でも文字は書けるでしょ? 出版されたら名声と印税が手に入るわよ」

「ゲイポルノで名を成す? どうかな、親にバレたら大変なことになる」

「名前なんかペンネームでいいのよ。ぶっちゃけこの新人賞、応募が少ないんですって。そんなだから見本というか、サクラでもって参加してくれないかって話なのよね。もちろんサクラであっても賞レースの資格はありよ。大賞は出版契約の他にバハマ旅行もついてるんですって」

「応募が少ないのなら、バハマ旅行も夢じゃないかも」ポールが興味を示した。

「そうよそうよ。ね、どうせだったらみんなで書いてみましょうよ」

「みんなって、おれたちみんな?」

「そう、各自がここで競い合うの。面白そうじゃない?」

 さっと右手を上げるポール。「いいね。ぼくは乗った」

「そうこなくっちゃ! ディーン、あんたはどう?」

「オーケー、いいよ」



 締め切りは半月後。互いに影響されてはよくないという理由から、完成するまでは決して作品を見せ合わないことを誓い合い、地道に執筆活動は続けられる。

 何に対しても努力家のポールは、常にメモ帳を持ち歩くようになり、思いつくことがあれば、たとえ会話の途中であっても、それに書き付けることを忘れない。時折、「もしきみが階段の下にいたとして、上から急に人に呼ばれたら、きみはそれを上る?それとも相手が降りてくるのを待つ?」といった、なにやら謎めいたことを、唐突に訊いてきたりもするようになった。

 おれはといえばそこまで熱心ではなく、とりあえず手持ちの小説を片っ端から読み返してみる程度。しかしそれはかえって逆効果だった。名作の威光にあてられ、自分の書くものがやたらちっぽけなものに見えてくる。スコット・フィッツジェラルドやパトリシア・ハイスミスに張り合えるわけがないとわかっていながらも、創作がもたらす苦悩に、書く前から筆を折りたくなってくる。

 まあいいさ、おれはプロってわけじゃない。ヘタクソで当たり前だし、ただ楽しんで書けばいいだけのこと。それがたとえ「ハーレクイン・ロマンスみたい」って評価であっても、書き上げることに意味があるのだから。

「ハーレクイン・ロマンス? おれの作品がハーレクイン・ロマンスだって?」

 新人作家予備軍のおれたち。各自出来上がった作品を持って〈プレ発表会〉の名の下にふたたび集結。おれの力作を『ハーレクイン・ロマンス』と評したのはローマンだ。

「ハーレクインなんて読んだことないぞ。それってどういう意味だ? 褒め言葉なのか?」

「褒めてもけなしてもいないわ。ただの感想。お気になさらず」

「どうも引っかかる言い方だな……ポール、きみはどう思う?」

 ポールは思案げな表情で原稿を見つめ、「ずいぶんブランド名の羅列が多くない?」と、だけ言って原稿をおれの手に戻した。

「そうか? それって変か? この主人公がリッチだって表現しようと思ったんだけど」

「もっとわかりやすくシャツの値段をイチから表記するってのはどうかしら?」手から原稿をひったくるローマン。ページをめくり「セックスのシーンはどこよ? 書くって約束でしょ?」と、眉をひそめる。

「あるだろ。よく読めよ」

「どこ?」

「ここだよ」と、指し示すポール。

 ローマンは無言で目を走らせ、しばらくの後「なにこれ。何してるかさっぱりわかんない!」と、顔を上げた。

「“そっと触れた”ってどこに?“共に感じ合った”って何を? ポール、あんたこれで興奮する?」

「興奮はともかく、奇麗な文章だよ」

「そらみろ! 芸術の理解できる奴もここにはいる!」おれは同士の肩に腕を回す。

「わたしの好きな芸術は、もっとエキサイティングなものなのよね……」

「人のをとやかく言ってないで自分のを見せろよ」

「ええ、いいわよ。どうぞ」

 差し出された紙の束を、ポールとふたりで覗き込む。1ページ、2ページ、3ページ……。紙をめくる音だけが室内に響きわたる。その静けさをやぶり、おれは席を立ちかかる。

「しばらくバスルームいるから、終わったら……」

「なによっ! 最後までちゃんと読みなさいよっ! 無礼よあんたっ!」

「もう……もう充分……」

「すごいね。本当にポルノ作品だ」ポールの感嘆に胸を張るローマン。

「すべてのゲイを奮い立たせる官能小説よ」

「すべてのストレートは萎える……」

「情けないこと。ちょっとくらい興奮する箇所があるでしょうに。ここなんてどう?『彼は自身の猛り狂うペニスを、ショートパンツから掴み出した。その熱い肉はボビーのフレッシュな肉壁を割って入り……』」

「やめろ! やめろ!」

「さすがに顔が赤くなるね」

「この傑作がわからないなんて、あんたたちまだまだね。ポール、あんたのは? 世紀の名作は書けた?」

「うん。きみの後には見せづらいけど……」

「安心しろよ。ローマンの後なら、どんな作品でも一服の清涼剤に同じだ」

 ポールの作品は誰よりページ数があった。これを読むのはちょっと面倒なんじゃないかとおれは思っていたが、それはまったくの杞憂に終わる。最後まで読み終わったあと、おれとローマンは同時にため息をついた。

「ちょっと……これ素晴らしいじゃない、ねぇ?」うっとりつぶやくローマン。

 おれは頷き「すごくおもしろい」と、感想を述べる。

「本当? うれしいな。頑張った甲斐があった」ポールは照れたように微笑んだ。

『すごくおもしろい』っておれのコメントは、この名作に対してあまりに短すぎる感想かもしれない。これはもっと多くの言葉で賞賛されるべき読み物だ。そんなの恋人の欲目だろうって? だったらこのローマンを見てみればいい。ファッション雑誌しか手に取らない男が、まるでセックスの後みたいにぼうっとした顔をしてるんだ。どう考えてもこれが一等賞。おれたち三人うちのみならず、きっとその新人賞とやらでも上位まで──ひょっとしたらバハマ旅行も──行けるかもしれない。

 投稿のためにと原稿はローマンが持ち帰ってしまったが、おれはポールに頼んで、もう一度それをアウトプットしてもらうことにした。〈アンダー・ザ・ローズ〉と題されたポールの小説を、ひとりでゆっくり読み返したかったからだ。

 物語の時代設定は19世紀末。ロンドンに生きる若者の恋愛がストーリーのベースになっている。主人公はジャックという青年。その恋人である男性のパーシ。ふたりは互いに引かれ合い愛し合うが、彼らの住まう時代がその行為を許さない。求め合うゆえの葛藤と苦しみ。結ばれたかと思えば突き放される不実な愛。孤独に堪えかねた主人公が、恋人を想ってマスターベーションするくだりは、マイケル・ブレイクの〈ダンス・ウィズ・ウルブズ〉の同場面に相当する名シーンだ(そうこれがお約束の“ノルマシーン”)。こんなにも深く入り込める美しい物語を、おれは今まで見たことがない。主人公の境遇に思い入れるあまり、恋人同士が引き裂かれた場面では、あやうく涙が出そうになったほど。そうまで感情移入させられた作品が、“佳作どまり”だと知ったとき、おれはローマンに「こいつはデキレースなんじゃないのか?」と、賞の不正を疑ってかかったほどだった。

「なんでポールのがグランプリじゃないんだ? どう考えてもこれが一番の傑作だろ?」

 結果発表が載った雑誌を手に、憤りを訴えると、ローマンはさらっと「世間はもっとわかりやすいものを好む傾向にあるのよ」と、言ってのけた。新人賞を獲得したのは〈ブリジットジョーンズの日記〉のゲイ版みたいなやつ。ポールの作品の方がよっぽど高尚で素晴らしいのに。

「きみとおれの作品が落ちたのは納得がいくよ。しかしポールのは……」

「選考委員だって馬鹿じゃないわ。あれが面白い作品だってのは、わかってはいるのよ。ただ雑誌の傾向とはあまりにも違いすぎるからって。それでね、友達の編集者は“これも何とかして公開することにしよう”って言ってくれたの」

「出版を?」

「それは無理なんだけど、ウェブにアップしていいかって話だったわ。そして出来ればあれの続きを書いて欲しいんですって。サイトで連載にしたいそうよ」

「サイト……インターネットか」

 ポールは黙っておれたちのやりとりを聞いている。

「どうかしら、ポール? あの作品を公開させてもいい?」

「うん、別にいいよ」その表情はいつもと同じ。ガッカリした様子でも、嬉しそうというわけでもない。感情の起伏があまり激しい方ではないポール。はしゃいだり落ち込んだりということが少ない彼は、ときどき感情が読みにくいことがある。

 その晩、ベッドでポールに「嬉しくないのか?」と、聞くと、思った通り。「別に」というシンプルなコメントが返ってきた。

「そうか、じゃあその逆は? 賞に漏れて残念?」

「それも別に」

「プロの編集者の目に留まったんだぜ? 公式なサイトに掲載される。それなのに少しも嬉しくないって?」

「少しもってわけじゃないけど……」ポールは寝返りを打って、こちらを向いた。「そもそもこれはぼくたち三人のお遊びで始まったことで、賞自体に特別な思い入れはなかったしね。せいぜい“バハマにタダで行けたらいいな”ってことぐらいで」

「欲がないな」

「欲はあるよ。バハマにタダで行けなくて残念」

「そうじゃなくて、“自己顕示欲”の方だ。きみは名声に興味がないんだな?」

「名声だって?“ゲイポルノで名を成すのはどうかな”って言ってたくせに」

「この際だ、出発点はどこだっていいさ。きみの作品はすごいよ。ホイットマンでさえももおれを泣かせることは叶わなかったってのに。本気になって取り組めばピューリッツァー賞だって──」

「アメリカが舞台の話じゃないから、ピューリッツァー賞の対象にはならないよ」

「ペン/フォークナー賞って手もある」

「きみは愛で目がくらんでる」声を立てて笑うポール。「でも」と、つぶやき、「きみが続きを読みたいんなら……」

「読みたいさ。もちろんだ」

「そう? ほんとに? だったら書いてみようかな」

「きみの作品を読みたがるのはおれだけじゃない。多くの人が続きを楽しみにするようになるだろうな。絶対。きっと間違いないよ」

 このおれの予言はみごと当たり。出版社のサイトで公開されたポールの小説は、掲載されてからの一週間で過去ニヶ月のヒット数を軽く超え、ゲイのコミュニティではあっと言う間に話題になった(これは顔が広いローマンの功績だ)。サイトに設置された専用の掲示板に寄せられるコメントは「すばらしい」「おもしろい」「続きが楽しみ」などの熱いメッセージばかり。“自己顕示欲”のあるおれは「その作家の恋人はおれだぜ!」と、書き込みたい衝動にかられもするが、それはやめておくことにする。作家の私生活は謎に満ちているべきだ。〈老人と海〉を書いた男は躁鬱病で自殺したとか、〈戦争と平和〉を謳った非暴力主義者が、妻と不仲の暴君だったとか、そういうことは物語とは何の関係もないこと。この世界には芸術が必要で、なんでも暴いて貶めればいいというものではない。おれはポールの恋人で、サイトに寄せられる賞賛をほくそ笑みながら眺めるのみ。いずれピューリッツァー賞を獲るその日まで、己の身分は隠すとしよう。



「まだ起きてるのか」

 ドアの下から乳白色の灯りが漏れているのを見つけ、作家の部屋を訪ねる。

「明日も早いんだろ?」肩を背後から揉んでそう言うと、ポールはラップトップから目を離し、「もう寝るよ」と、伸びをした。

「でもあとちょっと、キリのいいところまで書いてからね。週に一度くらいは更新したいし」

「そんなにハイペースでやれって言われてるのか?」

「そういうわけじゃないけど……みんな楽しみにしてるしね。サービス業の性かな。喜ばれるとつい。ねぇ、そうだ。先日きみとした議論。あれをネタにしてもいいかな?」

「議論?」

「豆乳の話」

「あれを?」

「そう」

「あれをどうやってストーリーに盛り込むって?」

 先日の議論。その高尚なテーマは〈ソイビーンミルクはミルクか否か〉。おれが主張したのは『“ソイビーンミルク”という名称は改めるべきだ』という意見。“ミルク”という語はメスのほ乳類の身体から出る体液に限られるものであり、植物である大豆はそれに当てはまらず、英語をよく理解していない者にはー不必要な混乱を与えるためであるというのがその理由。対してポールは『“ミルク”と云うのは、牛乳に限らず広く使用されるものであり、さらに別の単語をプラスしてできる複合語である』と唱え、“ソイビーンミルク”“コーンミルク”などに表されるように、それは“マザーズミルク”のみ限定されるものではないと言い張った。……とまあ、“議論”ってのはそんなところ。

「あれが小説のネタになるのか? 19世紀末の英国で主人公が苦悩する?『ソイビーンミルクはミルクか否か?それが問題だ』」

 おれのハムレット口調に、ポールは「そうじゃないよ」と、くすくす笑う。「そうじゃなくて会話のニュアンスとかそういうのを書こうと思って。どう? いいかな?」

「ああ、もちろん。何を使ってくれても構わないよ」

 深夜までコンピューターの画面を見つめているポール。恋人としてはもちろん心配だが、いちファンとしては「早く続きを!」という気持ちもある。なんたっておれはこの作家の大ファン。イチ早く彼の才能に目をつけた、ファンクラブ会員第一号だ。先日の議論、〈ソイビーンミルクはミルクか否か〉。それがどうストーリーに反映するのか? 創作の裏事情まで知ってしまえば、ますます続きが気になってくる。

 物語の続きを楽しみに待つなんて、子供の頃にコミックの連載にハマって以来。それが他ならぬポールの作品だなんて、実に驚くべきことだ。ジョン・レノンはヨーコの芸術に惚れたが、おれの場合は順序が逆。まずポールに惚れ、その後に彼のアートに惚れた。いくらアーティスティックだとしても、おれはヨーコには惚れられない。愛としてどっちが純粋かは論議しないでおくことにしよう。



 我が家の電話はラインが一本。それは同居以来、おれとポールで共有しているものだ。ナンバーディスプレイがないため、呼び出し音だけでは、どちらにかかってきた用件かはわからない。今おれが取ったのはポール宛の電話。「ハッロ〜♪」と言う挨拶の声はゲイのキャロリン。

「やあ、キャロリン。久しぶりだ。女装パーティ以来か」

「あら、ジャックの方ね。ほんと、お久しぶりだわ。お元気?」

「ジャック?」

 このラインはポールとおれ専用。“ジャック”という人間はここにはいない。

「そう、ジャックよ。ジャック。〈アンダー・ザ・ローズ〉の主人公。わたしも読者なのよ。ねぇ、ジャックのモデルはあんたでしょ? アタシすぐにわかっちゃった」

「おれ? おれがジャックだって?」

「あら? 違うの?」

「ポールはそんなこと一言も言ってないけどな……」

「そうなの? でも似てるわ」

「ああ、髪の色と目の色は同じだ」

「そんなことじゃなくて、もっと内面的な性格のことよ。てっきりあなたをモデルにしているのかと思ったけど」

 主人公の“内面的な性格”。それはどういうものか、ポールの小説を読んでいない読者諸君に説明しよう。

 物語の主役であるジャック・トルハースト。髪は黒で、目の色は青灰色。周囲の反応から、彼の容姿がハンサムだということはわかるが、どこか近寄り難いタイプの男でもある。その恋人であるパーシは同性愛者で、髪はブロンド、目はブルー。ふたりは居酒屋で出会い、愛を深めていくが、良家の出であるジャックは世間体を気するあまり、自分の愛情にオープンになれない。感情に正直な恋人に対し、主人公は己がゲイであることを隠し、否定しようとさえする。そこに軋轢が生じ、物語は面白さを増すのだが……。クールに見えてその実、芯は脆いジャック。誰に似ているかと考えてみれば……確かに。こいつはおれによく似ている。指摘されるまで気がつかなかったが、言われてみれば本当にそうだ。

 そのことが本当かどうか、その夜おれは小説家の元を訪ね、直に確認することにした。言うまでもなく、ファンと作家は同じ家に住んでいる(なんて便利!)。

「まだ続きを?」そうおれが聞くと、「もう寝るよ」と応えるポール。このやりとり、最近の定番になってきた。

「なあ、聞きたいんだけど、この“ジャック”って男は……」

「うん?」

「こいつはもしかして……おれなのか?」

 ポールはちょっとやりにくそうな顔になり、「そっ」と、短く言った。

「そうさ。この主人公のイメージはきみなんだ。でも、そうしようと思って書いたわけじゃないよ。ただなんとなく、結果的にそうなったってだけで」

「そうか……」

 おれがああまで作品に感激したのは、つまりそういうこと。自分が主人公であれば思い入れもしやすいし、涙をこぼすほどに感情移入もするだろう。

「もしかして掲示板を見た?」と、ポール。

「掲示板?」

「ここの書き込みを見たのかなって」

 ポールが示したサイトの掲示板。そこには『なんでもこれは実話で、作家とその恋人がモデルなのだとか』というコメントが、読者によって書き込みされていた。

「どうしてこんな? おれでさえも知らなかったってのに……。いや、おれはここは見てない。キャロリンに指摘されて気がついたんだ」

「こういうのって困る? 嫌な感じ? きみにとって迷惑かな?」眉を下げるポール。その表情から察するに、困っているのは彼の方みたいだ。

「別に嫌じゃないよ。言ったろ『何を使ってくれても構わない』って」

「本当?」

「ああ、むしろ光栄だね。おれはきみの芸術に、ほんのわずか貢献できてる。モデル料は印税の一割で構わないよ」

「印税なんてない。これはただの趣味なんだから」

「今はな。でも将来はわからないだろ? バハマに別荘が買える可能性だってある」

「作家になんてならないよ」

「コナン・ドイルだってそう言ったかもだ。『わたしは医者だ。作家になんてならない!』」

「コナン・ドイルにバハマの別荘……ほんと、きみは愛で目がくらんでるよ」嬉しそうに苦笑するポール。下がった眉はこれで元通り。

「ところで続きはどうなった? もう読んでもいいか?」

「ん、いいよ。あとはスペルをチェックするだけだし」ポールはそう言って椅子から立ちあがり、場所をおれに譲ってくれる。待ちに待った物語の続き。誰よりも早く読めるのは作家の恋人の特権だ。

 物語の中盤、主人公の青年たちが議論を始めるシーン。彼らが論じているのはイングランド国教会のありようと、そのアンチテーゼ。完全な人間とは何かを、イェイツやワイルドの言葉を引用しながら話し合っている。

 液晶画面を見ながらおれはつぶやく。

「そうかこれが……」

「うん、そう。わかった?」

 “原始キリスト教”という単語を、“ソイビーンミルク”に置き換えれば、これは確かに先日のおれとポールの会話だ。

「元ネタが〈豆乳議論〉だなんて、誰も思いもよらないだろうな」

「いろんなところにネタはあるよ」

「でもこれは現実とは違うな? おれたちにはこんな場面なかった。言い合いの果てに、個人的ななじり合いに発展していくようなことは」

「そこがフィクションさ。そうやってドラマ性を盛り上げていかなくっちゃ」

「うまいもんだ。もう完璧にプロの作家だな」

「そんなことないよ」

「謙遜するなよ。おれはきみが誇らしい……」座ったまま、彼の腰を引き寄せ、胸の下に顔を埋める。シャツをめくり上げ、その下にある皮膚にキスを繰り返し、滑らかな身体を優しくまさぐる。

「ディーン……」

「本当の芸術は人を興奮させる」

「うん……それは嬉しいけど……ごめん。ぼくは今日はもう寝たい。本当に疲れてるんだ」

「そうか……」

「ごめん」

「いや、いいよ。そうだよな、きみは明日も仕事なんだし」

「ごめんね」

「いいって。ゆっくりお休み」

「うん、ありがとう」

 性欲を持て余しつつ、理解ある恋人はただ去るのみ。これが小説であれば、ドラマ性を盛り上げるべく、恋人たちは炎のようにお互いを求め合うところだろうに(ここで“炎のように”って表現をしてしまうあたり、おれには表現センスがないことがよくわかる)。

 現実は物語のようにはいかず。宗教論議の末に、個人的ななじり合いに発展することもなく、キスのあとにセックスに発展することもない。後者についてはちょっと残念だが、芸術のためならば、時に忍耐を余儀なくされることもある。アートの使途はただ耐えるのみ。ローマンから借りたDVDでも見て寝るとしよう。鑑賞中、おれが不埒な振る舞いに及ぶことはないことを、念のためここに表明したい。



 ポールの職業。それは作家ではなく美容師だ。

 おれたちの出会いの場所は居酒屋ではなく、彼が勤める美容室。今となっては恋人となったヘアデザイナーに、髪をあたってもらう場所は自宅のバスルームがもっぱらだが、ときどきはこうやって店に顔を出すこともある。ここには顔見知りも多いし、ゆったりとした椅子にかけて、雑誌を読むのは嫌いではない。自宅で髪を切ってもらうのも楽で嬉しいが、あまりそれに慣れ過ぎれば、ポールの技術に対する感謝と敬意が薄れてしまうような気もする。彼はプロであり、その仕事はたとえ恋人であっても、金を払う価値のあるものだとおれは思う。それになんといっても仕事中のポールはかっこいい。恋人と生活を共にしていれば、どうしたってお互い生活感というものを見せ合うことになる。寝起きのボサボサ頭や、残業のあとの疲労困憊した姿。それらをさらけ出せるのは恋人同士であるからに他ならないが、ある種のマンネリ感を生み出す要因にもなってしまうだろう。家以外のところにいるポールを見、その姿に改めて惚れ直す。店を訪れるのは、恋人と出会った頃の初心も忘れないためでもあり、休日がバラバラであるおれたちが、少しでも多く時間を一緒に過ごすための苦肉の策でもある。一緒に暮らしてるのに“少しでも多く”でもないだろうって? そう思うんなら、おれがどれだけポールに夢中か、もうちょっと説明するべきなのかもしれないな(さあ、そこに座って! 二、三時間ばかりレクチャーするぜ!)それに今となってはおれは彼のファンでもあるわけだ。好きな作家に髪を切ってもらえるチャンスがあるというのなら、ファンであれば誰だってその店に通い詰めるに違いない。それがハサミを持ったスティーブン・キングの店でないかぎり、この企画は大成功だ。



「あの話、最終回は決まっているんですか?」

 洗髪を担当してくれるアニーがそう言ったとき、おれは少なからずどきっとし、一瞬言葉を失ってしまった。情報の伝達は実にスピーディ。各方面が好きにリンクを貼っていて、どこの誰が読んでいるか、まったくわからない状態だ。

「ストーリーの続きはおれも知らないんだ。ポールは何も教えてくれないよ。“しゃべると書けなくなるから”って」

「ああ、やっぱりそうなんですか。わたしたちが聞いてもポールは教えてくれないから。ひょっとしたらディーンさんだけは知ってるのかなって……。続き、気になりますね」

「女性が読んでも面白いと思うんだね? あれはその……ちょっと“特種なサイト”に連載されてる作品だろう?」

 言葉を選ぶおれに、アニーはうなずき「興味深いですね」と言って、くすっと笑う。

「でもそれだけじゃありません。一昨日アップされた話、ジャックがパーシにしたみたいに、自分勝手に振る舞ってしまうことって、わたしにも覚えがあるんです。ああいうふうに書かれると“ああ、自分もそういうことあるな”って……なんかいろいろなことを考えちゃいますね。あの主人公はディーンさんなんでしょう?」

「イメージとしてはそうらしい。おれはあんなに偏屈な性格じゃないって自分では思ってるけどね」

 シャンプー台に座ったまま、横たわりもせずにおしゃべりを続けているところに、「アタシも読んでるわよ」と、ダグラスが参入。「〈アンダー・ザ・ローズ〉、もともとああいう小説は大好きなのよ……って、あら、ゲイ小説って意味じゃないわよ。こう見えてもアタシ、文学青年だったから」

 自分で言って自分で訂正するダグラスに、アニーは「文学青年?」と、笑って語尾を返す。

「そうよ。アタシは純粋な視点から読んでるの。あなたのは“ミーハー視点”。アニーは主人公のファンなのよね? 本当はディーンに髪を切ってほしくないって思ってるんだから」

「お客様にそんなこと言ったりしないわ」と、アニー。

「そう? “ジャックみたいに髪を伸ばしたらいいのに”って言ってたでしょ。せっかく本人もいることだし提案してみたら? “お客様、当店では小公子スタイルがおすすめですが?”」

 調子良くしゃべるダグラスに、黙るアニー。その頬はビーツみたいに赤くなっている。感情と顔色が一致しているのが彼女の可愛いところだ。

 ダグラスが去り、「気を悪くしたらすみません」と、詫びるアニー。「気にしないでください。わたし、ミーハーなんです。ファンなんです。あなたの」照れ隠しに早口で言い、椅子を倒しておれの顔に布をかぶせる。

 おれのファン? そうか、こういう見方もあるんだな? おれはポールという作家のファンになり、文学青年であるダグラスは“純粋な視点”で、作品のファンになった。しかしアニーのように、“登場人物を好きになる”という形で、物語に想いを寄せるファンもいるわけだ。人気テレビシリーズの主人公と同じ服を買ったり、ドラマゆかりの場所を旅行したり。そういうファンも確かに存在し、それはアニーが言うように『わたし、ミーハーなんです』ってことなんだろう。

 アニーとおれは特に親しいわけではない。それが作品を通し、おれのファンになったと言う。10も年下の女性からキラキラした目で見られるのはそう悪い気分ではなく、なんだか映画スターになったみたい……と言いたいところだが、彼女が見ているのは残念ながらおれではない。それは“ジャック・トルハースト”という、ポール創造の人物。ダーティ・ハリー、インディアナ・ジョーンズ、ジェームズ・ボンド、R2-D2.....。これすべて架空の人物なり(約一名は“人物”じゃないけど)。

 アニーはおれ自身のことをほとんど何も知らない。何も知らないのにファンになっている。むしろそれだからこそ、ファンになることが出来るのだろう。現実のディーンとポールは、小説の中のジャックとパーシとは違う。議論にしたって豆乳がせいぜい。ストーリーにはセックスについての露骨な描写もあるが、あのすべてがまるっきり事実とは言い難い(もちろん“すべて捏造だ”とも言い難いが)。

 アニーに頭を洗ってもらっている数分間、おれの脳裏には小説のエロティックな描写が次から次へと浮かんでは消えていた。そのすべてをアニーが読んで、しかも“興味深い”と評したことにいくらかの狼狽を覚える。別にあの話は“おれとポールの生活”を描写したものではない。そうではないが、周囲の皆はあのストーリーを“おれたちのこと”として混同しているのも事実。濃い色の布で顔を覆われていてよかった。感情と顔色が一致しているのはアニーだけじゃない。それは誰かって……おい、言うまでもないだろう?



 スタイリングチェアにかけ、美容師を待つ。洗髪の後、いつもであればすぐに背後に立つポールだが、今日に限ってなかなか姿を現さない。

 鏡に映る自分をナルシスのように凝視していると、ダグラスがそれに気付き、「ポールを待ってるんでしょ」と、鏡越しに声をかけてくる。「お待たせしてごめんなさいね。彼、まだランチから戻ってないの。携帯にかけてみましょうか?」

「この時間におれが来店すること、ポールは昨日の時点で知ってるんだ。きっとあと数分で戻るんじゃないかな」

「そうね、けっこう前に出たからそろそろだとは思うんだけど……もし急ぐんならあたしがやってもいいけど? どうする?」

「いや、彼が戻るまで待たせてもらうよ。ここに居座っていて邪魔じゃなければだけど」

「もちろんいいわよ。ごゆっくり」

結局ポールが戻ったのはそれから一時間後のこと。昼の休憩時間をいつもより多くとってしまったポール。彼はカフェテラスで居眠りをしていたのだ。



 その夜のポールは落ち込んでいた。「こんなことって初めてだ」と何度も言い、ソファに斜めに座って、うんざりしたようにため息をつく。

「そんなに自分を責めるなよ。おれは待ってる間も楽しかったぜ。店にある雑誌を読破したせいでファッションとゴシップに詳しくなったし」言いながらカプチーノを彼に手渡す。

「しつこく愚痴ってごめん」カップを受け取りながら、詫びるポール。「でもこれがちゃんと予約してくれたお客様だったらと思うとね。自分の失敗が許せないよ」と、厳しい口調で付け加える。

「そうかな? “ちゃんと予約してくれたお客様”だったらこんな失敗はしないんじゃないか? たぶんきみはおれだから油断したんだ」

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。とにかくもう二度と、休憩時間に居眠りなんてしないよ」

 “しないように気をつける”ではなく、“もう二度としない”と言い切ってしまうポール。彼は“失敗する自分”が大嫌い。そのため自分にとても厳しく、その結果、妙に完璧主義になってしまうきらいがある。今回ポールがした失敗は“居眠り”で、失敗の種類としては些細なものだが、『たいしたことないよ』という慰めは、彼にとって慰めにはならない。この些細なミスが『たいしたこと』に発展する前に、自分を律しようとするのが彼なのだ。

 ポールはうーんと伸びをし、マグカップを持ってソファを立つ。

「どこ行くんだ?」

「え? 自分の部屋だけど?」

「そこで何する」

「何って……小説の続きを……」

 睡眠不足により毛細血管が浮かび上がっているポールの目。居眠りの原因は彼の完璧主義にある。昼は仕事、夜は作家活動。どちらも完璧に出来ればそれに越したことはないが、身体を壊しては元も子ない。おれはカプチーノを煎れたことを後悔し、「カフェインは終了だ」と、手からマグカップを取り上げる。

「カモミールティを淹れてやるから、今日はもうお休み」

「でも……」

「でもじゃない。明日も仕事なんだろ?」

「明日は遅番だよ」

「それでも駄目だ。たまにはたくさん眠らないとな。ローマンがよく言うだろ?『睡眠不足は肌荒れの元よっ!』って」

「うわっ、すごい似てる」

「似てない。やめてくれ。とにかく……」

「うん、わかった。もう寝るよ」笑い、頷くポール。ローマンの物真似までして、完璧主義者はようやく納得してくれた。

 お茶を淹れにキッチンへ向かおうとしたところ「ね……ディーン」と、呼び止められる。

「なに?」

「うーんと……」ちょっと小首を傾けるポール。イタズラをしかけようとしている子供のような、何か言いたげな顔でおれを見つめている。

「どうした?」

「ええと……いや、ううん、なんでもない……あのさ、カモミールにハチミツを入れてくれる?」

「ああ、お安い御用」

 自室に消えるポール。それはゆっくり眠るためで、おれはずいぶん安心する。

 湯を沸かし、カモミールのちいさな花をティーポットに入れる。小説の中にこういう場面はない。これは“ソイビーンの議論”に同じ、ドラマに盛り込むにはあまりにも地味なシーンだ。いくらおれがモデルと言っても、現実なんてこんなもん。〈身分違いの恋〉だの〈孤独の果て再生する愛〉やらのキャッチコピーは、おれたちに少しも身近なテーマではない。

 リンゴのようなカモミールの香り。金色のハチミツをスプーン一杯、カップに垂らす。恋人の安眠を促す優しいハーブティの出来上がり。これはあまりにも個人的なフレーバーで、たぶんどの恋人同士にもそういうのはあるんだろう。こういうのがおれたちの日常で、小説のネタには少しもなりそうにない。



 定期的にアップされるポールの小説が『一回休み』であっても、サイトは相変わらず活性化している。掲示板ではファン同士の交流も盛んで、ここを出会いの場としてカップルになる者までいるのだと、ローマンが教えてくれた。パートナー探しが目的でないおれにとって、このサイトを訪れる目的は、単に“小説の続きを読むため”だけ。続きが掲載されないのであれば、覗きに行くこともない場所だが、「ちょっと大変、あんたサイト見た?」と、言われれば、それを見ないわけにはいかなくなってくる。

「ポール! ちょっと来てくれ!」マッキントッシュに向かい、おれは大声を張り上げる。

「なに、どうしたの?」ポールは血相を変えて、おれの部屋に飛び込んできた。

「見ろよ。例の掲示板」

「これ……一昨年のクリスマスの写真だ」

「誰がこんなことしたんだ? いや、誰でもいい。これは削除できるんだろ?」

「ぼくにはその権限はないんだ。このサイトは出版社が管理しているものだから」

「じゃ、このままか?」

「いや、それはないよ。明日になったら会社の方に言って、消してもらうようにするから」

 おれたちが見ているのは件の掲示板。そこには『主人公、ジャック・トルハーストのモデルとなった人物』というコメントと共に、おれの写真が無記名により投稿されていた。おれもポールもマメにサイトをチェックしているわけではなく、ローマンから知らされなければ、おそらくずっと、写真はこのままだったに違いない。投稿時間は今からほんの二時間前───にも関わらず、すでにいろいろなレスが付けられていて、それは実にインターネットらしい書き込みに満ちている。

「明日か……明日までこのまま……。いったい何だってこんなことに……。くそ、何かコメントを書き込んでやろうか」

「やめといたほうがいいよ。場が荒れるだけで何の解決にもならない」

「腹立つな」

「ごめんね」

「きみが謝ることじゃない」

「うん、それはそうなんだけど……」

 ポールが暗い表情になった。おれはウィンドウを閉じ、努めて明るく「もっと写りのいい写真を使ってくれればよかったのに」と、笑ってみせる。

「いろいろあるだろ、女装したヤツとか」

 ポールは笑ってくれない。黙って画面を見つめている。もし掲載されたのが自分の写真だったとしたら、彼はこんなに厳しい表情でモニターを凝視したりしないはずだ。それがポール。彼って奴はそういう男。

「あんまり気にするなよ」と、おれは言う。その言葉には何の効力もない。彼は黙っている。黙ってモニターを見つめ、じっと何かを考えている。それがポール。おれの彼氏はそういう男なんだ。



 例えば会社の同僚らと比較して、自分は一年のうちに何度パーティに出ているのかと数えれば、それは彼らが十年──もしくは一生涯かけて出席するパーティの数に相当するんじゃないかと思えるほど、おれは“パーティ”ってものに数多く顔を出している。その理由は簡単。おれの友達たちはパーティ・クレイジー。“誕生パーティ”“結婚パーティ”、果ては“離別のパーティ”まで。何かと理由をつけては集まって大騒ぎするのが彼らの習性だ。本日の集会のテーマは〈キャロリンのハッピーバースディ(大台突破!)〉。14丁目の小さなクラブを借り切って、朝まで踊って騒ぐのがその習わしとなっている。“朝まで踊って騒ぐ”かはともかく、友達同士で集まることはおれも嫌いじゃない。いついかなるときでもパーティは楽しい。たとえパートナーが不在で、ひとりぼっちで出席しようとも。会う人ごと、みんなから「ポールは?」と挨拶がわりに訊かれようとも───まあ、パーティってのはそんなもんだ。

 本日の主役、キャロリン(女名前だけど性別は男性)は、花に囲まれていた。頭に花。胸元に花。おしりにも薔薇の花を付け、それは本人曰く「今日は花の妖精なの」ってことらしい。

「ポールは? 一緒じゃないの?」と、フラワーフェアリー。

「彼は家で小説を書いてるよ。出席できなくて残念だって、きみに会いたがってた。これはおれとポールから」

 プレゼントの入った紙袋を渡すと、彼は飛び跳ねて喜びを表現し、おれの頬に口紅の跡を残した。

「ポールにもあたしからのキスを送っておいて頂戴。ねぇ、彼ったらそんなに忙しいの?」

「昼間は普通に仕事してるからね。書く時間は夜しかないんだ」

「ふぅん……でも、あれだけの作品ですもんね。やっぱりまとまった時間は必要だわよね」

 その通り。“まとまった時間”が必要すぎて、パーティにも顔を出せず、セックスもご無沙汰なのが今の作家の状態だ。芸術家の恋人であるってのはときにつらいもの。友達から「今日はポールは?」と訊かれるたび、ひとりきりの寂しさが募っていくような気がする。

「あっら〜、“ジャック”じゃない?」

「トルハースト卿にはご機嫌麗しう大慶に存じ上げますわ」

 カクテル片手に近づいてくるのは、ディヴィッドとモナ。ほろ酔い加減で物語の世界に入り込んでいるようだ。彼らはどちらも男性だが、今日の出で立ちはカクテルドレス。ココア色の肌のモナは白。日に焼けたら赤くなりそうなほど色素の薄いディヴィッドはブルーのドレス。どちらも自分に似合う色をよく心得ている。

「ねぇ、ディーン、あの話、最後はいったいどうなるの?」

「まさか“死にオチ”じゃないでしょうね?」

「“死にオチ”?」耳慣れない言葉だ。LL教室で習う単語だろうか。

「今の感じだとその可能性もあるかなって。物語はどんどん暗い方向に向かってるでしょ? だから最終回は“ふたりで心中”とかじゃないかって……そのへんはどうなの?」

「どうなのって言われても……続きに関してはおれは何も知らないんだ」

「ちょっとも? なんとなくも聞いてないの?」

「ああ」

「どっちかが死ぬとかの可能性は?」

「わからないよ」

 おれがそう言うと、ふたりは落胆したような表情になった。知っていることがあれば教えてあげたいが、無い袖は振れない。ポールがここに来ていれば、彼らが喜ぶような話ができたかもしれないが。

「わたしたち、ストーリーのオチをいろいろ考えてたの」と、モナ。

「そうなの。それで“ふたりが死んじゃったら嫌よね”って、話してたのよ」

 なるほど、それが“死にオチ”か。

「もしまだ最終回が決まってないなら、“ふたりを殺さないで”ってポールに言っておいて」

「そうよそうよ。“なんとかハッピーエンドに”って。お願い」

「おれに言われても困るよ」

「あなたに言ってるんじゃないの。ポールにそう伝えておいてって話よ」

 おれは伝書鳩か。こういうのって苦手だ。まあ、パーティってのはそんなもんで、それは仕方ない。

「ね、“ジャック”として考えて、これからの展開が予測できない?」きらきらと目を見開くディヴィッド。おれはそっけなく「さあ、どうだか」と答える。

「ねね、あの話、わたしたちも登場できないかしら? 主人公の友人って設定で」

「あらっ、それはいーわね! いつでも取材には協力できるわよ」

「それは難しいんじゃないかな。きみたちが出てきたらコメディになってしまうだろ」

「あらまあ、お言葉ですこと」

「ジャックはそんなこと言わないのよ」

「その呼び名はやめてくれないか。おれはジャックじゃない」

「でもあなたがモデルなんでしょう?」

「それは……そうだけど……」

「あの話ってどこまで実話なの?」

「それ知りたい! 喧嘩してポールを突き飛ばしたりなんか、あなたまさかしないわよね?」

 目をきゅっと細めるディヴィッド。まるで悪人でも見るような表情。ボーイフレンドを突き飛ばして脳震とうを起こさせ、それを見捨てて外に飛び出したのはおれじゃないってのに。

「前々回の話はどうなの? 親が連れてきたジャックの婚約者、あのキャサリンってはキャリーって人がモデルなんだって聞いたけど?」

「ええ? ちょっと待てよ、どうしてそんなことまで知ってるんだ?」

「やっぱり! 実在の人物なのね!」顔を見合わせ、手を叩き合うモナとディヴィッド。

 確かに、この間のストーリーは、おれのママがキャリーを連れてきたことがベースになっている。でも何だって、彼らがそれを知ってるんだ? 個人情報の漏洩と拡散はネット社会の問題のみならず。おしゃべりなゲイの口には板が立てられない。ことによったらもっと他の情報も(それがどういったものかはあまり考えたくはない)どこかおれのあずかり知らないところで公開されたりしているんだろうか。

「ねぇ、じゃあやっぱりあなたも自分がゲイだってことに抵抗あるわけ? ジャックが思うようなことを考えたりするの?」

「それについてポールはどうなのかしら? ジャックの恋人はそれで苦しんでるわけだけど……」

 なあ、こんな夢って見たことあるか? パーティメイクをほどこし、ドレスを身にまとったふたりの男から、やってもいない罪について詰め寄られるって悪夢を。これが夢ならベッドから出ればいいわけで、これが夢じゃない場合は……どうすればいい?

「ディーン、ちょっとお話があるんだけど、いいかしら?」

 薔薇柄のスーツを着たローマンが手招きをする。ああ、助かった。地獄で仏だ。彼が仏に見えるんだから、おれの状況はかなり切迫していたらしい。

「あなたひとりなの? ポールは?」

「みんなそれを言うな。いっそのこと“ポールは自宅”ってカードを首から下げておこうか……。なあ、きみのスーツ、素敵だな。そういう模様の服、どこで売ってるんだ?」

「みんなそれを訊くわね。“ヴィレッジとチェルシーの境にあるファンシーってお店”って書いておきましょうか?」

「ファンシーか。覚えておくよ。で? 話って?」

「ええ、ポールの小説のことなんだけど……」

「きみまでその話か」

「きみまでって?……とにかく、例の小説なんだけどね。昨日、友達の編集者と会ったのよ。彼が言うには、〈アンダー・ザ・ローズ〉このまま人気が落ちないようだったら、一冊の本にまとめようかって……そういう話が社内で出てるんですって!」

「え……そうなのか」

「あらやだ。あんまり嬉しそうじゃないわね」ローマンは片方の眉をきゅっと上げた。

「いや……そんなことはないよ。急な話だからさ。びっくりして」

「そうよねぇ。びっくり仰天。すごいことだわ。アタシたちの遊びが発端だったのに、まさかこんなことになるなんて……。後日、改めて編集部からポールに連絡があると思うけど……もうアタシ黙ってられなくって!」

 両足を踏みならすローマン。これは“最上級に嬉しい”という、彼の表現方法なのだろう。おれの両足は地に着きっぱなし。嬉しくないわけじゃない。ポールが作家としてデビューする。もちろんこれはすごいことだ。

「本が出るとしたらいつ頃なんだ? 近々には出版ってことなのかな?」

「近々は無理ね。今の段階ではまだページ数が足りないから、もっと書き足してもらってからになるはずよ。それに手直しもしてもらうだろうって」

「そうか……」

「この話、ポールに伝えておいてね。本当はアタシが直に言いたかったけど。今日は会えなくて残念。彼の喜ぶ顔、見たかったわ〜」

 服の柄と同じ、花が咲いたような笑顔のローマン。彼はポールの成功を喜んでいる。友達なら当然の反応だ。

 朝まで騒ぐ決意の友人たちに別れを告げ、大通りに出てタクシーを拾う。パーティの後だというのに、おれの心は晴れやかではない。ローマンの話を聞いてからずっと、頭にあるのはポールのこと。書き足し、手直し。出版に伴う諸々の手続き。出版が決まれば、彼は今以上に忙しくなる。おれはポールの一番のファンだ。これが喜ばしい話だってことはよくわかっている。わかってはいるが……。

 キャブの運転手がおれを振り向く。「すいません、お客さん。道を間違えたみたいで……こっからメーターを止めますから」

 なんだよ、こんな時に。勘弁してくれ──。苦々しくそう思い、いつもならこんな反応はしないのにと思い至る。運転手は丁寧だ。メーターを倒したことも良心的。別に腹を立てるほどのことじゃない。もしここにポールがいてくれたら、こんな些細なことは気にもならないはず。おれはタクシーにひとりっきり。いつもであれば「今日は楽しかった」とかなんとか、ポールと後部座席で手をつなぎ合ってるはず。友達のパーティにも一緒に行けず、セックスする時間もとれない。それが今のおれとポールで、今後はそれにもっと拍車がかかるんだろう。腕時計を見ると、時間は深夜二時に届きそうになっていた。きっとポールはまだ起きている。起きて小説を書いている。日中、居眠りをしてしまうほど、彼は疲れ果てている。今後はそれにもっと拍車がかかるっていうのか? そんなの絶対にいいことじゃない。

 結局のところ、いちファンとしてよりも、恋人としての感情の方がまさってしまった。いや、これは恋人としても喜びをもって迎える話なのかもしれない。ローマンからの伝言、おれは笑顔で彼に伝えることが出来るんだろうか……。



 ポールの部屋の前に立ち、扉をノック。返事はない。彼はまだ起きている。足下に漏れる灯りでそれがわかる。そっとドアを開く。ポールは椅子に座っている。こちらに背を向け、いつものようにラップトップに向かっている。液晶ディスプレイはスタンバイ。間接照明の薄暗い部屋に、電源ランプの青色LEDが怪しい輝きを見せている。作業に集中しているのではという配慮から、おれの声は小鳥のようにささやかになる。

「ポール……」返事はない。

 そっと背後に回り込み、顔を覗く。閉じられた瞼。軽く開かれた唇。デスクランプに照らされ、顔色はブルーがかっている。それは青白い蛍光灯のせいだろうか?

「寝るならベッドに行かないと」

 再度の呼びかけにも応答はない。ふいに不安がわきあがってくる。

「ポール……おい?」

 彼は動かない。睫毛の一本すら、ピクリともしない。なんだこれは? まさかこれがディヴィッドの言ってた“なんとか”ってオチ? 小説の中にこういう場面はない。こんなのはおれたちに少しも身近なテーマではない。おれたちの日常はとても地味で、ドラマチックとはかけ離れているはずだったのに……。ああ、ポール。なんてこった。おれが女装の妖精たちと遊んでいる間にきみは……。

「あれ……ディーン……」床に膝をつくおれを見下ろすポール。

「いつ戻ったの? パーティはどうだった?」目をこすり、背もたれに反って伸びをする。

 そりゃそうだ。もちろん彼は眠ってただけ。いったい何だと思った?

「ああ……パーティ、うん。楽しかったよ。デジカメの写真を見るか?」

「うん、見たい。その前にこれをサイトにアップしてから」

「続き、書けたのか」

「ようやくね。これでもう寝不足とはおサラバだ」

「え? それはもしかして……」

 ポールはおれの頬に手を置いた。にっこりと笑い、優しく頬を撫でる。

「最高のラスト。これ以上ない出来映えだって自分では思ってるよ」

 疲れ切った彼の顔色はブルー。そこに浮かんだ微笑みは、これまで見たことがないくらい、素晴らしい輝きに満ちていた。



 サブタイトルに“最終回”と銘打たれた〈アンダー・ザ・ローズ〉。作家自らが『最高のラスト』と称したそれは、ストーリーを追っていた者であれば、誰もが驚く展開となっていた。

 主人公のジャックとその恋人のパーシ。ふたりが恋人同士だということが世間にばれ、両親らが要請した警察官に追われて逃げるところで、前回の話は終わっていた。ドラマはここからというところでの最終回。人気の面からも、ストーリー展開の面からも、終了するにはまだ早すぎると誰もが思ったことだろう。読者が驚いたのは、唐突に連載が終わってしまったからではない。むしろ問題なのは、その内容の方だった。

 警官に追われるふたりは、逃げる最中、薔薇の生け垣に不思議な“穴”を発見する。いつも会っていた公園で、そんな穴があることを、彼らはこれまで見たこともなかった。それは不思議な光を発して渦を巻き、およそこの世界では見たこともないような奇妙な状態になっている。追いつめられた彼らは逃げ込む先を失い、その穴に飛び込んだ。それは死をも覚悟した行為であったが、あにはからんや、素敵な恋人同士は死んだりなぞしなかった。意識を取り戻したふたりが見たのは公園にあるピーターパンの像。彼らにとって“新しいモニュメント”であるはずのそれは、この公園にいる者たちにとって、百年も前に建てられたものであり……。

 “アンダー・ザ・ローズ(Under The Rose=秘密)”という言葉がキーワードになっていて、なかなか凝った設定ではあるが、これはSF小説ではない。21世紀のロンドンにタイムスリップという展開は、今までの世界観をまるっきり覆してしまい、安易にハッピーエンドにしたのも流れを無視していると言える。文学作品と思っていたものが、いきなりロバート・ゼメキスばりのエンターティメントになってしまった最終話に、ほとんどの読み手が憤慨したであろうことは、まったく想像に難くないことだ。

 こわごわ掲示板を開いてみると、案の定。書き込まれたコメントは読むに耐えないものばかり。「がっかり!」「最悪!」「なんだこりゃ?!!」 熱心さという点においては変わらないが、伝えるメッセージはどれも作者をボロクソにけなしており、好意的な意見もないことはないが、そのほとんどは酷評だ。

 ポールはこれを読んだだろうか? そうだとしたら心ない罵詈雑言に傷ついているのでは? 気を回し、“誰がなんと言おうと気にするな”的なことを懸命に言って聞かせるおれに、ポールは「別に平気さ」と、肩をすぼめて見せる。

「これがぼくのライフワークってわけじゃないし。美容師の仕事で何か言われたのなら堪えただろうけどね」

 口笛吹かんばかりの涼しい顔。まったくあっさりしたもんだ。これがポール。おれの彼氏はこういう男。

 一方、おれは「ちょっともったいないな」と、未練たらしい。「あのまま出版の話が進んでいたらどうなったかな? きみが本気になれば何らかの賞だって獲れたかもしれないのに」

 喉元すぎれば熱さを忘れる。本の出版を憂いていたことなど、追憶の彼方。これがディーン。おれって奴はこういう男。

「そう言ってくれるのは嬉しいけどね。出版の世界はそんなに甘くないんじゃないかな」

「そんなのやってみなけりゃわからないぜ。ピューリッツァー賞……じゃなくて、オチがSFになったからネビュラ賞とか、そのあたりだ」

「きみは愛で目がくらんでる」と、彼は苦笑した。「とても無理に決まってる。あの酷評を見ただろ?」

 ポールは掲示板を読んでいた。いくらライフワークじゃないと言っても、あれを読んで不愉快にならない作家はいないはずだ。

「もう小説はいいよ」と、ポール。「すごく目が疲れるし、内面に入り込んでいくせいで、どんどん気持ちが鬱になった。ぼくは作家に向いてない。お客さんと直接しゃべったりとか、そういうのが楽しくて性に合ってるんだ」

 それからひとつため息をつき、おれの顔をそっと見つめ「がっかりしたかな?」と訊く。

「がっかり?」

「ぼくの一番の読者。きみが続きを読みたいって言ってくれたから、あの話は出来たんだ。他の人のことはどうでも、きみをがっかりさせたんであれば……」

「がっかりなんてしないさ」おれは微笑む。「あのストーリーはきみが言った通り。確かに最高のラストだよ。あまりにも展開が急で驚いたけど、よくよく読めば最後までしっかりした話だってわかる。いずれ読者も理解してくれるさ」

「せっかくぼくのことを誇りに思ってくれたのにね」

「何言ってるんだ。おれは今でもきみを誇りに思ってる。作家としても、美容師としても、なにより恋人としても。きみは誰より最高だ」

「愛で目がくらんでるね?」

「くらむほどに夢中なんだ」彼の両手をとり、自分の胸に押し当てる。「ああ、ポール、ポール……。作家であろうと美容師であろうとそれは同じこと。おれたちが薔薇と呼んでいるあの花。それを別の呼び名にしたところで、その甘い香りに変わりはないのだから……」

 ロミオとジュリエットからの一節、芝居がかった台詞を真剣に言うおれに、ポールはくすくすと笑い出す。

「ジャックとパーシは満足してるな。平和な時代に来ることができて」

「うん。ぼくのキャラクターたちを悲劇的な目に遭わせたくはない。そのためにああいうラストにしたんだもの」

「おれたち、旧世紀のカップルじゃなくてよかったよ。同性愛は有罪……ほんの百年前までそうだったなんて信じられない」

「今はエルトン・ジョンだって教会で式を挙げる時代だもんね。……ああ、それにしてもこの一ヶ月は長かったな。これでまたきみと一緒に過ごせる。夜はパソコンじゃなくて別なことに使うのがいいよ」

「まったくだ。おれだって、ひとりでDVDを見るよりは別なものを見つめていたい」

「ねぇ、ディーン」おれの胸に身を乗り出し、ことんと小首を傾げるポール。「この話、そもそもの発端は“何をセクシーと感じるか”ってことだったんだよ。覚えてる?」

「ああ、そうだった」

「だからさ」

「うん?」

「だから、ね?」

「ああ……」

 おれたちはそろってソファに倒れ込む。あとの展開はご想像の通り。

 ポルノもイマジネーションも、名作芸術ですら太刀打ちできない恋人の存在。“何をセクシーと感じるか”って、その答えは言うまでもないだろう。

 〈身分違いの恋〉と〈孤独の果て再生する愛〉。そんなキャッチコピーがなじんでしまう19世紀の恋人たち。同性愛を捌く法のない21世紀ロンドンにやってきた彼らに悲劇は訪れず。きっと彼らはソーホーかどこか、パーティ・クレイジーの友人たちと出会い、シリアスだった人生をコメディみたいに変えていくんだろう。

 作家はふたりの幸せを願い、そのエンディングをハッピーなものと創造した。世界のどこかで幸福にやっているであろうジャックとパーシ。そのモデルのおれとポールは言うまでもなく幸せで、お互い愛で目がくらんでるあまり、小説のネタには少しもなりそうもない。


End.

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