第6話:ママがやってきた!(Mama Don't Preach)
涙はいつも唐突に訪れる。
恋人との別離。物悲しい夕暮れ。スシに入れ過ぎたワサビ……。涙の理由は様々で、今おれが流しているのは“感涙”という種類のもの。芸術というものは、いついかなる時代においても、人々の心に無垢なる感動を与えてくれる。
映画で泣いたのは、フェリーニの『道』を見て以来のことで、今日の上映は『バンビ』。言わずと知れたディズニー不朽の名作だ。
姉のアイリーンが「一晩だけ」と、彼女の二歳の娘、ステラをうちに預けたのは、今夜、自宅で弁護士を交え、離婚の協議をするため。先頃、おむつがとれたばかりの姪の“お泊りセット”の中に、『バンビ』のDVDがあったこと。それが涙につながるとは、よもや思ってもみなかった。
家族の絆と、愛と勇気の物語。バンビの恋人、ファリーンはなんていい女なんだろう(鹿だけど)。バンビは命をかけてファリーンを守る。これこそ真の人間のありようだ(鹿だけど)。
映画が終わり、となりに座っているステラに「バンビのようなボーイフレンドを見つけるんだよ」と言うと、彼女は「アーロン・カーターのがいい」と簡素なコメントを返してきた。まったく女ってヤツは。
物語はハッピーエンドになったというのに、どうしておじさんが泣いているのか、ステラにはよく理解できないようだった。ある意味これはおれにも理解できない。まさかこの年になってバンビに泣かされるなんて。年をとったせいで心が弱くなったんだろうか。(ところで、スカンクの“フラワー”がゲイじゃないかって疑ってかかったのはおれだけじゃないはず)
「さ、もう遅い。お風呂に入って寝るとしようか」と、ソファからステラを抱き上げる。「わぉ、ちょっと重たくなったかな?」
「重たくなんてなってません」
「そうだった。失礼、お嬢さん」
「バービーも一緒にお風呂入っていい?」
「ああ、いいよ」
こないだまでやわらかくてフワフワしたぬいぐるみと一緒だったのに、お供は巨乳のブロンドにとってかわった。子供の成長は本当に早い。
タイルにジェルシールを貼りまくってのお風呂タイム(裸のバービーも一緒。刺激的だ)。それが済んだらステラはおれのベッドをひとりじめ。おれはポールのベッドに入れてもらう。お姫様は高待遇。ひとりで泊まりにきたのは初めてのことで、泣いたらすぐに迎えに行くとアイリーンは言っていたが、どうやらここまでは大丈夫のようだ。
寝る前に彼女、おれにバービーのステッカーをくれた。それを指の先っちょにくっつけ、ポールに見せる。子供が寝たあとは大人の時間。ふたりがけのソファでくつろぎ、語る話題はバービーのこと。
「このシール、カバンかどこかに貼ってみようか? おれがやったら、ちょっと洒落にならないだろ? バービー・マニアだって会社で噂されるかも」
「誰もそんなふうに思わないよ。きみの場合、“生身のバービーの方が好き”って、みんな知ってるだろうし」
「いや、バービーは御免だね。なんたって金がかかりそうだ」
「いつも最新ブランドを着てるしね」
「ケンが気の毒」
「ケンはゲイに目覚めて、G.I.ジョーに走るかも」
「そっちのほうがいい人生だ」
「そうかなあ?」
「そうさ、おれはそうだ」
「“コンバット”が好み? バービーよりもG.I.ジョーのがセクシー?」
「からかうなよ。おれはバービーよりもきみが好きって言いたかっ……」
彼のキスが反論を塞ぐ。おれのシャツのボタンを外すポール。キスはそのまま。唇を離さず服を脱ぐのは難しいが、一秒たりともそれを離したくはない。バービーよりもファンタスティックで、G.I.ジョーより頼れる相手。バービーのシールはテーブルの角に。セクシードールよりセクシーな生身の恋人。バービーは決して体験できないセクシーな夜。触れ合う素肌は吐息を呼び、お互いの熱を高め合う。
「ポール……」
「ディーン……」
「ママ……」
ん? なんだって?
居間の入り口に立っていたのは、ブロンドとピンクのパジャマ。
「ああ……ステラ。目が覚めたのか」ソファから身を起こし、眠たげな姪に声をかける。「どうした? バービーは一緒じゃないのか?」
ステラは目をこすりながら「……おしっこ」と、つぶやく。
さすが二歳児。それをベッドで済まさなかったのは偉かった。もう赤ちゃんじゃないもんな。
トイレからベッドに戻るまでの間、キスについてはノーコメント。もう赤ちゃんではないが、かといって大人でもない。彼女が男同士のラブシーンにショックを受ける年齢でなかったのは幸いなことだ。もしバービーに見られでもしたら、罵倒のひとつも貰ったことだろう。
「“キスしてた”って?」
翌週、姉のアイリーンから電話が入る。用向きは、“男同士のラブシーン”について。
「あんたたち、子供の前でなんてことすんのよ」
「キス? キスだって? 今時キスぐらいでなんだよ。友達同士、キスしたっておかしかない。キスったって頬とかそういう……簡単なヤツだ。まさかそれぐらいのことで電話をかけてきたっての?」
動揺すると口数が多くなるのがおれの癖だ。わかっちゃいるが、上手く止められた試しがない。
「ステラは“おじたんたち、裸だった”って」
「は、裸じゃないよ! 上は脱いでたけど、下はまだ……!」
アイリーンは無言。語るに落ちた。そもそも姉に隠し事をして上手くいった試しもない。
「アイリーン、聞いてくれ。おれは……」
「あのね、ディーン」と、おれの言葉をさえぎる。「あたしはあんたがなんだって構わないの。ただね、この話、ステラが電話でママに言っちゃったのよ」
アイリーンのコメントに弟は無言。ニュージャージーの海岸はそろそろシーズンだろうか。そう、旅に出よう。
「……ママはなんて?」
「とりあってなかった。二歳の子供の言うことだからって。女好きの息子の性癖を疑おうなんて、これっぽっちも思ってないのよ。息子を信じてるのね」
「姉さんはどうなの」
「あたしは娘を信じてるの。それにあんたにはそっちの素質があったもの。驚きゃしないわ」
「素質?! 冗談だろ! おれがいつ?!」
「シルバーサーファーとマイティソーのポスターを部屋に貼ってたでしょ」
「そんなの! アメリカ人の子供なら誰でも貼ってる!」
「怒鳴らないでよ。あんたがなんだってあたしは構わないって言ってるじゃないの。いい、よく聞きなさい。来週、ママがそっちに行くわ」
ヨセミテ国立公園にはまだ行ったことがない。素晴らしい滝とセコイア・ツリー。旅に出よう。今すぐに。
「あんたクリスマスにもママに顔を見せなかったでしょ? 息子が来ないのなら行くまでだって。たまには親孝行することね。どこかいいレストランを予約するとかでもして……ちょっと、聞いてるの?」
ヨセミテ・バレーの夢想から醒めたときには、すべての流れが決定づけられていた。ママが来る。ここに。アイリーンは離婚で忙しい。よって母親の接待はおれの役割。
シルバーサーファーとマイティソー、スーパーマンに超人ハルク。列車事故からテロの脅威まで、なんでもござれのスーパーヒーロー。『地球の危機はぼくらにおまかせ』しかれども『おかあさん関連の事柄は除く』。どんなヒーローだって“おかあさん”はいる。そしてそれからは遠巻きでいたいのが男というもの。アメリカンヒーローはぼくのピンチを救ってはくれない。そんな世知を得た大人のディーンが『バンビ』に泣いたとしても何ら不思議はないというものだろう。
ラガーディアは決して分かりにくいエアポートではない。母はこれまでに何度もニューヨークに来ているし、マイアミに隠居するまでは、マンハッタンを地元として生活をしていた。それだから「空港まで迎えにきてちょうだい!」と言われたところで、「なんでわざわざ?」と聞きかえしてもなんら不思議はないわけで、それは別に「ママを迎えに出るのがそんなにめんどくさいの?」ってわけではもちろんない。
「空港からホテルまで行くだけだろ? 別におれが“お付き添い”する必要ないと思うけど」これは非常に常識的な意見だと思うが、ママには通用しなかった。“常識問題”で議論したところで、こちらの負けは見えている。母親に抵抗して勝てた試しも一度としてないのだ。
友達から車を借り、ツアーコンダクターよろしく空港まで出向く。『ミリアム・ケリー様』のプレートを表示していなくても、混雑したコンコースでお互いの姿を見つけることができるのは、母親と息子の絆あってこそだ。
「ああ、長旅だったわ! 座りっぱなしで背中が痛い!」
会うなり旅の感想を述べる母。マイアミからニューヨークまでは三時間弱。これが長旅だとしたら、ヨーロッパへのフライトは、月面旅行に匹敵するくらいの長さってことになるんだろう。
ヴィトンのボストンバッグを肩から下げた小柄な赤毛の女性。これはおれのママ。で、となりに立っているのもやっぱり小柄な赤毛の女性。しかし見た目の年齢はママよりずっと若い。ぱっと見は二十歳代という感じだ。
「飛行機はアメリカン航空だったんだけど、昔よりサービスの質が落ちたんじゃないかしら。面白い映画もかかってなかったし、今度から違う航空会社にした方がよさそう。いくらマイレージが貯められるからって言っても、やっぱり……」
「おかあさん、こちらは?」
マシンガントークを制し、初めて会う、小柄で赤毛の女性について訊ねる。
「ああ、彼女はキャリー。うちのお隣のバック夫妻のお孫さんなの。キャリー、これがうちのディーンよ」
「キャリー・バックです」小柄の赤毛は丁寧にフルネームを名乗った。
「キャリーはマイアミに住んでるんだけど、一度もニューヨークに来たことがないっていうから。今回は一緒に観光することにしたの」
なるほど、これがあるから“迎えに来て!”ってことだったのか。呼べば応える孝行息子がいるというのは、お隣のバック夫妻に話して聞かせるには心温まるエピソードだ。
ホテルに向かう道すがら、車内でママのトークは絶好調。キャリーはおのぼりさんらしく窓の外を凝視するでもなく、母の話に穏やかに相づちを打っている。これに付き合えるのだから大したものだ。ママがキャリーを連れてきた理由がよくわかった。
「キャリーのお仕事はね。保育園の子供に英語を教えているの」
「英語を?」ミラー越しに彼女を見る。
「仕事と言ってもボランティアですけど。その保育園は海外から移住してきた家庭のお子さんを専門に受け入れているんです。ディーンさんは絵画販売の企業にお勤めなんですって?」
「ええ、そうです。母から他にどんなことを? ぼくの子供時代の失敗はいくつ聞きました?」
「まあ、ディーンったら。わたしはそんな意地悪おばさんじゃありませんことよ」口を尖らせる母に微笑むキャリー。
「マイアミからニューヨークまではあっという間だったから、それほど多くのエピソードは聞いてないですね。絵画販売って面白いお仕事ですか? ケリーさんはそこでどんなことを?」
「そうですね、仕事としてはなかなか興味深いジャンルと言えるんじゃないかな。部署はアーティストとの契約を扱うのが主な業務です。ぼくのことはディーンとお呼び頂いて結構ですよ」
「じゃ、わたしのことはキャリーと呼んでください」
まずはほっとした。今回の旅はただの観光旅行。息子の素行調査ではないらしい。安心した運転手は遠回り。市内のちょっとした見どころを巡って、ガイドを受け持つ。「この建物はかつてウェザーマンのアジトで、入り口が切り取られたみたいになっているのは、爆弾の誤爆で建物の前面が吹き飛んだからなんだ」……とかなんとか。生まれたときからマンハッタンにいれば、それなりの観光地図だって書けなくはない。
ホテルではポーターにチップを多めに渡し、“赤毛姉妹”の身柄を委任する。これでひと仕事終えた気になっていたおれは、まだまだ母親の実力を見くびっていた。翌日、ママがひとりでおれの部屋に現れるまで、おれは“いい息子”の自分に満足していたし、これから何か騒動が起きるなどとは、予想だにしていなかった。
手作りディナーで母を迎えうつは“いい息子”。同居人(実は恋人だが)のポールを爽やかに紹介し、三人でにこやかに夕食をとる。スペイン風オムレツは好評だったし、食後にはママの好きな濃い目のコーヒーを用意した。きめ細かいサービス。おれ自身、こんな息子が欲しいと思えるほどの出来映えだ。これをもってして“クリスマスにも顔を見せなかった放蕩息子”の株が上がるといいのだが。
ビスコッティの食べ方を説明した後、おれは何気なくキャリーのことを話題に出した。誓って言うが、そこには何の意味も、一片たりとも含まれてはいない。
「今日はキャリーと別行動なんだね? 彼女、今夜何してるの?」
「なんでも高校の時の同級生がこっちにいるらしくてね。今日はその子の家に泊るって……ねぇ、キャリーのことなんだけど……」
「うん?」
「どう思った?」
「どうって……感じのいい子だよね。ママのおしゃべりに付き合ってもくれるし」
「ねぇ、ほんとう、素敵な子よね?」
「ああ」
「わたしの娘にぴったりだと思うの」
「はっ?」
「つまりね、あなたのガールフレンドにどうかしらって」
「なんだそれ!?」
「あなた今ひとりなんでしょう? 去年のクリスマスからずっと」
動揺のあまり、口に運びかけたビスコッティがテーブルに落ちた。コーヒーに浸したそれは見事に崩れ、おれはキッチンペーパーを取りに台所に立つ。
「キャリーは26歳なの。あなたのふたつ下。年齢的にもちょうどいいわよね?」
キッチンから戻り、ペーパーでテーブルを拭う間にも、セールスレディのトークは続く。
「昨日は車の中で楽しかったでしょ? ねぇ、どうかしら。いいと思わない?」
「別に」ゴミ箱にペーパーを放り、無下に言う。
「今さっき“感じのいい子だ”って言ったじゃない」
「言ったけど……!」
「“彼女は今夜何してるの?”って、気にもかけてる」
「それは……そんなの誰だって聞くだろ! 日常会話だ!」
“いい息子”終了。これだけはやるまいと思っていたのに、とうとう声を荒げてしまった。ポールは黙っておれたちのやりとりを聞いている。言いたい事がないわけではないだろうが、それはきっとママが帰ってからとなるだろう。
「とにかく……よけいな世話をやかないでくれ。恋人くらいおれは自分で見つけられる」
「そういうのは恋人がいる人の台詞でしょ。まあ、固く考えることないのよ。自分で見つけようと人に紹介されようと、出会いは出会いよ。ママはきっかけを作っただけにすぎないの。あとはあなた方にまかせるわ」
「わかった。断る。いま断るよ。彼女とは付き合えない。そう伝えておいてくれ」
「なんなのその態度! どういう狭い了見なの! あなたキャリーのことをなにも知らないじゃないの。そんな初対面で断らなきゃいけないようなことを、彼女がしたっていうの? いったい何が気に入らないのか言ってごらんなさい!」
ママもキレた。おれたち親子は、だいたいいつもこのパターン。コスビーショウより決まりきった、お約束のオチだ。
「いや、彼女がどうとかじゃないんだ……」
母親は腕組みをしている。おれのがはるかに背が高いのに、どうしてこの人はこんなにおっかないんだろう。
「何て言うか……話した感じから、彼女がいい人だってのはわかるよ。ママが気に入るくらいだからね。ずいぶんと優しげだし……」
「頭もいいのよ」
「ああ、そうだろうね。会話してても疲れなかったから、それはわかる気がするよ」
「じゃあ、なあに? 見た目が気に入らないとでも?」
「まさか! 彼女、平均より美人だ」
言ってから“しまった”と思った───が後の祭りだ。ママを立てようと思って、つい褒め過ぎた。営業マンってのは、褒め言葉に舌が滑り易い。なおかつおれって男はやたら正直が過ぎるんだ。ポールの視線を背中に感じたが、正直者ゆえ振り向く勇気がない。しかし振り向かずとも、その視線は突き刺さるように感じている。
「そんなに素敵なら付き合ったらいいのに」と、背後からポール。視線のみならず言葉も突き刺さった。ブルータスおまえもか。味方であるはずのポールは、おれの心臓をざっくりとえぐった。
「でしょう? あなたもそう思うわよねぇ?」ポールににっこりと笑うママ。
「……やめてくれ」
「だって、いい年をして男同士同居してるなんて、知らない人が見たらゲイかなんかだと思うでしょ」
『ママ、おれはその“ゲイかなんか”なんだよ』おれはここでそう言うべきだった。それができなかったために、この後は苦難を強いられることとなる。
“やたら正直が過ぎるディーン”、しかし肝心なことは言わずじまい。でも言わなくたってわかることが世の中にはあるだろう? 男と暮らしている息子が夕食を手作りして待っているあたりで『ウチの子はゲイだわ』って気がついてくれてもよさそうなもんだが。しかし“それとなく察する”というのは、我がファミリーには通用しない。思い込みが激しいのも多分遺伝だ。“遺伝子の神秘、ここに証明さるの巻”。いつからおれの人生はディスカバリー・チャンネルになったのだろう。
おれと母親とポール。奇妙な三すくみのまま、コーヒーからワインに嗜好を変えて尚、ママのおしゃべりはまだまだ続く。
「……それでねぇ、ディーンはそのときこう言ったの『ママ、ぼくの未来の奥さんはママよりもブラジャーのサイズが大きい人を選ぶよ』って……ねぇ、このグラス、もしかしてバカラ?」ソファの上で足を組み、ワイングラスをライトにかざす。
「いや、パイレックス」
「そうなの? 結構いいじゃない……。でね、この子ったら“おっぱいコンプレックス”なのよ。二才まで哺乳瓶を手放さなかったんですもの。それでってわけじゃないだろうけど、ディーンの高校の時のガールフレンドはね……」
「おかあさん!」思わず出た声はシャウトに近い。努めてトーンを普通に戻し、母親に向かって話しかける。
「……もう遅いだろ。ホテルに戻らなくていいわけ?」
「はいはい、早く追い出したいのね? いいわよ親不孝息子。出て行きますとも」
グラスを置き、コート掛けに向かうママ。帰り支度をしながらも、その口は動きっ放す。
「ほんと男の子は大きくなるとこれだから。ママのハンサムくまちゃんは、憎らしい灰色熊になっちゃって」
「やめてくれよ恥ずかしい……」
「なにが恥ずかしいの? 子供の頃のニックネームくらい誰でもあるでしょ。ガールフレンドの前で言ったんじゃなし。そんなに格好ばっかりつけてると、早くおじいさんになっちゃうのよ?」
「おかげさまで今日一日で思いっきり老けたよ」
タクシーを呼んで、ママをホテルに送り返す。いっそ『返品不可』のラベルを貼ってやりたいが、それはホテル側にも迷惑なことだろう。
リビングルームは一気に静かになった。背後でポールがぽつりとつぶやく。
「“ハンサムくまちゃん”」
「……………」
「巨乳じゃなくて申し訳ないな」
「ポール……」
「“おっぱいコンプレックス”」
「ポール……!」天井を見上げ、ため息をひとつ。「頼むよ……おれだってまいってるんだから……」
「ぼくもさ」言って、ポールは食器を片付け始めた。カチャカチャ。グラスと皿のぶつかる音。それはいつもより冷たく感じられる。カチャカチャ。面白くない。カチャカチャ。不愉快だ。食器が語る声が聞き取れるようになったら黄信号。今日一日で老け込んだハンサムくまちゃん。食器はカチャカチャと語り続ける。カチャカチャ。最低。カチャカチャ。最悪。もちろんこれはおれの心の声に他ならない(ほんとうに聞こえてたら病気だ!)。
ニューヨークに来ると、人はいきなり“ミュージカル好き”になるらしい。それまで一度もダンスに興味を示したことがない者でも、ここではなぜか舞台のチケットを買ってしまい、「アンドリュー・ロイド・ウェーバーは本当に偉大だね」などと、うっかり口にしてしまう。パン泥棒の罪で投獄されたのち、市長に成り上がるフランス男。家賃の支払いに事欠く貧乏アーティストの群像。そんなストーリーが連日連夜上演されているブロードウェイ通り。地元民にとってそれは、とくにスペシャルなことだというわけでは必ずしもない。ニューヨーカーの誰も彼もが“歌って踊れる猫”が好きだとは限らないし、“オクラホマ”に感嘆符がついていないからと言って、目くじらを立てる者ばかりではないからだ(注:『オクラホマ!』←が正しい表記)。
「ミュージカルを観に行きましょう」と言われ、手放しで喜べないのは、おれが“非ミュージカル民”だからだけではなく、母と、母が押しつけようとしている女性と、三人一緒のプランである故だ。
「おれはいいよ、二人で行ってくれば……」指についたハーシーのキャラメルシロップを舐めながら、気の抜けた返答。
「こういうのは男性がエスコートするものよ」と、あたりまえのようにママ。
「そんな決まりないよ。オペラでもあるまいし」
「『オペラ座の怪人』、似たようなものでしょ」
「おれは行かない」キャラメルフレーバーのカフェラテに口をつける。母が来てからというもの、糖分の摂取が増えたような気がする。
「せっかくチケットとったのよ? どれだけ大変だったか! ママの苦労を無にするっての?」
「エドナ叔母さんを誘えよ」
「今からなんて無理です。もうぐだぐだ言わないの! 時間厳守! 支度なさい! それともママが洋服を選んであげましょうか?」
「自分で選ぶ……」
「じゃ、着替えてらっしゃい」
結局、彼女の思惑通り。そうならないことなんて、これまで一度だってないのだから、今回は相手が悪すぎる。ポールは“やれやれ”という表情でおれを見ている。母親に強く出られないおれを腑抜けだと思っているのかもしれない。
ドアフォンが鳴り、モニターにはキャリーが写っている。友達の家からここに直行し、それから三人でミュージカルの運び。ママの立てたプランは完璧だ。おれが“行かない”と答えることは、考慮にまるで入っていないらしい。
戸口に立つキャリー。彼女はドレスに身を包んでいる。
「遅くなってごめんなさい。下にタクシーを待たせてあるわ。すぐに出られるかしら?」
微笑む彼女の姿を見、おれの呼吸は一瞬とまった。ドレスアップした女性が目の前にいる。“平均より美人”のキャリー。身につけているのは、オスカーナイトに着ていくようなひらひらのドレス。カラーはサーモンピンクを基調とし、ひざ丈のそれを強調するのは、編み上げた麻のサンダルだ。くるぶしからひざまでヒモが絡まっているのは、足を繊細に見せる効果がある。ビーチでならさぞ魅力的に映るだろう。髪にはラインストーンで象られた小鳥のピンが楽しげに踊り、マスカラには煌めくグリーンのラメが入っている。これはいったい何系っていうんだ。英国のお笑い番組だってここまではしない。はっきり言って“トンチンカン”。カフェラテを口に含んだところでなくて本当によかった。もうちょっと間が悪きゃ、茶色の洗礼を彼女に施すところだ。ポールはくるりと後ろを向いた。その肩は小刻みに震えている。ああ、おれが出かけるからって泣かないでくれハニー……ではなく、彼は必死に笑いを堪えているのだ。先日は彼女の服装にまで気が回らなかった。そう言えば妙なキルティングのバッグを持っていたような気がするが……。
「まぁー、なんだかこうして見るとふたりともお似合い……ねぇ、そう思わないポール?」
母のコメントに、ポールはようやくこちらを向いた。
「いってらっしゃい」と、笑顔を見せる彼に『おれは行きたくないんだ!』と、目で訴える。
「ゆっくり楽しんで来て。それじゃ……」笑顔のまま彼は扉を閉めた。
ドアの向こうで、ポールはどんな顔してる? 爆笑? 憤慨? 舌でも出してる? なんだか見捨てられたような気持ちがするが、もちろんそれはそうじゃない。悪いのはおれ。毅然とした態度をとれない、おれの身から出たサビだ。
ドアの向こうで、ポールはどんな顔してる? 爆笑、憤慨、アカンベー。そのどれでもないとしたら? もしかしたら彼は、寂しそうな顔をしているかもしれないんだ……。
最悪には最悪が重なるもんだ。それは面白いように起こる偶然の導き。劇場のロビーでばったりと出会ったのは、おれの友達のなかで一番ハンサムな男。それは友達のなかで一番すっとんきょうな男でもある。
「嬉しい驚きじゃない。今日はどなたと?」
ローマンはおれを見つけるなり、小股で駆け寄り、親しげに両腕を広げてみせた。
「きみこそ……! こんなところで何してる?!」母とキャリーを両脇に従え、おれはアドレナリンの移動を全身に感じた。
「あらま、素敵なご挨拶だこと。何してるか教えましょうか? 舞台を観にきたのよ。そちらは?」
「ああ……いや、おれもだ。そう、舞台を観に……」やばい。これもまた敵にまわしてはいけない人間のひとりだった。
“これは誰?”という表情のママ(“これは何?”という表情かもしれない)。それと対峙するローマン。なんて貴重な対戦カード。おれの人生で五本の指に入る最強生物同士が今夜、出くわした。
「紹介するよ、おれの母……。こちらは母の友人のキャリー。おかあさん、おれの友達のローマンだよ」
「こんにちは」
にこやかに挨拶を交わす三人。キャリーの格好を見ても、ローマンは眉ひとつ動かさない。さすが、様々なヘンテコを見慣れているだけはある。
「今日の舞台、わたしのお友達が出演してるのよ。幕開きのダンサーの役なの。ぜひチェックしてみてね」輝くような笑顔を浮かべ、アドレナリン増加の原因(の半分)は消えた。
「今の子はゲイね」犬が見ても明らかな事実を口にする母。その口ぶりは、どこか勝ち誇ったようなニュアンスが感じられる。
「ママはマイアミでゲイを見慣れてるの。だからそういう子は一発でわかるわ」
だったらおれのことも一発でわかってくれよ!……と叫びたくなるが、ここは堪える。
───ここにわたしは居ます。しかし正体を明かすわけにはいかない───
今宵はオペラ座の怪人のテーマがよく理解できそうだ。
観劇の後は遅めのディナー。普段は絶対に足を踏み入れたりしない、セントラルパーク内のレストランを予約した。これでもかという量のランタンと電飾は、まるで一年中クリスマスを祝っているかのよう。マッシュルームのスープとシーザーサラダ。メインディッシュはチキンのグリル。味はともかく、ここに座ることに意味がある。
この席で“男女のお付き合い”についての話題が出るのではないかと、おれは内心ひやひやしていたが、どうやらそれは杞憂に終わりそうだ。オペラ座の怪人についての一般的コメント(シャンデリアのシーンがすごい、とか)を語らいながら、食事はそれなりに楽しく、順調に進められた。
デザートを待つ間、「ちょっと失礼」と、席を立つママ。チョコレートケーキが運ばれて来た後も彼女は戻らない。まさかトイレで倒れているのではと思い始めたあたりで、ウェイターがおれに声をかけた。
「ケリーさま、お電話が入っております」
カウンターの隅に案内され、電話に出る。
「もしもし?」
「ディーン、中座してごめんなさいね。ママね、ちょっと用事を思い出したの。だから悪いんだけど、お食事は二人で楽しんでもらえるかしら? じゃあね」
─── やられた。なんという古典的手口。受話器を持って呆然としていると、バーカウンターの向こうから、バーマンが「大丈夫ですか?」と、聞いてきた。いったいどんな悪い知らせをこの客は受けたんだろうという表情。“ママに置いてきぼりにされて、女の子とふたりっきりにされちゃったんだ”───と、正直に言うのは、頭のネジがゆるんでいるように聞こえるだろうし、あまり同情してもらえないシチュエーションに違いない。
「ああ、大丈夫だ。たいしたこっちゃない……ちょっと……」
“ちょっと?”と、目で問うバーマン。
「ちょっと……会社が倒産しただけ。いやなに、たいしたこっちゃない。席に戻るよ」
テーブルに戻り、キャリーに“母は急用が出来た”との旨を伝え、「ロウソクが短くなってきたね」と、テーブルの上を見て言う。その言葉には“ぼくたちもそろそろ出ようか”というニュアンスが込められている。
「あら、そうね」と、気がついたようにキャリー。そこへバスボーイがさっと近寄り、キャンドルを長いものと取り替えた。さすが観光のメッカのレストラン。メシはまずいが従業員は多い。きっとロウソクの長さを監視する専任がいるんだろう。おかげであと二時間は平気ってことか。まったく気が利くったらありゃしない。
気をとり直し、手にはフォーク。チョコケーキの助けを借りれば、“楽しい時間”は、あっという間だ。
「あなたの名字……“バック”というのは珍しいですよね。他に知っているのは、バロックの宮廷音楽家ぐらいかな。ご両親はどちらのご出身ですか?」
「両親はマイアミよ。ルーツはアイルランドだけど……ねえ、ディーン、これってなんだか国勢調査みたいな質問だわ。もっとざっくばらんに話しません?」にっこりするキャリー。それは確かに“ざっくばらん”な笑みに見えた。
こうやって話をしてみればよくわかる。キャリーはとても“いい娘さん”だ。ファッションセンスを気にさえしなければ、確かにママの言う通り、世の男どもにとってはオススメ物件と言えるだろう。日々従事しているのはボランティア活動。いつでも専業主婦に転身できる、家庭的な娘さん。ストレートの赤毛(ママは巻き毛だ)は可愛いし、おしゃべり好きの姑とも仲良くできる。しかしどんな“好物件”を見せられたとしても、今となっては何の意味もない。おれにはれっきとした彼氏がいる。たとえナタリー・ポートマンに告白されたところで、即座に断りを入れられるほど、おれはポールに夢中なんだ(今の台詞に若干、迷いが聞き取れた? 気にするな!)。
ニューヨークとマイアミ。お互いの暮らしで素晴らしいと思える点について話をしていると、目の前にデザートの皿が届けられる。
「頼んでないぞ」
果物とアイスクリームが盛られたゴージャスなチーズケーキ。こんなのメニューで見た覚えもない。
「当店からのサービスです」と、ウェイター。
「サービス?」
「わたくしどものバーテンダー、リチャードより、“たいしたこっちゃない出来事”に贈る“たいしたこっちゃないデザート”だそうです」
カウンターの方を見ると、グラスを拭いているバーテンダーと目が合った。ぱちんとウインクをするリチャード。やれやれ、“倒産”は言い過ぎだったか。
軽くうなずき「もらうよ」と、苦笑する。
「ではごゆっくり、お楽しみください」ウェイターも片目をつぶった。
ニューヨークの暮らしで素晴らしいと思える点について───今ならいくらでも語れそうだ。
「ふしぎ……なんだってこんなサービスを受けられるのかしら」目を丸くして、皿を見つめるキャリー。
「まあいいんじゃないかな、理由は気にしなくても。さあ、彼らの気が変わる前に頂いちまうことにしよう」言いながら、アイスクリームとケーキを小皿に取り分ける。
「ニューヨークではよくこんなことがあるの?」
「まあね、男前であるってのは得なもんさ」と、素早く片目をつぶる。
「まあ……」
これをもって、“ぼくはゲイなんだ”ってニュアンスが伝わるといいんだが、まあそれは無理だろう。今日のところは小さな親切に救われた思い。
『おまえの想像を絶するような災害が起こるだろう!』そう叫んだのは、オペラ座の亡霊。しかしそれが起きたとしても、救いが訪れることもある。歌姫のたえなる調べ。バーテンダーからのスペシャルデザート。そうした事が起きるのもまた人生。
オペラ座の亡霊は天使か、それとも狂人か───。
物事というものは、見る角度によって、まったく別の顔に変化する。
今日のディーンは不幸か、はたまた幸福か───。
とりあえずこのチーズケーキ、今日、口にしたもののなかでいちばん素敵なテイストだ。それは善意によってトッピングされたデザート。メニューに載せられないのは無理もない。金じゃ買えないものもこの世にはあるんだ。
ソワレ(夜の興行)を観て、そのあとデザートをふたつも平らげ、女性をホテルに送り届ければ、帰宅時間はそれなりのものになる。もうとっくに寝ているだろうと思ったポールは、居間のソファでおれを待っていた。待ってはいたが、眠っている。待ちくたびれて眠るポール。ブロンドの髪におれはそっとキスをする。
「ディーン……?」
「こんなところで寝たら風邪をひくよ」優しくそう言い、もう一度キスを……と、試みたところで、おれの身体は寝起きの恋人によって、思い切りはじきとばされた。
「ポール?」寝ぼけでもしているのかと、彼の名前を呼びかける。
「“ポール?”じゃない!」
え? なに? じゃあ、きみは誰なんだ?
「なにが“ポール?”だよ! 今頃帰ってきて!」
「あ……そうか、遅くなってごめん」
「きみのママから電話があった」
「ママから?」
「『ディーンはキャリーとデートだから。帰宅が遅くなるけど心配いらないわ』って……ご丁寧に」
「ああ……」
「舞台は九時には終わってたはずだ。さぞやゆっくり楽しんだんだろうね?」
「楽しんだだって? おれが好きでキャリーとデートしてたとでも? おれはママにハメられたんだ! 三人で食事するって手はずになってたんだから!」
「それならふたりきりになった時点で、すぐに帰ってきたっていいはずだ!」
「そんな失礼なことできるか!」
「ぼくには失礼じゃないっての?! いい? きみは被害者になったつもりかもしれないけど、問題をややこしくしているのは、きみ自身なんだ!『ママ、ぼくはゲイだよ』ひとことそう言えば丸くおさまる! 簡単なことさ!」
「だっておれは……」
「ゲイじゃない?」ポールは憤懣した面持ちで腕を組んだ。
「なあ、ポール、おれが愛しているのはきみだ。きみだけだ。おれは男が好きなんじゃない。きみのことが好きなんだ。もしまんいち、おれより先にきみが死んだら、おれはもう二度と男とは付き合わないと思う。それってゲイとは言わないだろ?」
「ぼくが死んだときのために備えてるってわけ?」
「そうじゃなくって……揚げ足をとるなよ」
「わかってる。きみはぼくが“死んだ時”のためじゃなくって、ぼくと“別れた”場合のことを考えてるんだろ? ぼくと別れて、そのあと女と付き合う、そして結婚する。そうした将来を考えた場合、ゲイだとカムアウトするのは馬鹿らしい。ママにも未来の妻にも、“男と付き合ってました”なんてキャリアはいちいち報告することはないからね」
「なんでそう飛躍するんだ!」
「飛躍でないなら、どうして母親にぼくを紹介できないのか説明してくれ! さあ、どうなんだ?」
「おれはママを……傷つけたくないんだよ」
「息子がゲイだってことで傷つく? ゲイは悪徳? ゲイは恥?」
「おれにとってはもちろんそうじゃないさ。でもママは昔の女性なんだ。世代も違うし、考え方も違う。おれたちが思う以上に、これは彼女にとってショッキングなことなんだ」
「だからって隠し続けるの? お母さんが死ぬまで?」
「計算によると、おれたちが五十になる頃にはカムアウトできる……ああ、そんな顔しないでくれ、冗談だ」
ポールはすっとソファから立った。うつむき加減で「もう寝る」とだけ言い、部屋へと向かう。途中、ぴたりと歩を止め、こちらを見ずに「きみを罵倒するために待ってたんじゃないんだ」と、小声でつぶやく。
「わかってる」
「それだけ言いたかった」
「きみにキスをしても?」
「今は嫌だ」
「そうか」
「おやすみ」
「おやすみ」
おやすみのキスはなし。『砕け散ったシャンデリアより、なお悪い事も起こり得る』それは不吉なオペラ座の怪人の歌。ポールもおれも、そんな心境。
悲劇に見舞われたのはクリスティーヌ? ラウル? それともファントム?
皆が被害者になったつもり。なぜって悪人はひとりとして舞台にいないから。
問題をややこしくしているのはおれ自身。おれは被害者になったつもり。
ポールはおれとキスをしたくないと言った。これ以上最悪なことなんて、今のおれには思いつかない。
愛する者に拒絶される夜。オペラ座の怪人に共感する日が来るとは、よもや思ってもみなかった。
翌日、会社から帰宅したおれの耳に飛び込んできたのは、ポールの軽やかな笑い声だった。昨日の今日だ。笑いの理由もわからないまま、おれはなんとなく嬉しいような気持ちになる。どんな理由にせよ、笑えるってことはいいことに他ならない。
受話器を手にしたポール。おれに目を留め「あ、ディーンが……いま替わります」と、電話の相手に告げた。
「ディーン、きみのママ」
子機を渡され、それに出る。ママの用件は“エドナおばさんのところに持って行くお菓子はどこのブランドのものがいいか”ってことだった。いくつかお勧めのスイーツの店の名前をあげ、手短かに電話を切る。“デートはどうだった?”まで、話を長引かせなかったのは、我ながら上手くやったものだと思う。
「紅茶を煎れるよ」と、ポール。一緒にお茶をしてもいいってくらいには愛が回復したようだ。
「さっきはママと……なに話してたんだ?」
「別に大した話じゃない。ヒアロルン酸について質問されたんだ」
「ヒアロルン……」
「美容液だよ。安心していい、ゲイとはなんの関係もない単語だから」言いながら、紅茶の缶をぽんと開ける。
「ごめん……」
「いいよ、もう」
「怒ってるよな?」
「ん……そうね。でももういい。ぼくは考え方を変えたよ。きみがママに真実を打ち明けられないのは、きみの問題だ。ぼくはそれについて腹も立つけど、結局はきみがどうしたいかだからね。あきれたボーイフレンドを選んだ自分を恨みこそすれ、ぼくにはきみを裁く権利はない」
ポールはちょっと眉をしかめたが、口元はわずかに微笑んでいる。それはまるで“あきれたボーイフレンドを選んだ自分にあきれている”とでもいうような表情だ。
「ただあの女とはもうデートしないで。それを言う権利はあるだろ? ぼくはきみのボーイフレンドなんだから」
「ああ、わかってる。もちろんだよ」
「じゃ、この話はおしまい」と、紅茶のフタをぱちんと閉める。
「きみはすごいな……」
「すごい?」
「きみはどうやって……どうしてそうなれた? どうやって今のきみになったっていうんだ?」
「今のぼくって? どういう意味?」紅茶の缶から目を離し、こちらを向く。
「きみは自分がゲイであることを正しく受け止めてる。かといって、そうでないおれのことを裁くでもない……おれからすれば、それはとてもすごいことじゃないかって思うんだ。それっていったいどうやったんだ?」
ポールは軽く首を傾け、ちょっと思案げな表情になった。それからややあって、「ぼくが高校生だった頃にね……」と、話し始める。
「ぼくはその頃すでに“自分はゲイだ”って自覚があった。好きな男の子も常にいたし、でも周囲のみんなにはそれを隠していたんだ。あるとき友達の家でパーティがあって、皆で床に円座になってゲームをやっていると、一組の男女がふざけてキスをし始めた。女の子はぼくのクラスメート。男の子の方は、ぼくが密かに片思いしていた彼だった。そのキスは軽い冗談なんだけど、ふざけていたにしても、それは唇と唇のキスで……それを見たぼくは、思わず“うらやましい”って言ってしまった。それを聞きつけた周りのやつらは、“だったらおまえもキスしろ!”って、言いはじめた。ぼくがその女の子とキスしたがってるって彼らは受け取ったんだよね。意中の彼はニヤニヤしてこっちを見てるし、女の子は恥ずかしそうにしてたけど、期待しているようにも見えた。はやし立てられて引っ込みがつかなくなったぼくは、その場で彼女にキスしたんだ。それもけっこう長く。まったく馬鹿みたいなんだけど、さっきのキスシーンで嫉妬心に駆られたぼくは、彼に見せつけてやりたいような気持ちになってたんだ。そんなことをしても相手はなんとも思わないってわかってるのにね。ぼくにとってその話はそれで終わりだったはずなんだけど、でも彼女にとってはそうじゃなかった。後日、その女の子はぼくのことをずっと好きだったって告白してきたんだ。当時ぼくはまだゲイをカミングアウトしてなかったし、こっちが無理矢理キスした手前、彼女からの申し出を断りきれなかった。しばらく付き合ってキスもしたけど、ベッドインするまでには至らなかったよ。彼女、ぼくのことずいぶんオクテだと思っていただろうね」
「それでどうしたんだ?」
「別れたよ」
「なんて言って? カムアウトしたのか?」
「それはできなかった。ただ“もう別れたい”って言ったんだ。彼女は理解できないって言ってた。泣いてたし、とても傷つけたと思う。それでもぼくのことを愛してたから、最終的には黙って身を引いてくれたんだ」
「いい子だったんだな」
「うん、そう。だからぼくも辛かった。“なんてひどいことしちゃったんだ”って、自分にとても腹が立った。それから後の人生は“自分に正直でいよう”って思ったんだ。自分を欺くことは、時に他人をも傷つけることになる。いい教訓になったよ」
『自分を欺くことは、時に他人をも傷つけることになる』───嫌味で言っているんじゃない。ポールは自分が人生で得た大切な教訓を、おれにシェアしてくれているのだ。
バンビであっても、オペラ座の怪人であっても、伝えようとしているメッセージは同じようなもの。『愛について誠実であれ!』あまたの物語はそれを繰り返し説いている。
「ポール……」
「ん?」
顔を上げた彼の顎に指先を添え、唇を奪う。“きみにキスをしても?”とは伺わない。かなり強引な形でそれを求め、ようやく終えた後には、胸に抱えるようにして、恋人を抱きしめる。ポールはじっとおれの胸に顔を埋めている。
『会社が倒産しただけ』『男前であるってのは得なもの』そのどちらも真実ではない。わかっちゃいたが、おれって奴は……なんていうか、ずいぶん“その場しのぎの男”みたいだ。今していることは、その場しのぎのキス? まさか。これはそんなんじゃない。生きていくことに勇敢なポール。彼との口づけはおれに勇気を与えてくれる。マスクの怪人にキスをするオペラ座の歌姫。『神よ、わたしに勇気を与えて下さい。あなたはひとりではないのだと伝えるための勇気を……』切々と歌うクリスティーヌ、彼女はひとりではない。おれもひとりではない。自分を欺くことは、それにつながる誰かをも欺くこと。胸の中にいるのは、誰より大切なおれの恋人。彼とキスできなくなるなんて悪夢と同じ。二度とそんなことを言われたくはないし、言わせたくもない。おれの背に腕を回すポール。彼もまたおれと同じ気持ちであることを、力強く掴む両手から感じる。拒絶も悪夢も欲しくない。それは誰だってそうに決まってる。
「おれはゲイなんだ」
空港の見送りゲート間近。母が化粧室にいる間、おれはキャリーにそう告白した。
「なんていうか……母が勝手に先走っちゃって……」
「まぁ……」
「母がきみに余計なことを言ったかもしれないけど……本当、とにかく申し訳ない」
キャリーはあきらかに戸惑った様子だったが、ようやく「気にしないで」という単語を見つけ、それを口にした。
「お母さまはこのことを?」
「まだ知らないんだ」
「そう……」
「ごめん」
「いいのよ」
優しい微笑みを見せるキャリー。やっぱり彼女はいい娘さんだ。いま着ているテリア柄のカットソーが紫じゃなかったら、首に巻いたスカーフがレインボーカラーじゃなかったらもっと素敵だったのに。
「おまたせ」と、ママ。おれに荷物を持たせ、「ここ数日の間、とっても楽しかったわ」と、嬉しそうに言う。「久しぶりにいっぱい買い物もできたし。ねえ、この次はディーンがマイアミにいらっしゃい。そのときはキャリー、あなたが案内してあげればいいわよね?」
「ママ、そのことなんだけど……」
重たく口を開くおれを遮り、キャリーがすぱっと切り込んでくる。
「今、ディーンと話をしていたんです。彼、わたしとは付き合えませんって」
「ディーン! あなたなんてこと……!」驚き、血相を変える母。
「もういいんです。彼を責めないであげてください」
「でもね、キャリー」
「本当にいいんです。わたしだって“ゲイの男の人”を紹介されても困るだけですし……あら、早く行かないと飛行機の時間が……それじゃディーン、お幸せに〜」
バッグを肩に担いで去るキャリー。軽快な言葉とは裏腹に、その顔は少しも笑っていなかった。
残されたのは母と息子。キャリーが消えたゲートを見つめたまま、「ディーン」と、低いトーンでママが言う。
「はい……」
「今のはどういうことなの」
「その……」
「まさかあなた、あのローマンって子と……!」
「なんでそうなるんだ!!!」
「だってゲイって……」
「おれが付き合ってるのはポールだ!ポール・コープランドがおれは好きなんだよ!」
「まあ……」と、目をぱちくりさせる。「じゃ、ポールもゲイってこと?」
「そうなるね……」
「まー、うそみたい」
ママは何も気付いてはいなかった。ヒアロルン酸について詳しいポール、それと同居する料理好きのハンサムくまちゃん。それらの情報から“ゲイ”という単語を導き出すのは、きっと母親には難しいことなんだろう。
「まあ、じゃあわたしのしたことは余計なことだったわけね? あなた“ここしばらく彼女がいない”っていうから、気を利かせたつもりだったのに」
「黙っててごめん」
「なんですぐに言わないの」
「言えると思う?」
「そうでもすぐに言って欲しかったわね。わたしたち、もっとオープンな親子かと思ってたわ」
「ママを悲しませたくなかったんだ」
「悲しむ? わたしが?」
「うん」
「いいこと」と、おれの顔にぐいと顔を寄せる。「ママはね、“息子が幸せかどうか”って、それだけが気掛かりなの。今はどうなの? ポールと幸せにやっているの?」
「ああ……とても。とても幸せだよ。生まれて初めてってくらい幸せだ」
「だったらそれで充分!」ぴしゃりと言って、ぐいと胸を張る。
おれは安堵し、文字通り、肩から重荷(母のボストンバッグだ)を降ろす。
「よかった……ええと、あとは何も聞きたくない?」
「聞きたいわよ! 聞きたくないわけないでしょ! あなたいつからゲイだったの? 今までつき合ってた女の子はカモフラージュだったの? やっぱり父親がいないからゲイになっちゃったわけ? だとしたらわたしにも責任の一旦はあるってことよね?」
「な……! おれが幸せだってわかっただけで充分なんじゃなかったのか!?」
「それとこれとは別よ! 息子がゲイを告白してきたのよ?! ちょっとはこっちの気持ちも汲みなさい!……で? あなたいつからゲイだったの? 高校のときのヒースって友達は? あの子はゲイよね? ママずっと気になってたんだけど」
過去に遡ってまでの追求が始まった。判事よりも恐ろしいおれの母親。この人はいったいどうやって今のこの人になったのか。それは現在、今すぐに知りたいことじゃない。
ママに抵抗して勝てた試しは一度としてない。ママはいつだっておれより上手(うわて)。彼女もまた、生きていくことに勇敢な人だ。
バービーのシールをくれるステラ。弟がゲイでも構わないと言うアイリーン。息子が幸せであるかどうかを気掛かりとする母親。おれの周りには大切な人たちがたくさんいて、どうやってお互いを幸せにしてやろうかと、虎視眈々としている。
その最たる者がおれの恋人。セントラルパーク内のレストランに、今度はポールを連れて行こう。そこは優しいバーマンのいるところ。おのぼりさんばかりのつまらない場所だという印象は、リチャードの親切によって払拭された。新しい印象を人生に呼び込むことはいつだってできる。姉と母にとっては新しいディーン。ハンサムくまちゃんは今は昔。わずかばかり、他人を許して受け入れる余地があれば、その人の人生はより豊かになれる。
おれはポールを愛している。そのことを受け入れたおかげで幸せにもなれた。バンビにはファリーンがいて、おれにはポールがいる。誰にだって(鹿にだって)大切と思える者が必要だ。それさえあれば、“想像を絶するような災害”も、“砕け散ったシャンデリアより悪い事”も、きっと何もかも乗り越えられる。
ボーイフレンドを伴い、レストランのバーに赴くのは、倒産を乗り越えた勇気のある男。世界はときにおれに優しい。おれがおれ自身に優しくあれるとき、世界はおれに微笑みを見せてくれる。それは恋人の微笑みによく似て、いつまでも見つめていたような種類のものなんだ。
End.
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