第5話:姉と弟(Like A Virgin)

「わたし離婚するの」

 そう言ったのは九つ年上のおれの姉、アイリーン。

 待ち合わせしたカフェの席で、コーヒーが来るより早く、一気に本題に入る彼女。結婚生活に不満を抱えていたのは聞いていたが、ここまでのことだとは思ってもみなかった。

「そうか……それは大変だったね」

「“だった”じゃないの。これからよ。大変なのは」

 運ばれてきたコーヒーに、アイリーンは砂糖をみっつ入れた。それは“砂糖でハイにでもならなきゃ、やってられない”という風情だ。

「子供たちはどうするの」

「わたしが引き取るわ」

「ふたりとも?」

「ふたりとも」頬に落ちた髪を耳にかけ、コーヒーに口をつける。アイリーンには男女二人の子供がいる。つまりおれの甥と姪。

「勝算はあるの。彼は子供好きなんだろ?」

「あるわ。女よ」

「女? ノーマンは浮気を?」

「証拠があるわけじゃないけど……わたしたち五年もセックスレスだって以前言ったわよね? それってどう考えてもおかしいわ。彼はいつも身奇麗にしてるし、枯れた感じがするわけでもない。未だに友達は言うわ『ノーマンって素敵ね』そんな男がセックス無しだなんてあり得ない。彼はしてるわ。絶対。わたしじゃない誰かとね」

「証拠もなく決めつけるのはどうかな」

「女の勘よ。間違いない」言って、アイリーンはまたコーヒーをすすった。

 “女の勘”、そう出られては男たちは成す術もない。むやみに“女の勘”を否定するのは危険極まりない行為。どう頑張っても男はそれを持つことは出来ないのだから。

「子供たちにはもう?」

「リロイには言ったわ。『嫌いで一緒にいるよりマシだよね』だって。あっさりしたものよ。両親がうまくいってないのは薄々わかってたらしいわ」

「ちびさんの方は?」

「ステラにはまだ。あの子、おむつが外れたのよ。“ケッコン”って単語も知ってはいるの」

「そうだな、去年言われたよ『おじたん、ケッコンしてね』」

「今は保育園のニッキーって子に夢中よ」

「ヒゲも生えてない赤ん坊なんて敵じゃないさ」

「二歳でヒゲがあったら不気味よ。とにかくステラにはまだ言ってない。どうかしら、“リコン”って単語は理解できるかな」

「“今後はパパとあまり会えなくなる”ってことはわかるだろ」

「それは今もそうよ。ステラが起きてるときに帰宅することなんかめったにないんだから」

「ママは知ってるの?」

「まだよ、今夜電話する。まずあんたに先に言っといた方がいいと思って」

「なんで」

「もしわたしがママに言ったら、その後すぐに電話がかかってくるわよ。『もしもしディーン? 聞いた? アイリーンが離婚するって!』」

 母親の声音を真似るアイリーン。確かにそれは予想される反応だ。

「そうなる前に知っておいた方がいいでしょ」

「ご配慮いたみいるね」

「これでようやく無職だわ」

「仕事してたっけ」

「“シェパード夫人”って職業だったのよ。うっとうしい社交や倶楽部。パーティのホステス。着るものから立ち振る舞いまで気を遣って……一年中そんな暮らしよ。それでも愛があればよかった。それさえあれば日々のことはすべて幸福なものになるのに……なんて、わたしって昼メロの登場人物みたいだと思わない?」

「呑気なこと言って……これからどうするの」

「しばらくはバタバタになるだろうから、その前にママのところに行こうかと思って。とっても心配するだろうし、わたしも顔を見て話がしたいしね。戦いの前にマイアミビーチで鋭気を養いたいわ。日焼けするのも怖くない。もうマダム・シェパードじゃないんだから」

「真っ黒な顔で法廷に立つなよ。陪審員が同情してくれなくなる」

「そこまでの争いにはならないわ。別に相手を粉々にしようってわけじゃないんだもの。子供のことさえなきゃ、円満離婚ってとこね」アイリーンはにっこりと微笑んだ。微笑みを見せても、やつれた様子は隠せない。たとえ円満離婚だとしても、そこに痛みが伴わないわけじゃないだろう。長年連れ添った夫と別れるということがどんなことか、彼女の顔にはしっかりと現れている。

「さ、もうそろそろ行かないと、ベビーシッターに延長料金を払うことになるわ。せっかくのお休みに出てもらってごめんね」

「電話で歯切れが悪かった理由がこれでわかった」

「あなた夜は? もしよかったらウチで食事でもどう?」

「いや、いいよ」

「大丈夫、ノーマンはいないわ」

「そうじゃなくて予定があるから」

「デート? ポールも連れてきていいのよ」

「パーティなんだ。ビレッジの方で」

「あらまぁ、いいこと。お友達とパーティなんてわたし何年もやってない。それじゃ仕方ないわね。楽しんでいらっしゃい」

『楽しんでいらっしゃい』

 そう言われはしたが、きっとそれは難しい。

『あらまぁ、いいこと』

 別によかない。今日のパーティほど気の重いパーティーは未だかつてない。

『お友達とパーティなんてわたし何年もやってない』

 なんだったら替わってもらってもいい。おれと顔のそっくりな姉が代理で出席してくれてもいっこうに構わない。しかしそれは不可能だ。今日のパーティは女性禁止。自分の染色体からYを消せるのであれば、今日だけは進んでそうしよう。もしくはこれから宇宙人に誘拐されるとか。マンハッタンにゴジラが出て、パーティどころじゃなくなるとか。もちろんどれもあり得ない。おれを乗せたタクシーは、スムーズにビレッジに到着。こんなときだけ物事はうまく運ぶのだからシャクに障る。きっと神はおれのことなんかどうでもいいに違いない。こんなときだけ神の名を思い出す。きっとあっちも雲の上でシャクに障っているに違いない。



 パーティ会場は小さめのクラブ。照明が落ちたホールは薄暗く、大型のプロジェクターは真っ白なまま、おれの影だけを写している。

「ディーン、そっちじゃないわよ! こっち!」

 赤いベルベットのカーテンから顔を出したのはキャロリンだ。手招きし、おれの腕を掴んで楽屋裏へと引っぱり込む。おれよりも背が高いのは、履いているハイヒールのせいだけではなく、それはかつて彼女が“彼”だった時分に、バスケットボールをやっていたことと関係があるんだろう。

「ヒロインが来たわよぅ!」と、大声を出すキャロリンに、スーツ姿の男がスツールから立ち上がる。

「いらっしゃい。逃げずにちゃんと来たってわけね」腕組みをし、にんまりと笑みを浮かべるのはローマン・ディスティニー。

「逃げたりなんてするもんか。勝負は勝負だからな。どんなことがあってもここに来るつもりだったさ」

 “宇宙人にさらわれますように”と願っていたことを隠し、おれもまた腕組みをする。

「まあ男らしい。でもそれは駄目よ。今夜は“女の子のパーティ”なんだから、おしとやか~にね。キャロリン、ディーンの衣装は?」

「そこの衣装ケースに全部入ってるわ」彼女が指した衣装ケースは、フタの部分にガムテープが貼ってあり、そこにマジックで『DEAN』と書いてある。こんなにわかりやすくしてあると知ってたら、昨日のうちに忍び込んで盗み出しておいたのに。

 ケースを開けるキャロリン、「こんな感じ。ちょっと地味かな?」と、ラメ入りの黒い布を取り出して手渡す。広げて見ると、それはスリットの入ったロングドレスだった。

「それとこれ。履くときに指をひっかけないように注意して」

 網のストッキング。おれのサイズがあるとは驚きだ。

「靴のサイズは11でいいのよね?」

 ツヤ消しの黒いハイヒール。婦人靴のサイズは10までじゃなかったか?

「これはメイクのあとでね。でもその前にサイズを確認したいから、一度かぶってもらえるかしら?」

 ほぼ黒に近いパープルのカツラ。きっとライトを当てたら奇麗に見えるんだろう。

「かぶるのか……これを……」

「そんなお葬式みたいな顔しないで」白い歯を見せ、キャロリンは笑った。「カツラをかぶったからって死にやしないわ」

 そうだろう。少なくとも肉体的にはそうだろう。しかしおれの場合、これによって何かもっと大事な部分が死んでしまうような気がしてならない。

 おれの苦悩を気にもせず、それをかぶせるキャロリン。

「どうかしら? キツくない?」

「大丈夫」

「オーケイ、じゃこれで決まり! 着替えはあっちのドレッシングルームでね」

 シャックと並ぶ高身長が、ふたたび腕をがしっと掴む。案内された先は、つい立てで間仕切りされた簡易ドレッシングルーム。化粧と香水の匂いでいっぱいの空間には、スパンコールや羽根でドレスアップした“女の子”たちがいっぱいだ。中にはまだドレスアップ途中で半裸状態の者もいて、これが“本物の女の子”だったら目のやり場に困るところだが、その心配には及ばない。この催しは女人禁制。“女の子のパーティ”でも女性はいない。立ち入りを制限されているのは、染色体がXXの“本物の女性”だ。

 ストッキングとハイヒールを手に、おれがここで何をやっているのかって? そもそもの発端はビリヤードにある。バーにビリヤードテーブルがあるのはとくに珍しいことじゃないし、「せっかくだから何か賭けようか」という話になるのも珍しいことじゃない。おれは玉突きの腕にはそこそこ自信がある。勝負の相手は酒に酔ったローマン。彼が賭けたのはプレゼントされてから一度もつけてないという、アイクポッドの腕時計。こっちはすっかりそれを貰う気でいたので「もし負けたらなんでも言うことを聞くよ」とかなんとか言ってゲームをスタートさせた。

 おれは誇りを賭け、ローマンは金品を賭けた。神話や伝説などでは誇りを賭けた者が勝つのが相場だが、今回に限りそれはそうはならなかった。8番のボールをポケットに撞き落とし、微笑む悪魔。こんなに強いと知っていたら勝負など挑まなかっただろうし、もししたとしても何も賭けなかっただろう。

「女装してミスコンに出場すること」

 それが悪魔こと、ローマンが出した条件だ。

 ゲイによる、ゲイのための、ゲイだけのパーティ。メインのイベントはミスコンテスト。そのタイトルは“ミス・アメリカ”。“ミス・ニューヨーク”くらいにしておこうという謙虚さは、ド派手な衣装に身を包んだ淑女たちに、不必要なものなのだろう。

 勝負は勝負。いさぎよくドレスを身に着け、“ミス”は鏡の前に腰を降ろす。

「そんなに硬くならないで」と、キャロリン。「これから奇麗になるんだから、もっと楽しまなくっちゃ」

 そう言われても、こちとら網タイツを履いて楽しい気分になれるほど、人間ができているわけではない。せめてポールにメイクしてもらえるんであれば、多少は気も楽なのだが、彼はまだ職場にいる。恋人が心細さでいっぱいになっているときであっても職務を遂行するとは、まさにプロの鏡だ。

 おれの不安を読み取ったか、「ポールじゃなくて残念よね」とキャロリン。「でも心配しないで、アタシにまかせて。がっつり美人にしてあげるから……」言いながら、メイクボックスから、ボトルとチューブを選び出す。これから“がっつり美人”になるであろう、鏡の中の自分と対峙していると、賑やかな笑い声が室内になだれ込んできた。

「あらっ! 誰かと思ったらディーンじゃない!?」と、エレン(男)

「うそっ! あなたも出場するの?!」目を見開く、モナ(男)

「すごい! これは見物ね!」最後に叫んだのは、ディヴィッド(男…これは言うまでもない)

 “あらっ”“うそっ”“すごい”───それらを片っ端から否定したい衝動にかられるが、どれも真実なのでそうはいかない。三人のレディースはあっという間におれの背後を固め、ドレスと網タイツとハイヒールについて、ひと通りのコメントを述べ、最後に「ヒゲはどうするの?」と、質問した。

「この際だから、剃ってしまいましょ」と、キャロリン。

「バカ、よせ!」

「すぐ生えてくるわよ」

「すぐなもんか! ちゃんとした形になるまでけっこうな時間がかかるんだぞ!」

「やーね、それぐらいのことで大声出して」

「ヒゲがないと駄目なんて、あんたったらアラブ人?」

「マッチョそのものね」

 ……ボロクソだ。ちょっとヒゲをかばったからって、こうまで言われなきゃいけないのか。

「このままだと女装が完璧にならないじゃない」

「ヒゲがある女なんていないわよねーぇ?」

「剃ったほうが素敵よ」

「そうよ、こんなヒゲ時代遅れよ」

 まったく、好き勝手なこと言いやがって……。

「わかったよ! 剃れ! 好きにしろ!」

 雄々しい決意に“キャー”と叫び、ぱちぱちと手をたたくレディース。

「そのかわり美人にしてくれよ。お笑いみたいにしないでくれ」

「もちろんよ」

 プライドのみならず、ヒゲまで失った。こうなったら誰より美人になってやる。全員、蹴散らしてタイトルを獲ってやるぞ! ドレスのせいか網タイツのせいか、おれはいつもよりマッチョみたいだ。

 そこから先は生け贄の羊よろしくなすがまま。皮膚呼吸ができなくなるんじゃないかと思えるほど、何種類ものクリームと粉を顔中に塗布され、目に突き刺さりそうな角度で筆が走り、まつ毛を挟まれたあげく、その上にニセのまつ毛を乗せられ、どこに唇があるかわかるように枠線を引かれ、その中を塗りつぶされる。最後にカツラをピンで留め、永遠とも思える、忘我の時が過ぎたあたりで「さあ、できた!」と、キャロリンが叫ぶ。

 鏡よ鏡……世界でいちばん奇麗なのはだぁれ?

「んまぁ! けっこう見れるじゃない!」

「あったりまえ! アタシのメイクの腕がいいのよ!」

「クールビューティね」

「こういう女モデルっていない? いるわよね?」

 プロのメイクアップアーティストであるキャロリン。両肩に手を置き、鏡越しにおれの顔を覗き込む。

「どう? ご感想は?」

「姉貴そっくり」

「美人なのね」

「ああ、よくオカマに間違えられてる」

 まばたきする度にまつ毛の重さを感じる。自分にまつ毛があるなんて、これまで意識したこともなかった。重いのはまつ毛だけじゃない。耳もだ。金ピカのデカいイヤリング。どうして女性はこんなモノを装着していられるんだろう? パーティが終わる頃には、おれの耳たぶはすっかり伸びきってしまうんじゃないだろうか。

「あら~、いいじゃな~い!」クリップ付きのボードを小脇にはさんだローマンが姿を現す。

「さすがキャロリン。素晴らしい仕事ぶりだわ」

「うふふ、ありがと。こないだ教えてくれた、ラ・プレリーの化粧下地。あれすっごく使えるわね」

「技術と下地だけじゃない。土台がいいんだ。ハンサムってのは女装してもサマになる。中世ヨーロッパの俳優みたいに」

「ああ、はいはい。わかってるわよハンサムちゃん。で? 名前はどうする?」

「名前?」

「ステージで呼ぶ名前よ」

「ディーンじゃ駄目なのか」

「今日の出演者はみんな女の子の名前なのよ。ディーンなんて女いる? マリリンでもオードリーでも、今日は好きな名前を名乗っていいのよ」

 好きな名前と言われても、憧れている女性名なんておれにはない。

「なんでもいい。オルガとかバーサじゃなければ」

「ディーンの女性名はディアナよね?」キャロリンが口火を切ると、エレンは「まんまじゃ芸がないわよ」と、身を乗り出す。「ね、ジャクリーンってのは? ちょっと知的な感じで合ってると思わない?」

「やぁよ、ケネディの女房を思い出すじゃない。もっと軽い感じのがいいわよ。ヒッピーの赤ん坊風にレインボーなんてのはどう?」

 またこれだ。いったんしゃべり始めると長くなることは必至。妙ちきな名前を付けられる前に(“レインボー”だって?)自分でとっとと決めたほうが賢明だ。

「アイリーンにするよ。この顔見てると、それしか思い浮かばない」

「オッケー…“アイリーン”っと……」ローマンはボードに名前を書き付けた。

「それと登場の曲だけど」

「まだ何かあるのか」

「マドンナの曲はどう?」

「もうなんでもいい」

「“ライク・ア・ヴァージン”は知ってるわよね? 歌える?」

「歌?」

「ただ前に出るだけだと思った?」

「冗談だろ!? 歌なんかうたえるか!」

「サポートをつけてあげてもいいわ。デュエットで。マドンナとブリトニーみたいに」

「あれってキスするのよね!」

「いや~ん! やるの? ねぇ? キスする?」

「ディーンとしたらぜったい盛り上がるわよ!」

 すでに盛り上がっているところに水を指すようだが、ステージで歌なんて絶対に嫌だ(キスはもっと嫌だ!)

「キスも歌もしたくない……ほんと勘弁してくれよ」

 あまりにも哀れっぽい口調だったせいか、さすがの悪魔も同情したらしい。ステージではロンダート(両手を床につき、倒立回転着地)を披露して、歌はナシで折り合いがついた。ミスコンではあまりお目にかかることのない技だが、世間には男勝りな女もいるはずだ。

「ポールが来たわよ!」

 ようやく姿を現したボーイフレンド。おれは声音を変え、出来うる限りの微笑みを浮かべ、振り返る。

「ハイ、ポール。アタシ、どう見えるかしら?」

 ポールはコメントを発せず、身体をLの字に曲げて爆笑している。この姿を見れただけでもやった甲斐があった。彼を笑わせることは、おれの幸福のうちのひとつだ。

「どうだ? 美人か?!」

「ああ……ほんと……最高だよ」ようやく息をつき、絶え絶えにつぶやく。

「これからバーにでも出かけて、金持ち男でもひっかけようか」髪をかきあげ、美人は提案。

「いいアイディア。ぼくは陰で見守ってるよ」

 ローマンが両手を叩いて合図をする。「そろそろ始めるわよ! お客の入りも上々! ガールズ! みんな準備はいい?」

「はーい!」答えるガールたちの声。そのトーンは一般的な“ガールズ”より1オクターブ低い。

 控え室を出ようとするポール。振り向き、「ひとつ聞いていい?」と、言う。

「なんだ?」

「下着はどんなのを着けてるの?」

 さすが我が恋人。ぜったいに聞かないでほしいと思っていたことをピンポイントで聞いてきた。

 窮しているところにローマンの声が飛ぶ。「さ! 保護者は出て出て! ビデオカメラを回すなら、いいシートを確保しなくちゃでしょ!」

  「じゃ、あとで。グッドラック!」化粧を崩さないよう、素早く頬にキスをくれるポール。保護者はカーテンの向こうに消えたが、今のキスでずいぶん気分がよくなった。

 笑顔とキスと魔法の言葉。恋ってヤツは単純なものだ。“おしとやか~に”との忠告も忘れ、ミス・アメリカ候補は雄々しく叫ぶ。

「ようし! 勝負に出るぞ!」



 コンテストの参加者は様々。正統派美女から、お笑い系まで、ありとあらゆる種類の“人間”(他に何て言えばいいんだ?)が、スポットライトを浴びている。なかには頭に金魚鉢を装着した者までいて、ステージはなかなかに盛り上がっている様子だった。

 自分は初心者なので、とりあえず参加することに意義がある……と、思ってはいたが、こうなってくると、ちょっとは賞を狙いたくもなってくる。トップとまではいかなくても、何かしらの栄誉を(これが“栄誉”と言えるかはともかく)。ステージの陰で出番を待ちながら、ようやくポジティブになってきたあたりで、それは起きた。

 前のエントリーが終わり、ようやくおれの番となったとき、流れ始めたのはベースの音。このイントロ。誰もが知っているマドンナのヒット曲だ。

「歌わないって言ったじゃないか!」客席に聞こえないよう、キャロリンに小声で怒鳴る。

「アタシに言われても困るわよ!」

「曲を止めてくれ」

「今から? 無理よ!」

 女装は初体験。心拍数は急上昇。鼓動はまるでヴァージンのよう……。

「ミス・アイリーン!」

 司会者に名前を呼ばれた。

「ほら出て! 早く!」

 半場、押し出されるようにして、ステージに飛び出す。

 カツラをかぶったからって死にやしない。ヒゲをなくしてもノープロブレム。歌をうたったところで……たいしたこっちゃないはずだ!

 腹をくくってマイクスタンドを掴んだところで、客席から怒鳴るような檄が飛んだ。

「アイリーン!」

 興奮に立ち上がるひとりの男。照らされたライトでよくは見えないその顔を、目を眇め、おれは凝視する。それが誰だかわかったときには、時すでに遅し。歌い出しはすっかりハズし、空中宙返りも忘れる瞬間。

 おれを『アイリーン』と呼んだ男。それは『アイリーン』という名の妻を持つ男。世界でたったひとりのおれの義兄が、客席からおれを見つめていた。



 ショウの後、おれと義兄は会場の隅の二人掛けソファーに座り、久しぶりの対面に乾杯をした。

「まさかあなたがこんな場所に来るなんて」

 驚きを込めて言う義弟に、「きみこそ」と、笑う義兄。「“こんな場所”で“こんなこと”を」

 メイクを落とし、普通の服に着替えたところで、ドレスとカツラのインパクトは拭えない。これまでどんなにキチンとした身内だったとしても、それは今日までのこと。今夜の出来事により、かつての印象は一気に塗り替えられたに違いない。

 コンテストでは優勝は逃したものの、審査委員長のローマンは『ミス・ハプニング』の栄冠をおれに与えてくれた。ステージ上で義兄弟の対面。ドラマチックなそれは演出と見まごうようだったと、人々のコメントを聞くだに、意図とはまったく違うところではあるが、観客にウケをとることは出来たようだ。(ちなみに“ミス・アメリカ”は、ホイットニー・ヒューストンそっくりの美女。むろん勝ち目なし)

 姉の夫で、甥と姪の父親。大手保険会社の取締役。競走馬の飼育に関連した牧場のオーナー。短く言えば大金持ち。笑った感じはロバート・レッドフォードに似てなくもないと、おれは子供の頃からそう思っていた。それがこの義兄、ノーマン・シェパード。着用しているのはブランド物ではない仕立ての良いスーツ。FBIみたいに地味な色だが、それは彼の白っぽい金髪によく似合っている。

「クリスマスプレゼントをありがとう」数ヶ月遅れで礼を述べるノーマン。軽く前屈みになり、膝の上で両手を組んで、にこっと微笑む。そう、これこれ。“ロバート・レッドフォードの笑み”だ。

「ロメオ・Y・ジュリエッタの葉巻ケース。愛用させて貰ってるよ。よく銘柄を覚えていたね」

 その口ぶり。最初に会った頃と少しも変わらない。『よく覚えていたね』って、今にも頭を撫でそうだ。

「今きみとこうしていることが信じられない。あのマイティDと」トムコリンズに口をつけ、ふっと笑う。

 “マイティD” ───それはおれが子供の頃、家族の中だけに通用したニックネームだ。アイリーンは大学でノーマンと出会い、若くして結婚をした。おれが初めてノーマンと会ったのは九つの時。彼は“ヒゲのないディーン”を知っている希少な人間だ(でも今日だって“ヒゲのないディーン”だけど)。

「きみがゲイだとは知らなかった」

 その意見はとりあえず否定しないでおこう。マイティDは女装して“ミス”になってる。ここでゲイじゃないと言っても、おそらく信じてはもらえないだろう。

「あなたこそ」ジンリッキーのライムをマドラーでつぶし、ひと呼吸おいておれは切り出す。「姉から聞きました。離婚のことを」

「そうか」

「姉とあなたは……うまくいっていると思ってました。あなたはいい夫だと」

「いい夫か……」と、トムコリンズで唇を湿らせる。

「彼女はあなたに女がいると思い込んでいるようですよ」

「女も男もいない。ただ時折こういうところに出向くくらいでね。孤独なものさ」

 “こういうところ”? こういうところに時折出向くって? それって浮気をしていると捉えていいものなんだろうか。

「いい夫……」さっきと同じ単語を口にするノーマン。「結婚後に自分がゲイだと気がつくことが悪だと言われれば一言もないよ」

 ノーマンはテーブルの先を見つめている。それはどこか寂しげな面持ちだ。

 “自分がゲイだと気がつくことが悪だと言われれば一言もない” それを言えば、おれだって似たようなものじゃないか。宗旨替えすることが悪か? 自分の本当の姿に気がつくことが?『もうきみを愛してない、自分は男が好きなんだ』 ノーマンはそれで苦しんだのだろうか……?

 ジンリッキーは苦い。いつまでもライムをつぶし続けたせいで、カクテルが台無しになった。薄暗い照明、ゆるいレゲエ。ボブ・マーレーは沈黙の助けにはなってくれない。

「覚えているかな? 一緒に野球に行ったことを」重たい雰囲気を吹き飛ばすように、ノーマンは顔を上げた。

「ええ、もちろん」話題が変わってほっとし、おれは笑顔で応える。「生まれて初めてスタジアムに行った日のことは忘れっこない」

「きみはグローブを持ってきてた。“ファウルボールを取るんだ”って」

「結局はポップコーン入れになりましたけどね」

「ロックフェラーセンターにスケートに行ったこともあったな」

「それとライヴにも。母が“ノーマンとなら行ってもいい”って。ボンジョヴィを観に」

 思えば彼にはずいぶん遊んでもらった。ノーマンは本当に子供好きで、だからこそおれは彼に“いい夫”の印象を抱いていたのだが……。

「好きな子のことを聞かせてくれたね。同級生の女の子だ」

 記憶にはないが、きっとそんな話もしたんだろう。おれは男の兄弟がいない。野球やハードロック、恋愛の相談……姉とはできないことを、ノーマンは共有してくれた。

「きみと今夜、会えたことが嬉しい」

 おれの顔をじっと見るノーマン。その瞳はグリーン。懐かしい。おれはすっかりそのことを忘れてしまっていた。

「こうして酒を呑んでるのは奇妙な感じだ。その昔、ぼくらはストレートだったというのに。それが今やふたり並んで……」カクテルのグラスを空にし、それをテーブルの向こうに押しやる。それから再度、こちらに向き直り「こんなにすてきになっているとは」と、おれの顎に指を添える。ヒゲのないそこに触れられるのは何年ぶりのことだろう。それもまた長らく忘れていた感覚のひとつだ。

「マイティ……ディーン」

 ふいに彼の顔が近づく。懐かしいコロンの香り。それを感じたのは一瞬のこと。コロンと唇。テーブルから落ちたグラスと周囲から上がった悲鳴。床に尻を打つノーマンと仁王立ちになるおれ。すべては一瞬のことで、おれが自分の怒鳴り声を聞いたのも、ほぼ同時に起きたことの一部だった。

「あんたは……あんたはおれの義兄だ……アイリーンの夫なんだぞ?!」

 後になって思えば馬鹿な台詞だ。『なにするんだ!』でも『この野郎!』でもない。それはただの事実であり、相手にダメージを与える種類の言葉ではないというのに。

 ノーマンは床にしゃがんだまま、おれを見上げ、静かに言った。

「法的にはまだそうだ。だが実際はもう違う。わたしはきみの義兄でも、アイリーンの夫でもない」

 罵倒とはほど遠い言葉。それもまた単なる事実に過ぎない。

「いったいどうしたの?」と、誰か(たぶんキャロリンだ)が言ったが、おれはそれに答えなかった。答えず、ただ店を出た。

 やみくもに通りを歩く間、二人の通行人にぶつかった。そのうちのひとりは「くそったれ!」と、怒声を発する。そうだ。こういうのが『相手にダメージを与える種類の言葉』だ。ノーマンが言った台詞は、そういう種類のものではない。そうであるはずなのに、おれは一発食らった気持ちになっていた。

 また一人、通行人と肩が当たる。なんでこんなにぶつかるかって、涙で前がよく見えないってことと、おそらく関係があるんだろう。ちきしょう。なんだってこんなに泣けるんだ。アイリーンのための涙か? それとも可愛い甥と姪のこと? キスされそうになってムカついた? 少年時代の想い出を汚された? そんなんじゃない。どれもちがう。だったらなんで……おれは泣いたりなんかしているんだ?

「ディーン!」呼び止められ、おれは足を止める。もともと行くアテもない。呼ばれなきゃこのままマンハッタン中を歩いていただろうが……。

 息せき切って、追いついてきたのはポールだ。おれの泣き顔を見て、はっとした表情をしたが、動揺を声に出すことはせず「いったい彼に何をされたの?」と、優しく腕を撫でてきた。

「大丈夫だ。おれは何もされて……」ここまで言って、あるひとつの事実に思い当たる。

「ああ、まいったな……“何もされてない”のに、彼を殴っちまった。どうしよう。これってあきらかな傷害罪だよな? おれはどうなる? S.Tインシュアランスの代表から訴えられたらおれは……」

「ディーン、ちょっと落ち着いて。ね、まずは何も考えなくていいから。さっきからきみ、呼吸がすごく浅くなってるんだ」

「ああ……」

 促されるまま、深呼吸をする。息を吐いたり吸ったりしているうちに、だんだん気持ちが落ち着いてくるのがわかった。

「みっともないな、自分のことでもないのにこんなに泣いて」シャツの袖で顔を拭う。

「自分のことじゃないから泣けるのさ」

 ああ、そうか。いいこと言う。そうだよな。

「彼は……ノーマンは……こんなの……アイリーンになんて言ったらいい……」

「なんて言ったらいいって? きみが網タイツはいて、ドラッグクイーンになったこと?」

 ポールのコメントに、おれは思わず笑ってしまう。

「そうだな、それを知られるのはマズい……」

 今はそれを知られるのは困る。今は何も言う必要はない。彼女がマイアミで元気を取り戻し、新しいボーイフレンドをみつけたころに、おれの女装とセットでこの笑い話をしてやればいい。

「家に帰ろう」おれの手をとるポール。「除毛フォームを使ったこと、ローマンから聞いたよ。早く家に帰って、きみのつるつるの足にキスしたいな」

「つるつるのアゴにもな」

「そっか。それは今のうちだよね?」

「ああ、明日からまた伸ばす。女らしいのは今夜までだ」

「“ミス”とベッドインするのは初めてだな」

「おれは“ミス”になるのは初めて」

 どちらともなく、くすくす笑いが沸き上がる。おれたちの間にいつも発生する化学反応だ。

「ミスがどんな下着をつけてるか知りたいか?」

「うーん、実はあまり知りたくないね。脱いだ後のほうが興味あるかな。それより歌は? ほんとにマドンナの曲を歌うつもりだった?」

「まあ、あの場はでな。仕方ないだろ」

「下着より歌がいいな。歌詞は頭に入ってる?」

「いいや」

 ベッドで歌わされることを危惧してシラを切ったが、実のところマドンナのCDはばっちり所有している。“ライク・ア・ヴァージン”は目を閉じてたって歌える曲だ。

 口にこそしないが、今の気持ちはその歌詞に同じ。『悲しくてブルーだったけど(I was sad and blue)でもあなたは感じさせてくれた(But you made me feel)新しい輝きを感じさせてくれたのよ……(Ya you made me feel Shiny and new)』

 “ミス”になって初めて、マドンナと同じ気持ちに行き着いたが、それはカツラやドレスの効果じゃない。優しい恋人が、おれにラブソングの意味を自然と理解させてくれたんだ。

 おれたちは歩いて帰路につく。揃って一定のビートを刻んで歩く。それはまぎれもない恋人のリズム。好きな子と初めて手をつないだ日のことは覚えていないが、どんなだったか想像はつく。それは今みたいにいい気分。恋をするのは初めてじゃない。それでも心拍数は急上昇。鼓動はまるでヴァージンのよう……。

 今夜、理解したのはマドンナの曲。笑顔とキスと魔法の言葉。他に必要なものは何もない。


☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆


 荒野を通り抜けて、ここまでやってきた。ようやくここまで辿り着いたんだ。

(I made it through the wilderness Somehow I made it through)

 きみを見つけ出すまでに、おれがどれだけ道に迷ったかなんてわからないだろ?

(Didn't know how lost I was Until I found you)

 きみは最高。きみはおれのもの。おれのことを強くし、勇敢にもしてくれる。

(You're so fine And you're mine Make me strong you make me bold)

 まるで初めてのときのようだ。初めて触れた時のような感じがする。

(Like a virgin Touched for the very first time)

 きみのハートが鼓動する。その次はおれの番。

(Like a virgin With your heartbeat Next to mine)

 ああベイビー、おれの鼓動が聞こえる? それってまるでヴァージンみたいなんだ……。

(Oooh baby Can't you hear my heart beat For the very first time.....)

  --- Like A Virgin / Madonna ---


End.

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