第4話:ファースト・ナイト!(Deeper And Deeper)
モノには順序というものがある。
例えばミルクティー。濃い紅茶にミルクを淹れ、その後に砂糖を追加する。化学的見地からすれば、ミルクでぬるくなった紅茶に砂糖を入れるより、先に砂糖を入れた方が、それは熱い紅茶によく溶ける。しかし正式な手順としては、ミルクが先と決まっていて、それを逆にするのはマナー違反にあたるらしい。
これに類することは人間関係にもあり、それはおれの母親がよく言う台詞、『モノには順序ってものがあるのよ』に代表されるもの。
「好きな子ができたらママに紹介してね。間違っても先に赤ちゃんをこさえたりしちゃ駄目よ」
母親の世代が守っている“人間関係におけるモノの順序”を、簡単に書くと以下のようなことになる。
1: 映画を共に観る
↓
2: キスをする
↓
3: 銀行口座を共にする
↓
4: ベッドを共にする
↓
5: 墓を共にする
近年は1から3をすっ飛ばして、4から始める手合いも少なくはないが、現在のところ、おれはこの伝統的な手順を一歩、また一歩と進んでいる最中にある。おれの“好きな子”の名はポール・コープランド。まだママには紹介してはおらず、間違っても赤ちゃんをこさえたりは出来ない同性の恋人だ。
元々普通の友達関係にあったおれたちなので、『1: 映画を共に観る』は、その頃すでに体験済み。『2: キスをする』は、今や生活のなかでしょっちゅう。朝は仕事に向かう前にキス、寝る前にはおやすみのキスをし、それぞれお互いの寝室へと消える。───そう、今のところ踏んでいる手順は『2: キスをする』まで。その後の段階にはおれたちはまだ進んではいない。おれとポールは二十八才。誰はばかることなく、責任を持ってセックスに挑むことのできる年齢だ。恋人としての付き合いがスタートしてからほぼ三ヶ月。おれもポールも特別オクテというわけではないし、自分に関して言えば、こんなに長く“恋人と肉体的接触を持たない”というのは初めてのこと。なぜこんなに時間をかけているのかって、それはおれが“ゲイじゃない”ってことに関係している。
───ディーン・ケリーはゲイではない。ゲイではないが男の恋人を持っている───
そこに矛盾があるかという議論はさておき、おれは生まれてこの方、男に対して性的な欲望を覚えたことは一度たりともない。一方ポールは生粋のゲイで、一度たりとも異性に性的に感じたことはないと言う。おれたちは不思議な運命の導きにより交際を始めたが、互いのアイデンティティは本来のまま。つまりポールは、おれがストレートであることを理解してなお、恋人として認め、おれはポールが男であることをわかった上で、恋人としているという、極めて特種な状態に置かれている。
付き合い始めの早い段階で、おれはポールに「この先どうなるか、それはまだよくわからない」と正直に告白した。それは『男性であるきみと寝たいと思う日が来るかどうか、まだよくわからない』という意味のこと。それに対し、ポールは「それでもいいよ」と応えた。
「ぼくもきみに無理強いをしたいとは思わないしね。安心して。きみの嫌がるようなことは絶対にしないから。それは約束する」
「そうか、ありがとう……でも、きみはそれでいいのか?」
「うん。だってきみは“まだよくわからない”って言っただけでしょ? “今後絶対可能性はない”って宣言されたんだったら、ぼくもちょっとは考えるけどね。 戦争で不具になった夫を持つチャタレイ夫人ってのとはわけがちがう。そもそも問題が起きる前から、物事を問題視することもないんだからさ」
“まだよくわからない”という非常に曖昧なおれの申し出に対し、彼は『わかるときが来るまで、無理しないでいいよ』と答える。おれが“そのままおれ自身”でいることを、ポールは許してくれた。互いへの理解と自己への精神性は深まり、肉体的な接触は据え置きのまま。用いるものは、愛情を伴う言葉と愛情を伴うキス。
───二十八才の平均的アメリカ人男性。セックスレスでも問題無し───
そんなキャッチコピーがしっくりくるほど、自分が“不健康”じゃないと気付かされたのは、ごく最近のことだ。ここしばらく、おれは頻繁にセックスの夢を見るようになった。相手が誰かはわからない。ただなんとなくなまめかしく、優しい何かとおれは共にいて、目が覚めると肉体が“のっぴきならない状態”にあるか、もしくは“すべてが終わった状態”にあるかのどちらかになっている。
それ以外にも認識させられることはあって、それはテレビを見ているときなどに唐突に起こる。ドラマを見ている最中、画面がセクシーな場面にさしかかったりすると、なんとなく落ち着かない気持ちになってくるのがそれだ。隣にポールがいたりすると尚さらで、思わずコーヒーをとりにキッチンに立ってしまったり、「そういえば昨日、仕事場でさ…」とか、セクシーな場面に何の関係もない話題を振ってしまったりもする。
親と一緒に『チャーリーズ・エンジェル』を観ているときよりも気まずい空気。同じことをポールも感じているらしく、コーヒーのおかわりを積極的に求めたり、「昨日、仕事場で? なに?」と、意図して話題に乗ってこようとしたりする。こっちがヤリたい盛りの中学生みたいに反応しているから、彼もつられておかしなことになっているのだと、おれは申し訳なく思っていたのだが、それはどうやらこちらの挙動不審のせいだけでもないらしいことが、つい先日、とある形で証明された。
残業が続いてくたびれ果てていたおれに「肩甲骨をひっぱってあげようか?」と言うポール。肩甲骨をひっぱるのは彼の得意技。それは疲労した身体にばっちり効き目があるのだが、やられている間は、何らかの祈りの文句が口から飛び出すような効果もセットになっている。
「いや、いいよ」と、おれは断わる。「今それをやられたら死ぬかもしれない」
「またおおげさな」苦笑するポール。
「死にはしなくても、明日の朝起きられる自信がないな」
「じゃ、軽いのにしておこうか。きみが涙目にならないようなやつ」
床にヨガマットを布いて(今やこういうときのみ使用されるヨガマット)バスタオルを重ね、そこにうつぶせになる。ポールは柑橘系の香りのするオイルを両手で温め、ゆっくりと、おれの背中の筋肉を揉みほぐしはじめた。
目を閉じ、マンダリンのアロマを呼吸し、リラックスがやってくると同時に歯の間からうめきが漏れる。もちろんそれは不快感からではない。彼の手の動きは絶妙だった。こちらがやって欲しいと望むようなことを、次から次へと見つけ出しては、片っ端からほぐしてかかる。こんなに気持ちのいい技を隠し持っていたなんて知らなかった。いつもの“肩甲骨をはがす”は何なんだ? この瞬間、施術師から「銀行口座を共にしよう」と申し出られたら、他のプロセスすべてをすっ飛ばして「イエス」と答えてしまいそう……。
「もう起きていいよ」そんな無情な言葉を耳にするまで、おれはうなったり、うめいたり。すべての時は永遠ではないという真理を悟りつつ、油まみれの男は夢見心地で身を起こす。
「ああ……すごい。最高だった。ありがとう」
「そう? よかった。まずバスタオルで身体を拭いて。油が床に落ちる前に」
「きみの手ってやつはまったく驚きだ。マッサージはできるし、髪の毛を切らせりゃ完璧。ミスター・ハンド。きみはなんて素晴らしいんだ」
おれは彼の手を取り、手の甲にキスを捧げようとした。それは幾らかオーバーなアクションで、多少冗談めかしてもいたのだが、ポールはつるりと手を引っこ抜き(オイルで濡れていたので、それは容易かった)そこに唇が着地するのを妨げる。あれっと思って彼を見ると、ポールはいくらか頬を紅潮させ、「患者からのセクハラは受け付けないことにしてるんだ」と、宣言。
「セクハラじゃない。感謝だ」
「でも結構」
「おれたち毎日キスしてる恋人同士なのに?」
「手を洗ってくるよ」
「待て、ポール!」立ち上がろうとする彼の腕を掴んで、引き戻す。
「このまま引き下がるもんか! キスさせろ!」
「ディーン!」
床に押し倒し、彼の顔中にキスを連打する。きっとポールは笑い出す。おれはそう思っていたのだが、意外や彼は「ちょっと……ほんとにやめて」と、弱々しくつぶやいただけだった。その表情は何と言うか、こちらがどきっとするするような憂いに満ちていて、おれは自分が何かとんでもないこと(セクハラだ!)をしでかしたような気持ちになってしまう。
「ごめん」と詫び、おれは彼から身体を離す。
「手を洗ってくる」
ポールはバスルームへ消えた。妙な気まずさ。こっちは軽くふざけたつもりだったが、相手はそうはとらなかったのか。でも以前であれば、おそらくポールはけらけらと笑い、おれに向かって軽口を叩いたはずなのだ。
小学生の頃からの幼なじみが、大人になるにつれ相手を意識し始めるように、おれたちは相手の肉体を性的な対象として認識し始めている。
相手を性の対象として見る。それは別におかしなことじゃない。だっておれとポールは恋人同士なんだ。そうなることについて何か問題があるわけでもない。おれたちは健全な肉体と魂を持った普通の男。このままずっと天使みたいに清い関係でいるってこともできるんじゃないかという思いは、肉体的欲求の前にもろくも崩れ去りつつある。
この件と似たような出来事は、この後も何度か発生したが、その度にポールはおれから離れ、半径五フィート以内に近寄ろうとはしてこない。『ディーンの嫌がることはなにもしない』という誓いを忠実に守っているポール。彼は他人を思いやる優しい男。間違ってもおれのことを押し倒したりなどしない。キスは問題なく通過。じゃあその後は? こちらとしても、今や“されて嫌なこと”のラインがよくわからなくなってきているのは事実。以前のおれのスタンスは『男性と寝たいと思う日が来るかどうか、よくわからない』というもので、それは言い換えれば『今は寝たいとは思わない』というハッキリとした立場をとっていたものだったが、現在は『寝たいか寝たくないかも、わからない』という、どっちつかずの状態に陥ってしまった。
「男と寝たいか」と問われれば、それは百パーセントNOに違いない。「ポールと寝たいか」と問われれば、それはよくわからないと答えるしかない。ただ、もっと彼の近くにいたいという気持ちはあるし、手の甲にキスしようとして、拒絶されたりするのは、けっこう切ないものがある。
『ディーンの嫌がることはなにもしない』と彼は決めている。ということは、つまりこの関係性を発展させようと思うならば、おれの方からアプローチしなくては何も進まない。おれたちはこのままでも幸せだ。それは本当に真実だが、衝動というものは、“幸せ”とはまったく無関係に発生するもの。衝動はただ起きる。それはある日突然に。
この日もおれたちはかなりのところまで近づきはしたが、ポールが「オレンジを切ろうか」と、キッチンへ立ってしまい、“それ”はあやういところで回避された。
おれとの“それ”の避けてるポール。それはなぜかって、ディーンに対する誠実さゆえに。ディーンに対する愛ゆえに…………いったいそれはどういうことだ? 途端、これまでのすべてが馬鹿らしく思え、おれはポールを追って台所へと移動。オレンジを手にした彼を見つけ、矢も楯もたまらず、恋人を背後から抱きしめる。
「ちょっ……ディーン?」
「ポール、好きだ」
「あー…と、うん、わかったから……ぼくはナイフを使ってるんで、あぶないから離れて……」
「やろう」ナイフを持った男の耳元にささやく。「きみと寝たい。今すぐに」
最低の口説き文句とはわかってる。しかしもう待てない。これっぽっちももう無理だ。今まで一歩一歩進んでいた正式な手順。紅茶を淹れ、ミルクを差し、それから砂糖、お好みでシナモンを入れてもいい……なんて、伝統的な順番など知ったことか!
「ロマンチックじゃなくて悪い。でも……とても手順を踏んではいられない」
「ロマンチックじゃないだって?」ポールはふふっと笑い声を立てた。「ロマンチックなんて、さっきのセリフの前には色あせるな。だいたいみんな手順を踏みすぎなんだよ。今のは効いたね───感じたよ」
彼はナイフをカウンターに置いた。武器を手放させるには、愛がいちばん…ってのはブッダが言ったことだっけ?
抱いたおれの手を握りしめ、それを優しくほどくポール。手と手を取り合い、おれたちはキッチンから寝室へ。命拾いしたのはカリフォルニア・オレンジ。愛はすべてを救いたもう。果実は身を以てブッダの教えを知ったことだろう。
夜空に先端を突き立てるクライスラービル。おれの部屋からだと、あまりよく見ることはできない。ポールの部屋は広い。面積的にはおれの部屋も同じはずだが、ここはずいぶんスペースがあるように感じられる。置かれている家具は最小限。本やCDの類いもさほど多くはない。目立つアイテムといえば、ねじれた流木と観葉植物くらいのもの。インテリアにはどこか懐かしい暖かみが感じられ、それはこの部屋の持ち主の性質とよく似ている。
おれはポールの部屋で彼がシャワーを浴び終わるのを待っていた。所在なく室内を見回したり、棚から適当な本を引っぱり出して、それをめくったり(適当に選んだそれは『ヘアメイキングへの化学的アプローチ』───五秒で棚に戻す)。
性衝動はティーンエイジャー並み、落ち着かなさもティーンエイジャー並み。バスローブの襟を意味もなく直し(どうせ脱ぐのに!)シーツをひっぱってシワを伸ばす(どうせめちゃくちゃになるのに!)。
ベッドを共にしたいとは思ったが、それについて具体的なアイディアがあったわけではない。“こういうことがしたい”とも、“こういうことはしたくない” とも。何の準備もなくプレゼンテーションに挑んでしまったかのような心もとなさを感じつつ、とりあえず自分の部屋から、いい香りのするキャンドルとコンドームを持ち込んでみる。備えあれば憂い無し。……とはいえ、これで万全なのかはおれにはわからない。他に何か必要なものがあるんだろうか? あとはロウソクに火を入れるだけでいいんだろうか? コンドームはひとつで足りるんだろうか? このベッドインに具体的なアイディアがないのも無理はない。おれは男同士のセックスについて完全に無知なのだから。
ポールの本棚に『ゲイセックスへの化学的アプローチ』は置いていない。もしあったとしても、それを読んでしまったら───その内容に、思い切り引いてしまう可能性がなきにしもあらず。それが親切なイラスト付きなら尚のことだ。
男の〇〇〇〇を〇〇できるかと言われれば、はっきり言ってそれは難しい(そう、ここで伏せ字にしないことすら難しい)。それでも今のままでは物足りなくなっているのは事実。おやすみのキス、軽いハグ。それよりもっと深く愛し合いたいと思った。でも、しかし……。
「入っていい?」軽いノックとちいさな声。「どうぞ」とドアを開けると、そこにはペールグリーンのバスローブを着けた彼がいた。
「ようこそ、きみの部屋へ」うやうやしく、そう言うと、ポールは「ようこそぼくのベッドへ」と、切り返す。まだ濡れているブロンドの髪、わずかに紅潮した頬。愛おしいと思う気持ちが、胸一杯に湧きあがってくる。
「なに? なにかいい匂いがするね?」とポール。
「キャンドルだ。ディプティックのローズゼラニウム。嫌いじゃない?」
「うん」
おれとポールは並んでベッドに腰を降ろす。ブラインドの隙間からは、教会のようなクライスラービル。傍らにはシャンプーの香りのする恋人。その肩に腕を回し、軽くこちらに引き寄せる。瞳を見つめ、頬に唇で触れ、それを横に滑らせ、唇同士が出会う。彼の舌を味わいながら、優しくベッドに押し倒す。白いシーツの上に横たわるポール。ロウソクの光に照らされ、微かな微笑みを浮かべている。
いい雰囲気だ。ここから一気に行為になだれ込むのが自然なのだろうが……でもいったいどうやって?
「あの……ポール……」
「ん?」
「これから……どうしたらいい?」
「どうしたらって?」
「なにか……その……必要なものはあるのか。タオルとかローションとか、なにか必要な道具が」
「道具だって?」ポールは目を見開いた。「なにそれ! 道具?! いったいきみはどんなことを想像しているの?!」上半身を起こし、けらけらと笑い転げる。せっかくのムードは爆笑に消えた。“タオルとローション”、それらアイテムはヘンタイっぽく聞こえただろうか。別段なにか想像をして発言したわけではないが、笑われると妙に恥ずかしい。
「べつに何も想像なんてしてないさ。想像なんてしようもない。男同士のセックスはまったく未知のことだからな」
照れ隠しに早口でまくしたてるおれに、「愛し合うことに男も女も関係ないよ」とポールは言った。
「互いに触れて、一緒に素敵な気分になるだけ。キスして、触れて、相手を気持ちよくさせて、自分も相手を感じる……」手を伸ばし、おれの肩を撫でる。「どうかな? ぼくは女性としたことないけど、そう変わらないんじゃないの?」
もっともだ。もっともだとは納得できる。だが、しかし……。
腕を組んで唸るおれに、ポールは「まだなにか?」と首を傾げる。
「正直に言うと」おれは彼に向き直る。
「正直に言うと?」
「ビビってる」
「ディーン! はは! かわいいな!」
「よせよ、“かわいい”なんて」
「ああ……ごめん。そうだよね。きみはヴァージンなんだもの。でも正直に言ってくれてよかった。ね、心配しないで。ぼくがきみを怖がらせるようなことをすると思う?」
水色の目がおれを覗き込む。それはちっとも“怖がらせるようなことをする”とは思えない美しさだ。
「でもあれだろ……男同士でやる場合は、どっちかが……その……」
「ああ、なに考えてるかわかったよ。アナルセックスのことを言ってるんだね?」
さらりとポール。いま言った台詞のどこかにとんでもない単語が混じっていたと思うのはおれの気のせいだろうか。
「安心して、“きみの嫌がることはなにもしない”って約束はまだ生きてる。それに入れるだけがセックスじゃないからね」
「だけじゃない? それって……」
「まあ、やってみればわかるよ」青空のような瞳でにこりと微笑む。
もし彼にしっぽがあったなら、その先端はさだめし尖っていることだろう。このときおれはポール・コープランドの“真の姿”に気づくべきだった。気がつかなかったのは、初夜を迎える緊張にさらされていたことと、頭に行くべき血液が下半身に集中し始めていたため、脳の働きが鈍くなっていたからだろう。
キスをしながら、ゆっくりと覆い被さってくる恋人。おれは押し倒された(ポールに)。しなやかな手がバスローブをはぎ取る。おれは押し倒されている(ポールに)。それがどういう意味かって……“まあ、やってみればわかるよ”ってことなんだろう。
爪や髪の毛を除き、身体には神経が通っている。肉体の感じる部分とは、そのすべてであり、性的にそそられる部分ばかりに集中するのは子供っぽいやり方だと、おれはこれまでの経験で学んでいた。耳やうなじ、指先や手の平、爪や髪の毛だって素敵な感触だし、神経が通っていないにも関わらず、触れられれば気持ちがいい。ポールもそれはよく心得ているらしく、ある一点にずばり直行したりせず、耳たぶに吸い付いたり、指と指の間を舐めたりと、ゆっくりしたペースで、ひとつひとつのプロセスを愉しんでいるようだった。
おれたちは互いに優しく触れた。肉体を徐々に開き、好奇心と喜びをもってそれを探求する。触れさせることを認証し、触れることを認証される。自分の感覚を知り、相手の身体を知る。『愛し合うことに男も女も関係ない』と、ポールは言った。その説の正しさは体験によって証明されつつある。ただ大好きで、触れたいと思う。相手がサボテンとかハリネズミでない限り、それは自然に発生する衝動なのだろう。
乳首にキスを受け、舌を這わされる。それはちょっと奇妙な感じだったが、決して悪い感覚ではない。右は指で、左は舌と歯で。両方に有能な担当がついた。しつこく攻められ、おれはうめきをあげる。乳首とペニスの神経がなんらかの関連性を持っていること、化学ではまだ証明されていないだろうか? 愛撫に反応して脈打つ一点に、ずばり直行して欲しいという欲求に駆られるが、今しばらくこの感覚を味わっていたい気もする。
あっちをいじられ、こっちをいじられしているうち、やがて彼の指は秘密の洞窟の入り口に辿り着く。そうか、やっぱりそこか。そうくるだろうと思ってはいたが……。
おれが身体をこわばらせると「こわがらないで」と、ポールがささやく。「嫌だったらやめるから。きみの嫌がることはしないよ」
そうだった、おれに対してポールが“想像を絶するような”ことをするわけがない。彼は誰よりも信頼できる男だ。安心していい。ここでしているのはもっと深く互いを知ろうとしているだけ。相手を傷つけてやろうとか、快楽に利己的であろうとかいうのとは違うんだから。
指をあてられ、そこに力が加えられる。落ち着けディーン。アナルセックスが元で死んだというニュースはこれまで耳にしたことがないだろう?(そうした事件がCNNで流れるかはまた別問題だが)そのへんの通りを歩いている普通のゲイ。おれが彼らよりタフじゃないなんてことあるわけがない。想像を絶するようなゲイセックスのイメージは脳みそから追い出すんだ! エルトン・ジョン、ジョージ・マイケル、フレディ・マーキュリー、ルパード・エヴェレット、ボーイ・ジョージ、ガンダルフ!!! おれに力を貸してくれ!!!
「どう? いや? 気持ちいい?」
優秀な外科医のように観察するポール。おれは返事をしなかった。返事をしないで、ただ見つめ返しただけだったが、視線には何らかのメッセージが込められていたのだろう。彼は何かを受け取ったかのように「ああ、ディーン……」と、吐息まじりに感嘆した。
「愛してる、ディーン……」
『おれもだ』そう言うつもりで開いた口からは、妙なうめき声とため息しか出てこない。
「愛してる、ディーン、愛してる……」
それからポールはおれにいろいろなことをした。おしまい───。
ここまで言っておいて、それはないって? おれたちのプライベートはポルノじゃない。ただ簡潔に『よかった』とだけ述べておこう。とはいえ、この後の会話を見てもらえれば、だいたいの様子は推測されるものと思うが……。
「なあ、きみは……その、ああいうのは“普通”なのか?」
ベッドに身体を横たえたまま、おれは肩の上にあるポールの頭に問いかけた。
「ふつう?」聞き返し、頭を軽く動かすポール。
「いや、なんでもない。今の質問は忘れてくれ……」
これが“ゲイとしての普通レベル”だとしたら、腕自慢のローマンはどんな技術を持っているのだろう(別にちっとも知りたくはないが)。『ただ触れて愛し合う』などとはよく言ったもんだ。彼は終わった後に「こんなに熱が入ったのは久しぶりだ」と、ひとつの仕事を成し遂げた職人のような台詞をはいた。恐ろしいやつ。人はみかけによらないとはこのことだ。
「ねぇ、ディーン」
「ん?」
「きみは同性としたの初めてなんだよね?」
「ああ」
「だよね……」
だよね? なに? それはどういう意味なんだ? 気になる言いっぷりだが、そこはかとなく聞き返しにくい。
さっきのセックスで、おれは何かとんでもないことを口走ったりしなかっただろうか? いくつかのことは憶えているが、いくつかのことは憶えていない。彼は男の肉体を知りつくしている。一方おれは男と寝るのはまったく初めて。言ってみればそれは処女も同じこと。それでも“ああ”なってしまったということは、自分はゲイの才能に恵まれているのかもしれない。初めてなのに、おれは……初めてだというのに……。行き場のない恥ずかしさが込み上げてくる。それは津波のようになって、繊細なおれの精神に襲いかかり、その化学反応から引き起こされるのはシンプルな叫び声。
ポールはバネのように身を起こし、「うわっ! びっくりした! なに?!」と聞く。
「……叫びたくなったんだ」
「なんで? もしかして恥ずかしいとか?」
「ああ」
たったひとつの叫び声から、おれの精神状態を推測し当てるとは。彼はなんて鋭い奴なんだろう(それともおれが単純なヤツなのか?)。
「恥ずかしいことなんてないよ」と、ポールは言う。「さっき言ってた、何? ふつう? そんなのも気にすることないしね。こういうのどう? 悪くなかったでしょ?」
「ああ、悪くないどころか……」
「どころか?」
ニヤつく彼の手を取り、おれは申し出る。
「ミスター・ハンド。今度こそキスさせてくれ」
ポールは女王陛下のように口づけを受けた。
おれの恋人は驚きだ。マッサージはできるし、髪の毛を切らせりゃ完璧。セックスに至っては、たった一度でおれをトリコにした。ミスター・ハンド・アンド・ポール。きみたちはなんて素晴らしいんだ……。
『案ずるより産むが易し』。実際やってみたところ、“なんでもっと早くしなかったんだ”というくらい、その経験は素晴らしいものだった。初夜以来、おれたちは毎日“共同作業”に励んでいる。ただ、ひとつ気になっているのは、最後のところのタイミングだ。これまでそういうことはなかったのだが、ポールとのセックスに限っておれは……なんと言うか……つまり端的に言うと………………早いんだ。
相手を満足させられないうちに、おれはとっとと終わってしまう。それはポールがいろいろなことをしかけてくるからでもあるのだが、それにしたってほぼ毎回、“先行終了”ってのはどうなんだろう。
おれがそう言うと、ポールは「ぼくは気にしてない」と、言う。
「きみが感じてくれるのは嬉しいし、それを見るのは、ぼくにとって充分気持ちいいことだよ」
なんていじらしい。きみは聖母マリアか。思わず抱きしめずにはいられないコメントじゃないか。
彼とのセックスを経て思う。おれがかつて女性としていた事は、もしや怠惰なものだったのかもしれない、と。そんな内省すら沸き上がる体験を得たというのはやはり幸福なことなんだろう。もうしばらくしていろいろ慣れてきたら、おれもポールをうならせることが出来るようになるんだと思う。彼はゲイの黒帯。おれはビギナー。恋人から学べることはいくらでもありそうだ。
仕事の休憩中、遅めのランチをカフェでとっている最中、黒髪で緑の目の美人から「一緒に座ってもいいかしら?」と声をかけられた場合、いったい何て返答したらいいと思う?
「もちろんですとも、お嬢さん。どうぞお座りください」紳士はスマートにそう応える。
「ありがとう」向かいに掛けた美女。メニューを広げ「チョコレートブラウニーを頼んでもいいかしら?」と、微笑む。
「もちろんですとも、お嬢さん。どうぞお太りください」
美人はぷーっと吹き出した。
「もう! ディーン! 変な芝居しないで!」
「きみこそ! ずいぶん久しぶりだってのにそんな台詞! いつこっちに?」
「昨日よ」
「いったい何年ぶりだ?」
「三年半かしら。でもその間、ニューヨーク出張はちょくちょくあったのよ」
「そうだったのか。全然しらなかった。電話いっぽんくれないから」
「別れた彼氏にいちいち連絡する女がいると思う?」
「それもそうだ」
スマートなスーツを着こなした美人。その正体はかつてのガールフレンド、ジル・ミリアンだ。恋を捨て(つまりはおれを捨て)キャリアへの道を歩むべく、今はロスに住んでいる。
チョコレートブラウニーではなく、羊飼いのサラダをつつきつつ、おれたちは懐かしい想い出を語り合う。
「思えばあなたとは色々なところに行ったわ。ねぇ、セントトーマス島を覚えてる?」
「もちろん。きみ、潜水艦に乗るのが怖いって大騒ぎしてた。フェリーでは綿アメが風で飛んで、となりのご婦人の髪の毛にくっついたりしたっけ」
「やあね、そんなことばっかり。そうじゃなくって……」テーブルの上のおれの手に、そっと手をかさねるジル。
「すてきな夜だったわ……」手の甲に文字を描くように、人差し指でくるくるとなぞる。かつておれたちが恋人同士だった頃、これは『今夜どう?』ってサインだったのだが……。
「いや、あの、おれは今つきあってる相手がいて……」
「あらそう? 何人?」涼しい顔でジル。
「ひとりだ」
「ひとり」くるくる。
「そう」
「それは寂しいわね」
どんなコメントだこれは。いや、おれを表す正しいコメントか。ジルがニューヨークから越し、とりあえず遠距離恋愛というのものを試みてはみたものの、ロスとニューヨークの間は二千五百マイル。それはキスも抱擁も不可能な恋人関係。そんな拷問に耐えられるわけもないおれは、あっという間に新しい彼女を作ってしまったのだから。
「いやその……おれはかつてとは違うんだ」そうっと手を引っ込め、テーブルの下に仕舞う。「年もとったし……今はもうちょっと落ち着いてる」
「まさか」ジルは目をくりっとさせて無邪気に笑った。
「本当だ」
「ひょっとして……結婚でもしたの?」なにか不吉なことでもあるかのように、声をひそめるジル。おれの手に視線を据え、「見たところ指輪はしてないみたいだけど……」と言う。
「ジル、おれにはボーイフレンドがいるんだ」
Oの字型に口をあんぐりと開け、彼女は目を見開いた。
「嘘でしょう……?」
ああ、そうだ。衝撃の告白だ。かつて愛した男がゲイになってしまった。それはそう簡単に受け入れられる事実とは言えないだろう。
「きみがショックを受けるのも無理は……」
「あなたがゲイですって!」
突然の大声。今の彼女の発言で、このカフェの客から店員から、皆がおれの性癖を知ったに違いない。
「なんてこと! いったい何が起きたっていうのかしら!」
ジルは腹を抱えて笑い出した。え? ちょっと待てよ、これって笑うシーンなのか?
「信じられない……って言うか、やっぱりって言うか……もう……」息も絶え絶えになり、言葉は途切れる。
「そんなにおかしいことか?」
「だって……あなたのアイデンティティは“ゲイみたいだけど、ゲイじゃない”ってとこにあったのに! それがよりによって……!」肺から息を振り絞り、ひと呼吸ついて、また笑い出す。「ディーン・ケリーがゲイ! あまりにも“まんま”だわ! ああ…涙でてきた……」
あんまり笑うと化粧がくずれるぞと忠告してやるべきだろうかと思ったところで、ジルは居住まいを正し、「ごめん、わたし笑いすぎね……」と、つぶやいた。
「いや、久しぶりにきみの笑顔が見れて最高に嬉しいよ」
「その言い方ったら相変わらずね。ゲイになっても。でも……ほんとびっくりだわ」
「ああ、おれ自身、びっくりしてるよ」
「でしょうね」くっくと笑いをかみ殺す。コーヒーに口をつけ、落ち着きを取り戻してから、「なんだってイイ男はみんなゲイになっちゃうのかしら」と、ためいき混じりに言う。
「マンハッタンにいると、今どき女性である事は何かの不利益なんじゃないかって思えてくるわ。あなたまでゲイになっちゃうなんて、ちょっとあんまりじゃない?」
「独身男なんて掃いて捨てるほどいるだろ」
「そりゃいるわ」と、ひと呼吸置き「でもあなたみたいにイイ男じゃない」と続ける。「あなたはハンサムだし、趣味も悪くない。厭らしい冗談も言ったりしないし、女性にとても優しいわ。それが過ぎて女たらしなのがたまにキズだけど……ある程度は致し方ないわよね。だってあなたは素敵だもの。他の女が放っておかないのも無理ないのよ」
「おだてたって、ここは割り勘だぞ」
「やあね、そんなつもりないわ……えーっと、チョコレートブラウニーを頼んでもいいかしら?」片眉を上げ、にやりとするジル。“その言い方ったら、相変わらず”だ。
「ハンサムにはそれなりの使命があると自覚してもらいたいわね。だってそうじゃない? イイ男のDNA連鎖がこれによって断たれるのよ。それは人類の損失といってもいいくらいだわ」
「そうか。だったら今のうち、精子バンクにでも登録をしておこうかな」
「そんなの欲しがるのはゲイの女だけよ。わたしたちはベッドでそれを搾り取るのを愉しみとしているんだから、それじゃさっぱり意味ないのよ」
“ベッドで”という単語から、おれはある質問を思い出す。
「なあ、きみにひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「おれはその……きみとの……ベッドで怠惰だったってことはないかな?」
「怠惰?」
「怠惰ってのはつまり、横着、ぐうたら、なまけもの……」
「言葉の意味は知ってるわ」
「ああ」
「あなたが怠惰ですって?」
返事代わりに無言でうなずく。
「ねえ、当時わたしは周りの友達によくこう言ってたものよ。“信じられる? レストランでもベッドでも完璧な男っているのよ”って……」艶やかな笑顔を浮かべ、上目遣いにおれを見る。「怠惰だなんてあり得ない。もしそうだったら、わたしあんなに何回もセックスしたりしなかったわ」
「そうか……」
「なんでそんなことを? 今のパートナーに何か言われたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
そいつがあまりにもスゴ腕なので思わず自信を喪失したんだ……とは言わなかった。そもそもこういうのはパストラミのサンドイッチを食べながら、真っ昼間にする話題じゃない。
「今日はごちそうさま。そのうち新しい彼氏も紹介してね」
結局、昼メシ代はおれが払った。まんまとしてやられたのかもしれないが、自尊心が一気に回復したことを思えば安いもんだ。おれはハンサムだし、趣味も悪くない。ベッドでの仕事は丁寧。よかった。まずはひと安心だ。いつかおれが死んだら、墓にこう彫ってもらおうか?
《レストランでもベッドでも完璧な男、ここに眠る》
───悪くないね。
ジルと再会したその晩、ダイニングテーブルでポールが切り出したのは『自分たちのセックスについて』というテーマだった。夕食時、ラザニアをつつきながらする話題じゃないとママは言うだろうが、おれたちはオープンな恋人同士なので、そのあたりはあまり問題にならない。しかし会話の中に“ローマン”という単語が入った途端、それは“あまり問題にならない”とは言い切れない様相を呈してくる。
「ローマン?」目を細め、おれは聞き返す。
「うん、彼が教えてくれたんだけど、脳には“射精中枢”って部分があって、その交感神経の緊張から精子が体外へ送り出される仕組みなんだって。そこにデータが完全に蓄積されないまま精嚢の収縮が始まると、本人の意志とは不本意なタイミングで射精が起こって……」
「ちょっ…ちょっと待てよ……なんだって? 彼に言ったのか? おれたちのことを? おれたちのセックスのことを?」
「うん」
「嘘だろ! なんだってそんなことを!」
声を荒げるおれに、ポールはキョトンと目を丸くした。
「そんなことって……テレビのセックス・カウンセラーに相談したわけじゃないんだし」
「どうして好き好んで、からかわれるネタを提供しなきゃならないんだ!」
「からかうだなんて……ディーン、ローマンはプロだよ? こういう相談も彼は受けてるんだ」
「プロとかそういう問題じゃない……彼はおれたちの友達なんだぞ? そんなことを友達に知られるのは、おれには耐えられない!」
ポールはスタンドプレーを謝罪し、その場は丸く収まったが、とにかくおれはショックだった。ローマンにプライベートを知られたからだけじゃない。問題は “ポールが相談をした”って事。おれとポールのエクスタシーのタイミング。それは他人のアドヴァイスを必要とするほど、深刻な問題だったのだ。
感じてくれるだけで嬉しいと言っていたポール。しかし彼は気にしていた。その言葉を真に受けたおれは、彼が思い悩んでいることに気付いてもいなかった。昔のガールフレンドからのコメントで安心を得たが、そんなものは幻想だ。おれのパートナーはジルじゃない。今の恋人に満足してもらえなかったら、たとえマドンナからお墨付きを貰ったとしても、それはまったく意味のないこと。おれはポールのいいパートナーになりたい。それはセックスの面でも。と、なれば…… 努力が必要だ。
香を炊きしめ、ロマンティックなBGMをかける。優しいキスと、見つめ合う瞳。柔らかなシーツに包まれる裸のおれたち。何もかもが完璧な夜。すべてが高まり、波に押し流されようとするその瞬間、おれは“射精中枢”に指令を出す。
─── まだだ!───
まだ駄目だ。今じゃない。そんな努力の最中、ミスター・ハンドはひっきりなしにおれを責め立てる。
「ポール……ちょっと……おれはまだ……」
「嫌?」
嫌なもんか。そうじゃなくて、そういう意味じゃなくて……。ああ、まだだぞ。まだイクんじゃない。潤んだ瞳のポール。やばい。こいつはセクシーすぎる。何か他のことを考えないと……。
ぎゅっと目を閉じ、頭に思い浮かべるは、ひとりの男のポートレイト。シマシマのシャツに逆立った黒髪。性格はまじめで心配性。細長い顔のまんなかにある、オレンジの鼻。彼の名はバート。その相棒はアーニー。セサミストリートに住むゲイのカップル。
「ディーン、愛してる……」
うっとりとした声、それは射精中枢を刺激する囁き。ええと、そうじゃなくて……バートだ、バート。黄色い顔にオレンジの鼻。ペーパークリップのコレクター。アーニーとバート、アーニーとバート……バートはちっともセクシーじゃないぞ。ペーパークリップ、オレンジの鼻、ペーパークリップ、オレンジの鼻……ディーン・ケリー! これでイッたら、おまえはヘンタイだ!
インセンスはすっかり燃え尽き、あまたの時間は過ぎた。おれのタイムはまあまあ。とりあえず前回よりは保ったと思う。ポールはとなりで寝息を立てている。今夜は彼も充分満足を得た。この調子で頑張れば、いずれは毎回、公平に時間を使うことができるようになるだろう。なんだかアスリートめいてきたが、慣れるまでは仕方ない。『レストランでもベッドでも完璧な男』。ポールにそう思ってもらえるようになるまで、しばらくはバートと一緒に走ることになるだろう。これもすべては恋人のため。バートだって、アーニーと暮らすにあたっては、いろいろな努力をしているわけだしな。
恋人を持てば、跳ね上がるのは電話代。おれとポールは同居関係にあるので、AT&Tを儲けさせるようなことはないのだが、メールのやりとりだけはときどき発生する。例えば互いの仕事中。『今日は遅くなるから夕食は別々に』や『帰りにキッチンの電球を買ってきて』など、同居関係だからこそ必要とされる連絡事項から、『夕方から雷雨との予報。タクシーの争奪戦は必至!』などの注意項目まで。恋人同士は情報と愛情の受送信に余念がない。
そして今日もまたポールからメールが届く。
差出人 : Paul Copland
件名 : Dinner Date
仕事はどう?
もし残業がないようだったら、外で食事しよう。
今日はボタン夫人が来店したので、懐が暖かい。
ラ・リュカフヌでおごるよ!
『ボタン夫人』は、ポールの顧客でボタン会社の社長夫人のこと。いつもとんでもない額のチップを払ってくれる気前のいいお客様だ。そして『ラ・リュカフヌ』はいいワインが置いてある、フレンチの高級レストランだ。明日はおれもポールも休日。特別なときにしか予約しないレストランでのディナー。そこから先はもちろん……。
「ディーン・ケリー」
名を呼ばれ、脊椎反射の勢いでメーラーを閉じる。“ケリー”も“ディーン”も、このオフィスにはひとりしかいない。それなのにわざわざフルネームで声をかけてくる者も、このオフィスにはひとりしかいない。音もなく背後に立つのは殺し屋……ではなく、それと近似値の上司、シーラ・コックス。
「支援プロジェクトの件は?」
いつも最低限の単語で会話をしかけてくる彼女。“元気?”とか、“今日はどう?”というワードはコックス辞典に存在しない。
「作家の事務所と連絡はとれたんでしょ?」
「先週と変わらず、先方の都合でペンディングのままです」
「相手方に提出する仕様書は?」
「あ、それもまだ……」
「“それもまだ”」
こだまが返った。山でもないのに、なんて素敵。
「すぐにまとめさせます」
なんとしても残業を免れたいおれは、ジャック・バウアーのような面持ちで返答を返す。
「そうして頂戴。フェイスマーク付きのメールをやりとりする暇があったら」
「フェイスマークなんてついてませんよ!」
「冗談よ。ヘンにニヤニヤしてるから、あてずっぽうで言っただけ。まさか本当に私用メールの最中とは思わなかったわ」
言い捨て、ボスは去った。おれの上司はなんだ? FBIか? まあいい、とにかく早いとこ仕事を終わらせちまおう!……と、まずその前に。
送信者 : Dean Kelly
件名 : Re: Dinner Date
残業はなし!
あってもなし!
あとで電話する。
追伸. ボタン夫人におれからのキスを!XXX!!!
───さあ、これでよし! 今夜はディナーとセックスだ! 受けて勃つぜ!
窓に近い席はロマンティックな恋人同士のリザーブ。匂いの出ないキャンドルと、気が回るバスボーイ。ポールと一緒であれば外国語のメニューに怯えることもない。“ラパン”が可愛いウサギを指す単語だと、それをオーダーする前に教えてくれる、頼もしいパートナーだ。
バイアグラに手を出そうとは思わないが、『牡蠣とフォアグラのどちらが精力に効果的だろうか』ってなことぐらい、おれだって考えなくもない(もちろんこの場合は“精力に効果的”じゃない方を摂取したいわけだが)。
今夜、デキャンタはハーフに抑えた。一本空ければそれだけ睡魔に襲われる危険性は高まるし、それでは“ディナー・デート”の意味がない。料理と雰囲気を楽しむ完璧な夜。その流れのまま、セッティングは移行。“ディナー・アフター・デート”、それはセックスとムードを楽しむ完璧な夜……。
気になる結果から述べれば、それは“こないだよりもっと保った”と言わせてもらおう。いいぞアスリート。この調子なら先頭集団にまざれる日も近い。おれにはバートがついてる。彼さえいれば怖いものなしだ。
ベッドに横たわり、フォアグラと鮪の香草焼きが功を奏したのかも知れないと考えていると、ふいにポールが「なにを考えてるの?」と、訊いてくる。
「なにって?」
「さっき。きみは何を考えていたの?」
「え……?」
ポールは枕に肩肘をつき、「セックスのとき、きみはうわの空だ。何か別なことを考えてるだろ?」と言った。その表情、数分前まで愛し合っていた恋人のそれとは思えない。
「いったい何を考えてるの? 教えてくれる? 怒ったりしないから」
「おれが? 何か別なことって? 何?」
「だからこっちが訊いてるんだ。きみはもしかして……別の誰かを……」
「なに言ってるんだ!!! そんなわけないだろ!」
「まだ何も言ってないのに、怒鳴ることないだろ」
「怒鳴ってなんか……!」
……怒鳴ってる。しかも異様に動揺している。こうまであからさまに声を荒げれば、刑事でなくとも、おれの挙動が不振なことを見抜くだろう。
「ねぇ、ディーン。セックスのときにイマジネーションを使うってのはそう悪いことじゃない。双方が合意の元ならね。でもきみのソレは違うだろ? あててやろうか、きみは女の子のことを考えてる。ぼくと寝てるのに。きみは女性の身体を思い描いているんだ」
「ちがう!」おれはベッドの上で上半身を起こした。
「ちがわない!」続け、ポールも飛び跳ねるようにして起きる。
「女のことなんて考えてない!」
「考えてる!」
「考えてない!」
「考えてる!」
怒ったりしないからと宣言した彼。今や完全にブチ切れている。
「考えてないって言ってるだろ! なんでそう言いきれる!? きみはエスパーか!?」
なんだか子供の口喧嘩みたいになってきた。わかっちゃいるが止められない。
「エスパーでなくてもわかるよ」腕組みしてポール。「きみの嘘はすぐにね。ものすごくヘッたクソだから!」
そう、おれは嘘が下手だ。正直は美徳だからな。だからと言って……真実は苦いものだ! とても言えない!
「もういいよ……」そうつぶやいたのはおれではなく彼の方だ。
「こんな喧嘩したくない」さっさまでの激しさはどこへやら。ポールは声と肩を一気に落とした。
「ぼくは男だし……つまりそういうことだろ?」
「なにを……」
「結局、きみは女が好きなんだからさ……」
彼は話を急速に結論づけようとしている。そして急速に落ち込みつつある。
「ほんとに悲しくなるよ……ぼくは自分を恨むしかないのかな? きみを好きになった自分を?」
ちょっと待ってくれよ! そういうことじゃないんだって!
「きみが好きなんだ……とても愛してる」涙目でおれを見るポール。
「おれだって愛してるよ……」
「でもきみは女のことを考えてる……」
ああああああっ! もう! どうどう巡りか!
とうとうおれは声をあげた。「わかった! 言うよ! 言う! 考えてるのは女のことじゃない! バートだよ! おれはバートのことを考えてるんだ!!!」
ポールはなにか言おうとして口を開けた。それからまた閉じ、思案げな顔でこちらを見つめ、また口を開き、そして言う。
「………………………誰?」
こうなったらしかたない。バート、きみのことをポールに紹介するよ。きみとの浮気をポールは許してくれるだろうか……。
「そんなに笑うと腸捻転になるぞ」ベッドに仰向けになり、天井を見据え、おれは恋人に医学上の警告を与える。
「ごめ……」
「まだ笑ってるだろ」
「ごめん」
「笑うな」
「……いや、もう笑ってないよ。ほら、ね? ぼくの目を見て? 笑ってない、だろ?」
覆い被さり、覗き込むポール。笑ってはいない。目尻に涙が滲んではいるが、とりあえず笑ってはいない。
「それにしてもどうしてそんな……ぼくは“きみが感じるのを見てるだけで感じる”って言ったのに」
「いいよ、無理することはない。おれが“相手にとって不足”ってのなら……」
「ディーン」
ポールは両手でおれの顔を挟み、自分の目を見るようにしむけた。
「“相手にとって不足”? そんなことあるわけないだろ。それにそういうのはおかしな言い方だ。これは“どっちが長く保つか”って競争じゃないんだから」
やわらかな両手に挟まれたまま無言でいると、ポールはさらに言葉を続けた。
「きみに不安を抱かせたのは悪かったと思ってる。もっと早くに、こうやって話す機会を持つべきだったね」
そういう機会がなかったわけではない。いつだったか、ポールは食卓でこの話題を切り出した。しかしおれは恥ずかしさのあまり、それを打ち切らせたのだ。
「おれは……そういう話題は苦手なんだ」
「そうなんだよね。うん、それはぼくが知らなかったことなんだ。きみがそうだってこと、ぼくは知らなかった」ポールはくすっと笑った。さっきの爆笑とはまったく別の種類の笑みだ。
「ぼくはね、こういうことはきちんと話し合ったほうがいいって考えなんだ。きみに断りもなくローマンに相談したのはマズかったかもしれないけど、彼はとても頼りになる人だし、ああみえてとても知識がある。それになんと言っても、ぼくらの共通の友人だからね。きみはこういうことについて話し合うことに抵抗があるんだよね? だからこそ誰にも言わず、ひとりで考えて、その結果“バート”をぼくらのセックスに参加させようって思いつく……」
改めて言われると、それはもう馬鹿馬鹿しいアイディアだ。今になってシーツを頭からかぶりたくなってきた。そんなおれの気持ちを察したか、ポールは「責めてるんじゃないんだよ」と言う。
「ね、ぼくはこういうことを一緒に考えて、話し合っていきたいと思ってるんだ。きみはどうかな?」
「そうだな……おれも……」
「話し合う?」
「ああ」
「じゃあ質問、きみはぼくとのセックスに何を望む?」
「おれは……」と、言いかけ、もう一度自分の頭の中を見つめ直し、それからポールを見。深呼吸をひとつし、彼の瞳に向かって話し出す。
「おれは一方的に受け身になるのは望んでないんだ。きみにちゃんと感じてもらいたいし、それを確認したい。日常的なことだけじゃなく、セックスの面でも関係性のバランスをとりたいと思ってる。まあ……たまには“一方的”もいいけどね」
「うん、ぼくもやりすぎた。きみがあんまり可愛いもんだから、ついエキサイトしちゃったんだね」含み笑いをするポール。そら、彼のしっぽはこういうときに尖るんだ。
「そうだね、一方的なセックスをずっと続けるのはあまりよくない。それは間違いないよね。ぼくは“きみが感じているのを見ているだけでいい”って思ってた。けど、今はよくても、いずれはそれに不満を持つようになると思う」
「おれはそのあたりのバランスをとりたい」
「ぼくもきみにして欲しいことをきちんと言うよ」
「そうしてくれ」
「うん」
その会話の後、おれたちは実践を交え、明け方までずっと“ミーティング”を続けた。なにをして欲しいのか、して欲しくないのか。どうしたらもっと深く感じ合えるようになるのか……。一晩ですべてがオールマイティになるわけじゃない。それは不可能なことだし、もちろんそれはそれでいい。お互いを分かり合うための時間は、おれたちにはたっぷりある。これから何度も愛し合って、相手への理解を深めていく。男同士とか初めてだとか、そんなことにばかりとらわれていたおれは、セックスでいちばん大切なことを忘れかけていた。相手を感じ、自分を感じる。相手に与え、自分も受け取る。一緒に発見し、それを喜ぶ。相手の嫌がることはなにもしない。競争でも勝負でもなく、ただ互いに触れて、一緒に素敵な気分になるだけ。愛し合うことに男も女も関係ない。これはゲイであろうとストレートであろうと何らかわりはない、ごく当たり前の普遍的な愛の営みなのだ。
「ちょっ……ちょっと待て、ポール! う…ああっ……!」
悲痛な絶叫が止むと同時に、めちゃくちゃになったシーツの海から、ポールがひょっこり顔を出す。
「ごめんね。きみがイクとこ見たかったんだ」微笑みを浮かべたその表情。その“ごめんね”には、ちっとも誠意が感じられない。
未だ定まらない呼吸の下、おれはつぶやく。「……一方的なセックスはよくないんじゃなかったのか?」
「今のが一方的? ぼくはそう思わないけど。きみは嫌だったの?」
「嫌ってわけじゃ……」
「嫌ならそう言って。いつでもやめてあげる」ポールは片方の眉を器用に上げて見せた(しっぽは? 彼のしっぽはどこだ?!)。
「安心していいよ。きみが嫌かどうかはきみの身体にちゃんと聞いてるから。今のところ『ノー』とは言ってな……」言い終わる前に、彼の顔面に枕を押しつける。
「何するんだ!」笑いながら枕をどかすポール。
「そんなこと言うな!」
「だって本当だ! きみの身体は口より正直! 口では『ノー』って言うから、こっちは混乱するけど、どっちを信じるかって言ったら、きみのセクシーな身体のほうだよ!」
「うるさいうるさいうるさい!」
「大きな声! そっちのがうるさいってば!」
「いつかおまえをイカせてやるぞ!」
「ほらもう! 勝負じゃないって言ったのに!」
「いいや! これは勝負だ! ポール! おれはきみに宣戦布告する!」
「へぇ〜、じゃ覚悟しなくっちゃ!」
小憎らしいことおびただしい満面の笑顔。おれのボーイフレンドは何て奴だ! そういやバートもアーニーにはいつも悩まされていたっけ。どうして彼があんなに神経質な性格になったのか、今となってはわかる気がする。
おれの恋人は満足している。おれは恋人に満足している。おれたちは互いの善きパートナー。セサミ・ストリートのカップルの如く、長期的な関係性を築けるように、これからも自分と相手に正直であり続けよう。
二十代後半の男性を対象にしたアンケート『あなたが人生に望むことは?』で、上位を占めた回答のふたつを、おれは持っている。それは『安定した仕事と私生活の幸福』。
日中はオフィスで、夜は自宅で生き甲斐を感じることのできる生活。今は日中でオフィスワークの時間だ。今日も今日とて、メールが届く。それは恋人からの………じゃない? 添付ファイル付きのメッセージ。差出人はローマンだ。
差出人 : Roman Destiny
件名 : Suitable gift
ハロー、ミスター電光石火!
アノ最中、いざヤバいと思ったら、
この画像を思い出してごらんなさい!
効果のほどはバツグンよ!
愛の救世主、ローマン ;-)
ウィンクのフェイスマークから、画面をスクロールさせる。画面いっぱいに現れたのは、ひとりの男のポートレイト。シマシマのシャツと逆立った髪。細長い顔のまんなかにはオレンジの鼻………………。
『ローマンはプロのカウンセラー』『彼はとっても頼りになる人』。よくわかった。ポールはこの男を買いかぶっている。『テレビのセックス・カウンセラーに相談したわけじゃないんだし』だって? その方が百万倍マシだ!!!
メールをゴミ箱に移動しようとしたその瞬間、「ディーン・ケリー」と、背後から声がかかる。
「あなたの彼女は五歳なの?」
振り向かず、おれは答える。
「おれに“彼女”はいません」
「そう。支援プロジェクトの件は?」
「ペンディングです」
「先方にイエスと言わせるデータを集めてファイリングして頂戴。明日までに」
「……イエス」
デートなし。残業あり。会社のメールアドレスはやたらに人に教えないこと。
空は晴れ、空気は甘い。セサミストリートに引っ越したい。
いつかおれが死んだら、墓にはこう彫ってもらおう。
《デリケートで繊細な神経の男、ここに眠る》
この気持ち、バートだけはわかってくれるに違いない。
END
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