第3話:ヨガでシャンティ(What It Feels For a Girl)

「最近なんだか肌が荒れてきた」

「ビタミンはとってる?」

「サプリメントを毎日。でも効いてないな。たぶん新陳代謝がよくないんだと思うけど」

「不規則な生活してるんじゃないの? お酒は?」

「飲み過ぎないように注意はしてる。代謝がよくないところにアルコールを摂取したんじゃ、体脂肪計に嫌な結果が出るだろうし」

 今しゃべっているのはどちらも男。美容のことで悩むのは女性だけという時代は、遥か昔に終わりを告げた。

 動物は優れた種を後世に残すべく、健康で美しい相手を番の相手にと選ぶ。多くの男性が眉を整え、皮膚から角質を取り除き、カウボーイハットを捨てるに至ったというのはここ数年の自然な流れで、そこに多少の流行はありこそすれ、美しいものに魅かれることは、太古からある原始的感覚に過ぎない。顔面が脂ぎっていて、足の爪が汚れているのが男の証だと言い張るのならそれもいい。しかしそうした男性が“種の保存”を目論んでいる女性に選ばれるかは、今となっては怪しくなってきているのが現実だ。

『ハゲが嫌』『デブが嫌』『痩せすぎも嫌』『お尻は小さいほうがいい』

 これまでの女性蔑視の歴史を覆す勢いで、男性への要望を上げ連ねる女たち。『なんでわたしの彼氏はブラッド・ピットじゃないのかしら』という意見は行き過ぎだとしても、男であっても美しいほうが好ましいというのは、おれも共感するところ。

「そろそろ具体的な行動をしないと夏になってから後悔する羽目になるわよ」

 ここにいるのは“種の保存”の目的なしに、美に身を捧げたひとりの男。

「ご自慢のジバンシィで身体を隠せる季節は終わりつつあるんだから」

 おれのかわいいコートを侮辱する、素敵な友人ローマン・ディスティニー。

「あなたはお酒もタバコやるんだから、人の二倍は努力しないとね。ジムには行ってるんでしょ?」ボウルに入った豆のサラダをざくざくとかき混ぜながら彼は言う。

 ディナーの予約のテーブルは我が自宅。料理人はローマンで、おれはそのアシスタント(主に皿洗いと皮むき担当)。素敵なメニューはマクロビオティック。美容の話をするのにうってつけのコースだ。

「最近はサボり気味かな。仕事が忙しくて。終業後にローイングマシンを漕いだりする気力はとてもない……ガーリックはこのくらいでいい?」

「ええ、いいわ。別にボート漕ぎだけが運動じゃないでしょうに」

「きみは? なにかスポーツを?」

「セックスを少々」

「セックスはスポーツじゃないだろ!」

「知らないの? セックスは心と身体の健康にとてもいいのよ」

「ジム・プール・ジャグジー・セックスルーム完備……それってどこのスポーツクラブ? おれも入ろうかな」

「あら、あなた恋人いるじゃない? もしかしてまだセックスしてないとか?」

 きらりんと瞳を輝かせるローマン。セックスは彼が最も得意とする話題だ。

「おれにとってセックスはスポーツじゃないんだ。そんな詮索はやめて、なにかいいアドヴァイスをくれないか」

 ローマンの肩書きは『ビューティ・アドバイザー』。それは読んで字の如く、ビューティであり続けるためのアドヴァイスをする職業だ。かつてはポールと同じ美容室で働いていた彼だが、現在は独立。フリーランスでこの仕事をやっている。女性向けの雑誌にコラムを書いたり、金持ちのマダム相手に講座を開いたりするのがその内容だが、彼によると、ビューティ・アドバイザーの仕事は“職業”というより、“使命”に近いのだと言う。

「人々の美しさに従事するのがあたしの役割。言ってみれば“美のマザーテレサ”ってとこかしら」

 美容についてのアドヴァイスのみならず、人生相談のようなことまでやってのけるローマン。担当する美の範囲は実に広域で、そんな彼にとって“美しくあること”とは、“生きる”ことと同じなのだそうだ。

 茹でたニンジンをザルにあけながら、美のマザーテレサはアドヴァイスを続ける。

「そうね……セックスの他にジムにも通ってるわよ。これは基本ね。最近は太極拳にハマってるの。すごくすてきな中国人の先生。彼の動きを見ているだけで、時間があっと言う間に過ぎていくわ」

 下心のある生徒に動きを凝視される。タイチーの達人ともなれば、激しいセクハラにも耐えられるような、強靭な精神力を備えているのだろう。たぶん。

「それ以前にはヨガをやっていたわ」とローマン。「そうだ、あなたヨガなんかどう? “ローイングマシンを漕いだりする気力はとてもない”って人にはオススメよ」

「ヨガか……」

「陰と陽のバランスをとって、心拍数を整える。きちっとやれば目覚ましい効果があるのよ。もし興味があるんなら、お教室に紹介状を書いてあげる」

「紹介状? そんなものが必要なのか?」

「そこはクオリティを落とさないよう、会員数を限定しているの。客層もアッパークラスの人がほとんどだから」

「アッパーなゲイばっかりじゃないだろうな」

「お馬鹿。わたしの顧客ご用足し教室よ」

「アッパーな家庭の主婦連ってわけか」

「主婦ばかりってわけでもないのよ。そこが嫌ならわたしの元彼がやってる男性オンリーの教室を紹介してもいいけど?」言って、ニンジンをフードプロセッサーにかける。けたたましい音に会話は中断された。

 男性オンリーの教室はともかく、何か手を打ったほうがいいのはわかっている。酒もタバコも辞める気はないし、ジバンシィのコートで身体を隠す季節は終わりつつある。

 先行きを考え込んでいるところにポールが帰宅。カラフルな豆のサラダを覗き込み、「おいしそう」と、笑顔を見せる。

「なにか手伝うことはある?」と、ローマンを見るポール。

「ありがと。でももうほとんど終わってるの。あとはワインを開けるくらいね」

「マクロビオティックでアルコールなんだ?」

「そうね、ほんとは駄目なんだけど。これでお酒も禁止したんじゃ、あんたの彼氏が暴れ出すかと思って」

 “あんたの彼氏”。それはもちろんおれのこと。かつて友人同士だったおれとポール。恋人同士へと昇格したのはつい最近のことだ。

「禁酒法でおれが暴れ出すって? まあいいさ、“ディーンのせいでテーブルに酒がある” 今日のところはそういう話にしてやってもいい。罪のあがないを一身に受ける……おれはジーザスのように憐れみ深いよ」

 哀れっぽく天を仰いでみせるおれに、ポールはくすくすと笑いながら「着替えて来るよ」と言って、頬に素早くキスをくれて、自室へと消えた。

 おれの愛すべき恋人。醜く太って彼を失望させたくはないし、荒れた頬にキスをさせたくはない。眉を整え、角質を取り除き、カウボーイハットをゴミ箱に捨てる。それら一連の行為は、自分が心地よくいられる位置を求めた結果だが、今のおれにとってはそれだけでもない。恋人との幸せな生活を営むという目的も、幸いここには含まれているのだ。



 そのヨガ教室はアップタウンのど真ん中にあった。厳密に言えば、“ど真ん中”に位置しているのはセントラルパークで、教室はその隣のセントラルパーク・ウエスト。それはまあ、ほぼ“ど真ん中”と言って差し支えない場所だ。

 “ローマンの顧客ご用足し”。そうであればもちろんアップタウンだろうと思ってはいたが、正直ここまで“アッパー”だとの予測はしていなかった。住所を頼りに辿り着いたのは、プリウォー(戦前の建物)の巨大な建造物。幾何学模様で縁取られた入り口から、広々としたエントランスへ。百合の花を逆さまにした形のシャンデリアに迎えられ、ホールの窓には直線的なステンドグラス。習い事の教室と聞いてイメージしていたのは、雑居ビルのこぢんまりした一室というものだったが、ここには“こぢんまり”という言葉は少しも当てはまらない。モダンなアール・デコ様式は、そのオプションにヨーコ・オノがついていても何ら不思議のない佇まいをみせている。

 大戦前から可動しているとおぼしきエレベーターに乗り込み、ローマンが書いてくれた紹介状の封筒をカバンから取り出す。会員数は限定。建物はアール・デコ。そして紹介者はローマン・ディスティニー。このキーワード、最初のふたつだけならば、なにもおかしなところはないのだが、最後にくっついた名前がこれとなると、どうもニュアンスが変わってくるような気がしないでもない。

 おれを“真性ゲイ”にしたがっているローマン。この真っ白な封筒の中身が、紹介状であるという保証はどこにもないのだ。

 そう、例えばこんな内容↓

 ─── 委任状 : 借金のカタにこの男をお渡しします。煮て食うなり焼いて食うなりお好きにどうぞ。From ローマン ─── 

 アール・デコはおれの不安をかきたてる。部屋のなかにいるのが、ぴったりしたタイツを履いている男ばっかりだったら、回れ右して帰ることにしよう。



 金のプレートに書かれた『YOGA』の文字を確認し、自動ドアを通る。そこは普通の小さな部屋だった。グレーのカーペットとシンプルなデスク。照明器具は色気のない蛍光灯。額に入ったヒンドゥーの文字だけが、唯一ヨガの雰囲気を醸し出してはいるが、「ここは会計事務所です」と言われたら、きっとおれはそれを信じたことだろう。

 奥には丸窓の扉が見える。どうやらここは前室で、その先が教室。対応に現れたのは二十代とおぼしき東洋人女性だ。アリエルと名乗った彼女(幸い足はあるようだ)は、おれが封筒を差し出すより早く、「ケリーさんですね」と身柄を確認し、「お話はローマンから伺っています」と笑顔を浮かべた。

『どんなお話ですか』と聞きたくなるのをぐっとこらえ、こちらも笑顔で、宜しくと応える。震える子鹿を思い起こさせるアリエル。彼女はどう見てもゲイのコミュニティの住人には見えない。しかしだからと言って、まだ油断はできない。防音の二重扉。問題はあの奥なのだ。

「まずは見学をなさいます?」とアリエル。

「ええ、ぜひ」

『ぴったりしたタイツを履いている男ばっかりだったら、入会を思い留まろうと考えているもので』と、言いかけてやめる。もしそれが事実だとしたら洒落にならない。

「では、どうぞ。こちらです」

 促されついていくと、それは想像以上に広々とした部屋だった。鏡になっている壁面にはバーがしつらえてあり、その前ではインストラクターの女性が片足を高く上げ、ポーズについてのレクチャーを行っている最中。十数人いる生徒たちは座してそれに耳を傾けている。皆こちらに背を向けているが、鏡に写った顔を確認するまでもない。室内の人口は、百パーセント女性だった(約一名、おれ除く)。

 カラフルなレオタードとTシャツの群れを見つめながら、「ここは女性ばかりなんですか?」と、アリエルに質問する。

「男性もいらっしゃいます。あまり多くはありませんが」

『それは素敵ですね』と、言いかけてやめる。このリトル・マーメイドに不必要な不審感を抱かれるのは、あまりいいこととは言えないだろう。

 アリエルは折りたたみの椅子をおれに勧め、「しばらく見学なさってください」と、前室へと姿を消した。その五分後、おれは入会申込書にサインをする。本当はそんなに時間をかける必要はなかったのだが、教室に入るなり「宜しくお願いします」と言うのは、いかにも下心があるように受け取られかねない。

 あえて言うまでもないと思うが、おれにあるのは下心ではなく、健康になろうとする意欲だ。健康になるには環境ってものがとても大事で、このクラスはそれにふさわしいと判断したまで。少なくとも自分は“ぴったりしたタイツの野郎ども”に囲まれて元気になる体質は持ち合わせてはいないわけで、おそらくローマンはそのあたりを考慮してくれたに違いない。持つべきものはよい友人。借金のカタにされるなどと疑って済まなかった。素直な感謝と謝罪の心。彼に対してそういう気持ちになるのは珍しいことだ。まだ座禅すら組んでないのに効果があった。ヨガとはずいぶんあなどれない。



 何度も腕時計を確認し、急ぎ仕事を切り上げようとするおれに「今夜はデートなんでしょう?」と、同僚が言う。彼女の勘違いを正し、これからヨガ教室なんだと答えたところ、すぐ近くでキーボードを叩いていた男が、唇の端で笑うのが視界に入った。きっと彼はこう思ったはず。『男がヨガだって? は・は!』

 オーケー、笑いたきゃ笑え。おれには残業手当より、もっと大切にしたいものがある。誰もいないオフィス。おまえは残業の合間、怪しげなウェブサイトにこっそり接続し、こう思う。『ああ、こんなところ抜け出して、どこか別の世界に行きたい。バドワイザーのコマーシャルみたいに半裸の女性に囲まれて……』

 大抵の男はそうしたドリームが現実化することを信じていない。夢想は夢想。ついこの間までは、おれもそう思っていた。

『男がヨガだって?』そんな固定概念を持っているような奴は、決して入れない秘密の扉。おれはその奥に突き進む。バドワイザーのCMよろしくネクタイを外し、アール・デコへと身をゆだね。健康になろうとする意欲は素晴らしい。教室へ向かう、おれの笑顔がそれを証明していると思わないか?



 着いてまずさせられたのは、自分の“カラー”を選ぶことだった。

「この中からお好きなカラーをお選びください」

 アリエルのデスクの上に広げられたヨガマットは赤、青、黄色。オレンジ、グリーン、ネイビー、パープル……。どれもビビットな原色だ。色自体は悪くないが、この上で座禅を組んだりすることを思うと、もっと落ち着きのあるカラーリングの方がいいような気がする。黒とか茶みたいな色はないんですかと訊ねると「ありません」というそっけない返事。気乗りしない様子でヨガマットを眺めていると、アリエルはフォローするように、言葉を少し付け足してくれた。

「カラーはエネルギーを高めてくれる重要な役割を担っているんです。これらの色はそれぞれ意味があって、それはチャクラの色を表しています。黒や茶色は人間のオーラにはあまり適さないカラーですから、ここでは採用していないんですよ」

 なにか今、なじみのない単語をいくつか耳にしたと思うが、とりあえずここは聞き返さずにスルー。こうした謎の呪文も、教室に何度か通うち、難なく聞き取れるようになるのだろう。

 アリエルはおれの選んだマットを見て、納得したといった様子でにっこりと微笑んだ。

「藍色ですね。これはスピリチュアリティと結びついているカラーなんです。チャクラでいうと眉間の部分です」

 おれにとってネイビーブルーの意味するところは『他のカラーと比べ、汚れが目立たない』というものだ。選択の理由としちゃ、これもなかなか悪くない。

「ケリーさん、なにかフレグランスをつけてらっしゃいます?」

 おれがイエスと答えると、アリエルは申し訳なさそうな表情で、ここは香水の類いは禁止なのだと教えてくれた。

「特定の匂いが駄目という方もいらっしゃいますし、ここでは人に触れる実習もありますから。アロマ療法を使用している方は別ですけど……。これは先週、お伝えしておくべきでしたわね。ごめんなさい」

 アロマ療法というのが何かは知らないが、たぶんおれはやっていない。香水と暗い色のシャツは禁止。心に留めておくことにしよう。

 ヨガマットを小脇に抱え、広々としたスタジオに足を踏み入れる。暖かみのあるフローリングを裸足に感じ、(この“暖かみ”は心象的感覚によるものではなく、床暖房の効果であることは後に知った)窓の近くに場所をとる。景色はセントラルパークの濃いグリーン。反対側の廊下に出れば、ハドソンリバーの夕陽が見える。これぞまさにアッパーな空気*(注 : *アッパー・エア=“高層大気”という熟語)さすがバカ高い入会料金をふんだくるだけのことはある。

 インストラクターはチャーリー。男名前だが性別は女性。ボール状にした髪の毛を頭のてっぺんに冠したその姿は、ヨガ伝道の師というより、バレエダンサーといった様相だ。子供の頃、バレエを無理矢理やらされて以来、おれはタイツに嫌悪感がある。もしここでその着用を義務づけられていたら、たとえマドンナがインストラクターにつこうとも、このクラスを諦めざるを得なかったはず。幸運なことに服装の自由は認められており、Tシャツとスウェット・パンツ姿(それはスポーツジムと同じ格好だ)のおれは、他のTシャツとスウェット・パンツらの間に場所をとり、適当なストレッチをし始める。しばらく身体を動かしていると、ひとりの女性がおれのとなりにマットを敷いた。

「ハイ」と挨拶をする彼女。こちらも同じく「ハイ」と返す。白っぽい金髪をひとつ結びにしたこの女性。年齢はどうみても二十代前半──もしくは十代の後半くらい。ここの会費を払っていけるということは、きっと親がアッパーなのだろう。『主婦ばかりってわけでもないわよ』と、ローマンは言っていたが、チラホラ若い女性もまざっているところを見ると、確かにそのようだ。

 彼女は両足を伸ばし、ゆっくりと上体を前屈させた。胸を膝に密着させ、そこから開脚して、床に胸をつける。まるでストレッチのお手本。なんて柔らかい身体なんだろう(無論、これは関節のことを指す。表皮については見ただけじゃわからない)。

 おれはといえば、その隣で、ちまちまと身体を動かしているだけ。場所を移動したい気持ちに駆られつつ、『ローイングマシンを漕がせたらおれのほうが長く持つんだからな!』と、密かに自分を慰める。

「あなたが新しい生徒さん?」

 頭上から降ってきた言葉に振り向くと、茶色の髪を後頭部にまとめた、細身の女性が立っていた。目を見開き、こちらを見降ろす彼女。その顔には『へぇー!』と言う感嘆詞が刻まれている。

「男性なんて珍しいわ。ねぇ、ターニャ。そうじゃない?」

 “珍しい男性”を無視し、細身の女性はおれの隣に話しかける。ストレッチのお手本は顔を上げ、「そうね」と応じ、こちらに向かって笑顔を見せた。

「わたしはターニャよ。はじめまして」

 彼女が自己紹介すると、立っていた女性も腰を降ろし「わたしはマーガレット」と、

挨拶をした。

「おれはディーン。よろしく」

 笑顔と挨拶が交錯する。習い事教室は新しい友達を作るのにもってこいの場所だ。

「男の人が入ってくれて嬉しいわ」と、細身のマーガレット。「ここのクラスは男性が少ないでしょ? 陰と陽のバランスをとるためにも男性エネルギーはどうしたって必要なの。あなたのおかげで室内のエネルギーは活性化すると思うわ。ありがとう」

 部屋の中にいるだけで女性に感謝される。こんなことめったにあるもんじゃない。それにつけても残業を蹴ってよかった。

「アメリカではヨガをやる男性はまだまだ少ないわ」と、マーガレット。「このクラスでも男性で続けられる人はほとんどいないの」

「他に男性の生徒は?」

「ひとりね」

 ひとり? たったの? 確か先週、アリエルは『男性もいらっしゃいます。あまり多くはありませんが』と言っていたと思うが……。“あまり多くはありません”とは、“約一名”という意味だったのか。情報をぼやかして彼女が言ったのは、事実を知ったらおれが入会を取り下げるとでも思ったのだろう。配慮は有り難いが、おれの“健康になろうとする意欲”は、そんなことではくたばらない。どちらかと言うと、それは活性化するくらいなんだから。

「仕方ないわ」と、ターニャが言う。「男性はもっと激しいスポーツが好きなのよね?」

 “のよね?”ってことは、おれに質問してるんだよな?

「たしかに。そういう傾向はあるかもな」全男性を代表し、おれは答える。「汗を流して肉体を痛めつける……そうでないと運動をやっている気がしないのかも」

「マッチョよね」言って、マーガレットはきつく顔をしかめる。「どうして男性が激しい運動を好むかって、要するに彼らはエネルギーを発散したいだけなのよ。このマンハッタン、道ばたで喧嘩してるのはたいがい男よね。あれも同じこと。喧嘩の理由はなんだっていいんだと思うわ。抑圧されたさまざまなものを出せさえすれば、きっかけはなんでも。女性は社会的にも、欲しいものを欲しいと言える立場にあるけど、男性はそうもいかないことが多いわよね? そのことには同情するけど、だからといってそれを暴力に変えて表現するのはどうかと思う。世の中からどうして戦争がなくならないかわかる? あれこそもっともわかりやすい形。いろんな抑圧が形を変えて、圧縮されたガスみたいになって吹き出した結果なの。政治家はみんなヨガをやったほうがいいのよ。自分の内側に平安があると知れば、戦争なんてとてもやってられないと気付くんだから」

 あまたの戦争は男の欲求不満のせい。彼女はイデオロギーの対立や、国家の独立、経済問題について明るくないのだろうか。とはいえ、ここでマイケル・クレア*ぶって反論をするのはそれこそマッチョと受け取られかねない。(*マイケル・クレア=軍事評論家)社会に対し意識的なマーガレット。目の前にいる人間が、今しがたボロクソに言った“男性種”であることにはあまり意識がないようだ。

 おれはクールに、「男性にとっても女性にとっても、平和な時間ってのは等しく必要だろうね」と述べてみた。このあいだまでしゃかりきにローイングマシンを漕いでいたのを忘れたかのような口ぶりだ。「エネルギッシュな部分はそれとして、自分の中の穏やかさともバランスがとれれば理想的だと思う。それを意識して求めるかはまた別だろうけど、自分に関して言えば『イエス、必要です』ってとこかな」

「そう。まったくそうなのよ」マーガレットはブラウンの瞳を大きく見開いた。「世の中にあなたみたいな正直な男性がもっと増えてくれればいいのにって思うわ」そばかすの顔に微笑みを浮かべ、立ち上がる。社会的抑圧の下に置かれた欲求不満の男性にしては感心だと思ってくれたようだ。

 気がつくと、いつのまにかターニャはストレッチをやめ、こちらを見てにっこりと微笑みを浮かべていた。マーガレットは紫のマットで、ターニャは赤。それらカラーの意味は不明。どっちかが恋人募集で、どっちががゲイとかそういうんじゃないだろう。アリエルのうんちくをちゃんと聞いておけばよかった。

 チャーリーがちりりんとベルを鳴らす。穏やかな開始の合図につられ、集まる生徒たち。マスターも女性。生徒も女性。本日の陰と陽の比率は、“99パーセント陰”と確定。

 おれはマーガレットに聞かれないよう、ここに来た本当の理由を小声でターニャにつぶやく。

「平和な時間……と、体脂肪を減らす効果もあれば最高」

 ターニャは前方に顔を向けたまま、くすっと笑いを漏らした。

 男性であっても女性であっても、平和な時間は等しく必要。世界の平和を願うのであれば、まず自分を幸福な状態に置いた方がいい。多すぎる脂肪や肌荒れは、おれの幸福にはお呼びじゃない。豊かな頭髪と艶やかな肌。自分に関して言えばそれらは───『イエス、必要です(切実!)』に決まっている。



 男女問わず、平和な時間は必要である───。

 仕事でくたくたになって、ボートを漕く気力も湧かない奴には尚のことそれが大切だ。そうは思っていたが、今ここにある平和の種類はおれが予想し、求めていたものとはずいぶん違う。レッスン終了後に始まったのは、生徒たちによるティータイム。スタジオの床にシートを広げ、お茶と菓子を広げ始める生徒たちをぼんやり眺めていると、カミラがおれを手招きした。

「ディーン、ここにお座りなさいよ。今日はあなたの歓迎パーティにするから」

 フランス革命を思い起こさせるゴージャスなマダム。そんな彼女から『あなたの歓迎パーティ』と言われては、断るわけにはいかないだろう。ハーブティと甘くないカボチャのクッキーを相伴に預かり、ピクニックとハタヨガの関係に思いを巡らせていると、おれの隣にターニャがやってきた。

「今日はオートミールのクッキーよ」言いながら、紙ナプキンを広げ始める。「でも初めて作ったからあまり上手にいかなかったんだけど」彼女が前屈みになると、ペンダントの先端にあるターコイズが重たげに揺れた。

「ディーンも、よかったら食べて」

 薦められ、素朴な色合いのクッキーを口に入れる。ちょっと固めだけど味は美味しい。そう伝えると、彼女は「よかった」と、嬉しそうな顔をした。

 クッキーを咀嚼し、おれはターニャに話しかける。「ひとつ質問があるんだけど」

「なあに?」

「さっき先生は“インナーチャイルド”って言葉を使ったよね? それっていったいどういう意味?」

「そうね……なんて言ったらいいかな……」質問を投げかけられ、思案げな表情になるターニャ。青いターコイズは胸の谷間に落ちている。

「簡単に言うとね。それは“子供時代に満たされなかった感情”のことよ」そう答えたのはターニャではなく、マーガレットだ。おれたちの背後から、見下ろすような格好で立っている。

「かわりに説明していいかしら?」と、マーガレット。ターニャが軽くうなずくと、彼女は同じ位置でしゃがみ、話し出した。

「インナーチャイルドは誰しもが持っていて、それは深層心理に子供の姿で住み着いているの。“もっと愛して欲しかった”とか、“理解されなくて悲しかった” とか。自分の中の癒えていない子供の部分を指す言葉ね。その子が何を欲しているか、わたしたちは注意深く耳を傾ける必要があるの」

「それはどうして?」マーガレットがミネラルウォーターを口に含んだのを見計らい、おれは質問を差し挟んだ。

「インナーチャイルドが持つ不安感は、人生を構築するのに大きくかかわってくるの。普段は意識していない不安な気持ちを放置しておくと、いずれそれは恐怖に、悲しみに、妄想に変わる。恋人を束縛したり、子供をコントロールしようとしたり、ついには精神に異常をきたすようになってしまうのかもしれない。物質的なものを代替えにしようとする人もいるわね。高級車に高級時計、海のそばの別荘……。そうすることはきりがないわ。根本的な問題を解決するまでそれは続いていくんだから。だからわたしたちにはインナーチャイルドと対話することが必要なの。虚しい人生を歩みたくないのならね」説明し終え、満足げな微笑みを浮かべるマーガレット。

 “虚しい人生”というのがおれを指す言葉じゃないのはわかってる。わかっているが、なんとなく座り心地が悪くなってきた。

「矮小な者に見られることを人はひどく怖れている」とマーガレットは言う。「デザイナーズもののアイテムを持っていれば、自分が少しマシになったような気がするんでしょうね。マンハッタンに住んでいる人のほとんどはこの病気にかかってるのよ」

 マーガレットにかかると、ほとんどの人類はバッサリと切り捨てられる。その説によると、高級アイテムは子供時代の満たされない欲求のあらわれというわけか。ロッカールームにあるおれのブルガリの腕時計を見たら、彼女はなんと言うだろう。ここでは金銀財宝は罪と不安の象徴でしかない。ジーザス曰く、『金持ちが幸福になるのは、ラクダが針の穴を通るより困難である』。とはいえ、ここのメンバーは誰をとっても“貧しき者”というわけではなさそうだ。

「インナーチャイルドとの取り組みは、あるがままの自分になるってことも含まれているのよ」そう言葉を発したのはターニャだ。「理論として聞くと難しく感じるかもしれないけど、実際はそうでもない。わたしたちはヨガで楽しく身体を動かすことで、今言ったようなことを自然に解放できるようにしているの。自分を知ることは苦行じゃないわ。少なくともわたしにはこの方法が合っていて、それはとても楽しいことね」

 にこっと笑みを作るターニャ。間接的に人身攻撃を受けたと感じていたおれは、そのコメントと微笑みに、“座り心地”をとりもどす。

「ディーン、お茶をもう一杯いかが?」カミラがポットを差し出した。保温ポットを持つ彼女の手指には、巨大な宝石が輝いている。おそらくこれは“子供時代の満たされない欲求のあらわれ”とは何の関係もないものなのだろう。

 カップにカモミールティを注ぎながら「ディーン、ひとつ聞いていいかしら?」と、カミラ。

「何でしょう?」

「ご結婚は?」

 人生の意味と自己の解放についての話題から一転。いきなりの世俗的質問に若干、面くらいつつ、おれは答える。

「いえまだ。今は友達と同居を」

「彼女?」カミラの目がきらりと光る。

「いえ、彼は……」

「そうなの」

 最後まで言い終わらないうちに『そうなの』ときた。“彼”と言っただけで情報は充分。“ボーイフレンド”という単語は出なかったが、皆はそうだと解釈したに違いない。プロフィール欄に『女ばかりのヨガ教室に通っている』と書けば、そこから“ゲイ”という単語を導き出してもなんら不思議はないわけで、もしかしたら、もう一人の男子生徒(今日は姿を見せていないが)もゲイなのかもしれない。

 結婚についての問いがタブーではないことに勇気を得、おれはターニャに「きみは何をしているの?」と、職業についての質問した。

「学生よ。ブルックリンの学校で建築を勉強しているの」

「ブルックリン……もしかしてプラット?」

「そうよ、当たり。よくわかったわね?」

「ブルックリンで建築って聞けばね。友達がそこに通ってたから。おれはSVAに在籍してたんだ」

「ほんと? わたしの友達もSVAよ。スージー・ハナっていうの。聞いたことない?」

「おれが学生だったのは、もっとずっと昔のことだから」

「そっか。そうよね。あなたは何をやってるの? アーティスト?」

「絵には関わってるけどね。描くんじゃなく、売る側に回ったんだ」

「絵を売ってるの? へえ……パッと見はモデルとかかなって思ったけど」

「モデル? 絵画の?」

「そうじゃなくて、ファッションとかの」

「ああ」

「ここ、モデルの人も多いから。ほら、あそこにいる彼女……ジェンはモデルよ」

 ターニャが目で示した方を見ると、そこには黒人の女性がひとり、ピクニックにも加わらず、黙々とストレッチをしている。痩身で筋肉質。すらりとした長い手足。胸は平ら。ヨージ・ヤマモトのジャケットが似合いそう。

「ね、彼女かっこいいでしょ?」とターニャ。

「そうだね」

 頷いて同意したものの、おれの個人的好みからすれば、もうちょっとルネサンス的おもむきがあったほうが好ましい。押せば戻るような弾力と柔らかな皮膚。そう、例えば今、おれの隣にいる女性のような……と、視線をターニャに戻すと、彼女はジェンを見つめたまま「わたしは太り過ぎだし。ジェンがうらやましい」と、ため息をついた。

「きみが太り過ぎだって?」

「そうよ。だからヨガに通ってるんじゃない」

「太り過ぎ……そうは見えないけどな」

「ディーンはわたしの裸を見てないからそう言うんだわ」

 “ディーンはわたしの裸を見てない”───その表現に若干ぎょっとさせられたものの、努めて平静を装い会話を続ける。

「ええと……なにかの本で読んだんだけどさ。“女性の理想体型”についてデータを取ったところ、アメリカの平均的男性が思い描くそれは、女性が考える“理想体型”よりも、はるかにボリュームがあるものなんだそうだ。ほとんどの女性は痩せ形を理想視していて、それは『男性は痩せている女性を好む』との思い込みから発生したりもする。しかしそれは偏った物の見方で、全体的な客観性には欠けている。男女の間のイメージの隔たりは、その関係性においての誤解の元……その著者はそう警鐘を鳴らしていたね」

「そうなの? でも“おデブちゃんと付き合いたい”って思う男性が、そう多いとは思えないけど」

「そら、それこそが思い込みだ。きみは“おデブちゃん”じゃない。おれもアメリカの平均的男性だからな。きみの“太り過ぎ発言”には警鐘を鳴らすよ」

 男の恋人を持つ男が、“アメリカの平均的男性”に数えられるかといえば些か疑問だが、ついこの間までのおれは女好きだったわけだし(まあ今でもそうだが)、女性の体型論にまつわるアンケートに参加する資格がないわけじゃない。

 体型の話題、精神世界の話題、“ご結婚は?”の質問、そしてハーブティ。ヨガはもちろんのこと、どれもこれも、今までのおれの人生には存在しなかったものばかり。どうもヘンな感じだが、しかしそう悪い気分でもない。ここには争いもプライドもなくて、温かいお茶とおしゃべりがあるだけ。ローマンが開いている美容セミナーもこんなだと聞くし、もしかしてこれはかなりゲイっぽい? もしくはとっても女の子っぽい? こういうのってどう思う?───と、こちらが意見を求めるより先に、ポールは「ヨガはどうだった?」と、待っていたかのように質問を振ってきた。

「よかったよ。ヘルシーなチリビーンズのレシピをもらった」

 差し出すレシピのメモを眺め、彼は首をひねる。

「チリビーンズ? 何、やっぱり主婦連が大多数ってわけ?」

「若い学生もいたけど、大半はおれと同世代か、もっと上だな。今日のところは男はおれだけ。チャクラとインナーチャイルドの花畑でピクニックだ」

「インナーチャイルド……かなりディープな会だね、それは」

 ポールはインナーチャイルドという単語を知っていた。彼は様々なジャンルに造詣が深い。

「マントラも教わったぜ。『シャンティ、シャンティ、シャンティ、オーム……』オームは万物の始まりと終わりの音で、シャンティはヒンドゥー語で平和を意味するんだそうだ。知り合いにシャンティって名前の女の子がいるけど、そういう意味だって初めて知ったよ」

「どう? 続けられそう?」

「ああ」

「そうか、よかったね」

 先に済ませておいて構わないと言っておいたにも関わらず、ポールは食事をせずに待っていた。ルッコラのサラダとビーツのシチュー。香草たっぷりのグリルドチキン。これすべて、かつては生きていたものばかりなり。ワークの最中、チャーリーは『再生する』という言葉を何度か使用していた。食事というのは再生の一部と言えなくもない。かつてあった命。それらはおれの胃に入ることで、まったく別のエネルギーへと形を変えていく。ライオン・キングでエルトン・ジョンが歌った通り、これは生命の循環(サークル・オブ・ライフ)のうちのひとつであり、またおれ自身、生きながらにして再生の手順を踏んでいる。

 肉体を構成する細胞は毎瞬毎瞬入れ替わり、胃の粘膜は三日、皮膚は一カ月をかけて新しい組織へと交代し、硬い骨すらも二年半でオーバーホール終了。そうだとすると、三年後の自分は今とはまったく違う細胞で構成されている計算になる。

 古いものは死に、まったく別なものへと変化を遂げる。おれに関して言えば、今日は小さな再生の日。ローイングマシンの上で汗を流しているディーンは死に絶え、復活せしはハタヨガの使途ディーン=ケリー(ハイフンでつなぐのがポイントだ)。

 死がすべてに組み込まれたシステムであるならば、Xデーまでは、せいぜい楽しくやっていきたい。恋人の作った夕食。それに舌鼓を打つ幸せ。すべてはサークル・オブ・ライフの意のままに。皿の上のチキンがニワトリの天国に昇ることを祈りつつ。



 主婦、モデル、カメラマン、フードコーディネーター、ダンス教師、建築科の学生……どんな肩書きを持っていても、ここでは等しく扱われ、さらには男女差すらも平等視される。富む者と、持たざるべき者。ここも同列だろうとは思うが、初日にマーガレットの解説を聞いてしまうと、エレベーターに乗る前から、ブルガリを外さないではいられない。

 悠久の時を支配するヒンドゥーのヨガ。そこには腕時計なんて必要ない。ヨガマットと良質のミネラルウォーター、それに学ぼうとする尊い意志。この三つさえあれば、足りないものなど他にないのだ。

「ハーイ、ディーン」

 気さくに挨拶し、となりにマットを広げるターニャ。二週間前、おれがクラスに通い始めて以来、彼女はここを定位置と決めているようだ。

「今日はちょっと変わったことをやるのよ。わたしの大好きな実習なんだけど」

「へえ、それってどんな?」

「教えない。それは後のお楽しみよ。言っちゃったらツマンナイでしょ?」

 いたずらっぽく微笑む彼女。もしおれに妹がいたらこんな感じだろうか。

 ターニャの大好きな実習とは『ジャガーナー』と呼ばれるもので、それはヒンディー語で“目覚め”という意味。そのやり方はとても簡単。生徒たちはパートナーと組みになり、ペアの片方が目隠しをする。目隠しをしていない者は誘導する側で、パートナーに“体験させること”が、その役割。

 チャーリーの説明はこうだ。「あまりにも長いこと使用されたわたしたちの目は、ときに先入観や疑惑のフィルターにより、曇ってしまうことがあります。ここでは純粋に触覚だけを感じ、そこで得られるまったく新しい体験、新しい感覚に身をゆだねてみましょう」

 どう? 素敵な実習だろ?

「それでは各自、パートナーを選んで」

 おれのパートナーはカミラ。ターニャを選ぶと思った? もちろんその可能性もないわけではなかった。おれたちが無言で目を見交わしたその一瞬、カミラがおれの手を掴んでなければ、それはおそらくそうなっていただろう。

 各自、向かい合わせになって座るパートナーズ。最初にアイマスクを装着したのはおれの方。視界が遮断されると、それ以外の感覚は鋭敏になるものだ。なぜ知っているかって、かつておれはこれと似たことをやったことがある。数年前に付き合っていたシャーロット=アン。名前こそ古風だが、彼女はとても発展家で、セックスに奔放な女性だった。おれたちはベッドで──ときにはそれ以外の場所でも──さまざまなアイディアを実践し、生命の神秘に畏敬の念を捧げることに多くの時間を費やした。この『目隠しゲーム』は、そのアイディアのうちのひとつ。古典的なネタではあったが、実際やってみるとずいぶん素敵で(やはり古典は古典たる所以がある)それは長いことおれたちの“お気に入りメニュー”として活用されることとなったほどだ。

「今から言葉は一切使用しません」と、チャーリー。「お互いは無言でコミュニケーションをはかります。相手に対し、敏感になってみましょう。喜んでいるのか、嫌がっているのか、パートナーの気持ちに注意深くあってください」

 カミラはおれの手に、そっとコインのようなものを握らせた。

 なんだろう? 5セント? 10セント? そもそもこれはセント硬貨なんだろうか?

 視覚を奪われて不安になる幼子たちに、チャーリーは穏やかな口調で誘導をしてくれる。

「自分の感覚を怖れないで。ただ子供のようにそれを感じましょう。もしかするとあなたは、“いま手にしている物は何だろう?”と、忙しく考えているかもしれません。そうすることはさほど重要ではありません。頭のスイッチをオフにして、ただ純粋に触れることを楽しんで。内なる子供が遊ぶにまかせましょう」

 なるほど。これはニッケルかダイムかを当てっこするゲームじゃない。おれは考えを放棄し、ただコインの重みを感じて、その感触を指で確かめ味わった。

 コインの次は柔らかな鳥の羽根。毛だらけのキウイフルーツ。硬くてすべすべした石。かさかさした枯れ葉……。どれも初めて触れるものではないはずだが、それらアイテムは新鮮な驚きに満ちていた。スライムのような謎の物体を手の平に乗せられたときは、思わず手を引っ込めそうになってしまったが、感触を味わううち、それもなかなか面白いと──むしろ好ましいとさえ──思えるようになってきた。

 毛皮とおぼしきものが手の平に乗せられると同時に、手首を掴むカミラを感じた。柔らかでしっとりとした手の感触。ただそれを感じていると、彼女はそれを握ったまま、おれの腕の付け根に向かって、ゆっくりと手を動かし始めた。ここでは人に触れる実習もあるとアリエルが言っていたが、これがそうなのか。こんなふうに触れられては、“ただ子供のようにそれを感じる”のは難しい。チャーリーは『パートナーに対し、敏感でありつつ、その気持ちに注意深く』と言っていた。カミラはパートナーの気持ちに注意を向けているだろうか? 少なくとも、こちらが相手に敏感になっているのは間違いないが。

 彼女の手がTシャツの袖から潜り込み、あと数インチで脇の下に届こうというところで、「それではアイマスクをとってください」と、チャーリーが言った。その指示がもうちょっと遅れていたら、おれとカミラは抱き合って床を転げ回り、無言のコミュニケーションをはかっていたことだろう。

 光を取り戻し、最初に目の前に見た光景は、レオタードに押さえつけられたカミラの胸だった。うちのママよりはるかに巨乳(インナーチャイルド! おすわり!)。視覚を持っていた方が、この世界はより楽しいということが、この実習ではよくわかった。

 今度はカミラが目隠しをする番。次に使うのは嗅覚だ。アリエルがいくつものジップロックを皆に配り始める。入っているのは薔薇の花、コーヒー豆、輪切りにしたバナナ、新鮮な松葉、白檀、油っぽい獣の皮……などなど。アイマスクを装着していないパートナーは、好きなアイテムをランダムに選び、それを無言でパートナーの鼻の下にもっていく。カミラはバニラビーンズにうっとりとした表情を見せ、擦ったマッチに顔をしかめた。シナモンスティックを差し出そうとしたところで、それは起きた。何の前触れもなく、おれの肩へと倒れ込むパートナー。そのまま首筋に顔を埋め、思い切り息を吸い込む───。一瞬、何が起きたのかわからなかったが、どうやらこれも実習の一部。チャーリーが警告してこないところを見ると、このプレイは注意が必要なレベルに達しているわけではないらしい。となりにいるターニャは目隠しをしていた。そのことになぜかほっとする。

「自分の感覚だけを信じ、それにすべてをゆだねましょう」

 そんなチャーリーの指示を受け、おれのインナーチャイルドはラッパを吹いて、パレードしはじめ………いや、そうじゃないだろ。“子供のように純粋に”。それがこの場所の大前提。平和な牧場に悪い狼が紛れ込んでいると知ったら、羊たちはメエメエ悲鳴をあげるにちがいない。心でシャンティのマントラを唱え、カミラの皮膚を“感じないよう”努力する。

「あなた、とてもいい匂いがするのね」

 アイマスクをとった彼女、開口一番そう言った。

「でもここは香りモノは禁止よ。アロマ療法をやっている人以外は」

 クローゼットにある服には、どれもフレグランスの香りがわずかに残っている。その旨を説明し、そんなに匂うかと聞き返すと、カミラは近くに寄らなければ気がつかない程度だと教えてくれた。このクラスであそこまで人と近寄ることは、めったにあることじゃない。匂いのことはとりあえず気にしないでおくことにする。

「あなたと組むとエネルギーの循環が良くなるのを感じるわ」とカミラは言う。「わたしたちきっと相性がいいのね」

 70年代のソフトポルノ──それはオクテなティーンエイジャーと、女家庭教師が出てくるやつ──を思わせるカミラ。そんな彼女から“相性がいい”と言われ、嬉しくないと言えばそれは嘘だ。エネルギーの循環とやらはよくわからないが、血流の巡りが良くなったような感じはする。頬は紅潮し、鼓動は早まる。オクテなティーンエイジャーが感じる自然な衝動。これはインナーチャイルドの一種と捉えていいものか。クラスが終わると恒例のティーパーティが始まった。今日のお茶はルイボスティ。アフリカのある部族の間では、不老長寿の薬として飲まれているのだと、マーガレットが説明してくれた。

「今日の実習はどうだった? 気に入った」と、ターニャ。

「ああ、とっても面白いね。あんなふうに石を触ったのは初めての体験だし、スライムに対して親愛の情を抱いたのも初めてのことだから」

「あなたカミラと組んじゃうんだもん。せっかくペアになれると思ったのに」

「そうか、ごめん」

「いいけど。また別の機会にやってみましょう。ふたりで」

 ふたりで? また別の機会ってのは、次回の実習のことを指すのだろうか? それとももっと違う意味?

 真意のわからないターニャの言葉にどう答えるべきか考えていると、おれの斜め前の集団から、どっと笑い声がわき上がった。

「やだ! うそ!」

「ほんと! そっくりよ!」

 華やかな声に遮断される思考。笑いころげる三人の主婦たち。黒髪を肩に垂らしたドナが、カミラとリズの肩を嬉しそうに叩いている。おれの視線に気付いたドナは、「ねぇ、ディーン」と、こちらを見て話し出した。

「わたしあなたを見たときから“何かに似てる”って感じていて、それがずっと気になってたの。それで……今わかったんだけど、あなたうちのハリーにそっくりなのよ」ドナの言葉にカミラとリズはまた笑いだす。

 ハリー? 誰? 彼女の息子だろうか? まっさきにそう思いはしたが、まずここは紳士的に……「弟さん?」

 それを聞き、女性たちはさらに爆笑。

「ちょっと待ってて」と立ち上がるドナ。ふたたび戻ってきたときには、一枚の写真を手に持っていた。

「うちのハリーよ」

 手渡された写真、そこには大型のハスキー犬が写っていた。

 目が点になり、軽く言葉を失うおれ。

「ねっ? 似てるでしょ?」

 “ねっ?”と言われても返答に困る。確かに目の色は似てなくもないが……ええと、もしおれが間違っていたらそう言ってくれよ───これは犬だ!

「『どろんこハリー』って絵本を知ってるかしら? この子の名前はそこからとったの。子犬のとき、とってもどろんこ遊びが好きだったから」

『そうですか。ぼくはどろんこレスリングを見るのが好きです』もちろんこれは模範解答じゃない。ようやく出たのは「お利口そうだ」という無難な言葉。続け「毛深さではおれの負け」と言い添え、写真を返す。

「今度、ハリーと一緒に写真を撮ってちょうだい」

「いっそドッグショーのハンドラーになってもらったら?」

「あら、それいいわね。歩様審査の点数を上乗せしてもらえたりして」

「水着審査があれば堅いわね」

「カミラったら! そんなのあるわけないでしょ!」

「エロおばんみたいなこと言わないのよ!」

 押し合い、叩き合い、楽しそうに笑い合う。おれも彼女たちを見ていて、“何かに似てる”って感じていて、それは今わかったんだけど、テレビ番組の『デスパレートな妻たち』にそっくりなんだ……とは、もちろん禁句。さらには『クイアー・アイ・フォー・ザ・ストレート・ガイ』も彷彿とさせるなどとは、口が裂けても言うことはできない。まあ、なんというか、これぞ女性───複数形にして“女性たち”というものなのだろう。ひとりでいれば大人しく可愛らしい形。それが三人以上に数を増した途端、女性は、おれたち男が知っているそれとは、別な生き物へ変化を遂げる。ポケモンもびっくりの進化論だ。

 後になって思えば、このときおれは“自分の感覚を信頼する”ということに、注意を払ってはいなかった。目が点になり言葉を失う。それは“愕然”とか“呆然”に類する体験───であるにも関わらず、おれはその身体感覚を完全に無視した。それが誤りであったことを知ったのは、それからもっとずっと後のこととなる。



「どぅお? ヨガ教室は? うまくいってる?」

 そんな口切りで電話をかけてきたのはローマンだ。

「ああ」とおれは答える。「いい教室を紹介してもらって感謝してるよ」

「あたし、明後日からロスアンゼルスに行くの」

 おれが珍しくも捧げた感謝の言葉に頓着せず、ローマンは自分の予定を簡潔に述べた。

「そうか、道中気をつけて。いつ帰ってくる?」

「二週間ほど。その間こっち留守にするわけだけど……もしなにかあっても泣きついてこないでね」

「なにかって?」

「さあ何かしら? それがわからないから“なにか”なんじゃない?」

「なんだそれは? ロスではそういう会話が流行ってるのか?」

「イーストタイムの午前七時は西海岸の何時になる?」

「時差は三時間だろ。ロスアンゼルスは朝の四時だ」

「そっ、正解。だから通勤前にわたしの声を聞きたいと思っても、それは遠慮してちょうだいね。じゃあ、おやすみなさい」

「ポールに換わらなくていいの」

「ええ、彼にもよろしく伝えておいて。それじゃ」

 一方的に電話は切れた。ローマンの不可解さは今に始まったことじゃないが、それにつけても、さきほどのコメントは妙な感じだ。『なにかあっても泣きついてこないで』だと? これは何かを暗示するキーワードなのか。おれとポールの間に何かが起こるとでも?

 受話器を置き、頭を振って、嫌な考えを振り払う。

「シャンティ、シャンティ、オーム……」

 唇にマントラ、心に平和。悪魔の言葉には耳を貸さない。それが悟りへの第一歩。おれもずいぶんクールになったものだ。



 当初、おれがこのクラスの生徒に抱いていたイメージは、ローマンのような男性だった。言ってみれば、華やかかつ男前。そんな先入観を持っていたため、初めて彼の姿を見たときは、思わず更衣室のドアを閉め忘れてしまったほど、軽い驚きを禁じ得ず、「ドアをしめてくれないか」と、注意されるというオマケまでついた。

 ケネスと名乗ったその青年は、二年前からこのクラスに通っていると言う。眉が濃く、背は低め。ひげはきちんと剃ってあり、その剃り跡は顔半分、広範囲に渡っている。ニューエイジ系ヨガ教室に来るような輩は、内なる女性性と向き合ってばかりいるような男だけと思い込んでいたが、ハイネケンのロゴ入りタオルを首からかけた彼を見る限り、どうやらそれはあてはまらないようだ。

 Tシャツとスウェットパンツに着替えていると、ケネスの視線に気がついた。こちらを“見ないようにして”見ている彼。とっくに支度を終えているようだが、出ては行かない。

 おれがロッカーの戸を閉めたところで、ケネスは「あの、ちょっと聞いていい?」と、声をかけてきた。その顔には思い詰めたような表情が浮かんでいる。

「ええと、その……きみはゲイかな?」

 おれは答える。「いいや」

 これは別に間違いじゃない。男の恋人を持ってはいるが、おれは自分をゲイと認識したことは一度たりともないのだ。

「そうか。おれも違う。ヘンなこと聞いて悪かったね」それだけ言うと、ケネスは早足でロッカールームを出て行った。

 なんだあいつ? “ゲイかどうか”だって? シャワー室でおれに襲われることを危惧していたとか? 当初はおれもこの教室にタイツ男の姿を警戒してはいたが……あの態度はちょっと失礼じゃないだろうか。



 ヨガの後のお茶の時間、「ここ、いいかな?」と、保温ポットと紙袋を持った男が、おれとターニャの間に割り込んで座る。

「今朝、焼いたんだ」と、ケネスは皆の前にパンパーニッケル(荒引きライ麦パン)を広げた。女性たちは口々に「すごいわね」「おいしそう」と、彼の偉業を褒めそやす。

「ディーンも。もしよかったら」にこりと微笑み、親切にケネス。途端、花柄のエプロンを着け、楽しげにキッチンに立つ彼の姿が頭に浮かんだ(ディーンよせ。馬鹿なことを考えるんじゃない)。

 保温ポットの蓋にお茶を注ぎ、「この間、すごく素敵な体験をした」と前置き、ケネスは語り出した。

「寝る前、ぼくはいつものようにベッドルームで瞑想をしていたんだ。すると、急に部屋の温度がすこし上がったような感じがしてね……あれ?と思った次の瞬間だ。そこにはぼくのおばあちゃんが立っていたんだよ」

 孫のベッドルームにおばあちゃん? 何の話だろうと、よくよく聞いてみると、そのおばあちゃん、ケネスがまだ小さい頃に亡くなっているとのこと。つまり彼のベッドルームに現れたのは、スターウォーズのオビ=ワン・ケノービのような、透け透けのおばあちゃん。彼の言葉を借りると、それは“アストラル界から孫を癒すためにやってきた”とのことで、優しいハグを受けている間、ケネスの肉体は消失し(何かの比喩だと思いたい)、隠し持っていたすべての恐れが光のなかに溶けたと感じたのだという(原文ママ)。

「ケネス、あなたは愛されているのね」と、リズが目を細める。

「すてきな話をシェアしてくれてありがとう」マーガレットは丁寧におじぎをした。

 外でこんなことを言ったら間違いなく病院行き。しかしここは違う。マントラが支配する悠久なる世界。どんなことでも癒されたのならオッケー。パンパーニッケルのレシピはおばあちゃんが持ってきてくれたのだろう。おそらく。

「ねぇ、でもケネス。あなたずいぶん久しぶりだわ。最後に来てから、まるひと月ぶりよ」

 生徒の予定をしっかり記憶しているマーガレットがそう言うと、彼は「会社が忙しくってね」と、肩をすくめた。「本当はすっごく来たかったんだけど」この一ヶ月のロスが悔やまれてならないといった口調のケネス。「みんなに会いたかったよ……とても」“とても”と言う前に“溜め”が入った。彼はこう見えて役者なのかもしれない。

「あなたがいない間に男の生徒さんが入ったのよ」と、マーガレット。

「ディーンだよね。さっきロッカールームで知り合いになった」親しげな笑みをこちらに向ける。

「これからはまた毎週来るよ」ケネスはおれの顔をじっと見てそう言った。彼はゲイじゃない。と、すると……ははん。そうか。さきほどのロッカールームのやりとり、ケネスがおれに対して失礼であったのには理由がある。忙しい朝っぱらから、オーブンの前に立つ男。ケネスはハーレムを取り戻そうとして舞い戻ってきたのだ。



 一緒に帰りましょうと誘われ、地下鉄へと向かう道すがら「彼は“テディ”なのよ」と、ターニャは言った。“おばあちゃんと瞑想の神秘体験”を話題にしていたところなので、“彼=テディ”というのがケネスを指す単語だというのはわかった。しかしなぜ“テディ”なのかは意味不明。

「テディって?」

「テディベアの“テディ”よ。隠れたアダ名。わたしたち、ケネスのことをこっそりそう呼んでるの」

 テディベア───寸が詰まっていて、丸みがあり、全体に毛むく。ふむ、なるほど。

「前にもいたのよ。男の生徒。グラフィック・デザイナーをしているルパートって人。彼は“魚眼”ってニックネームだったの。すごいメガネをかけてたから。あ、これは魚眼レンズのこと」

 隠れニックネームの解説をするターニャ。彼女は実年齢より幼く見える。

「三ヶ月前から来なくなったチャーリーは“青息吐息”って呼ばれてた。ガリガリに痩せてて、いつも疲れてて。立木のポーズのときは、彼が倒れるんじゃないかって、みんな心配してたわ。ルイージって名前のイタリア人は“マリオ”。そっちの名前の方が有名だって理由」

 ルイージなのにマリオ。最高すぎる。よくまあそんなアダ名をつけたもんだ。悪いと思うが笑いを抑えられない。男の子のアダ名を聞いて、こっそりと笑うのは女の子の得意技。どうやらおれの内なる女性性は着実に成長しているらしい。

「おれにもあるのかな?」

「えっ?」

「このクラスの男にはみんな“隠れニックネーム”がある……ってことは」言って、自分の胸を指す。ターニャはにんまりと微笑み、「あるわね」と言った。

「なに?」

「それは教えられない」

「どうして?」

「絶対言わないってみんなに誓ったんだもん。バレたらギロチンにかけられちゃう」

「よっぽどひどいのか? だろうな、きみたちはアダ名のエキスパートみたいだから」

「何と言われても教えるわけにはいかないわ」

「そうか。じゃ、おれもケネスと共謀して、きみたちに何かニックネームを考案しよう」

「あら、いいわよ。どうぞ」

「なにがいいかな……」

「男の子のつけるニックネームなんてだいたい予想がつくんだから。どうせ“でぶ”とかそういうのでしょ」言いながら、地下鉄の改札を抜けるターニャ。おれのカードは引っかかり、ゲートを通ることが出来ない。

「ああ、ほぅらね。バチがあたった」と、嬉しそうに言うターニャ。

「まだ何も言ってないだろ」おれは笑って言い返す。「そもそも“でぶ”とかあり得ないよ。前に言ったろ、きみは太ってないって」

 隣のゲートに移動しようとしたところで、彼女は改札の向こうからおれの腕を握りしめた。行動を阻止され、おれは改札で立ち往生。

「太ってないってどうして言える?」

「ターニャ?」

 掴んだ手にぎゅっと力を込め、ターニャは上目遣いでつぶやいた。

「……わたしの裸を見たことがないくせに」

 それからぱっと手を離すと、踵を返してブルックリン方面の階段を降りて行った。

 ───唖然。置いて行かれたから唖然としているんじゃない。今の彼女の顔。そしてあの言い方。そのコメントには間違いなく含みがあった。どんな含みかって、正直それはあまり考えたくはない。頭に流れる縄跳び歌。『可愛いターニャは誰が好き? エィ、ビー、シー、ディ…ディーン・ケリー!』(黙れインナーチャイルド!)

 隣の改札に移り、ゲートを通り直す。今度はスムーズに行った。これでいいんだ。これが普通なんだ。開かないゲートの前で意味深な会話をしているのはおかしなことだ。

 ところで……これまで何人もの男性──魚眼、青息吐息、マリオ──らがこの教室に通い、そのすべてが続かなくなってることに、皆さんはお気づきだろうか。おれは地下鉄に乗るのに忙しく、そのことに頓着してはいなかった。改札を通るのに忙しい。頭の中から縄跳び歌を追い出すのに忙しい。やることが多すぎて、あまり細かなところは気にかけてはいられない。ホームに電車が入ってくる。それに乗り込み、ほっとため息。見知らぬ男が「小銭くれ」と空き缶を突きつけてくる。そう、これが普通。おれはペプシ缶に小銭を入れた。なべて世はこともなし。



 ふたり組みになる実習は思いのほか多かった。それが喜ぶべきことだと思っていたのは遥か昔。ふんわりとしたマシュマロを彷彿とさせるターニャと組んで、喜びこそすれ困ることなんて何ひとつない───そう思っていたのも今や昔。おれは今、困難なヨガのポーズよりも、のっぴきならない状態にある。ことの起こりは実習の前。『男の乳首について』をテーマに、マーガレットが講義をしたことに端を発する。

「未来には男性であっても母乳を出せるようになるって話、聞いたことある?」

 マーガレットがそう言ったとき、おれとターニャはまったく同時に吹き出してしまった。

「ありえない!」笑うターニャに、マーガレットは極めて真顔でウンチクを続ける。

「女性の乳首は赤ちゃんのためにあるけど、男性の乳首の用途は今のところ解明されてないでしょ? これはある科学者の説なんだけど、未来には男性も授乳できるようになる可能性があるそうよ。わたしたちの肉体はまだまだ進化の途中にある。今のところはまるっきり無駄についている男の乳首だけど、将来、男性はより具体的な形で育児に貢献できるようになるのよ。いつか人類がもっと進化したとき、そのアセンションは起こるのね。それって素敵なことだと思うわ」

 マーガレットは本気だ。どうやらここは笑うところじゃないらしい。この驚異的な説が何の雑誌に載っていたにせよ、おれにとってはちっとも“素敵なことだと思う”ことではない。トム・クルーズやブラット・ピットが赤ん坊に乳をやっているところなんて想像できるか? あまり違和感がない? だったら自分の上司や学校の教師はどう? 幼子イエスを抱いているのがマリアではなく、父ヨセフだったら? もしそうであったら、キリスト教はこんにちまで繁栄し得ただろうか? ミケランジェロはヨセフをモチーフに『哀しみのピエタ』を彫ったりしただろうか? マーガレットの話を聞いていると、男であること自体が何かの罪であるような錯覚に陥りそうになってくる。

「じゃあ今の男性の肉体は不完全ってこと?」ターニャが柔軟体操をしながら質問をする。彼女はこの部屋の誰よりチャーミングに見える。

「さっきの説を前提に置いてみれば、ある意味そうとも言えるわね」

 男嫌いとおぼしきマーガレット。もし“マギー”と省略して呼んだなら、そこにはどんな罰則が待ち受けていることだろう。

「じゃあ女性のクリトリスはどうかしら? 用途が解明されてないのは同じよね。未来にはこれもペニスに成長する可能性が?」

「かもしれないわ。男性が授乳できるようになった暁には、女性にもアセンションが起きても不思議じゃないし」

「現在までそのふたつは性感帯としての機能しか解明されてないってわけね」

 肉体の神秘と可能性について語るターニャとマーガレット。こうした話題は進歩的かつ、有用なことなのかもしれないが、おれにとってはさきほどの学説同様、居心地の悪さを感じるだけ。保守的と言えるかもしれないが、座を外さないだけまだ忍耐力があると思ってもらいたい。

「わたしは男の人の乳首って好きよ。繊細で可愛らしいわ」腕を上げ、脇の下の筋肉を伸ばしながらターニャが言う。その視線はおれの胸のあたりに据えられている。これは新手のくどき文句なのだろうか。サイエンス誌の記事から引用すれば、ヤバげな単語もどことなく知的に聞こえなくもないが…………と、まあこれが今から三十分前のこと。今、おれは床に座り、ヨガの連続ポーズに挑戦している真っ最中。開脚から開脚前屈。背中に手を添え、そっと押してくれるのはこの実技でのパートナー、ターニャ。

「補助する人は無理に押したりしないように。補助される側は決して息をとめない……プラーヤーナーマを意識して。深い呼吸によって身体は自然に緩みます。よりアーサナがやりやすくなるはずです」

 プラーヤーナーマは呼吸。アーサナはヨガのポーズ。チャーリーの唱える専門用語も難なく理解できるようになったおれではあるが、ここに突きつけられた難題はヨガとはまったく別のもの。“突きつけられた”というよりは“押しつけられた”と言うべきか。現在おれの背中に押しつけられているのはパートナーの豊かな胸。前屈を促す手伝いをしてくれているわけだが、彼女のサポートはおれの呼吸を不自然な方向へと導いている。耳元に感じられるのは彼女のプラーヤーナーマ。

「無理であるようならば、それ以上は屈まないことです。身体に意識を持ってみましょう」

 “身体に意識を持つ”───そうすればするほど、おれの意識は罪深い方向に流れていくような気がする。こういう場合はどうしたものかと考えているところに、チャーリーの指示が出た。

「それでは姿勢を変えて。次はハラ・アーサナです」

 ハラ・アーサナは補助が必要なポーズではない。ターニャが離れたことにおれは安堵し、床に仰向けになる。両脚をまっすぐ垂直に上げ、腰を床から持ち上げ、足のつま先を頭の先の床につける。まるで畑を耕す鋤のように見えることから、これは『鋤のポーズ』と呼ばれている。

 ゆっくりと身体を曲げ、背中の筋肉が伸びるのを感じ、気持ちよく鋤になっていると、「そこからサルヴァーンガ・アーサナへ移行しましょう」と、チャーリー。「そのままの形で十呼吸。慣れてない人はパートナーにサポートしてもらって」

 サルヴァーンガ・アーサナは肩で逆立ちのようにして立つポーズだ。おれはまだ慣れていない。床に座ったまま、そっと身体を支えてくれるターニャ。その手はおれの胸に。なぜ足を支えてくれないのか。その答えはすぐに得られた。彼女の手はおれの胸に添えられ、その指先は乳首に触れている。それははっきりと意図的に。なぜそんなことをするのかはわからない。彼女はあさっての方向を向いている。しかしここには明らかなセクハラの意図がある。『男の人の乳首が好き』その発言がここに繋がる予告だとは思ってもみなかった。こうなってみると確かに。男の乳首は無駄についているだけじゃないことがわかる。性感帯としてはそこそこ立派に機能してるもんな。余計なネタを振ったマーガレットをさりげなくうらむ。とにかくこのままじゃヤバい。今や感覚にセンシティブなおれ。意に反して肉体に変化が起きそうだ。ここからどうする? 急におなかが痛くなってみようか? いやいや、負けるものか。今こそヨガによって培われた集中力を試すときじゃないか。目を閉じ、呼吸を整える。シャンティだ。ディーン、シャンティを忘れるな……。

 果敢に戦うおれを見つけ、チャーリーが「大丈夫?」と、優しく声をかけてくれる。

「ええ……」息を吐きつつ、おれは答える。

「このポーズ、そんなに難しく(ハード)はないと思うけど?」

 そうね、そんなにはハードじゃないけど、こっちはハード(硬い)になりつつあるもので。

「サポートがついているから大丈夫よ。安心して、リラックスして」アドヴァイスをし、去ってゆくインストラクター。

 ちょっと待って! その“サポート”に問題があるんですってば!……とは、とても言えない。

 ひっそり仇な笑顔を浮かべるターニャ。身を屈め、おれの頬に顔を寄せる。耳元にささやかれたその言葉───。途端、おれは倒れ、自分でも聞いたことのないようなおかしな悲鳴をあげて、ヨガマットから転がり出る。

「ディーン? どうしたの?」

 皆の視線が一斉に集まる。ターニャは涼しい顔をしている。おれは彼女をまともに見ることができない。

「いえ、あの……ちょっと水を飲んできてもいいですか」

「もちろんいいわ。大丈夫?」心配そうにおれを見るチャーリー。

「ええ」

 教室を出、トイレの個室に引きこもる。『水を飲んできてもいいですか』ってのはあまり適切な発言ではなかった。水のボトルは手元にあったのだから。さっきは動転しててそこまで気が回らなかった。とにかくターニャの側を離れるのに精一杯で───。彼女がなんて言ったかって? 知りたい? とてもここには書けないようなことさ!!!

 実技が終わったあたりで部屋に戻る。そこからはレクチャーを聞き、クラスはつつがなく終了。いつものピクニックには参加しない。ケネスは「残念だ」と、嬉しそうに笑みを浮かべた。

 シャワーも浴びず、帰り支度。手首に付けたブルガリがやけに重たく感じられる。これは感覚を繊細に感じられるようになったから? ……そうじゃない。おれはただ単に疲労しているだけなのだ。



 ポールはまだ帰ってきていない。お茶会に出なけりゃ、帰宅時間はおれの方が早い。ほとんど無意識にテレビを点ける。普段はこういうことはしない。なんとなくテレビを付けっ放すってのは、いつもはやらない習慣だ。画面に現れたのは丸顔でブロンドの女優。この顔を見ただけで番組名がわかってしまうほど、再放送されまくった恋愛ドラマ。主人公の女弁護士は、恋人役のジョン・ボンジョヴィに向かって、クレージーなことを一方的に叫びつづけている。それに反論せず、ただニコニコと微笑み続けるボンジョヴィ。さすがはハードロッカー。十年以上ものあいだ同じ髪型をし続けられるほど、彼は忍耐強い男なのだ。

 ハンサムでセクシー。わがままを受け入れてくれる広い心。これが女の求める理想の彼氏の姿なんだろうか。そうだとしたら気が滅入る。おれはここまで我慢強くなれない。この番組から得られる教訓は『ミニスカートの女弁護士を彼女にするのは得策じゃない』ということ。ためになるテレビを消したところで携帯が鳴った。かけてきたのはターニャだった。

「ごめんなさい。気を悪くしたわよね……わたし……」

 弱々しいその声音。捕らえられたウサギだって、ここまで気の毒な喋り方はしない(ウサギが喋れるかどうかはともかく)。

「ディーン、ごめんなさい……」再度、詫びを口にするターニャ。

 くそ。男はこれに弱いんだ。殊勝に詫びを入れてくる女に、いったい何を言えようか? 女の“ごめんなさい”には、およそ許せないことなど存在しえない力がある。

 わがまま言って、ごめんなさい。

 新品のスーツにお醤油をこぼして、ごめんなさい。

 あなたの着信履歴をチェックして、ごめんなさい。

 浮気をして、ごめんなさい。

 頭に隕石を落として、ごめんなさい。

 ごめんなさいと言えず、ごめんなさい。

 それに対し、男に許された返答はただひとつ。

「いいよ、ターニャ。おれは気にしてない」

 わがままを言われても、気にしてない。

 新品のスーツに醤油をこぼされても、気にしてない。

 着信履歴をチェックされても、気にしてない。

 浮気をされても、気にしてない。

 頭に隕石を落とされても、気にしてない。

 ごめんなさいなくとも、気にしてない。

 もちろんそんなはずはないが、ほかに言い様はない。女性の謝罪に対して「その通り、おまえが悪い」などと言おうものなら、多大な時間を問答にさかれるだけではなく、気がつくと、ハンドバッグを買うためにレジに並んだりしている羽目になりうるのだから。(大げさだって? そう思う男性はガールフレンドに上記を実戦し、出た結果をレポートにまとめ、おれに提出するように!)

「ほんとうに許してくれる?」と、ターニャ。

「ああ、もちろんだとも」(“ああ、もちろんだとも”も、“いいよ、気にしていない”に続く重要な台詞だ。各自メモをとっておくこと)

「よかった! もう教室に来なくなるかと思っちゃった!」

 げっ! 釘をさされた。『来週からは仕事が忙しくなるので、クラスにはしばらく行けそうもない』そう言うつもりだったのだが、これでは駄目だ。もし次回からおれが姿を表さなくなれば、彼女はそれを“自分のせいだ”と受け取るだろう。もちろんそれはそうなのだが、相手にそれを悟らせるのはあまりいいことじゃない。来週からは本当に仕事が忙しくなるのだが……こうなったからには、たとえ残業でくたくたであっても──少なくとも来週だけでも──おれは教室に通わなくてはならない。

「それじゃあ来週。また教室でね」声音に元気を取り戻したターニャ。こちらも明るく「じゃあまた」と言って、電話を切る。

 リラクゼーションを目的に入ったヨガ教室。それははからずも精神的修行の場へと姿を変えた。今のおれはむりやり軍隊に入れられた若者と同じ。ひとつの場所で様々な体験ができ、まったくローマンには感謝がたえない。

 まあでも、今回のことでよくわかった。彼女はああしたアプローチを男性にして楽しむタイプ。それがわかったんだったら、今後はこっちがしっかりしてさえいればいい。来週からはターニャと組まなければいい。それだけのことだ。年下のロシアンガールにビビって教室を辞める必要はない。今では口に慣れた平和のマントラ。シャンティ、シャンティ、シャンティ、オーム……。授業で得たことは実際、役に立ってもいるんだから。



 冷蔵庫の中でかろうじて生き延びている食材を見つけ出し(この時点で死んでいるとおぼしきものは生ゴミ入れに埋葬した)、オリーブ油で炒め、ショートパスタと和える。スープは缶詰を開けただけ。そんな簡単な夕食であっても、ポールは喜んでくれた。

「あ、そうだ。今日ね、きみの教室の友達がうちの店に来たよ」皿の隅にトウガラシを集めながら、思い出したように彼が言う。

「おれの教室? ヨガの?」

「うん、そう」

「誰だ? まさかター…」

「カミラって人」

 カミラ───そうか、カミラか。その名前で良かったと思っている自分に気付く。

 ポールは皿に視線を落としたまま、言葉を続ける。

「言い忘れてたけど、先週もふたり来てた。ドナとアリシア。ほんとに奥様スクールなんだね?」

「ふたりも来てたって? 前からの顧客なのか?」

「ううん、ディーンの紹介だって言ってたよ」

「紹介なんてしてないけどな……」

「そうなの? でもふたりともぼくを指名してくれたんだから、やっぱりきみの紹介ってことだよね」

 トウガラシを避け終わり、安全になったペンネを口に運ぶポール。話題は共通の友人のことへと切り替わり、ヨガ教室のことはそれ以上会話に出ることはなかった。

 食事が終わり、食器洗い機に皿を納めながら、カミラとドナとアリシアのことを考える。おれは彼女たちにポールのことをどれくらい話したっけ? 同居人は美容師、店の場所はトランプタワーから2ブロックのところ───。そのぐらいのことは言った記憶はあるが、店の名前など、具体的な説明はしていないと思う。腕のいい美容師だと自慢したわけでもないのに、どうして彼女たちはポールを指名したんだろう? そもそもそのことをどうしておれに言わないんだ? 自分が話の中心でありながらも、何が起こっているのかはわからない。こういう状態はあまりいい気持ちがするものじゃない。次回、彼女たちに会ったら、どういうことなのか聞いてみよう。

 床にしゃがみ、皿やカップがジェット噴射を受ける様子をぼんやりと眺めていると、頭上から「楽しい?」と、くすくす笑う声が降ってきた。

 食器洗い機の小窓を見つめながら「ああ」と返事。「テレビより楽しい」

「洗濯機とかも好きなのかな?」

「それもいいけど……いちばん最高なのはカーウォッシャーだ。巨大なブラシで洗浄されるのを、車の中から見ているのは子供の頃から大好きでさ」

「ディーン」

「なに?」

「なにか煮詰まってる?」

「おれ?」顔を上げ、ポールを見上げる。

「うん」

「そうかな……」食器洗い機に視線を戻す。内部は暴風雨さながらの様相だ。

「きみも座れよ」

「ぼくも?」

「ああ」

 おれは少し右にずれ、彼のためにスペースを空けてやる。ポールはちょこんと腰を降ろした。

「テレビより面白いって?」言葉に笑いをにじませ、ポールが言う。

「おれにはな……そら“すすぎ”が始まったぜ。ここからがみどころなんだ」

 キッチンの床に並んで座り、食器洗い機が仕事をする様子を無言で見守る。彼の右手がおれの左手を見つけた。手と手は互いを握り合い、それはずっとそのままそうしていた。食器が洗い終わるまでに二度、キスをした。マントラは一度も思い浮かばず。にも関わらず、おれはずいぶん平和な気持ちに満たされていた。



 ドナとカミラは仲良しだ。たいがいドナはカミラといて、カミラはたいていドナといる。もしふたりと話をしたいと思うのであれば簡単なこと。定めしそれはいっぺんに済ませることができる。

 アリエルのデスクの前でおしゃべりする仲良しふたり組。ロッカールームに行く前に彼女らを見つけたおれは、短く世間話をした後、何気ない風に「ポールから聞いたんだけど」と本題を切り出した。もしや白ばっくれるかもという予想を裏切り、カミラは「そうよ、昨日お店に寄らせてもらったわ」と、笑顔で答える。

「あなたの彼氏、とっても素敵じゃない? 技術もとても素晴らしかったわ」

「でもあの、おれ、ポールの名前を言った記憶は……」

「ええ、そうね。だから聞いたの」歯切れよく口を挟むドナ。

「聞いた?」

「“ディーン・ケリーのボーイフレンドはどちら?”って。係の女の子がすぐに教えてくれたわ」

 なんだって? ちょっと待てよ、どうしてわざわざそんなことを?! ───心で叫んだコメントを穏便に翻訳し、おれは訊ねる。

「どうして?」

「だって興味があったんですもの」とドナ。

「興味」

「ええ。あなたのボーイフレンドがどんなかなって」

「どうして?」

「どうしてって……」ドナは“なぜそんなことを訊かれるのかわからない”といった表情でおれを見上げる。返答に詰まった友達をフォローするのはカミラだ。

「やあね、気にしないで。あまり意味なんてないのよ。ただ本当に“どんな人なのかしら”ってね。先日みんなで盛り上がったものだから。顔を見てみたかっただけなのよ」

 みんなで盛り上がった? おれの恋人のことで? 他人のボーイフレンドの話題でか? “みんな”ってのは誰のことだ?

「気に障ったのなら謝るわ」と、カミラ。「でもほんとう。他意はないの。ね、それであなたたちいつから付き合ってるの?」

 他意はない。そうか。ないのか。あってたまるか。そもそも“他意”ってのはなんなんだ。言葉を失うおれの代わりに、第三者がそれを発した。

「ディーンはゲイじゃないわ」

 振り向くと、そこにはターニャが立っていた。厳しい表情でドナとカミラを見つめる彼女。それはまるで怒っているかのようで、場の雰囲気は一転する。

「あら、ターニャ……どうしてそう思うの?」

 固い空気を打ち破ったのはドナだ。剣呑に言う彼女に、ターニャは答えない。答えず、無言で、おれの方には一瞥もないまま、スタジオに消える。

「なにかしら、あの態度。“ディーンはゲイじゃない”ですって」

「ねぇ、なんであんなに自信たっぷりに言えるのかしらねぇ?」

「あら、それもそうね……」

 顔を見合わせ、笑い合うドナとカミラ。思うにこちらのマダム連は下世話な勘違いをしているらしい。『おれには恋人がいます。ターニャとはちっともヤッてません』そう言えたらどんなに楽か。しかし聞かれでもいないのに『ターニャとはヤッてません』はないだろう。ふたりの好色な視線がおれを穿つ。誤解の結び目は固く、そう簡単にはほどけそうにない。だいたい彼女たちはそれをほどきたいとも思っていないだろう。おれの性生活はスーパーのレジ横に置いてある雑誌と同様、ドナとカミラ(おそらくこのふたり以外にも)に愉しみをもたらしている。日曜の午後、彼女たちがカフェでする会話に、おれの名前がどれだけ登場したことか。自分の名前に著作権をかけたい気分だ。



 あんまり人と触れ合いたくないという気分のときに限って、それを積極的に成すことを強いられるシチュエーションが訪れるのは、いったいどんな陰謀なのか。

 チャーリーが告げた本日のプログラムは、「ポーズを補佐し合うパートナーを見つけて、お互いをサポートし合ってください」というもの。今のおれにはやや受け入れ難く、非積極的に立ちすくんでいると、「わたしと組んでくれるかしら?」と、パートナー候補が現れた。微笑みと共に申し出たのはカミラだ。いつぞやは、がっしと無言でおれの腕を掴んできた彼女。しおらしい物言いは、さきほどの無礼を踏まえてのことなのだろうか。本音を言えば彼女とは組みたくない。あんなやり取りを経て『喜んで』と言えるほど、おれは心が広くない。失礼にあたらない断り文句を探していると、別の声がおれの名を呼んだ。

「ディーン、今日はわたしと組んで」

 アリシア。ポールの店に行った、物見高いメンバーのひとり。これもまたお断りしたいメンバーのひとり。

「悪いけどおれは……」

「駄目? ターニャと組むのね?」

「ターニャ?」

「あまり何度も同じ人とは組まないものよ。いろいろな人とペアになって、違いを実感してこそ、より深い体験が得られるものなんだから」

 もっともらしいアリシアの意見に、カミラはうなずき同意する。「そうよ。ターニャとばっかりペアになるのもね」

 “ばっかり”ってなんだ。おれとターニャはそんなに何度も組んではいない。その言い方だと、おれたちが意図的に組みになって“ばっかり”みたいに聞こえるじゃないか。

「カミラ、あなただってよくディーンと組んでるじゃないの」

「だって彼と組むとエネルギーの循環がいいんですもの」

「なあにそれ、ずるいわね」

 ずるい? ずるいって何が。カミラはおれの隣にくっつくようにして寄り添った。こちらを見上げ、まばたきひとつ。重たげな睫毛はばさっと音をたてたかのよう。(少なくともおれの目にはそう“聞こえた”)

「ディーン、あなたわたしとアリシアのどっちを選ぶ?」

 どっちかなのか? そのふたつしか選択の余地がないのか?

「そうよ、ディーン。あなたには選ぶ権利があるわよね」

 “ディーン”“ディーン”“ディーン”……。一回呼ぶにつき、1セントの使用料だぞ。

「なあに、あんたたち。素敵な若者を困らせてるのね?」遠くから嬉しそうに言うドナ。彼女の口紅の色が嫌いだということに今、気がついた。

「あら、そんなことないわ」と、カミラ。

「そうよ、困らせてなんて。ねぇディーン?」

 “ねぇディーン?”───訂正。一回につき1ドル、いや5ドルに変更だ。アリシアの香水の香りが鼻につく。香水? ここでは禁止なんじゃないのか?

「あなたと組むとエネルギーが活性化するのよ」

 そのコメントに触発され、初日に聞いたマーガレットの発言が記憶によみがえる。

『あなたのおかげで室内のエネルギーは活性化すると思うわ』

『男の人が入ってくれて嬉しい』

『このクラス、男性で続けられる人はほとんどいない』

 ちくしょう、なるほど。そういうことか。この羊の群れのなかで、おれは自分が狼になってしまわないよう、努力しているつもりだった。しかしそれは完全な間違い。

 ───羊はおれだ! 狼の中の一匹の羊。それはおれなのだ。“男性のヨガが続かない”んじゃない。問題があるのはこの場所の方。やる気があるのはケネスみたいに下心のあるヤツだけで、まともな神経の男であれば、ここにはとてもいられない!

 おれはカミラとアリシアを振り切り、すでにパートナーを見つけていたケネスのそばに行き、無理矢理それを解消させて、彼のパートナーとなることに成功する。野郎と組んで少しも楽しそうではない彼には申し訳ないが、この空間で唯一安全とおぼしき人間を見つけられ、おれは安心してアーサナに望むことができた。このクラスに男がいてくれたことが、こんなに嬉しいとは思ってもみなかった。彼の存在が神の祝福のようにすら思える。もちろんそれはこの部屋を出るまでに限るのは言うまでもない。



 クラスが終わり、素晴らしいパートナーに感謝を述べ、素早く着替え、エレベーターに飛び乗る。じゃあね、バイバイまた次回。絡む視線を逃れたところで、もっとも強い瞳が最後におれを捕まえた。アールデコのエントランスロビー、待っていたのはターニャだ。その表情はとても厳しく、『これから一緒にディナーでもどう?』という感じでは少しもない。もしや彼女は今日、おれがパートナーに選ばなかったことを怒っているのだろうか……?

 こちらを見て留め、つかつかっと近寄るターニャ。小柄な体からは不穏なオーラが発せられ、妙な迫力を感じ、おれは思わず歩を止める。行く手を阻むかのように目の前に立ちふさがり、見上げ「あなたはゲイじゃない。でしょ?」と、言い放つ。唐突な言葉に無言でいると、彼女はさらに言葉を続けた。

「みんなにあんな誤解をさせたままでいいの?」

 間違いない。彼女は怒っている。“みんなに”ではなく、おれに怒っている。

「あなたはゲイじゃないわ。そのことを信じられるように、今日、これからうちに来て。そうじゃないって証明してみせて」

 はっきりとした口調。なんてあからさまな誘い文句。それは彼女らしくて好感がもてる。しかしその申し出には乗れない。乗りたくない。ターニャはまっすぐにおれを見ている。頬を紅潮させ、怒りに満ちた表情で。今から一年前───いや、数ヶ月前だったら、おれはこの誘いを受けたはず。だが今は、おれにはれっきとした恋人がいる。醜く太って失望させたくはなく、荒れた頬にキスをさせたくはない、愛すべきボーイフレンド。そもそも教室に通おうと思った動機はそれなんだ。おれは自分と彼を心地よくさせたい。恋人との幸せな生活を営む。幸い今の自分にはそれがある。

「ターニャ、今まで言う機会がなかったけど……おれには恋人がいるんだ」

 “だからなに?”という表情をするターニャ。そうだよな。彼女はそんなこと気にするようなタマじゃない。

「おれは……ゲイなんだ」

 それは衝撃の告白───にも関わらず、ターニャの“だからなに?”は少しも壊れる様子はない。

「あの……おれには男の恋人がいるんだよ」

 “だからなに?” すごい。ここまで言っても動じない精神を持てるとは。ヨガとは本当にすばらしいスポーツだ。

「嘘」睨み、短く言うターニャ。「なんでそんな嘘つくの」

「嘘じゃない。ほんとにおれは……」

「だったらどうして? わたしが触れたとき、あなたは反応したじゃない。ゲイだったらありえないことでしょ?」

「それは……最近、ゲイになったばかりなので……」

 あからさまな不信感を隠そうとせず、おれを見つめる彼女。そりゃそうだ。自分で言ってても、これは完璧に言い訳じみて聞こえる。本当のことを話しているのに、それが下手な言い訳にしか聞こえないとは。『真実は小説より奇なり』それは奇異すぎて、おいそれとは信用してもらえないほどに、真実は奇なり。

「なんでそんな嘘いうの。わたしが嫌いなら嫌いって言えばいいじゃない」

 嫌いではない。もしポールと付き合う前にターニャと巡り会っていたら、おれは彼女を恋人に選んでいたかもしれないのだ。

「おれには……ボーイフレンドがいるんだ」

 ターニャは“心底がっかり”という表情をし、顎を落とした。それは彼女が完全におれを手放した瞬間だった。

 踵を返し歩き出す彼女。百合のシャンデリアに靴音が響く。

「なあ……最後に聞いていいか?」

 おれの言葉に振り返るターニャ。(“最後に”という単語を彼女は聞き取ってくれただろうか?)

「おれのアダ名は?」

「アダ名?」

「みんなでこっそり呼んでたんだろう? おれの隠れニックネームは結局なんだったんだ? “ハリー”?」

「ああ、それ……ううん、ハリーじゃない」

「じゃなに?」

「…………“ブルガリ”よ」

「ブルガリ」

「そっ、初日につけてたでしょ? 時計と香水。それがあなたの隠れニックネーム……」語尾をフェードアウトさせ、目を伏せる。

 嘘だ。彼女は嘘をついている。おれが本心を偽っていると思い込んでいるターニャ。今の嘘は『だったら自分も本当のことなんか言ってやるものか』という、彼女なりの抵抗なのだろう。こんなことになったのは残念だ。残念だが、でももうなんでもいい。おれは疲れた。最初から本当のことを言うべきだったとか、自己反省する気力もないくらい疲れ果てた。早く家に帰ろう。サウナに入って、恋人に愛していると言おう。他にしたいことはない。隠れニックネームなんかどうでもいいさ。



 家に帰るとそこには夕食が用意されていた。

「ちょうど焼きあがったところなんだよ。もしかしてドアの前でタイミングを見計らってた?」いたずらっぽく笑い、キャセロールをオーブンから出すポール。

 表面のチーズには軽く焦げ目がつき、クリームにとろけて湯気を立てている。グツグツいうそれにフォークを突き刺し、おれはぽつり、「きみといるときがいちばん心安まる」と、つぶやく。

「どうしたの急に?」

「おれは幸せだ」

「ヨガでチャクラが開いて幸福に目覚めたとか?」

「ああ、そうだ。ヨガのおかげだ」

「すごいね」

 幸福に目覚めたのはヨガのおかげ。意味は違うが、結果は同じだ。おれは“ヨガの教室に行ったおかげ”で、ポールとの関係にさらにコミットできた……というか、なんだか女性恐怖症に陥りそう。しかし、たとえおれがそうなっても、困る人間はひとりとしていないはず。ポールは安心するだろうし、ローマンはおれが仲間になったと大喜びするだろう。もしや彼はこうなることを予測して、あのヨガ教室をおれに紹介してくれたのだろうか。『なにかあっても泣きついてこないでね』と、言っていたローマン。彼の思うツボにすっぽりとハマったという可能性を否定することはできない。なんてこった。もしそうなら恐るべき手腕だ。

「今日はどうする? また食器洗い機の鑑賞を?」と、ポール。

「いや、それはもういい。なにか映画でも見ないか? こないだ言ってたアダム・サンドラーの作品は?」

「いいね。じゃあコーヒーを用意するよ」

 ピーナッツバターをたっぷり練り込んだチョコチップクッキー。それを濃いコーヒーで流し込む。ハーブティと全粒粉のパンはしばらく見たくもない。

 男であっても女であっても、平和な時間は等しく必要。世界の平和を願うのもいいが、まずは自分を幸福な状態に。

 かつては友達同士だったおれたちは、今や恋人同士に変化を遂げた。肉体を構成する細胞ですら、毎瞬ごとに入れ替わる。変わらないものはなにひとつなく、それはまったく別なものへと変化を遂げる。

 映画の後に交わすキス。それは短いものだったが、この世のなにより素晴らしい。

 チョコチップクッキー、コーヒー、キス───。

 おれは馬鹿みたいにシャンティで、自分の人生になにが必要なのか、わかり始めたところだった。


END

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