第2話:いっしょにくらそう(Borderline)
1. マンハッタンではとても火事が多い。
これまで実際に炎を目のあたりにしたことはないが、サイレンを鳴らした消防車が、年中、走り回っているところを見ると、おそらくそれは多いのだと思う。
2. マンハッタンの家賃はとても高い。
これはおれが実際に目のあたりにしている真実。このふたつがどうつながるかって、まず結論から言おう。おれとポールは一緒に住むことに決めた。
その発端は、おれたちの住んでいるアパートメントが火事にあったことだ。
ニューヨーク市の有能な消防隊員の働きにより、住人に死傷者は出なかったが、物質的な損害は決して小さなものではなかった。出火した部屋は完全に燃え落ち、続く外廊下は煤によって真っ黒。フロアーごとのメインブレーカーは熔け、割れた外壁のタイルは、火事の凄まじさをミッドタウンの住人へ誇示している。
火元は女性のひとり暮らしで、出火の原因はベッドサイドのオイル・ランプとのこと。昨今の禁煙運動のおかげでタバコによる火災は減ったものの、ここ最近はキャンドルやランプ、インセンス(お香)からの出火がとても多いと消防隊員は言っていた。マンハッタンでは火事の原因すらも、移り変わる流行のひとつらしい。
今回の被害はワンフロアだけにとどまらず、出火元の真下の部屋も、火こそ入らなかったものの、かなりの打撃を被ることとなった。天井の一部には穴が空き、消火時の放水で部屋は水浸し。ベッドと電化製品は使い物にならない───つまり、とても住める状態ではないということ。出火元の真下の部屋、それはポールの部屋だった。
火災の被害者には保険会社が仮住まいを提供してくれることになっていたが、それは彼の勤務するヘアサロンからは離れすぎている。
「だったら修復がおわるまで、うちの部屋に住めば?」
そんな何気ないおれの提案から端を発し、さらに進んで「だったらいっそのこと一緒に暮らしてしまおう!」という話になるまでは、さほどの時間を要さなかった。
“ポールと一緒に住むことになった”と、おれが言ったときの、ローマンの第一声はこうだ。
「んまあ! ディーン! やっぱりあなたもわたしたちの仲間だったのね! よくやったわ! ママにもっとよく顔を見せてちょうだい!」
ローマンは目に星を浮かべ、両手でおれの顔をはさみ込み、口づけんばかりに顔を近づけた。きらきらと輝くヘイゼルの瞳。ハンサムのなかのハンサムとは彼のこと。こんな近くで見ても、その顔には少しの欠点も見つけられない。そう、顔だけは。
吸いつくような両手を頬からはがし、おれは言った。
「きみという種族が、この世に一匹しかいないことには同情するけどね、おれのことを“仲間”だと勘違いするのはやめてくれない?」
「あら、それどういう意味?」
「おれとポールはきみが思っているような関係にはなってないってこと」
「プラトニック・ラブなのね」
「プラトニック・ラブじゃない、“プラトニック・フレンド”だ」
「でもキスくらいはしたでしょ?」
「してないよ」
「あきれた! 今どきの小学生より遅れてるわね!」ぐるりと目を回し、おおげさに両手を広げてみせる。
「おれとポールはそういうんじゃない。ルームシェアをしているだけ。単にそれだけだ。おれたちの関係はこれまでと変わらない。友達のままさ」
「あらま、そぉう……」ローマンは胸の前で腕を組み、思案げな表情をしてみせた。「やあね……ポールってば、なに考えてるのかしら? あたしが彼の立場だったら、あんたなんかとっとと押し倒してるとこよ」
「ポールがきみみたいだったら、一緒に住むような馬鹿はしないよ」
「ま、憎らしい。いいわ、あんたも今にわかるわよ。ひとつ屋根の下に若い男がふたり……そんなシチュエーションでなにも起きないわけはないんだから」
“ひとつ屋根の下に若い男がふたり” そんなありきたりのシチュエーションから、“なにも起きないわけはない”などと予測するのはローマンだけだ。この共同生活から導き出される効果は、普通に考えれば、“経済効果”といったところ。マンハッタンの家賃の高さはたぶん世界一。人と住むのは賢明な行為だ。
同居の支度は至極カンタン。友達の数人の手を借りて、ポールの家財道具を八階から、おれの部屋の十五階へと移動させる。あとは休日ごとに、ふたりで家のなかを徐々に整理していけばいいだけ。
「ディーン、これ何かな?」
おれはダンボール箱を解体する手をとめて、ポールのところへ向かった。
「どうした?」
「うん、これ何?」彼は茶色の粉が入った瓶を手にし、眺めている。
「ああ、それか。インドネシアの粉コーヒー。ラベルを貼っておこうか?」
「いや、いいよ。もう覚えた。コーヒーシュガーを探してたんだけど……」
「砂糖はここの棚だ。ほらこれ」言って、シュガーポットを手渡す。
人と暮らすとなると、ひとりだったときには必要でなかったものが必要になってくる。
彼がここで生活するうえで、コーヒーのラべル以外に、おれはどんな配慮をしてあげたほうがいいだろう?
ポールは砂糖壺を開けながら、「そろそろコーヒー休憩にしようか」と提案。「そっちの作業は? きりがいいところかな?」
「こっちはいつでも。“きりがいいところ”なんてまだまだなさそうだ。おれがコーヒーを煎れるよ。そのあいだテーブルの上を片付けてくれるか?」
「うん、わかった」
うちのコーヒーメーカーはエスプレッソとカプチーノも作れる優れモノだ。よってその使い方はちょっとややこしい。この操作方法もいずれはポールに憶えてもらわないと。
“人と住むのは賢明だ”とさきほど述べたが、その賢明な選択を人生にを導入するのは、おれにとってこれが初めてのことだ。ガールフレンドを部屋に泊めることは、これまでに何度もあり、それは歯ブラシと着替えを常備するほどまでになってはいたが、彼女たちとは、本格的に生活を共にするまでには至らなかった。一緒に暮らそうかという話が出たこともあるが、『それならここを引き払って、もう少し広い物件に移ろう』とか、『庭があるところだったら素敵』とかを、あれこれ言い合っているうち、交際そのものが終了するというのが、これまでのパターン。ガールフレンドと一緒に住むことになれば、どうしたって結婚のことを意識しないわけにはいかない。同棲のプランが持ち上がるたび、実現する前に別れてしまうのは、おれ自身、結婚というものをプレッシャーに感じている部分があるからだ。
今回ポールとの同居がスムーズに実現したのは、火事というアクシデントに見舞われたことと、彼とは結婚を意識するような間柄ではないということ。そのふたつの要素がなかったら、きっとおれはこれまで通り、ひとりで暮らすということを選択し続けたに違いない。
リビングとつながる対面カウンターの小窓から、ポールが顔を覗かせた。
「テーブルを片付けたよ……ああ、いい匂い」コーヒーメーカーから立ち上る香りに、目を細め、「人にコーヒーを煎れてもらえるってのは、やっぱりいいね」と微笑む。
共同生活から導き出されるのは、経済効果だけにとどまらない。煎れたてのコーヒーの香りを共有する相手がいるということ。そうした愉しみも同居のメリットだ。
ゴミ袋とダンボール箱に囲まれつつのコーヒーブレイク。部屋の中央に置かれたシェーズロング(細長いひとりがけの寝椅子)は二台。それをためつすがめつ眺め、ポールが言う。
「ぼくたちが並んで横たわっていたら、ビーチで日焼けしているみたいに見えるよ、きっと」
「ああ、手にマイタイを持てば完璧だ」
黒いほうはポールので、ハラコ柄はおれの。別に一緒に買いに走ったわけじゃない。これはただの偶然。ル・コルビジェは誰もが好きなデザイナー家具だ。
「きみもこのアルバム持ってるんだ?」
BGMにと流しっぱなしにしているiTunesに耳を留めるポール。今かかっているのは、ニューヨーカーならきっと誰でも一枚は持っているであろう、ルー・リードの作品。
「CDにもラベルが必要かな?」と、おれは訊ねる。
「必要ないんじゃない? きみのCDとぼくのCDが入れ替わっても中身は一緒だ」
「おれのCDケースはキズだらけだ。よくそのへんに置きっぱなしにするから」
「じゃ、それで判別がつくね」
話は音楽のことに及び、お互いどんなアルバムを持っているか、照らし合わせてみようということになった。こういうことをして遊んでいるから、部屋の片付けは一向にはかどらない。
結果、ルー・リード以外にも、かぶっているアルバムは何枚かあった。音楽の趣味はボーダーラインをクリア。どちらかがミュージカルマニアだったり、隠れハードロックの趣味があった場合、その同居生活は悲しみのうちに終わるに違いない。
コーヒーカップを洗っていると、ポールが「へぇ!」と弾むような声を出した。「ねぇ、見てこんなのまでおそろいだ」
彼の呼びかけにおれは振り向いた。手には泡だらけのスポンジとコーヒーカップを持ったまま。
ポールが指し示すキッチンカウンターには、ドレスを着た女性をかたどったワイン・オープナー。赤いドレスのアンナGはポールのもので、黒いドレスの彼女はおれの。アレッシィの商品はとてもメジャーだが、実のところおれの趣味とはかけ離れている。
「ずっと前にガールフレンドがワインと一緒に持ってきて置いていったんだ。そういうのは自分じゃ買わないな」
「うん、これはぼくも人からプレゼントされた。ふたつ並べるとかわいいね。ダンスしてるみたいで」
「女同士でダンス?」
「彼女たちもゲイのカップルなのかも」
おれはあいまいな笑みを浮かべてその言葉をやりすごす。ポールはそれに気づき「ごめん、ぼくたちはちがうよね」と苦笑した。
男同士がひとつ屋根の下に暮らし始める。そのうち約一名はゲイ。ここまでの情報から“ふたりはカップル”だと思うのは想像力過多だろうか? おれたちの関係はそうではないが、いい年をした独身男がふたりで暮らすというキーワードを聞けば、その答えが導き出されてもなんら不思議ではない。
「ディーン、そでが……」
「ん?」
「そでが落ちてる。濡れるよ」
ポールはおれのシャツの袖を折って上げてくれた。彼はこういう細かいところに気がつく男だ。それは美容師という職業によるものなのかもしれない。
今のような絵面を見て“ふたりはカップル”だと思うのは想像力過多だろうか? もちろんおれたちの関係はそうではない。しかしそう見えるかもしれないことは事実。まあでも、他の奴らにどう思われるとかは別にどうでもいい。問題は“おれたち自身”がどうであるかということ。自分たちが関係性をきちんと理解していれば、同居については何の問題もないし、アンナGシスターズが幸福なゲイカップルだとしても、おれは構わない。彼女たちはワインオープナーとしてはとても有能な腕(足か?)を持っている。そもそもローマンの言ったようなことが現実化するとは、考えにくいこと極まりない。ポールは分別のある男だし、おれは完全なるストレート(しかもかなりの女好き)。さきほど彼が言ったように『ぼくたちはちがう』のであって、だいたいそうでなけりゃ、とても男同士いっしょに暮らすなんてことは不可能というものだ。
ポールは素晴らしい友達だ。ディーンがストレートでも構わないと彼が思うように、ポールがゲイでもおれは構わない。おれたちの関係はシスターズとは違う。おれたちはそれをよくわかっている。
キッチンでオレンジを絞っているところに、マフラーをぐるぐる巻きにしたポールがやってきて声をかける。
「これから買い物に行くんだけど、なにか必要なものある? 洋服以外で」
“洋服以外で”というのは、今シャワーを浴びたばかりのおれが素っ裸でいることを皮肉ったコメントだ。(ちなみに腰にはバスタオルを巻いている。いくらなんでもそれだけは、一応)
「どこに行く?」オレンジジュースに口をつけ、おれは訊いた。
「スーパーマーケットとドラッグストア」
「アフターシェイブが切れそうなんだよな……あと、電池とチーズと……一緒に行った方が早いか」
「外は寒い。何か着たほうがいいよ」
「忠告ありがとう。そうするよ」
おれもマフラーを首に巻きつけ、準備完了(もちろんそれ以外もちゃんと身に着けている)。
アパートメントのエントランスを出たところで、ポールは「あれ……」と足を止め、入り口の扉を押さえているひょろっとした若者に「やあ」と声をかけた。それに応え、「こんにちは」と痩せた若者。茶色の巻き毛が、顔の前にヤル気なさげに垂れ下がっている。
「ヘンリーはどうしたの?」とポール。
ヘンリーとは、このアパートメントのドアマンの名前だ。いつもここに立っているのはヘンリーで、痩せたところはこの青年とよく似ているが、その年齢は倍も違うだろう。
若いドアマンは答える。
「ヘンリーはしばらく休暇です」
「そうなんだ。どっか旅行にでも行ってるのかな?」とポール。
「叔父は実家に帰ってるんです。おれはそのあいだのピンチヒッターで」
「へぇ、きみはヘンリーの甥御さんなの? 彼の実家ってロンドンだよね」
「ええ……はい、そう……ロンドンのばあちゃん……エンリー叔父の母親なんすけど、彼女がぐわい悪くって」
「そうなんだ、それは大変だね」
「もう九十五だし」若者は肩をすくめてそう言った。九十五だったら何が起きても仕方ないとでも言うような仕草だ。
寒さに鼻を赤くしているドアマンを後にし、おれたちはセントラルパーク方面に向かう。話題はさっきの“イングリッシュマン・イン・ニューヨーク”。
「ほんとにああいう言い方するんだな。“エンリー”」おれがそう言うと、ポールも「まさにイギリスって感じだね」と同意した。
「ヘンリーがロンドン出身だなんて、ちっとも知らなかった」
「そうだね、彼は訛ってないし。言わなきゃ誰もわかんないと思うよ」
「きみはすごいな」
「すごい?」小首を傾げるポール。
「すぐに人とうちとける。さっきもそうだ」
「さっきのは世間話。“うちとける”ってほどじゃない」
「それでもおれよりは気さくだ」
「美容師って商売柄、他人には興味があるんだ」
「“商売柄だから”じゃなくて、それはきみの本質的な部分だろ? そもそもそういう商売を選んだわけだし」
「そうだね。でも誰にでも愛想がいいってわけじゃないよ。一応、相手は見てるつもり」
「うん、それは大事だ」
見ず知らずの人と親しくなる。それはこのマンハッタンでは危険をともなう行為のひとつだ。話しかけられても、話しかけても、まずは警戒しなければいけないという危険な島におれたちは住んでいる。
「きみから見て、さっきの彼は“安全”の範疇にいるってことだな」
「ドアマンが危険だったら困るよ。それにちょっと可愛い子だったしね」
「可愛い? ああいうのが好みとは知らなかった」
「好みってわけじゃないけど……」
「ヘンリーはいずれ戻って来る。勝負をかけるなら早いうちにだ。ドアマンなら毎日会えるわけだし、機会は多い」
ポールはちょっと困った顔をして「ローマンみたいなこと言わないでくれない?」と笑ってみせた。
『ああいうのが好みとは知らなかった』後になってみると、これは失言だったと思う。
『ちょっと可愛い子だったし』これもある意味、ポールの失言。
ほんのわずかな会話のズレ。この時点ではおれたち、どちらもそれに気づいていない。
気がつかれないままにただ終わる事柄と、あのときの予兆に気がついていればと思う事柄。これはたぶん後者の方。電池とチーズとアフターシェイブに気を取られているおれは、かすかな予兆には気がつかない。
電池とチーズとアフターシェイブ。気にかけるべき事柄はこれだけ。それが幸福なことだとは、今のおれには思いもよらないことなのだ。
マーケットの乳製品コーナーでチーズをみつくろっていると、ポールがやってきて、おれの肩をぽんと叩き、「あっちに違う種類のチーズがいっぱいあるよ」と教えてくれる。
「あっち?」
「常設の棚じゃないとこ。こっち」言って、ぐいとおれの手を引っ張る。
“こっち”と言われ、手を引かれるなど、ガールフレンド以外にはあまりされることはない。ちょっとびっくりしつつ、おれは彼に誘導される。さほど必要でない場面においてスキンシップするのは、おれの場合、恋人相手にしかあり得ない。しかしポールはこれを少しも気にしていないようだ。人に触れるのを職業としている彼は、スキンシップについての捉え方が、きっとおれよりずいぶん違うのだろう。おれたちが子供の頃、思春期前の年齢だった時分には、“男の子同士”で、こんなことはしょっちゅうだったはずだが、大人になった今のおれには、簡単に男に触れるという習慣がない。無邪気に手を引くポールがどう感じているかは知らないが、こうした何気ない触れ合いに、おれは相手を意識する。べつに意識したくはないのだが、それでも意識してしまうのだ。
たどりついた特設スペースでは、フランスのチーズフェアが開かれていた。
「ね? さっきのとこより種類が多い」ポールは微笑み、手を離した。そこでおれはほっとする。なぜほっとする必要があるのかはわからない。そもそも“ほっとする”ということは、“必要”とは何の関係もないはずだ。それでもおれはほっとしてしまう。したくはないのに意識してしまうように、それは自動的に発生する感情だ。
「白カビのが好きなんだよね?」意識する必要も、ほっとする必要もないはずの、安全な友人であるポールが言う。「これは? 食べたことある?」
「ああ……うん、たぶん。いや、どうだったかな……」
「ぼくも半分払うからさ、これ買ってみない?」
同居のメリットは経済効果。ふたりで買えば、いろいろな種類のチーズが楽しめる。コーヒーメーカーの使い方を覚えてもらう必要があるように、おれもこういうのに慣れる必要がある。手を引かれたくらいでびっくりしているのも今だけだ。慣れればきっとなんでもないことになるんだから。
電池とチーズとアフターシェイブ。必要な買い物を済ませ、カフェでちょっと休み、本屋に寄ってから、アパートメントに戻る。所要時間は3.5時間。ひとりで買い物をするときと比べ、倍以上もの時間がかかったが、体感時間としてはその半分以下に感じられる。この現象について、アルバート・アインシュタインはこう述べている。
『あなたの手を一分間、熱いストーブの上にかざしてみてください。それはまるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。素敵な女の子と一緒に座っているなら、一時間も一分間のように短く感じます。それが“相対性”というものです』
素敵な女の子と一緒でなくとも相対性理論は働いている。気がつけば、すっかり日が暮れていたのがその証拠だ。
アパートメントのエレベーター、△ボタンを押すおれの袖口からのぞいた腕時計に目を止め、ポールが驚いたように言う。
「もうそんな時間?」
「キャラメルマキアートに思いのほか時間を食ったな」
「《楽しい時はすぐに過ぎ去る》だね」
ことわざを引用し、現在の状態を簡潔に述べる彼。おれは物理学、ポールは言語学。言わんとすることはどちらも同じだ。
エレベーターに乗り込むと、ポールは〔8〕のボタンを押した。続け、おれが〔15〕を押すと「間違えた」と笑う。
「まだ慣れない?」
「頭ではわかってるんだけど。習慣だね、無意識で押してた」
エレベーターは八階で止まる。扉が開いた瞬間、揮発油の匂いが漂ってきた。なんだか美術学校を思い起こさせる香りだ。
「作業員は帰った後だね」とポール。「ね、ちょっと降りてみない?」
「シンナー臭に惹かれたな?」
「うん、ペンキの匂いは嫌いじゃないよ」
ホコリとニスの香るフロアに降りる。改装中の廊下は暗く、床から壁からすべてビニールで覆われた風景は、近未来を舞台としたSF映画のよう。
ぐるっと首を巡らせ、ポールがつぶやく。
「へぇ……廊下まで塗り直すのか。改装っていうよりほとんど改築に近いみたい」
「ここは立地もいいし、市場に出たらすぐ埋まるだろうな」
「部屋は新品同様になるわけだしね。こういうの不幸中の幸いって言うのかな」
「前の部屋に戻りたくなったか?」
「希望すれば戻れるだろうけど……」ポールはここで言葉を切り、それからひょいと肩をすくめ「いいよ、別に」と言う。
『いいよ、別に』その言葉におれは満足を憶える。
「さあ、もう帰ろうぜ」
もう帰ろう、おれたちの住処へ。新品同様じゃないけど快適な我が家。《楽しい時はすぐに過ぎ去る》それが真実なら、一秒だって時間を無駄にしたくはない。おれたちはエレベーターに乗り、シンナー臭に別れを告げた。
電話を留守電に切り替え、携帯はマナーモードに。クッションを叩いてふんわりとさせ、ゆったりと楽な姿勢をとる。今夜の上映作品は『未来世紀ブラジル』。スクリーンでの大迫力は望めないが、誰はばかることなく酒が飲めるのが自宅での映画鑑賞のメリットだ。
「有名なタイトルだよね」DVDのパッケージを見ながらポール。「モンティ・パイソンのメンバーが監督してるんだっけ?」
「さすが我が友人。よく知ってるな」
「そりゃあ、きみからモンティの英才教育を受けたから」
「テリー・ギリアムの最高傑作を見逃す手はないぜ。『12モンキーズ』よりもずっと素敵だ」
「これはモンティの英才教育の続きなんだね。なにを食べながら観ようか? ポップコーン? ナチョス?」
「その両方だ」
「うわ、それは最悪で最高」
溶けたチーズをたっぷりかけたナチョスと、バターが染み込んでベトベトになったポップコーンを、たっぷりの皮肉とユーモアが染み込んだイギリス映画と組み合わせる。こんな暴挙が許されるのは男友達ならではじゃないだろうか。
同性の友人と過ごす時間は、異性の恋人と過ごすのとはまったく違う種類の幸福だ。人と暮らすことが自分に向いているとは思ってもみなかったが、油と炭水化物をビールで流し込んだり、眠くなるまでDVDを観たりしていると、同居の醍醐味というものが徐々に理解できてくる。それでいて生活の気楽さはひとりでいるときとさほど変わらない。洗面所の育毛剤も隠さなくていいし、素っ裸でオレンジを絞ってもいい。
ずいぶん昔、おれがいつものように風呂あがりにバスタオル一枚でいたところ、当時つき合っていた女性から、「ここってフットボール部の控え室なの?」と、皮肉を言われたことがある。これを以て、世の女性にとって男性が生まれたままの姿でいていいのはベッドのなかだけだということをおれは知った。
エンドロールもそこそこに、おれはアルコールを求め、冷蔵庫へと向かう。口元には主題歌のブラジル・サンバ。ここに一緒にいるのがガールフレンドだったら、たぶんこの曲は歌わない。“ムード”とか、“ロマンティック”などを大切とする相手には、ブラジル・サンバは致命的な選曲としか言いようがないからだ。
「ビールまだある?」とポール。おれは冷蔵庫を覗き込み、「あるよ」と返答。
「あるのか……聞かなきゃよかった」
「なんだって?」意味もわからずにおれは笑う。
「“ない”って言ってくれれば、苦しむことはなかった。ああ、どうしようかな……今日はもう飲み過ぎだってのはわかってるんだ」
「明日は日曜。きみも遅番だろ?」
「そうだけど……」
ポールが口ごもるのもよくわかる。おれだって空き缶の数を数えるのはちょっと恐い。リサイクルに出したら一体いくつ5セント玉が戻ってくることやら。ビールと脂肪と炭水化物、自堕落すぎて危機感すら憶える、ちょっとヤバい種類の幸福。
「ビールじゃなくて、ワインを開けようぜ」堕落にさらに拍車をかけるおれの提案。
「今から? ホーマー・シンプソンでもここまではしないな」
「そうさ、彼は妻帯者だからな。おれたちはとは身分が違う」
「ホーマーみたいに太るかも」
「今はそのことを考えるのはよそう」
「そうだね。ジムで体脂肪を測定する瞬間までは忘れることにしようか」
「よし、ワインを開けるぞ! これは最悪で───」
「───最高」
ワイン・オープナーのレディを登場させ、コルクをぽんと引っこ抜く。おれたちは幸福を享受していた。───だいたいこのあたりまでは。
「その格好でオルガンを弾く?」
台所にやってきたポールは開口一番、そう言った。
一瞬、何を言われているのかわからなかったが、自分の格好を思い出して合点する。“未来世紀ブラジル”の監督、テリー・ギリアムが十八番とする役に“裸のオルガン弾き”というのがある。それは読んで字のごとく、裸でオルガンを弾くという、シンプルなコントのキャラクターだ。
おれは風呂上がりで、冷蔵庫からよく冷えたペリエを取り出していた最中。つまりまたしても素っ裸(腰にはバスタオルを巻いている。しつこいようだが、一応)
「もしオルガンを弾くんでないんだとしたら、何か着てくれる?」とポール。そして「フットボール部の控え室にいるみたいだから」と言って肩をすくめる。
それに対し、おれの口から飛び出した言葉はこうだ→「───目の毒?」
“しまった” そう思ったのは、ポールがキッと目を細めてこちらを見たからじゃない。彼が口を開き、何かを言いかけてやめ、黙ってキッチンを出て行ったからでもない。部屋の温度が瞬時に下がったのをおれは感じたし、それが自分の言葉によるものだということも瞬時に理解できた。言ったそばから後悔するようなジョークってあるだろ? 今のがまさしくそう。
「まずかったな……」
ペリエの横にいるアンナGシスターズに話しかける。シスターズは笑顔で『そうね』と同意した。
あんなジョークを言うつもりじゃなかったんだ。
『あら、あれはジョークだったの?』黒いドレスのアンナGがそう言うと、赤いドレスのアンナGも『ジョークって言うより皮肉よねぇ』と続ける。
皮肉だって? 皮肉なんか言うもんか!
『でも相手は笑わなかったでしょ』
『そうよ、ジョークにしちゃ笑えなかったわ』
ああ、おれだって笑えない。そもそも笑わそうとか意図したわけじゃなく、さっきのはつい、なんとなく口から言葉が転がり出たんだ。
『“つい、なんとなく”ですって?』
出た。シスターズよりも恐ろしい、ローマンの幻聴。もしここに彼がいたら、おれはきっとこっぴどく説教を食らったことだろう。腕組みをして、冷ややかにおれを見下ろす様が目に浮かぶようだ。
『ストレートの男は、時にゲイを警戒しすぎるきらいがある』
これは偉大なるローマン・ディスティニーが唱えた説のひとつで、彼によると、ストレートがゲイに不愉快な思いをさせられていると思うのと同じぐらい、ゲイもストレートによって不愉快な思いをさせられているのだとか。
その説が発せられるや否や、同席していたゲイの友人たちは一斉に首を縦に振り、口々に“不愉快なストレートによる体験”を告白しはじめた。
「そーなのよ! あたしがゲイだとわかったとたん、そいつったらこうよ “ねぇ、きみはなんでぼくの隣に座ったの?”だって!」
「ゲイだったら誰かれ構わず、男とヤリたがるって思ってんのよね」
「股の間にぶらさがってるものをしゃぶられると思ってビビってんでしょ!」
「またそういうのに限って、お粗末なルックスなのよ」
「“自分はゲイに犯される価値がある” なにを根拠にそう思うんだか理解に苦しむわ」
「うぬぼれてんのよ。馬っ鹿みたい!」
ゲイ差別主義者に向けられた、彼らのキツイ言葉に耳を傾けながら、円卓の中でゆいいつのストレートであるおれは自問する。“自分にその要素がまったくないと言いきれるだろうか”と。
もちろんおれは同性愛差別主義者ではない。だがこれまでの人生でゲイにまつわるジョークや悪口を一度も口にしたことがないと言えば、それは嘘になる。彼らが“不愉快なストレートによる体験”をしているのと同じように、おれもゲイの男から、少なからず嫌な思いをさせられている。しかし不愉快なちょっかいを出してくる奴がゲイだとしても、“ゲイであること”が不愉快なことをさせるわけじゃない。ストレートであってもゲイであっても、嫌な奴は、嫌な奴。性癖はそれになんの関係もないはず。それがわかっていながらも、男から尻をなでられたストレートは恐怖にかられ、思わずこう叫んでしまうのだ。
『なにすんだ! このホモ野郎!!!』
もしポールがゲイでなかったら、裸のおれに向かって“何か着てくれ”などと言っただろうか?
『フットボール部の控え室にいるみたい』そう言ったのはかつてのガールフレンド。まさかここでまた同じ台詞を聞かされるとは思ってもみなかった。
もしポールがゲイでなかったら、おれは彼に向かって“目の毒?”などと言っただろうか?
『うぬぼれてんのよ。馬っ鹿みたい』
おれはうぬぼれの強いストレート? まあそうかもしれない。ママはおれのことを“ハンサムくまちゃん”と呼んでいたし、女の子たちは競っておれの胸に頭を乗せたがったんだ。これで自分に自信がないんだと言い切るほど、おれは厚顔無恥ではない。
うぬぼれが強いかどうかはともかく、今後はもっと気をつけよう。裸でウロウロしたりせず、クリス・ロックのゲイ差別ギャグに馬鹿笑いもしない。理由はどうあれ、相手に配慮を持つのは当然のこと。それが人と暮らすってことなんだから。
冷たいペリエを冷蔵庫に戻し、すっかり冷えきった身体に何か着せてやるべく、おれは自分の部屋へと向かう。なんでもいい。まずは何か着よう。これじゃまるでフットボール部の控え室にいるみたいだもんな。
第二のイグニッションは、それから割とすぐに発生した。
場所は自宅の洗面所。時間は朝の八時。あごを泡だらけにして、手にカミソリを持っていると、ポールがあらわれた。
「洗面所を?」おれは口に泡が入らないように注意をしながら、最小限の単語を発した。
ポールは「後でいいよ。ぼくはぜんぜん急がないから」と答える。しかし“ぜんぜん急がない”と言いながらも、彼は去ろうとしない。
「張り紙を見た?」とポール。
「張り紙?」ヒゲを剃りながらおれ。
「今日の深夜一時から四時までの間、ガスが使用できなくなるって」
「そうか」
「うん」
“深夜一時から四時までの間”。その時間にガスを使うことはおそらくないだろう。なにも今、火急に伝えなければいけない情報だとは思えない。ポールは鏡の中のディーンを見つめ、会話を続ける。
「あのさ、トイレットペーパーを使いきったら補充しておいてくれないかな」
「してるよ」
「いつもぼくが換えてる」
してるって言ってるのに。
「いつもってことないだろ?」
「いつもじゃないにしても、ぼくが入ったときにペーパーが切れてることがある。このうちにはふたりしか住んでないんだから、ぼくじゃないとしたら犯人はきみしかいなくない?」
肩をすくめ、いたずらっぽく笑うポール。軽く冗談めかした言い方で、忠告を促しているのだということはわかる。しかしこの話題も今じゃなくてもいいと思う。血圧が低いおれは、朝に弱い。眠気とダルさで口が重たくなり、会話をするのもおっくうになるのだ。
「……忘れたこともあったかもな。以後、気をつけるよ」
ぞんざいに答えたその瞬間、鋭い痛みが頬に走った。泡にまみれた鏡の中の顔、その頬に、みるみる赤いものが滲んでくる。ぞんざいになったのは言葉だけではなかったらしい。ヒゲを剃りで失敗するなんて久しぶりのことだ。
ポールは背後から鏡を覗き込み、「ごめん」と、つぶやく。
「なんで謝るんだ?」
「ぼくが話しかけたからだ」
「カミソリを持ってたのはおれだぜ? おれがうっかりしたんだ」
「でも……」
「きみが謝ることじゃない」冷たい水で泡を流す。顔を拭うと、真っ白なタオルに血がついた。
「薬を塗らないと」とポール。
「いいって、こんなのトイレットペーパーでも当てときゃすぐとまる。気にするなよ、オーケー?」
「……気にされるのは迷惑?」
「どういう意味だ?」
おれがそう訊ねると、ポールは黙ってしまった。“どういう意味だ?”は言い方がキツかったかもしれない。蛇口を閉めて、もう一度ていねいに聞き返すと、ポールは「気にしないではいられない」と答えた。
「誰のせいであろうと、友達が顔から血を流していたら、ぼくは気にしないではいられないんだ。でもそれが迷惑だっていうなら、今後は何も言わないように気をつけるよ」
「おおげさだよ」
おれはそう言って少し笑う。ポールは笑わなかった。なんとなく妙な空気だ。何か言うべきなんだろうかと、おれが考えていると、ポールはなにかが腑に落ちたとでも言うように小さく頷き、無言のまま洗面所から出ていった。
こっちはなにも腑に落ちていない。だが今のやりとりを蒸し返したくはない。蒸し返す? なにをだ? いったいなにがどうなったって?
頬の傷はと鏡を見ると、それは思ったより深かったらしく、顔面はホラーの様相を呈していた。床に落ちた血をトイレットペーパーで拭い、バスタブに腰掛け、頬にタオルを押し当てる。朝は誰だって忙しい。悠長にヒゲを剃っていられるのはひとり暮らしでいるうちのこと。朝っぱらから洗面所を独占しないよう、今後は電気カミソリを使った方がよさそうだ。
頬の痛みは続いている。薬を塗った方がいいことはわかっていたが、ポールの好意を断った手前、そうはしたくなかった。いったいなにがどうなったって、自分に関して言えば簡単なこと。おれは意地になっているのだった。
たとえばこうだ───。
バスタブにお湯を貯めようとして、コックをひねる。そのとき、蛇口の切り替えが[下]に、なっていなかったせいで、服を着たまま頭から冷水をかぶってしまった。
『ああ! くそ! やっちまった!』
そんな体験は誰でもある。しかしコックを戻し忘れたのが、自分ではなく別の誰かだとしたら。『ああ! くそ! やっちまった!』の後に、こう言葉が続くのだ。『あいつがちゃんとしてくれていたらこんなことにはならなかった』と。
そんな不幸はまだ訪れてはいないが、これはほんの一例。自分がやらかしてしまった失敗については、ただ自己反省すればいいだけの話だが、ここに相手が関わってくるとそうもいかない。係わる相手がいるということは、自分の感情を向ける対象がいるということ。愛情だろうと腹立ちだろうと、それは自動的に発生し、相手へと向かう。その流れを無理に押さえ込むとどうなるか? それこそがすべてのニューヨーカーが抱えていて、あまたのセラピストを儲けさせている主な原因───“ストレス”と呼ばれる、緊張状態に我々は置かれるのだ。
休日の午前中、癒しを求めるおれが向かうのは、ヘンな柄のセーターを着たサイコセラピストの元ではなく、自宅にあるコーヒーメーカーの前。頼もしいマシンは確実に仕事をこなし、エスプレッソの香りはキッチンいっぱいに広がってゆく。
近年、アロマキャンドルやインセンス(火事の原因にもなっている例のアイテムだ)などがもてはやされるようになったのは、その香りがもたらす“癒し効果”が広く知られるようになったからだ。ある特定の匂いで精神の安定が図れるという説にはおれも同意で、コーヒーが抽出される香りはリラックスをもたらす効果があると思う。香りはリラックス、飲むとエキサイティング。それってなんだか素敵な女の子みたいだ。
セットしたコーヒーはひとりぶん。低血圧のおれが起き出した頃には、ポールはいなかった。どこかに出かけたらしいが、どこかは知らない。一緒に住んでいるからと言って、相手の行動すべてを把握しているわけではないし、そもそも彼のプライベートについて、詳しく知っているわけでもない。お互いにとって相手が唯一の友人というわけじゃないし、おれよりもポールと親しいヤツはいくらでもいるだろう。女同士の友達は私生活をわかちあってこそという感があるが、こと男同士となると、そうしたことを話題にするのは、女性のそれに比べ非常に少ないような気がする。おれはこれまでポールと多くの時間を過ごしてきたが、一緒に暮らしてみると、彼のことを多く知っているとは言えないという事に気付かされた。今日はどこに行ったのか、どんな友達と会っているのか。なんとなくすら、その想像はつかない。いつもおれたちはどんな会話をしてたっけ? 映画や音楽、社会情勢やゴシップ、最近買ったもののことや、話題になっているショップのこと。あんなに何時間もしゃべっていたにも関わらず、相手の私生活についてはさほどの情報を持っていない。干渉することがあまり好きではないとはいえ、こういうときに“たぶん彼はどこそこに行ったんじゃないかな?”くらいの予想もできないなんて、ちょっとそれは友達としてどうなんだろう。
キッチンカウンターにもたれかかり、寝ぐせのついた髪をほっぽったままエスプレッソをすすっていると、玄関のカギが開く音がした。
「外は寒いか?」
リビングに進み入ったポールにそう声をかける。どういうわけか、彼は少しびっくりしたような顔でこちらを見た。おれがいるとは思ってもみなかったというような表情だ。
「どこに行ってたんだ?」
「ホールフーズに」
「スーパーマーケット? ずいぶん長いこといたんだな?」
彼は手ぶらだ。野菜も缶詰も持っていない。
「ユニオンスクエアの店舗に行ったから。なかのカフェでお茶してた。あそこ公園が見えるし、気に入ってるんだ」
ポールはマフラーを外しながらそう言い、おれが手にしているコーヒーカップに目を留めた。
「あ……コーヒー、飲むか? 容れようか?」
「いや、ホールフーズのカフェでもう……」
「あ、そうか」
たった今そう言ったばかりじゃないか。これじゃまるでちっとも話を聞いてないヤツみたいだ。
わずかの沈黙が流れ、ポールはそのまま自室へ消えた。沈黙は置きっぱなし。残されたのは寝ぐせ男。
なんだろう、なにかがヘンな感じだ。やりとりにおかしなところはなかったと思う。『どこに行ってたの?』『どこそこだよ』よくある会話だ。なのにどうしてヘンな感じに? こういう空気はこれまでに何度か体験したことがある。アリッサ、ベッキー、ジル、シャーロット=アン。ひとたびこうなると、どの女性とも一か月と保たなかったが───。いや、そうじゃないだろ。おれたちは恋人同士ではないわけだし、ここにかつての法則があてはまるとは考えない方がいい。たとえ恋人同士であったとしても、かつてうまくいかなかった法則を当てはめるのは、あまり健全なことじゃない。
いっそこれが恋人同士だったなら。こういう雰囲気を打破するのに肉体的接触を使うこともできるだろう。それはつまりハグとか、キスとか、セックスとか───。うだうだ言う脳みそを停止させ、肉体と本能を使って、愛と笑いを復活させる。絶対にお互いに触れたくないと思っているような状態でさえも、これをもって打破することが可能な場合もある(失敗するときもあるが)。
では男友達には? こういうときはどうしたらいいんだろう? 女性とのやりとりでは、かなりの修羅場を超えてきたと自負のあるおれだが、こと男同士となると、なにをどうしていいのやら途方に暮れる。昔からおれは同性との付き合いが苦手だった。苦手なものを避け続けた結果、今に至るわけだから、途方に暮れるのもやむなしというもの。おれが未だにフランス語が話せず、ジェイムズ・ジョイスを読み終わらず、棒高跳びができないのも、苦手なものを避け続けた結果だ。
肉体的接触以外の手段はないのかって? 関係性がマンネリ化したとき、アリッサには彼女が前々から欲しがっていたものをプレゼントして(あれはなんだったかな、ハンドバッグとかだっけ?)、行きたがっていたレストランに予約を入れた。シャーロット=アンには花束とバレエ(バレエ!)のチケットを送り、一緒にそれを鑑賞し、カーテンコールまで眠らないよう努力した。もちろんこの方法もまた、肉体的接触と同じくらい有効ではないことはわかっている。男友達に花束やハンドバッグを贈る馬鹿はいない。しかし、おれの辞書で“仲直り”や“関係の改善”の項を開くと、『“贈り物”の章を参照』とか『“スキンシップ”に同じ』などしか書かれていないのだから仕方ない。“花束とハンドバッグ”、なんだか自分がすごく浅はかな人間に思えてきた。
「そうよ。あんたは底の浅い男なのよ」
ブラッディ・マリーをすすりながらローマンは無下に言い放つ。急な呼び出しに応えてくれた優しい友達。彼の辛辣な言葉は、その優しさと実にうまくバランスをとっている。
「二十八年も生きてきて、おれに貼られたラベルはそれなのか? “ディーン・ケリー、違いのわかる底の浅い男”───」
「語呂はいいわね。カードに書いて首から下げておく?」
雰囲気のいい英国風のパブで待ち合わせ、カウンター席に並んで座る二人の男前。ひとりはゲイでひとりはストレート。どうも最近この組み合わせが多い。
酒を呑むには少し早い時間だが、込み入った話をするには、アルコールで舌を湿らせたほうが具合がいい。おれはこれまでの経過をローマンに説明した。ポールとは何かがうまくいっていない。なぜだかわからないけど、ただなんとなくそうなってしまったという話を、できるだけ丁寧に。問題になるような具体的エピソードがあるわけではないので、どう話したらいいのかずいぶん戸惑ったが、その混乱こそが現状をよく表していると、ローマンは忍耐強く耳を傾けてくれた。
「ポールとは話し合ったの?」
「いや、特には。喧嘩をしたとかいうんでもなし、“話し合う”っておかしいだろ。おれたち別に何もなってないんだから。現状に関して言えるのは、“底の浅いおれ”ってのを認識したことだけ。それを知る前までの人生の方がハッピーだった」
「そう悲観するものでもないわ。自覚は治癒への第一歩って言うでしょう? “自分は底が浅い人生を歩んできたな、さて、じゃあどうしたらいいんだろう?” そうやってどんどん道を切り開いていくのは素敵なことよ」
「“さて、じゃあどうしたらいいんだろう?” おれはそこでとまったよ」
「安心しなさい、とまってやしないわよ。あたしとこうやってしゃべっているでしょう?」
彫刻のような美しい顔に、天使のような笑顔を浮かべるローマン。それから「いっそヤッちゃって仲直りって手もあるけど」と、微笑みを卑猥へと変える。これさえなきゃイイ奴なのに。
おれは顔をしかめ、「それが“浅い人生”を脱却しようって奴に言うアドヴァイスか?」と彼に言う。
「あら、セックスのある人生は“深い人生”よ。少なくともあんたにとっては、間違いなく“深い人生へのいざない”ね。ストレートがゲイになるんだから、そりゃもう興味深いこと山のごとしよ」
「きみもストレートになったらどう? 興味深いこと山のごとしだ」
「ポールはとってもいい子よ」
「しってる」
「ストレートと同居なんかさせておくのはもったいないんだから」
「だろうね」
「試しに付き合ってごらんなさい。あの子は間違いなくあんたを幸せにしてくれるわよ」
「試しに付き合ってみるなんて出来ないよ」ジントニックを飲み干し、おかわりを頼む。「彼はおれのことを好きだって言ってくれた時期もあったけど───」
「あの子は今でもあんたが好きよ」
「……とにかく、“試しに付き合ってみる”なんて絶対に無理だ」
「やってみなきゃわかんないこともあるわよ。飛び込んでみてはじめてわかるのが人生だもの」
「そりゃあ、おれだって。相手が女性なら今までどんどん飛び込んできたさ。インスピレーションで付き合って、合わなきゃやめる。シンプルなことだ。でも今回はそういうのとは違う」
「男同士だから?」
「もちろんそうさ。でもそれだけじゃない。おれはポールが好きだし、彼との関係を大事にしたいと思ってる。“うまくいかなかったら、じゃサヨナラ”なんてふうにはしたくないんだ。“じゃあ付き合おう” それでしばらくして、“やっぱり駄目でした”なんて、そんなの。軽々しい選択をして親友を失いたくはない」
「このままなら失わないとでも?」
ジントニックが目の前に置かれた。言葉を失ったのは酒に目を奪われたからだと、ローマンは解釈してくれただろうか。
「あんたには素質があるとあたしは踏んでるの」
「素質」
「ゲイの素質よ」
「なんか頭が痛くなってきた……」実際に頭を抱えると、ローマンはおれの手を優しくとり、テーブルの上にそっと戻させた。
「まあでも、わたしは嬉しいわね。“うまくいかなかったら、サヨナラなんてふうにはしたくない” あなたがそんなふうにポールのことを考えてるって思わなかった」
「そんなふうにって?」
「真剣にってこと」
「そりゃあ友達だからな」
「経済効果のためだけに一緒に暮らし始めたってわけじゃないのよね?」
「そもそもの理由はポールが焼け出されたからだ」
「あら、じゃもし焼け出されたのがわたしでも家に置いてくれた?」
「それは……」
「彼だからなんでしょ?」
「暮らしやすい相手だと思ったんだ。一緒にいて疲れないし、同居に適してるって」
「ルームシェアに適してる人なんていくらでもいるわよ。あなた、暮らしやすい相手なら誰でもよかったの?」
「まさか」
「ポールだからなのよね?」
「ちょっと待てよ……これって誘導尋問じゃないのか?」
その質問にローマンは答えず、おれの顔を覗き込むようにして念を押す。
「ポールのことが好きだからなのよね?」
「もちろんさ! だからさっきもそう言ったろ?」
それを聞くと、彼は満足そうにニンマリと微笑み、カクテルに手を伸ばした。
「あなたたちの同居に反対だっていう声も少なからずあがってたの知ってた?」
「同居に反対? いったい誰が反対するって言うんだ」
「ポールの友達とかよ。初耳?」
「初耳だ」
「あの子はあなたのことが好きで、あなたはストレート。“もう出だしから不幸の香りがする。きっとトラブルが起きるぞ”って……みんな結構心配してたんだから」
「きみはおれたちが一緒に暮らすことについて賛成してると思ってたけど」
「わたしは賛成よ」
「それはなんで」
「言ったでしょ、あんたには素質があるとあたしは踏んでるの。現にいろいろ物事が動きだしてるわけだしね」
「“不幸の香り”に“トラブルが起きた”ってわけか」
「ねぇ、いいこと。あんたはこれをネガティブに見てるかもしれないけど、それこそ“底が浅い”ってもんよ。物事が今までと違った形に変化するときってのは、一見なにか悪い事が起きたように見える場合があるの。新しい出来事に慣れていないと、それは不快に感じられたりもするわ。準備なくプールに飛び込むようなもんね。あなたは人間関係の新しい局面に立っている。どうやって男の友達と愛情をもって付き合っていくか、これまで学ぶ機会がなかったんですものね? 現象は単に現象であって、結果ではないのよ。悪い事はまだなにひとつ起きてないの。どういう結果を出せるかはあなたたち次第よ」
関係の結果はおれたち次第───そこまで深い話だとは思っていなかった。やっぱりおれは底が浅いヤツなんだろうか。
沈黙を待っていたかのように、ローマンの携帯が短く音を立てた。彼は液晶を確認し、「そろそろ行かないと」と、つぶやく。「これからデートなのよ」
「そうか、金曜の夜だもんな」
「途中でごめんなさいね」
「いや、こっちこそ。忙しいところ急に呼び出したりして。相談に乗ってくれて感謝してるよ」
「ねえ、あなた自分で気がついてる?」席を立ちつつ、彼は言う。「これまで“インスピレーションで付き合って、合わなきゃやめる”ってことを選択し続けてきた人が、“うまくいかなかったら、サヨナラなんてことにはしたくない”って言ったのよ。それってかなり興味深い変化だわ。これこそ“底の深い人生”の第一歩だって思わない?」
「そうかもしれない」
「“かもしれない”なんておよしなさい。あなたはよりリアルな人生に踏み込んだのよ。性的に宗旨替えするようなことがあったらいつでも言って頂戴。そのときこそ、よりディープで役に立つアドヴァイスをしてあげられると思うから」にっこりと微笑むローマン。これからデートだという彼のスーツ姿は一分の落ち度もない。性的に宗旨替えしていないおれから見ても、それは賞賛に値する出来映えだ。
「なあ、きみはもしかしておれを洗脳しようとしてるんじゃないか?」
「あら、今頃気付いたのね」ローマンは華やかに笑いながら、店を出て行った。
洗脳と誘導尋問の部分はともかく、彼の言うことは的を得ている。おれは人生の新しい局面に立っているし、それは底の深い人生への第一歩だ。さすが、有閑マダムを相手にカウンセリングをこなす彼だけはある。最後には言うべきことをばっちりとキメてくれた。
ジントニックのグラスは汗をかいている。その水滴でカウンターに模様を描き、しばらくぼんやりしたのち、店を出る。通りを歩きながら、さきほど言われた言葉を考えるともなく反芻してみる。悪い事はまだなにひとつ起きてないという言葉に励まされはしたが、結局のところ、なにをどうすればいいのかはわからないままだ。
『物事が今までと違った形に変化するときってのは、一見、なにか悪い事が起きたように見える場合がある』
『そうやってどんどん道を切り開いていくのは素敵なこと』
『どういう結果を出せるかはあなたたち次第』
『セックスのある人生は“深い人生”』
……一気にいろいろ言われたせいか、考えがまとまらない。そもそもこれは“考え”を必要とすることなんだろうか?
どうも本格的に頭が痛くなってきた。考え過ぎの知恵熱かもしれない。それともマジで風邪をひいたのかも。そうだとしたら、酒をおかわりするべきじゃなかったかも。そもそも酒じゃなくて、ソフトドリンクにしておくべきだったかも。かも、かも、かも……。かくもすべては不確かなりだ。
『あの子は今でもあんたが好きよ』
おれはその言葉を聞き流した。言われて動揺したにも関わらず───いや、動揺したからこそ、そこに触れたくはなかったのだ。『なんで動揺するの?』とか、根掘り葉掘り、ローマンから聞かれてみろ。小一時間も会話をして、気がつけば“ディーンは実はゲイ”ってところに結論が落ち着いてしまう可能性もある。
ポールは今でもおれが好き“かも”。もちろんそれも不確かな情報に過ぎない。
すっかり重たくなった頭を抱え、なんとかアパートメントにたどりつく。エントランスの見慣れた入り口には、見慣れぬ男が立っていた。柳の木のように痩せた、五十がらみの男性。サイズが合っていないらしい藍色の制服は、肩のあたりが落ちていて、そこはかとない哀れさを醸し出している。彼はヘンリーでも、ヘンリーの甥でもない。第三の男の登場に眉をひそめるおれに、男は軽く会釈をしてドアを開けた。
「ええと……きみは……」
ポールの社交性を見習って声をかけるも、すぐに言葉に詰まってしまった。ドアマンと会話をすることなど、そもそもめったにないわけで、何を言うべきかなどの心得もない。
こちらが黙っていると、彼は気をきかせ「あたしはヘンリーのピンチヒッターでさ」と自己紹介をした。その訛りのすごいこと。うちのアパートにはイギリス人のドアマンしか駐在しないというルールでもあるんだろうか。
「この間までいた彼はどうしたのかな。ヘンリーの甥の」
「いますよ。さっき交代したばかりで。急病だとか」
「ああ、そう」
ということは、何かの魔法でヘンリーの甥がすごく老けてしまったというわけではないんだな。
会話が切れ、しばし顔を見つめ合うアメリカ人と英国人。モンティ・パイソンのコントを思わせる沈黙に、急ぎおれは言葉を探す。
「それじゃ、その……寒いから風邪に気をつけて……」
「ありがとうございます。あなたも」
「おれはもう手遅れみたいだ。さっきから頭が痛くって」
「あれ、それはまぁ……お大事に」
「ありがとう」
このやりとりは、おれがドアマンとした会話の最長記録かもしれない。どうして今までこういう会話をしてこなかったんだろう?
答え→おれは本来、他人への興味が薄いからだ。それがなんで今になってわざわざ会話をしようなんて?
答え→それはきっとポールの影響だ。彼はスーパーマーケットのチーズの試食販売員とだって言葉を交わす。ポールには自然なことなのだろうが、おれにとってそれは新鮮なこと。おれは彼に影響されてる。人と一緒に暮らすとこういうこともあるんだろう。それともこれは『ポールだからなのよね?』ってことなのか。
家のドアを開くと、思いがけず、軽快な笑い声がおれを出迎えた。リビングに入ると、ぱっとこちらに顔を向けるふたりの男。ひとりはポール。彼はソファに座ってくつろいでいる。その右側、おれがいつも座る一人がけの椅子には、若いドアマンがくつろいでいる。
コートも脱がずに立ったままでいるおれに、ポールは「紹介するよ」と言って、おれではなく、ドアマンの方を向いて話し始めた。
「彼はディーン、ここに一緒に住んでる。ディーン、彼はドアマンのピート……って、しってるよね」
しってるとも。ヘンリーの甥のイギリス人だ。ただわからないのはどうして彼がここにいて、そのかわりに中世の地下牢から抜け出てきたような門番が外に立ってるのかってことだ。
「こんちは」ピートは短く挨拶をした。
「どうも」おれはそれに見合う長さの返事を返し、そのまま自室に行って、戸を閉めた。上着を脱いだところで、コート掛けは部屋の外だということに気付く。また出て行くのはおっくうなので、適当なところにひっかけて、ベッドに倒れ、転がってみる。
そうか、おれがローマンに人生相談をしている間、ポールは門番と楽しくやってたってわけか。こういうのなんて言うんだ? 案ずるより産むが易し? さっきまでの自分はとてつもなく無駄な時間を過ごしていたんじゃないかと思えてくる。風邪までひいて、馬鹿みたいだ。
「ディーン、入っていい?」
ノックの音と男の声。消去法でいくと、これはドアマンか同居人のどっちかだ。
「いいよ」応えると、ポールが顔を出した。着替えもせずにベッドにうつぶせになっているおれを見て、「どうしたの?」と訊ねる。
「風邪みたいだ。頭が痛い」
「風邪?」
「ああ、たぶん」
悪寒を伴った諸症状、医師免許を持ってなくとも診断を下せるほどに風邪っぽい。
「大丈夫?」
「ああ」たぶん。
「熱はある?」
知らない。たぶんあるだろうな。おれは心でそう応え、声は出さなかった。
「温かい飲み物を作ろうか?」
「いいよ、客が来てるんだろ?」
「でも」
「いいって、おれのことに構わなくていい」
「……なにか怒ってるね?」
「怒ってない。頭が痛いだけだ」
「そう……」
頷くポール。そこに浮かんでいる表情は、おれの説明に少しも納得した様子ではない。
「もし必要があったら呼んで。なにか欲しいものとか、してほしいことがあったら」そう言って、部屋を出て行こうとする彼に、おれはありがとうの言葉もない。そのかわり、どうしても聞いておきたいひとつのことを口にする。
「あのドアマン……」
「ピート?」ポールは振り向いた。
「ああ、階下にいるドアマンはピートが急病だとか言ってたけど……?」
「急病? それはちょっとおおげさだね」
ポールはくすくすと笑い声を立てる。なにか面白い話なんだろうか、これは。
「急病っていうか……ピートが具合悪そうにしてたのは事実だね。どうしたのって理由を聞いたら、彼、昨日から何も食べてないって言うんだ。それであんまり気の毒だから食事を」
なんだって? それだけの理由で彼はおれの……おれたちの部屋にいるってのか? ドアマンと親しくなれと言ったのは確かにおれだ。しかし、これはあんまり常軌を逸してるんじゃないだろうか。
「……とんだお人好しもあったもんだな」言いながら、ゆっくりとベッドから身を起こす。「腹をへらしてるから家にあげた? このマンハッタンには腹ぺこの奴なんていくらでもいるんだぜ? どこの馬の骨かもわからない男を家にあげるなんて不注意もいいとこだ」
「不注意って……ヘンリーの甥だよ?」ポールは不思議そうな顔をした。
「ヘンリーのことだって知らないだろ?」
「知ってるよ。ヘンリー・ジョーンズ。生まれはロンドン。両親の離婚を期にアメリカに移住。奥さんの名前はメアリで、子供はマイケルとアリスのふたり。マイケルはジュニア野球でバッターをしている。打率は二割九分一厘」
「………………知らなかった」
「だろう?」
「だからと言って、その甥が安全だとは……」
「さっきから何?! ぼくが連続殺人鬼でも家に招いたって言うの?!」
「もしそうだったらどうする?」
「馬鹿馬鹿しい!」
「連続殺人鬼じゃないとしてもだ、きみのやってることは度が過ぎてる。知り合いならともかく、ただ“気の毒”って理由だけで、他人をさっさと招き入れた。気の毒だって? そんなのにいちいち構ってどうするんだ?! アフリカに行けばそこいらじゅう気の毒だらけだ!」
自分の大声が頭に響いた。次に発せられたポールの怒声もまた、おれの脳天を直撃する。
「アフリカ?! なんの話?! 誰がそんな遠くの話をしてるの?! ぼくは自分の身近な人間に、人として普通の感情を抱いただけだ! ドアマンの名前が“ドア・マン”だと思っているきみにはわからなくて気の毒だけどね!」
「ああ、おれは彼には興味がない。いくら可愛かろうとドアマンはドアマンだ」
「可愛い?」
「そう言ったろ?」
「じゃなに? きみのなかではぼくが“可愛い子を連れ込んだ”って話になってるの?」
おれは黙った。こういうときの沈黙はイエスと言ったも同然だ。
ポールはため息をつき、「ストレートと比べてゲイの男性が奔放に見えるのは致し方ないとは思う」と言った。「けどまさかきみがぼくのことをそう思っているとはね」
「そんなこと言ってないだろ! そっちこそなんの話だよ!」
「前にも“裸が目の毒だ”とか言って」
「あれは……!」
形勢が不利になってきたところで、戸を叩く音がゴングよろしく部屋に響いた。ドアを開けたのはポール。現れたのはピート。
「ええと……もしおれのことでモメてるんだったら、おれはもう帰るんで……」
ぼそぼそつぶやく彼に、おれとポールが返事を発したのはまったく同時だった。しかしその内容は真逆。
「いや、なんでもないんだ気にしないで」とポール。
「悪いがそうしてくれ。あんな門番では住人は心もとない」こっちはおれ。
ピートは肩をすくめ、ポールに礼を述べて「ほんじゃどうも」と、出て行った。
「……ご満足?」
ポールはそう言い、嫌いな政治家でも見るような目でおれを見て、部屋を出て行った。そう、おれの部屋からのみならず、彼はこのアパートから出て行ったのだ。(どこにかって? そんなの知るわけない!)。
その晩おれはしっかりと寝込み、ポールは帰ってこなかった。寝込んだのは別に彼が出て行ったからじゃない。これは単に風邪のせいだ。ベッドのなかでアタマがぐるぐるするのも風邪のせいだ。
風邪のせい。
ただの風邪だよ。
そうさ。
風邪。
ほんとに?
うるさい。
風邪か。ああ、そうだよな?
おい、なんで語尾を上げる?
はいはい。
“はい”は一度だ。
はい。
オッケー。
“オッケー”じゃないだろ、風邪なんだから。
それもそうだ。
風邪だ。
そうさ。
この週末で良かったのは、発病した翌日が休日だったということ。病人は心置きなく寝込むことができ、急に会社を休んだ廉で、上司のシーラに体調の管理ミスを責められることもない。
昨日と今日で、何か他に良かったこと言えることがあるだろうかと、ベッドに横たわったままぼんやりと考える。
そうだな、おれはとりあえず生きてるし、アパートメントがテロリストに占拠された気配もない。うん、こいつはいいぞ。ほんとよかった。めでたしだ。
ポールは朝になっても戻らなかった。きっとそのまま仕事に出かけたんだろう。ポールはいない。おれは生きてる。アパートメントも無事。ほんとよかった。めでたし、くそっ。
夕方になって目が覚める。たっぷり汗をかいていたが、思いのほか体調は持ち直していた。
汗をかいたのが功を奏したのか、それともあの頭痛は風邪じゃなかったのか。やっぱり考え過ぎの知恵熱か? それとも風邪に似た別の何かだろうか? 医師免許を持っていないので、診断ミスは致し方ない。
ベッドサイドの目覚まし時計を見る。そろそろポールが帰宅する時間だ。汗で湿ったTシャツを脱ぎ、素早くシャワーを浴びて、マトモな格好に着替え、外に出る。十時間近く食事を摂っていないのだ。なにか栄養のあるものを胃に入れた方がいい。自分に食事させる必要があるから外に出るのであって、昨日の今日でポールと顔を合わせるのが気まずいから逃げ出すというわけではない。なに? 言い訳めいてるって? そんな穿った目で人の意見をみるもんじゃない。アンナGシスターズがチキンスープを作ってくれるというのなら、おれだって家にいようってもの。おれは十時間、食事をしていない。もちろんこれは理にかなった行動だ。
スープスタンドでスプリットピーのスープと、ライ麦パンのセットをオーダーし、ゆっくり時間をかけてそれを食べる。もっと重たいものを食べたいような気もしたが、病み上がりの胃にはまずスープだ。豆のポタージュは身体を芯から温めてくれる。食後のフルーツを突つきながら、いろいろなことを考える。主に昨日のやりとりを。
『ぼくは自分の身近な人間に、人として普通の感情を抱いただけ───』
これは我が友、ポール・コープランドの答弁。“常識”というものは人によって異なるものだ。自分が普通だと信じていることを、他人が侵害したとき、そこには摩擦が生じる。ポールが『人として普通』と言ったことは、おれにとっては普通じゃない。
『ドアマンの名前が“ドア・マン”だと思っているきみにはわからなくて気の毒───』
おれは別にドアマンを見下しているわけじゃない。よく知りもしないドアマンを家に入れることについて苦言を呈しただけだ。しかしポールにしてみれば、おれにとっての普通は、おそらく“薄情者”のカテゴリに入るんだろう。
おれは人からときどき“冷たい”とか“薄情”とか言われることがある。時に自分でもその自覚はあるが、それはあくまで『人として普通』のレベルの話であり、薄情者を誇りに思ったことなど一度もない。地下鉄に乗れば、ホームレスの差し出す空き缶にクォーターを突っ込むこともあるし、どこかの国で災害が起きれば、人並みに募金もする。しかし“親切な人々”にしてみれば、それだけで充分とは言えないのだろう。親切を自負する奴ほど、他人が親切でないことに腹を立てる。環境に優しくない洗剤を使ってるとか、気の毒な動物の肉を食ったとか、腹ぺこのドアマンを極寒のマンハッタンに追い出そうとしたとか(表に立っているのが彼らの仕事だ!)。してみればおれは、金ピカのロレックスをはめた、一段高いところから見下ろしている、似非クリスチャンといったところか。しかしおれは一度も他人に「きみは冷たい」だの「薄情だ」だのを言ったことはない。そんなことを他人にズバっと言ってのけるやつに、人の薄情を責める権利があるっていうのか? 善人なんてくそくらえ。おれはおれの好きなようにやって誰にも文句は言わせない。それのどこが間違っているのか、説明できるのならぜひ教えて欲しいもの……いや、ここは訂正。おれのどこが間違っているかなど、ちっとも教えてほしくはない。薄情者と親切者はなにも教え合わず、互いの住処を対岸に構え、離れて暮らしたほうが身のためだ。
これが底の深い人生への第一歩? これがよりリアルな人生だって?
『ひとつ屋根の下に若い男がふたり。そんなシチュエーションでなにも起きないわけはない』
そうローマンは言っていた。そうだ、ある意味それは正解だった。これが底の深い人生への第一歩、これがよりリアルな人生───もしそうだとしたら、おれはすぐにでも回れ右して、元の人生へダッシュしよう。
ローマンは、おれがポールのことを真剣に思っているのが嬉しいと言っていた。そう言われて半日も経たないうちに、おれは彼と大喧嘩をやらかした。
確かにおれはポールのことを真剣にとらえてる。真剣に怒り、怒鳴りとばしたと知ったら、ローマンはいったいどんな顔をするだろう。
もしあれがポールでなく、単なるルームシェアの相手だったら、こうまで腹は立たなかったのではないだろうか。あんなふうに文句を言うこともなく、ここでぐるぐると考えを巡らせていることもない。ただ静かに腹を立て、不機嫌な日をなんとかやり過ごし、翌日はまたいつも通り───。
『ポールだからなのよね?』とローマンは言った。
そう、これは“ポールだから”。良くも悪くも、“ポールだから”だ。おれのことを理解してくれていると思っていた、おれの親友。彼だから腹も立ったし、罵倒もした。どうでもよかったら無視するとかしたはずだ。
だいたいおれたちはいつからギクシャクしてた? 裸でうろうろしたときか? トイレットペーパーの補充を忘れたとき? まったく、どのエピソードも下らなすぎて話にならない。
日が落ちて、店は徐々に混み始めてきた。我に返り、手元を見ると、デザートのカットフルーツはぐちゃぐちゃに潰れていた。いつの間に、誰がこんなことを───って、そりゃあもちろんおれしかいない。おれが無意識でいるってのは、何か破壊をもたらすんだろうか。潰れたフルーツを食べる気はしない。では潰れた関係性は? まあ、その潰れ具合にもよるだろうね。おれはトレイを返却口に戻し、店を出た。
部屋に戻る前、改装中の例の八階のフロアに降りてみる。
そうした理由は特にない。ただ“まっすぐ自分の部屋に戻りたくない”という、往生際の悪さがあったことだけは潔く認めたいと思う。
この間とは違い、フロアの明かりは煌々と点いている。ヒスパニック系の作業員がこちらをじろっと一瞥した。そのおっかない顔に、おれは思わず愛想笑いを返す。
「見学で?」と、ぶっきらぼうに作業員。「もし部屋を見学するんならヘルメットをかぶって」
「あ、いや、違うんだ。おれはここの住人でね。ちょっと見に降りただけなんだ」
「それでもヘルメットをかぶってもらわないとな。それがルールなんだ」
見学でないなら早く出て行ってくれと言わんばかり、作業員は険しい表情で腕を組んだ。もりあがった腕の筋肉の上には、跳ね馬の刺青が躍っている。このミスター・フェラーリの機嫌をそこねるのは、ぜひとも避けたい。
「ええと……フロアを見せてくれてありがとう」
そそくさとエレベーターへと戻り、△のボタンを連打。タトゥー・ガイの視線を背に感じる。作業のジャマをしてごめんなさい。けれども、エレベーターがなかなか来ないのはおれのせいじゃありません。
ようやく迎えが来て、おれは箱に乗り込む。扉が閉まる寸前、奥の通路から二人の男が現れた。どちらも作業服ではなく、普通の格好をしている。ひとりは営業風のスーツ、もうひとりはカジュアルな服装。どちらもヘルメットを装着し───。ちょっとまて、なんだ今のは? 思わず、扉を開けたい衝動に駆られたが、おれの脳は『そうするまでもない』と言っている。『再度確認するまでもない』と。スーツじゃない方の男、それはポールだった。
おれはなんでか、また外にいる。さっきポールの姿を見て、それからエレベーターのボタンの〔1〕を押した。エントランスに降り、そのまま表に歩き出す。食事はさっきしたばかり、とりたて外に用事はない。もちろんこれは理にかなった行動……とは言い難いな。さすがに。
ポールはあそこで何をしてた? 親切者の彼はボランティアで壁のペンキ塗りを手伝っていたのか? あのスーツの男、彼はきっと不動産屋の営業だ。ポールは元々あのフロアに住んでいた。入居権が優先されるのは、火事の被害者に他ならない。戻ることを希望すれば、ポールは誰より有利に入札することが可能なのだ。ヘルメットをかぶり、ポールが何をしていたのかは想像に容易い。彼は部屋の下見をしていたのだ。それはおそらく、自分の元いた部屋の───。
さっきまでフル稼働していた、おれのボイラー。その圧力は低下し、感情の機関車はぴたりと停止している。
薄情者と親切者。彼らはなにも教え合わず、互いの住処を対岸に構え、離れて暮らしたほうが身のためで───。さっきまで、おれはそんなことを考えていた。だからポールも同じように考えたとしても、なんら不思議はない。おれたちはいつも同じ瞬間に、同じことを考えつく。またいつものシンクロニシティが起きただけのこと。驚くことはなにもない。これはわかりそうな展開じゃないか。
あてもなく歩き続けると、道は途切れ、巨大な公園がおれの前に立ちふさがった。ミッドタウンを北に向かえば、セントラル・パークにぶつかる。これもわかりきった展開だ。日が暮れ始めてから中に入るのはあまりよくないとはわかっていたが、足を止めるのがなんとなく嫌で、そのまま直進する。公園を出る人々。それと逆の方向に進むおれ。おれは行きたい方に行く。ポールも行きたい方に行く。それがいつも同じ方向とは限らない。何かポエムを作るなら今だ。夕暮れの寂しげな公園で、いいものが書けそうな気がしてきた。
「ディーンおじたん!」
詩人の夢想を破る、元気なかけ声。右足に衝撃を感じ、下を見ると、そこには小さな女の子がへばりついていた。
「ステラ」
プラチナブロンドの天使、その名前をおれは呼んだ。
「ママ! ディーンおじたんみっけた!」彼女が振り向いた先には、黒髪で長身の女性が立っている。
「あら、ディーン……」
姪のステラは二歳、その母親はおれの姉、アイリーン。二人共このマンハッタンに住んではいるが、会うことは珍しい。ましてや偶然になんて、もっと珍しい。
「久しぶりね、元気だった?」皮の手袋をした手でおれの腕を叩くアイリーン。ヒールを履いていても、履いていなくても、彼女はデカい。6.20フィートあるおれと目の高さはほとんど変わらず、顔立ちときたら、誰がどう見ても姉弟にしか見えないといった造形だ。
「ステラがディーンをみっけたんだよ」ちびの女の子はそう主張し、戦利品のズボンを引っ張る。
「そうね、ステラ。あなたは目がいいわ」アイリーンは娘を褒め、それからおれに向かって、もう一度「元気?」と確認する。
おれはうなずき、「こんなとこで何してんの?」と訊ねる。
「なにって、母と娘が公園にいて何かヘン? あんたは? ひとりなの?」
「うん」
「ひとりで公園ね……。また振られでもした?」
ぐさっ。これが久しぶりに会った弟に言う台詞だろうか。
「おれだって公園を散歩したいときもあるよ……なんだってそんなこと言うんだ」
「だってあんた、嫌なことがあるとよく公園に行ってたじゃない。家にひとりでいるのが耐えられなくなるのよね?」
「今はひとりじゃない。友達と同居してるから」
「そうなの? それはいいわね。楽しい?」
「ああ」
おれは嘘をついた。それこそがおれを公園に向かわせた原因であるにもかかわらず、おれはとっさに嘘をついた。
「ねぇ、せっかくだからカフェでお茶でもどう?」
「“いちごよーるぐと”食べるの」おれを見上げて、舌足らずに言うステラ。
「“いちごヨーグルト”でしょ?」優しく訂正するアイリーン。
「うんそれ。おじたんも食べたい?」
「いいね」
くまのぬいぐるみがいくつも飾ってあるかわいらしいカフェは、子供が一緒でもないかぎり、足を踏み入れることのない空間だ。ステラはご所望の“いちごヨーグルト”。おれとアイリーンはコーヒーをオーダー。テディベアに囲まれて、姉がする話題はふるっている。
「わたし、もう五年もセックスレスなのよ」
おれはぎょっとし、思わずステラの方を見る。彼女は“せっくす”という単語に反応を示さなかったようだ。涼しい顔でコーヒーをかき回すアイリーン。おれは安心して話題を続ける。
「五年?…ってことは、そこに座ってる子は誰の子なの」
「もちろんノーマンのよ」
「じゃ、セックスレスじゃないだろ」
「愛のあるセックスはもうとっくの昔に廃れたわ。ステラは奇跡の子よ。あの時だけはなんでかセックスしたのよね。ほんと不思議。きっとこの子はすっごく生まれてきたかったんだと思うわ」そう言って、アイリーンはステラの頭を撫でた。
「セックスしてないからって愛がないとは言えないだろ? とくに熟年の場合は」
「誰が熟年よ。わたしはまだ三十七なのよ。まだ“セックスが必要なお年頃”なの」
「ノーマンとしろよ」
「したくないの」
「我が侭だな」
「違うの。お互いにしたくないの。どっちかがしたいってのなら問題だけど、お互いが嫌なんだから、ある意味平和ね。これって気が合ってるって言うのかしら」コーヒーをすすり、形のいい眉毛を上げる姉。彼女の辛辣な口調は、ローマンをはじめとするゲイ連をどこか彷彿とさせるものがある。
「なんでしたくないの。彼、いい男じゃないか」
「そう思うのはあの人の外面がいいからよ。いい格好しいのくせに家ではだらしない。彼はそういうのを決して外では見せないのよね。わたしはそれがすっごくストレスなの。みんなが言うわ、今あんたが言ったみたいに『どうして? 彼は素敵じゃない?』『ノーマンはいい父親よね』そうやって結局、わたしが悪者になる……ここタバコ吸っていいのかしら?」
「駄目だろ」
「タバコの本数も増えたわ。夫のせいで」
「なんなの。まさか浮気とか?」
「そういうのあっても不思議はないわね。でもわたしが腹を立ててるのは、もっと日常的なことよ」
「たとえば?」
「そうね……ホーマー・シンプソンってわかるわよね」
「漫画の」
「わたしの夫はアレよ」
「全然似てないけど」
「外側はね。でも中身はあんな感じよ。家にいるときはずっとカウチにへばりついて動かない。パーティでは気取ってなにも食べないくせに、家ではカロリーの高いものを食べたがる。わたしはあの人が床に落とした物を拾って歩かなきゃならない……」
「ちょっと想像つかないね」
「言ったでしょ、誰もわたしの言い分を信じないって。でも本当よ。彼はバスルームから出ると、いっつもタオル一枚でうろうろするんだから。まるでフットボール部の選手控え室にいるみたいよ」
おっと、こいつはどこかで聞いた話だ。
「トイレットペーパーが切れても、交換した試しが一度としてない」
ここの家では、トイレットペーパーはメイドが補充してくれるんだろうとばかり思っていたが。
「でも浮気したりとか、子供をぶったりとかはしないんだろ」
「そんなことしたら即、離婚よ」
「昔、彼に野球を観に連れて行ってもらったこと憶えてるよ」
「そうね。あの人、子供好きなのよ。ステラのこともとっても可愛がってる。リロイは思春期らしく父親のことは嫌ってるけど」
「嫌ってる?」
「父と息子ってのはいろいろ対立するらしいわ。男のプライドってやつかしら。わたしから見たら馬鹿馬鹿しいことでお互い腹を立てあってる」
「女から見たら馬鹿馬鹿しいことでも、男にとっちゃ真剣なこともあるんだよ」
「そうかしら?」
「そうさ」おれは全男性を代表し、アイリーンに反論した。
「でもまあ、父と息子の争いも今だけだとは思うけど」アイリーンはタバコを手で弄び、そう言った。「リロイの方が先に大人になるでしょうからね。ノーマンは子供のまんま。彼は身体だけ大きくなったのね。“自分のしたいことしかしたくない”。社長業はワンマンでもいいかもしれないけど、こと生活となるとそうはいかないわ。わたしにもリロイにも、ステラにだって自分の感情や意見はある。そこを摺り合わせようとしない人と暮らすのは苦痛以外のなにものでもないわ。彼はわたしの趣味にちっとも理解を示さない。一緒に座って映画を見るとか、そういうのすらしないのよ。わたしの選ぶ映画なんて、はなっから馬鹿にしてるって感じ。夫婦ってセンスが違うと最悪ね」
ポールとおれもセンスは違う。でもポールはもっと柔軟だ。テリー・ギリアムに興味がなくても、まずトライしてみようとするし、一緒に楽しめないかと努力もしてくれる。
「わたしがホームレスにお金を恵んであげるとノーマンは怒りだすの。『そういうことをしても問題の解決にはならない』とか、『それで味をしめたら、より社会復帰が困難になる』とかね。まるでわたしがニューヨークのGNPを下げたとでも言うように、文句をつけるんだから。別にわたしはこの国の貧困にチップをやってるつもりはないの。ただ目の前に困っている人がいて、それを見なかったふりなんて出来ないってだけ。もっと個人的な性格のことなのに、あの人はそれがわかってないの。わかる? ノーマンはわたしって人間を理解してないのよ。もう十年以上も一緒にいるってのに。わかる?」
「わかるよ」
わかりたくはなかったが、よくわかる。これはもっと個人的な性格のこと。ポールもそうだ。彼は単なる親切心からそれをした。おれは彼のことを知っていたはずなのに、そういう性質をすべて無視して、あたまっから怒鳴ってしまった。
これはニューヨークのGNPがどうとか、社会問題のことじゃない。喧嘩の根本にあるのは“もっと個人的なこと”だ。おれが腹を立てたのは、ドアマンを入れたことじゃない。問題は“ディーンの意見も聞かずドアマンを入れた”こと───。まるでおれの気持ちなんかどうでもいいように扱われたように感じたし、無視されたようにも感じた。それでおれは反撃に出た。自分がされたと感じたことと同じように、ポールの気持ちを無視し、怒鳴りつけ、彼の行為を理解しようとさえしなかった。
『わたしって人間を理解していない』とアイリーンは言った。ポールもアイリーンと同じように、“理解されない悲しさ”を味わったのだろうか……。
「なんかわたし、自分のことばっかりしゃべっちゃったわね」ハンドバッグにタバコを戻すアイリーン。「で? そっちはどうなの? 友達と同居してるって言ってだけど、それって彼女?」
「いや、男友達だよ。ポールってヤツで美容師をしてる」
「あんたが男友達と暮らすなんてねぇ。ルームシェアするにしても女の子とするかと思ってたけど」
「おれにだって男友達くらいいるよ」
「そりゃそうでしょうけど……あんたは昔っから“男とはウマが合わない”とか言ってたじゃない? “男と一緒にいると疲れる、女の子といるほうが楽しい”とかなんとか」
「ポールは違うんだ。なんて言うか……普通の男友達とはちがう」
「どう違うの?」
「優しいし……頭もいい、服のセンスとかもいいし、美容師としての腕もいいんだ。あと、マッサージも。日本で勉強したとかで、もうプロ並みだよ。仕事に対して向上心があるんだ」
「そういうのが“普通の男友達とは違う”ってとこなの?」輪郭の描かれた唇の端を上げ、アイリーンはふふっと鼻で笑った。
そうだな、これじゃ経歴書のアピールポイントだ。おれにとって“彼が普通の男友達と違う”ってのは、そういうことじゃないはずで……。
「ポールは……彼とは一緒にいてもちっとも疲れないんだ。それは彼が自然に相手に気を使えるヤツだからで、でも別に八方美人タイプってわけじゃない。全然マッチョなところがないし、でも腰抜けってわけじゃない。彼もおれといると自然にしてると思う。しゃべっててもすごく楽しいし……おれたち女子高生みたいにいつも笑い転げてるよ。テレビを見たりスーパーに買い物に行ったりとか、そういう普通のことが彼と一緒だと何て言うか、やたら楽しく感じられるんだ」
「“ウマが合う貴重な男友達”ってわけね」
「ああ」
「そういう関係は得難いわ。わたしもよく友達と長電話したりする。お互い、亭主の悪口を言いあってすっきりするの。彼女はアラスカに住んでるから、ノーマンも嗅ぎ付けられないってわけ」
「アラスカ? 電話代がすごそうだ」
「仕方ないのよ。彼女の夫があっちで仕事しているんだもの。ねぇ、すぐ近くにベストフレンドがいるってのは恵まれてんのよ。親友はそのへんにしょっちゅう転がってるわけじゃない。大事になさい」
「ああそうするよ……。なんかそういうのママみたいだぜ?」
「そうなの、年をとるにつれ似てきたと思うわ。やぁよね……。コーヒーをもう一杯頼もうかしら、あんたは? なにか甘いものを?」
「どうしようかな」
「ここのケーキはなかなかよ。頼んであげる」
にっこりと微笑むアイリーン。おれに砂糖を与えたがるあたりもママに似てきた。きっとすべて女性というものは“ママ性”を持っているのだろう。
濃厚なチョコレートケーキのおかげか、店を出たときにはおれの気分はずいぶん持ち直していた。歩きながらアイリーンに話したことを思い返す。改めて説明したことにより、明確になった自分の気持ち。男同士でラクだからってだけじゃない。ましてや経済効果だけのためなんかじゃない。彼だからだ。一緒に住もうと提案したのは他でもないポールだから。おれは彼と一緒に住みたかった。単純なことだ。わかっていたはずなのに、初めて気がついたことみたいに感じられる。
底の深い人生とか、リアルな人生とかはもうどうでもいい。おれはただポールと元通り、いい関係で楽しく暮らしたい。そう思っているのはおれだけなんだろうか?
ヘルメットをかぶったポール。その姿におれはショックを受けた。おれはあの時点まで、彼が出て行くことを想定していなかったのだ。売り言葉に買い言葉。確かに派手にやり合いはしたが、まさか本気で出て行く算段をしているとは。そのことについて、自分がショックを受けたことにもまた、ショックを受けた。おれはいったい何にそんなに動揺しているのか。以前と同じ環境に戻るだけなのに、まるで振られでもしたかのように(そう、アイリーンの所見は正しかった)ショックを受けた。
『たった一回ケンカしただけなのに、きみは出て行くだって? まさかそんな───』
おれは“おれたちの関係”について、何か勝手に過信していたのかもしれない。ポールがもし出ていったらどうなる? このまま喧嘩別れをしてしまえば、以前のような関係に戻るのは難しいだろう。時折、友人を介して飲みに行ったり、髪をカットしてもらったりすることで会うことはある。しかし共通の話題は減り、知らない情報は増えていく。そこでお互いに恋人でもできれば、あとはクリスマスカードのやりとりが精一杯。それから数年の時を経て、「以前は仲が良かったのに、なんだってこんなに疎遠になったんだろう」と思い返す。すると、そこに浮かび上がってくるのは互いのエゴとドアマンの姿、そしてトイレットペーパーの補充がどうのこうの───。そんなつまらないことで、おれたちの仲が終わる? かもしれない。このままでいればそれはそのように運んでいくだろう。花束とハンドバッグで済むのなら、百個でもそれを送ってやれるが、もちろんその手は有効じゃない。それでもおれはほとんどそうしたい気持ちだった。他にできることが思いつかない。今、彼に対してできることがないんだとしたら、せめて自分に向けて、できる限りのことをしよう。今の自分にしてやれること。必要なのは休息だ。他にマシなことが思いつかない。他にしたいことも思いつかない。
リビングルームにポールの姿はない。自分の部屋にいるのか、それともその中は空なのか。ノックして確かめる気はしなかった。
室内灯を点けず、暗いなかでミネラルウォーターをグラスに注ぐ。ひとり暮らしであれば、ペットボトルにそのまま口をつけて飲んだところだ。ボトルを戻そうと冷蔵庫を開けると、その明かりで二つの影が浮かび上がった。それはキッチンカウンターの上にある、ワイン・オープナーのレディたち。もしポールが出て行ったら、このシスターズも別々にならなきゃいけないというわけか。
『まぁ、ずいぶん勝手な話ね』両手を身体の脇にたらし、赤いドレスのアンナG。『せっかく一緒になれたと思ったのに』
黒いドレスのアンナGも黙ってはいない。『あたしたち、あなた方のとばっちりを受けなきゃならないの?』
ごめん。どうやらそのようだ。
『納得いかないわねぇ、あたしたちは離れたくないのに』
きみらを一緒に連れて行ってもらうよう、ポールに算段するよ。
『納得いかないわ』
なぜ?
『離れたくないのに』
だからふたつ一緒に……。
『あなたはポールと離れたくないのに』
………。
ミネラルウォーターを冷蔵庫にしまい、グラスを持って自室へ向かう。コートをハンガーにかけ、それからベッドシーツを交換する。白くてぴしっとしたシーツは子供の頃からのお気に入りだ。美しくメイキングしたベッドに寝転がる。美しいことを考えたい。頭の中によけいなノイズが発生する前に、美しいもので自分を満たしたい。ベッドサイドのipodに手を伸ばし、イヤフォンを装着。音量を最大にし、目を閉じる。外界の音は遮断され、意識はシューベルトの歌曲へと旅立ってゆく。ホイップクリームのようなディースカウのバリトン。この世界に優しいものはいくらでもある。次に目が覚めたときには、おれもそうでありたいと思う。今できることはただ眠ること。願わくば現世のこととは関わりのない夢を。無力な男の唯一の願い、ディースカウはもちろん聞き入れてくれた。
翌日、おれが会社から帰宅すると、キッチンにはポールの姿があった。ほぼ二日ぶりに見る彼の姿。ポールはコーヒーメーカーを前にして、カウンターに寄りかかっている。
おれが「やあ」と声をかけると(“やあ”ってのは変だったかな?)、彼は「エスプレッソマシンを借りようと思ってたところなんだけど」と言った。
「ああいいよ。自由に使ってくれて」
「うん、ありがと。でもカフェポッドがどこにあるかわからなかったから、結局ココアにしたんだ」
ポールの視線の先、ガス台のミルクパンには薄茶色の液体が湯気を立てている。
「カフェポッドはこの引き出しに入ってるんだ」おれはカウンター下の引き出しを開けて見せた。ポッドのある場所やコーヒーメーカーの使い方を覚えてもらったところで、それは今後あまり役には立たないかもしれないが。
しゅーっと音を立て、ココアがふきこぼれそうになったところで、ポールはガスの火を止めた。おれが部屋に戻ろうとすると、彼はだしぬけに「きみのお姉さんが店に来たよ」と言った。
「アイリーンが?」
「うん、そう。ココア、半分いる?」
「いや……」
ポールは黙ってマグカップにココアを注いでいる。おれは上着も脱がず、次なる台詞を待っている。彼はカップを満たしてから言葉を続けた。
「きみのお姉さん……びっくりしたよ。きみとそっくりなんだね」
「おれが女装したみたいだったろ?」
「なんだかチップをすごく多めにくれた。友達のお姉さんからそんなに貰えませんって断ったんだけど、彼女『わたしのお金じゃないから気にすることないわ』って……すてきな人だね」
「ああ、アイリーンはいつも気前がいい」
「お金のことじゃないってば、わかってるくせに……」ポールは軽い笑い声を立てた。「お姉さんね、きみのことをいろいろ話してたよ。きみがいかに可愛い弟かってこと、ずっと自慢してた」
「おれが可愛いって? 嘘だろう?」
「ほんとさ。きみはとっても愛されてる。ぼくはひとりっ子だから、ちょっと羨ましいな」
「なにを話して聞かせたんだ? おれがアイリーンのベッドにカエルを入れたこととか?」
「うん、きみは女の子に振られると公園に行くこととかね」
「それはちがう!」
「こないだ公園で会ったんだって? きみが落ち込んでるみたいだったから、カフェに誘ってケーキを食べさせたって。弟は甘いもので元気になるんだって、彼女、笑ってたよ」
それは当たっている。公園と砂糖はおれの癒しアイテムだ。確かに、アイリーンは弟のことをよく理解しているらしい。
「ぼくのことはそのときに聞いたって。それでわざわざ店に来てくれたんだよ。弟の同居人の顔が見たかったんだろうね」容れてから一度も口をつけていないココアに視線を落とし、しばらくそれを見た後、顔を上げておれの方を向いた。
「きみがぼくのことをどう思ってるか聞いたよ」
ブルーの瞳がおれを見つめている。
「ごめんね」
それは唐突な言葉だった。おれが何も応えられずにいると、彼はまた、唐突に話題を切り替えた。
「もうひとり、ピートじゃない方のドアマンの彼を覚えてる?」
「中世の柳の木みたいな」
「彼もきみのことを話してたよ」
「おれのこと?」
「“寒いから風邪に気をつけて”って。きみは彼にそう言ったんだって?」
おれは記憶の糸をたぐった。ああそうだ。確かそんなことを言ったと思う。
「彼はそういうふうに言ってもらったの初めてだって言ってたよ。それを知らされてぼくは恥ずかしくなった。きみに謝らないとって思ったよ」
「どうして?」
「『ドアマンの名前を“ドア・マン”だと思ってる』とかなんとか……」
「ああ……」
「きみが優しいってこと、ほんとは知ってるのに。ひどい意地悪を言ったね。ごめん」
「いいさ。おれだってきみに怒鳴ったんだ」
「ぼくは配慮が足りなかった。人を招くときにはその旨を伝えるべきだったよ。相手も別の誰かを呼ぶ予定があるかもしれないし、具合が悪かったりする場合もあるんだから。それなのにあんなふうにきみに怒鳴ったりして」
「おれが最初に怒鳴ったからだ」
「それはぼくがきみに対して失礼だったわけだし……」
「ストップ───このままじゃまた言い合いになるぜ? “いったいどっちが悪いのか”ってな」
ポールは目を三日月型にして笑った。これはおれの好きな顔だ。
「でもディーン、ひとつわかってほしいのは、ピートは危険なヤツだってわけじゃないこと。ぼくは毎日何人ものお客さんを見てるから、ヘンな奴かそうでないかはだいたいわかるんだ。危険かそうでないかぐらいはわきまえてるつもり」
「ああ、そうだよな」
ポールはこう見えてずいぶんしっかりした男だ。おれはそのことについて信頼がなかった。わかっていたはずなのに、あのときはそれを忘れてしまっていたのだ。
「でも……いくら危険じゃないとはいえ、今回は度が過ぎてたかもね」ポールは恥ずかしそうに肩をすくめた。「ぼくはちょっとおせっかいなところがあるんだ。お客さんには気が利くって喜ばれもするけど、それって日常ではよけいなお世話と紙一重でね。よくボーイフレンドにも言われたな。“放っておいてくれ”って……。そういうトラウマがあるもんだから、きみがバスルームで頬を切ったとき、ついムキになってしまったんだ」
「おれも同じさ」言って、こちらも肩をすくめる。「“フットボール部の控え室にいるみたい”。昔、ガールフレンドに同じことを言われたよ。やっぱりトラウマが刺激されたし……でもまあ二度も言われたんだから、改善する方向で検討するよ。それとトイレットペーパー。あれも気をつける」
「うん」ポールはこくんと頷いた。
なんてこった。これはあきれるほど単純な話じゃないか。こうやって最初っからちゃんと、今みたいに話し合うべきだったんだ。
「ねぇ、きみがそうしたいなら、これからもたまには裸でうろうろしててもいいよ」とポール。「今後、人を招くときは前もって言うから、そのときに服を着てさえくれればね」それからくすっと笑い「目の毒だけど」と、つけ加えた。
『これからも───』『これからは───』そうか、おれたちは“今後”の話をしている? でもそれは……。
「でも……きみは出て行こうと思ってるんだろ?」
「え?」
「きみが八階でヘルメットをかぶっているのを見たんだ。工事が済んだらきみは元の部屋に戻るつもりじゃないのか?」
「ああ、あれ……見てたのか」ポールは渋い顔になった。後をつけられたと思ったのかもしれない。それについては訂正しておかなければ。また喧嘩の種になりかねない。
「見かけたのは偶然になんだ。別にこそこそ盗み見たとかいうわけでは……」
おれの弁明を無視し、ポールはうーんと唸って頭をかいた。
「ええとね、ぼくがどうしてあそこを下見していたかって……その……きみと暮らすにあたってのことなんだ。なんていうか先々の」
「どういう意味?」
「あのフロアは改装するだけじゃなくって、よりハイエンドになるって話、ぼくは大家さんから通達をもらって知ってたんだ。ここより部屋数もひとつ多くて、小さいけどルーフバルコニーもある。建物自体は古いから、新築のアパートと比べて家賃が破格に安いんだ。一般公開したら競争になることは間違いない物件だよ。ぼくは火事の被害者だから、入居については優先権がある。もちろん今いるところよりは賃料は高くなるけど、それもふたりで割れば大した額じゃないし……だから、ね」
「……ってことは、きみは……」
ポールは出て行かない。全身から力が抜けるのがわかった。彼はここにいてくれる。おれと一緒に。
「そうか……だからきみは……そうなのか……でもだったら、なんでおれに相談してくれなかったんだ?」
「ごめん。でもぼくとしても、決めかねてたから。いろいろチェックしたいポイントもあるし、家賃だって高くなるわけだからね。きみに相談する前に、“こんな感じだけどどう思う?”って言えるくらいのデータをそろえておきたかったんだ」
ああ、そう、なるほど、そういうことか。この二日間、いったいおれは何を空回りしていたんだろう。
一気に腑抜け顔になったおれを見て、ポールは不思議そうな顔で「どうしたの?」とつぶやいた。ここ数日、おれがどんな気持ちでいたか、彼は知る由もない。頭の中を“ポール”って単語が埋め尽くしていたことも。
おれは苦笑し、「もう少しできみにハンドバッグを贈るところだった……」と、つぶやいた。
「ハンドバッグ? なにそれ?」
「いや、気にしないでくれ……。ああ、ココアが冷めたな」
「温めなおせばいいよ。きみも飲むならふたり分つくるけど?」
「うん、じゃ頼む」
冷めたココアを火にかけ、粉とミルクを注ぎ足す。スプーンで静かにかき回し、その渦を見守る。
「これにマシュマロを落とすとうまいぜ。子供の頃よくやった」
「うん、この次はやってみようか」
冷めた飲み物は何度だって温め直すことができる。ココアにマシュマロを落とすこともできる。また次の機会にはトライしてみよう。
翌週、おれとポールはヘルメットをかぶり、一緒に八階の部屋を見学した。どこもヘルメットが入用ではないほど完成していて、新築同然、すばらしい出来映えとなっている。
おれたちはビニールで保護された部屋中を歩き回り、さまざまな箇所をチェックした。
「バルコニーにテーブルと椅子が置けるかな?」とポール。
「これだけの広さなら大丈夫だろ。合ったサイズのものを探せば、たぶん。なあ、ここのペンキがセージ色だと、うちの家具と調和しないよな」
「今ならまだ塗り替えが利くと思うよ」
不動産屋から図面をファックスで送ってはもらっていたが、実際見るとなるとまた話は違ってくる。この物件は、家賃のことを考慮しても引っ越す価値は充分だ。
「バスルームがすごいね」わくわくした面持ちのポール。「スチームサウナの機能もあるって」と、図面と風呂場をためつすがめつ眺めている。
「スチームサウナか」おれはポールの横から図面を覗き込んだ。「ジムにもあるけど、あそこには冷えたジンを持ち込むことは禁止されてる。それが自宅にあるってのなら……」
「ジンだけじゃない。アイスクリームだって持ち込めるよ」
「防水の小型テレビでバスケを観戦できる」
「真っ青なフェイスパックをしても、誰も文句は言わない」
「最高だ」
「最高だね」
微笑み、見つめ合うおれたち。なんとはなしに沈黙が流れる。
なんだろう、なにかがヘンな感じだ。今のやりとりにおかしなところはなかったと思う。なのにどうしてヘンな感じに? こういう空気はこれまでに何度か体験したことがある。アリッサ、ベッキー、ジル、シャーロット=アン。こうなると、どの女性とも恋愛がスタートしたが───。いや、そうじゃないだろ。おれたちは恋人同士ではないわけだし、ここにかつての法則があてはまるとは考えない方がいい。もしおれたちが恋人同士であったとしたら、こういうときに肉体的接触を使うのが妥当なところ。それはつまり……ええと、何かそういうことだ。
おれはポールの肩を抱いた。これはプラトニック・フレンドの域を侵害しているだろうか。いや、サッカーでゴールを決めた選手も男同士でハグはする。フランス人ならこんなの日常茶飯事だ。よし、じゃあこの瞬間、おれはフランス人になろう。そうすりゃこれはちっとも不自然なことじゃない。
「メルシー モナーミ(ありがとう、我が友)」
「フランス語?」
「今だけフランス人だ。おれは」
「なにそれ」ポールはくくっと笑い、「サヴァ?(元気ですか?)」と返す。
なるほど、きみもフランス人ってわけなんだな?
おれは応える。「サヴァ ビァン(とても元気です)」
「ジュ スイ アムルー ドゥ トワ(きみに恋してるよ)」
「えっ? なんだって? パルドン?」
早口で聞きとれなかった……というか、聞きとれたところで意味がわかったかどうか。おれの知っているフランス語といえば、メルシー(ありがとう)、ボンジュール(こんにちは)、クロワッサン シルヴプレ(クロワッサンを下さい)くらいだ。
初心者にかまわず、ポールは短文を口にする。
「ジュ ポンス ア トワ(きみを想ってる)」
───意味不明。メルド! フランス人なんて言わなきゃよかった!
「ディーン、ジュ スイ フォール ドゥ トワ(ディーン、きみに夢中だ)」
「アトン! アトン! ムッシュー!(待って、待ってくれ! ミスター!)」
戯曲の題から持ってきた単語で、セルジュ・ゲーンズブル語に対抗するも、こっちの語彙はもう尽きた。以下は英語だ。
「ずるいぞ、ジャン=ポール! 意地悪するなよ! さっぱり意味がわからない!」
「ジュスイ パ メシャン、オンパ コモンセ パー ル プリュ シンプル(意地悪なんかしないよ。いちばん簡単なところから始めようか)」
謎の言葉を羅列した後、ポールは思い切りシンプルに言い放った。
「……ジュ テーム(愛してる)」
この単語は知っている。ようやくおれにわかる言葉で喋ってくれたな?
ほっと息を吐き出すと同時に、こちらもごく自然にフレンチが口をついて出た。
「メルシー ポール……モナムール(ありがとう、ポール……おれの恋人)」
「間違えたね。モナーミ(我が友)だろ?」
おれの肩に頭をもたせ、くすくすと笑い声を立てるポール。失礼なヤツ。いくらおれでもこんな簡単な語彙を間違えるもんか。
おれはしっかりとポールを抱きしめ、もう一度、ちゃんと聞こえるようにはっきりと告げる。
「モナムール、ジュ テーム(おれの恋人。愛してる)」
「ディーン……」
「“ジュ テーム”だ」
こんなにずっと、ひとりの人間のことを考えてる。去年のクリスマスのときもそうだった。ポールがもし女性だったとしたら。おれは自分の気持ちを即座に認め、それが向く方へと自然に行動を移したことだろう。『おれはゲイじゃない』そうしたアイデンティティは、おれ自身に“本当の本心”を気付かせる妨げになっていた。おれはこの気持ちを認めなければならない。ポールに出ていってほしくはない。別な男と暮らしてほしくはない。この部屋で彼と一緒に───おれはポールと共にありたい。
ポールは優しくおれの腕をほどいた。ヘルメット下の瞳は光に輝いている。
「ジュ タンブラス……」
「パルドン?(なんだって?)」
彼のフレンチをおれが理解する前に、ポールは行動でその言葉の意味を示してきた。
“タンブラス”。そうだ、これは“キス”という単語だったっけ。キス、キス、キス……おれはポールとキスしてる。ゲイじゃないのに奇妙なことだ。しかもそのことが少しも嫌じゃない。いったいこれはどういうわけだろう? おれがローマンの仲間かどうかはともかくだが、このキスは悪くない。これを以て、今どきの小学生ぐらいにはレベルが追いついただろうか……。
「……で、ここのツマミを回して、ミルクピッチャーをノズルに当てて……こうやって泡立てる」
日曜の午後。真新しいキッチンで教授するのは、コーヒーメーカーの使い方と、美味しいカプチーノの作り方。講師はバリスタ、ディーン・ケリー。
「ミルクフォームを注ぐときには、最初は勢いよく、それから徐々にピッチャーをカップに近づけて……こうやってゆっくりと注ぐ。こうするとミルクの泡がいい感じにエスプレッソと混ざるんだ」
「すごい、プロみたい」感嘆するのはポール・コープランド。素直な彼は実にいい生徒だ。
「きみが家にいたら、ぼくはカフェに行かなくなりそう」
「スチームサウナのせいで、ジム通いも遠のいたしな」
広い部屋に引っ越してからというもの、週末に出かける回数は減り、帰宅時間は早まった。うまいコーヒーと多少のアルコール。DVD鑑賞にスチームサウナ。気候がよくなればバルコニーで日光浴もできる。気の合う友人も、愛すべき恋人も、すべてはこの部屋のなかにある。ボブ・マーレイの歌に出てくるような、シェルターに籠って幸福に暮らす恋人同士。それはちょっとヤバい種類の幸福感。
ポールが笑いながらつぶやく。「こうやって世間と隔絶していくのかも」
おれは「カフェが恋しいのなら緑のエプロンを買ってこようか?」と提案。「そうすりゃ家でもスターバックス気分が味わえる」
「自宅でスタバのエプロンを? うわっ、なんて言うかそれは最悪で───」
「最高?」
ポールは答えず、おれの唇に軽くキスをして、カプチーノを手にリビングへと消えた。それって“イエス”という意味なのか? それとも適当にはぐらかされただけ?
キッチンカウンターの上にはワインオープナーのレディたち。アンナGシスターズは仲良く並んで、まっすぐ立っている。おおきなスカートがじゃまをして寄り添うことはできないが、それでもふたりはこの状態に満足しているように見える。
互いにとって、ちょうどいい距離。おれたちのそれはカプチーノとキス。どういうわけだか恋人同士という位置づけに落ち着いた。ここがおれの帰る場所。物語の終わりに主人公は気がつく、『青い鳥はすぐそばに』。もちろんこれは“物語の終わり”なんかじゃない。カプチーノとキス───おれたちはここから始まるんだ。
End.
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