ニューヨーク・ラブストーリー(Guess How Much I Love You!)

栗須じょの

第1話:ポールとディーン(Open Your Heart)

 人生は予測不可能のドラマに満ちている。

 おれが住んでいるこのニューヨーク、マンハッタンだけをとってみても、いったいどれだけのドラマがつまっていることだろう。

 愛、裏切り、涙、セックス、後悔───。人生からこうした単語を見つけだすのは、都会に暮らす独身男性であればそう難しくはないはずだ。

 政略結婚、遺産相続、ボート事故にみせかけた殺人───。さっきのリストにこれらの単語がないからといって、ドラマ性に欠けると思うのは尚早なこと。たとえば今、このタクシーを運転しているインド人のドライバー。彼がここで自らの人生を語り出したとしたらどうだろう? 日常にあるささいな幸せについて話すかもしれないし、こっちが想像もつかない驚くようなことを言うかもしれない。共感できることがあるかもしれないし、ことによったらもらい泣きするかもしれない。

 誰にとっても自分の人生はドラマティックだ。他人にとって「へえ」以上の感心をひかないようなことであっても、当人にしてみれば、ロミオとジュリエットよりも一生懸命で、ハムレットよりも苦悩できるという、それはそれは大変な出来事。愛、裏切り、涙、セックス、後悔。それはシェイクスピアの時代から繰り返し使われているテーマであるが、この世に男女いるかぎり───いや、この世に人がいるかぎり。これらのキーワードは、FOXの新作を見てもわかる通り、常に新鮮でありつづける。

 さきほど“男女”の部分を“人”に言い直したのには理由がある。ドラマの発生はなにも男女に限ったことではないからだ。『男と女のドラマ』だけに気をとられていると、足元をすくわれることもある。おれがそのことを身をもって知るのは、もうすこし後のことで、今はタクシーの後部座席で平和な時間を過ごしている最中。他人にとってはささいな出来事、当人にとってはシェイクスピアもかくや。これはマンハッタンに存在する数多くのドラマのひとつにすぎない。



 インドの女神のステッカーを貼ったタクシーは、ウエストビレッジの端にたどりつく。

「たぶんこのあたりだ。その角でとめてくれ」ドライバーに声をかけ、タクシーを降りる。

 ミートマーケットの愛称で知られるこの地区を、未だに食肉工場区だと思っているニューヨーカーはいないだろう。この界隈はもうしばらく前からファッションとアートの街へと変貌を遂げている。

 手にした地図を見ながら、レンガ敷きの歩きにくい道をうろついていると、目的の店はすぐに見つかった。外観はまるっきり倉庫のまま。ミートマーケットの定番ともいえる、内部だけを改装したクラブ形式のバーだ。

 地下へと続く薄暗い階段を注意深く降り、スキンヘッドの男性に招待券を見せ、上着と荷物をあずける。重たい鉄の扉を押し開けると、ざわっとした音が中からあふれだした。レゲエ音楽がゆるく流れてはいるが、騒音のほとんどは人の話し声によるものだ。照明はクラブらしからぬことに明るく、多くの人でフロアは賑わっている。それはごったがえしていると言っても過言ではないほどの人数だが、三フロアぶち抜きの天井のおかげで、さほど狭苦しさは感じられない。

「ディーン!」

 呼ばれた方をと見ると、ヒョウ柄に身を包んだ男が、熱帯のオウムみたいな奇声を上げて走り寄ってくるのが目に入った。おれはあわてて頭上を見上げる。去年は入口のすぐ上にヤドリギが飾ってあったため、無数のゲイからキスの洗礼を受けるという歓迎にあずかったのだ。

「メリークリスマス、ディーン。グラスを持ったままハグしてもいいかしら?」

「メリークリスマス、ローマン。いいよ」

 シャンパングラスを持ったまま、おれをぎゅっと抱きしめるローマン。彼から離れると、その奇抜な衣装に改めて仰天させられた。ぴったりとしたヒョウ柄のジャンプスーツの胸元はV字型に開き、胸だけでなく、腹(ヘソ含む)までもが派手に露出している。三角にとがった巨大なエリは往年のエルビスを彷佛とさせ、腰まわりに巻きついているエルメスは、ベルト本来の機能を少しもはたしていない。

「フレディ・マーキュリーかと思った」

「それは最高の褒め言葉だわね。もちろんそう受け取ってもいいんでしょう?」

「ドレスコードはヒョウ柄?」

「ヒョウだけじゃないわ。トラもニシキヘビも。今年は『密林のクリスマス』がテーマなの。さあ、早くそのネクタイを外して! あたしのターザンになってちょうだい!」

「それ、みんなに言ってるんだろう?」と、おれは苦笑する。

「あら、みんなにじゃないわ。“イイ男”にだけ言ってるのよ」

 にっこりと微笑む彼。オイルで磨き上げたマホガニーを彷佛とさせるアーモンド色の肌。ヘーゼルナッツ色の魅力的な瞳と、豊かな濃いブロンドの髪。これがパーティの主催者、ローマン・ディスティニー。モデルとみまごうばかりのハンサムだが、そのしゃべりかたと仕草は、彼がゲイであることを百二十パーセント証明している。

「ローマンの“イイ男コード”はかなり厳しいよ。今日はまだきみにしかそのセリフ、言ってないから」

 振り向くと、顔におだやかな微笑みを浮かべた友人、ポールが立っていた。

「シャンパン? もっと強いのもあるけど」

「クリスマス・パーティだ。まずはシャンパンにしておくよ」

 給仕係のトレイから細長いグラスをとり、金色に輝く液体に口をつける。

「入ってきてすぐにドアの上をチェックしたね?」いたずらっぽい表情でポールが笑う。

「ああ、去年はひどいめにあったからな」

「今年は同じトリックは使えないからってローマンが。ターザンの格好をする? 衣装なら裏にあるよ」

「まさか。もっとたくましいヤツにそれは譲るよ」

「ローマンはきみのが見たいんだと思うけど」

 すると、それを聞きつけたローマンがむこうから叫びをあげる。

「あたしだけじゃないでしょポール! 正直におなりなさい!」

 ポールはくすくすと笑い「地獄耳だ」と、肩をすくめた。

 さっきからクリスマスと言ってはいるが、今は十一月の始め。ほんとうのクリスマスには一か月以上も早い。

「こんなに早くクリスマス・パーティをやってるのは、おれたちぐらいのもんじゃないかな?」言いながら、テーブルに山と盛られたカラフルな包みのチョコレートをひとつ取って、口に放り込む。歯を立てると、中からどろっとした甘い液体が流れ出した。それを味わいつつ、シャンパンを流し込む。チョコレートとシャンパンはこの世で最高の組み合わせのひとつに違いない。ジンジャーとフレッドに匹敵する、絶妙なハーモニーだ。

「十二月になればローマンはヨーロッパに行っちゃうからね。イタリアで本物のクリスマスをするって興奮してたよ」と、ポール。

「だからこっちは異教徒風なのか」

 すっぱだかにシマウマ柄の下着だけを着用した男が、すぐそばを通り過ぎる。鍛え上げられた見事な肉体。どうみても草食動物には見えない。

 このヘンテコなパーティにおれは去年から参加している。ローマンを紹介してくれたのはポールだ。穏やかなポールと騒々しいローマン。別の惑星の住人のように見える彼らの共通点は、美容師という職業と、ゲイというアイデンティティを持っていること。

 “ゲイの美容師”と聞いて連想するのは、いったいどんなイメージか? さっきの肉食系シマウマ? ヒョウ柄のローマン? 少なくとも彼、ポール・コープランドのような感じではないだろう。

 我が友人、ポールの容姿については、曰く言い難い。目はブルー、髪はブロンド。驚くようなハンサムというわけでもないが、十人並みというわけでもない。女性的だというわけでもなければ、男っぽすぎるというわけでもない。個性的なのが当然であるかのようなこの群衆のなかにあると、かえって奇抜に見えるくらい、ポールは普通の男だ。優しげな面差しと隣のお兄さんのように話しかけやすい雰囲気を持つ彼は、ゲイの男性だけではなくストレートの女性をも惹きつける。両親も納得させられるような男性が、まだこのマンハッタンに残っていたことを喜ぶのも束の間、やっぱりそんなおとぎ話はないのだと、女性たちがふたたび現実を見つめ直すのには、いつもそう時間はかからないのだ。

 え? 自分はどうなんだって? うん、人のことばっかり言ってないで、自分のことも話そう。おれの名前はディーン・ケリー。髪は黒で、目は青灰色。ゲイのパーティに参加はするが、宗旨はストレート。年齢は二十八でポールと同じだが、少年っぽい面ざしの彼と並ぶと、どうみてもこっちのほうが年上に見える。お互いのこれまでの最高記録は、二十二才と三十六才に間違えられたこと。おれが老けて見えるのは、あごの先っちょにあるヒゲが禍いしているのかもしれないが、剃ってみたところで、ポールが樹立した二十二才という記録を抜くことはできないと予想される。未だマンハッタンに残っている貴重な独身男性ではあるが、“両親をも納得させられるような”という形容詞がつくかは、自分では決めかねること。これについては女性たちの判断に任せることにしよう。例えば今こっちに近づいてくる女性。顔に微笑みを浮かべ、手にカクテルグラスを持っている彼女たちから見て、おれはどんな男だという評価を受けるのか?

「ハイ、ディーン、ポール。メリークリスマス」

 声をかけてきた彼女の名はクリス。面長で知的なストレートの女性だ。ローマンのパーティには女性も多く参加している。もしこれがゲイばかりの集まりだったら、いくらポールがいるとはいえ、おれはいたたまれないに違いない。男と女、ゲイとストレート。どちらも分け隔てなく招くのがローマンの流儀。だからこそおれにも参加資格があるというわけだ。

「メリークリスマス、クリス」

 シャンパングラスを目の高さに掲げ、挨拶をする。クリスの横には小柄な女性が立っている。おれの記憶が正しければ、こちらとは初対面のはず。目がぱっちりしていて、出るところは出ている。ディズニー映画のヒロインみたいな女の子だ。見知らぬ女性を見つめていると、クリスがにっこりして口を開く。

「彼女はリタよ。職場の友達なの。リタ、彼がさっき言った……」

「ポール?」

 小柄なヒロインは、おれを見てそう言った。途端、クリスが吹き出す。

「ちがうわ! 彼はディーン! ポールはこっちよ!」

「やだ! そうなの? だって……」

 ふたりは顔を見合わせ、それから互いにもたれるようにして笑い出す。おれをポールと間違えるのはそんなに面白いだろうか? それともすでにそうとう酔っぱらっているとか? ようやく息をついたクリスが弁解するように切り出す。

「……ごめんなさい。わたしさっきそこでリタにこう言ったの『あそこに立ってるふたりの男性が見える? どっちも素敵だけど、ひとりは女の子が好きじゃないから狙っても無駄よ。ポールって名前のほう』って……」それからまた笑いだす。

「クリスがいけないんだから! ちゃんと言わないから!」リタは顔を真っ赤にしてクリスの肩をばしっと叩いた。

 ふたりは「やあね」とか「もー」とか言いながら、ふたたび人込みに紛れ、去って行く。「じゃあね」も「失礼しました」もない。数フィートも離れたところで、リタとクリスが身体を折り曲げて爆笑するのが見えた。彼女たちの『今年のパーティの面白エピソード』はこれに決定だろう。ただ立っているだけで、おれはふたりに笑いを提供できたというわけだ。

「……余興に使えるか?『この中の誰がゲイでしょう?』って」肩をすくめ、ポールに言う。彼はくすくすと笑っている。

「まったく……宗旨がいっぱつでわかるように、来年からは腕章かなにか配ってほしいよ」

「そういう分類はローマンは嫌だってさ。ここにはゲイもストレートいるけど、先入観からおたがいに知り合いになってもらいたくないんだそうだよ」

「先入観。今のはまさにそれじゃないか? きみから見てどうだ? おれはゲイに見えるか?」

「どうだろ……」腕を組み、まじまじとこちらを見つめるポール。プロの査定に、おれは思わず居住まいを正す。彼はわずかに思考した後、そっと手を伸ばし、人さし指でおれのヒゲに触れた。

「そうだね……コレと完璧な形のまゆげは、確かに。ゲイっぽく見えないこともないかも」

「まゆげがつながってて、カウボーイ・ハットでもかぶってりゃ、ストレートに見てもらえる?」

「それもいいね。女の子たちは逃げ出すだろうけど」

 うめき声をあげるおれを見て、ポールはふたたび笑い出す。

「いいんじゃない? ぼくらから言わせてもらえれば、きみみたいなのを『ストレートにしておくにはもったいないハンサム』って言うんだよ」

「ありがと。名誉なことだ」

 さっきの様子から推測するだに、クリスはリタをおれに紹介してくれようとしていたのだろう。リタがおれとポールを間違えたりしなければ、事はスムーズに運んだかもしれなかった。

 クリスマス(今じゃなくって、来月12月の“ほんとうのクリスマス”)を、一緒に過ごす相手を見つけようとしているおれにとって、かわいい女の子との出会いは大歓迎。しかしこっちが両手を広げて待っているにもかかわらず、ああいう誤解を受けることが、おれにはままある。ゲイの男から仲間に間違われることは今までにもあったが、女性からもそう見られているとは知らなかった。

 “未だマンハッタンに残っている貴重な独身男性”でありながらも、その後に『どうせゲイに決まってるけど』という言葉が続くのが、おれの第一印象ってわけか? そんないわれもない誤解でチャンスを逃がしてしまうのは不本意極まりない。やっぱり来年のパーティからは腕章を採用してもらうよう、ローマンに提案することにしよう。

 不本意さをワサビにしつつ、のり巻きを口に運んでいると、中国のドラの音がホールに響きわたった。ステージの両脇には火のついたトーチが燃えている。『ベスト・オブ・ジャングル』のコンテストがはじまった合図だ。ニューヨーク市の消防法にふれているかはどうかはともあれ、これがローマンのパーティ。去年のクリスマスに、ローマンはこう言っていた。

「お互いの顔も見えいような薄暗いところで、きもちわるいトランス音楽をかけたパーティなんて、あたし大っ嫌い!『楽しく健全に!』これがローマン・ディスティニーのモットーよ!」

 ヒョウ柄の下着の男が歩き回るパーティが健全かどうかは議論の余地があるにせよ、ここが楽しい場所というのは間違いないだろう。おれが勤務している会社は、絵画を主とした美術品の販売と公開を行っている。取り扱うものは芸術であるが、業務内容は決してアーティスティックなものではなく、利潤を糧にした普通の企業となんら変わることはない。利益を上げることをファーストプライオリティとする環境では、『何にでも勝利せずにはいられない』という習慣を身につけた者が数多く存在する。着ているスーツから相手の年収をはじき出しては一喜一憂する勝負師。学生時代にスポーツをやり過ぎたせいで、飲み屋のビリヤードでさえも相手をブッ潰さないと気が済まないマッチョ。ただでさえおれはこの男前さが災いして、同性に嫌われやすい。周囲の女性に印象づけようと張り切る男たちは、ダーツであろうとビリヤードであろうと、とにかく相手を負かそうとやっきになって戦いを挑んでくる。『おともだちとは、なかよくいっしょに』とは、小学生の頃に学ぶことだが、大学を出るまでにはそれをすべて忘れてしまった彼らと、いったいどうやって“なかよくいっしょに”遊んだらいいのだろう?

 一方、ゲイの友人たちからはそうした“怒り”はまったく感じられない。観念的こだわりが少なく、自由な考え方を持っていて、さりげなく相手を気遣うことができ、そして適度に変わってもいる(中には度が過ぎている者もいるが)。ローマンやポールをはじめとする、ゲイの男友達のなかにいると、自分がとてもリラックスしているのがわかる。もし彼らとの出会いがなければ、“マッチョ闘争”のなかで女々しいやつと認知されたおれは、金魚を心の友をとして、ひとり寂しく暮らしていたかもしれない。

「ニューヨーカーはみんな寂しいのよ」とは、ローマンの弁だ。「カポーティしかり、ウォーホールしかり。みんなパーティを開くでしょ? 開かずにはいられないのよ」

「自分は孤独じゃないってことを確認するためにかい?」

 おれがそう聞くと、ローマンは「『孤独じゃない』んじゃないの。『孤独なのは自分だけじゃない』ってことを理解するために、よ」と、素敵な歯をみせて笑った。

 確かに、孤独という病にとりつかれているニューヨーカーはとても多い。このマンハッタンだけでも、ゆうに百五十万の人口を抱えており、ひとりぼっちという環境を手に入れることはそうとう困難なはずなのだが、それでも我々は言うのだ───ああ!孤独だ!───と。

 年々パーティの参加者が増えていくのは、孤独なニューヨーカーが増えているためか、ローマンの人脈が増えているからなのか。ともあれ参加人数は増加の一途をたどり、会場は年を追うごとに広くなって、それに比例し、このパーティは段々と南下していくことになる。

「このまま下ったら、いずれブルックリンでパーティをやることになるんじゃないか?」

「まだ今はシーズンじゃないから安く借りられたみたいだけどね」とポール。「ねぇ、あっちにおいしいタコスがあるんだけど、もう食べた?」と、ハシで“あっち”を指し示す。

「いや、まだ」

「ジミーが腕をふるったんだ。すごいよ、ソースは十種類からチョイスできる」

「そいつはいい。レッツ・ゲッタ・タコ!(タコスを食おうぜ)」

「レッツ・ゲッタ・タコ!」

 この言い回しはタランティーノの映画に由来する。以前、ポールに髪をカットしてもらっているときにこの映画の話になって、髪を切られている(もしくは切っている)間中、ハーベイ・カイテルのかっこいいセリフ回しを、ポールとおれとで真似しあったことがある。それからというもの、おれたちはタコスを見るとこの台詞を言わないではいられないというわけ。

 おれの腕に手をからませ、タコスのテーブルへといざなうポール。こういう瞬間、おれは彼の性的指向を意識する。ストレートの男であれば、男の友人に対してこういう接し方は、まずあり得ないからだ。とはいえ、ポールはおれの嫌がることは決してしない。ヤドリギの下でおれがキス攻撃にあっているときでも、彼はカクテルを片手に微笑んでいただけ。ゲイを異常に恐れるストレートもいるが、それはきっと自分がゲイになるということを恐れているのだとおれは思う。おれはゲイではないし、ましてや友人を恐れる理由など少しもない。それが分別のある友人なら尚のことだ。

 それからの数時間は『ベスト・オブ・ジャングル』に投票したり(おれは肉食系シマウマくんに一票を投じた。あの筋肉を維持するのは並大抵でないだろうことに敬意を表したのだ)、ダンスのパフォーマンスを観たりして、楽しく時を過ごした。

「帰るの?」

 友人たちに別れの挨拶とキスをふるまっているおれに、ポールが声をかける。

「ああ、きみも一緒に?」

「ええっと、どうしようかな。後片付けを手伝おうと思ってたんだけど……」

 彼がぐるっと会場に首をめぐらすと、そこへタイミング良く通りかかったローマンが優しく声をかける。

「いいのよ、ポール。ディーンと帰りたいんでしょ? 準備を手伝ってくれたんだもの。今日はもういいわよ。なかよく一緒にお帰りなさい」そう言って、蝶のように右手をひらひらと踊らせる。

 ポールは「一緒に帰れば、タクシー代が半分で済むからね」と、言って照れたように微笑んだ。



 クロークで上着と荷物を受け取り、深夜のウエストサイドに出ると、イーストリバーからの冷たい風がおれたちの身体をなぶった。

「ううっ、寒!」自分の身体に両手を巻きつけるも、さほどの防寒効果は得られない。

「ほんとに今日は冷えるね。早くタクシーを拾おう」ポールは足早に歩き始めた。

 おれとポールは同じところに住んでいる。一緒の部屋ってわけじゃなく、借りているアパートメントが、偶然にも同じだったのだ。

 おれたちが知り合ったのは一年半くらい前のこと。当時つきあっていたガールフレンドが「すっごく上手な美容師がいるの」と、教えてくれたのが発端だ。

 ポールの勤める『アレクザンダー・アーベル』は、ちょっとリッチな奥さま御用足しといったイメージで、おれにとっては些か気恥ずかしい種類の店だった。しかし彼女に押されて行ってみると、そこは思ったほど敷居の高い店でもなく、オススメの“すっごく上手な美容師”とは、年が同じだったこともあって、話もずいぶん盛り上がった。そうして何度か通ううち、よく行くスタバが同じだということから、アパートメントが一緒だということを導き出すまでには、すでにおれたちはずいぶんと親しくなっていた。ポールと引き合わせてくれたガールフレンドとは別れたが、おれたちの友情は続き、ポールを通して知り合いになった友達も、たくさんできた。

 ファッションや流行に神経質でなく、言葉遣いも普通。いつも自然体でいるポールは、そうと言われなければ絶対にゲイとはわからないだろう。これまでおれはゲイに差別意識を持ったことはない。ただこっちは彼をストレートだと思い込んでいて、それが“そうではなかった”と知ったときには少しびっくりしたものだった。もし彼が前もって「ぼくはゲイだよ」と、言ってさえいてくれていたら。アパートのエントランスでポールが男とキスしているのを目撃しても、ああまで仰天することはなかったのにと今は思う。

 あれはポールと知り合って二か月ぐらい経った復活祭のシーズンのこと。アパートメントのエントランスホールで、友達のラブシーンに偶然立ち会ってしまったおれは、思いがけない出来事に驚き、よせばいいのに不粋にも彼らをじっと凝視してしまった。見られていることに気がついたポールは、ちょっとばつが悪そうに男から離れ、ラブシーンの相手を「ぼくのボーイフレンド」と、紹介してくれた。おれはそこで初めて『ポールはゲイ』と認識するに至ったのだ。

 品のいいキャメル色のジャケットを着た、四十がらみのボーイフレンドは、それからもちょくちょくアパートメントに訪れた。葉巻の好きな男で、エレベーターにまでその匂いを残していたので、おれはそいつの来訪を鼻で察知できるようになってしまったほどだ。

 しばらくポールのまわりにあった葉巻の香りは、クリスマスの直前に消え、昨年のパーティで、ポールはふたたびフリーになっていた。その席で、ポールはもうひとつの事実をおれにカミングアウトした。

「きみとはあれが初対面じゃなかった」

 バーカウンターでグラスに酒を注がれながら、ポールはそうつぶやいた。

「店にきみが来たときに、すぐわかったよ。『あ、同じアパートメントの人だ』って」

 おれは驚いて(キスシーンを目撃したときほどは驚かなかったが)彼に訊ねた。

「なんですぐに言わなかったんだ? ずっと後だろ、おれたちが同じとこに住んでるって話になったのは」

「だって怪しいじゃない? 初めて来たお客さんに『ぼくはあなたのこと知ってますよ。何度かアパートメントでお会いしてます』なんて」

「何回か会ってるって?……少しも気がつかなかったな」

「こっちは意識してたからね。『かっこいい人が住んでるんだな』って」ポールは片方の眉をちょっと上げ、意味深に微笑んでみせた。

 ゲイに対する偏見がないおれだが、自分の与り知らぬところで男から密かに“かっこいい人”と思われていたことを知るのは、さすがに奇妙な感じがした。

「きみがゲイだったら『ぼくのボーイフレンドになって』って言うところだけどね」ポールはそう言ってふふっと笑い、すまし顔でグラスに口をつけた。

 彼がこういうことを言ったのは後にも先にもこれっきりだ。このときはずいぶんアルコールが入っていたので、口がすべったのかもしれない。

 酒の席で告白されはしたが、ポールとおれとのあいだには、友情以外のことは発生しなかった。そもそもそれ以外のことなど、おれは考えたこともない。何といっても、おれはゲイじゃない。自分のアイデンティティははっきりしている。だからこそおれはポールと楽につきあえるのだ。



 ミッドタウンのアパートメントにたどり着くタクシー。ドアマンのヘンリーに挨拶をして(あやうく「メリークリスマス」と言いそうになった!)エレベーターに乗り込み、〔8〕と〔15〕のボタンを押す。それが8階に停まったところで、ポールはエレベーターを降りた。

「それじゃ、おやすみ」と、ポール。

「おやすみ」と、おれ。

 ドアが静かに閉まり、向かい合って立つおれたちの間を隔てる。

『人生はドラマに満ちている』最初におれはそう言ったが、聡明なる読者諸君はここまで読んで「これのどこが?」って思っているに違いないだろう。そう、ここまでのドラマはいたって普通。離婚、遺産相続、ボート事故にみせかけた殺人とは無縁。ストレッチャーで重病人が緊急病院に運び込まれたり、妹が宇宙人に誘拐されたり、車や馬がしゃべったりはしない。極めて平凡、かつ平和な世界。

 15階でエレベーターを降りる直前、おれはポールに『メリークリスマス』を言わなかったことに気がついた。

 まあいいか、ほんとうのクリスマスまでには間があるんだし、クリスマスの挨拶は本番までとっておけばいい ───そう思うおれは、次週からの脚本を甘くみすぎていたらしい。

 たとえドラマの主人公であっても、先の展開はわからない。

『来週をお楽しみに!』

 ドラマ性が増加するにつれ、登場人物の苦労は増え、視聴者にはこの挨拶がしっかりと意味を成す。

『来週をお楽しみに!』

 渦中の者にとってこれほど残酷な挨拶はないと思うのだが……。



 月に一度、おれはポールのところで髪を切る。

 美容室のドアマン、バリーに挨拶をし、荷物預かりの年配の女性、ドーラと世間話をする。『アレクザンダー・アーベル』のスタッフの動きはきびきびしていて無駄がない。静かでありながらも活気ある店内。プロが誇りを持って働いている現場というのは、どんな場所であっても気持ちがいいものだ。

 店の客層はアッパー(上流)な中年女性がメインで、なかにはセレブを気取りたい若い女の子の姿もちらほら見える。男の客は極めて少ない。というか今日のところはゼロ。おれは前室に入り、黒くて長いガウンをすっぽりと羽織る。鏡に自分を映し、全身をチェック。その姿たるや、まさに“ダース・ヴェイダー”。アッパーなオバサマからキュートな女の子まで、この店内ではすべての客がヴェイダー化することを余儀なくされており、その光景はかなりシュールで笑えるものがある。スタッフのアリシアにその光景の奇妙さについて話したことがあるのだが、彼女にとってそれは笑うところではなかったらしく、妙な顔をされて終わりだった。もちろんポールはウケてくれたが。

「ハイ、ディーン。元気?」

「かわりないよ、ケイト」

 数少ない男のレギュラー客であるおれは、すべてのスタッフに名前を(名前以外のさまざまなことも)覚えられている。がっちりした黒人男性がおれに目をとめ、「あらぁ」と、声を上げた。

「やあ、ダグラス」

「久しぶりよねぇ。先月あなたが来たときは、あたしのお休みとぶつかってたから……ちょっと待っててね」顔の横に人さし指を立てる彼。ママのような仕草だ。

「ポール、あなたの大好きなお客さんよ〜」ダグラスは店の奥へと歩き、ポールに声をかけた。『担当者は誰がご希望ですか?』と、聞かれるまでもない。おれは“ポールのお客さん”。しかも“大好きなお客さん”だ。こんな場面は中学生の頃によくあった。『キャシー! ほらっ、ディーンが来たわよ!』とかなんとか。つき合っているわけでもないのに、クラスの全員が公認の『キャシーのディーン』。もちろんここではおれはポールに会いにきているわけだし、店のこうした対応について不都合や不服があるわけでもない。ただダグラスのような言い回しは、ちょっと背中がカユいような気がするってだけ。

 スタイリング・チェアーにかけると、見習いのアニーが「お飲み物は?」と聞いてきた。おれは「スコッチ」とオーダーを入れる。彼女は顔を赤くし、「コーヒーと紅茶とハーブティしかありません」と、生真面目な返答。

「お客さま。当店の大切なスタッフをからかわないでください」いつのまにか背後に立っていたポールが、鏡越しにおれを見て微笑む。「いつものコーヒーで?」

「ああ、それでお願いするよ」と、アニーを見る。

「かしこまりました」アニーは顔を赤らめたまま奥に引っ込んだ。

「いじわるだなぁ」苦笑するポール。

「かわいいからな、つい」

「アニーに言ったら喜ぶよ。きみのことが好きだから」

「好きだって? 彼女、おれとほとんどしゃべったことないぞ?」

「好きって言ってもいろいろさ。テレビの人に憧れるようなのと同じ感覚なんじゃない?」

「ふぅん……じゃ、今度デートにでも誘うか」

「どうかな。夢は夢のままにしておいたほうがいいと思うけど」

「どういう意味だ、それは」

 アニーが運んできたコーヒーを飲みながら、ポールが立てるリズミカルなハサミの音をBGMに、会話をする。

「シャンティクリアのコンサートチケットがあるんだけど、よかったら一緒に行かない?」と、ポール。

「いいね、いつ?」

「次の金曜日。場所はメトロポリタン美術館」

 ハサミが耳元でシャキッと音をたてる。

「昼食は?」と、おれ。

「まだだよ」

「一緒に?」

「今日はケイトと行くことになってるんだ。彼女、ボーイフレンドと別れたばかりで落ち込んでるから」

「そうか」

「ごめん」

「いいよ」

 剃刀が襟足でザザザと低くうなる。

「今晩、家にいる?」と、ポール。

「いるよ」

「借りてたDVDを返したいんだ。行っても?」

「うん」

 食事、イベント、コンサート、DVDの貸し借り。おれたちのつき合いはだいたいこんな風。

『行く?』『行くよ』

『行く?』『ごめん、他に約束がある』

 受けるのも断るのもシンプル極まりなく、相手が自分以外の別な誰かを優先させても、すこしも気にならない。関係は対等で、利害関係はゼロ。あるとすれば、ここのバカ高いチップを負けてもらっているぐらいだが、それもこっちがランチや映画をおごることで、うまく帳尻を合わせている。

「バーイ、ディーン」帰りがけ、ダグラスが可愛らしく手を振る。ゲイと女子中学生はどこか似ていると思うのはおれだけだろうか?『バーイ、ディーン……ほらっ、キャシー! ディーンが帰っちゃうってば!』……どうもダグラスを見ていると、中学時代の女子たちを思い出してならない。噂好きで、結束が固く、おしゃれには余念がなくて、男の子たちに多大な興味を抱く。ローマンに言ったら、極端な偏見と説教されるかもしれないが、彼らの持つそんな“女子中学生チック”な部分を、おれは決して嫌いではない。むしろどこかかわいいと、好ましくさえ思ってさえいるのだ。

 シャイなアニーと巨躯のダグラスを同じ単語で表現してしまうのはおれの語彙の少なさによるものなのかもしれないが、そこに持つ感情は『かわいい』と、ひと括りにしてしまっても一向に差し支えはない。ただ、どっちかとデートしなきゃならないとしたら、迷うことなくアニーを選ぶだろうことは間違いないけど。



 おれとポールにはイギリスのお笑いが好きだという共通項がある(実際のところはおれが洗脳したというのが正しい)。八時をすこし回ったぐらいに、モンティ・パイソンのDVDを手にしたポールがうちにやってきた。

「おもしろかったよ。ありがとう」玄関でDVDを手渡すポール。

「第二シーズンって貸したっけ?」

「『ルピナスの騎士』が出てくるやつ?」

「それじゃなくって、漂流した海兵隊のやつ。ボートで漂流して……ああダメだ、もし見てなかったらオチをバラすことになる。今日これから時間は?」

「あるよ」

「ちょっと上がって、観た記憶あるかどうかチェックしてくれ」

 結局それから数時間、おれとポールは出前のピザを食べながらモンティ・パイソンのDVDを観て、アタマの悪い高校生みたいに笑い転げることとなる(いい年して馬鹿馬鹿しいって? おっしゃる通り、これがモンティ流)。

 仕事とプライドが関与しない男同士のつき合いは、どうも子供っぽくなる傾向があるらしい。以前つき合っていたガールフレンドの口癖に「男の人は子供っぽい」というのがあった。確かにおれたち男は、女性と比べて子供っぽいことは否めない。しかしおれとポールの付き合いは“モンティ”だけには留まってはおらず、ここからがアタマの悪い高校生とちょっと違うところ。おれたちはとにかく色々な話をする。仕事のことや、最近見た映画のこと。政治や宗教、互いの恋愛観について。馬鹿話から、精神性の深い話まで、女の子みたいに何時間でもしゃべりたおすことのできる相棒は貴重なものだ。ビールを手にしているという点では、“女の子みたい”というより、“ヒマな爺さんみたい”との形容詞がピッタリくるだろうか?

 チェルシーの友達の家に遊びに行ったとき、こんな光景をみかけたことがある。早朝、ふたりの老人が雑貨屋の表にベンチを出して座っていた。彼らはバックギャモンを間に置いておしゃべりをしていたのだが、夕方おれがそこを通りかかったとき、ふたりはまだゲームを続けており、それは朝とまったく同じ状態のように見えた。友達にそれを言うと、その爺さんたちは毎日そこにいて、バックギャモンのこまはほとんど動くことはないのだという。彼らにとってゲームはただの口実であり、実際は友達と何時間もおしゃべりをしていたいだけ。おれたちにとっての“モンティ”も、彼らのバックギャモンみたいなものなのかもしれない。おれにはあの爺さんらの気持ちがわかるような気がする。これは老後まで持ち越すに値する居心地の良さだ。輸入ビールを傾けながら、おれは七十才になった互いの姿を思い描く。きっとポールは五十に、こっちは百にでも見られるのだろう。

 若い年寄りがおしゃべりに興じていると電話が鳴った。おれは子機をとり、となりの部屋に移動する。話を終えて戻ると、ポールがソファから「ガールフレンド?」と聞いてきた。冷蔵庫からチーズを出しながらおれは答える。「ブー、はずれ。ママだよ。『クリスマスはどうするの?』って」

「お母さん、フロリダだっけ?」

「ああ、ばかでっかいコンドミニアムにひとりで暮らしてる」

 おれの家族は母親と姉のふたり。父親はおれが生まれて数カ月後に死んだ。仕事を早々にリタイヤした母は、現在フロリダで引退生活をしており、九歳年上の姉、アイリーンは保険会社のオーナーと結婚して、郊外に構えた邸宅と、アッパーウエストのマンションでリッチに暮らしている。

 チーズの赤いワックスを手ではがし、スライサーで薄く削りながら「きみのお母さんは?」と、彼に訊ねる。

「カナダにボーイフレンドといるよ」

「クリスマスにはカナダへ?」

「母親とその彼氏のところに遊びに行ってもね。きみはフロリダに?」

「アイリーンは毎年家族で行ってるけど、おれは別に」

「カナダよりは近い」

「クリスマスは彼女と過ごすつもりだ……と、言ってもこれから見つけるわけだけど」テーブルにチーズを置き、それを指でつまんで口に入れつつ、ソファに座る。

「だったら、あと一か月のリミットだ」ポールはチーズを楊枝で刺して、口に入れた。

「駄目ならその日限りの彼女を調達するまでさ」

「どこまで本気なんだか」くすっと軽く笑うポール。

「そう言う自分はどうなんだ? 時間は平等、きみにとってもあと一か月のリミットだぞ」

「もしクリスマスまでに見つからなくっても、ぼくはその日限りの彼氏は調達しないよ」

「わかった。最悪の場合に備えて、モンティ・パイソンを全巻貸しておこう」

「いいってば」ポールはけらけらと笑った。その笑い声は快い。もっと笑わせたくなるおれは、さらに真剣な面持ちで彼に詰め寄る。

「『ベン・ハー』と『風と共に去りぬ』も貸すよ。どっちも長編だから、な?」

「それは『クリスマスまでには彼氏ができない』って意味?」

「『ロード・オブ・ザ・リング』を全部まとめて見返すって手もある」

「うるさい」

「『ディスカバリー・チャンネル』もおすすめだ。『神秘的なミツバチの生態』とかやるし」

「黙れ、ディーン・ケリー」ポールはテーブルのうえにあったオレンジを取り、おれの腹めがけて投げつけた。それをキャッチして投げ返す。また投げるポール。おれもまた投げ返す。

「食べ物で遊んじゃダメだ」笑いながらポール。

「先にやったのはそっちだろ!」

 いつものやりとり。これでもし、お互いに恋人ができたらどうなる? おれの彼女とおれ。ポールの彼氏とポール。きっともっと楽しくなるだろう。ポールとふたりっきりで旅行に行こうとは思わないが、四人となればビーチリゾートやスキーに行っても楽しめる。クリスマスまでにとは言わなくても、まあそのうち、そう遠くない未来に……。

 時計を見ると零時を回っていた。ポールといると時間はいつもあっという間だ。

 両手を天井に向けて伸びをすると、肩の骨がばきっと音をたてる。聞きつけ「すごい音したね」と、ポール。

「身体がなまってるんだな。ここんとこ仕事が忙しくって、ジムにも行ってないから」

「マッサージしてあげようか?」

「え? あー……いいよ」

 思いがけず声のトーンが下がってしまった。感じ悪い。しかしポールは気分を害した様子ではない。

「きみにとってはマッサージは前戯の一種かもしれないけどね。マッサージはただのマッサージ。それにぼくのは『指圧マッサージ』だからね。少しもロマンティックじゃないよ」

 いささかバツが悪くなったおれは、照れ笑いをして「きみが疲れてるんじゃなかったら、お願いするよ」と、申し出る。

「じゃあ横になって」

 おれが『アレクザンダー・アーベル』で髪を切る理由のひとつに、ポールのマッサージがある。今まで受けた美容室のマッサージとは比較にならないほど、彼はそれがうまいのだ。万がいちポールが失業したら(ありえないけど)、マッサージ師でも食べていけるだろう。

 シャツを脱ぎ、クッションを枕にしてうつ伏せになる。肩から背中を揉みほぐすポール。かなり力がこもったアプローチだ。肩甲骨をつかみ、それを引っ張り上げる。これは確かに、少しもロマンティックではない。ゆっくりと肩甲骨を引っ張る、引っ張る、引っ張る……って、いつまで引っ張るつもりなんだ?!

「骨が外れる!」患者の悲痛な叫びをものともせず、施術師は「力を抜いて」と、クールに言い放つ。「肩甲骨は本来、背中から外れているべき場所なんだ。これはどこかにくっついている骨じゃないからね。肩甲骨の動きが自由じゃないと……」骨をつかむ手に力を込め、言葉を続ける。「血流が悪くなって、代謝率も低下する。代謝の低下は肥満とか肌荒れにも関係あるんだけど、免疫細胞の働きも悪くなって、疲れやすくなったり、病気にかかりやすくなったりする。たとえば風邪をひきやすいとかね」

「そんなこと、どこで習ったんだ?」

「以前、日本で仕事をしていたときにボディワークのクラスを受講したんだ。短いコースだったけど勉強になったよ」

 日本人。フグを食おうって国民性の輩だ。背中から肩甲骨をひっぺがすことぐらい、彼らにはなんでもないのだろう。

 今度は左の肩甲骨に取りかかる。黙々と作業を続けるポールに、「『痛いですか?』って聞いてくれないのか?」と、おれは泣きごとを言う。

「聞いてほしい?」

「ほしい」

「痛いですか?」

「痛い」

「そっ」

「ポール!」

「大丈夫だよ!」ポールは笑い声を立てた。「心配しないで。ぼくを信頼して。きみは恐がりだな」

「恐いんじゃない。痛いんだ!」

「すぐ終わる。ほら、身体から力を抜いて」

 なんて無情なやつ。おれもそのうちマッサージを習おう。『肩甲骨をはがす』という荒技に対抗できるようなマッサージがあるだろうか? あとでWWFに問い合わせてみよう。

 三十分も経過した頃に「よし、おわりっ」と、ポールが言うのが聞こえた。肩甲骨は元の位置にある。どうにか生き延びたらしい。シャツを着ようと思ったが、身体は粘土のように重く、起き上がることができない。やってもらう前より疲労したような感じだ。うつぶせになったままそう訴えると、ポールは「それでいいんだよ」と言う。「今はゆっくりして、あんまり動かない方がいい。指圧は陰と陽のバランスを整えるマッサージだからね。終った直後にぐったりしていても、明日になれば身体はすっきりしてるはずだよ」

 あんまり動かない方がいいと言われはしたが、あんまりどころか少しも動けない。ポールは冷蔵庫からボルヴィックを出し、コップに注いでおれの頭の近くに置いた。

「水を飲んで。起きるならゆっくり起きて」

「ありがとう……」

 ふいに眠気が襲ってきた。水を飲まなきゃという思いは、眠気によって打ち消されつつある。まぶたが重い。脳の命ずるままにまぶたを閉じる。ポールがなにか言っている。聞こえなかったので、もう一度言ってくれと頼む。再度なにごとか言うポール。やっぱり聞きとれない。水を飲まないといけないんだったな? それはわかっているのだが、身体はうつぶせになったまま動こうとはしない。ママがおれの頭を撫でた。いや、これはママじゃない。ポールだ。『いま起きるよ』。おれはそう言った。たぶんそう言ったと思う。優しい手はおれを撫で続ける。意識は眠りへと急速に吸い込まれる。肩と頬にそっとキスをするママ。指圧は陰と陽のバランスを整えるマッサージ。眠っているあいだに、身体は陰と陽を整える。深く、深く───訪れるのはヒーリングの心地よいまどろみ。おれはそのまま眠りに落ちたらしく、気がついたときには太陽が昇っていた。部屋には朝日がやわらかく差し込んでいる。ゆっくり起き上がると、身体を覆っていた毛布がめくれて落ちた。いつそれがかけられたのか覚えてもいない。どうやら身体に重さやダルさは残っていないようだ。朝の光のなかで、塵がダンスを踊っているのをしばらくぼんやりと見つめ、それから熱いシャワーを浴びた。それは天にも昇るような気分だった。



 午後三時、仕事のきりのいいところで、コーヒーを買いに外へ出る。スターバックスの利益の八割は、オフィスワーカーによるものではないだろうか。これができる前はどこでコーヒーを飲んでいたのか記憶にないほど、おれの生活にはしっかり根付いた習慣のひとつになっている。社内には無料で飲み放題のコーヒーがあるが、これはカフェイン濃度を最低限におさえた、コーヒーに似た茶色い“なにか”だ。プラスチックのカップを使用することが環境破壊につながるため、オフィスコーヒーを廃止しようとの働きもあるが、もしそうなっても誰も嘆きはしないだろう。

 オフィスビルのエントランスは、壁面の一部が鏡張りになっており、広い空間をさらに広く見せる効果がある。そこを通過する際、鏡に写った自分を横目でチェック。茶色のスーツに白いシャツ。上着を脱がなければ見えないが、シャツには白い糸で刺繍が入っている。ネクタイはピンク。ピンクと言ってもコメディアンがしているような色を想像しないで欲しい。暗いピンクに濃いワインレッドの幾何学模様のネクタイだ。いつもだったら黒か焦げ茶の靴を合わせるところだが、今日は濃いボルドー。このいでたちが意味するところは『終業後はちょっと遊びに行く』ということだ。メトロポリタンでのコンサートは七時から。とっとと仕事を片付ければ余裕で間に合う。

「なんでよ!」

 入口の回転ドアを通ってすぐ、強い怒声が耳に飛び込んできた。このビルの一階はオープンスペースで、一般の人々も出入りできる、ちょっとした休憩所になっている。

 声の方を見ると、ガラスが複雑に組み合わさったオブジェに隠れるようにして、ひとりの女性が何やらブツブツと喋っている。一瞬、妙なひとりごとかと思ったが、よく見ると彼女は携帯電話にしゃべっているのだった。

「……もう……それだったらもっと早く……ごめんとかじゃなくって……」

 切れ切れに聞こえてくる不服の言葉。イラついた様子でブロンドの長い髪をかきあげる女性。はっきりした目鼻、勝気そうな顔立ち。彼女には見覚えがある。顔だけではない。おれはその女性のフルネームと担当部署を知っている。名前はシェリル、営業推進課のシェリル・ターナーだ。なぜ知っているかって? たとえ部門が違っていても、この会社の男なら誰もが彼女の名前を、その素晴らしい容姿とセットで記憶に刻み込んでいるはずだ。

「いっつもそうなんだから! あなた勝手よ!」怒鳴り、電話を切るシェリル。その様子をぽけっと眺めていたおれは、こちらを振り向いた彼女とばっちり目が合った。つい目をそらしそうになったが、そこをぐっとこらえる。こっちは何も悪いことはしていないのだから、目を逸らさねばならない謂れはない(たぶん)。

 シェリルは立ち聞きしていたおれのことを睨みつけるでもなく、はにかんだように笑うと『へんなとこ見られちゃった』とでも言うように、両肩をきゅっとすぼめてみせた。

「ごめん、立ち聞きしてたわけでは」言って、おれも肩をすぼめる。ちょっとは愛らしく見えて、立ち聞きの罪が軽減されることを願いつつ。

「あら、いいのよ。でもヒステリックに叫んでるとこ見てびっくりしたでしょ」

 おれの罪を気にもとめず、彼女はこちらに歩み寄ってきた。花と桃をミックスしたような甘い香水が香る。

「ボーイフレンドと喧嘩でも?」

「妹なの。今日の夜、食事する約束してたんだけど、急用ができて来られないって。きっと男ね。姉との約束なんてそんなものよ。もう、わたしの胃袋はすっかり“寿司モード”になってるのに。がっかりだわ」

「きみと一緒に寿司を食べたいって奴ならいくらでもいるだろうな」

 グラマーでセクシー。男の視線を一身にあつめる美貌のシェリル。彼女が相手に事欠くというのは、この世の男が全員ゲイでない限りありえない。

「そう思う?」と、上目づかいでシェリル

「もちろん」おれは請け合い、うなずいてみせる。

「じゃあ、今晩つき合って。終業後ここで待ってる」そう言うと、シェリルはブロンドの髪をひるがえし、花と桃の香りを残して、素早くエレベーターホールへ消えた。

 なに? 失礼ですが今なんて? ……などと、追いかけて確認するまでもない。『今晩つきあって』彼女はたしかにそう言ったのだ。

 美貌のシェリル。社内のアイドル。グラマー、アンド・ザ・セクシー。

*・°☆.。『今晩つきあって』☆.。. : *・°☆.。. :

*・°☆.。『つきあって今晩』☆.。. : *・°☆.。. :

 ───落ち着け。彼女は『食事をつきあって』と言ったんだ。胃袋が“寿司モード”になっているだけなんだ。高校生みたいに舞い上がるんじゃない。

 落ち着きを取り戻すべく、おれは手に持っていた飲み物をすすった(ちなみにカフェインの効用は中枢神経刺激作用。落ち着きとは真逆のものだと、この時点でおれは気づいていない)。

 しかし……───言ってみるもんだ!!! どうやら彼女は見た目ほど近寄りがたい女性というわけじゃないらしい。しゃべった感じはいたって普通。『お高い』との評価も聞いたことがあるが、それは事実無根の噂だったのだろう。

 見た目の印象で敬遠されることは、おれにも覚えがある。『お高い』はもちろん、『不機嫌そう』だの、『顔が怖い』だの(ほっといてくれ!)。このあいだのパーティではゲイだとあだな誤解を受けたし。だがしかし、おれもシェリルのことを勝手な先入観で見ていたのかもしれない。手の届かない高嶺の花。自分にはとても手に入らない孤高の存在。ひょっとしたら彼女はいつもこんな風に異性から扱われているのかも。見習いのアニーがほとんどおれに話しかけようとしないように、男たちが『とても自分には無理だ!』と、シェリルを遠巻きにしているのだとしたら? その結果、シェリルはボーイフレンドもおらず、このマンハッタンでひとり孤独だとしたら? シェリル、ああ、気の毒なシェリル! 誰にとっても友達は必要だ。もしかしたらおれたちは気持ちがわかり合える間柄になれるかもしれないじゃないか。

 ドラマのはじまりを予感しつつ、意気揚々とエレベーターへと乗り込む。そのドアが閉じかけたその瞬間、ふたたび〔開〕のボタンを押す。シェリルと寿司を食べるには、まずやることがある。おれは友達に電話をしなければならないのだ。



 さっきシェリルがいたあたり、ガラスのオブジェの横に立ち、着信履歴からポールの名前を見つけだす。彼は仕事中だったが、それでも電話に出てくれた。おれはシェリルの妹と同じことをポールにする。“ドタキャン”というやつだ。

 今日のコンサートには行けなくなったと言うと、彼の声のトーンは下がった。とてもがっかりしたようだったが、シェリルが妹にしたようには怒鳴らなかった。

「本当に済まない。しかし今日だけは許してほしい。この埋め合わせは必ずする。チケット代はおれが持つよ」

「それはいいよ。ぼくもタダでお客さんから貰ったんだし。もしかしてお母さん?」

「え?」

「お母さんになにかあったの?」心配そうなポールの口調。予想もしていなかった彼の反応に、おれの心臓はどきどきと脈打った。

「ん、まぁ……そんな……とこ……かな」

「そう……わかった。こっちは気にしないで。他の友達を誘って行くから」

「ごめん」

「それじゃ」

「バイ」

 ───通信終了。

 なんだこれは? いったい何がどうなった?

 なんとなく気持ちが重苦しい。いや“なんとなく”どころではない。“がっちり”と重苦しい。罪悪感が波となっておれを襲う。それに加え、やってしまったことへの後悔も、その波の上でちゃっかりとサーフィンをしている始末。電話をかけ直すか? かけ直してポールに………いや、やめておこう。言ってしまったものは仕方ない。それに正直、おれはシェリルとデートがしたい(すごく!)、こんな機会はめったにない。おれとポールとは住んでいるところも同じ。一緒に出かけるのはめったにない機会じゃないし、会おうと思えばいつでも会える。めったにないどころか、ありすぎるぐらいだ。ここ最近のおれはポールとばかり遊んでいる。それはそれで楽しいが、おれにはガールフレンドが必要だ。ポールにボーイフレンドが必要なように、おれにも特定の(一晩限りじゃない)ガールフレンドが必要なのだ。

『なぜおれたちに恋人ができないのか?』その理由がここにきてようやく見えてきたような気がする。おれとポールは新しい出会いを求めてどこかに出かけるかわりに、ふたりでDVDを観たり、一緒にピザを食ったりしている。お互い恋人のいない寂しさを感じることもなく、年増の仲良し姉妹のように、他人が間に入れないような状況を作り出す。このままでいることが楽しすぎて、無意識にではあるが、変化することを放棄しかけているのだ。ここいらで彼とはある程度の距離をおくべきなのかもしれない。分別ある大人の選択。長い目でみればそういうことだ。ポールにはもうしばらくしてから真実を話そう。

 罪悪感の大波と後悔という名のサーファーが生み出す重苦しい気持ちは、この理論にわずかに組み伏せられたようだった。

 さあ! しゃきっとしろ、ディーン・ケリー! がっちりと重苦しくなっている場合じゃないだろ! 今夜のおまえは運命の女性と親密になるのかもしれないんだから!



 シェリルとおれはトランプタワー近くの日本食レストランに入った。仏像とちょうちんが華やかに輝くこの店は、金曜の夜ともなれば観光客だけでなく、新しい店を発掘する意欲のないニューヨーカーでいっぱいになる。

 シェリルはその胃袋が望む通り、寿司を注文。寿司はおれも大好きだ。あなごにマグロ、イカとタコ。元の形を思い出さないで食うのがコツ。寿司の他にはベビーシュリンプの和え物、ワサビとアボガドの辛いサラダ、牛の舌のソテー、そしてサケをオーダーした。

「もうおなかぺこぺこ!」そう叫ぶなり、寿司を口に放り込むシェリル。さっきは気がつかなかったが、彼女、オフィスワークにふさわしいとは言えない格好をしている。スーツはベビーピンクで、胸元が広く開いている。ぴったりと腰に貼りついたスカートは超ミニ。そして3.5インチはあろうかというハイヒール。くりかえす、スカートは超ミニ───悪くない。

「わたし日本人に生まれるべきだったかも。寿司は大好きよ。これなら毎日だって、いくらでも食べられる」

 男の前で気取って小食ぶるようなことはしないシェリル。やっぱり彼女は見た目と違う。服装はセクシーだが、そういう女性にありがちな、脳障害を疑いたくなるような発言もない。ちゃんと自分の意見を持ち、政治にも関心があるようだ。

 おれたちは食事と会話をゆっくりと楽しみ、最後にお茶を飲み終わったところで、ようやく席を立った。

 会計をすませ、店を出ようとしたその瞬間、おれはカードを財布にしまうことも忘れてその場に立ちつくした。すぐ目の前、五フィートにも満たないところにポールが立っていたからだ。

 マンハッタンは五十七平方キロメートルの狭い島なのだと、こんなときに実感させられる。この界隈にはいくらでも日本料理店があるっていうのに、今日、今夜、今の時間、なんだってわざわざおんなじ店をチョイスするんだろう。

 ポールは信じられないといった顔でおれを見ている。おれはなにか言おうとしたのかもしれない。彼のそばに行こうとしたのかもしれない。しかしこっちが次の行動を選択する前に、背の高い男がポールの肩に手を置いた。

「どうした?」と男がポールに訊ねる。呼びかけに我にかえったポールは「なんでもないよ」とつぶやいた。

“なんでもない”───おれは血の気がひいた。

「どうしたの?」おれの連れの女性が訊ねる。今度はこっちが我にかえる番だ。

「いや……」おれは口ごもり、首を振った。

「行きましょ」と腕をからませるシェリル。それが初めての彼女とのスキンシップであることにも気づかず、おれは棒立ちになったまま。腕を引っ張るようにして、彼女は歩き出す。

 こっちが店を出るのと入れ違いに、ポールと背の高い男は店の奥へと進んだ。

「ずいぶん若い“お母さん”だ───」

 すれ違いざまにポールが言うのを、おれはしっかりと耳にする。そのとたん、いま食ったばかりの寿司は鉛に姿を変えた。服の上から胃を押さえる。おれの胃は被害者ヅラをしている。おい、ちがうだろ? 悪いのは───おれだ。



 おれとシェリルは南に下り、小さなバーに腰を落ち着ける。明るくにぎやかな店から一転して、薄暗く静かな酒場へ。これをやると女性は“自分たちは今、ふたりっきり”ということを必要以上に意識してしまう。相手と一気に親密になれる戦法ではあるが、相手が一気に引いてしまうという危険性も兼ね備えた、ハイリスク・ハイリターンの荒技だ。

 シェリルと今晩どうこうしようなどとは考えてはいなかった。もっとゆっくり時間をかけて親しくなっていこうと。そう、さっきまではそう思っていたんだ。しかし今夜のおれはどうしてもひとりになりたくはなかった。ひとりになって考えはじめたが最後、己のいろいろな部分を批判し、嫌悪し、そのあげく、やらなくていい何かとんでもないことをしでかしそうな気分だったからだ。

「なんだかさっきの店を出てから元気がないみたいね?」

 カクテルを頼んで数分後、おれの様子がおかしいことにシェリルは気がついていた。鋭い。そもそも鋭くない女をおれは知らない。

 女神とのデートだ。暗くなっている場合か。おれは背筋を伸ばし、『なんでもないよ』と言おうとした。しかしそれは不可能だった。口をついて出たのは 「……うん」と、云う正直なトーンの声。

「いったいどうしたの?」

「なんていうか……今、男友達とちょっとモメててね」

 厳密には『モメる予定』、もしくは『モメることが予測される』のだが、あまり細かくは説明できない。

「悪いのはおれのほうで……おれがほんとうに悪いんだけど……」

「謝ったの?」

「いや……」

 今さっきの出来事だ。謝る隙はなかった。

「あやまるんでしょう?」と、シェリル。

「うん」店内に流れるゆるいジャズを聞きながら、手にしたトムコリンズの泡を見つめる。「でも許してもらえるかどうか」

 こんな弱音がとびだすとは情けない。『人生でうまくいっていないことを打ち明ける』初デートでいちばんやってはいけないことだ。

「ディーン……」カウンター上のおれの手に、自分の手をそっと重ねるシェリル。おれの顔を覗き込むようにして見つめる。その印象的な瞳。長い髪が揺れ、花と桃の優しい香りがした。

「わたしがどうこう言える立場じゃないけど……でももし自分があなたの立場だったら、友達に許してもらえるまで謝るわ。それでも駄目なら……あきらめる。相手が本当の友達なら、きっとあなたを許してくれるはずよ。きっと大丈夫。自信を持って」

「ありがとう」

『正直は美徳』、そのことわざが身に沁みた。心のすべてをさらけだしたその二時間後、シェリルはおれをベッドでなぐさめてくれたのだから。



 昨晩はめくるめく嵐のような一夜だった───と、言いたいのはやまやまだが、彼女とのセックスはいまひとつだった。しかしそれはシェリルのせいではない。彼女には少しも落ち度はなかった。初めてまともに口をきいてから、二十四時間も経過していないというのに、目を見張るような奉仕をしてくれたし、その裸体は美術館に飾れるぐらい(もしくはプレイボーイ誌を飾れるぐらい)完璧だった。ありていに言って悪いのはこっち(ああっ、くそっ! またおれか!)。ポールのことで精神的に動揺していたおれは、行為に意識を集中することが難しく、普段の実力を発揮できないままにそれを終えた。こういうとき、男はめちゃくちゃに凹むもんだが、おれはさほど嫌な気分にはならなかった。寛大な彼女はたった一度の愛の営みでおれを判断することはせず、翌朝も優しくしてくれたからだ。シェリルは次回のデートをおれに確約させると、「これからヨガの教室だから」と微笑みとキスをくれて出ていった。



『なにか失敗をやらかしたときに限って、時間というものはありあまるほど存在する─── 格言 : ディーン・ケリー』

 金曜日の次は土曜日、つまりそれは『今日のおれには、己の失敗について考えるだけの時間がたっぷり用意されている』という意味を持っている。

 ひとつ伸びをし、冷蔵庫からレモンと炭酸水を取り出す。レモンを二つに切って、炭酸水に絞る。ジンを足そうとしたがそれはやめた。昨日の出来事を検証するにあたって、頭をハッキリさせておく必要がある。アルコールはその役には立たない。


[検証、おれのしたことのなにが間違っていたのか]

1: シェリルの電話を立ち聞きした。

 ───これに関しては結果オーライ。

2: シェリルと会話した。

 ───これも問題なし。

3: シェリルから食事に誘われ、それを受ける。

 ───微妙。


 この時点でシェリルに「また次の機会に」と言うべきだったか? そうかもしれない。けれど「また次の機会に」は、体のいい断り文句のように受け取られる可能性もある。第一、これがシェリルでなかったら「今夜は男友達と約束があるから」と言えたはずだ。しかし今回の相手はシェリル・ターナー。そんじょそこらのデートとはわけがちがう。神が与えたもうたこのチャンス。それを無駄にする勇気はおれにはなかった。


4: シェリルを優先させ、ポールに断りの電話をする。


 ここで問題なのは、おれが嘘をついたことだ。正直に言うべきだった。

『本当に申し訳ないけれど、今日だけはどうしても彼女とデートがしたい』

 そう言うべきだったんだ。もしそれができないって言うんなら、そのまま彼との約束を守るべきだった。まったく、なんであんな嘘なんかついたんだろう?

 レモン入りの炭酸水を飲み干し、シャワーを浴びる。服を着、濡れた髪のまま外へと飛び出す。どこに行こうというわけではない。むしろどこに行くのでもいい。こういうときは部屋にこもっていたくないだけだ。

 どこでもいいと言いつつも、近所のスターバックスはさけた。またばったりとポールに会ってしまうという偶然は、今はとても歓迎できないからだ。

 濡れた髪の毛は外気によってすぐに冷えた。ニューヨークの凍死者数は毎年三百人。このまま歩きまわっていたら、おれもその数字の仲間入りだ。白い息を吐きながら空を見上げると、冬の青空に白い鳥のような飛行機が浮かんでいる。タイ、インドネシア、モロッコ、エジプト。今、飛行機に乗れと言われたら、行き先がどこだろうと喜んで乗るだろう。しかしそれをしたところで問題の解決にはならない。部屋から出ても、国から出ても、問題の解決にならないことはよくわかってる。

 ポールに謝らねばならない。そう思いながらも、近所のスターバックスを避けてしまう自分がいる。逃げてるんじゃない。もうちょっと、あと少し時間が、考える時間がほしいだけだ。カフェイン抜きで。

 どこか温かい場所を目指してうろうろしてると、携帯電話が鳴った。画面に表示されているのは見知らぬ番号。出ようかどうしようかと考えあぐねていると、携帯は留守電に切り替わる。録音された音声を聞くと、それはシェリルだった。今晩、また寄ってもいいかと聞いている。着信履歴からかけなおすと、今度は彼女が留守電だった。おれはメッセージを録音する「ぜひ来てくれ。待ってる───」。

 これが問題の解決方法か? もちろん違う。わかっているとも。今晩、彼女と過ごして、それからポールに連絡しよう。うん、絶対にするとも。おれは誰に約束するでもなく、そう心でつぶやいた。

 アパートメントに戻る途中で、花束を買う。シェリルのためにと思ったのだが、やっぱりこれは自分のためなんだろう。部屋に花を飾りたくなるほど、今のおれは生気が薄い。生きた健康な何か。今のおれにはそんなものが必要だ。花とシェリル───そんなものが必要だ。



 シェリルと一緒に過ごす週末。部屋に花を生け、一緒に買い物に行き、一緒にパスタをゆで、一緒にシャワーを浴びる。

 ふたりでいるのはひとりでいるよりはるかにいい。おかげで徐々に活力は戻り、セックスも本来の調子で挑むことができた(なによりだ)。

 夜中に目を覚ますと、腕のなかにはシェリルがいる。起こさないようにそっとベッドを抜け出し、トイレに行く。朝まで一緒に過ごせる恋人。こういうのは久しぶりだ。

 薄暗い部屋のなか、眠るシェリルを眺めながら、椅子にすわってタバコに火をつける。白いシーツにくっきりと浮かびあがる優美な曲線。新車発表会で布をかぶせられているスポーツカーのような完璧さ。おまえはツイてるぞ、ディーン。シェリルのような相手はそうそういない。いたとしてもそれは雑誌のなかとか、スクリーンの中だけだ。おれは幸せだ。おれの人生はうまくいってる。

 深々と煙を吸い込み、ポールのことを考える。明日になったら電話しよう。百パーセントこっちが悪いんだ。謝るしかない。ただ謝るしかない。それにもしかしたら、ポールはこっちが考えているほどは気にしていないかもしれない。『このあいだのこと? やだな、そんなに気にしてたの?』そんなふうに言うかもしれない。たとえばあのときポールと一緒にいた男。あの晩おれに新しい恋人との出会いがあったように、ポールにとってもあれが運命の晩だったのだとしたら? 『きみが約束をすっぽかしてくれたおかげで、ぼくにも彼氏ができた』とか……。いや、それはいくらなんでも脳天気すぎる発想だ。『じゃじゃうま億万長者』じゃないんだ。そこまで都合のいい人生があるわけがない(とくにおれのに限ってはそうだ)。

 モヤモヤした考えから我にかえると、タバコはフィルター近くまで燃え尽きていた。灰はほとんど床にこぼれている。暗いところで掃除するのは困難だ。明日、陽が登ってから片付けよう。とにかくあした。すべてはあしただ。

 眠るスポーツカーの横にすべりこみ、エンジン音ならぬ、ゆるやかな寝息に耳を澄ます。

 おれは幸せだ。おれの人生はうまくいっている───。

 呪文のように、そうつぶやく。

 眠りはすみやかに訪れた。ほらな? うまくいってる。おれは赤ん坊みたいに眠れる。なにもかもがうまくいってるんだ。



『明日になったら電話しよう』そう思ったのは日曜の深夜。翌日、月曜になって電話をかけたかといえば……。今日は感謝祭。そう、木曜だ。残業をして、ようやく家に着いたのは十時過ぎ。冷凍庫からテレビディナーを出して、温めて食べる。シャワーを浴び、バスローブを羽織って、テレビを点ける。流れているのは気の滅入るようなニュース。気の滅入らないニュースを探すが、それは見つけられず、テレビを消して、エリック・サティのCDをかける。

 ポールに連絡をしないまま、時間はあっというまに通り過ぎた。クリスマスの展示会に向けて仕事が忙しくなったので、ついうっかり電話をすることを忘れてしまった───という説明にだまされる読者はきっとひとりもいないだろう。おれ自身、その言い訳にだまされたいところではあったが、それは不可能だ。いくら忙しいとはいえ、電話なんて五分もあればできる。今だって。それでもおれは電話をかけない。

 ペリエを開け、ソファに座る。ジムノペティの切ない旋律を聞いていると、唐突にポールの台詞がフラッシュバックした。

 ───ずいぶん若いお母さんだ───

「くそ、なんだそれは。おれはなにも言ってないぞ! そっちがひとり合点したんじゃないか!」

 もちろんこんなふうに怒るのは、お門違いだ。非の打ち所なく、おれが悪い。なのに腹立ちをおさえられない。昨日はこうは思わなかった。妙に脳天気になって、「まあ、いずれ向こうから連絡があるさ」と考えもした。一昨日は「悪いのはおれなんだから、きちんと謝るべきだ」と考えてもいた。

 いろいろな考えが沸き上がっては消える。なにも行動には移さず、ただ考えに浸り、気持ちは上がったり下がったり。その結果、手に入るのは“完璧な消耗”だけだとしても、おれはポールに連絡をとろうとはしない。

 どうして電話をかけないのか、自分でも不思議だった。ここまでうじうじしているなんて普通じゃない。そんなに気になっているのだったら、受話器をとってこう言えばいい。『この間はごめん。きみに嘘をついた。言い訳はしないよ。ほんとうに済まなかった』どうしてそう言えない? どうして連絡をとらないんだ? だいたい『どうして?』なんて理由を追求すること自体、無意味だ。これはただ時間を引き延ばしたいというトリック。理由なんてのはどうだっていい。ただ電話をすれば……。

 時計を見ると零時を回るところだった。こんな深夜に電話をかけるのは失礼なこと───妙に安堵し、そう思う。今は木曜日、あと五分で金曜日。あれから一週間経った。明後日からの週末は、シェリルと家で過ごす約束をしている。電話をするなら明日しかない。それがわかっていながらも、きっと電話をしないだろうと、おれはわかっていた。そしてそれはまったくその通りとなったのだ。



「まあ……偶然ですね」

 上映前の映画館で、となりのシートからそう声をかけられる。

 小さな顔で髪は赤毛。親しげに微笑みかけてくる女性に心当たりはない。ちなみに反対となりにはシェリルが座っている。もちろんデートの真っ最中。ああ神様、おれはまたなにかヘマをやらかしたんでしょうか……?

 黙りこくるおれに、赤毛の女性はささやくように言った。

「アニーです。アレクザンダー・アーベルの。あの……憶えてます?」

「アニー! ああ、きみか! 外で会うと感じが違うね。一瞬わからなかったよ。ごめん」

 何も悪いことなどしていないにもかかわらず、心底ホッとしてしまう。なんだろう。あれ以来、びびり癖がついたのか。

 アニーは笑顔で、「お店じゃないところで会うのは初めてですもの」とフォロー。「こんなところでお会いするなんて……狭い街ですね」

 映画館は“こんなところ”というほど奇妙な場所ではないが、狭い街というのはうなずける。ポールと出くわした晩以来、どこで誰に会ったとしても、おれはもう驚かない。となりに座っていたのが、ウディ・アレンだったとしても『狭い街ですね』で、終わりだ。

「ディーン、そちらは?」とシェリルが訊いた。

 心にやましいところがないおれは、胸を張ってとなりの女性を紹介する。

「こちらはアニー。おれの行きつけの美容室のスタッフなんだ。アニー、彼女はシェリル。おれのガールフレンドだよ」

 シェリルとアニーはにこやかに挨拶を交わした。本来ならポールにも、こんな風にシェリルを紹介できただろう。わずかにボタンを掛け違っただけで、人生のすべては変わってしまうものだ。

 アニーはおれに友達を紹介。「彼女はキャリー、高校のときの同級生です」

 キャリーは「こんにちは」と、おれに笑顔と歯列矯正機を見せた。

「今日の映画はキャリーがどうしても見たいっていうから来たんです」とアニー。「わたしはジョニー・デップの新作が見たかったのに」そう言って口を尖らせるアニーに、シェリルが応じる。

「こっちもそうよ。この映画はわたしの好みなの。彼はわたしに“お付き合い”してくれているだけなの。そうよね、ディーン?」

「そんなことないさ、おれもこれはぜひ観たいと思ってた。ええっと……タイトルはなんだっけ?『オーシャンズ14』?」

「もう、ディーンったら!」シェリルはおれの肩をつかんで笑った。

 本当のところは彼女の言う通り。キャメロン・ディアス主演のこの作品は、ガールフレンドのたっての願いでなければ、まず観に行こうとは思わないだろう。(映画のタイトルは伏せる。『オーシャンズ14』じゃないことは確か)

 化粧室にシェリルが立つと、アニーは「素敵な人ですね」と、彼女を誉めた。

「すごくキレイな方。モデルさんとかですか?」

「いや、彼女は会社の同僚だよ」

「とてもお似合いですね」

 キャメロン・ディアスが女性に人気があるように、シェリルは同性から見ても“素敵な人”の評価に値するようだ。どうも女性というのは同性を誉めることに抵抗がないらしい(根性の曲がっている女性を除く)。それに比べて男性は“下心なし”で相手を誉めるのが下手なんじゃないだろうか。さらっと人を褒められる男は魅力的だ。おれも常にそうでありたいと思う。シェリルは誰から見ても素敵な女性。たとえ社交辞令であっても、ガールフレンドを褒められて悪い気はしない。ちなみに男でおれを「素敵」とか言うやつは、まずゲイと思って間違いない。

「もうそろそろお店にいらっしゃる頃かと」伸びすぎたおれの髪を見てアニーは言う。「ポールもそう思ってますよ、きっと」

 笑顔のアニーに、おれは答える。「思ってないよ、きっと。実はポールとは今、モメていてね。店にはしばらく顔を出せそうもない」

「喧嘩を?」

「喧嘩……ってのとは違うな。とにかく原因はおれにあるんだ。彼にひどいことをしてしまった」

 言いながら、おれは自分の発言に驚いていた。どうしてこんなことを喋っているんだろう? しかも“さらっ”と。

 ポールとおれとの間に起こったことは、誰にも話していない。あの晩、シェリルに少し打ち明けてしまってはいたが、それ以後もこれといった説明はしてはいない。別に隠しているというわけではなく、改めてその話をする機会もないだけで、そもそもこれは愉快な話題ではない。歯医者の待合室で居合わせた相手に、自分の人間関係を聞かせたがる輩もいるが、そんな露悪趣味をおれは持ち合わせていないのだから。

 アニーはびっくりしたように目を見開き、「わたし……ポールはいつも通りだから少しも気がつきませんでした」と言った。

「彼はいつも通り? そうか、じゃ気にしているのはこっちだけなのかな?」

「わたしはポールとそれほど親しいわけではないので、なんとも言えませんけど……。それって最近の話なんですか?」

「およそ一週間ほど前かな。こっちも謝りたいとは思ってるんだけど、機会を逃してる。髪が伸びっぱなしなのはそういう理由さ」

 アニーとおれとは、これまで何度か顔を合わせただけの関係に過ぎない。それなのにどういうわけだか、彼女にはとても素直に話すことができる。親には言えなくとも、セラピストや精神分析医には打ち明けることができる、といった事例のように、親しい間柄でないほうが話しやすいということはあるだろう。今ここで堰を切ったようにしゃべっているところを見ると、おれは誰かにこの話をしたかったのかもしれない。

「わたしに何かできることはありますか? ポールに伝言でも?」心配そうな表情で申し出るアニーに、「いや。いい、いいよ」と慌て、それを断る。「大丈夫。自分で言うよ。でも、ありがとう」

 十も年下の女の子に、友達との揉め事を取り持ってもらう二十八才の男。それはどう見ても、かなりいただけない。

「ケリーさん、他のお店に切りに行かないでくださいね」

「ディーンでいいよ。ああ、行かない。それは約束する」

「わたし、あなたがお店に来てくれるのをいつも楽しみにしてるんです。ポールとあなた……ふたりともいつも仲がよくって、うらやましいくらい。ふたりが一緒にいるところを見るのが好きなんです」

 ポールは間違っていた。アニーはおれのことが好きなんじゃない。彼女が好ましく思っていたのは、ポールと親しくしているおれ。つまり“おれたち”のことが好きだったのだ。

「大人の男の人でこんなふうに仲良しなのって、わたし他に知りません。理想的な関係だと思っています。きっとすぐ仲直りできますよ」そして“だいじょうぶ”というように、にっこりと微笑む。

“理想的な関係”。彼女はおれとポールのことをそんなふうに見ていたのか。『夢は夢のままにしておいたほうがいい』そういうことなんだな? ポールが言った言葉の意味が今わかった。

 おれとポールが“理想的な関係”かどうか。それはおそらく今後の展開にかかっている。今までのおれたちは“普通に親しい間柄”だった。しかしこのヤマ場を乗り越えられれば、きっと本当の“理想的な関係”になれるのだろう。

 シェリルが化粧室から戻って、映画がスタートし、一時間半の後、それが終わる。ストーリーはほとんど印象に残らなかった。スクリーンで繰り広げられるドラマが頭に入らないのは当然だ。おれの頭のなかにはすでに別の思いがみっちり詰まっている。

 映画にすら集中できないほど気にしていたなんて、これじゃ病気だ。今晩ポールに電話しよう。アニーにも言ったんだ『自分で言うよ』って。この約束すら破るようなら、人としての価値はないも同然。今後はクマの着ぐるみでもかぶって、誰とも何も約束をとりつけず、“人として”を放棄して生きることがふさわしい。以上のことが選択できないのであれば、今夜、すみやかにポールに電話をするべきなんだわかったなしっかり覚えておけよディーン・ケリー!

 帰る道すがら、シェリルが映画の感想を求めてきた。おれは「キャメロン・ディアスはいい女優だ」と、簡潔に意見を述べる。ボーイフレンドのボギャブラリーのなさに、彼女は落胆したようだった。申し訳ないとも思ったが、この手の映画はやっぱり不得手だ。モンティパイソンのことだったら何時間でも語れるんだが……。

「ねえ、夕食はどこで食べましょうか?」気を取り直し、明るく言うシェリル。

「なんでもいいよ。きみは?」

「そうね……メキシコ料理はどう? わたしタコスが食べたいわ」

「───レッツ・ゲッタ・タコ」

「きまりね。行きましょう」

 ハーベイ・カイテルのセリフは空しく消えた。なにかが起きるのを期待していたわけではない。シェリルはポールではない。『レッツ・ゲッタ・タコ』に反応がないのは当然だ。

 アニーが言うように、シェリルはとても素敵でキレイな女性だ。美人だというだけではない。思いやりがあって、頭もよく、ほがらかによく笑う。ほとんどの男が夢にみるような、非の打ち所ない女性。それがシェリル。それに不服があるとでも? おれには夢のような女性がいる。ハーベイ・カイテルもモンティパイソンも忘れさせるような女性が。

 今や慣れっこになった呪文を、おれは口の中で唱える。

『おれは幸せだ。おれの人生はうまくいっている』

『おれは幸せだ。おれの人生はうまくいっている』

 ポールに───電話をしよう。



 おれの人生は基本的に順風満帆といってもいいだろう。それなりの仕事を持ち、女性関係もまあまあ、クーパー・ユニオンに落ちたときは人生で初めての挫折をしたが、それは志望校が高すぎただけだと、自分を納得させて事無きを得た。こんなふうにうまく人生を渡ってこれたのは幸運とも言えるが、それによる弊害もなくはない。おれが最後に緊張にさらされたのはいつのことだったか───。そう、ディーン・ケリーはプレッシャーにとても弱いのだ。不屈の精神を試されたことも、差別を受ける側に立たされたこともない。女に振られるんじゃないかとか、人から邪険にされるんじゃないかという不安も幸いあまり持ったことはなく、恋人が去って行ったことはあるが、追いかけるほど執着はしなかった。

 ポールに電話しようと思ってから、吸ったタバコの本数は立て続け三本。今吸っているのを数に入れると四本になる。プレッシャーに弱いおれは“謝る”ということに慣れていない。ここまでナーバスになっている自分が恥ずかしい。そんなに一本の電話が怖いのか? 最悪、何が起きるっていうんだ? ポールに殴られる? 刺される? 訴えられる? どれもナンセンスだ。シンプルに、ただシンプルに受話器をとるだけ……。受話器はかみつきゃしないって。

「“案ずるより生むが易し”ってこともある。ポールはもう気にもしてないさ、きっと」

 わざと気楽に自分を言いくるめる。そうでも言わないと、おれはまた電話を引き延ばすし、でなけりゃタバコの吸い過ぎでばったりと倒れることになるだろう。

 ポールの短縮番号を押す。受話器からはトゥルルル…という呼び出し音。耳周辺の神経がわずかに痙攣し、暑くもないのに汗を感じる。

『電話の呼び出し音は緊張に対し増幅効果がある』

 これは二十八才の成人男子の人体実験に基づく正式な報告だ。今のおれはクーパー・ユニオンを受験したときと同じくらい緊張しており……おっと、ここは落第したんだっけ。験が悪いことを思い出すのはよそう。

 ポールはなかなか電話に出ない。

『緊張をともなう電話に限り、相手はなかなか応答に出ることはない』

 人体学の次は哲学だ。異常な緊張のおかげで、短時間で新たな学説をふたつも確立した。

 留守番電話に切り変わることもなく、電話は鳴り続けている。

 まてよ? ルス電じゃないからといって、家人が在宅しているとは限らないじゃないか。そうか、ポールは留守なんだ。留守なら仕方ない。おれは謝罪の電話をかけたけど、相手は留守。残念。

 そう思い〔切〕を押そうとした、まさにその瞬間(そう、いつもこのタイミングだ)、「もしもし」と、受話器から声がした。

 慌てて〔切〕から手を引っ込め、おれは応える。「ポール。やあ、おれだよ、ディーン」切ろうとした矢先であるという妙なタイミングに、つい早口になってしまう。ポールの返事は「…………………………ああ」

『ああ』までにかなりの間があいた。この間によって、『もしかしたらポールは気にもしていないかも』という、都合の良い期待はきれいに一掃された。

「その……あれからずっと連絡しなくて済まない」

 ポールは答えない。なにか言ってくれよという気持ちになるが、すぐに思い直す。電話をかけたのはこっちなんだ。おれには話すべきことがある。緊張を緩和してくれるようなほがらかさを相手に求めるのは間違ってる。

「ポール……」息を吸い、乾いた唇をなめ、息を吐く。それからずっと言おうと思っていた言葉を、おれは一気にはきだした。

「ポール、おれはきみに最低のことをした。言い訳はしない。本当に済まない」

「もういいよ」

 もういい? もういいって? ほんとうに?

「そのことでかけてきたの?」

「ああ」

「そう……」

 沈黙が流れる。ポールは『どうして今まで電話してこなかったの?』とも『あの晩一緒にいた女性は誰?』とも聞いてこない。これは本当に『もういい』ってことなんだろうか? だとしたら、ここで蒸し返すのはかえって不愉快だとか……そういうことか?

 沈黙に我慢できなくなったおれは、こちらから質問をする。

「あの晩、きみと一緒にいた……彼は?」

「トム? 彼もシャンティクリア観たいって言ってたから。せっかくのチケット、もったいないだろ」

「ああ……」

 ───また沈黙。

「それできみはその……トムとは」

「なに? 恋人かって? きみに関係ないだろ」つっけんどんに答えるポール。思わず黙ると、彼は「ごめん、嫌な言い方したね」と謝罪した。

「いや、きみの言う通りだよ。きみの私生活を詮索する権利はおれにはない……」

 つっけんどんな言い方をされるよりも、謝られることのほうがこたえる。なんたって悪いのはおれのほうなのだから。

「トムは彼氏じゃないよ」とポールは言った。「ただの友達。彼は結婚して子供もいるしね」

「そうか」

 あの晩がポールにとっても運命の一夜たりえたのではという、『都合のいい期待パート2』も一掃される。もしあの日、彼にも幸運が訪れたのであれば、こっちの罪はいくらか軽減される───心のどこかで、おれはそんな風に考えていたらしい。自分の考えに嫌気がさす。

 ポールは黙っている。沈黙のプレッシャーに押しつぶされそうだったが、だからといってここで「じゃあ」と、電話を切ってしまうわけにはいかない。おれはもう一度、唇をなめ、言った。

「ポール、ずうずうしい願いだとはわかっているけど……おれたち、その……これまでと同じように友達でいることはできないだろうか?」

 それに対する返事は沈黙。心臓が走り、脇の下を汗が流れる。沈黙。沈黙。沈黙。あまりに長くそれが続いたので「ポール?」と、回線を確認してみる。

「聞いてるよ」戻ってきたのは硬い声。そしてまた沈黙。

「ポール、おれは……」「あのね、ディーン……」

 耐えかねてしゃべりだしたおれの言葉と、彼の言葉がぶつかった。

「ごめん、先に言っていいよ」おれが促すと、ポールが息をすいこんで、ふーっと吐き出すのが聞こえた。彼は今、いったいどんな表情をしているのだろう? 顔が見えないことがこんなに不安をかき立てるとは。まったく、電話なんかロクな発明じゃない。

「断るよ」

「えっ?」

「さっきの返事。『これまでと同じように友達で』───きみはほんとになにもわかってないんだな」そう言うポールの言葉の語尾には、わずかに笑いが滲んでいる。もちろんそれは愉快だからなどではない。

「ぼくはね、ディーン。ずっときみのことが好きだったよ」

 好き“だった”。ポールが過去形でそれを表現したことをおれは聞き逃さなかった。

「きみは驚くべき最低のヤツだってわけじゃない。ただの自分に甘い普通の男さ。いろんなことを見ないでおきたい。きみがそう考えてるなら、それはそれで別にいいよ。ただ、きみがそうである以上、ぼくはもうきみと一緒にはいられない。すべて水に流して仲直り? まいったよ……きみは今回のことをとても軽く見てるんだな。ぼくの言っていることがわかる? 約束を破ったとか、女とデートしていたとかのことを言ってるんじゃない。きみがぼくのことをとても軽く見ているってことについて話をしてるんだ」

「ちょ……ちょっと待ってくれよ!」

 おれが彼のことを軽く見ているだって? もしそうならこんなに……一週間以上も悩むもんか!

 こちらの説明を待たず、ポールは言った。

「きみのことが好きだったよ」

 それは完璧な過去形だ。

「……今は……ちがうんだな?」

 返事はない。その沈黙がイエスと言っている。

「ディーン」

 彼がおれの名を呼んだ。これまで何度も呼ばれたはずなのに、今のおれはその呼びかけに緊張すら覚える。

「ディーン、きみは自分がハンサムだってことを知っているし、ぼくに愛されているのだということも知っている。きみはその両方にどっかりとあぐらをかいていて、ぼくはそれに気づくのが遅すぎた。それだけだ」

 目の前が真っ暗になったことってあるか? おれはある。今だ。いったい何を言われたんだ? 男前を鼻にかけてる? セックスをちらつかせて何もさせない売女と同じ?

「ポール、おれだってきみのことは好きだ。好きだけどそれは……そういうこととは結びつかなくって……」失われた落ち着きを取り戻そうとするかのように、手からすべり落ちそうになっている受話器をしっかりと持ち直す。「知ってるだろ……おれはゲイじゃない。きみに性的に感じることはできないんだ」

 しどろもどろになるおれに、ポールはしっかりした口調で「ぼくはきみに性的に感じていたよ」と言った。「それは言うまでもなくセックスに結びついている。ぼくはきみと寝たいとすら考えていたよ。そのこと、きみは知ってるだろ?」

 おれは二の句が継げなかった。ああ、知ってる。なんてことだ。おれはそれを知っていた!

 彼に連絡をとることを、どうしてあんなに引き延ばしていたのか。なぜああも長いこと、ウダウダと考えあぐねていたのか。おれは事実に直面したくなかった。きっとこういう話になるのだろうと、心のどこかでわかっていたからだ。『ポールはディーンが好き。それも特別な意味で』おれはその事実を認めたくなかった。もしそれを認めてしまったら、彼のその気持ちに対して、おれは何かしらの対応を見なくてならない。自分はゲイじゃない。彼の気持ちに応えることはできない。できる選択はひとつだけだ。そしてその選択は『おれとポールはこれまで通りじゃなくなる』ということを意味している。そうなってしまうのがおれは嫌だった。たとえ今ある幸福が、彼の痛みの上に成り立っているのだとしても、おれはそれを手放したくなかったのだ。

『きみはいろんなことを見ないでおきたい』そうポールが言ったことは正しい。おれは彼を無視した。友達の気持ちを、痛みを、すべて無視して彼とつき合っていた。なんて虫がいいんだ。なんて自分勝手なんだ。

「さようなら、ディーン」

 そう言われ、はっと我に返る。『さようなら』の声音には、迷うようなところはすこしも感じられない。

 こちらの返事を待たずして、電話は切れた。ポールは言いたいことを全部言ったのだろう。そしておれから聞くべきことは、もう何もないと判断したのだ。



 日曜の午後、おれとシェリルのスケジュールは『一緒に家でゴロゴロして過ごす』に、満場一致で決定(投票者二名、サボテンには投票権なし)。

 早朝、セントラルパークのキューバ・フェスティバルで、脂っこいキューバ・チキンと、ナッツがぎっちりと詰まったコッペリアのアイスクリームをたっぷり平らげたおれたちに、他のスケジュールは考えられなかったというのがその理由だ。

 おれはソファに横たわって雑誌をめくり、シェリルはクッションにもたれてペーパーバッグを読んでいる。静かな室内にページをめくる音だけがひびく。

「ねぇ、聞いていい?」と、突然シェリルが切り出す。おれは雑誌を見つめながら、質問内容も聞かずに「いいよ」と返事。

「最初のデートのとき、友達とうまくいってないって言ってたでしょ……?」

「ああ」

「それって結局どうなったの?」

 おれは雑誌から顔を上げず答えた。

「だめだったよ」

「そうなの……」少しの間があり、「もうひとつ聞いていい?」とシェリル。

「ん?」

「それって……女の人?」

「ちがうよ」雑誌のページをめくる。

「そうなの?」

「そうさ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 シェリルは黙った。おれも口を開かない。シェリルはじっとおれを見つめている。おれは彼女の視線をさけ、雑誌を読んでいる振りをする。記事はマレーシアのビーチリゾートの特集。

「……シェリル、ランカウイ島に行ったことは?」視線は雑誌に据えたまま。美しいビーチの写真をぼんやり見つめる。

「ないわ」とシェリル。

「すごくいいところみたいだ。いつか一緒に行こう」

「……いいわね」

 その後はどちらも口を利かなかった。

 雑誌とペーパーバッグのページをめくる音が、ラジエーターで暖められた空気に溶けていく。おれはいつのまにか眠ってしまったらしい。目が覚めたらシェリルはいなかった。



 その次の週末、シェリルはニュージャージーの妹の家に泊まりに行き、うちにはやって来なかった。それを境に彼女からの連絡は途絶える。おれを求めることをやめたシェリル。シェリルを追うことはしなかったおれ。残念には思わなかった。残念に思わなかったことが残念だった。つき合った期間は一か月足らず。クリスマスまで保たなかった。



 シェリルと別れて、おれの髪は伸びほうだいに伸びている。髪はともかく、もみあげの長さが気になってきた。このまま伸ばしてイメチェンするのもいいかもしれないが、なんの展望もなく伸ばしていると、どうしても中途半端な印象は否めない。いや、『否めない』なんて言い方はやめて、はっきり『イケてない』と言うべきか? 眉毛だけはかろうじて手入れしていたので、人相が変わってしまうことはなかった。もし眉の形が崩れるような日が来たら、おれの人生はそのときこそ終わるのだろう。人生の重要なバロメーターとして憶えておこう。

「ディーン・ケリー」

 勤勉にデスクに向かっているおれの背後から、硬い声が降ってきた。この部署に“ディーン・ケリー”はひとりだけ。フルネームで呼ばれては振り返らないわけにはいかない。

「はい?」

 わずかに微笑みを浮かべ、声の主を仰ぎ見る。立っていたのは、シーラ・コックス。赤いスーツに、赤いパンプス。赤は攻撃的な色だと聞いたことがあるが、彼女の攻撃的な様は、色に頼らずとも十二分に発揮できている。

「髪ともみあげ、伸びすぎ」

 微笑む美男子をものともせず、最低限の単語で人身攻撃を加えるシーラ。狙いはいつも的確だ。

「あなた、それは伸ばしている途中なの?」

「特にそういうわけでは……」

 なんていいタイミング。髪の長さが自分でも気になり出した途端、チェックが入った。シーラは腕組みをし、「だったらとっととヘアカットに行きなさい」と宣告。「仮に伸ばしている最中だとしても、だらしないのは駄目よ。我々は芸術を売っているの。美に対して意識が低くなることは、作家や顧客に失礼なことだと意識してちょうだい」

 現在のおれの髪型は“美に対して意識が低く、作家や顧客に失礼である”と、シーラは説いている。伸びすぎのもみあげは偉大なアーティストたちへの冒涜であり、そのインスピレーションに暗い影を落とすものであるというわけだ。なんと罪深いおれのもみあげ。

 目を細め、「だらしないのは駄目よ」と、念を押すボス。

 おっしゃる通り、彼女には少しもだらしないところは見られない。きっちりまとめてアップした髪には一本のほつれもなく、唇の輪郭は常にばっちり。おそらく彼女のクローゼットには、あと五体、同じモデルが入っているに違いない。対しておれは、精神に打撃を受けるとそれがモロに顔に出るという、デリケートな性質を持っている。今となっては髪だけに留まらず。やさぐれた雰囲気が全身の毛穴から吹き出しているのだろう。

 シーラはおれの顔をじっと見つめ、「目の下にクマができてるわね」と言った。「あなた、不摂生しているとクマぐらいじゃすまないのよ?」

 クマぐらいじゃすまないって? それは“部下をパンプスで踏んづけて修正を加える”とか、そういう意味だろうか。

「今週中にカットしなさい。いいわね?」命令を出し、軍曹は去った。

「そりゃあ、きみはクローゼットから換えのボディを出せばいいんだろうけど、こっちは人間なんだ! 落ち込みもすれば、やつれもする! クマ? クマがなんだっていうんだ!? おれはモデルじゃないんだぞ!」おれは雄々しく怒鳴った。彼女に聞こえないようにと注意深く。

『とっととヘアカットに行く』今のおれにとって、それがどんなに難しいことか。

 別にポールがいる店じゃなくっても、ヴィダル・サスーンとかでカットすればいいだろうって? そうかもしれない。きっとそうなんだろう。しかし別な店を選んだら最後、本格的にポールとの縁が切れてしまうような気がする。もうすでに切れているんじゃないのというツッコミは聞かなかったことにする。

『今週中にカットしなさい』とシーラは言ったが、それはとても難しい。横たわる問題を決められた時間内に処理できるほど、おれの人生の脚本家は有能ではないのだ。



 コックス軍曹から逃れ、一階のロビーでくつろぎの時間を持とうとしたおれに、新たな試練がやってきた。

 今おれが座っているのは直径三ヤードほどの円形のベンチシート。シートの中央には吹き抜けに向かって高くそびえる竹が数本と、それを囲むようにして季節の花々が飾られ、このビルを訪れる人々の心を和ませるフラワーアレンジメントとなっている。

 そう、それはとても巨大なアレンジメント。例えるならば、別れたボーイフレンドがシートの反対側に座っているとかいう、重要な情報をすっぽりと隠してしまうほどの大きさを有している。

 さきほどからベンチシートで楽しげに会話をしている二人の女性。ここから姿は見えないが、その声には聞き覚えがあった。孤独に耐えかねたおれの耳が幻聴を聞いているんでなければ、この笑い声は“元・ガールフレンド”、シェリル・ターナーのもの。ここに元カレが座っていることには微塵も気づいていないらしい。

 席を立ちたいのはやまやまだが、立てばシェリルはおれに気づくだろう。会話を盗み聞きしているわけではないが、いま存在を示して『会話を盗み聞きしている』という嫌疑をかけられるのは不本意だ。ということは、おれはここで彼女が立ち去ってくれるのを、じっと息を殺して待っていなくてはならないわけで……。

 神が提供する偶然と試練を甘んじて受領しようという、志の高いおれの耳に「ボーイフレンド」という単語が不意に飛び込んできた。

「だって、あなたにはちゃんと彼氏がいるじゃない」快活な女性の声。これはシェリルではない。

「でしょ? シェリル? クリスマスは彼と一緒に過ごすんでしょ? あーあ、うらやましい!」

 なんだって? こっちはまだ独り身だってのに、シェリルはもう誰かとつき合ってるのか?

 おれは相手から見えないように、竹と季節の花々に身を乗り出した。

「いいえ、別れたのよ」とシェリル。

 なんだ、“彼氏”ってのはおれのことか。

「別れたの? へぇぇ! もったいない!」会話の相手はロビーに響き渡るような大声を出した。「クリスマスを目前に別れるなんて馬鹿よ! それに彼、素敵じゃない?! そう、シェリルが別れたんなら、あたしがつき合おうかなぁ」

 おれから“あたし”の姿は見えない。美人だといいが。

「だめよ、ジーナ」と止めるシェリル。

 どうしてだ? 彼女はまだおれに未練があるのだろうか?

 その素朴な疑問をジーナが引き継いだ。

「だめって、なんで? あたしのブランニュウ・ロマンスの始まりを邪魔するつもり?」おどけてそう言うジーナに、シェリルが応える。

「邪魔するんじゃないの、“忠告”よ。付き合ってごらんなさい、きっとがっかりするんだから。つっまんない男なのよ、ディーン・ケリーは」

 ───つっまんない男。『つ』の次に、ちいさな『っ』が入った。“すごく”とか、“とっても”とかいう強調語よりも、さらに深く感情が込められている。もの言わぬアレンジメント・フラワーが急に愛おしく思えてきた。突発的に花を愛でたくなるほど、今この瞬間、おれのハートは癒しを必要としている。

「そうなの?」とジーナ。「でも彼、うちの課の若い子たちにはけっこう人気あるわよ」

 傷ついたハートに希望の火が灯る。どこの部署だか知らないが、異動願いを出してみようか。

「みんな知らないだけよ」希望の灯をハイヒールで踏み消すシェリル。

「ふぅん、人は見かけによらないわね」ジーナはシェリルの意見に納得したらしい。人はどうしてこうも簡単に、悪い評判を信じてしまうのだろう? ジーナはおれと一度だって面識がないというのに。悪い噂はこうしてどんどん広まるのだ。まったくもって恐ろしい。

「今度はわたしに心を開いてくれる男性とつき合おうと思うの」

 シェリルがため息まじりにそう言うのが聞こえた。

「わたし、彼とのことではずいぶん寂しい思いをしたわ」

 寂しい? ちょっと待てよ、それはないだろう? 確かにつき合った期間は短かったけど、おれたちはほとんどの時間を楽しく過ごすことができていたはずだ。花も買ったし、ロウソクに火も入れた。キャメロン・ディアスの映画にもつき合ったし、セックスの相性だって決して悪くなかったはず。なのにきみはずっと寂しかったってのか? おれが心を閉じてたって? 一緒にいる間、ずっと車のナンバープレートを数えていたわけでもないし、他の女に目を移したこともない。そもそも心が閉じてるってのは、どういう状態のことを言うんだよ? 心が開いているってのは何を指してそう決まる?

 鍋からあふれるポップコーンのように、反論が一気に沸き上がってくる。沸き上がってはきたが、それを彼女に言ったところで意味はない。シェリルとおれには“これから築くべき関係”がないのだ。反論したところでそれは“別れた女に文句を垂れている”ってことになるだけ。それにまた立ち聞きしているということを知られるのは最悪だし。そう、最初に『会話を盗み聞きしているわけではない』と言ったが、今のおれは完璧に『盗み聞き』の体勢だ。彼女の会話をこっそり聞くのはこれで二度目。おれとシェリルの関係は妙な星の下にあるらしい。

「ディーンとのことでなにが最悪だったかって……」シェリルがささやくように言葉を発した。

 なんだ? まだ何か言い足りないのかマドモワゼル?

「わたしがどうして寂しさを感じているのか、あの人には絶対に理解できないってことよ」

 ───息の根がとまった。正確には“息がとまった”。憤慨のポップコーンが一気にしぼむ。

 ああ、そうだ。おっしゃる通り。どうして彼女が寂しかったのかなんて理解できない。花、ロウソク、映画、セックス。それの何がいけなかったのか、おれにはさっぱりわからないままだ。

 ポールの言葉が脳裏をよぎる。『きみはいろんなことを見ないでおきたい』

 そういうことなのか? ポール、おれはきみにだけでなく、シェリルにも同じことをしたんだと思うか?

『心を閉じてる、つっまんない男』四週間の試用期間で、シェリルがおれに下した評価はそれだ。おれは彼女のことが理解できない。そしてまた彼女もおれという人間をその程度にしか理解していない。シェリルとおれのフィーリングはここにきてようやく合致したようだ。

 おれたちは“もっと先の関係”に到達するまでには至らなかった。ディーンから去ることを決めたシェリル。それを追うことをしなかったディーン。お互いにとって相手が必要不可欠な存在になる前に、関係は完璧に終わってしまったのだ。

「でも『ビジュアルのいい独身男』ってだけでも稀少だわ」とはジーナの意見。「だって考えてもみて。既婚者とゲイを除いたら、男ひとりに対して、女が九人のマンハッタンよ? 例え“つっまんない男”だとしても、朝ベッドで目を覚ましたときに、となりにいるのがハンサムだってだけでも気分よくない?」

「まあ、そりゃあね……」シェリルは同意の姿勢をみせた。おれは心で小さくガッツポーズを決める。せこい勝利だがないよりはマシだ。

「ねっ、そうでしょう?」とジーナ。「あたしは贅沢はいいません。顔がよくって、セックスが上手なら、多少の欠点は目をつぶれる寛大な心の持ち主なんだから!」

『顔がよくって、セックスが上手な男性求む』なるほど、そいつは寛大な条件だ。

「ね、それでどうだった? よかった?」卑猥と表現しても言い過ぎでない含み笑いをするジーナ。

「まあそうね、ひとつぐらい取り柄はあるわよね」シェリルもまた含み笑いをする。

 おれは心で大きくガッツポーズを決める。“ひとつぐらい取り柄”ってのは気に食わないが、別れた相手に実力を認めさせるまでには至ったのだ(もちろんこれだって“せこい勝利”だってことはわかってるよ!)。

「だったらあたしの射程圏内ね。それを聞いてひと安心だわ。あれでセックスが下手だとしたら、ディーン・ケリーに与えられた容姿はむしろ気の毒すぎる」

「もう、ジーナってば!」シェリルはころころと笑った。可愛い笑い声だ。彼女と別れてから、初めて心が痛んだ。

 ジーナが寛大な心の持ち主かどうかはともかく、シェリルにはいい友達がいる。それは落ち込んでいるときに笑わせてくれる友達だ。去る者は日々に疎し。おれにはもう彼女を笑わせることはできない。

「さ、もう行こ」先に立ち上がったのはジーナだ。シェリルもそれに続き、こっちは靴のほこりを払う振りをして身を屈める。充分ふたりが離れたところで、シェリルの友人をそうっと盗み見…………………………………。

 ジーナ、きみとの“ブランニュウ・ロマンス”は無期延期に決定だ。別にいいよな? もみあげが伸びすぎの“つっまんない男”なんか、誰も興味はないだろうしね。



 ここにあるのは、誰も知らない幻のリストランテ。シェフの名は“ディーン・デ・ケリーニ”。これもまた世に知られていない、不世出の料理人だ。

 本日のディナーはイタリアン。エプロンがわりに古いシーツを腰に巻きつけ、パバロッティの曲をかけて気分を盛り上げ、キッチンに立つ。

 料理することは嫌いじゃない。自慢するほどのレパートリーはないが、人に食べさせても大丈夫なものを作るくらいの自信はある。

 美大出身のおれの見解では、料理しているときの精神状態は、絵を描いているときのそれと、とてもよく似ていると思う。よけいな思考は完全にストップし、日常ありえないような集中力で作品と対峙する。ただ手を動かし続けるというシンプルな行為によって、そこにあるべき形が現れてくるのを見守り、すべてが終わった後の達成感と満足感たるや、何ものにも変え難い。料理とはとてもクリエティブであり、芸術行為に等しいものだ。

 鍋いっぱいにお湯を沸かし、にんにくの皮をむいて、それを薄く切る。ゼイバーズで買ったパンとチーズ、トマトとルッコラのサラダ。そしてデ・ケリーニ特製ペペロンチーノ。エスプレッソ・マシーンで濃いコーヒーを入れ、食後のデザートはアイスクリームという算段で、手際良く作業を進める。

 鍋にパスタを投入したところで電話が鳴った。

「もしもし、ボナセーラ」

「ボナセーラ? なあにそれ? 今はやりの挨拶なの?」受話器から訝しげなママの声。

「いや、そういうわけじゃないけど」

「あなたまだ家にいたのね。で? いつマイアミに来るのかしら?」

「クリスマスはこっちにいるよ」

「ええ、そうね。もちろん知ってたわ。冗談よ」

 ママの冗談はわかりにくい。おれは肩と首に受話器をはさみ、鍋をかき回しながら「もうアイリーンたちはそっちに?」と訊く。

「明日には家族で来てくれるそうよ」

「ノーマン義兄さんも?」

「あの人は忙しいんですって。いつものことよ。あなたはどこか旅行に行くんじゃなかったの?」

「旅行の予定はないよ」

「あらまあ、気の毒に。ホリディも寒いニューヨークに留まっているの? 旅行の予定がないんだったら、あなたもこっちへいらっしゃい。ガールフレンドを連れてきても、ちっともかまわないのよ」

「そうしたいのはやまやまだけど、こっちも忙しくってね」フライパンにガーリックを入れるとか、いろいろやることがあるからさ、と心の中で訴える。

「ああそう、『忙しい、忙しい!』。男ってのはいっつもそれね。忙しいって言ったってクリスマスはお休みでしょ。せめてアイリーンには挨拶したらどう? あなたたち同じマンハッタンに住んでる同士なんだから」

 同じマンハッタンといっても、あちらはアッパーウエストの四十階建てコンドミニアム。こっちはしがないアパート暮らし。甥と姪は可愛いが、行くだけでボディチェックされそうな隠れ家には、そうちょくちょく遊びに行きたいとは思わない。

「ガールフレンドとふたりだけで過ごすクリスマスが悪いって言ってるんじゃないのよ」とママは言う。「でも、いいことディーン。母親やお姉さんにも会う時間がつくれないというのは、あんまり感心できることじゃないわね」

 おっと、はじまったぞ。こうなると長いんだ。

「ごめん、ママ。今パスタをゆでてる途中だから」そう正直に白状し、「アイリーンたちによろしく」を締めの言葉として、どうにか電話を切る。

『ガールフレンドとふたりだけで過ごすクリスマス』そうだとしたらどんなにいいか。現実はそんなにハッピーに進んではいない。リストランテ・デ・ケリーニに客はいない。ママはおれを買いかぶっている。息子がホリディにひとりっきりだとは、少しも予想していないのだ。

 パバロッティは沈黙。パスタは茹で過ぎてしまった。絵画ならば塗りつぶすことができるが、料理はそうはいかない。あからさまな失敗作を胃袋に叩き込むことの悲しさよ。他人に食わせるんでなくてよかった。それとも逆に誰かと一緒であれば、この失敗すらも“ささやかな笑いをもたらす幸福なエピソード”となるんだろうか?

『あらまあ、気の毒に。ホリディも寒いニューヨークに留まっているの?』

 ママの言うことはいつも正しい。『あらまあ』で『気の毒』な、ホリディを過ごすことになりそうな予感を抱え、魅惑のアイスクリームへと手を伸ばす。ストーン・クレマリーのバナナ・カラメル・クラッシュ。シェリルの大好きなフレーバーだ。おれはひとりで十四オンスのアイスクリームを平らげ、そして寝た。炭水化物と糖分の力によって『あらまあ』と『気の毒』が癒されることを願いつつ。───アーメン!



 目を覚ますと、クリスマス・イブの昼だった。今日のスケジュールはこれといって決まっていない。

[問題、これといった予定のない休日を、働き盛りの企業戦士はどう過ごすか?]

 A: 寝て過ごす。

 B: 寝て過ごす。

 C: 寝て過ごす。

 D: ボランティアに出かける。

 E: 寝て過ごす。

 そういうわけで、眠りに戻る───。


 次に目を開けたときには、クリスマス・イブの夕方だった。

 毛布を首まで引っぱり上げて、ベッドの中でふたたび目を閉じる。このまま眠って眠って、眠り続けて、サンタが来たのも気づかずに眠って、目が覚めたら12月26日になっていたというのが望ましい展開。しかし眠りは訪れない。しばらく横になっていたが、意識はどんどんクリアになるばかり。おれが待っているのはサンタさんではなく、サンドマンだ。(※サンドマン=眠りをもたらすと言われている精霊)『早く来てサンドマン……早く目に砂を突っ込んで……』祈り虚しく、眠気は少しも感じられず。ああ、なんてこった。おれは不眠症だ。昨日から十六時間しか寝てないってのに。

 訪れる気配のないサンドマンの来訪をあきらめ、のろのろとベッドの外へ這い出す。

 熱いシャワーをあびて、コーヒーを煎れ、郵便物をチェックすると、コンシェルジェに荷物が届いていた。しっかりと包装された包みがふたつ。家族からのクリスマスプレゼントだ。ひとつはママで、もうひとつは姉のアイリーンから。まだイブの夕方だが、ルールをやぶって包みを開くことにする。

 ママからのプレゼントを開くと、二百ドルの小切手と手編みのセーターが入っていた。ママのプレゼントはいつも心がこもっている。暑いマイアミで毛糸を買って、娘と息子と孫のためにセーターを編んでいる母親の姿が目に浮かぶようだ。

 姉からのプレゼントもセーターだった。見たこともないような、すばらしい手触りのカシミヤ。値段を聞けば、きっと叫び声をあげずにはいられないシロモノだ。ちなみに去年はテレビをもらった。クリスマスを目前にテレビが壊れたことをアイリーンに伝えると、「クリスマスまで買うのはよしなさい」と言われ、その通りにしていたら、日本製の薄型テレビがクリスマス・イブに届けられたのだ。いっそストレートに「ぼくポルシェが欲しい」と言ってみようかと毎年思うが、本当に送られてきそうなので、まだ実行には移していない。

 カシミヤの包みには、二才になる姪、ステラからのカードが入っていた。人物画らしきタブローの横に、アイリーンの注釈が加えてある。『右はディーン叔父さん、となりの赤いのはセサミストリートのエルモです。まだ字を書くことのできないステラですが、このイラストには叔父さんへの愛と、メリークリスマスのメッセージが込められています』

 なんて可愛らしい素敵なカードなんだろう。愛情というのは、年齢や性別、すべてのものを超越して、等しく人を幸福にしてくれるスーパーアイテムに違いない。そういえばステラは「おじたんとケッコンする」と言ってくれたっけ。おれの存在を忘れていない女性もここにいるのだ。彼女がハタチになったときには、おれは四十六。ふむ、それもいいか。

 おれからステラへのクリスマスプレゼントは、彼女とほぼ同じ大きさのポケモンのぬいぐるみ。ステラの兄のリロイには、ソニーの最新型デジタルカメラ。ママにはエルメスの食器とハンドメイドのクリスマスキャンドル。アイリーンにはプラダのスポーツシューズを送り、アイリーンの夫、義兄のノーマンには(これを選ぶのは毎年苦労する。ノーマンの年収はおれの数倍以上。欲しいものはなんでも手に入れられるという立場に彼はあるのだ)イーベイで落札した、古い葉巻きケースを選んだ。

 クリスマス予算のすべては家族に移項。ガールフレンドを失ったおかげで、いきなり家族思いになってしまった。

 さて、今年の行事はこれで終わり! シェリルと一緒に過ごすつもりだったので、代替プランは用意していない。どうやら『神秘的なミツバチの生態』を見なきゃならないのはおれの方らしい。あんな冗談言うんじゃなかった。だったらクリスマスだけの彼女を調達する? あれはもちろん冗談だったのだが、今となっては真剣に検討する余地があるのかもしれない。とは言っても、この時期おれの来訪を喜んでくれるのは、マイアミのママぐらいのもの。どの友人もクリスマスには予定が入っているはずだし、頭に思い浮かぶめぼしい女性は、ポールとの共通の友人だ。もし誰かとデートをすればポールの話題は絶対に出るだろうし、そうなれば彼との間に起きた顛末を話さないわけにはいかない。それはつまり、おれがいかに最低な人間かということを白状するということ。

 クリスマスデートに懺悔はまっぴら。こういうのを告白するのが、シェリルの言うところの『心を開く』ってやつか? もしそうであるならば、おれは進んで閉鎖的になろう。

 女性とのデートが駄目なら、男友達と過ごすのはどうかって? クリスマスの予定など絶対にあり得ないであろう男友達をアドレス帳から探し出し、電話をかける。

「やあ、きみもひとりだろ? どう? これから飲みに行かない?」

 …………想像しただけで震えがきた。金魚と過ごしたほうが百倍マシ。

 考えてみればおれの知っている面白いこと(洒落たバー、いいレストラン、愉快なパーティやイベントなど)は、どれもみんなポールに紹介してもらったものばかり。おれは今までどれだけ彼に楽しませてもらっていたんだろう。自分の中のポールの存在の大きさに改めて驚くと同時に、自己世界の狭さに改めてガッカリさせられる。シェリルの言う通り、“つっまんない男”のレッテルが、あつらえたかのようにぴったりと身体になじんでくる聖夜。考えれば考えるほど鬱に入るホーリーな夜。

 駄目だ。やっぱり家に閉じこもっているべきじゃない。これは“誰と過ごすか”以前の問題だ。部屋でひとり悶々としているくらいなら、外気にさらされたほうがよっぽどいい。それに表に出れば“クリスマス”ってヤツが、奇跡をくれるかもしれないじゃないか。

 無論これは乱暴な理屈だが、今のおれにとって理論はどうでもいい。重いケツを上げ、外に出ていけるような動機づけが必要なんだ。そもそも奇跡とは理論を超えた状態を指すものだし。これまでの人生で奇跡が起きたのを見たことがないからといって、それが起きないと決めつけるのはよくないことだ。まあ、これまではたしかに。おれの人生には奇跡らしい奇跡が起きたことは一度もない。でも、だったらそろそろ順番が回ってきてもいいはずだろ?

 気合を込めてコートを掴み、意を決して表に出る。走り出すようにして街に飛び出すおれに、ドアマンのヘンリーは「メリー・クリスマス」を言いそびれた。空から吹く穏やかな風は、高層ビルのあいだを通り抜け、地上へと降りる頃には殺人的な冷気へと変化をとげている。

 ───さむい。

 十二月のニューヨークだ。もちろん寒いに決まってる。体温を盗もうと、襟足から入り込む冷気。それはこすっからい娼婦の手のような冷たさ。それでも部屋で『神秘的なミツバチの生態』を観ているよりはマシ。まずはどこかで食事をしよう。あまり広くない、こぢんまりした店がいい。下手に街をうろついたら、今日が何の日だか思い出してしまうしな。今夜はユダヤとか、ヒンズーのレストランが気分。世界的に見ても、この日が祝日だというのはほんの少数に過ぎないのだ。

 ベリー・メリー・アンクリスマス! 足の向くまま、気の向くまま。すべては神の思し召すまま。体感温度は絶対零度。マンハッタンは寒波にさらされている。おれは寒波にさらされている。それでも家にいるよりはマシって、これはいったいどういうことだろう?



 疎外感というものを初めて味わったのは、おれの憶えている限りでは、肉親からが最初だったと思う。

 子供の頃のおれは、九つ年上の姉、アイリーンにかまってもらいたくて仕方のない、甘ったれの小僧だった。当時ティーンエイジャーだった姉にとって、チビの弟はかわいくもあったが、ときには邪魔な存在だったことだろう。

「ディーンは部屋に入っちゃだめ!」

 友達が遊びに来ると、アイリーンはそう言って、弟を部屋から閉め出した。そのたびにおれは泣きべそをかき(そう、おれは甘ったれであるだけでなく、泣き虫でもあった)、ドア越しに聞こえるオリビアニュートンジョンのフィジカルをBGMに、モンスター・トラックを心の支えと握りしめ、ドアが開くまでそこにうずくまっていたのだ。

 姉たちに仲間はずれにされていると感じたおれは、アイリーンが学校に行っているあいだ、こっそりと彼女の部屋に忍び込みんだ。ベッドサイドに貼ってあったポスターのダリル・ホールの顔にフェルトペンでヒゲを書いて、“ふたりジョン・オーツ”にし、仲間はずれに対する報復を果たすことに成功したが、その結果、アイリーンの部屋に完全に出入り禁止となったのは言うまでもない。

 どうしてこんな話を今しているかって、シェリルとジーナのときといい、今といい、おれが感じているのはひょってして疎外感なんじゃないだろうかと考えはじめたからだ。むこうはふたり、こっちはひとり。意図せずに完成した偶然であっても、なんとなくフェアじゃないと感じてしまうのは、おれの子供時代の体験から来るものなのか───。

 なぜそんな自己分析をしているかって? 内省したくもなる。神はおれに何が言いたくてこんな偶然をプレゼントしてくれるのだろう? 目の前、数フィート先にはポールが歩いている。きらめくイルミネーションと、サンタクロースのディスプレイ。どこを切ってもクリスマスな夜。自宅で『神秘的なミツバチの生態』を観ていたほうが、利口だったかもしれないと早くも後悔しはじめ、ブロードウェイ・ストリートとセブンスアベニューの交差地点で、かつての親友をおれは見守っている。現在、彼らは『トイザらス』の前を通過中───そう、“彼ら”だ。あっちはふたり、こっちはひとり。雲のようにでっかい男と、ポールは並んで歩いている。

 なるほど、きみの方はクリスマスに間に合ったってわけだな。そいつと一緒にコンサートに行ったり、DVDを観たりするんだろう。シェリルにいい友達がいるのと同じように、ポールにもいいボーイフレンドができたのだ。それはいいことだよ(こっちはひとりだけどな)。いい関係があるってことは、どんなときでも救いになる(こっちはひとりだけどな)。

 ヘイ! そこの背のでっかいあんた! おれが五歳だったら、フェルトペンで顔にヒゲを描いてやったところだぜ。おまえさん、命びろいしたな。

 今やポールを笑わせる役目は彼が担っている。おれにはそれができない。シェリルのときと同じだ。よもや黙って立ち去ろう。そうだ、そうするべきなんだ。

 ポールとポールのボーイフレンドは、雑踏にまぎれて見えなくなっていく。

 もういい、家に帰ろう。アパートに帰って『神秘的なミツバチの生態』でも観よう。しかしその意志に反して、身体は動かない。どうやらおれは“歩く”というシンプルな動作を忘れてしまったらしい。ポールたちが見えなくなったあたりに視線を据えたまま、おれは人の流れを無視し、棒っきれのように立ちつくす。

 ───これで終わりだ。ほんとうに終わりなんだ。

 そう思った瞬間、足が唐突に動きを思い出した。さっきまでストップしていたのは、動作を圧縮していたからだとでも言うように、おれの足は弾丸のように駆けだした。ブロードウェイ・ストリートを全力疾走し、人波をかきわけ、大声を張り上げる。

「ポール! ポール! 待ってくれ! ポール!」

 知り合いが通りかかるんじゃないかとか言う心配は、頭っから消えていた。今をおいてチャンスはない。これを逃したらおれたちの関係はほんとうに終わってしまう。

 おれはただ馬鹿みたいにひとつの名前を叫び続け、数ブロック走ったところで、ようやく彼らの姿を見つけることができた。ふたりはびっくりした顔でこちらを振り向いている。ニューヨークの目抜き通りで、男が大声を張り上げて走ってくるんだ。そりゃあ誰だってびっくりだろう。

「ポール!」

 おれの呼びかけに進み出たのはポールではなかった。でかいボーイフレンドが、おれとポールの間に無言で立ちはだかる。

「なんだよ? おまえも“ポール”って名前なのか? おれが用があるのは“ちっちゃいポール”の方だ。そこをどきな、色男」……とは口に出さないが、気概としては、まぁ、そんなところだ。

 息を整え、おれは言った。「ポール、きみと話がしたいんだ」

 ロングコートの筋肉男に阻まれているため、彼の姿は見えない。大男の背後から「彼がディーンだよ」とポールの声が聞こえた。そう、おれがディーンだ。またしてもおれは話題になってたのか。光栄じゃないか。くそ。

「そこをどいてくれ、おれはポールに話が……」最後まで言い終わらぬうちに、大男はおれの両肩をおもむろにつかんだ。

「ポール! あたしがこいつを押さえてる間に行っちゃいなさい!」

 な・なんだこれは?!

「はやく!」

「ちょっ……ちょっと待て! おれはただ彼と話を……!」

「はやく! ポール! 逃げて!」

 おれは変質者か!!! しかしこれでひとつ明らかになった。この男はポールのボーイフレンドではない。このしゃべり方と振る舞い。ポールは女性的な男を彼氏には選ばないのだ。

「ポール! こいつをなんとかしてくれ!」おれの呼びかけにポールは一瞥し、それからふいと背中を向けて歩き出した。

「行くな! ポール!」

「行っちゃいなさい! ポール!」

「くそっ! だまれ…この……離せ!!」

 以前、『ゲイと女子中学生は似ている』と言ったと思うが、両者には決定的な違いがひとつある。そう、答えはもうお分かりでしょう。それは腕力だ!

「あなたねぇ、彼の気持ちも考えたらどう?」と大男。言葉遣いはオネエでも、力はおれの倍以上ときた。万力に締め上げられているかのように、こちらは身動きひとつできない。

「ポールはあなたと会いたくないって言ってたのよ? 彼がどんな気持ちだったか、あなた考えたことある?」

「うるさい! 黙れ! おれを離せ!」

“信じられない最低の男ね”という面持ちでおれを見つめる人間万力。おれはポールへ顔を向ける。

「ちきしょう! ポール! ほんとに行っちまうのか?! ……うそだろう?」

 声から力がなくなっていくのがわかった。これは万力に締めつけられているせいだろうか。それとももっと悪いことに別の何かだろうか。

 すてきな二の腕に抱かれていると、ポールがぴたりと止まったのが見えた。立ち止まり、いっとき空を見上げ、それからくるりと踵を返し、ゆっくりとした歩調でこちらに戻ってくる。目の前まで来たが、おれのことを見ようとはせず、大男に向かって「カール、ありがと。もういいよ、離してあげて」と、ささやいた。

『カール、こいつを離してやれ』マフィアのアジトに潜入した刑事か? おれは?

 ポールの命令に、タイタンはがっちりと捕んでいた手を解いて、おれを自由にした。

「ごめんね、カール。ぼくはディーンと話があるから今日はこれで」

「でも……」カールは言いよどみ、心配そうにポールを見つめた。

「ぼくは大丈夫だから」とポール。

 そうだ、早く行けカール。ポールの気が変わらないうちに。行けったら!

 カールはおれとポールを交互に見ると、なにやら自分の中で納得したらしく、ため息をひとつつき、「いつでも電話して」と言い残して立ち去った。

「……あいつはなんだ? きみの保護者か?」言いながら、コートの襟を正す。カールに捕まれたおかげでジバンシィがシワになった。

「彼はぼくのことを心配してくれているんだ。きみよりもはるかに思いやりがある。ぼくの友人を悪く言うためにぼくを呼び止めたんだったらこれで」

「ああ、いや……ごめん。そうじゃない。おれはきみに話が……」

「話? 話ってなに? このあいだ話したじゃないか? 他に何を話すって言うんだ?」ポールは早口でまくしたてた。

 何を話す? ───……考えていなかった。

 気がついたら走りだしていて、彼の名前を叫んでいたのだ。その後のことや、何を言うべきかとかは、少しも考えていなかった。

 落ち着いて周囲に意識を向けると、行き交う人々がこちらに注目していることに気がつく。あれだけの大騒ぎをやってのけたんだ。これが映画の撮影かなにかだと、勘違いしたやつもいるかもしれない。ニットの帽子をかぶった中年の男性は、立ち止まってまでしてこちらを見つめている。

『さあ、いったい何がおっぱじまるんだろう?』おれたちは暇な観光客の注目の的だ。

『さすがはニューヨークだね。ホモが道ばたで痴話喧嘩してたよ』オクラホマとかテキサスに帰って、そんなふうに旅行のエピソードを披露するんだろう。

 人の視線を感じつつ、おれはポールに話しかける。

「なんて言うか……会うのは久しぶりだな」

「そうだね。きみ、髪が伸びた」そっけない口調のポール。

「ああ、これ……さすがに上司に注意された。このままじゃ無人島に流された男みたいになるかもな」

 ポールは笑わなかった。真面目な口調で「切ったほうがいいよ」と、言っただけだ。

「きみが?」

 おれの言葉にポールは肩をすくめる。

「腕のいい美容師なら他にもいる。ぼくが信頼できる人を紹介するよ」

 その言葉の意味するところは『たとえ客だとしても、きみには二度と会いたくない』ということ。人を紹介してくれるとうのは、彼のプロとしての最低限の礼儀なのだろう。その親切心は今おれにとっては痛みにしか感じられない。

「ポール、おれは……」靴のつまさきを見つめ、かろうじて言葉を振り絞る。「おれは……きみが……きみでないと……」

「なんでそんなこと言うんだ!」いきなり声を張り上げるポールに、おれは弾かれたように顔を上げた。

「またぼくに気をもたせようっていうのか!? いいかげんにしろよ!」

 彼が大声を出すのをおれは初めて聞いた。感情を爆発させるのを初めて見た。そして───涙を流すのも。

「ものわかりが悪いようだからもう一度ハッキリ言うよ! ぼくはもうきみに振り回されるのはごめんなんだよ!『きみでないと』だって? そんな言葉は欲しくない! 約束も、思わせぶりな態度も、笑顔も! きみからはなにも欲しくないよ!」

 ぼろぼろと涙をこぼすポールに、おれはどうすることもできない。泣かせたいわけじゃない、痛みを与えたいわけでもない。彼にとっておれという存在がペインメーカー(苦痛を生み出すもの)だと言うのなら、おれにできることは去ることだけだ。黙ってここから立ち去るべきなんだ。彼の人生から立ち去るべきなんだ。今すぐに!

『彼がどんな気持ちか考えたことある?』とカールは言っていた。そうだ、相手の気持ちを思うならおれは姿を現すべきじゃない。それがわかっていて、どうしてまだここに立ち止まっている? おれはまだ自分のことばっかり考えているんだろうか?

「ぼくはきみといると苦しい」唇を震わせてポールが言う。「きみはぼくに興味がない。きみは優しくしてくれるけど、同じぐらいの気軽さでぼくを突き放したりもするんだ。ぼくはもう苦しくてきみとはいられない。きみの態度にいちいち苦しめられるのは御免だ。ほんとに馬鹿みたいだよ。ひとりで喜んだり、がっかりしたり……ストレートを好きになったところで、見込みがないってわかってるのに」

 これまで生きてきて、こんなにも己の無力を感じたことは今をおいて他にない。両手を身体の横にたらし、おれはただ立ち尽くす。これ以上、他になにもマシなことが思いつかない。

「もう二度と、きみには会いたくなかった」涙を拭うこともせず、ポールが言った。「こうやって苦しむのは目に見えてわかってたから。きみはぼくに優しくする。でも……ぼくのことは……」ポールは被りを振った。

 おれは今でも彼を大切に思っている。愛してもいるだろう。しかしそれらの感情を吐き出すことはできない。それこそが苦痛なのだとポールは言っているのだ。

「ぼくは苦しみたくない。もうこれ以上、苦しみたくない」

 彼がおれに望んでいるのは、“自分の人生から出て行ってほしい”ということだけ。今いちばん言いたい台詞をおれは言うことができない。だったらどうすればいい? ちきしょう! どうすればいい?!

「ポール、おれだって……おれだって苦しみは御免だ」出た言葉は、心の中で渦巻いている感情とはうって変わり、とても静かなものだった。「ここできみに『それじゃ』って言えたらどんなに楽か知れない。おれだって苦しい。きみのことでおれだって苦しんでる」

 これはエゴだ。おれは自分のエゴをポールにぶちまけている。相手の気持ちを壊しておいて“自分こそ苦しい”とは。すごいや、どこまで自分勝手なんだろう。

「きみがいったいどう苦しいって言うんだ……」聞き取とるのが困難なほどの小声でポールはつぶやいた。次におれが発した声もそれに負けないくらい小さい。

「きみが……おれから離れていこうとしているから……」

「だから?」

「おれは……それが苦しいんだ。この二か月ばかりきみのことばかり考えてた。シェリルとデートしてても、きみのことが引っかかっていてあまり楽しめない。結局、彼女とは別れたよ。あ、いや、それがきみのせいだって言うんじゃなくって……どうしてかな、彼女といてもおれはきみを思い出してた。きみとの会話を。ノリがよくて、楽しい……おれをよく理解してくれているきみのことを……」ポールは黙っている。おれは心を懸命に探って言葉を見つけだす。「きみがいないと死んじまうってわけじゃない。でもきみを失ってからのおれの人生は確実に味気なくなったよ。なんて言ったらいいんだろう……ナチョスにチーズがかかってなくても旨いけど、かかってるともっと旨いみたいな……」

 懸命に心を探った結果、出た言葉が『ナチョスにチーズ』とは。いったいどんな説明だ。そもそもこれで説明になっているのか。

「……自分でも自分のことがわからないんだよ」おれはため息をつき、降参するように顔の横に両手をあげた。「いや、自分が何をしたのかはわかってる。きみを……傷つけたよ。取り返しのつかない傷をきみに与えた。最悪だな……きみを傷つけておいて、おれは……。きみがおれを必要としてないってのはわかりきってるってのに……」

 言えば言うほど惨めな気持ちになってくる。『おれはポールを傷つけた』『ポールはおれを必要としていない』これ以上わかりやすいことはない。自己嫌悪で存在を消すことが可能なら、おれはとっくに消えちまってることだろう。

 ポールは黙っている。こっちも語彙がつきた。言えることはすべて言った。そうか、これが“心を開く”ってことなんだな? 開いたドアからは言葉がすべて出て行った。できることはもうなにもない。すべては終わってしまったのだ。

 すっかり感情を吐き出してしまうと、急に辺りが静かになったように感じられた。寒さから逃れようと、寄り添いながら歩く恋人同士。プレゼントにF.A.O.シュワルツの袋を手に持った中年男性。どこからか流れるジングルベル───。そうだ、今日はクリスマス・イブなんだ。

「クリスマス・イブだ」

 そう言ったのはポールだ。いつもおれたちは同じ瞬間に、同じことに気がつく。こんなときまでそれが生きているとは───。

「今日は特別な日だから、ひとついいことをするよ」

 ポールはまっすぐにおれを見つめた。

「───きみを許す」

 静かに、だがはっきりとポールは言った。

「きみを許すよ」

 彼の手がおれの頬にふれる。澄んだ水色の瞳が見つめている。

『ありがとう』おれはそう言おうとした。言いたかった。言うべきだった。しかし言葉がでなかった。

 ポールの指がおれの頬を優しく拭った。

「メリークリスマス。ディーン……泣かないで」そう言う彼の目からも、ふたたび涙があふれた。

「きみこそ」おれは鼻をすすって笑う。「ポール、きみこそ泣くなよ」

「きみが涙を見せるから、つられたんだ」

「みんなが見てるぜ?」

「みんな暇なんだよ、きっと」

 おれたちは暇な観光客の注目の的。『さすがはニューヨークだね。ホモが道ばたで痴話喧嘩して、それから仲直りしてた』オクラホマとかテキサスに帰って、そんなふうに旅行のエピソードを披露するんだろう。

 ポールがそっとささやく。「うちに帰ろう……」

 おれたちは一緒に、同じアパートメントに帰った。



〈エピローグ・・・それからどうなったかって〉

 クリスマスの夜、ポールはおれの部屋で髪を切ってくれた。もみあげはベストな長さ。これにて男前復活。

 ヘアカットは彼からのクリスマスプレゼントで、おれからのプレゼントはマッサージだ。ポールの指導の元に挑戦してみたのだが、指圧は思ったより難しいものではなかった。それに実際やってみると、他人の肩甲骨をはがすのは、はがされるよりも格段に愉快だということもわかった。

 一緒にピザを食べ、ビールを飲み、モンティ・パイソンを観る生活が戻ってきた。イベント、コンサート、食事、DVDの貸し借り。新しい年を迎えたが、おれたちに恋人はできていない。しかしそうだからといって、人生に物足りなさを感じることもないのだ。

 ママから電話がかかってくる。

「ガールフレンドとばっかり遊んでないで、たまにはマイアミにいらっしゃい」

 お決まりの台詞に、おれは「近いうちに必ず行くよ」と約束する。

「あらそう? ひとりじゃ寂しかったら、ガールフレンドを連れてきてもいいわよ」

「そうだね、連れていくかも。男だけど」

「男の友達? まあ……」

 マイアミ在住のママのこと。“まあ”の続き、きっとこう言いたいのに違いない。『まさかボーイフレンドじゃないでしょうね?』と。

 母親の無言の疑問には答えず、おれは電話を切る。マイアミに行くまで、まだ時間がある。そのあいだにおれにガールフレンドができないとも限らないし、ボーイフレンドができないとも限らない。先のことなど誰にもわからない。

 キッチンから友達が呼びかける。

「ディーン、紅茶を入れるけど、きみも飲む?」

 おれは応える。

「ああ、頼むよ」



 マンハッタンには数多くのドラマが存在する。愛、裏切り、涙、セックス、後悔───。

 人生にこれらの単語が見つけられないからといって、ドラマ性に欠けると思うのは尚早なこと。おれたちの人生にも相変わらずドラマはあって、ただ今かかっているのはちょっとのんびりしたドラマってだけだ。

 ポットの湯気とお茶の香り。場面は友達が紅茶を入れているところ。観察者にしてみれば、これはとても退屈なドラマかもしれない。だったら『来週をお楽しみに』とは言えないんじゃないかって? いいや、それでもこの挨拶はちゃんと意味を成している。

『来週をお楽しみに!』この言葉は誰がためにあるのか?

 おれが悟ったところによると、これは観察者のための言葉ではない。幸福を信じる者が、自分の未来に向かって言う言葉だ。

 来週はポールとコンサートに行く約束をしている。おれはそれを楽しみにしている。今この瞬間と、ほんのちょっと先の未来。いつも用意されているのはわずかの時間。さらに次の週、そのまた次の週と繰り返すうち、おれたちはいずれは爺さんになり、ポールは五十に、こっちは百にでも見られるのだろう。

 紅茶が注がれたカップを手に、ポールがおれのところへ来る。温かいお茶を味わうことも、楽しみに待つ未来のひとつと数えよう。

 人生は予測不可能のドラマに満ちている。誰もが予想しえないストーリーを書き下ろす、人生という名の脚本家。待つべき次週がある。きたるべき未来がある。それを楽しみに待つという幸福が、おれたちにはいつも用意されているのだ。


END

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