一章 まだ肌寒い空の下 1

 太一はカーテンの隙間から射す朝日に目を開けた。

 アラームが鳴っていないから早めに目が覚めたのかと思ったが、意外な事に目覚まし時計は何時も通りの時間を示している。時間をセットし忘れていたのかもしれない。

 ……何か変な夢を見ていたような気がする。絶対に忘れてはいけない夢だったような覚えがあるのに、一向に何も思い出せない。記憶に靄がかかっているようだ。


「お兄ちゃん起き……あれ?起きてる。おはよう。珍しいね時間通り起きてるなんて」

「え?あぁ、おはよう」

 騒々しく部屋の扉を開けて訪れた妹の声で、太一は我に返った。

「なんだか物足りないけど、まあいっか。早く降りてきてね。朝ごはん出来てるから」

 手を振りながら部屋を出て行く妹を見送って、太一は学校へ行く準備を始めた。




 3月上旬、私立山星高校は3年生の卒業を目前に控えていた。

 周囲の同級生達は部活動の先輩らの門出を祝うため、色々と準備をしているようだが、1年生だけで構成された文研部にとってはあまり関心がない。

 ということで、事実上進級するまでに太一たち残された行事は、文研新聞の発行と修了式のみとなっていた。

 3月に突入したからといって、安易に制服の上に重ね着をして来てこなかったのは間違いだった。という、呑気な考え事ができているのはそのためだろう。


 校舎に足を踏み入ると、何処となく通い慣れた校舎が何処か違うように思えた。自分も卒業生達の雰囲気に当てられているんだろうか。

 靴箱へたどり着き、上靴に履き替えた所で、太一はふと今までの事に思いを馳せる。

 山星高校の文化研究部に所属してからというもの、自分達は本当に変わった。

 『人格入れ替わり』『欲望解放』『時間退行』

 〈ふうせんかずら〉という存在に巻き込まれてからというもの、何度となく一筋縄ではいかない試練に直面させられてきた。

 特に先月に起こった『感情伝達』は数々の障害を与え、文研部解散も視野に入りかけた程だ。だが、永瀬は今まで通りの自分を取り戻し、もう一度文研部も同じ場所に収まることが出来た。

 色々な意味で自分達を変えた2月を乗り越え、文化研究部は3月を無事迎えた。その事が今はただ嬉しくて、ふと気を緩めると笑みがこぼれそうになる。


 こういう気持ちで部室棟を歩けるのは本当に奇跡なんだろう。

 八重樫太一

 稲葉姫子

 永瀬伊織

 青木義文

 桐山唯

 この5人だからこそ起こせた奇跡……なんだろうな。

 まずい。顔のニヤケが止まらない。丁度階段に着いた所だし、一度話題を変えよう。


 二度目になるが、部活発表会を終えた文研部の修了式までの行事は、3月号の文研新聞を作る事のみになっていた。

 1年生最後の文研部の仕事であることもあって、いつも以上に気合が入っていた5人は、少し無謀だと思える程のスケジュールを組んでいた。

 内容は勿論普段とは違う。具体的にはまだ決まってないけど。

 配布の仕方だって特別だ。具体的にはまだ決まってないけど。

 まあ要するに、あれだけの事があったが文研部一同に休憩する時間なんてなかった。

 登校してから直ぐに教室に行かず、部室に向かっているのはそういう理由だ。

 そうこう今までの出来事をまとめている内に、文研部がある部室棟4階が見えてきた。

 登校時は肌寒く、トレンチコートを着てこなかったことを後悔していたのに、これまでの道のりで額には既に少しだけ汗が滲んでいた。

 部室の前に辿り着き、太一はドアを開けた。


「お、よっす太一。珍しく早いね」

「おはよう永瀬。あれ?永瀬だけか?青木はともかくとして稲葉と桐山は?」

「全く本当にたるんでるよ!青木はともかくとして、唯や朝集合するって言い出した稲葉んまで遅れるなんて!」

 いつもの定位置であるパイプ椅子に座りながら、永瀬伊織は頬を膨らませる。

 後ろで結んでいた髪を下ろしてからというもの、外見の印象はだいぶ変わった。本人曰くこのままでは稲葉とキャラが被るからと背中辺りまで伸ばす予定らしいが、肩につくかつかないかの今の髪型でも十分似合っている。

 それに合わせてか内面も少し大人らしくなったように見えるが、流石にこの現状を流せるほどではないらしい。さっきからブツブツと呟いている。

 まあ、わざとらしく膨らませた頬からあざとさを感じさせない辺り、やはり人間らしい仕草をするこの永瀬が、まだ自分にとっての永瀬伊織なんだろう。


「そういえば永瀬は文研新聞の記事はもう決まったのか?」

「んー?いくつか候補があってさ、この前断念した稲葉んの密着24時とか、稲葉んの今週の下着の色の調査とか、稲葉んの可愛いとこランキングとか――」

「永瀬はどれだけ稲葉のことが好きなんだよ……」

「太一についての記事だって候補のうちに入ってるよ?まあ、大体稲葉んと一緒に取材受けてもらうけど」

「それって9割9分俺達が恥をかかされるやつだろ……というか、青木はともかくとして本当に遅いな稲葉達」

「そだねー。まあ青木はともかくとして、唯と稲葉んは寝るのも忘れて記事について考えてて、うっかり遅刻したって感じじゃない?あの二人なら有り得そうだし」

「さっきから聞いてたら俺の扱い酷くない?太一も伊織ちゃんも」

 そんな風に永瀬と談笑していると、部室の扉の方向から声が聞こえてきた。

 文研部のいじられ役担当である青木義文の声だ。早速、何故自分達の会話を盗み聞きしていたのかと問いただそうと振り向く。


 そして太一の目は知り合ってからの約1年間で初めて青木に釘付けになった。

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