一章 まだ肌寒い空の下 2
「ど、どどど、どどどうし――」
「どうしたのその頭!?青木も私や薫ちゃんに対抗してイメチェン!?」
「え?あ、やっぱ変だよねこれ……朝起きたら髪が変な色になっててさ、急いでコンビニ行って毛染め買って染めてきたんだ」
文研部の扉を通った青木の頭はいつもの明るい茶色ではなく、塗り固めたような黒になっていた。天然パーマもストレートになっていてもはや元の面影はない。
「色は毛染めでいいとして天然パーマはどうしたんだよ……」
「なに言ってんの太一、毎日ヘアスプレーを一本使って落ち着かせてるって前に教えたじゃん」
「え?前に教えた?」
横を見ると永瀬も鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
明らかに太一と永瀬に青木の話す言葉は噛み合っていない。
どこからツッコめばいいのか分かりかねている二人を青木が訝しんでいると、けたたましい音をたてながら部室のドアが開いた。
「ちょっとみんな聞いて!って、青木どうしたのその髪!?」
「離せ!離せよ唯!お前ちょっと変だぞ!」
そこには桐山唯と稲葉姫子の姿があった。
稲葉は唯の脇に首を挟まれていて、ヘッドロックを決められている。
余りにも美しすぎる桐山の肘の角度に、思わず見とれてしまいそうだ。
稲葉自身は必死にもがいているはずなのに、桐山の栗色の髪が微動だにしていない辺り、完膚なきまでに技がかかっているらしい。
「いやいやいや青木の髪なんかに気を取られてる場合じゃないの!稲葉が変なのよ!」
「おい唯!取り敢えず離せ!」
「え、あ、ごめん……」
我に返ったのか、桐山は稲葉の首から腕を離して解放する。
……ちょっとだけそれが残念だったけど口にしないでおこう。
稲葉は眉間にシワを寄せながら不愉快そうな顔をしていた。その表情は今の状況に即していて、特におかしいところは見当たらない。
少なくとも青木の髪をなんか呼ばわり出来る程の変化があるようには見えないが。
「ねえ唯、稲葉んのどこら辺がおかしいの?私にはいつも通りに見えるんだけど」
「えっとそうだな……ねえ稲葉、また太一が3月の文研新聞にプロレス特集を組むって言ってたよ」
「何故桐山は俺の考えてた事を知ってるんだ!?誰にも教えてないはずだぞ!?」
「え、ホントにそうだったの……いやそれは別にいいの!で、稲葉はどう思う?」
「ど、どうって別に。いいんじゃないのか?」
……
一瞬全員の時間が固まったような気がした。
「大丈夫稲葉ん?お腹痛い?熱はない?悩みあるの?相談のろうか?」
流石というかなんというか、一番手に動いたのは永瀬だった。
「そ、そうだよ稲葉っちゃん!他の誰かならともかく稲葉っちゃんが太一のプロレス趣味に小言を言わないなんておかしいよ!ましてやいいんじゃないかなんて!!」
「なんだよお前ら……そんなに私が他人の意見を許容するのが珍しいか……というか青木はその髪どうしたんだよ」
「珍しいなんてもんじゃないよ!太一なんてもう死んでもいいって顔してるぞ!」
「稲葉がプロレスを……いや、前々から時々技を使ってる時もあったし……」
その時の太一は生涯でも類を見ないほどの笑みを浮かべていたという。
「プロレスのことは置いといて!えっと……伊織が稲葉の24時間を密着して記事にするって言ってたよ!」
「なんで唯が私の考えてた事を知ってるの!?」
「伊織もホントに考えてたの!?いやだからそれはいいんだって!ほら、稲葉どう思う?」
「そうだな……流石に24時間は嫌だけど、せっかく伊織が考えてくれたんだし無為にしたくないな。取材ぐらいなら受けるぞ」
その稲葉の言葉に4人は一斉にそれぞれへ目を配らせた。
文研部での活動を通して稲葉の性格は変わりつつある。周りの全てを敵としていた頃と違い、他人に自分の内面を見せる事を躊躇うことが少なくなっていた。
太一と付き合いだしてからはその兆候が顕著になってはいたが、それでもまだ完全にさらけ出せる程ではない。
そもそも稲葉を形作るキャラとして、他人に弱みを見せず弱みを握る稲葉姫子が根底にある。仮に本心は満更ではなくても、永瀬の提案を受け入れるとは思えない。
それが恥ずかしがる事すらなく、あからさまに下心丸出しの考えを無為にしたくはないといった。
普通なら稲葉が成長した。または性格が変わったんだろうで終わらせられるが、文研部には〈ふうせんかずら〉という存在がまとわりついている。
安易にこの変化を受け入れてはいけない。それが4人のアイコンタクトで出た結論だった。
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