2.彼女の目覚め
朝の通勤電車が行きかういつもと変わらぬこの街の風景。
陽が上がるころ人々は各々の向かう仕事場へと向かい始める。
いつも通勤にも使っていたバイクは僕の実家にあるらしい。2年2ケ月以上もの時間の間僕はこの世界の外にいた。時は当たり前の様に流れ、街は微妙な変化を伴わせていた。
久々に乗る電車、社内の天井一面に広告の映像が絶え間なく流れる。
倉塚桜がこの世を去り、彼女はその広告の映像とあの歌声だけが残る存在となっていた。
電車を降り、歩く街の中の大型のスクリーンにも桜の姿とあの歌声がずっと流れている。
『ワールドデビュー直後にこの世を去った創世の女神 倉塚桜』そのキャッチコピーが僕のこの胸を締め付ける。
彼女の死は多く人の心に悲しみをもたらしたと言う。
原因不明の不治の病『デス・キラー病』その人の存在はもうすでにない。しかし、彼女の歌う歌声は、彼女が願う想いを乗せて今も生き続けている。
「ただいま、母さん」
「あら、どうしたの? 急に休みでも取れたの?」
何事もないように、いつも通りの…… 母さんだった。僕がゼプト・オペレーションによってパージされている間、父さんは母さんの事を想い、人口人体、いわゆるアンドロイドの様なものだが、この2年間、たまに顔を見せる程度で何とか繋いでいたらしい。それもあの親父が母さんに対する想いからした事だと言う事は十分に分かっている。
でも実際には2年2か月ぶりに僕は母さんと出会ったのだ。
僕の顔を見るなり母さんは
「桜ちゃんのお墓参り行くんでしょ」寂しそうに僕に問いかける。
もう、母さんの中でも桜は過去の人となっていた。
それが、デス・キラー病だ。時空の辻褄合わせと言うこの現象は、その人の記憶そのものを消し去るのではなく、想いや記憶はそのまま残される。しかし、人の心は次第にその悲しみを薄れさせる。それも一種の脳の働きである。だからこそまた前に人は進むことが出来る様になるのだと……
「なぁ、母さん。ちょっと報告があるんだけど」
キッチンにいる母さんに、僕はその少し小さく感じるようになった後ろ姿を見ながら。
「なぁに報告って?」
「実は今度アメリカに転勤になったんだ」
「え! アメリカに?」
「うん、そうなんだ。これでも栄転なんだよ」
寂しそうな顔をする母親に本当の事を言えない自分が嫌になるほど苦しい。
「それでいつ行くの?」
「大体1か月後くらいには向こうに行く予定だよ」
「まぁ、そんなにも早くに…… お父さんにも話しておかないとね」
「……うん、そうだね。でも僕もこれから引き継ぎや移動の準備で忙しくなるんだ。転勤の事は母さんからそれとなく言ってくれれば助かるよ」
「そうなの…… 荷物も必要最低限のものでいい。後は向こうですべて準備してくれるから。今日はその準備も兼ねて帰って来たんだ」
「今日は泊まって行けるのよね?」
「ああ、一晩だけだけどね」
「そう…… 分かったわ。今晩あなたの好きなハンバーグ作ってあげる。飛びっきり美味しいハンバーグ」
「ありがとう…… 母さん」
その後僕は桜の墓参りに行くといい家を出た。
ガレージに置かれている愛車のバイクのシートを取り払い、エンジンをかける。久しぶりに感じるこの振動。
そしてその後ろのタンデムシートに残る桜の面影を一瞬僕は感じた。
桜の眠る墓地は海の近くにある小高い山に面したところだった。大きな花束を途中で買い、僕はその花束を桜の眠る墓標にそっと添えた。
ごめん桜…… 遅くなちゃって。
すう――と海風が僕の躰をすり抜ける。
桜、君の好きな海がいつも見られるところだね…… いつしか僕の目からは涙がこぼれていた。
また来るよ…… 今度は何時になるかは分からないけどね。でも、桜……また君と逢おう。その時君はこの僕をまた愛してくれるかな? 今度出会う時はなんだか僕の一方通行になりそうな気がするんだけどな……
ちょっと苦笑いをして桜に呼びかける。
また…… 逢おう桜。今度は本当の君と……
帰りに、あのマスターの店に寄った。しかし、その店はもうすでに無くなっていた。近くの商店街の人にあのコーヒー屋がどうなったのかを訊くと
「ああ、そこね。もう2年以上にもなるのかなぁ、お店辞めて」
「あの…… あそこのマスター今どこに?」
「さぁね。あっとゆまに店閉めて、どこかに行っちゃったみたいだよ」
「そうでしたか……」
その後、マスターの行方を捜したが何の手掛かりも見つけ出す事は出来なかった。通常どこかに移動すれば、例え海外に移住したにせよ、その痕跡を調べる事はこの僕は出来る。しかし、マスターに関してはまったくと言っていいほど、きれいにその痕跡が消されている。
後を追う事は全くできなかった。
あの時最後にマスターが残した言葉。
「これは姉からの忠告。どんな事があっても、桜ちゃんと別れては駄目よ。たとえ、一緒にいることが出来ないことになっても、貴方は桜ちゃんを守らなきゃいけない。多分それが貴方の使命であって、この世に生を授かった理由だからよ」
その意味が今ようやく分かった。それにしてもあのマスターの正体は何だったんだろう。
僕がこの世界のすべての事を知る前から、この世界のなりゆきをすでに知っているような感じを受ける。
彼、いや彼女は…… この世界の人類ではなかったのかもしれない。そう彼女も遥か昔から語り継がれたあの想いと願いを繋ぐ、エージェントの一人だったのかもしれない。
家に帰ると母さんが「桜ちゃんに会えた?」と訊いてきた。
多分、今までたまに来ていた僕のダミーも桜の所には言っていたのかもしれないが、母さんは僕が今日初めて桜の所に行けたような言い方する。
母さんは何かを感じていたのかもしれない。でもその事は一切表面には出す事は無かった。改めて母親と言う存在のすごさに僕は目を潤ませた。
「どうしたのよ。さぁ、雫の大好きなハンバーグ出来たわよ」
ひと時の家庭と言う名の僕の砦の暖かさに触れる。
もしかしたら僕はもう二度とこの時間を、共に家族と過ごす事は出来なくなるのかもしれない。今のこの時間を過ぎゆく時間を僕は大切にしたい。そしてこの幸せをまた僕のもとに戻ってきてくれることを、願わずにはいれれなかった。
次の日、僕は必要最低限の荷物を会社(研究所)へ送る手続きを終えて、懐かしい、そしてもう戻る事が出来ないかもしれない、自分の家に別れを告げた。
母は、母さんは何も言わず僕を送り出した。多分もうここには戻れないであろう事を感じ取りながら……
研究所に戻り僕は真っ先にユリカの状態を確認した。
彼女が目覚めてから、ずっとメディカルカプセルの中で眠っている。
まだ完全な蘇生状態ではないのだ。
「ドリー、ユリカどんな状態なんだ?」
「雫、ようやく安定しだしたところよ。外気中の成分にも徐々に慣らしているし感染症などの心配もない。そして自己免疫力も上がってきているわ。後少しね、もう少ししたらユリカは外で自由に動くことが出来るようになれるわ」
「うん、わかった。ありがとうドリー。あんまり無理しちゃいけないよ」
「それは私があなたに向ける言葉じゃなくて雫?」
にっこり微笑んでドリーは僕に返した。彼女は今まで以上にユリカに向かい、そしてその全てを捧げるがのごとく向き合っていた。
「ユリカが自由になったら、あなたはユリカと何をするつもりなの?」
何気なく問うドリーだったが、その答えを僕からは求めなかった。
この一か月が僕とユリカが唯一、一緒にいられる時間である事を誰も知らない。この一か月間が僕にとってもユリカにとっても最も重要な期間となる事も……
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