5.想いに残る歌声 Singing voice that remembered


しずく、雫」

 僕を呼ぶ声に気が付き目を覚ました。

 桜は体を起こしベッドに座っていた。

「さ、桜。起きて大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。それより雫に心配かけちゃったね……」

「僕は、大丈夫だよ……」

「…… 嘘、その顔ずっと泣いていたんでしょ」

 桜はゆっくりと僕の頬に手を添えた。

「雫、ごめんなさい。せっかくプロポーズしてくれたのに、私、もうダメみたい」

「何言ってるんだ‼ 駄目なもんか。これから二人で…… 二人で…… み、未来を……」

 涙が溢れるように出てくる。言葉がその涙に邪魔されてうまく出てこない。

 桜は、僕の頬をいとおしそうにさすりながら……

「ううん。私わかってるの、お母さんも同じように亡くなったって聞いていたから。遺伝しちゃったのね。ごめんね雫」

 桜の目から涙が零れ落ちる。その零れ落ちる涙を見つめ、僕は悔しくてたまらなかった。こんなことなら、訳の分からない物理学を専攻しなければよかった。医学を学び、今、消し去ろうとしている桜の命の光を、また輝ける光に戻してあげたい。出来ることなら…… 出来ることなら。 

「謝るなよ、謝るなよ…… 桜」

 僕は桜の体を抱きかかえた。桜のぬくもりが体に伝わる。楽しかった桜との思い出が次々と浮かび上がる。

 桜は必死に僕の体を包みこもうと、その力を腕を僕の躰にまわす。だがその力は次第に…… 次第に、力が抜け落ちていくように弱くなっていく。

「私幸せよ。数年間の短い間だったけど…… 本当はもっと、もっと長い時間を共にしたかったけど、雫と過ごした大切なたくさんの思い出があるから。雫にも私のたくさんの思い出あげたから。私はもう思い残すことないわ。雫ありがとう。私はあなたに出会うために生まれてきた。そしてあなたを愛することが出来た。私はそれだけでも十分に幸せだった」

 桜の残された命の光はすでに消えようとしている。それが感じられる…… 分かってしまう自分が怖い、そして悲しみよりも桜を失う寂しさが僕を襲いだした。

 最後の力の限りを尽くし、桜は僕の耳元で

「私は、時を超えてあなたを愛します。それが私の使命であり、それが私の生きる証。たくさんの幸せを…… あ、り、がとう…… し、しずく……」

 僕の耳元でかすれるような声で、そう言い残し、桜のすべての光が消えうせた。


 「さくら、桜。桜…… さくらぁぁぁ‼」


 僕は、光の消え去った桜の躰をだき抱え、彼女の名を叫んだ。だが、桜はもう何も返してくれなかった。

 六月二十八日早朝。桜は、僕にたくさんの想いと、彼女の歌う歌声だけを僕のこの心の中に残して遠い所に行ってしまった。


 信じられない自分が今ここにいる。僕はこれから何を信じ、何を支えに生きて行けばいいんだ。

 何もかも分からなくなった。

 悲しみ、怒り、寂しさ。楽しさ以外の憎悪が僕のこの心と体に襲いかかる。

 そして僕のすべてを支配する。居た堪れなくなり、病室を出るとドアの横で相変わらず腕を組み、背中を壁に付けてただその状況を何事もない。そんな表情でつったている所長…… 親父の姿に僕は苛立ちとその憎悪をぶつけた。

 多分誰でもよかったのかもしれない、でもその時の親父のあの表情は僕は忘れないだろう。

 例え血のつながった親子であっても…… 僕が愛する人を今失った事を知ったのに、あの平然とした表情は何だ…… 親父はあんなにも冷酷な人間だったのか? 病室をでて、廊下で黙って時を刻んでいる親父に僕は自分の立場を忘れ、一人の男、人として…… いや、今僕を取り巻く悲しみをあの親父にぶつけた。

「親父、どうしてそんなに平然としていられる。親父、桜は、桜は今……」

 親父の襟をつかみ今まで反抗したことがなかった僕は、親父を思いっきりののしった。もうどうでもよかった。桜をよみがえらせることが出来れば……

 そんな僕の口から出た言葉は

「そうだ親父、ゼプト・オペレーションを桜に…… そうだ、ユリカだ。ユリカの体、を……」

 ドスッ。僕の腹に鈍い音と共に、内臓が張り裂けるような強烈な痛みが走った。

 その痛みは僕の躰を麻痺させ意識が次第に薄れていくのを感じる。

「例え、親子であろうとそれ以上は…… 命があるだけ感謝しろ」

 その言葉が遠くでかすかに聞こえていた。

 僕は、親父に倒れこみ、気を失った。


 気が付いたとき、僕は研究所内のメディカルセンターにいた。

 あれから僕を研究所に運び、ここでしばらくの間寝かしつけていたらしい。個室の誰もいない、そして誰も入ってくることはないだろうと思われるその部屋に…… いわば僕は監禁されていたんだろう。

 ぼんやりと、かすんだ目に光が差し込む。

「おはよう、雫」

 ふと声のする方を見るとそこにはドリーの姿が映し出されていた。誰もいないはずのこの病室の部屋に

「ドリー、どうして。ぼ、僕は……」

「そろそろ気が付くころだから、待っていたのよ。あなたを」

 痛い、頭が割れるように痛い。いままで起きた記憶が一度に僕の頭の中を駆け巡る。あまりの痛さと混乱で頭を抱えてうずくまった。

「大丈夫、雫?」

 ドリーは心配そうに話しかけた。

「大丈夫…… だと思う。ところでドリー、今は何時なの?」

 まったく時間の感覚がなかった。

「今は、午前十一時よ。それに日付は八月の三十日よ」

 八月三十日?

 僕が桜にプロポーズをした日は、六月の二十八日。あれから二か月以上もたっているというのか?。

 桜、記憶が少しづつ回復してくる。桜はもういない。そして僕はあの親父に、僕の憎悪をぶつけてしまった。これはその報いなんだろう 

「ドリー、桜は? あの後桜はどうなったんですか?」

 僕は眠っている間のことをドリーに尋ねた。

 彼女は下をうつむきながら

「桜ちゃん、残念だったね。やっとあなたの想いをつたえられたのにね……  それにようやく世界デビューも出来た矢先に」

 僕はそんな言葉より本当に桜が、いなくなってしまった事が未だに受け入れられなかった。あの出来事は、僕が眠りについている間に見た夢の出来事だったのではないのかと……

 次第に回復してくる記憶の中で

 そう、夢だ。夢に違いない。桜が死んでしまったなんて、たちの悪い夢に違いない。僕は、自分にこう思わせることで、現実から逃げようとしていた。眠っていた自分を都合のいいように使って。

「あなたが眠っている間に、桜ちゃんのお葬式も行われたわ。お別れを一番言いたかったのは雫、あなただったのにね」

 ドリーの言葉を僕は断片的にしか理解できなかった。「眠っている」「お葬式」「お別れ」…… 「桜」……

 そんな僕にドリーは言った。現実の事を

「雫、貴方はあの時、ここの一員であることの約束を破ろうとした。あなたは言っては逝けない事を、一般社会の中で口にしてしまったのよ。どんな状況であろうとも、口にしては逝けない事を」

 ドリーのその言葉を聞いてせき止められていた記憶が、崩壊したダムから流れ出す。濁流のごとく僕の脳裏を駆け巡った。

 桜のあの優しい面影、僕を呼ぶ桜の姿。そして最後のとき……

 僕の頭の中は、現実と僕が作り上げた世界が同時に繰り広げられる。嘘だ。そう思えば想うほど、現実の記憶がよみがえる。

「嘘だ。嘘だ、嘘だ…… 嘘だ」

 僕は叫んだ現実から逃れようと、逃れようとする為に。

 次の瞬間、僕の意識はまた遠く霞がかかったように白い霧に包まれていく。

 僕に繋がる輸液に何かが投与された。

 イーリスのオペレーターが告げる。

「七季雫は興奮状態にあったため、麻酔薬と鎮静薬を投与いたしました。これはゼプト・オペレーションによる後遺症ではありません、ご安心ください。七季雫の記憶の混乱が原因と思われます。意識が回復するまで後十二時間の時間が必要とされます」

「分かったわ、ありがとうイーリス。適切な処置ね。彼にはこの空白時間は…… 私は、一段戻りますね、後よろしく」

「了解しました。意識が回復しましたら、ご連絡いたしますか?」

「いいわ、彼、そっとしてあげて」

 ドリーは、イーリスのオペレーターへそう告げて病室を後にした。


「七季雫の意識が回復しました。ですが興奮状態であったため麻酔と鎮静剤を投与しました。彼が目覚めるまで後十二時間の時間を必要とします。その後の対応は如何なさいますか? 七季所長」

 イーリスがこの施設の総責任者である七季龍也ななきたつや所長へ問いかけた。

「分かった。指示は追ってこちらから連絡する」

「了解いたしました」


 すまん…… 雫。それほどまでにお前は彼女を…… 愛していたとは……

 分かってくれとは言わない。俺を憎むならどんなに憎んでもいい。

 何処に自分の息子の幸せを願わない親がいるだろうか? 俺はお前が幸せになる事を願っていないとでも思ったかもしれない。本当はいつもお前の幸せを願っている。お前がこの研究に携わるのを俺は拒むべきだったんだろうか? もし、この場にお前の存在が無ければ、そして彼女の存在が無ければ…… だがこれも筋書きとして残された想いの一つ。

 彼女を愛することがお前の使命でもあったのだから……

 だが…… 彼女は、この世界の女神なんだ。

 遠い、遥かなる過去から受け継がれてきた、あの想いを受け継ぐ女神。

 倉塚桜くらつかさくらはその彼女の生まれ変わりなのだから……

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