3.想いに残る歌声 Singing voice that remembered
ザザァー、ザザァー。砂浜に打ち寄せる白い波に、その存在を知らしめるように午後の陽の光がキラキラと輝いている。
「あーやっぱり海って好き」潮風に桜の長い髪がたなびく。
「桜、最近忙しかったからな。たまには息抜きも必要だよ」
彼女はくるっと振り向き
「それで私を今日ここに連れてきたの?」と僕に返した。
「ああ、まあな」
桜は僕に
「ありがとう。でも雫もお仕事、いつも忙しいじゃない。忙しいのはお互いさまよ」彼女は、にっこりと微笑んだ。
そして
「ねぇ、今日のマスターいつもと違わなかった? なんか、ちょっと寂しそうな、お別れでも言っているような………」
桜は少し寂しそうに問いかけた。
「そうか、いつもと変わりないように思っていたけど……… 気のしすぎじゃないのか」
そうは言ったものの、僕もマスターの様子が少し違う事にに気が付いていた。マスターが僕に話した桜の事も気になるが、店を出るときに聞こえたマスターのあの一言が、今も耳に残っている。
海風が少し冷たさを感じさせるように、少しづつ今日一日の役目を終えようとしている陽の光を桜は全身に浴び、大海原に向かって静かに歌い始めた。
静かに、ゆっくりと透き通る声と共に。
「パチパチ」桜は照れ臭そうに僕を見つめる
「いつも聞いていただき、ありがとうございます。私の一番目のファン様」
うれしそうに僕に告げる。
その穏やかな表情が僕の中に焼き付く。
「……… 桜」
「なあに、雫」
僕は桜の前に数歩進み止まった。
「桜、今日で、桜のファンをやめます………」
彼女は、少し驚いた。
「どうして?」
「それは………」
僕は、ポケットから指輪の入ったケースを取り出し、手のひらに乗せて静かに開いた。桜の顔を真剣なまなざしで見つめ
「桜、結婚しよう。二人で、未来を築きたい。だから今日でファンをやめます」
僕は、目を閉じ下をうつむいた。
砂浜に打ち寄せる波の音だけが聞こえてくる。一秒がとても長い時間に感じる。ふと、指輪を持った手を桜の手が包み込んだ。暖かい桜の両手のぬくもりが僕の手に伝わる。
「駄目よ。私の愛する人は、最初にファンになってくれた人。私、
静かに目を開けると、目の前に今にもこぼれ落ちそうな涙を、いっぱい浮かべている桜の顔が映った。
「それは条件かな……… ?」
「うん、一生、私のファンであってほしい。だから、私も頑張れる。私の生涯をあなたと共に………」
そう言って僕を抱き寄せた。
陽の光が今日の役目を終えようとしていた。
すでに桜の瞳から、あふれんばかりの涙が頬をつたっていた。
僕は、ケースから指輪を取り出し、桜の手を取った。
「ありがとう、桜。僕は、僕の一生をかけて倉塚桜のファンであり続ける。たとえどんな事が起ころうとも………」
そして僕は、桜の左の薬指に指輪をそっとはめた。指輪はぴったりと桜の指に留まった。
彼女はその手を空へ掲げ、空に向かい
「お母さん。私、結婚するの。ありがとう、私を生んでくれて。ありがとう、お母さん」
そう言って僕の肩に頬を寄りつかせた。
「桜、お母さんなんて言っていた」
そっと桜の肩に手を添えた。
「お母さん、私を生んですぐに亡くなったの。だからお母さんの姿は写真でしか見たことがないわ。でもね、どの写真を見てもお母さんとっても幸せそうだったわ。だから分かるの、お母さんの願いが………」
「どんな願いなのかな」僕は桜に小さな声で聞いてみた。
「私が、素敵な人と幸せになること………」
桜は小さな声で、少し恥ずかしそうに言った。
「幸せになれた?」
僕は桜の肩を引き寄せた。
「うん、私、雫に出会えて本当に良かった。あの時、コーヒーをこぼした私を優しく慰めてくれた人。そっと私にシナモン入りミルクティーをくれた人。落ち込んだ時、そっと私を支えてくれた人。そしていつも私の傍に優しくいてくれる人。あのマスターの店で偶然に出会えたのかも知れないけれど、雫に出会えて私は幸せです」
彼女の言う通り、あの店で出会えたのは偶然かもしれない。僕もあの店に足を運ぶことがなかったら、桜とは出会うことはなかっただろう。たとえお互いにあの店にいたとしても、あの時彼女が僕の前でコーヒーをこぼさなければ、桜とは親しくなることはなかったかもしれない。
それが、あのマスターの喫茶店であったからこそ、僕らはお互いの心を通わす事が出来たんだ。本当の仕掛人はマスターだったんだろう。
あの人には、何か普通の人とは違う力をいつも感じていた。それがおかま? と呼ばれる姿をしているからと言う事ではない。
人として、生きるものとしての力。そしてあの人の胸の中に何かを秘めた想いをいつも感じる。それは重くそして途轍もなく高貴な想いである。そのマスターの想いはいつもこの僕に向けられていた。
それが何を意味するのかは分からない。しかし、僕はあの人と出逢えたことで大きな僕の未来の道を歩くことが出来るような気がしてならない。
だからこそ、僕は桜を大切にしたい。そして心の底から彼女を愛し、共に二人で未来への道を歩みたい。
「ありがとう、桜。僕も桜と出会えてよかった。僕も桜がいたから頑張れた……… これから、もっと幸せになろう、桜」
「うん」
そっと僕は桜を引き寄せ、桜色のリップの柔らかく暖かい唇に僕の唇を重ね合わせた。
辺りは薄暗くなり、砂浜にうちつける波の音だけが響いている。
今僕ら二人はこの世界の中で、たった二人だけの空間に取り残されたような感じだ。僕ら二人だけの世界。その世界に僕らは今お互いの体と心を寄せ合っている。
砂浜に打ち寄せる波の音。その音を聞きながら僕は桜を抱きしめた。
暗がりの海からくる風は冷たさを感じる。
暖かい彼女のその躰の体温を感じ、彼女も僕のその温もりを感じているようだった。
今日のこの海に別れを告げ、バイクに向かい僕らは岐路につこうとした。
バイクの前で桜が僕に一言
「……… し、雫。ありがとう………」
その声に振る向くと桜はすっ――と気を失う様に僕に寄り掛かる………
「……… 桜?」彼女の名を一言呼んだ。
その後、僕は呆然となりながら、遠くから鳴り響く救急車のサイレンの音を耳にしていた。今いったい何が起きているのか? 事実を受け入れる事の出来ない僕のこの体にサイレンは鳴り響いた。
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