2.想いに残る歌声 Singing voice that remembered
今日は僕にとって特別な日だ。そのために仕事を調整しまくりようやく休みしたくらいだ。
昨日レコーディング前に桜は僕に声を届けた。ようやく彼女の今までの努力が報われる日やって来たんだ。
彼女の歌声がDM・デジタルミュージック世界同時配信、販売となる。ついこの間までプロモーション映像撮影などが行われ、桜も忙しい毎日を送っていた。
今までずっと諦めずに頑張ってやって来た成果だ。
桜は未だに自分が全世界デビューを成し遂げたことを信じられない様に僕に話す。
あの歌声を世界の人々に……… 桜の想いを世界の人々に。
桜の願う想いが多くの人の心の中に届くことを僕は願い、今日の日を迎える。
愛車の二千五百CCのバイクは、いつもの僕らの待ち合わせの場所。あのマスターのいる喫茶店へ向けて風を切り走り抜ける。
僕の想いを込めたリングと共に………
「あら、いらっしゃい。雫ちゃん」
マスターはいつものように僕を出迎えた。
僕が店内を見回すと
「うふふ。桜ちゃんなら、さっき遅れるって連絡あったわよ。少し落ち着いたら」
マスターはにこやかに、僕をさとした。
僕は自分のいつもの席に腰を下ろすとマスターは、何も言わずブレンドを入れ始めた。ことりと僕の前にカップが置かれる。
「ねえぇ、雫ちゃん。いよいよ今日なのね」
マスターはニタニタとした顔で僕に言い寄る
「え、な、何のことですか?」
「しらばっくれても駄目よ。私にはちゃんとわかるんだから」
そんな………
僕はマスターに今日のことは話をしていない。
でもなんで今日に限ってそんなことを聞くのか不思議だった。
「マスター今日の僕、変ですか?」
僕は白々しく問いかける。
「あら、変じゃないわよぉ。何かしらねぇ。女の感かしら」
女の感? いや、それを言うならおかまの感だろう。
ふいに出るマスターの言葉が今日は、妙にうける。やっぱりいつもより変なんだろうか。
カランカラン。カウベルがなり扉が開いた。
その音の方へ眼をやると、桜が息を切らしながら店に入ってきた。
「雫、ごめん。遅くなっちゃった」
大きな肩掛けのバックを持ち顔をし少し高揚させ、すぐさま僕のところにやってきた。彼女は、薄い緑色を感じさせるブラウスに、丈の長い淡い黄色のスカートを着こなし、高校を卒業してからのばした髪をオレンジ色のチーフで束ねている。
桜はゆっくりと僕の前の席に腰かけた。そして、軽く微笑み僕の顔を眺めた。
それはいつも、この席で繰り返されている二人だけの合図のようなもの。桜は遅れてきたことを僕が怒っていないことを確かめたのだ。
ゆっくりと、この席の時間は流れ出す。
店内に静かに流れる三世代前の曲。桜を目にして安心したんだろう。その曲のなす意味が静かに僕の心に響いてきた。
やっぱり今日の僕は、ちょっと変なのかもしれない。
桜の前にグラスが置かれた。マスターが、氷の浮かぶレモンスカッシュを持ってきてくれた。
「あ、マスターありがとう」桜はマスターに向かい礼を言う。
その顔をちらっと見たマスターは
「うふ、その色のリップいいじゃない。桜ちゃんにぴったりよ」
「もしかしてマスターの見立て?」
桜は軽くうなずいた。
社会人となった桜に化粧の指導をしてくれたのは、他ならぬマスターだった。
はじめ桜からマスターがお化粧の仕方を教えてくれると訊いたとき、僕はあのマスターがと少し不安になっていた。でも、その心配は無用だった。一言「若い子は濃い化粧をしちゃ駄目よ」その言葉の通り、マスターは桜に、肌を整える基本の方法しか教えていないらしい。リップも桜に合うカラーをすすめてくれた。
桜は、恥ずかしそうに
「ねぇ、今日の色どうぉ?」
めずらしく僕に訊いてきた。それは、淡いピンク色をしたリップ。ちょっとひかえめな色合いが特徴のリップだった。
「うん、可愛いよ」
桜は僕の言葉を訊いて少しホットしたように
「このリップ、マスターからの頂きものなのよ」
「そうなんだ」
そう言うとマスターは呆れた様に
「雫ちゃん、このルージュ見覚えないの?」
「何かありましたか?」
「まったく、このルージュ、あなたが初めてこの店に来た時に付けていたものと同じ物なのよ。あなたが初めて私と出会った時に付けていたルージュよ。だから、桜ちゃんに今日はこのルージュを付けて来てほしかったの。あなた達の新しい門出にね」
「ごほっ」僕は口に含んでいたコーヒーで
この人には本当に敵わないと思った。でも、僕たち二人を本当に想ってくれているのも確かなことだと感じた。ちょっと年の離れた兄貴と姉貴の中間的な存在。
マスターとの出会いが無ければ、僕は桜と出会うことはなかっただろう。このリップがきっかけだったかは解らないが、過去の行動の結果が、今、そして未来の形として流れているのは確かなことだ。
未来は、過去におこなった結果があるからこそ存在しえるものだから。
「あんたたち時間大丈夫なの?」
マスターがいきなり急き立てる。
僕は、その言葉に気が付いたように、柱の掛け時計を見た。
午後三時をまわったところ。
「桜ちゃんも早く飲んじゃって。もうそろそろ混む時間なんだから、いつまでもあんた達につき合っていられないのよ」
「あ、ハイ頂きます」
僕は桜がレモンスカッシュを飲み切ってからレジに向かった。
「雫ちゃん、今日はいいわよ。あたしのおごり」
「そんな、悪いですよ。いつも………」
マスターの気分がいい時は決まってタダにしてくれる。桜があのマスターがくれたリップをしてくれたせいかは解らない。
そして小さな声で
「雫ちゃん、私あなたと出会えて本当にうれしかったのよ。あなたが、このお店に来てくれたのは気まぐれかも知れない。でもね、あなたはこのお店に足を運んでくれた。このお店を気にいってくれた。このお店は私自身なんだもの」
こんなことを言うマスターは初めてだった。
「そんな、僕こそマスターに、このお店に出会えて本当に良かったと思いっています」
「ありがとう、雫ちゃん。やっぱりあなた、私の弟よ」
少し涙ぐんだ声の様だった。
「僕もマスターのこと、兄、姉? どっちかわかんないけどそんな風に感じていました」
「ありがとう。でもね、どっちかはないでしょう。姉よ姉」
「ははは、失礼しました」
「これは姉からの忠告。どんな事があっても、桜ちゃんと別れては駄目よ。たとえ、一緒にいることが出来ないことになっても、貴方は桜ちゃんを守らなきゃいけない。多分それが貴方の使命であって、この世に生を授かった理由だからよ」
マスターはいつになく真剣でその言葉は、これから僕たちに起きる事態を予測しているかの様だった。
なぜ、その様なことを行ったのか、僕はまだ知る由もなかった。
「ねぇマスター、この荷物置いて行ってもいい?」
桜が席から聞いてきた
「あ、………」
マスターは少し間をおいて、にこやかに
「いいわよ。奥に置いて行って」
「ありがとうございます。明日取りに来ます。よろしくお願いします」
桜はにこっと微笑み一礼をした。
僕と桜二人が店のドアに向かうと、マスターが僕らの背に向けて一言
「ありがとう。雫、桜ちゃん」
気のせいかも知れない何となく、別れのような言葉に聞こえた。
僕らは、バイクに乗りマスターの店を後にした。
いつもの様に桜を愛車のタンデムシートに乗せて、あの海岸へ向かった。
もうじき、夏を迎えようとするあの浜辺へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます