エピローグ

それぞれの道

 雨がやむと、『果ての壁』は再びその偉容を顕した。

 エカテリーナがノルドの頭に刻んだ魔術は、一時的に『壁』を消し、その後の自己修復を促すものだった。

 結果として、石翼リトスが空けたメイリベルの『壁』の大穴は塞がれた。しかし、町は未だ混沌と狂乱に支配されたままだ。

 ノルドたちは一旦、避難を兼ねて赤月界に向かうことにした。だが、クラウスだけは、

「今夜だけは、ここにいさせてください。銀の月が昇ったら、銀月界へ帰りますので……」

 と弱々しく呟いた。否やを言う者はいなかった。


 天頂では、赤の月が輝いている。ノルドたちは、石畳の下の隠し通路から、界層エレベータへと向かった。

 長い梯子を、ノルドは自力で下っていく。ショーンはエカテリーナが、リエットはヴァネッサがそれぞれ抱きかかえ、翼でゆっくりと降りる。

 そして辿り着いた、地下七階。

 エカテリーナがゆったりと、歌うように呪文を唱えた。

「誓う。光に向かうと。告げる。我が目指すは雲の果て、高き天の国。導きたまえ。父のおわす光ある楽園へ――」

 舞い散った光は、青白く淡かった。



 虚の狭間クォータ・フィールドの上を歩き、実虚境界ディラック・ディヴァイドを越える。ショーンとリエットははじめて見る景色への困惑や興味より、疲労のほうが勝っているようで、何も言わなかった。

 ヘリオディスへ向かうため、電子端末でヴァネッサが迎えの車を呼ぶ。


 車を待っている間、不意に、エカテリーナがショーンに話しかけた。

「ショーンくん」

 ノルドには、その声音だけで、彼女が何を言おうとしているのかわかってしまった。

「あなたのご両親を殺したのは、文明管理部隊ルイツァリ・シチートの長官である、この私です」

 その言葉に、ショーンは目を瞠るでも、声を荒らげるでもなく、ただ、虚ろな目でエカテリーナを見やった。

「あなたには、私を断罪する権利がある。幸い、ここには武器がいくつもある。あなたの気のすむようになさって」

「……」

 ショーンは、ノルドに支えられたまま、その場を動かずに言った。

「あなたのことが、殺したいくらい憎い。でも……殺すことはできない。あなたが、銀髪で、黒い翼の、悪魔のお姉さんだから」

 声を震わせて、ショーンは言った。

「六年前……ノルドを救ってくれて、ありがとうございました」

「……そう」

 ほどなくして、迎えの車がやってきた。



 その後は、もはやはじめからそう仕向けられていたかのようなスムーズさで、ことが運んだ。

 赤月界で、ノルドとリエットは、エカテリーナと共に天使管理委員長ディートハルトに面会した。

 ディートハルトはやさしい茶色の瞳で、ノルドたちを見つめた。彼は、長い金髪をおろした、繊細で柔和な容姿の男性だ。御伽噺に出てくる『天使』の象徴そのものといった見た目で、娘のキャロラインとよく似ている。意外なのは、その若さ――トップが若いということが、白翼ヴァイスの寿命の短さを物語っているようで、胸が詰まった。

「俺の身体から薬を作れるっていうなら、協力します。でも、赤月界に残るのは俺一人。リエットお嬢さんは、銀月界へ行かせてください」

 ノルドが感じた限りでは、赤月界のほうがその情勢は危うい。リエットを赤月界に渡すのには不安がある。一方で銀月界ならば、信頼できるエカテリーナやクラウスがいる。彼らなら、きっとリエットを守ってくれるはずだ。

「それから……」

「ご友人のことだね。ショーンくんなら、天界医療センターで最善の治療をすると約束しよう。医療技術はこちらのほうが、魔界より進歩しているから。疑うのであれば、毎日見舞いに来てくれても構わないよ」

 物腰は、柔らかく上品。キャロラインという強いパイプもある。

 ノルドは、彼にショーンを託すほかなかった。



 そして、リエットとエカテリーナは、秩序の守人ヴェルト・リッター本部にある転送装置で、エンシノーア直結の界層エレベータへ向かうことになった。

 魔術元素の光にも似た青い輝きに満たされた部屋の中心に操作パネルがあり、床には陣が描かれている。

「それでは、ノルドくん。ショーンくん。ヴァネッサさん。いつかまた、お会いしましょう」

「ノルドさん、ショーンさん……」

 悲しげで不安げで、大きな瞳に薄い膜を張って――その時のリエットの表情を、ノルドはきっと一生忘れられないだろう。

「……一緒に、いたかったです」

「ごめんな、お嬢さん。赤月界でお嬢さんを守ってくれる大人に、心当たりがないんだ」

「でも、私……」

「大丈夫。お嬢さんを引き取ってくれる人は、人間が本当に大好きだから。安心していいよ」

「……うん、わかった。たまには、遊びに来てくださいね」

「必ず行くよ。またね、お嬢さん」

「うん……またね、ノルドさん」

 リエットが小さく手を振ると、二人の姿は光の粒となって、消えた。

「罪な奴だなあ」

 ショーンが、少し切なそうにからかう。

「イケメンパパとイケ坊ちゃんに囲まれて暮らせば、俺のことなんてすぐ忘れるさ」

「何の話ですか?」

「ヴァネッサは気にしなくていいよ」

「はあ……」



     ◆



――それから、数ヶ月の時が流れた。

 ノルドはヘリオディスのマンションの一室を与えられ、そこで暮らしていた。メイリベルのノルドの家と同じくらいの広さがあり、おそらくは高級な部屋なのだろう。


 検査は月に数度行われたが、それ以外の行動はすべて自由。とはいえ、一日中電子図書館に入り浸って、電子書籍を読み漁る毎日なのだが。


 ショーンとは、手紙のやり取りをしている。毎日見舞いに行きたいのはやまやまだが、彼がいる医療センターはヘリオディスからは離れていて、ヴァネッサに車を出してもらわなければならない。ノルドは、恐ろしくてまだ車の免許を取りに行っていない。


 クラウスからも、手紙が来た。だいたいの内容は、こうだ。


 子供たちはしばらくふさいでいたが、ようやく立ち直ってきた。

 リエットは方術師に弟子入りして、めきめきとその実力を伸ばしている。

 そして、ロジオンの部屋にあった『魔術大全』の炎の魔術のページに、子供でもわかる平易な言葉で、細かく注釈がつけられていた――と。


『息子に魔術を教えることにした。あれはきっと、あいつからのメッセージなんだろう』


「そうかあ。よかったなあ」

 レックスの望みが一つ叶えられたことが、とても嬉しかった。



 そして、今日。

「彼は、何を望んでいたのでしょう」

 ポストに二通の手紙を投函するノルドの隣で、ヴァネッサが呟いた。休暇中の彼女は、一つも武器を持っていない。トレードマークのロングコートも着ていない。

 今日の彼女は、萌黄色のワンピースに、履きなれないレモンイエローのパンプスで歩いている。

「さあ……俺はロジオンさんじゃないからわからないけど、俺たちは、楽しくのびのび生きてたほうがいいんじゃないか。俺たちが見ていた、あの人みたいに」

「そうですね。始末書を書かされない程度に、でしょうか?」

 ヴァネッサは、まだつぼみのようではあるが――確かに、笑みを零す。

 首元を飾る黄玉トパーズのイミテーションが、晴れた陽光をキラリと反射した。

「そのワンピース、悔しいけど俺が選んだ奴より似合ってるかも。好みの服が似合う服とは限らないのか……?」

「そうでしょうか? 私にはよくわかりませんが。それより、急ぎましょう。アンナ様とキャロル様はもう到着なさっていると連絡がありましたので」

「え、本当に? それはまずいな。キャロルちゃんに怒られる」

 涼やかな風が通り抜けるビル街を、二人は並んで歩いて行く。


 コメット・モールの入口で、キャロラインが手を振っているのが見えた。

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