藍と緑の鍵 3

 そこからの戦いは、ノルドについていけるものではなかった。エカテリーナの手にした杖の先に埋め込まれた七色の宝石は、彼女の高速詠唱に応じて惜しみなくその力を振るう。ロジオンは、突如水に変わる炎や、その炎を巻き上げる風をかわし、同時に別方向から襲う雷を打ち払う。人智を超えた自然現象の応酬は、次第にロジオンを追い詰めているように見えた。

 しかし、実際は違った。ノルドは、エカテリーナの口元に滲む血を見た。そして気づく――彼女は、マスクをしていない。

 女王は叫ぶ。

「クラウスッ! 所詮は草、焼き払えッ!」

 魔術を途絶えさせた彼女を、ロジオンの剣が襲う。

「風伯よ!」

 しかし、エカテリーナの詠唱の方が早かった。強引に流れを変えられた風が、剣の一閃を惑わせた。

 その隙にノルドは、クラウスに駆け寄った。蔦はいとも簡単にほどけていく。一本振りほどく度に呻く声が聞こえたが、構っていられなかった。戦いから逃れていたリエットが、ノルドを手伝って蔦を解こうとする。

「お嬢さんは方術を!」

「は、はい!」

 腕が呪縛から抜け出すと、クラウスはその手で口元を覆っていた蔦を引きちぎり、叫んだ。

「天の火明ほあかりよ!」

 黄金の炎が激しく燃え盛る。たった一言で、彼とヴァネッサを縛っていた蔦は灰となる。しかし、クラウスは力なくその場に倒れた。

「お嬢さん、クラウスさんを頼む!」

 言うが早いか、リエットはすぐに彼の傷を癒そうと懸命に方術を行使する。ノルドはヴァネッサに手を貸して、彼女を助け起こす。

「ありがとうございます、ノルド」

 心のこもった声に、ノルドは面食らった。しかしヴァネッサはすぐに戦士の顔に戻ると、その手に『白蜂ベスパ』を構える。

「その銃なら……あの人を倒せるのか?」

「はい。彼は石翼リトスであるだけではなく、自らの身体をも部分的に機械化しています。脳を狙い撃つことができなくても、水の魔術弾を直撃させられれば、機械化された身体がショートし、脳にもダメージを与えられると考えられます。しかし、今は水の魔術弾がなく」

「ない? 水……俺の魔術じゃダメなのか?」

「命中した場合のダメージは、純粋な魔術行使とは比較に……ノルドの、魔術……」

 ヴァネッサは何かに気がついた様子で、ロングコートの中から金の筒を取り出してノルドに示した。それはヴァネッサが銀月界でノルドに託したものと似ていたが、先端が無色である点が異なっていた。

「これに、水の魔術元素を維持する術をかけてください」

「わかった」

 ノルドは手渡された筒を握りしめて、詠唱する。

「太陽が産みし霧の乙女、御心みこころをどうか鎮め――此処に留まり続く我が声を聞け」

 最後の句が紡がれた瞬間、筒の先端が青く光り、そのまま水の燐光の色に染まった。

「これでいいのか?」

「はい。ありがとうございます、ノルド」

 すぐにノルドの手から筒を取り上げたヴァネッサは、それを『白蜂ベスパ』に込めながら、言った。

「エカテリーナ様に加勢して、彼の動きを一度止めてください。その一瞬で仕留めます」

「いいや、僕がやる……」

 武器を支えに起き上がろうとするクラウスを、ヴァネッサが止めた。

「信頼し重用していた副官を手ずから殺すなど、苦痛でしかありません。彼は私が倒します」

 クラウスは、目を丸くした。

「……君がそんなことを言うなんて、驚いたな」

 ヴァネッサは、クラウスには答えない。ただ、「ノルドさん、お願いします」と小さな声で言った。ノルドは頷く。そして、ポケットから取り出した風の魔術弾を握りしめて、戦場へと駆けた。


「マスクはどうしたんです、主上?」

「すでに病んでいる身体には必要ないものよ」

「じゃあ病人なら病人らしく、横になっててくださいよっ!」

 ロジオンの剣が、エカテリーナをその射程に捉える。だが彼女は、杖でその剣を受け止めた。

「やっぱりあなたは別格か。でもなんで自分で出てきた? 末端に任せときゃいいのに」

「私には、あの子たちを助ける義務があるのよ」

「そりゃまたなんでです?」

 杖で剣を捌きながら、彼女は血を滲ませた唇で答える。

「これ以上孤独にさせられないからよ……親を殺された哀れな子を!」

 空中で戦いを続ける二人の真下に、ノルドは立つ。

「湖におわす猛き神よ、白蛇伴いて我が前に現れ出でよ! 汝の力もて弓を引き、万物を守り抜く水の矢を射よ!」

 無数の水蛇が、ロジオンを食いちぎろうと彼に迫る。先ほどは破られた術だが、ロジオンは相殺のために魔術を詠唱しなければならないはずだ。あの術は、ノンアクションで放たれてはいない。

「くっそ、良い判断しやがってっ!」

 ロジオンは魔術を行使しようと構えた。同時に、エカテリーナも杖を掲げた。

「我は空に隠れし月を読む者……月は嘆いている、今此処に、左目が流した涙の跡が奔る」

 杖の先端の鈴が鳴り、銀色の石がまばゆく輝いた。

 彼女の詠唱を聞いたロジオンの顔に、明らかな焦りの色が浮かぶ。

 今しかない――ノルドは、左手に風の力を感じながら、唱える。

「死者を悼む巫女よ、御霊みたまを招き生者を慰めよ! 心を解き放て、泣けない者たちの代わりに、悲嘆の泉が枯れるまで……ッ!?」

 ノルドの周りを、凄まじい量の青い燐光が舞った。手の中で光る風の魔術元素に対して、水の魔術元素が集まりすぎている。水と風の二属性の元素が拮抗しなければ、合成魔術は成立しない。目の前のロジオンはすでに電撃で水蛇をすべて撃退し、その刃をノルドに向けている。

「走れ走れ、思う様!」

 エカテリーナの声が轟き、銀光の矢が無数に大地に降り注いだ。雨と見紛うほどに降りしきる眩い光が、ロジオンの身体を地面に縫いつける。

「くっそ……か!」

 それでも這い上がろうとするロジオンに、エカテリーナはなおも繰り返す。

「涙を流せ、思う様――ッ!」

 空から降る銀の月の光が、ロジオンの身体を貫く。しかし彼もやられるばかりでなく、回避に転じる。ノルドに目配せをするエカテリーナの瞳から、真っ赤な血が流れている。

 この術は、長くはもたない。だが自分の魔術を持て余すノルドは、動けないでいた。

(風の魔術元素が足りない……!)

 続く句が唱えられないまま、水の魔術元素が暴走を始める。このままでは、嵐を起こす前に膨大な量の水が地面に流れ出して終わる。それでは、空へ逃げるロジオンを捕らえられない。


 ダメか――!


 そう思った時、遠くから、声が聞こえた。


「……此処に留まり、続く我が声を聞けぇっ!」

 ノルドの足元から、翠の光が溢れ出す。石畳の上に、巨大な楕円の魔術陣が形成されていく。

「死者を悼む巫女よ、御霊みたまを招き生者を慰めよ!」

 折れそうな手を掲げて走ってきたショーンと、声を合わせる。

「心を解き放て、泣けない者たちの代わりに、悲嘆の泉が枯れるまで――そして願わくば、この地に生命長久の祈りを!!」

 雷鳴を呼びそうなほどに激しい嵐が巻き起こる。その場にいたあらゆる人を、雨が濡らす。

「ぐっ……!」

 傷口に雨を浴びたロジオンがうめいた。左腕の仕込み銃や、エカテリーナに貫かれた傷口から、バチバチと火花が爆ぜている。

 そして、ノルドの背後で、白い羽根が舞った。ヴァネッサは、重く濡れた翼で羽ばたき――ロジオンを狙う。

「……ごめんなさい」

 彼女の構えた白い銃から放たれた青い弾丸が、作りものの翼を貫いた。



「ここ一番で友達に助けてもらえるなんて、羨ましい奴め」

 降りしきる雨の中、大地に倒れたロジオンは、そう言った。彼の身体は、『夢の海』でヴァネッサに倒されたあの機械兵士と同じように、電光を発している。

「僕は……またノルドが僕の前から急に消えたら、嫌だったんだ……」

 肩で息をするショーンを、ノルドが支える。

「なんで、こんなことをしたんですか」

 ノルドは、震える声で尋ねた。

「故郷の土を踏みたかったから……かな。シンボルだった大図書館はなくなってたけど。言ったろ? 俺、図書館ファンなんだ……」

 怯えるリエットの手を握っていたヴァネッサは、その言葉に顔を背けた。

「ロジオン」

 クラウスは、未熟な方術でかろうじて塞がれた傷を押さえながら、部下に声をかける。

「戦わずとも、他に道はいくらでもあったはずだ……どうして、僕に報告しなかった」

「裏切りを報告しろなんて、無茶な人だな……」 

そう言いつつも、彼はどこか嬉しそうだった。

「クラウス様……俺、あなたのこと、尊敬してましたよ。割とマジに」

「急に何を言うんだ。僕をおだてても、始末書に書くことが増えるだけだぞ」

「家族を守るために飛ぶあなたは……復讐のために駆けずり回る俺には眩しかった……太陽みたいでした。あなたがそんなだから、俺の翼が溶けちゃったんですけど……ここに来て同情を買おうなんて図々しいや」

「売れるほど、僕の同情は安くない……」

「じゃあ、なんで……泣いてるんです?」

「これは雨だ」

「ははっ、何言ってんですか」

「……彼女が言っていた。信頼し重用していた副官を手ずから殺すなど、苦痛でしかないと」

 ロジオンは一瞬驚いた様子を見せ、ヴァネッサの姿を探した。

「……ああ」

 ヴァネッサがリエットの手を握っているのを見て、彼は、息をついた。それは、おそらく安堵だった。

「君が、俺みたいになってなくて、よかった。考えたり、悩んだりするのは、大切なこと……感情を捨てて、心を麻痺させたら、それはもう、生きてるとは言えない……これなら、青春の勝算も、ある……かな」

 ロジオンは、ノルドに笑いかけている。

「だけど俺は、できなかった。石翼リトスとして、世界に復讐すべきだって理屈と、クラウス様やレックス坊ちゃんを好きだって気持ちの、どっちが……俺にとって大事だったか、本当は、わかってたのに……」

 地面に両膝をついたクラウスは、ロジオンの身体を起こす。

「感電しますよ、クラウス様」

「僕は、お前を……僕の欠点を補ってくれる優秀な副官を失いたくない……僕は、融通が利かないから……」

 だんだんと、ロジオンの緑色の瞳が虚ろになっていく。

「ロジオン、死ぬな。命令だ」

「何言ってんですか……命令に背くから、裏切り者、なんですよ」

 ロジオンの口から吐かれた血が、クラウスの手を焼く。しかしクラウスが部下の手を離すことはなかった。

「ヴァネッサちゃん、ありがとな。クラウス様と話す時間をく……れて……」

「そんなつもりで……」

 急所を外したわけでは――続く言葉を、ヴァネッサは飲み込んだ。

「めちゃくちゃになっちまった、この世界でも……暖かい場所は、あるし、やさしい、人もいる。過去の恨みなんか、忘れてしまえればよかった……」

「新しい世界に適応しつつあるのは、俺とリエットお嬢さんだけじゃない。白翼ヴァイスにとっても黒翼ノーチにとっても、大地から生まれた野菜は、もう、毒じゃない……一緒に、食べたじゃないですか」

 嗚咽に喉が焼けるのを押さえながら、ノルドは声を絞り出した。

「俺は、昔起こった戦争を知りません……イカも、知りません。だけど……今の世界で、これから、大切な人たちとどう生きていくかを考えます」

「今の世界で……これから……」

 彼の声は、涙に濡れている。

「そう……だな。お前から、その言葉が聞けて、よかった……」


 それきり、やかましい彼は、話すのをやめた。

「伝え忘れてしまったわね」

 ずっと口を閉じていたエカテリーナが、彼に語りかけた。

「ロジオン、あなたの飼ってた鳥。あなたの羽根を偽ってた黒いカラス……私が預かっています。何もしてないから、安心なさい」

 霧のように緩くぬるい雨は流れる涙に混ざり、血を洗い流していく。

 復讐を果たすことができなかった彼は、満足気に微笑んでいた。

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