黒銀の底 8
「これが、『うみ』……」
ノルドがつぶやく。
エカテリーナは、果てしなく漲る水の遥か彼方を見つめている。
「太古、海で生まれ、やがて得た翼で空を制した私たちの先祖は、次は大地にその領域を広げようと、地に降り立った。しかし土は、彼らにとって毒だったの。勇気を持って大地に降り立った者たちの足は焼けただれ、彼らは結局、木の上で暮らしたわ。それでも、やがて文明が生まれた。靴が、劇的に世界を変えた。先駆者は大地に降り立ち、家を作り、動物を狩り、農耕を始めた。だけど、毒から生まれたものもまた毒。土に強く根を張って育った野菜は、彼らの身体を蝕んだ」
ノルドは思わず、テーブルに残るサラダを見た。今ここに、生野菜のサラダを食べられない者はいない。
「それでも彼らは諦めなかった。自分たちを『天よりの使い』だと考える彼らは、少しずつ、少しずつ大地に適応していった。代わりに、毒に慣れた白い翼は、黒く染まった」
ノルドはただ呆然と、エカテリーナの話に耳を傾けることしかできなかった。彼女の言葉は、すべてが絵空事のようだ。
「赤月界と銀月界で配布される歴史の教科書の一ページ目には、必ずこう書かれているわ。だけど、双月界の教科書には書かれていない。隠蔽された歴史のひとつ、というわけね……ノルドさん、納得する時間はあげられないから、諦めて授業に付き合ってちょうだい」
エカテリーナの声は、静かで、しかし有無を言わさぬ調子であった。
「さて、大地にうまく適応することができなかった白い翼の『天使』たちは、黒い翼の者たちを妬んだ。両者の溝は深まっていき、やがて白い翼は黒い翼を『悪しき魔の者』……『悪魔』と呼び、毒にまみれ穢れた種族だと差別するようになった。悪魔と呼ばれ蔑まれることが許せなかった者たちは、自らを『
赤月界と銀月界でそれぞれの呼び名が違ったことにも、意味があったのだ。だがノルドは、どちらも差別的な意味を含んでいると感じた。
「ところがね、ここでまた問題が起こったのよ。最初は単なる突然変異体だと考えられていたのだけれど……翼を持たずに生まれてくる者が現れたの。そういった翼無き者たちはどんどん増えていった。肥沃な大地があれば、得るものの少ない空は不要だった。大地は、空を捨てた者たちに最も多くの恵みを与えたわ。そして、彼らは
(
自分以外の誰もが、エカテリーナの言葉を所与の事実として受け入れているのだろうか。見回すと、ノルド以外の列席者はただ、畏怖の表情だけを浮かべている――答えは、聞かずとも明らかだった。
「
深く暗い底から響くその言葉に、ノルドの背筋はぞわりと震えた。
「
海を見つめるエカテリーナの表情をうかがい知ることはできない。
「けれどね、結局……三つ巴の戦いになってしまったの。きっかけは、
突然話を振られても、動じないよう努める。
「魔術元素は大地から生まれる、宝石の粉末。それはまだ、
「そう。そのとおりよ。
「しかし、主上。それでは先ほどの発言は……」
「嘘よ」
クラウスの呈した疑問に、エカテリーナはなんの躊躇いもなくそう告げた。
「正しいのは、ヴァネッサさんのほう。一瞬で敵を仕留められる銃と、言葉による詠唱が必要な魔術。どちらがより効率的で、どちらがより優位か、わかるわよね? クラウス、ロジオン。銀月界では逆に教えていること、口外したら極刑よ」
座ったままの二人の表情は、彼女の言葉が冗談ではないと言っている。
エカテリーナは、腰まで届く長い髪を翻して振り向く。彼女の魔術で作られた幻は、現実とまるで区別がつかない。わずかに塩の香りをはらんだ風がそよぎ、ドレスの裾を揺らす。
「ヴァネッサさん。二つの武器が生まれたことによって、
夕焼けに燃える海を背にした彼女に向かって、ヴァネッサは淡々と答えた。
「まず、悪魔への対抗。魔術発動の暗号である『詠唱』を奪い取ること。人間は悪魔の魔術使いを捕らえると、その者が知りうるすべての詠唱を口にするまで、拷問にかけました。結果人間も、魔術を行使できるようになりました」
「そうね。魔術の詠唱ひとつを知るのに、
「……そして、
それまで黙っていたロジオンが口を開いた。
「説明に飛躍があるわよ、ロジオン。早く知らせてあげたいのはわかるけれど、段階は踏まなくては伝わることも伝わらなくてよ」
「……はい」
水音が、静かにさざめく。
「魔術を手に入れても、
時間と空間を、海が奏でる旋律が支配する。
ノルドは、ジャケットのポケットの中にある石と、小さな板を握りしめた。
「でもね、
すると突如、ノルドの足元に、風の魔術陣が描かれた。
「えっ!?」
ノルドの周りだけを一陣の風が駆け抜け、上着のポケットの中身が宙に攫われた。ドクターが遺した、二色の石と小さな板が。
「返してください!」
ノルドは石と板を奪い返すべくエカテリーナに駆け寄る。しかしエカテリーナは握りしめた手を頭上高く掲げた。わずかにエカテリーナのほうが背が高く、ノルドの手は届かなかった。
「心配しなくても後で返すわ。それに、この白い記憶の板は、本来
エカテリーナは白い板を風で操り、ひらりと、ヴァネッサの手の上に乗せた。
「それは、あなたに預けます。いいかしら?
「はい」
ヴァネッサは白い板をじっと見つめたあと、コートの内ポケットにそれをしまった。
石を手にしたまま、エカテリーナは微笑む。もはやノルドに石を返すつもりはないのか、黒手袋の上で二色の石をもてあそんでいる。
「
藍と緑の二色の石がほのかに光を放つ。すると、石は尖り、丸まり、鋭くなり、平たくなり、やがてひとつの形にとどまった――薄く透き通る、一枚の石細工の羽根。藍と緑が緩いグラデーションを描くそれは、ひどく繊細で儚い。
「毒で作った仮初の羽根を背に植えつけた
宝石の羽根は、エカテリーナの手の上でひらひらと舞っている。
「それはまさしく、
幻の夕陽が海に落ち、空は夜に包まれた。天頂では、銀の月と赤の月の両方が輝いている。
「もはや人ではなく『武器』そのものと罵られ、行き場も守るべき者もすべて見失った
エカテリーナは、海に向かって杖を掲げた。
「姫の息吹よ、再び!」
短い詠唱が、悲しく響く。
すると――海の色が、変わった。
限りなく白に近い青、限りなく青に近い光、限りなく光に近い七色。
白砂に寄せる飛沫も、彼方まで続く海も、その色を虹と変えた。
「すべての種の故郷だった海は、汚された。青く美しかった海は、失われた……」
エカテリーナは、変色した夜の海を見やった。
一面の虹色を前にクラウスは目を見張る。ロジオンは俯く。ヴァネッサは、吹き付ける風に目を細めていた。
「海からは、塩辛い風が吹いてくる。潮風、というのよ。虹色の潮風を吸った人々は、夢の世界から帰ってくることができなくなる」
エカテリーナは、砂の上に杖を突き刺した。
すると、瞬く間に砂が土へと変わり、花園が現れた。赤と白の花がびっしりと敷き詰められて咲き誇る。
「これは、新しい毒を作り出した花。この花から取れる実から毒を作るの。その症状は、痛み、発熱、寒気、幻覚、幻聴……心をも病ませる。石翼たちは、この花から精神から蝕む毒を作って海にばら撒き、
赤と白の花びらが、夜風に煽られ舞い上がっては消えていく。それはいっそ酷薄なほどに美しく、幻想的な光景だった。
「病と混乱で、どの種も数を減らしたわ。特に、
哀れね、と彼女は言った。それはおそらく、共通の敵が現れるまで、手を取り合えなかった三種族のことを指している――そして同時に、敵とみなされた石翼たちのことも。
「ところがね、倒せなかったの。
エカテリーナは、自分の頭をとんとんと指で突いた。
「脳だけ」
「脳……頭、ってことですか?」
「そうよ……ノルドさん、なにか気づいたことがあって?」
気づいたことはある。それは、ノルドとヴァネッサを襲った機械兵士のことだ。だが、話の腰を折りたくはない。
「あとで聞きます。続けてください」
「では。石翼をついに滅ぼすことが叶わなかった人々は、石翼を封じ込めることに決めたの……その方法が、これよ」
エカテリーナが頭上高く杖を掲げると、シャラン、と鈴が鳴る。
「鳥に姿を変えし姫、新たな息吹をここに!」
花園が一瞬にして消え、白砂に戻った。これまでとはスケールの違う大きななにかが、ノルドの目の前に現れ出ようとしている。足元が揺れ、視界が歪む。だが、テーブルの燭台の火は、まっすぐに伸びたままだった。揺れているのは、エカテリーナが創りだす幻に飲まれている自分たちだけ。
ノルドは、目を閉じ――そして、開いた。
「え……」
目の前にあったのは、もう見慣れた、『果ての壁』だった。
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