黒銀の底 7

 翌日の正午。

 ノルドはロジオンに案内され、再び宮殿に来ていた。

――『真昼の宮殿』。

 一階の中央に堂々と鎮座する、赤絨毯の敷かれた階段を上る。その先の回廊は、今まで見たどの場所よりも豪華な作りだった。天井と壁と柱と照明が、一つの巧緻な空間を作り上げている。

 しかし何より目を引いたのは、絵画だ。いくつもの絵――窓の絵が等間隔にかけられており、並ぶことで真昼の空を演出している。絵画はほのかに光っており、まるで陽光が射しこむがごとく、床を輝かせている。

 これが、宮殿の名の由来か。

「ここだ」

 両開きの大きな扉の前で、ロジオンは立ち止まった。そこで待っていたのは、クラウスと、マスクをつけたヴァネッサ。

 おそらく銀のイミテーションで装飾が施された扉は、メイリベル大図書館の書庫の入口のそれと、よく似ていた。

「主上! クラウスです。ノルド殿とヴァネッサ殿をお連れ致しました」

「どうぞ、入って」

 聞き覚えのある声音。間違いない。

 クラウスとロジオンが、左右の扉をそれぞれ開いた。


――眩い。

 その広間の壁は、全面が琥珀色に輝いている。

 中心には、白いクロスがかけられた長いテーブル。その上にはいくつかの燭台が置かれていたが、そこに灯っているのは魔術の火ではなかった。

 しかし、美の粋を集めた内装よりも何よりも、際立つ存在感を放っているのは、広間の奥に佇むひとりの女性。


「ようこそ、次世代のおふたり。お待ちしていたわ」

 長く緩いウェーブを描く髪は銀の月の色。

 瞳は青く澄んだ夏の空の色。

 抜けるように白い肌を引き立てる、喪服の如き漆黒のドレス。

 細い指を覆う、黒い手袋。

 胸元に輝く、大粒の琥珀。

 目の前の女性は、間違いなく、六年前に出会ったあの黒翼ノーチ

「言った通りだったでしょう、空色の髪の坊や」

 女性の声は、やさしくも厳かで、美しい鳥のさえずりのようでありながら、心を震わせる凄みがある。

「この世界は生き地獄。だから、だったでしょう?」


 ノルドはヴァネッサの隣に、その向かいにロジオンとクラウスが座る。エカテリーナが下座につく。ヴァネッサはマスクを外した。

「ホストは私なのだから。クラウス、ロジオン。あなたたちも今日は賓客よ」

 二人は明らかに恐縮した様子で、運ばれてくる料理と女性の様子を交互に窺っている。

「まずは自己紹介を。私の名前は、エカテリーナ・セレーネ・ルアヴェール。銀月界を治める者であり、同時に文明管理部隊ルイツァリ・シチートの長官を務めてもいます」

「ノルドです。六年前は、俺の命を救ってくださってありがとうございました」

「えっ!?」

「ロジオン、静かにしろ」

「感謝の言葉はいらないわ。あの日あなたを助けたのは、あなたのためではないから」

 使用人たちが、静かな所作で、前菜のサラダをそれぞれの目の前に置いていく。

「今回のご旅行の感想は? 私がよこした案内人の出来はどうだったかしら」

 エカテリーナの口調はゆったりとして穏やかだったが、同時に、どこまでも深い底なしの闇のような不気味さをたたえてもいた。彼女の纏う雰囲気に気圧されないよう、ノルドも言葉を選ぶ。

「おおむね満足ですけど、うるささ、やかましさは気になりました」

「あら、ロジオンはお気に召さなくて?」

 ノルドの目の前に座るロジオンは青ざめ、冷や汗すらかいているようだった。

「……悪い人ではないと思いますけど」

 エカテリーナは、慈母のごとく微笑した。

「あなたはロジオンに恐怖心を抱いた?」

「いいえ」

「まあ、即答ね。それが、彼の能力の高さを示していることに気づいていて? 未知の世界で、あなたを安心させたのよ」

 言われて、はっとした。確かに、ロジオンは誰よりもノルドを油断させた人物だった。そうでなければ、同じ部屋で眠ることなどできない。

 だが、彼も赤月界の空では、細身の剣で鮮やかに機械兵士を両断していたのだ。敵を殲滅したのはクラウスの魔術だったが、ロジオンも彼を素早くサポートし、戦っていた。

「あなたがその目で見たことさえも覆い隠すほどに、彼は自分を演出したというわけね。評価を改めてやってくれると嬉しいわ」

 照れくさそうな笑みを浮かべるロジオンに、エカテリーナの視線が刺さる。彼はすぐに背筋を正した。

「まったく……そこの二人、もっと楽になさいな。ヴァネッサさんも、どうぞ召し上がって」

 ヴァネッサは黒翼ノーチの二人以上に固くなっており、目の前に置かれた彩り鮮やかなサラダを見つめているだけだった。

 明らかに怯えた様子の彼女に、エカテリーナは凄みのある声音で追い打ちをかける。

「私の前に呼び出されたことに恐怖を覚えた? 大胆にも彼を拉致したお方とは思えないわね……彼のこと、機械兵士のこと。どうして文明管理部隊ルイツァリ・シチートに報告しなかったの?」

 ヴァネッサは口をつぐみ、答えない。

「黙っていないで答えていただきたいけれど、仕方ないわね。あなたたち白翼ヴァイスは、黒翼ノーチ無翼フォールンに語る言葉を持たない。やはり、ワクチンを独占したかったのね。種族の欠陥……短命の改善こそが、あなたたちの悲願だということはわかっているわ。だけど、その欠陥も結局のところはあなたたち自身の愚行によって招いたものでしょう。真世界の黄昏カタストロフィ・ワンの責任は、すべてあなた方にある」

「……短命は、我々の責任ではありません。魔術元素を世界中に散布したのは、悪魔と人間です」

「あなたは、魔術が作り出された理由を知っていてそう仰るの? 千年前、あなたがた白翼ヴァイスが我々や無翼フォールンから大地を取り上げようとしたのは知っているわよね。自分たちが大地に適応できない遅れた種であることを認めず、白い翼を持つ自分たちこそが、この世界の主であると主張した……大地に染まった我々を穢れた翼と呼び、翼を捨てた人々をゴミと呼んでいた。そうでしょう?」

「悪魔は、提示された和平の道を捨て、魔術元素という毒で世界を汚し……」

白翼ヴァイスの歴史の教科書にはそう書いてあるのね。なんとも都合のいい解釈だわ。あなた方が作った兵器に対抗するために作られたものが魔術だというのに。火薬を湿気させ、機械をショートさせる。我々は、和平のテーブルで銃を向けたあなた方に報復をしたにすぎないわ」

「和平を捨てたのは悪魔です。藍色の瞳の悪魔が、和平のテーブルに毒を盛ったという記録が」

「それもまた、都合よく改変されたものよ。事実は異なる。藍色の瞳の白翼ヴァイスが、和平の席で我らの王を撃ったのよ」

 恐ろしく静かな声が、琥珀の広間に満ちる。

 エカテリーナは合間にサラダを口に運ぶ。一方で、ヴァネッサは緊張した面持ちではあるが、動揺した様子はない。

「和平会議が破談となった後、無翼フォールンがなにをしたかは、知っているわよね。そして、彼らがその後どうなったかも」

「だからこそ今の人間には、できるかぎり平穏な暮らしを。秩序の守人ヴェルト・リッターが守る秩序とは、天界だけではなく、三界すべての……」

「秩序、ね。それは、真なる世界を葬ったあなた方白翼ヴァイスが作り上げた言い訳にすぎないわ。くだらない保身のための組織に『秩序の守人ヴェルト・リッター』とは、滑稽な名前よね」

 そこで、ついにヴァネッサの表情が変わった。

 彼女が言葉に詰まったのは、エカテリーナの冷たい刃が刺さったからではない――組織の腐敗に心当たりがあるからだ。

 『秩序の守人ヴェルト・リッターの中に、内通者がいる』。

 それは、ノルドとヴァネッサが出した、共通の結論だった。

「……医療技術は、天界のほうが進歩しています。だからこそノルドを天界で保護したのです」

「それは、こちらへの報告を怠った理由にはならないわ。それに、彼を連れ去ったのに、もう一人を放置したのはなぜ?」

「申し訳ありません、わかりかねます。もうお一方を保護するよう命ぜられなかった理由は不明です。魔界へ報告すべきではと尋ねても、取り合ってもらえず……」

「まるで人形ね。命じられたとおりにしか動けないとは、ゴミにも劣る」

 ヴァネッサに対するあまりの侮蔑に、ノルドの胸の奥がチリチリと焼ける。クラウスとロジオンも、不安と焦燥の入り混じった複雑な表情を浮かべていた。

秩序の守人ヴェルト・リッターの判断は間違っていた」

 エカテリーナは、静かに語る。

「重要被験体の二人を確保して、残りは処分。特に、要監視対象の少年は確実に葬るべきだった……しかる後、早急に文明管理部隊ルイツァリ・シチートへ報告。それが、最も合理的で賢明な選択だった。違って?」

「処分……メイリベルの、住民をですか」

 ヴァネッサの表情が、暗い怒りに陰った。

「それを、ノルドの前で仰るのですか」

 ほんのわずか、ノルドにしかわからない程度に、怒りを含んだ反駁。

「これは意外ね。白翼ヴァイスからすれば、今の無翼フォールンは実験動物という認識ではなかったのかしら?」

 ヴァネッサの緑の瞳が、揺れながらもノルドを見つめた。そして、

「彼らは、人です。理性ある者たちです」

 顔を上げて、凛とした張りのある声で、そう口にした。

「……ふふっ。そう」

 だが、ヴァネッサの言葉をエカテリーナは一笑に付す。

「誰だったかしら? 『最重要被験体に音魔術弾を撃ちこみ、気絶させ、界層エレベータ・Mから赤月界へ搬送、保護』と報告してきたのは……あなたは、直撃すれば即死する銃弾を、そこの子に撃ち込んだのではなくて?」

「あの場では『う』から即座に離れる必要がありました。そのためにやむを得ず――」

「発音が違うわ。『み』でしょう。『う』はあなたたち。いつまでも変わらないその傲慢な精神性。翼がいかに白くとも、心は穢れきっているわ。『膿』んだ魂は、千年経っても変わらない」

「……」

 ヴァネッサの言葉は、エカテリーナに届かない。

 ならば話題の中心、メイリベルの住民である自分の声ならば。

「エカテリーナさん」

 二人の間に割って入ったノルドへ、エカテリーナは視線だけをよこす。

「ヴァネッサは、クラウスさんに助けられたとき最初に、『文明管理部隊ルイツァリ・シチートの人に会えるか』と聞いていました。今聞いていた限りでは、秩序の守人ヴェルト・リッター文明管理部隊ルイツァリ・シチートは同じ情報を共有しているんですよね? それなら、あなたは、赤月界で言う秩序の守人ヴェルト・リッターの長官……マザーに当たる人物でしょう。所属は違っても任務を同じくする同僚を助ける義務や責任はないんですか? それに、真世界の黄昏カタストロフィ・ワンとかいう千年も前の話を、今生きているヴァネッサにしてどうなるんです。あなたの話は白翼ヴァイス全体を糾弾するものだ。なのに、それを全部ヴァネッサ個人にぶつけている。それに……」

 ノルドは、クラウスを一瞬見た。本当に、ほんの一瞬。

「あなたは無翼フォールンを『実験動物』と言った……クラウスさんの目の前で」

 その言葉に目を剥いたのは、他でもないクラウス自身だ。

「あなたが俺をどう思おうと構わない。命を救ってやったのに無礼だと思ってくれて構わない。だけど、ヴァネッサやクラウスさんを貶めるのは許せない。あなたの言動はヒステリックで聞くに堪えない」

 クラウスとロジオンは、目を丸くしている。ヴァネッサも、呆然とノルドを見つめる。

 ただ、エカテリーナだけが満足気な笑みを浮かべる。

「ふふ、あはは!」

「なにが、おかしいんですか」

 エカテリーナに笑い飛ばされ、ノルドはさらなる怒りに燃えた。しかし、エカテリーナの声は凪いだ。

「みな、聞いていて? これが、夢に魅せられた者の力。彼……ノルドさんは、ヴァネッサさんを助けるため、銀月界の主上たる私に、躊躇いなく噛み付いたわ。驚くほど、向こう見ず。それに加えて、秩序の守人ヴェルト・リッター文明管理部隊ルイツァリ・シチートの任務が事実上同じであることを、今の会話だけで理解した……恐ろしいまでの理解力と分析力。そして、記憶力。いくらなんでも、物分かりがよすぎるわよね?」

 するとエカテリーナは席を立ち、なにもない空間から突如杖を現してみせた。彼女の背よりも長尺の杖には、鈴と、七色の石が括りつけられている。

「これが『み』の力。《石翼リトス》が手に入れた力と、同質であり異質でもある力……」

「ノルドは、石翼リトスではありません」

「そうね。わかっているわ……ごめんなさい、ヴァネッサさん。あなたを試すような真似をして」

 そこで、エカテリーナは言葉を切った。

「次のコースメニューは、フォアグラのソテーだけれど……少しだけ、私の魔術ショーに付き合ってもらえると嬉しいわ。ヴァネッサさん、マスクの用意はよろしくて?」

「はい」

 エカテリーナの指示に従い、ヴァネッサは件のマスクを装着する。

「では」

 鈴のついた杖で床を一度突く。

 すると、コォン、シャラン、という音が、広間中の琥珀と共鳴し――

「楼を成すは、法吉鳥ほうきどりの白き息吹!」


 テーブルだけをそのままに、広間は消え失せた。


 そこは、水辺。

 目が灼けるほど眩しい夕陽が空を美しい赤に染め、彼方まで続く水面は光を照り返す。

 光を反射して煌めく水は、柔らかな白砂の上に寄せては返す。

 水が、寄せては、返す。

 その音は、母が洗濯桶の水をかき回した時の音と、少し似ていた。


「これは、まさか……」

 呆然とそう口にしたのは、クラウス。

「『み』……!」

 驚きとともにそう口にしたのは、ロジオン。

「これは、いったい」

「ヴァネッサさん、あなたは聞いたことがあるかしら? この世界すべての母がなんであったのか」

 エカテリーナの問いに、ヴァネッサは答えなかった。ここに広がる光景に目を奪われて、問われたことにも気がついていないようだ。

 ノルドもまた、突然の景色の変貌に目を白黒させていた。そこへやってきたエカテリーナは、杖の柄で砂の上に文字を書き、ノルドに示した。


 『海』。


「この字……!」

「そう。アナスタシア・ディアナ・ルアヴェール一世……私の姉が、一番好きだった場所」


 『海』――それは、ノルドが、『無慈悲な女王』で読むことができなかった字だった。

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