三章 天使の慟哭 7

「——エ! クロエ、大丈夫か」

「クロエさん! しっかりして下さい!」

「ッ……ロー、ラ……エミリ」

 散々体を揺すられる事で、クロエは深い眠りから醒めた。

 次に目が醒めた時には再びサンに嬲られると覚悟していただけに、クロエは些か戸惑ってしまう。何故ならローラとエミリがクロエを覗き込んでいるのみでサンがいないのだ。更には縛られないで床に眠っているのだから何が何やら分からない。

「ここは、どこ?」

 寝起きで醒めきらない瞳で周囲を見渡してクロエに分かることは、ここが家内という事だけだった。サンに囚われていた所に比べれば散らかってこそいないものの調度品が質素に思える。分かるのはそれぐらいなもので、少なくともクロエに心当たりのある場所ではなかった。

「ここはクロエさんが囚われていた家の隣家です。本当はもっと遠くに逃げたかったのですが、時間がありませんでしたので仕方なくここに身を隠す事にしました。幸いなことにサン=ブランさんは遠方に向かってくれたのでしばらく見つかる心配はありません」

 顔を真っ赤にし涙目で話すエミリの姿を目にし、申し訳なさや情けなさといった感情が全てクロエに集束される。

 あれだけ大衆の前で宣言しておきながら今のクロエの体たらくはなんなのか? 悪魔を殺すと決意しておきながら魔女に後れを取るなどあってはならない事だ。彼女等に命を助けて貰った以上、クロエにこれ以上の失態は許されない。

「しかし無事で良かった。何せクロエ朝から夜までずっと眠ったままだったんだからな」

「仕方ないですよ。寧ろ一晩で目を醒ましてくれた事を喜ぶべきです」

 相変わらず二人を眺めていると心が和むのはクロエが彼女等を信頼しているからだろうか。二人がクロエを心配していてくれていたようにクロエもまた二人の安否が気がかりだったのだ。無事でいてくれたのみならず、こうして助けてくれたのだからいくら感謝してもしたりないだろう。

 寝起きで重い体を無理にクロエは起こす。

「ありがとう。二人には迷惑をかけた」

 座りながら軽く頭を下げる。

 こんな所をサンに見られたら何を言われるか知れた物では無いがそんな事は関係ない。この二人は紛れもないクロエの命の恩人だ。頭を下げる事に何の問題があろうか。

「止めて下さい、私達はしたいようにしただけですから」

「そうだって。水臭いぞ、クロエ」

 二人に促されるまま頭を上げる。こうやって簡単に頭を下げさせてくれないのが彼女等の良いところであり、味ではなかろうか。情けないだどうのと小心者のようにやきもきしているのはクロエだけかもしれない。

「ああ」

 朗らかに微笑みながらクロエは相槌を打つ。彼女等の性格の良さに感じ入っているのだ。

「それはそうと、これからどうするつもりですか?」

 ふとエミリから発せられた言葉にクロエの顔は引き締まる。

 これからの方針については話し合ってかねばならない。もう悪魔を殺せば良いという単純な話ではないのだ。

「そうだな。私は今回の一連の事件は教会の人間が裏で糸を引いていると思う。まさか教皇が関わっているとは思えないが、中に不埒者が紛れているのは事実だ。一旦陛下に手紙を送りたいのだが良いか?」

「サン=ブランはどうするんだ?」

 苦々しく顔が歪んでいる事からクロエもローラが訊きたいことは理解した。ローラはどうやって助けるかではなく、殺すか救うかの二択で答えを求めているのだろう。そんなローラにクロエもまた気丈な眼差しを送る。

「私は助けるつもりだ。あいつはただ操られているだけに過ぎない。それについても陛下にお訊きしたい事がある。陛下から返事を貰った後から方針を決めても遅くは無いだろう」

 ローラは納得いかないとでも言いたげな表情だったが、サンを救うという一点はクロエは曲げるつもりはない。魔女の傀儡に甘んじている旧友をクロエは見捨てる事などできないのだ。

 対して、エミリは特に反感がある訳でもなさそうだった。しかし手放しで受け入れる訳でもなく少し黙り込んだ後、クロエを意思のある固い視線で射貫く。

「分かりました。でしたら私に案があるのですが良いですか?」




「領主よ、大儀です。確かに勇者からの手紙を受け取りました」

 たかがデザータの領主如きがいきなり女王に会おうなど烏滸がましいにも程があるのだが、何やら〝勇者〟からの手紙を所持しているとの事だったのでさしもの女王も会わざるを得なかったのだ。

 今クリスティアは愚鈍な役立たずが討ち取り損ねたクロエとサンの居場所が知りたくて仕方ないのだ。

 こうして謁見の間にデザータの領主を通し、クリスティアは内心ほくそ笑む。

 これでクロエの居場所は掴めたも同然なのだ。こうして女王に手紙を出す勇者などクロエしか有り得ない。そしてデザータの領主が持ってきた以上、北西のデザータ領のどこかに隠れ潜んでいるのは明らかなのだ。

 しかし意外だったのはクロエが盗賊の仲間だと認知しつつも手を貸したこの領主の判断だ。まさかそれが女王の策によるものだと気付いてはいるまいが、何かあったのだろうか?

 もはやそれも考えるまでもない。クロエはもう死ぬのだ。

 その最期の言葉を読み解いてやろうと下座で跪く領主には歯牙にもかけず、手紙を開く。そこにしたためられている内容にクリスティアは思わず吹き出しそうになった。この期に及んでまだクロエはクリスティアを崇拝しているのだから、愚かとしか言いようが無い。

 クロエが疑いをかけられ、女王に迷惑をかけたという謝罪にその狼藉者はサンが討ち取ったという報告。

 この悪魔による一連の騒ぎは教会が噛んでいるのでは無いかという問い掛け。

 最後に魔女の刻印の消し方を知りたいという事。

 大まかに掻い摘めば手紙の内容はこれで全てだった。

 しかしよくよく考えてみればこうして返事を出す以上クロエの居場所などどうでもいいのかもしれない。そんな事を考えながら、クリスティアは手元の羊皮紙に筆を滑らせる。内容はどうでもいいのだ。

 大事なのはこれをしっかりとクロエに届けさせる事だ。

「お待たせしましたね。勇者にこれを届けて下さい」

 近くの兵に手紙とテレーズより回収した耳飾りを領主に渡させる。それが何なのか知る由も無い領主は恭しく受け取った。

「——は、畏まりました。では失礼します」

 領主が退室したのち、喜びのあまり哄笑したい衝動に駆られるが抑える。ここは謁見の間なのだ。近くにいる兵士にクリスティアのしている事を察せられようものなら間違いなく反乱に遭い、全ては水泡に帰した上でクリスティアは死に絶える。哄笑するのは全てが終わった後だ。

 クロエの性格を再確認しクリスティアは確信する。クロエは何の迷いも無くあの耳飾りを着けるだろう。女王を崇拝してるが故に女王の贈り物を奴が無下にする筈がない。だが着けたが最後クロエは死ぬ。死なざるを得ないのだ。

 これでクリスティアの負担は半分になったも同然だった。




「クロエ、女王からの手紙来てるぞ」

「すまない。ローラには迷惑をかける」

「いいって、オレはただ橋渡しをしただけだからさ」

 そう他人事のように気楽に言いながら帰ってきたローラをクロエは咎めることも無く、手紙と勇者の紋章を受け取る。

 普段のクロエなら注意の一つもするのかもしれないが、今はローラに感謝しているのだ。彼女がいなければ女王と手紙の遣り取りなどできなかったのかもしれないのだから。

 クロエは手紙を書いてから一歩もワルフッドから出ていない。そうして手紙とクロエの勇者の紋章をローラに渡し手紙をデザータの領主に届けさせたのだ。これで孰れかの〝勇者〟がデザータ領にいるかのように偽装できる。

 これはエミリの考えた案で、クロエは女王を騙す事になるので嫌だと反駁したのだがこれだけは何故かエミリは譲らなかったのだ。曰く『教会の人にここが分からないようにする保険です』との事だったのでクロエも渋々承諾したのだ。

「手紙と、それは何ですか?」

「待って、後で開けてみる」

 豪奢な箱に興味津々なエミリをクロエは静かに窘める。以前、エステルが所持していた羊皮紙と同じ羊皮紙を手にし妙な気持ちになりながらも羊皮紙の紐を解く。いくら似せようともあれとこれは別物なのだ。そうでなければならない。

「——ッ」

 そこに書いある内容にクロエの目頭が熱くなる。今まで味わってきた辛苦を全て帳消しにできるのではないかという幸福を今クロエは味わっているのだ。

 魔女の刻印の消し方は分からない。もし何か困った事があったのなら一緒にある耳飾りを着けろとの事。

 これらの文は今クロエの眼中にない。女王はクロエを盗賊だとは思っていないという事。この言葉を女王から聞くのをクロエはどれだけ心待ちにしていた事だろうか。感激に涙するのも無理は無い。

「耳飾りとはこの箱の事でしょうか?」

「耳飾り?」

 エミリの言葉で改めてその文章に目を遣る。そういえば初日に女王はクロエとサンに何かを渡したがっていたがこれの事だろうか? 何にせよ見てみるべきだろうとクロエはその豪奢な箱を開ける。

「うわぁ、いかにもって感じだな」

 そこに収められていたのはローラの言う通り、いかにも女王が好みそうな煌びやかな耳飾りだった。純金製ながらも派手すぎず瀟洒であり、鱗が一欠片垂れ下がっているのが厭に目を惹く。

「ああ、成る程」

 女王の意図を理解しクロエは思わず感嘆の声を上げる。魔法にそれほど精通していないクロエにもこの耳飾りが途方も無い魔力の塊である事は一目で分かった。これを装着すれば恐らく執行者も敵ではないだろう。流石、錬金術といったところか。つまりこれは何としてでも悪魔を殲滅してほしいという女王の意思なのだ。そして今クロエは困っている。悪魔を倒すなどと豪語しておきながらクロエはその眷属である魔女に打ち負かされたのだ。故に魔女より遙かに格上であろう悪魔とクロエの差を埋めようと思うのならこれを着けない手は無い。

 そう考えクロエは耳飾りに手を伸ばし自分の耳に装着しようとするもできなかった。エミリの手がクロエの腕を掴みそれを阻止したのだ。

「止めて下さい」

 エミリがクロエを止める理由が思い至らず、ただその似付かわしくないじろりと向けられた翳りのある瞳を見つめ返す事しかできなかった。

「クロエさんにも……クロエさんにも分かる筈です……これにはとてつもない魔力が込められている。こんな物を着ければ徒では済みません。それを分かっていながらクロエさんに着けさせるなんて女王は……どうかしてます」

「止めて」

 感情が昂ぶりすぎたのかエミリの双眸から涙がれ出す。そしていきなり凍り付いた空気にローラは黙らざるを得なかったに違いない。故にエミリの泣訴に歯止めをかけたのはクロエの感情を圧し殺した一言だった。

「陛下を悪く言うのだけは止めて」

 普段のクロエなら怒鳴って然るべきなのだが、他ならぬエミリである以上クロエも妄りに叱咤はしない。しかし、エミリの手が離れる事はなかった。

「ごめんなさい。でも、それだけは……着けないで下さい」

 手が震えている。クロエではなくエミリの手が。クロエにはこれが膨大な魔力の塊である事しか分からない。徒では済まないというのも、ある程度の危険ならばクロエは目を瞑るつもりでいる。しかしエミリがこうも必死なのだからある程度ではないのだろうか。

 冷静に考え直した末にクロエは手を離し、耳飾りを箱に戻す。

「エミリがそこまで言うのだからこれは余程の代物なのだろう。これに頼るのは止めておいた方が良さそうだ」

「……ッ、クロエさん! 分かって頂けましたか」

 エミリにクロエが微笑みかけるのと同時に、エミリの顔も晴れやかになりクロエの腕は解放される。

「良いのか? クロエ」

 ああ、と心配そうに話しかけてくるローラにクロエは返す。

「着けないで済むのならそれが一番良い。それよりも今は調査を進めていくべきだ。悪魔の所在と魔女の刻印の消し方について」

「そうだな。それでどうやって調査をするんだ?」

「今日サンに見せつけられた新聞にはあなた達の名前は見当たらなかった。つまり盗賊の仲間として扱われているのは私だけという事になる。

 そこでフェンリルの調査をあなた達二人に頼みたい。陛下によればフェンリルは教会が厳重に見張っているとの事だが逆に私はそこが怪しく思えてならない。先日の一件がある以上教会は信用出来ない。陛下はそこが盲点なのだろう。

 当然、私と共に歩いている所を見ている者も中には数人いるだろう。妙な事になったらすぐに逃げて欲しい。できるか?」

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